10-10 意馬心猿・Ⅱ




 だが考える間も答えを出す間もなかった。

「お喋りはそこまでよ!」

 という声と共に剣が振り下ろされたのだ。
 「彼女」だ。そう何度も放置されるつもりはないらしい。

 ソロネは刀身を髪の毛1本ほどの僅差《きんさ》でかわす。
 目標を失った剣はその勢いを止められないまま、その真下にいた人形《ルチナリス》に振り下ろされる。
 当たる、と思った瞬間……ルチナリスはまたしてもその攻撃を外れ、吹き飛んでいた。

 どうせ執事だろう。
 今度は頭を掴んで投げる暇もなかったらしい。手刀が思いきり脇腹に食い込み、払い除《の》けられた。真っ二つになるよりはいいのかもしれないが、この再三の仕打ち、義兄が目を覚ましたら告げ口してやる。


 氷の上を転々と転がっていくルチナリスの視界に、剣を引き抜いて飛び退《の》く男の姿が映った。
 何かが違う。
 何かが。
 ……。
 まぁ……そう言えば、先ほど左官職人の体も切り裂かれてはいたけれど。

 「彼女」は、今度は漁師の姿をしていた。辛《かろ》うじて声で「彼女」と判別できるが、胸板も厚く、腹筋も|顎《あご》も割れている。声も野太い。
 何故《なぜ》いつもいつも男なんだ。何処《どこ》からどう見ても男以外の何者でもないのに口から出るのは女言葉、というギャップに堪《た》えるのが辛《つら》いし、あれならルチナリスのままで戦ってくれたほうが腹筋のためにはずっといい。
 ソロネも執事も何故ああも淡々と対処できるのだろう。「彼女」にはいったいあと何人のレパートリーがあるのだろう。

 そんな外野の心の声が聞こえるはずもなく、漁師は体勢を立て直すと未《いま》だ義兄を抱えて片膝をついたままの執事を見据える。

「ソロネより先にあんたが相手をするってわけね? 執事さん」

 戦闘対象から一方的に外されたお姉様《ソロネ》は、と視線を移すと、どうするの? と、執事をチラ見しながら含み笑いを浮かべるばかり。戦いの邪魔をされたから戦意が削がれてしまったのか、執事とは因縁があるようだったからこれ幸いにと高みの見物を決め込むことにしたのか。

 いや、ちょっと待ってよ。
 お姉様はこの目の前にいる敵《彼女》を倒しに来たんじゃなかったの?
 どちらかと言えば執事は義兄《あに》を追って此処《ここ》に来ただけで戦うつもりなどこれっぽっちもないわけだし、邪魔したのだってあたし《ルチナリス》の体が壊されそうだったから、っていうだけだし。ええ、体を返してもらえれば私共は早々に引き上げさせていただきますわ! 後はお好きになさって! な心境なんですけれど。

 ……ちなみに義兄が起きていた場合、「城下町の人が困っているなら何とかしないと」という謎の使命感のせいで「お好きになさって」と言えない事態になってくるのだが、起きてこない人の意見はないものとさせていただく。

 そう。かなり譲歩したところで元カノのよしみで手を貸してあげましょう、という程度。共闘するならまだしも、何でこっちに丸投げした顔をしているのよ!
 

「もう1度言いますが、ルチナリスの体を返して頂けませんか?」

 執事は相手をするかどうかについては触れない。
 ついでに言えば、体を返せと言っているのも「あなたに何かあると青藍様が悲しむので仕方なく」言っているだけだろう。むしろ人形のままでいてくれたほうが危ないことに首を突っ込みに行かなくていい、とすら思っているに違いないし、奴《やつ》としてはずぶ濡れのまま眠ってしまっている義兄を何時《いつ》までも夜風に当てておくほうが問題だと思っている。
 これで「返さない」という返事を返したところで執事はあちらさん《漁師》の期待通りに戦ってくれるだろうか。「あ、そうですか」と立ち去ってしまうのではないだろうか。あたしの体を見捨てて。


「……体?」

 さあ、緊張の一瞬がやってまいりました。
 ルチナリスは固唾《かたず》を飲んで漁師を見守る。


 陽が落ちてしまった空には点々と星が瞬き始めている。
 いつもより遠くに見える月の前を雲が流れていく。
 パキ、とかコポ、とか小さく聞こえる音は、氷が融けかけてきているのかもしれない。


