~9月~




 9月。新学年での新学期が始まった。
 海水浴での女の子アピールがきいているのか、ヴィヴィの周りにはいつも誰かしらの取り巻きがいる。
 あの日「話すことなどない」と切り捨てていた学生の姿もあった。
 まだ諦めてはいないらしい。


 始終誰かが傍《そば》にいるせいで、学校や寮でヴィヴィを見かけても話しかけるきっかけが掴《つか》めない。
 話しかけられることもない。
 ヴィヴィに特別な感情など持っていないつもりだったけれど……いや、これは特別と言うよりも、友達が突然アイドルデビューして遠い存在になってしまったような、そんな寂しさだろう。

 人慣れしていないチャルマはヴィヴィの陰《かげ》で小さくなっている。
 別行動すればいいのにとも思ったが、彼《チャルマ》狙いの学生もいるようだ。取り巻きに紛れて話しかけようとしているのを何度か目にした。
 見知らぬ誰かに囲まれるくらいならヴィヴィと一緒にいるほうが心強い、と思う気持ちは僕にも理解できる。
 少し気の毒ではあるけれど無理やり迫《せま》られているわけでもなし、交友関係は助太刀に行くようなものでもないので、遠巻きに眺めるに留《とど》めている。
 
 ノクトはと言えば危惧《きぐ》していた引き籠《こも》り生活に逆戻りはしなかったものの、格段に口数が減った。
 クラスが分かれなかったのは、妙なことを口走らないように見張る分には幸か不幸か。
 しかし6月までに比べれば連れ立って何かをする時間は減っている。

 ノクトは警戒している。
 僕に。他の学生に。この世界そのものに。
 僕と距離を置くようになった分、他の学生に質問にいくかと思いきや、そうでもないのがその証拠。この世界に慣れたわけではないだろう。
 聞く前に諦めてしまっているのか。
 今でもノクトではなく能登大地のつもりでいるのか。
 傷がついてしまったセルエタの修理に行かないかと誘っても無反応で……とにかくストラップだけは切れていては使い勝手が悪いどころではないので適当なものを買って渡した。
 『能登大地は30歳』だと言っていたので派手過ぎない、子供っぽく見えないものを選んだつもりだけれども、趣味に合っているかはわからない。


 こんな時、誰よりも真っ先に気付いて声をかけてきたのはフローロだった。
 僕は案外、彼に救われていた。

 今頃彼は何をしているのだろう。
 彼だったら今のこのギクシャクした事態をどう収拾しているのだろう。




「悩みごとがありますか? マーレ」

 ある朝。
 ノクトを避けて早めに寮を出ようとしていた僕は、玄関先を掃き清めていたフランに尋ねられた。

 彼女は寮専用のアンドロイド。
 掃除や補修など寮生活で生じる雑事全般を請《う》け負《お》っている。
 フローロに次《つ》いで、と言うか、同列レベルで子供の頃から世話になっている人だ。
 癒《いや》し系お姉さん的な容姿は子供たちからの親しまれやすさを重視しているからだそうで、その甲斐あってか彼女に悩みを打ち明ける学生もいる。
 同年代や、ましてレトには話しづらいと言う悩みは案外に多いようだ。

 実際にはフランの背後にいるレトが悩みを聞いて最適解を示すのだから『レトには話しづらいからフランに』と言うのは矛盾以外の何ものでもない。
 けれど、雲の上の存在である”人工知能レト”ではなく親しい年上の女性の”フラン”に聞いてもらった気になるのが大きいらしい。

 こうして彼女が尋ねて来たのも、レトが”僕が悩みを抱いている”と判断したからだ。
 秀《ひい》でたところのない凡庸《ぼんよう》な一学生のことまでレトはよく見ている。
 そしてレト本人ではなく6歳の頃から親しんできた”姉”を差し向けてくるあたり、レトは人間の感情もよく知っている。


「……大したことじゃないよ。休み明けはみんなこうでしょ?」

 僕はフランの目を避け、俯《うつむ》いて靴紐を結ぶ。

 きっとレトには僕とノクトの関係が悪化しているのも知られている。
 でもそれはセルエタが記録している心拍数の変化や個々の訪問場所などから判断されているだけ。
 日常会話まで逐次《ちくじ》監視されているわけではないから、ノクトが自分のことを”能登大地”だと思いこんでいること、それに僕やヴィヴィたちが振り回されていることまでは伝わっているかどうか。

