21-6 第三者同士の再会




 エリックたちの前にアイリスが現れた頃、の少し前。
 アンリとグラウスは黙々と歩を進めていた。

 アンリの挑発のせいで青藍の所有権争いが勃発《ぼっぱつ》しかけた。微妙にはぐらかされたが、不完全燃焼ですこぶる気分が悪い。殴り合えばお互い無傷では済まないし、今それをするのが得策ではないこともわかっているつもりだが、殴れるものなら殴りたい。
 グラウスは少し先を歩く中年男の鎧姿から視線を外し、窓の外に目を向ける。

 煌々《こうこう》と光が漏れている一角では夜会が催されているのだろう。
 紅竜が当主に就任するときの会は当日に着いたので前後がどうなっていたかは不明だが、第二夫人の葬儀の時は1週間前から客が押し寄せ、昼夜を問わず宴が行われていた。
 魔界全土がそうなのか、貴族社会ではこうなのか、それともこの城だけのことなのか、ともかく、そうして泊りがけで騒ぐのは此処《ここ》では普通のことであるらしい。
 葬儀でも騒ぐなんて不謹慎極まりない、と人間界で育った身では思うのだが、後日聞いた話では残された者たちが賑やかにすることで、死者に「後に残していく自分たちには何も心配することなどないから安心しろ」と送り出す意味があるらしい。とんでもなく取ってつけたような理由だが、郷に入れば郷に従えとも言うし、終わったことをとやかくいうのは止める。

 今回は慶事だし、誰に気兼ねすることもなく騒げるのだろう。
 以前よりも笑い声が多いし、音楽も明るい。

 主催であろう紅竜は彼処《あそこ》にいるのだろうか。
 青藍は10年も魔王役をしていたことで公への認知度も高まってはいるが、元来、他人と関わらせないように閉じ込められてきた身だ。挙式当日は参列しているだろうが、今日はきっといないだろう。言い換えれば、紅竜と青藍が離れている今のほうが都合がいい。
 犀《さい》は……執事長でありながら第二夫人の葬儀の時も留守にしていた。この城の使用人は執事長がいなくとも動けるように訓練されているから、確実にあの場にいるとは言えない。

 立ちはだかるとすれば犀《さい》か。

 ポケットの中で、半分に割れた耳飾り《イヤリング》が指先に触れる。
 何度も転がしながら、グラウスは心を落ち着かせる。


 向かうは紅竜や青藍の私室がある区画。
 自分たちが青藍を取り返しに来ることは彼らも知っている。侵入したことも知られている。
 だったら違う部屋に隠すのではないかと思うのだが、裏の裏を掻く犀《さい》のこと、だからこそ私室に置くかもしれない。それに関しては意見が一致した。 
 と言うことで今に至る……わけだが。


「なあ」

 アンリが足を止めた。廊下の一角に顔を向けている。
 柱の手前、人がふたりは隠れられそうな隙間を開けて、花瓶の置かれた机《テーブル》がある。机《テーブル》にかかった白いクロスの陰《かげ》に、埃《ほこり》の塊のようなものが落ちている。
 
「俺の思い違いじゃなかったら、アレはザクロサンとかいうウサギじゃないのか?」

 ザクロサン、とは地下水路でルチナリスが拾おうとしていた灰色のウサギのことだ。
 そのために水路に落ちた彼女《ルチナリス》とミルはそのまま行方知れずになった。普通に考えれば、此処《ここ》にザクロサンがいるはずはない。

 ルチナリスの時と同じように、拾おうとしたら何処《どこ》かへ飛ばされる罠ではないのだろうか。
 アンリとグラウスは思わず顔を見合わせる。
 もし飛ばされるのなら(決して仲は良くないとしても)共に飛ばされたほうが戦力が分散されなくていい。単体と複数ではただ単に戦力が2倍というわけではない。死角が減り、連携が取れる分、数倍の差ができるのだ。

 あたりを警戒しつつふたりはウサギに歩み寄る。
 水路で見たザクロサンは半分水没していた。だからこれが同じものかと言われると首を傾げてしまうのだが、見捨てて行って万が一本物だった時が困る。とは言え、ザクロサンに面識も思い入れもないふたりのこと、拾ったところで荷物が増えるだけだから、できることなら置いていきたいと思うのも確かなことで。

