16-5 灰




 城主の寝室ではその部屋の主《あるじ》がずっと眠り続けている。
 止血はしたが未《いま》だに傷口は塞がらない。こんなことは今までなかった。
 やもすれば止まってしまいそうな浅い呼吸を、グラウスは何度も確認する。確認していないと、何時《いつ》の間にか失ってしまいそうで……その恐怖がジクジクと心を蝕《むしば》んでいくのを感じる。

 急所を外したとは言え、刺さったのは魔剣だ。どれだけの魔力が吸われたのかもわからない。
 血が止まらないのは魔力低下のせいだけだろうか。何か他に、呪いの類《たぐい》をかけられていなければ良いのだが。


 剣が刺さった瞬間、炎の竜が一気に霧散した。
 花弁《はなびら》の形を取ることもなく細かい霧となって消えていく中で、体が仰向けに倒れていくのが見えた。
 何を掴むでもなく宙を漂う白い手が。
 剣を引き抜いた時に舞った紅い滴《したた》りが。
 その一瞬。
 とても綺麗だ、と、思った。




「本当はあの子供を預けるおつもりなどないのでしょう?」

 勇者が来たと呼びに行って、ルチナリスたちと別れた後。数歩先を歩く背中にグラウスはそう問いかけた。
 この廊下の先には勇者がいる。自分たちの、そして目の前のこの人の命を狙う者が。
 数えることもできないほど何度も行き来した場所だが未《いま》だに慣れない。あの突き当りの扉を開けたら最後、2度と此処《ここ》に戻って来られないかもしれない、と言うことに。

「どうせ町長のところに預けても不幸になるだけだったら、此処《ここ》に置いておいたほうがいいんじゃないかな、とは思った。かな」
「それは、」

 魔王を続けると言う意味ですか?
 此処《ここ》に、私の傍《そば》にいて下さると、そう言う意味ですか?
 尋ねたい言葉はどうしても喉に引っかかったまま出てこない。

「前にさ、るぅが俺と似てるって言ったことがあったよね」
「ええ」
「どんな人生だったとしてもさ。死ぬ時に ”自分は生まれてこなければよかった” って思いながら死ぬことになったら、悲しいよね」


 風が吹く。
 ふわりと香ったのは何の匂いだろう。グラウスはあたりを見回す。
 歩廊の端に、蕾を抱えた月下美人が見える。あの花の匂いだろうか。あの花は咲く前から香るのだろうか。

 
『――兄上はお前みたいな下賤の血が、って』


 あなたの中で、あの日の姫が泣いている。
 今もなお……呑み込まれそうな大きな月を背にして。


「お前にはわかんないかもしれないけど」
「……わかります」

 初めてあなたに会った時。私はあなたに笑っていてほしいと思った。
 あなたが生まれ落ちてからずっと背負って来た苦悩を、少しでも和らげることができたら、と。
 家も兄もいない世界の片隅で、その役目が他の誰でもなく自分であればいい、と。

「紅竜様が何と言われようと、私は、あなたに生きていてほしいと思っていますよ」
「それをるぅとあの子にも思ってくれると嬉しいんだけどな」
「……善処します」
「お前はいっつもそう言う」


 ルチナリスもあの子供も、私にはどうでもいいことだ。
 でも彼女らの幸福を「あなた」が望むのなら。それで「あなた」が笑ってくれるのなら。
 私はその願いを叶えるべく生きるだけ。

 そう、思ったのに。





 ホールに狂ったような笑い声が響く。
 糸が切れたように青藍の体が傾《かし》ぐ。
 勇者が剣を引き抜き、握り直す。倒れ伏した青藍に再び切っ先を向ける。
 その身を横から弾き飛ばした。
 床に転がった剣に勇者が手を伸ばすよりも早く、その刀身を踏みつけてへし折った。
 折れた箇所から燃え上がるような熱が走ったのは錯覚ではない。これは魔剣に吸われた魔力。魔王の、炎の力。