 伝わることでノクトが反省してくれるのならいくらでも伝わってほしい。
 むしろこちらから洗いざらい喋ってしまいたい。
 けれど、問題はそれで済まない場合だ。


 海水浴の時に抱いた懸念《けねん》。
 僕らはノクトを”突然前世《能登大地》の記憶がよみがえった”設定で接しているけれど、本当は全くの別人だったとしたら。
 偶然、同じ外見をしたふたりが入れ替わってしまっただけで、幼馴染みでもあるノクトは何処《どこ》か別のところにいるのだとしたら。

 セルエタが今のノクトをノクト本人だと認めたのだからノクト本人だ。
 別人なんかじゃない。
 と一蹴《いっしゅう》したいところだけれども、そのセルエタだって門《ゲート》に引き摺《ず》られていたのだ。壊れていないとは言えない。


『あんたがどこの誰だかは知らないけど、今はノクトとして振る舞って。それができないならノクトとして死んで』


 もし本物のノクトが別にいるとしたら。
 帰ってきたら自分の場所に別の誰かが入り込んでいて、戻るに戻れなくなっているのだとしたら。
 今でも戻る機会を窺《うかが》っているのだとしたら。

 あの日、僕はあのノクトを”ノクト”だと決めつけてしまった。
 他人の空似なんて思いもしなかった。
 能登大地はずっと『ノクトじゃない』と言い張っていたのに、僕は聞こうともしなかった。
 だから能登大地が能登大地でしかなくても、ノクトとして生きて貰わないと困る。
 今更、本物のノクトが出て来たらややこしくなる。
 町の外に出てしまったのなら今頃はもう干乾びて砂になっているからいいのだけれど……いや。

 行き着いた自分の考えが恐ろしくなって、僕は大きく頭《かぶり》を振った。
 僕は今、本物のノクトの死を望んでいた。
 僕自身の保身のために。


「……悩んでるように見える?」
「はい」

 靴紐を結ぶ僕の隣にフランは腰掛ける。
 横に座られてしまうと、何となく話を打ち切って出て行くのが憚《はばか》られる。

「レトはそう判断しました。マーレには精神的疲労の蓄積が見られます」
「精神的、」

 失笑しようとして失敗した。
 虚《うつ》ろな笑いはそれだけでレトの判断が間違っていないと証明するようなものだ。

 確かに人生初と言っていいほどの負荷がかかっている。
 最初はノクトの妄想に振り回されて。そして今は、ノクト《能登大地》のことがレトにバレたらどうなるのだろう、という点で。

 心臓の音が聞こえる。
 僕が今、緊張していることはリアルタイムでレトに伝わっている。

「他人に話すだけで軽くなる悩みはいくらでもありますよ」

 フランはただ僕を心配して言っているだけだ、といつもなら思っただろう。
 でも彼女はアンドロイド。
 見聞きしたことは全てレトに伝わり、レトが判断した結果に基づいて行動する。
 言い換えれば、僕は今”フランの皮を被《かぶ》ったレト”と話をしている。

「言ってごらんなさい、マーレ」

 ”海”での口喧嘩は大勢の学生に聞かれている。
 あの中の悪意がある何人かはノクトのことを面白おかしく――転生者だ、だの、顔が似ているだけの別人だ、だのと密告したかもしれない。

 レトもフランも会話する分には人間と変わらないけれど、中身は機械。ノクトを”ノクトではない”と判断したら最後、排除する方向に動かないとは限らない。

 たとえセルエタがあのノクトを本物だと示したとしても。
 僕らが彼をノクトとして接しているとしても。
 もしレトが既《すで》に、彼を別人と位置付ける”何か”を得ていたとしたら。だから探りを入れてきている、という考えは杞憂《きゆう》だろうか。

 そしてそうなれば、僕らが何もお咎《とが》めなしで済むとは言えない。
 『能登大地だなんていつもの妄想だと思っていました』『ずっとノクトだと信じていました』と言ったところで、真実か虚偽《きょぎ》かを判断するのはレトなのだから。




「言えないことですか?」

 フランが畳みかけて来る。
 
「いや、言うほどのことじゃないと言うか」
「どんな些細《ささい》なことでも、いえ、些細《ささい》なことだと自分では思っていたとしても、本当は深く傷ついていることもあります。誰にも言いませんから言ってごらんなさい」

 些細《ささい》だなんて思っていないし、『誰にも言わない』と言ったところで1番知られてほしくない人には知られてしまう。
 でも黙っていればそれこそ『言えないようなことを隠している』と言っているようなものだ。

 全てを打ち明けてレトの指示を仰いだほうがいいことはわかっている。
 隠していたことは何かしらの罰を与えられるかもしれないけれど、僕だって隠したくて隠しているわけじゃない。
 ノクトの顔をしてノクトの声で喋る相手を前に、別人だと思うほうがおかしいし、レトもそこはわかってくれるだろう。

 でも、それでもし”本物に非《あら》ず”と判断された日には?
 ノクト《能登大地》は――?