「おい、ザクロサン?」

 正確には「ザクロ」さんだと思うが、聞く分にはどっちだろうと変わらない。アンリはそのまま呼びかける。

「ザクロサン?」

 揺すろうと手を伸ばしかけ、すんでのところで止まったアンリは、グラウスを振り返って目くばせをした。例の「何処《どこ》かへ飛ばされる対策」で一緒に触ろうと言いたいのだろう。
 男ふたりで、しかも犬猿の仲のオッサンと「せーの♡」と手を伸ばすなど真《ま》っ平御免《ぴらごめん》だが仕方がない。
 どうでもいいことを呟けば、狼とゴリラでまさに犬猿の仲。だが、本当にどうでもいい。

 そして。
 灰色の塊に向かってふたりが手を伸ばしかけたその時。

「青藍様!」

 ウサギはカッ! と目を見開くと跳ね起きた。

 跳ね起きた際に耳がアンリの目に刺さった。
 柔らかいけれども異物は異物。痛いことは痛い。

「うあっ!?」
「うひゃああああっ!」

 そしてウサギのほうも、目を覚ましたら目の前に中年男のゴリラ顔が迫《せま》っていた恐怖に、悲鳴を上げ、のけ|反《ぞ》るように勢いよく後退する。
 アンリと同じ轍《てつ》を踏んだところで面白くもなんともないし、自分はボケキャラではない。グラウスはさりげなく身をかわす。
 そして。

「……今、青藍様、と言いましたか?」

 かわりに、逃げ出そうとするウサギの両耳を片手で捕まえて問いかけた。

「え? あ?」
「失礼。私たちは多分、あなたの味方です、ザクロサン」
「味方、」

 耳を掴《つか》んでぶら下げられて、味方も何もあったものではない。
 しかし柔和な笑みがそれを相殺《そうさい》する。これでも執事歴10年、相手を懐柔する、否《いや》、敵と思わせない表情くらい作れなくては務まらない。
 グラウスはさらに続ける。

「私はグラウス=カッツェ。こちらのゴリラはアンリ=バートンと言います」

 誰がゴリラだと目を抑えながらアンリがぼやく中、ウサギは目覚めてすぐにアンリの顔を見た時よりもさらに目を丸くした。
 
「グラ……執事さん!?」




 その後、柘榴《ざくろ》から聞き出した話によれば、青藍は此処《ここ》・母屋《おもや》ではなく、離れのほうにいるらしい。


 離れには隠居した前当主と前当主夫人が住んでいる、と言われている。
 紅竜が当主に就任した以降、前当主夫人のアダマスとソーリフェルは別宅に移動したという話も聞くが、前当主に関しては何も聞かない。

 第二夫人の葬儀の時でさえ顔を見せなかった彼《前当主》は果たして生きているのか。数年前までは頻繁に耳にしたこの噂も、最近では全く聞かなくなった。
 紅竜の手腕が公に認められた証なのだろうと思うと同時に、大悪魔と恐れられていたという前当主が存命しているのならば何故《なぜ》紅竜を放置しているのか、紅竜をどうにかするつもりはないのか、聞いてみたい気もする。

 そして離れは青藍にとっても幼少期を過ごした古巣となる。
 元々この母屋は直系のみが住まう場所とされているが、紅竜の就任と同時に前当主らが去ったように、「当主とその妻子」が住む、と言ったほうが正しい。
 青藍が10歳を機に母屋に移り住んだのは万が一、紅竜が使いものにならなくなった時のために「使えるようにしておく」ため。紅竜が妻を迎え、「当主の妻子」が増えるであろう今後のことを考えれば、青藍とて何時《いつ》までもいるはずがない。

 そんなこと、少し考えればわかりそうなものだったのに。
 

「作戦変更だ。離れに行くぞ」

 同じように見抜けなかったであろうアンリが呻《うめ》く。
 此処《ここ》まで来てよかったと言えるのは、離れへの唯一の連絡通路がこの先にあるということくらいだろう。但し、階は違うけれども。