 とてつもなく長く感じた一瞬の後、漁師《彼女》は、つん、とそっぽを向いた。
 そして。

「嫌よ。だってこの体でいれば、あんたは攻撃してこられないじゃない」


 うわー! 1番聞きたくなかった返答が来たーーーー!
 ルチナリスは心の中で頭を抱える。もう駄目だ。そんなことを言ったら「それでは私は帰りますので、後はご自由に」って言うに決まっている。
 違うのよ。たまたま手が動いちゃっただけで、この男にあたしを守ろうなんて意思は微塵《みじん》もないから。むしろいないほうがいいと思っているから。ご主人様さえいれば後は何にもいらない奴なんだから!
 ああああ、でも! そんなこと言えない!
 あたしの体に人質としての価値がないと知られたら、ソロネ以上にどんな扱いをされるかわかったものではない。

 しかしどうしたらいいのだろう。人形の身では考えるだけで何もできない。
 漁師《彼女》の口ぶりからするに、あの屈強な男の中にあたし《ルチナリス》の体はある。でも取り出せない。手段がない。
 ソロネも執事もあたしの体に未練などない。いざとなれば勝ちを取るために見捨てる可能性は限りなく高い。
 義兄の目が覚めるのを待つにはあまりにも時間が足りないし、目が覚めたからと言って義兄が良案を持っているかは不明。ソロネの火の輪が効かない以上、義兄の炎も効かないつもりでいたほうがいい。
 だとすると、やはりもうあの体は諦めて、もっと美人な体を探してもらったほうがいいのだろうか。
 でも。
 でも……。


 ……あれ?

 そこまで考えて、ルチナリスは違和感を覚えた。
 随分長々と考える時間があったけれど、その間、1度も直接攻撃が飛んでこない。先ほどの攻撃だってソロネに向けたものが逸れたから、というだけだ。

 漁師はじっとこちらを窺《うかが》っている。いや、見ている。
 そしてその違和感に執事も気付いたのだろう。怪訝《けげん》な顔で漁師を見上げた。

「……そう言えばルチナリスの姿になって、どうするおつもりなんでしたっけ?」

 何か察することがあったのか。それともただの時間稼ぎの思いつきなのか。
 意図するところはわからないが、ルチナリス自身も体を奪っていった理由は気になる。
 とびっきりの美少女というわけではないし、学歴があるわけでもない。メイド仕事は毎日執事のダメ出しが入るし、天涯孤独だし、領主(またの名を魔王)の義妹《いもうと》という立場もただの口約束でしかない。

 それに彼女はあの黒い霧でいくらでも姿を変えられるのだ。
 宿屋の息子《ナッキー》も左官職人も漁師も、遺体は既に上がっている。つまり、その姿をとるのに「実際の体は必要としていない」。

 そして彼女は城にまで入り込んでいたらしい。
 と、言うことは彼女の目的は「ルチナリス」として城に入ることなのだろうか。確かに体そのものを乗っ取ってしまえば城の結界は通れる。しかし盗みに入ることが目的なら、結界が張られ、警備の者《ガーゴイルたち》もいるくせに金目のものがほとんどないノイシュタイン城はハイリスクローリターン。一般的な民家のほうが入るのも盗るのも楽だということは、結界の存在まで知っている者ならわかりそうなものだ。

 それとも盗みに入る以外の目的があったのか? 例えば義兄に代わって魔王になる、とか?
 魔王なんて悪の道を志す人には最終目標みたいなものだし、城住みだし、大勢の家来に傅《かしず》かれているイメージもある。
 魔王が義兄だというのは人間には知らされていないことだが、魔族の間では周知の事実。「彼女」も人間離れした技を使うし、もしかしたら人外なのかもしれない。以前執事が「魔王なんて上級貴族がやるものではない」と言っていたけれど、魔界庶民の間では思いのほか人気職だったりして……。


「どうするって」

 彼女は屈強な漁師の姿のまま、はにかんだように微笑んだ。

 耐えろ!
 ルチナリスは閉じることもできない目で漁師を凝視したまま、必死に笑いを堪《こら》える。笑うところじゃない。今は笑っては駄目よ、空気を読むのルチナリス!