 そんな僕に、フランは、ふっと笑みを見せた。
 見透かされたのか、レトから新たな指示が出たのか、と思わず身構えてしまったものの、フランはどこか遠くを見るような眼差しをする。

「フローロもよく思い悩んでいました」
「フローロが?」

 思いがけない人の名を聞いて思わず僕はフランの視線の先を追ってしまった。
 照明のよそよそしい光に照らされた此処《ここ》とは逆に、外は陽がキラキラと煌《きら》めいている。
 フローロのセルエタに似た花が咲き乱れている。
 でも、当たり前のことだけれども彼《か》の人の姿はない。


 口を割らない僕に別方向から攻めることにしたのか。
 しかしあのフローロに限って何を悩むことがあるのだろう。
 僕と同じように人間関係だろうか。イグニに付きまとわれて迷惑しているとか。

 旅立ちの日に当然のような顔でフローロの横にいたイグニを思い出すと腹が立って来る。
 寮で同室だというわけでも特別親しいわけでもなかった彼らがどうしてセルエタを交換する仲になったのか。
 フローロは共犯だからと言ったけれど本音は違うだろう。

 ……知りたいけれど、知りたくもない。


「知っていますか? マーレという言葉には海の意味があるということを」
「え? 海?」
「そう、海。全ての生命の源《みなもと》の」

 唐突だ。
 先ほどのフローロのことと言い、海のことと言い。

 毎年夏になるとレトがよみがえらせる”海”。
 かつて世界の7割を占めていたという”海”。
 今となっては見ることもできないその”海”が自分の名の由来だと言うのも驚きだが、それがフローロの悩みとどう関係してくると言うのだろう。
 どう返事を返せばいいのかもわからず、僕は黙ってフランの次の句を待つ。

「フローロは海を再生するにはどうしたらいいか、とよく尋ねてきました」
「フランに?」

 何も考えずに口にしてしまった問いに、フランは黙ったまま視線だけを向けた。
 その目は寮母アンドロイドとして親しんで来た彼女の目ではなく、僕は改めて話をしている相手がレトだということを認識する。

「正確に言えば図書館司書のクレアに、ですが、彼女と私はリンクしています」

 司書のクレアと言えば、フローロが「訪ねて」と言った相手だ。
 ノクトのことでバタバタしていて未《いま》だに彼女には会えていないが、と言うことはフローロがクレアに託した”何か”についてはフランもレトも知っているのだろうか。
 フランが知っているのなら、わざわざ面識のないクレアを訪ねずとも済むのだが。

「海がなくなったのは、この世界が疲れて、生きる力を失くしてしまったからなのです。マーレにもあるでしょう? 疲れが酷《ひど》いと動けなくなるときが」

 フローロが曖昧《あいまい》に託《たく》して来た例の”共犯”の件。
 詳しく言わなかったのは僕の未来を拘束することになるからだ。
 『他に選ぶ道があるのなら、その道を行って』と言ったのは、その協力が1年2年では終わらないことを示している。
 ”海を再生すること”が託すつもりの中身なら、確かに僕の一生分の年月をつぎ込むことになりかねない。
 海の再生は先人が何百年もかけて、それで未《いま》だに成《な》し得《え》ていないこと。
 憧《あこが》れの先輩に協力したい、なんて甘い理由でできることじゃない。


「それと同じです。余力があれば休めば回復しますが、ひどいと回復できず、死に至る。そしてそれは海だけに限ったことではなく、世界そのものに言えます」

 フランの声をBGMに、僕は此処《ここ》にいない人へと想いを馳せる。

 フローロが海を再生したいと思ったのは僕の名前の由来が海だからだろうか。
 僕の名前が海だから、親近感を持って接してくれただけだろうか。

 名前の由来になったものの死について語るのもどうかと思うのだけれども、フランの中では”海”と”僕”は別物と判断されているのだろうし、僕が”海”でないことくらい僕自身がわかっている。
 わかっているけれど、フローロが僕を気にかけた理由を考えると気持ちの置き場に困ってしまう。


 一説によると多くの生物が死滅したのは海が涸《か》れ果てたのも一因とされている。
 そのせいで気象が変わり、地表は生きるのに適さない環境になったのだと。

 だがやはり最大の原因は未知の疫病が流行《はや》ったためだろう。
 人類ばかりではなく多くの生き物が死に絶えたその疫病も、フラン《レト》の言い方からすると、”世界そのものが疲れ果ててしまった”故《ゆえ》に現れるべくして現れたのかもしれない。