「その前に。ルチナリスは一緒ではないのですか?」

 先を急ごうとするアンリを制し、グラウスは柘榴《ざくろ》に問いかけた。
 柘榴《ざくろ》が此処《ここ》に落ちていたということは、順当に考えれば彼女は此処《ここ》を通ったはずだ。
 だが。

「……すみません、僕もずっと意識がなくて。ルチナリスさんが僕を助けようとして行方不明になったなんて、なんて申し開きをしたらいいのか」

 柘榴《ざくろ》はただ項垂《うなだ》れるばかり。
 彼女らの足取りは杳《よう》として知れない。


「気にすんな、嬢ちゃんにはお嬢、じゃなかった、優秀な護衛騎士がついてるからな」
「そうですね。勇者よりも頼りになる人ですから大丈夫ですよ」

 そんな柘榴《ざくろ》を宥《なだ》めるアンリに、グラウスも首肯《しゅこう》する。
 魔界にまで付いて来た目的も出自も何もかもが掴《つか》みどころのない人物だが、腕が立つことは間違いない。ただ心配なのは、ルチナリスの護衛という役割を何時《いつ》まで担ってくれるか、という点だけだ。
 騎士団を辞めて付いて来る以上、謝礼が発生するわけでもなし、それでいて命がけの仕事など、自分《グラウス》なら当然請《う》け負わない。ロンダヴェルグ聖騎士団員というだけあって、困っている者を捨て置けない聖人君子的な思考の持ち主ならそれでいいのだが……その点だけが彼女を信用しきれない曇りとして残っている。
 だからこそ離れ離れになってしまった今、彼女《ミル》が心変わりしないままルチナリスを守ってくれていることを祈るしかない。

 ――このオッサンは脳筋だからそんなこと考え付きもしないのだろうが。

 グラウスは、屈みこむようにしてウサギに話しかけている中年男《アンリ》を一瞥《いちべつ》する。
 思えばミルの同行を最初に許したのはこの男だ。
 同じ剣の道を歩む者同士、通じるものがあるのかどうかは知らないが、信用しすぎだろう。若い女だから、という何処《どこ》ぞの勇者と同じ発想《エロ発想》から来るものだとしたら、今度こそ再起不能になるまで殴りつけてやりたい。




 それから暫《しばら》く。
 使用人も客人も夜会に行っているのだろうか。誰にもすれ違わない。と思いながら進んでいた矢先のこと。
 

「あら、グラウス様」

 ある廊下を曲がったら女装姿の人外がいた。

「はい?」

 あまりにもナチュラルに名を呼ばれたので、ついうっかり返事を返してしまったが、こいつらは何だ。
 いや、何だと言うのは違和感がある。
 とてつもなく見覚えのありすぎるメイド服に身を包んだ、中身も見覚えのありすぎるガーゴイルたち。手に手に箒《ほうき》を持って掃除をしている光景は(メイド服こそ着てはいないが)ノイシュタイン城でも毎日のように目にしていた。
 掃き集められているのは黒い粉のようだ……が。


 ……それは埃《ほこり》などではない。


 魔族の成れの果て。
 死した後は灰となって消滅するばかりの魔族の、その灰だ。人間界育ちのグラウスは魔族の知り合いも少なく、魔族が亡くなった場に立ち会うことも少なかったが1度だけ親族が亡くなった際に見たことがある。
 その時は桶《おけ》に入ってしまうほどの量だった。人間ですら生前の体がすっぽり入るほどの棺桶を必要とするのに、魔族と言うのは随分とコンパクトにまとまるものだと妙な感慨《かんがい》を覚えた記憶がある。

 その灰が山になっている。それもふたつ。
 この量からいくと、何人の魔族が亡くなったのだろう。
 その前に、こんなところで何故《なぜ》亡くなる羽目になったのだろう。
 第二夫人の葬儀の時に出くわした酔っ払いのように羽目を外しすぎる馬鹿は慶事なら尚更多いだろうが、それでも灰が山になるほどの量が羽目を外すなど考えられない。
 最近は勢力争いでも表立った殺し合いは少ない。紅竜が戦に出ることなく他の魔界貴族を傘下におさめて行くように、水面下で交渉して、水面下で結果を出す、所謂《いわゆる》「無血勝利」ばかりだ。昨今、権力を手にするのに必要なのは武力ではなく、交渉や人心掌握術と言われている。

 それに、もし武力に拠《よ》った争いが起きたとしても、他人の家で殺し合いまではしないだろう。

 他人の家。
 いや、他人の家、ではないかもしれない。
 客人同士の争いなら他人の家だが、片方がメフィストフェレスなら我が家のこと。自分の家で何をしようが構わない、となるのではないか?