 しかしその笑いは、次に続いた言葉で恐怖へと変わった。


「あたしが、領主様のお嫁さんになるの」




 寒風が吹き抜けていった。

 はぁ!?
 何だその発想は。その野望と罪もない男たちを殺《あや》めた理由――レパートリーが海の魔女の被害者ばかりという点で「彼女」が海の魔女であるのはもう確定と言っていいだろう――は何処《どこ》がどうつながって来ると!?
 宿屋を継ぐだの職人になるだのよりも自分の役に立てることを光栄に思え、みたいなことを言っていたけれど、身代わりに攻撃を受ける以外、大して役に立っていたようには思えないし…あれか? 領民を殺せば義兄が出て来るから? だから殺したのか?
 しかしそれで出てきたところで「海の魔女」として退治されるのがオチ。間違っても義兄のお嫁さんにはなれない。
 と言うか、あたしはいつ義兄の嫁候補になっていたのだ。少し前に当人からきっぱり玉砕宣言されたばかりだと言うのに。

 だが。
 ここに来てあたしに人生最大・最悪の事態が降りかかろうとしている。
 さっきから突き刺さる氷点下の視線が痛い。


「違う違う違う! あたし知りませんっ! 何かの間違いですっっ!!」

 ルチナリスは慌てて否定した。首も振れないし手も動かないけれど、執事の誤解を解かないと今度こそ氷の海に投げ捨てられる。ご丁寧に海藻でグルグル巻きにして、隙間に石を詰め込めるだけ詰めて、2度と帰って来られないように遠洋漁業の船に頼んで最果ての海に捨てさせる、くらいの手間は何とも思わない男だ。

 目の前で静かに攻防が繰り広げられているとは露知らず、漁師は陶然とした顔で屈み込むと、眠っている義兄に手を伸ばす。


 思い出した。
 そう言えば「彼女」は現れた時にも義兄に手を伸ばそうとしていた。
 城に入り込んで何をする気だと執事に問われた時、既《すで》に「あたし《ルチナリス》の代わりに」と口にしていた。
 「彼女」の目的は最初から義兄だ。
 男たちを手にかけた理由はわからないが、あたしの体を乗っ取った理由はそれだ。
 何処《どこ》であたしが義兄の嫁になるなんて話が湧いているのかは知らないが、きっと覆《くつがえ》せないと感じたのだろう。だからあたし《ルチナリス》に成り代わろうとしたのだ。


「触らないで!」

 ルチナリスは叫んだ。
 あたしの体よ? あたしのお兄ちゃんよ? 何処の誰だか知らないけれど、そのために平気で関係ない人を殺すような人に、関係ない人の人生を馬鹿にするような人に、「あたし」も「お兄ちゃん」も絶対に渡さない!

「触らないでぇ!」

 人形の身が、動けないことが、これほど辛《つら》いと思ったことなどない。動きなさいよあたしの手ーー!
 だが。
 それよりも早く、執事の手が漁師を払い|除《の》けた。
 パァン! と力任せに叩きつける音が空気を揺らした。





「気安く触らないで下さい」

 声に怒りが滲んでいる。あんな野望を聞いた後では「彼女」がルチナリスの姿をしていたとしても振り払うだろう。まして得体のしれない漁師の手では尚更だ。
 ……狼に噛み殺されるルート確定。何処《どこ》の誰だかしらないけれどご愁傷様。

 もう何度目になるかわからない同情をルチナリスは「彼女」に向ける。とは言え今回ばかりは、その同情と同量の「ざまぁみろ」が心の中を占めているのも否《いな》めない。

 漁師《彼女》は払い除《の》けられた手を胸の前で握り込むと数歩よろめいた。小刻みに震える様はよく少女漫画で見かける「傷ついた女性のポーズ」っぽいのだけれども、目の前にいるのは屈強な(以下略)。
 ああ! このシリアスだかギャグだかわからない光景、誰か何とかしてぇぇぇぇぇぇええ!!


「な、何よ! あんたの許可がいるとでも言うの!? ただの執事のくせに!」

 それでも漁師《彼女》は言い返す。
 この粘り強さがあればあたしでも進展したのだろうか。いや、粘り強さも押しの強さも段違いだけれども、それでも進展しないのが目の前にいるじゃない。そんな野望は抱くだけ無駄なのよ。諦めなさいよ。
 ルチナリスは「ね」とばかりに、その「進展がない仲間」を見上げた。

 そしてその仲間は、と言えば。

「許可? いりますよ。ええ、頼まれたところでそんなもの出しやしませんが」

 冷え冷えと、呪い殺しそうな低い声でそんなことを仰《おっしゃ》った。


 怒ってるどころではない。黒過ぎる。
 何これ闇堕ち? 嫉妬が高じてとうとう暗黒面に堕ちたのか?
 |漁師《彼女》の周囲に漂う霧のようなものも黒いが、執事の背後にも何かが見える。以前、彼の背後に般若を見たことがあるが、今にして思えば全く大したことではなかった。それくらい黒い。
 執事はくすりと馬鹿にしたように笑うと、勝ち誇ったように口角を上げた。
 眠り続ける義兄をこれ見よがしに引き寄せる。

「……この人は、私の伴侶になる方ですから」


                


 ……。
 沈黙が通り過ぎた。

 ぬぁぁぁぁぁぁぁにぃぃぃぃぃぃぃぃ!?
 予想の斜め上すぎる台詞《セリフ》を吐かれて、ルチナリスは息をするのも忘れて硬直した。今まで人形だったんでしょ? 息なんかしていないでしょ? というツッコミはしないでほしい。
 それより!
 何を言い出すんだ執事ー! と言うか、こっちはこっちで何時《いつ》そんな話になった! さっきの嫁発言への反発か!? それとも本当に進展しちゃっていたのか!?
 最近やたらと仲良いなと思っていたけれども、まさか、まさか……っ!!