 人類は新たな体を手に入れ、その疫病をも克服した。
 しかし多くの動物は消えた。
 失った動物たちを再びよみがえらせるのに”生命の源《みなもと》たる海”の再生を、というのはわからなくもないけれど、それこそ微生物からの進化を期待しているのだとしたら数千年単位の計画になる。

 何百年も前に海が涸《か》れ果てて以降、多くの先人が知恵を持ち寄ってあの手この手の策を講じてきただろうから、計画の必要年数も多少は短くなっているだろう。
 それでもフローロの代で成せるものではない。
 いくら”レトの学徒”だったとしても。
 僕やイグニが協力したとしても。

 でも、そんな壮大な計画のほんの一部分にしかならなくても、フローロは力を尽くすつもりでいる。
 彼は寮に帰ってからも机に向かっていることが多かった。
 あの頃は『さすがレトの学徒は予習復習にも余念がないのだな』程度の感想しか抱かなかったけれど、あれはきっと独学で勉強していたに違いない。
 ただ、

『――専門分野はファータ・モンドに行ってからしか学べないから』

 以前、チャルマが言ったように、此処《ラ・エリツィーノ》で得られる知識には限りがある。不甲斐なさも感じていただろう。


「ね、ねぇ。フローロは……元気?」
「はい。この世界のために尽力してくれていますよ」

 思わず尋ねてしまったフローロの近況にも、フランは見て来たかのように答える。
 これは|此処《ここ》に縛りつけられている”フラン”では知り得ないこと――レトがフランの口を借りて答えてくれたことを意味する。

 けれど”喋っている相手がレトだった”よりも”フローロが元気でいる”と知れたことが嬉しい。
 しかも既《すで》に世界のために何かを始めていると言う。
 日数的にはまだ夢を|掴《つか》むために専門分野の勉強を始めたばかりだろうけれど、やはり”レトの学徒”は違う。


「あなたにも可能性はありますよ、マーレ」
「僕なんか」

 謙遜《けんそん》しながらも将来のことを思うと気持ちが高揚《こうよう》するのを覚える。
 フローロには僕が必要だ。他の誰でもなく、彼がそう望んでいる。
 自慢ではないけれど僕にはこれといった将来の展望もないし、だったら望まれる道を選ぶのもいいかもしれない。
 そうすれば。
 今から勉強すれば、来年にはまたフローロと共にいられる。

 そう。
 大人になるということが家庭を作って終わりのはずがないだろうのに、今までの僕は専門分野を学ぶ自分の姿も、働く姿もまるで見えていなかった。
 壮大な意味の名を貰《もら》っているにもかかわらず。

 ファータ・モンドの情報がまるで入って来ないのだから将来の自分の姿を想像できなくたって仕方がない、と言ってしまうのは楽かもしれない。
 けれど昨年の今頃、今の僕と同い年だったフローロがちゃんと考えていたことを思えば、ぬるいとしか言えない。


「あなたも”レトの学徒”を目指しているのでしょう?」
「え、まぁ……でも」

 ”レトの学徒”になりたい、とフランに言ったことなどあっただろうか。
 いつもフローロの後ばかり追いかけていた僕のことだから、当然”レトの学徒”をも目指していると思われているのかもしれない。
 確かに目指してはいるけれど、学年で5人の枠に入るのは容易なことではないし、吹聴して回れるほど確実にその枠内にいるわけでもない。
 加えて最近はノクトに振り回されて勉強どころではなかった。 

 でも。
 フローロに追いつくには……。

「じき中間試験です。どんな悩みであれそれが圧《の》し掛かって日常生活に、そしてあなたの夢に支障が出るようでは問題だと思いませんか?」

 フランはそう言うと、改めて僕の顔を覗き込んで来た。




 フラン《レト》の真意は何処《どこ》にあるのだろう。
 中間試験で僕がいい成績を取って、晴れて”レトの学徒”に選ばれることを望んでいる、なんて、言葉の上っ面にコーティングした意味ではないだろう。
 他ごとに気を取られていては何も叶わない。学徒の称号どころかフローロに追いつくこともできなくなる、と……僕を焦《あせ》らせるために言ったに違いない。

 旅立ちの日以降、僕らの中で不協和音が鳴っていることをレトは気付いている。
 何かを隠していることも知っている。
 でもはっきりとしないから僕に探りを入れている。
 僕なら喋ると思っている。

 ノクトのことを隠したままでは試験に集中できない。
 失敗すればフローロと共に、と言う望み自体が叶わない。
 だから喋ってしまえ、と、そう言っている。

「先ほどから心拍数が上がっています。大いなる意思を仰《あお》ぐことなくひとりで解決を図《はか》ろうとするのは勇敢《ゆうかん》ですが愚かなこと。最善の結果を得ることもできません。あなたはそんな愚かな子ではありませんね?」