 もしかしたら一箇所に集まって来ているのをいいことに、あくまで対立しようとする家の者を極秘裏に葬っているのかもしれない。件《くだん》の酔っ払いにしても手を閃《ひら》かせるだけで処分してしまった紅竜のこと、今更、人を殺《あや》めることに罪悪感を抱くような玉ではない。
 婚儀、それも当主夫人のお披露目も兼ねているとあれば紅竜を良く思っていない家にも招待状は送られるだろうし、当然来るだろう。あの男のこと、暗殺も視野に入れた上で招待状を送っていないと何故《なぜ》言える。


 だが、まぁ、この場にいない紅竜のことは置いといて。

 こいつらは何だ(2回目)。いや、ガーゴイルなのは知っているが。
 グラウスは甲斐甲斐しく働き続けるメイド姿の人外どもを凝視する。
 ツッコミどころ満載な外見にもかかわらずアンリも柘榴《ざくろ》も無言なのは、彼らと知り合いである自分《グラウス》が対応すべきだと思っているのか、関わり合いになりたくないのか。そんな期待に|応《こた》えたくなどないが、応《こた》えなければ先に進めないジレンマが辛《つら》い。
 だから。

「………………何をしているんです?」
「掃除よぉん♡ 見てわかんないなんて見習いからやり直して来たらどぉ?」  


 あえて無難なところから攻めようと思ったら、逆に煽《あお》られた。

 確信する。こいつらはノイシュタイン城のガーゴイルではない。奴《やつ》らは自分《グラウス》を煽《あお》ればどのような制裁が返って来るかを知っている。
 見れば、胸元のリボンは紅《あか》。
 自分の徽章《きしょう》が青であるように、その色は「敵の手の者」の印でもある。


「あなたがたは、」
「あらぁん! るぅチャンとこのウサちゃんじゃないのぉ! 目ぇ覚めたの? 大丈夫? 歩ける? 何処《どこ》も痛くない?」
「は、はい。おかげさまで」


 敵ならばガーゴイルであろうと排除する。
 そのつもりだったのだが、問い詰めようとする前にガーゴイルたちは柘榴《ざくろ》を見つけ、グラウスを素通りして柘榴《ざくろ》に駆け寄った。取り囲んで質問攻めにする様《さま》はご近所の世話好き《ややウザい》なオバチャン’sそのもの。そこに悪意は感じない。
 |柘榴《ざくろ》にしてみればあの顔で迫られればそれだけで悪意だろうが、本人たちにそのつもりはない。多分。

 だが、ルチナリスに拾われたことすら覚えていない柘榴《ざくろ》がガーゴイルたちを覚えているはずもない。
 彼《柘榴》はわけがわからないと言いたげな引きつった顔のまま、礼を述べている。覚えていないのに「おかげさま」も何もないと思うのだが……と、それよりも。

「ルチナリスに会ったんですか?」

 聞き間違いでなければ「るぅチャン」と言った。
 同じ仇名《あだな》の者がこの城にいるのかもしれないが、柘榴《ざくろ》を連れていたと言うのならまず十中八九ルチナリスだろう。
 だとすれば、彼女たちが此処《ここ》を通ったのは間違いない。通って、柘榴《ざくろ》をテーブルクロスの陰に隠して行かなければいけない事態に遭遇した、と考えるしか――。


「そうよぉ。あたしたちと同じフリルに選ばれし者! 着こなしはあたしたちには負けるけど!」


 返答と呼ぶにはイマイチかみ合っていない返事が返って来た。

 フリルに選ばれし、って何だ?
 その前に。10年間メイド服を普段着がわりに来ていた娘がガーゴイルに”着こなしで負けている”と言われていると知ったら怒り狂うのではなかろうか。お前らなんて裸族だったじゃないか。どの口がそれを言う?
 そんなツッコミを入れそうになって、ああ、こいつらはノイシュタインの奴《やつ》らとは違った、と思い直す。以前2度ほどこの城に来て、その間1度たりとも見たことはなかったが、此処《ここ》のガーゴイルはメイド服が標準装備なのかもしれないし。