「そんなこと信じないっっ!」
「信じる信じないはあなたの勝手です。私が先刻からずっとこの人を手放さないのを見ていて、何も関係がないと思う方がおめでたい」


 嘘でしょ? 嘘って言って下さい。
 執事はさらに意味不明な叫び声を上げる漁師《彼女》には目もくれず、さも愛おしそうに義兄の髪を撫でる。その手をするりと頬に滑らせ、親指の腹で唇をなぞる。
 いやもう、義兄しか見ていない。と言うか、その辺で手を止めろ。何処まで触る気だ!

「男同士でっ!?」

 「彼女」の口がやっと意味のある言葉を吐き出す。
 同じように意味不明な絶叫に脳内を支配されていたルチナリスは心の中で喝采を送った。
 そう、それだ。よくツッコんでくれた! 「彼女」の外見が漁師でしかないから男3人で三角関係、というとんでもなくシュールな絵になっているけれど! とにかく気を強く持って反撃するのよ!

 だがしかし。

「愛に性別など関係ありません」

 そんな普通すぎるツッコミでは執事は止まらない。考えてみればこの10年、もしかするとそれ以前から「惚れた相手が男だった」という事実に向き合ってきた執事が、その程度の罵倒で揺らぐはずがない。

 でも! でもっ!!
 それでいいのかお兄様!

 執事には歯が立たないと知ったルチナリスの思考は、そのまま義兄に向かう。
 そりゃあこの執事は昔っから妙にあからさまな好意を見せるな、とは思ってはいたけれど。
 魔族だからアピールの仕方がオープンすぎるのかとも思ったけれど。
 でもお兄ちゃんはまともだと思っていたのに!!!!


「嘘よ! だって、」

 野太い声の悲鳴が聞こえる。
 頑張れ。奴を止められるのはキミしかいない! 氷の上に転がったまま、ルチナリスはなおも食い下がる漁師《彼女》を応援し続ける。もうどちらが味方だかわからない。

 ああ、きっとこの押しの強い執事に迫《せま》られて言いきられたに違いない。義兄はこの馬鹿執事に甘いから! 押して押して引くどころか押して押して押して押して押しまくられたのよ!


「何とでもほざいていなさい。あなたもご覧になったでしょう? この人は城でも私にべったりで、何処へ行くにも私と一緒じゃないと嫌だなんて仰って」

 漁師《彼女》がはっとしたような顔をする。城に入り込んでいた間に何かあったのだろうか。と言うか、あたしがいない間に何をしているのだこのふたりは! ああ、悔いても悔やみきれない。


 ねぇ、上級貴族様には触るのも駄目なんじゃなかったの?
 あなた少し前まで10cm手前で止まっていたでしょ?
 なのに、なのに……。

「……ね? 私のかわいい、青藍様」

 執事は指先2本で義兄の顎《あご》を捕えて持ち上げる。その顔を覗き込むように近付ける。
 やめてぇ! 誰かこの悪夢、何とかしてぇぇぇええ!!




 ルチナリスの心の叫びに呼応するように、猟師の体が歪んだ。
 風船が弾けるように黒い霧が噴き出す。溢れ出す霧に押されて崩れるように漁師の体も砕けていく。
 

 そして、その間、黙って待っているほど執事は素直な悪役に甘んじるつもりはなかったらしい。
 とっさに義兄を肩に担ぎ直し、空いた片手で転がったままの人形《ルチナリス》を拾い……否、頭を鷲掴《わしづか》む。拾い上げてくれるのかと思いきや、奴はそのまま駆け出した。腕の振りそのままに振り回されて首が取れそうになる。