 フラン《レト》は気付いている。
 心拍数が上がっているのはフランに迫《せま》られているから、なんて色ボケした理由では誤魔化《ごまか》せそうにない。


 でも、ノクトのことを言うべきだとは思いつつも踏ん切りがつかない。
 自分を異世界転生してきた別人だと思い込んでいるなんて、どう考えたって普通じゃない。
 精神鑑定は免《まぬが》れない。
 身近に精神鑑定から帰ってきた人がいないから噂の範疇《はんちゅう》でしかないけれど、深層意識の奥深くを土足で入り込まれてあちこち掘り返される苦痛は並大抵のものではないらしい。
 耐えきれなくて廃人になってしまった、なんてことも聞く。
 お灸は据《す》えてやりたいけれど……能登大地に情を寄せるほど親しくなったつもりもないけれど、やはりノクトと同じ顔をしているのがいけない。
 あれはいつもの妄言だ。ただちょっと演技をしている期間が長いだけで、と……心の何処《どこ》かでそう願っている僕がいる。



 また、もし本当に別人《能登大地》だったとして。
 目の前で連行されるか処分されるか。『ノクトとしてなら生きて行くことを保証する』と言っておいて裏切った僕を彼は怨《うら》むだろう。
 そして彼が処分されたところで本物のノクトが帰って来るとは限らない。

 僕はフラン越しに周囲を見る。
 出かける前まで賑やかだった寮内は何時《いつ》の間にか静まり返っている。
 廊下を走り回る足音も聞こえない。
 僕がフランと話をしている間に皆、登校してしまったらしい。

「……学校に、行かな、」
「レトとの対話で遅れた分は遅刻にカウントされません」

 フランの目が僕を直視する。
 瞳孔《どうこう》の中でチカリ、チカリ、と点滅する光に目が離せなくなる。

 逃げられない。

 どうする?
 どうすればレトに「大したことではない」と思わせられる? 

「言ってしまいなさい、私の大事な子供《プーポ》。あなたは今、何を隠していますか?」
「……僕、は……」
「正直に言えば、あなたは何も罰せられることなどありません」

 洗いざらい喋ってしまえ。
 僕の中で僕が囁《ささや》く。
 それで全部楽になる。罪には問わないと、そうレトも言ったじゃないか――。


「――マーレ」

 その時。
 ふいに声が降って来て、僕は腕を引っ張り上げられた。

「何やってるんだ。遅刻するぞ」

 そこに立っていたのはノクトだった。



 珍しい。僕が彼を避けていたと同様に彼も僕を避けていたのに、声をかけても返事も返さなかったのに、どういう風の吹き回しだろう。
 首からセルエタも下げている。
 僕があげたストラップを使っている。

 でもそれはどうでもいい。
 渡りに船とはこのことだ。今ばかりはノクトが来てくれたことが嬉しい。

「今日は日直なんだろう」
「あ、うん」

 日直なんて嘘《うそ》だ。ノクトと同じ時間に出たくないから……早く寮を出るための口実に過ぎない。
 でも。

「そ……うだった。そ、それじゃ行くね!」

 フランから逃げる機会は今しかない。


 僕が立ち上がるより早く、ノクトが僕の腕を掴《つか》んだまま歩き出す。
 躓《つまず》き、転びかけてもお構いなしに連行されていく僕に、フランは今やっと気付いたかのような顔を向ける。

「遅れますよ、マーレ」

 遅刻の原因を作ったのはフランじゃないか――。
 そう言いかけた言葉は再び喉《のど》を転がり落ちた。
 何もなかったかのように箒《ほうき》を持って立ち上がるフランは、今の今まで僕と喋っていたことすら覚えていないようだった。




「さっきの女は何だ。何であいつは髪が緑じゃないんだ?」

 僕の腕を掴《つか》んだまま、ノクトは振り返りもしないでそう尋ねて来た。
 いや、尋ねたつもりなどなかったのかもしれない。
 一瞬、返事に窮《きゅう》した僕に再び尋ねることもなく、ノクトはどんどん足を進めていく。

「ア、アンドロイドだよ。名前はフラン。ノクトは部屋に引き籠《こも》ってるから知らないだろうけど、寮全般の雑務を一手に引き受けてるんだ」
「……そしてその裏には人工知能レトがいる」

 ノクトの声が硬い。
 登校しようとする僕を遮《さえぎ》ってまで質問を続けようとしていたフランに、得体の知れないものを感じたのだろうか。
 もしくはノクトにもレトから接触があったのか。
 ”得体の知れない人工知能”からあれこれ探られたと思ったら、今度は同室の僕が同じように探りを入れられているのを見て、身の危険を察したのかもしれない。