 そう自分ひとりで納得しようとしているグラウスの前で、ガーゴイルたちは一斉に拳《こぶし》を握り、いきなり天に向かって突き上げた。

「そして! あたしたちは!! お姉様にメイド服を着てもらい隊!!!!」
「は?」

 理解が追いつかない。
 ルチナリスたちは此処《ここ》を通ったのか? こいつらと何があった? あの小娘はまたわけのわからないものに首を突っ込んでいるのか!? と、グラウスが頭を抱えかけたその時。

 廊下の先に立ち並ぶ扉のひとつが破壊音を立てて弾け飛んだ。




 最初に思ったのは、自分たちと同様、隙をついて忍び込んだ者がいたのかということだった。
 紅竜は今や名実ともに魔界の王と言ってもおかしくないだけの権力を有している。多くの支持を集める一方、その裏ではあらぬ疑いをかけ、または何の罪かも知らせることもないまま葬り去った者が多くいるとも言われている。
 そしてその最も有名な噂が「弟に近付いたから」というものだ。
 真偽のほどは定かではないし当人も否定しているが、人の口に戸は立てられない。第二夫人の葬儀の際に青藍とアイリスに絡んで連行されたきり行方不明になっている青年ふたりを始め、「何時《いつ》の間にか姿を消」す者のほとんどがその前に青藍と接触していたとなれば、噂が立つのも当然だろう。

 その噂は紅竜が当主に就任してからこちら、途切れることがない。
 事実であるのなら紅竜に怨みを持つ者は多いはずだ。手に負えない放蕩《ほうとう》者ならともかく、その多くは将来を有望視されていたであろうから。
 大勢の客人を呼び寄せ、入り込むのも容易《たやす》くなっている今、自分たちと同じように侵入を試みる者がいないとどうして言えよう。


 だが僅《わず》か数秒後。
 砕け散る扉の破片と共に白銀の鎧が弧を描いて横切っていくのを目の当たりにしたグラウスは、その推測が間違っていたことを思い知らされた。

 仲間と呼ぶにはその肩書きが微妙だが、この城内において敵か味方かの2択を迫られれば間違いなく味方を選択するであろう、しかし人間界に戻れば敵となる、そんな微妙な立場の者。
 通称、勇者。
 魔族討伐を主だった役目とする職業《ジョブ》の男だが、紅竜に恨みは抱いていない。
 隙をついて忍び込んだ、という部分は合っているのではないか、と思われるかもしれないが……ルチナリスが言うには、彼は道に迷うとナチュラルに異世界に行ってしまう人らしいので、今回も「ナチュラルに」来てしまった確率のほうが高い。

 彼はロンダヴェルグで別れて以降、行方知れずで、結局魔界入りまで合流できなかった。精霊の鍵を持たない彼が魔界にいるはずがないし、この城に侵入しようと思うこともないのだ本来なら。
 勇者お得意のご都合主義も(戦力が増えるのは純粋に有難いと思わなければいけないところなのだろけれど)此処《ここ》までくると優遇され過ぎて腹が立つ。

 が、それも置いといて。


「ルチナリス!?」

 破壊された扉と共に弧を描き、反対側の廊下の壁に激突した白銀の鎧が抱え込んでいたものに、グラウスもアンリも駈け寄らざるを得なかった。
 別れた時とは衣装が違っているが、鎧が抱えているのは間違いなく10年もの間面倒を見てきた(当人には面倒を見てもらった自覚などないだろうが)娘。しかし、宙を飛ぶほど吹き飛ばされても瞼《まぶた》を開けない。
 命に別状でもあるのだろうか。
 部屋の中にいるであろう敵に――ルチナリスを抱えた勇者を吹き飛ばすほどの敵に――こてんぱんにやっつけられた後かもしれない。何と言っても非力な人間だし、紅竜や犀《さい》にとって……と言うよりも、魔族全員にとって敵となる、「聖女」になるかもしれない娘なのだから。