 勇者は引きつった笑い声を上げる。男のものとは思えない甲高い声で呪詛《じゅそ》を紡ぎ続ける。
 殴りつけても、氷の飛礫《つぶて》をどれだけ打ち込んでも、その笑い声が止むことはなく――。

「それより早く坊《ぼん》の怪我を、」
「殺すのは、坊《ぼん》は望んでないっすよ!」

 ガーゴイルたちに止められなかったら殺していた。
 いや。殺してしまいたかった。
 血だらけになって転がる男の口からは、なおも続く笑い声と、紅《あか》い泡が溢《あふ》れていた。


 今思えば、あれは本当に笑っていたのか。ただ耳に残っていただけなのか。
 そして。




 未《いま》だもって青藍は目を覚まさない。
 ちょうど同時期に眠り病が発病して、そのせいで目を覚まさないのかもしれない。でも。もしそれだけではなかったら。
 扉に背を向け、グラウスはベッドの傍《かたわ》らに腰をおろす。

 あの幼子《おさなご》を責めることはできない。
 この城に現れてまだ半日ほど。言葉の意味を理解するようになってから数時間だ。ホールに近付いてはいけないと教える暇もなかったし、青藍の正体も、その仕事も教えてはいない。
 さらに、器だけは急成長したが中身が伴っているかも怪しい。数時間で善悪の判断がつけるほど育つとは思えない。
 そんな十中八九人間ではない成長を遂げているのだから、結界で封じたはずのホールにいきなり現れるような芸当をしても不思議ではない。
 そう、頭ではわかっているのだけれども。


 私は、「あなた」に生きていてほしかった。
 私の傍《そば》で。
 私の隣で。
 ルチナリスやあの子供などどうでもいい。ただ、あなただけいればよかった。


『――俺が消える時は、傍《そば》にいてくれる?』


「……もちろんです」

 目を閉じたままの人の手に、グラウスはそっと自分の手を重ねる。




 結局あの勇者は腕の骨を折るだけで放り出すことになった。腕の骨を折ったところで止められ、それ以上はなし得なかったと言い換えてもいい。
 いつもなら城内での戦いの記憶は消してから外に出しているのだが、青藍が意識不明の今、その術を処すことはできなかった。それだけが気がかりだが、最後は魔剣に自我を呑み込まれて廃人のようになっていたから、外で言いふらしたところで信用する者もいないだろう。
 その剣のほうも……いつもなら勇者と共に外に放り出すのだが、魔剣ということで封印して魔界送りにした。2度と誰かが手にすることはないだろう。

 剣と腕を失った以上、あの男は2度と自分たちの前には現れまい。
 こんなことは2度とあってはならない。


「とうとう坊《ぼん》にも黒星が」
「……まだ、負けていません」
「気持ちはわかるっすけどね、グラウス様。命があっただけ良しとしなきゃあ」


 魔王に剣を突き立てただけだ。死んではいない。
 それに自分たちには倒されたのだから、勇者の勝ちとは言えない。ラスボスとその前哨戦《ぜんしょうせん》が入れ替わっただけのことだ。

「私たちが生き残っていることと最終的に奴《やつ》が倒れたことを鑑みれば、奴《やつ》の勝ちとはなりません。青藍様は負けていない!」


 今回の件を本家に知られるわけにはいかない。あの兄なら、これ幸いと魔王役交代を言ってくる。
 そしてそれは、本家に戻ろうかと揺れている青藍の背中を押すことになりかねない。

 そうだ。
 報告書を上げずに揉《も》み消してしまえば。
 もしくは魔王が動けなくなったということを書かなければ。
 青藍が回復するまでは自分が代理で出ればいい。
「悪魔の城」が稼働していれば気付かれない。
 今までもそうしてきたんだし、これからもそれでどうにかなる。


「報告を上げなくたって、本家には知られてるっすよ」


 ガーゴイルの声に、グラウスはその声がしたほうを振り返る。
 何故《なぜ》だ? 報告書を捏造《ねつぞう》し青藍も連絡しなければ、本家《あの男》に知る術《すべ》などないはずだ。
 それとも他にあるのか? 以前、アドレイが「誰かが城に入り込んだ形跡がある」と言っていたが、それが本家の密偵だったとでも言うのか?
 それとも、それ以前から入り込まれていたのか? 内通者がいたのか? ガーゴイルはそれが誰か知っているのか? 知っていて隠していたのか? それは誰だ。知っている奴《やつ》なのか? 