「く、び、がぁぁ」

 もし首が取れたらどうなるのだろう。
 人形だから無問題《モーマンタイ》! なんて楽観的な考え方はとてもできない。


 霧のようなものは空中に集まりつつある。
 細かい粒子が絡み合うように色を濃くしていく。
 グチュグチュと霧にあるまじき音を立てながら固まっていく。

 その下に見覚えのある体が倒れていた。
 薄茶の髪と濃紺のメイド服。後頭部で結ばれた若草色のリボンに、義兄から貰った髪飾りが壊れていなければ、今回のことはなかったのだろうか、なんてちらりと思う。
 だが感傷に浸る暇などなかった。
 執事は人形を2本の指で持ち替え、残る3本で倒れているルチナリス本体の襟後ろ部分――襟首と言えばいいのだろうか――を掴むと力任せに引き上げた。足を引き|摺《ず》っているのも気にせず、黒い霧に背を向けると再び駆け出す。

「ちょっ、脇にっ! 抱えると、か!」

 振動を直接《モロ》に受けながらルチナリスは抗議の声を上げる。
 本体は、と見れば服の襟を掴んで引っ張っているせいで首が絞められている状態だし、ふくらはぎと踵《かかと》は氷の上を跳ね回っている。そして何よりも! 服が上に引っ張られて脱げてしまいそうだ。
 畜生! 公衆の面前で乙女のパンツを晒したらただじゃおかない!


「待ぁぁぁてぇぇぇぇ!」

 声が追って来る。蔓が飛んでくる。それは足下に刺さり、氷を砕き、足場を崩す。
 執事は小さく舌打ちすると、ルチナリス'sを掴んでいる右腕を振った。
 周囲に氷の飛礫《つぶて》が現れる。蔓の攻撃を弾き飛ばし、空中で固まりつつある霧に突き刺さった。

「ぎゃああああああああああ」
「ぎゃああああああああああ」

 「彼女」の叫びとルチナリスの叫びがハモった。
 「彼女」は攻撃を受けて。ルチナリスは振り回されて。

 やーーーーめーーーーろーーーー!!!!
 ルチナリスは心の中で思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ続ける。
 体を回収してくれたことには感謝するが、それってあたしを持ったままでする必要があったの!? 反撃もしなきゃいけないんだろうけれど、それもあたしを持ったままでする必要があったの!? と問い質《ただ》したい。聞いたところで「左手は青藍様を担いでいるのですから右しかないじゃないですか」と、しれっと言われるんだろうけれど。


 急所に当たったのか、蔓の攻撃が緩んだ。
 その隙に執事は係留されている船の陰に身を潜める。放り投げるようにルチナリスの体を下ろし、その上に人形を乗せ。そして、

「さっさと戻りなさい」

 と叱責にも聞こえる口調で言いながら、その傍《かたわ》らに義兄も下ろした。


「ええと、」

 ルチナリスは執事を見上げた。
 本体の上に仰向けに寝かせられている。見えるのは雲が多くなってきた空と、ペンキが剥げかかった船の横腹。そして視界の端にチラチラと見える銀髪。
 戻りなさいと言われたところで、その戻るべき体は見えない。背後にあるのはわかるのだが。

「どうしました? 本当に人形になってしまったのなら私は一向に構いませんよ。彼女にもう1度あなたの体を取り返されたら次はないんですから、今のうちにさっさと戻りなさい」

 まな板の鯉状態の人形に向かって、執事は呆れ声でそう繰り返すけれど……。



「何処《どこ》に行った!」

 船の向こうで叫び声がする。隠れるところなんて数えるほどしかないのだから、見つかるのは時間の問題だ。
 八つ当たりのように蔓が飛ぶ。氷と岩を砕く音が聞こえる。

 ソロネと勇者がどうなっているのかはわからない。ただ、「彼女」の今の標的は執事のようだ。
 そうだろう。あの与太話が真実なら、この男を先になんとかしなければ、描いていた未来は一生、夢物語で終わってしまう。
 まぁ、執事を倒したところであたしが義兄の嫁になる、なんて話自体が戯言《ざれごと》でしかないのだから実現する可能性は限りなく低いのだが……そういうのをなしにしても執事は倒したいのだろう。あたしだって殴りたい。
 しかし。今は執事を殴るよりも重要な問題が鎮座している。目の前に。いや、後ろに。


「そんな、やり方がわかりませんっ!」

 戻れといきなり言われても。
 第一、人形にされた時すら覚えていない。こうしたら元に戻れますよ、と手順を教えてもらった覚えもない。
 オールマイティに何でも元に戻せる便利な呪文はないのだろうか。だいたい、こういったオカルトじみたことから縁遠い「人間」のあたしに、それを要求すること自体が間違っている。

 見るからに苛立たしげな表情を浮かべた執事は、乱暴に人形の頭を掴んだ。

「だから! 頭を掴むなと、」
「こういうものは粘膜接触と昔から相場が決まっています!」

 粘……?
 考える間もなく、横たえられていたルチナリスの唇に人形《あたし》の口を押し付けられた。
 そりゃあもう。ぶっちゅゅゅゅううっ! と音が立ちそうな勢いで。

 ちょっとぉぉぉぉぉおおおおおっ!!