 ロンダヴェルグで修行に励み、メイシア《大地の精霊》から加護をも受けたくせに全く力を発揮しないことは、魔族の9割9分9厘が知らない。紅竜や犀《さい》も知り得ない。
 だから聖女だと殺意を向けられても仕方がないと言えるのだが、仲間としては力があろうがなかろうが、こんなところで死なれては夢見が悪い。

 しかし頬を叩いても肩を揺すっても、ルチナリスは目を覚まさない。
 ついでに言えばルチナリスを庇《かば》って扉をぶち抜き、壁に叩きつけられた勇者も目を回しているのかピクリともしないが、こっちはフルアーマーだし強運だし死にはしないだろう。
 死にはしないだろうが、置い行くわけにもいかない。
 砕け散った扉の向こう側には彼らを吹き飛ばした敵がいる。
 吹き飛ばすと言うことは当然殺意もある。
 ウサギ1匹なら抱えて走ることも可能だが、鎧だけで20kg越える男と、背は低いが16歳の標準体型の範囲には入る娘(共に意識なし)を連れて、というのは無理がある。


 戦うしかないのか?
 グラウスはふたりを下ろし、部屋の中に目を向ける。
 かつて扉があった四角い穴の向こう側にあるはずの部屋はカーテンでも引かれているのだろうか、廊下以上に薄暗い。


 と、思いきや。


 突然、その四角い穴から黒い蔓が飛び出した。
 グラウスの首に巻きつき、手繰《たぐ》り寄せるように引っぱられる。振り解《ほど》くこともできず、グラウスは引っ張られるまま床に横転した。

「ポチ!」

 咄嗟《とっさ》にアンリが剣を抜いた。グラウスの首に巻きついた黒い蔓に向かって切りつける。
 だが、キィン! と植物らしからぬ金属音を響かせ、剣は弾かれた。刀身が真っ二つに折れ、折れた先はクルクルと円を描いて落ちた。



 この蔓は……!

 記憶がよみがえる。
 これは、紅竜が使っていた蔓に似ている。青藍の身に絡みつき、黒い磔《はりつけ》のようにしてしまっていたあの蔓に。
 右肩の骨を折った、あの蔓に。



 だとすると、この部屋の中にいるのは紅竜なのか!?
 グラウスは首を巡らせる。だが、部屋の中を見ることはできない。
 そしてそんな行動を嘲笑《あざわら》うかのように、蔓はキリキリと締め上げてくる。
 その時だった。


「お嬢様!」

 柘榴《ざくろ》の声が聞こえた。



 彼《柘榴》がお嬢様、と言うならば、それはアイリス以外にない。
 何故《なぜ》こんなところに、とその偶然を疑いたくもなるが、よくよく考えなくても、もう子供は寝る時間だ。ルチナリス曰《いわ》く夜更かしは美容に悪いし、夜会自体は明日も明後日も催される。今日のところはもう寝ようと戻ってきたところかもしれない。


 呼吸困難で薄くなりつつあるグラウスの視界に、見知った少女の姿はない。
 ないが、かつて青藍の味方だからという理由で自分《グラウス》までも助けてくれた彼女になら、意識のない勇者とルチナリスを任せることもできるだろう。
 柘榴《ざくろ》も今でこそ気丈に振る舞ってはいるが、長時間、水に浸かっていた弊害で体の何処《どこ》かに支障が出てくるかもしれない。だから、できることならルチナリスたちと共に彼《柘榴》も預けたい。


 だが、その前に懸念がひとつ。

 この蔓だ。
 自分の首に巻きついてるこの蔓は、勇者とルチナリスを扉ごと吹き飛ばすほどの威力がある。そして飛び出して来た部屋の中には、この蔓を操っている人物が隠れている。
 それが紅竜か、紅竜以外の誰かかは知らないが……アイリスに被害が及ぶことだけは避けなければ。

 何処《どこ》にいる?
 近付いては駄目だ。彼女の性分なら、自分《グラウス》が蔓に首を締められていると知ったら、逆に駆け寄って来かねない。