「まぁ……ね。此処《ここ》のシステムは全てレトの管理下にあるから」

 ノクトが言うとおり、フランが強引とも言える形で問いかけて来たことはレトの意思が介入していたからに他ならない。
 レトは世界を守るのが主目的。
 この町に関して言えば、子供たちを無事に育て上げてファータ・モンドに送り出すのが目的。
 思い悩むあまり予想外の危険な行動をとられるくらいなら先手を打って解消しようとするのは当然のことだし、”能登大地”という部外者の存在にも勘付《かんづ》いているのだとしたら、詳細を知ろうとして来るのは当然のことだ。

「つまりあの女は人工知能レトの指示で動くアンドロイド。つまりはレトの代弁者。そうだな」
「そうだけど……そう言う言い方はしてほしくないな」

 でも。
 今日はたまたま強硬だっただけで、いつものフランはああではない。
 そしてレトも。
 接点はフランに比べると格段に少ないけれど、僕らが物心つく前から見守ってきたのはレトだ。


「で、此処《ここ》にはああ言うのがウジャウジャいる、と」

 けれどそんな僕の甘い感傷は、彼には理解できないのだろう。
 ノクトは仏頂面《ぶっちょうづら》のまま左右に視線を向ける。




 街路の両脇に並ぶ店は既《すで》に動き始めている。
 カフェ店頭のワゴンでドリンクを売っているのも、運ばれて来た薬を薬局に運び入れている白衣の男も、一見すると人間にしか見えないけれどアンドロイドだ。

 住民=学生のこの町では客も学生。
 つまり始業前の今と放課後にしか客は来ないから、彼らもそれに合わせて店を開ける。
 睡眠をとらないアンドロイドなら早朝から働くのも長時間にわたるのも苦にはならない。
 だからこの町の店は開くのが早い。

 店の中でも多くを占めているのはセルエタ装飾の店だが、さすがに始業前の短い時間に装飾を依頼する者はおらず、その一角だけは静まり返っている。
 その前をスイーパー《路上掃除機》が波間を漂うクラゲのように通り過ぎていく。


「ああ言うの、って失礼だと思わない? レトもフランも保護者みたいなものだよ」

 レトもフランも他の機械たちも、役割は違えど僕たちのために存在している。
 水やドリンクが無尽蔵に出て来る設備があったとしても、町並みを全てコンクリートで固めて雑草1本生えなくしたとしても、掃除や洗濯が全自動で最小限の手間で済むようになったとしても、それでも子供だけで生きてくのは無理だ。
 ドリンクを補充する者、施設をメンテナンスする者、外界からの侵入を防ぐ者などがいなければ、僕たちは自力でそれらを成さなければならず、そうなれば呑気《のんき》に学業に勤《いそ》しんでなどいられない。

「保護者って、保護者は普通、大人の役目だろう。それが大人はファータ・モンドだったっけ? そっちに全部行っちまって、子供の養育も躾《しつけ》も機械任せにするなんていい加減が過ぎる。おかしいと思わないのか?」

 語尾は問いかけだが独《ひと》り言にしか聞こえないのは、返答を期待していないからだろうか。
 でも、期待していないとしても間違いを正すのは僕しかいない。

「大人がそれぞれの価値観を押し付けて養育するよりも、レトに任せたほうが公平だし失敗がないと思わない? 昔はどうかしらないけど、レトは特別なんだ。感情のない機械に人間は育てられないっていうのは前文明の考え方だよ」
「機械に育てられてるからそう思うんだろ」
「それじゃあ逆に聞くけど機械の何が悪いの? ノクトは僕を見て、何処《どこ》が欠陥だと思う? 何処《どこ》らへんがいい加減に育てられた結果だと思う?」

 ノクトは言葉を詰まらせた。
 
「きみにとっては機械でも、僕の父で、母だよ。レトは」


 遥か昔、レトがおらず、機械も簡単な作業程度しかできなかった頃は人間も他の動物と同じように親が子供を育てていた、というのは歴史で習った。
 |一時《いっとき》の快楽に溺れて子供を作り、育てることを放棄して死なせる親もいると聞いた。
 親の持つ独特な価値観や入信している宗教のせいで病気になっても手術してもらえなかったり、食べ物に制限をつけられたり。洗脳のようにその考えを受け継ぐこともある、とも聞いた。

 それに比べればレトが統制する今はどれだけ幸福か。
 皆が平等に教育を受け平等に育てられる幸福を”機械任せなんていい加減”と評価する能登大地はやはり過去の人間に違いない。