 文句は、一気に開けた真っ白な世界に吸い込まれた。  




 目を覚ますと目の前に義兄の顔があった。
 心臓が飛び出そうな衝撃に慌てて体を起こし、目を擦《こす》る。擦って、手が動く、と改めて気付く。
 進化でもしたのか?
 いや、そうじゃない。もとの体に……戻っ、た……?

 隣には何も知らずに眠っている義兄。その脇には全長30cmくらいの人形が転がっている。釣り用語で言えば「肘叩き」と呼ばれるサイズだが、そんな雑学は今はいらない。

 ルチナリスは人形を手に取った。
 陶製の古ぼけた人形だ。ビスクドールなんて高尚なものですらなかった。ジンジャーマンクッキー(♀)を大きくしたような……いや、人間《マン》なのだろうか。雑な筆さばきで猫だかカッパだか人間だかも不明な顔が描いてある。髪の毛らしきものと服も手書きだ。所々色落ちして茶色の縦縞が入っているのが、血涙を流しているようにさえ見える。
 愛玩用というよりは呪いに使うものだと言われたほうが納得がいく面構えだ。子供に与えたら泣かれることは間違いない。




『どう見ても、るぅ、でしょ?』


 義兄《あに》の目に、あたしはこんなふうに映っているのだろうか?
 何かもう顔が平凡、だなんて領域すら突破している。それなのに、じっと見ていると何処《どこ》となく面影があるような……違う! あたしはこんな顔じゃない! こんなタラコ唇な……ルチナリスは人形の必要以上にぶ厚く描かれた唇を凝視する。 

 このタラコ唇と、あたしは粘膜接触をしてしまったのか。
 粘膜接触というと意味不明だけれども要するにマウス・トゥ・マウス。口と口を、というアレ。それにしても「相場が決まっている」と言ったが、本当に他にやり方はなかったのか!? 今まで何処に落ちてたかも知れない(海の中に沈んでいたのは確実な)不細工な人形と……。
 ……いや、考えるのはやめよう。戻れた、良かった。で、いい。もう……。




 頭上で破壊音がした。
 見上げれば横腹に穴が開いている。もちろん貫いているのは蔓《つる》だ。

「いっ!?」

 前に見た時は植物のように自由自在にうねっていたのだが、突き刺さっている蔓《つる》は金属のように黒光りしている。触ってみなくてもわかる。柔らかいはずがない。
 絶句するルチナリスの上で、蔓《つる》は貫いた時と同じ勢いで引き抜かれ、あっという間に姿を消した。
 と、思った矢先、今度はマストが苦しげな音を軋《きし》ませながら倒れてきた。巻き添えをくって砕けた木片が降り注ぐ。

 慌ててルチナリスは眠り続ける義兄《あに》の頭を庇《かば》った。
 人形の身では庇《かば》えないから、こればっかりは人間に戻れてよかったと言うべきか。あんな場当たり的な解呪でも結果オーライというやつで……。
 そうだ。
 そう言えば執事は?


「あ、戻ったんですか」

 タイミングよくかけられた声のほうに目を向ければ、執事は船から少し離れた場所にいる。此処とは比べ物にならないほどの蔓《つる》が、振るわれた鞭《むち》のように縦横無尽にしなっては氷と岩を破壊する。
 どうやら先ほど船を破壊した蔓《つる》は、流れ弾ならぬ流れ蔓《つる》(?)であったらしい。

「そこは危険ですから離れていて下さい。青藍様をお願いします」

 淡々と、それでいて拒否権など発動させない口調で執事は指示を出してくる。
 その間も顔は違う方向に向いている。おそらくそちらに先ほどの霧の塊――「彼女」――がいるのだろう。

 自分たちが此処《ここ》に隠れているのを「彼女」が知っているかどうかはわからない。執事ひとりが離れた場所にいるのは自分たちに被害が及ばないように囮《おとり》を買って出ているからなのか、それとも自分たちが此処《ここ》にいることを知っている「彼女」をこれ以上近付けさせないために壁になっているのか、も。
 ただ、先ほどの流れ蔓《つる》に驚いて脊髄反射のように船陰から飛び出していたら、あっという間に串刺しになったであろうことだけは間違いない。