 疑いはブクブクと膨らんでいく。

「お前たちは、何を知って、」
「坊《ぼん》から連絡が途絶えた時点で紅竜様は何かあったと思うっすよ。
 それに正直な話、坊《ぼん》は本家に戻ったほうがいいんじゃないすか? あっちのほうがちゃんとした医者にも診てもらえるし」
「今日みたいなことはきっとまたあるっす。その時の坊《ぼん》は、今よりもっと悪くなってるっす」
「それは……わかってます」

 わかっている。
 青藍が此処《ここ》にいることは、彼のためにならないということを。
 自分の願いは、もう、ただのエゴでしかないということを。
 それでも。

 あの子供が乱入してこなければ負けたりはしなかった。
 今のこの時がこれからもずっと続いていた。続いて、ほしかった。


 ――アノ 子供ガ イナケレバ。
 ――アノ 子供カラ 目ヲ 放サナケレバ。

   誰ガ?

   誰? 

   ……ソウ。”るちなりす” ガ。


 メイドの仕事に子育ては入っていない。しかし自分で世話をすると頑《かたく》なに言いきった以上、放り出すのは無責任が過ぎる。それをするのは子供だけだ。
 素人《しろうと》にしては頑張っていた、と青藍なら評価するだろう。
 しかし、この事態を招いた原因に彼女が目を離したことが含まれるのなら、私は評価などできない。


 青藍が眠っている時間は確実に長くなっている。
 本家に戻っていたあの日、彼が紅竜の放った黒い蔓に囚われたことはルチナリスもガーゴイルたちも知らない。
 ソロネはあの蔓に酷似したものを「闇」と称した。いつか「闇」に呑まれてしまうのだと。

 こうして眠っている間にも闇の浸食は続いているのだろう。1滴の水がゆっくりと紙に染み込んでいくように。
 そして……水の染み込んだ紙は脆《もろ》くなる。


 このまま闇に全て呑み込まれてしまったらどうなるのだろう。
 2度と目を開けることはないのだろうか。
 笑いかけてくれることも、名前を呼んでくれることもないのだろうか。
 あの聖女候補であった娘のように、自ら姿を変え、攻撃してくるのだろうか。
 闇の中で蠢《うごめ》いていた髑髏《どくろ》のように、死してなお闇に囚われ続けるのだろうか。

「青藍様、私は……」

 何処《どこ》までも続く空の下の、その何処《どこ》かにいるのならまだましかもしれない。
 鳥でも花でも風であっても、生まれ変わってくれているならそれでも耐えよう。
 でも。

 あなたの存在しない世界に何の価値もない。
 そんな世界など、いらない。

「一緒です。生きる時も、死ぬ時も……死した後も」

 私はあなたを誰にも渡しはしない。兄にも、冥府の王にさえも。

「だから、」

 ……そうなる前に、あなたを。
 その血もその肉も、その魂すらも。
 手に入らないのなら、失う前に自分だけのものにしてしまえばいい。
 そうすれば、もう、何も怖くない。


 重ねた手に力を込める。
 掌《てのひら》の中で骨と筋が軋《きし》む感触が伝わる。

 手始めにこの手を。
 そして次に足を。
 少しずつ自由を失っていくあなたはどんな顔で私を見るだろう。

 もうあなたはひとりにはなれない。
 何処《どこ》にでも行けるが故《ゆえ》の孤独より、何処《どこ》へも行けないが為の幸福を。


 視界の端に黒い影が蠢《うごめ》く。
 ギシ、とベッドが音を立てる。