 僕らが学業に専念できるのは彼らのおかげ。
 監視されているように感じるだろうけれど、それは僕らを危険から守るため。
 自分《子供》たちに奉仕する立場だとは言え、彼ら《機械》がいなくなれば困るのは自分《子供》たちなのだから、必要以上に蔑《さげす》んだり敵視したりしても良いことなど何もない。




 ノクトは溜息を吐《つ》いた。

「機械に飼い慣らされてる自覚はないのか。おめでたい奴《やつ》だな」

 同情? 違う。これは相手を貶《おとし》めることで自分の優位を保とうとする行為でしかない。
 僕は知っている。
 前時代の養育には欠点も多かったけれど、でも病気になっても治療させて貰えないなんてのはごく一部で、多くの親は子供のことを思っていた。
 能登大地にも親はいたはずだし、その親はきっと普通に愛情を込めて接してくれていただろう。
 けれどその”多くの親”が、今の僕たちにとっての”レト”だとどうして理解できない?

「飼われてない」
「じゃあさっきのアレは何だよ」
「フランから解放してくれたのは助かったよ。でもフランもレトも危害を加えようとしていたわけじゃない」

 今までの異世界転生ごっこも辛《つら》いものがあったけれど、今度は支配者的な人工知能と戦う系SFにシフトチェンジしたのだろうか。
 本当に、これだけいろいろ思いつけるのなら作家にでも……そう言えば能登大地は「ゲームを作っていた」と言っていたか。
 もとから(もと、と言えばノクトもそうだけれども)妄想の素質はあるわけだ。

「ああ、もしかしてまた新しい設定を思いついたの? きみの好きな本の中に暴走する人工知能と対立するSFとかあったよね」

 このノクトは本当にノクトか。
 能登大地という別人か。
 別人のように演技しているだけか。
 選択肢はいくつもあるけれど、何にせよ振り回されるのは一緒。うんざりする。

「茶化すな」
「茶化してなんかないよ」

 とは言え、今の僕は目の前の同級生を幼馴染みのノクトとは見ていない。
 ”能登大地という別人”と認識してしまっている。
 ヴィヴィが言うところの”前世の記憶がよみがえった説”を採《と》るのなら目の前のノクトは(中身はともかく)ノクトで間違いないだろうのに、僕は彼を以前のノクトと同一人物だと認識できないでいる。

「だいたいおかしいと思わないのか? 大人は皆、ファータ・モンドにいる、って。この世界には此処《ここ》と其処《そこ》しかないわけじゃないだろう?」

 僕の態度が気に入らないのか、今日のノクトは饒舌《じょうぜつ》だ。
 6月以前のノクトだってここまで喋ったかどうか。

 だから余計にノクトに見えない。
 ノクトの顔をしているのに、僕は彼をノクトだと思うことにしたのに、それが間違っていたと言われているようで直視できない。 

「そうだね。ファータ・モンドからさらに先があるかもしれないけど、それは此処《ここ》じゃわからない。ただ、今は知る必要はない」
「どうして」
「危険だからだよ。世界が広がれば、其処《そこ》に行きたい、見たいと思うだろう? ノクトはずっとそうだった。卒業すればいくらでも出ていけるのに、ずっと町の外に出たがってた。それがどれだけ危険な行為かには目を|瞑《つぶ》って、夢みたいなことばかり言うんだいつも」

 この世界のことを知らないのは彼がノクトではないから。
 この世界のことを悪く言うのも彼がノクトではないから。
 ただ単に何処《どこ》ぞの誰かの記憶が入り込んだだけにしては、彼の中には”ノクトとしての記憶”がなさすぎる。


 チャルマの説によれば、転生前の記憶を取り戻すとこちらの記憶は忘れてしまうらしい。
 しかし生まれ育った環境には過去を思い出させるきっかけが幾つも残されている。
 100のきっかけの中のたったひとつだとしても……幸せな記憶にしろトラウマにしろ、魂に鮮烈に刻み込まれた記憶と言うものは、誰にでもひとつやふたつはある。
 なのに。

 テセウスの船、と言う話を思い出した。
 ひとつの船をあちこち修繕し続けて元からの部品が何ひとつなくなってしまっても、それは同じ船と言えるのか、という話。
 これはノクトにも言えるかもしれない。
 今までのノクトとしての記憶はほぼなく、あるのは能登大地の記憶ばかり。これでもまだ彼はノクトだと言えるのだろうか。



 学校に近付くにつれ、通りに人影が増えて来る。
 肩を並べて歩く学生は僕たちだけではないので目立つはずはないのだけれど、やけに視線を感じる。
 しかし見回したところで誰も見ていない。
 視線を逸《そ》らした風でもない。

 誰が見ている?
 学生か? アンドロイドか? 監視カメラか?