 が。

 お願いします……って。
 頼れる状態でないのはわかっているが、どうしても執事に目が行ってしまう。しかし執事の注意がルチナリスに向くことはない。
 人間に戻ったからと言ってルチナリスの力では義兄を抱え上げることはできない。しかし此処に寝かせておくわけにもいかない。せめてもう少し運びやすいサイズだったらいいものを。
 思い悩むルチナリスの視界に、数分前までお世話になった人形の妖《あや》しい笑みが映った。




 なぁんだ! これでお兄ちゃんを小さくすれば簡単っ☆

 ……じゃなぁぁぁぁい!!!!
 魂だけ運んでどうする! それで空になった体に「彼女」が入り込んだ日には、

『おーほっほっほっほ! これで領主様とあたしは一心同体! これはもうmarriage《マリッジ》! 永遠に一緒よ領主様~♡』

 なんて高笑いする義兄を見ることにな……駄目! それは絶対に駄目! あたしが噛み殺されるだけでは済まない! 奴《執事》の嫉妬で世界が滅ぶ!!

 ルチナリスは頭が振り切れるほどに首を振り、その想像を追い払う。


 ああ、それにしても本当にどうしろと言うのだ。
 正解が「執事が気を逸《そ》らしている間に係留《けいりゅう》されている船の後ろを伝いつつ、安全な場所まで逃げ延びる」ことだとはわかっているものの、それを実行するだけの腕力と体力がない。
 どうすれば……。


「心配には及ばないわ。か弱い者を守るのは勇者の努め♡ よ?」


 途方に暮れていると背後からいきなり声をかけられた。
 振り返るとソロネが立っている。猫の子のように勇者の首根っこを掴《つか》んでぶら下げている。
 フルアーマーの重量は軽く20kgは超えるだろう。なのに、それを中身ごと片手で持つなんて、やはり美女と言うのは一般市民と違って天から二物も三物も与えられているものなのだろうか……ではなくて。
 こんなところで何をしているのですか。何度も言いたくはないけれど、あなたはあの敵を倒しに来たのではないのですか?


「こんなに簡単に体を取り返すなんて、あたしの邪魔をするだけのことはあるわねぇ」

 ルチナリスの不審な目を気にすることもなく、ソロネは勇者をぶらさげたまま、感心したように呟いている。頬に手を当てて、ほぅ、と息をつく仕草までもが色っぽい。
 やはり元カレ《元・彼氏》だからいろいろと上乗せされて美化されて見えるのだろうか。付き合うきっかけも別れた経緯《いきさつ》も知らないけれど、この様子ではまだ未練があるのかもしれない。

 ……でもその元カレは男と結婚するとか公言しちゃっているわけですが。

 何かいろいろと微妙だ。こういうものは無闇に口を挟まないほうがいい。血を見る。

 だがしかし。
 奴《やつ》は作戦に関してはかなり杜撰《ずさん》でした。
 美化フィルターがついていないあたしにはよくわかる。粘膜接触だって結果がわかっていてやったとは思えないし、なんせ、

『あ、戻ったんですか』

 という台詞《セリフ》が全てを物語っている。
 あれでもし失敗したらどうするつもりだったんだ。何も起きないのならまだしも、抜け出た魂が体にも人形にも戻れなくなった、とか、抜け出てそのまま蒸発してしまった、とか、体ではなくすぐ近くを歩いていたヤドカリに入ってしまった、とか、逆に人形にガッチリ固定されてしまった、とか。
 これでもし人形にされていたのが義兄《あに》だったら、もっと慎重に、例えば人体実験に手を染めてでも100%確実に戻れる方法を見つけ出してから実行に移すのだろう、と思うと怒りを通り越して悲しくなってくる。


「勇者様、お・き・て♡」

 そして相変わらず悲しみに暮れる乙女の心情は伝わらない。どうしてあたしのまわりには、こうも空気を読んでくれない奴《やつ》ばかりが集まってくるのだろう。
 ルチナリスの悩みなどまったく意に介《かい》してもいない様子で、ソロネはポイッ、と、本当に猫の子でも放り投げるように勇者を投げ落とした。猫なら身を|捻《ひね》って着地するのだろうが、勇者はやっぱり勇者。お尻からドスン、と落ちるところまで予想通りすぎる。

「え? あ? あれ?」
「勇者様、そのお嬢さんと領主様をお守りしてあげて」
「へ? あ、ああ! もちろんでふっ!」

 こうやって噛《か》むところも。


 それでも勇者は義兄《あに》を抱え上げると、

「さ、ルチナリスさん。こっち」

 とルチナリスを促した。
 頼りなさげに見えたが、鎧常備で日々を過ごせばそれなりに筋力はつくのだろうか。もしくは義兄《あに》が軽いのか。誰にでも(その全てが男)抱え上げられてしまうというのは義妹《いもうと》として複雑ではある。


 執事が嫌な顔をして舌打ちするのが見えた。
 が、血相を変えて奪い返しに来ないところをみると任せるつもりなのだろう。猫の手も借りたい今、頼りなくても猫《フェーリス》よりは役に立つ。




 海岸沿いの倉庫の陰まで来てやっと義兄《あに》を下ろした勇者は、早々に立ち上がった。背負《せお》っていた鞘《さや》を下ろし、剣を抜く。
 執事がルチナリス本体を奪い返した、あの霧が固まろうとしている間に取り返したのだろうか。と言ってもこの男はお姉様《ソロネ》にぶら下げられている時も寝ていたから、きっと取り返したのもお姉様なのだろうけれど。


「此処《ここ》なら安全だから。ルチナリスさんたちは此処《ここ》で待ってて」
「勇者様は?」

 まさかこの男に限って戻るだなんて言わないだろうな。
 内心そう思いながらもルチナリスが尋ねると、勇者は当然、と言わんばかりに鼻の穴を膨《ふく》らませた。

「僕はあの怪物をやっつける!」

 グッ! と親指を立ててニカリと笑う。
 漫画なら奥歯にフラッシュが描かれそうなキメポーズ。しかしながら文字に起こすと「――キラリーンと輝いたように見せたつもりだろうが実際には光るはずもなく、そのデフォルメされたポーズばかりが空《むな》しく見える」と書かれてしまうかもしれない、のだけれど。

「無理」

 そしてルチナリスの思考は文字に近かった。本当に光っていればまた違う印象を抱いたかもしれないが、そればかりはどうしようもない。 
 現実は甘くない。勇者モドキが精一杯格好つけたところで、できるのはせいぜい笑いをとるくらい。執事にしてもソロネにしても、この男に加勢されたところで邪魔なだけだろう。
 執事に至っては義兄《あに》以外の生き物に気を遣《つか》うはずがないのだから、突っ込んで行っても敵と一緒に氷を撃ち込まれるだけであろう未来までもが目に浮かぶ。

 それよりも執事が魔法使っているところを見せるわけにはいかない。
 この勇者は魔法使いに理解があるかもしれないが、魔族の魔法と人間の魔法は違う。呪文の詠唱も宝珠《オーブ》などの媒体もなしに強力な攻撃魔法を使う様《さま》など見せられない。


 考えている間にも勇者は鞘《さや》を背負《せお》い直している。ビジュアル重視の大剣だから鞘《さや》ですら結構な重量があるだろう。誰が盗むわけでもなし、置いて行けばいいものを。

「昔、一騎打ちの時に鞘を投げ捨てて”敗れた”って言われた剣豪がいるんだよ。剣士たるものそんな失態は犯せないよね」
「……ソウデスカ」

 違う。名前も知らない何処《どこ》ぞの剣豪などどうでもいい。
 |鞘《さや》の有無もどうでもいい。
 問題は執事。この男が出しゃばったせいで魔法が使えなくなる事態は避けたい。ええと、ええと……そうだ!

「ゆ、勇者様。あたし怖い……」

 ルチナリスはウルウルと目を潤ませて勇者を見上げた。
 両手を顎《あご》の前あたりで組んで、見上げる角度は斜め45度。これは演技力が試されるところよルチナリス!
 そう! 義兄《あに》が執事を手玉に取る時のように!
 この際、涙が出ているか|否《いな》かは問題ではない。背後に花でも散らせればさらに効果倍増なのだが、自分《ルチナリス》がその域に達するにはあと50年の修業を要する。


「えー大丈夫で………………いやぁ、しょうがないなぁ」

 歩を進めかけていた勇者は頭を掻《か》くと(実際には兜《かぶと》に覆われているから掻《か》けないのだけれど)あっさりと|踵《きびす》を返し、ストン、とルチナリスの前に腰をおろした。

「やっぱり女の子をひとりで置いておくのは危険だもんね。領主様も意識ないし。大丈夫! ルチナリスさんは安心して! この勇者の僕が最後までちゃあんと守りますからっ!!」


 よっしゃ!!
 ルチナリスは心の中でガッツポーズを取る。
 勇者の足どめには成功した。黒い蔓のほうは執事と、勇者よりずっと強そうなお姉様に何とかしてもらおう!

 それにしてもすごい効果だ。義兄《あに》は何処《どこ》でこんな芸当を覚えてくるのだろう。彼の演技力には学ばされるものが多い。