 そう思いかけて、ぞっとした。
 ノクトの警戒が伝染《うつ》ったようで。
 ひとつの家族のように親しんで来たアンドロイドたちとの間に1本、越えられない溝ができてしまった感覚。彼らを純粋に”味方”だと思えなくなっている感情。
 こんなもの、僕じゃない。
 僕はそんなこと思わない。

 ああ、これはきっと穏やかな暮らしをしているからこそ緊張感のあるストーリーに惹《ひ》かれ、その主人公に憧《あこが》れるようなものだ。
 ノクトのごっこ遊びと同じ。
 感化されてはいけない。


「……さっきの女だって、どうせ俺のことを聞いてきたんだろう?」
「…………………………聞かれてないよ」

 正確に言えば”まだ”聞かれていない。
 しかしノクトに引っ張り出されなければ今頃は喋っていたかもしれない。

 フランの目の中で瞬いていた光を思い出す。
 吸い込まれるような光の明滅を見ているうちに意識がぼんやりと漂い出そうになるのを感じ……いや、違う。
 これもごっこ遊びの延長。
 フランにそんな機能はない。”敵の尖兵”のように見るなんて失礼もいいところだ。

 ”能登大地”は人工知能や機械といったものにそんなに信を置いていないと言うか、警戒している節が見える。
 SFの世界だと世界をまとめている人工知能というのは大抵ラスボスだったりするから、彼も先入観を持っているのかもしれない。
 そんな彼に、レトは今までどおり、”ノクトのつもり”で接触してきたかもしれない。
 械慣れしていないであろう”能登大地”なら、必要以上に恐怖を覚えても仕方がない。


「……きみはノクトだよね」

 僕は手首を掴《つか》んでいる手を、もう片方の手で外す。
 
「ねぇ。6歳の頃から僕の隣にいるノクトはまだ、きみの中にいるの? 全部”能登大地”と入れ替わっちゃった? それとも最初から言っていたように、ノクトとは別の人なの?」

 彼《ノクト》は僕が見聞きして知ったことがレトに伝わることを恐れている。
 それはつまり”ノクトではない”と言っているようなものではないのか?
 ”前世の記憶がよみがえった設定”なんてものを考えて中途半端に歩み寄ろうとせず、最初からノクトかそうでないかをはっきりさせておけばこんなことにはならなかったのではないか?

 彼はノクトか。
 それとも赤の他人か。
 もし前世の記憶が入り込んだだけのノクトだとしても、今のままなら別人でしかない。
 テセウスの船がまるで違うものに作り替えられるように。

 そして赤の他人だとすれば、本物のノクトは何処《どこ》に?
 旅立ちの日から既《すで》に2ヵ月。
 未《いま》だ町中《まちなか》で見かけた形跡はなく、外に出てしまったのだとすれば生きている可能性は0《ゼロ》に等しい。
 早めに探してもらっていれば生きて見つかったかもしれない可能性を、潰したのは僕だ。



「……………………俺は……ノクトだ」

 ノクトは口籠《くちごも》りながらもそう呟いた。
 まるで自分で自分を納得させているように見える。
 ノクトでいてほしいと言う僕の思いを垣間見て、そう言ったようにも見える。 
 今からノクトとして生きていくと、そう決めたようにも――。


『あんたが何処《どこ》の誰だかは知らないけど、今はノクトなの。ノクトとして振る舞って。それができないならノクトとして死んで。僕たちに迷惑をかけないで』


 ヴィヴィが彼《ノクト》に言った言葉も重く沈んでいるだろう。
 けれどヴィヴィが悪いわけじゃない。
 ヴィヴィが言わなければ、僕が同じことを言っていた。

「だから、」
「わかった」

 わかってしまった。
 このノクトはもう6歳の頃から知っている”ノクト”ではない。
 彼の中に今までのノクトがいようがいまいが、彼自身は”能登大地”でしかない。

 僕は頷《うなず》く。
 頷《うなず》きながら考える。


『レトに見つかったら処分されるだろうね。でもノクトとして生きていくなら衣食住と教育は保障される』


 記憶だけなのか、器ごと能登大地なのか。
 何にせよ彼はこの世界でどう振る舞うのが最も得策かを考え、ノクトとして生きることを選んだ。
 だから僕も、このノクトをノクトとして接していくしかない。
 本物のノクトが万にひとつの確率で戻ってくるまでは、彼には”ノクト”として生きてもらうしかない。

 死んでいるのならそれこそ一生、”ノクト”でいてもらうだけだ。


「レトに言うなよ」
「わかってるよ。だからきみも発言には気を付けて。自分の首を絞めるだけだからね」

 僕たちの意思はあの時にもう決まっていた。
 お互いに、お互いを利用するだけだと。