21-9 漆黒の暗殺姫3




 蔓《つる》の表面を氷が走るように覆っていく。
 それだけではない。グラウスの下半身に巻きついている蔓も、足元に広がる蔓も、そしてアンリやルチナリスたちに迫っていた蔓もがグラウスを中心にして凍りついていく。
 蔓だけではなく、彼の真向いにいるアイリスをも。

「先に行って下さい。私が止めている間に」

 グラウスは背後を振り返ることなく言い放った。
 今やアイリスの蔓は廊下を覆っている。網目のように、格子のように絡み合って前後を塞ごうとしていたその蔓は、しかし今、その動きを止めている。小さな隙間しか残ってはいないが、これ以上狭《せば》まることがなればアンリでも辛《かろ》うじて通り抜けることはできるだろう。 
 だが。

「行けっつったって、」

 アンリは剣を鞘に戻したものの、逡巡する。
 以前、紅竜の放った黒い蔓と戦ったことがあるが、アイリスの蔓も同じだとすればグラウスひとりでは勝てる見込みは少ない。自分の右目はその時の戦いで失ったのだ。

 戦闘中に庇《かば》わなければならない者などいないほうがいい。だが今、既《すで》にルチナリスとエリック《勇者》がふたりして戦闘不能に陥っている。
 自分《アンリ》が守っているとは言え、まるきり気にしないで戦えるはずがない。現に今だってグラウスは自分たちに迫っていた蔓までも凍りつかせている。
 だとすれば、彼《グラウス》ひとりに任せるのは不安が残るけれども、アーラの町での特訓の成果が出ることを期待して、自分は使えないふたりを抱えて退場するのが正解なのだろう。なのだろうが、この展開はかなりマズい。
 エリックなら、

『此処《ここ》は任せて先に行け、って死亡フラグだよね』

 と必ず言うであろう、「物語終盤の盛り上りによく使われる、主人公を先に進ませるために仲間が犠牲になる展開」だ。流石《さすが》に置いて行ったからと言って必ず死ぬわけではないだろうが、そういう事例があるとなれば置いて行くのも|憚《はばか》られる。

 考えている間にも氷の勢いは止まらない。
 アイリスに向かっていた氷は今や彼女の胸から下を完全に覆っている。そして床に座っているルチナリスたちにまで氷は情け容赦なく迫ってきている。
 自分たちに背を向けているグラウスに凍りつかせる先まで気を遣《つか》えと言うのは酷《こく》と言うものだろう。行く手を遮ろうとしていた蔓も今なら剣で叩き折ることができそうだし、ここはもう考えずに行動するしかない。
 アンリは柄に手を掛ける。
 その時だった。

「それが答えなのね。残念だわ」

 氷の中でアイリスが鼻白むように嗤《わら》った。

「他人のために犠牲になる自分って素敵?」

 そんなになってもまだ動けるのか、嗤《わら》う余裕があるのかと思う間もなく、ピシッ! と亀裂が走る音がした。

「そのために自分の未来を、欲しかったものを諦めて。そんな友情ごっこの何処《どこ》に得があるの? その偽善のために青藍様に会えなくなるのに。馬鹿ね」
「勝手に決めないで下さい。私は青藍様を諦めた覚えはありません」


 気のせいでも空耳でもない。滑るようにして氷塊が真っ二つに割れ、動きを止めていた蔓が再びもの凄い勢いで蠢《うごめ》き始めた。
 そして柘榴《ざくろ》を吊り下げていた蔓も。
 しなったかと思うと、まるで廃棄する際に手が汚れた、と、ゴミに必要以上の憎悪を抱いてしまったかのようにその身を床に叩きつける。その投げ方には未練も躊躇《ためら》いもない。


「それが気に入らないのよ!!」


 咄嗟《とっさ》に手を伸ばしたグラウスだったが、届くことはなかった。
 邪魔をするなとばかりに、首に巻き付いた蔓に引っ張られる。



 誰もが床に叩きつけられるだけだと思った柘榴《ざくろ》だったが……。



 奇跡が起きた。
 そこに飛び込んで来たミルの手によって、柘榴《ざくろ》は床に叩きつけられるのを免《まぬが》れたのだ。

 ミルは片手で柘榴《ざくろ》を持ち直し、アンリに向かって放り投げる。
 受け取ったがどうかを確かめることなく剣を抜き、右足を捻《ひね》って身を翻《ひるがえ》すと同時にアイリスの腕に――グラウスの首に巻きついている蔓に――その剣を振り下ろした。

「お嬢!」 

 柘榴《ざくろ》の身柄を確保したアンリが叫ぶ。語彙力の欠片《かけら》もないが、咄嗟《とっさ》の時に大したことは叫べないものだ。
 そんな中、ミルは確実に蔓を断《た》っていく。
 流石《さすが》は退魔の剣と言うべきか。アンリやグラウスが太刀打ちできなかった蔓をいともたやすく切り刻むことができるのは、封じた呪符のおかげだろう。
 蔓は切られた箇所からボロボロと崩れ、霧散する。


「邪魔なのよ!」

 蔓を切り落とされたアイリスの袖から新たな蔓が生える。その蔓をミルに向かって振り下ろす。
 ミルはその蔓を飛んでかわし、そればかりか足掛かりにしてさらに跳躍を試みる。アイリスの頭上へと。


「やめろ!お嬢! その娘は」
「知っている!」

 何を知っていると言うのか。
 だが、それを問う暇など何処《どこ》にも、誰にもない。

 頭上のミルに向かってアイリスが再び蔓を振るう。
 どう見ても人の腕ではないそれを足で払い除《の》け至近距離に入り込んだミルは、身を屈めながら剣を持ち替え、柄頭《ポンメル》でその喉を突いた。
 アイリスが、ぐ、と声を漏らして倒れ込む。
 その隙にミルはグラウスを開放し、アンリ達に向かってその背を押した。




「此処《ここ》は私が残る。アンリ先生は皆と先へ行ってくれ」
「姐《ねえ》さん、それ死亡フラ、」

 遮《さえぎ》るように声を上げたトトを片手で掴《つか》み、ミルはグラウスに押し付けた。

「連れて行け。元はと言えばお前の、だろう」

 何時《いつ》から自分の手元を離れていたのか全く覚えがなかったグラウスとしては、トトに関しては今更所有権を主張するつもりなどないのだが、そのあたりは黙ったまま受け取る。
 精霊は非力な者が多い。ジルフェやメイシアのような例外はいるが、ごく一般的な精霊は昆虫にすら捕食されてしまうほどで、だから魔族は彼らの保護を交換条件として使役しているのだ。トトもサイズ的に言って大した戦闘力はないだろうから、置いて行けばミルの負担にしかならない。
 だが。

「……ひとりで戦うよりは3人のほうが勝率は上がります」

 もしくはアイリスが昏倒している今、全員で逃げるか。少なくともミルひとりを置いて行くというのは得策ではないはずだ。

 とは言え、アイリスを倒すことに抵抗がないはずもない。敵意を剥《む》き出しにしてきた顔も名前も知らない他の連中とは違って、アイリスは味方で知己《ちき》だった。闇に操られているだけであろう彼女を他の奴らと同じように葬り去るのは……。

「できないだろう?」

 ミルは倒れたままのアイリスを一瞥《いちべつ》すると、再びグラウスに目を向けた。
 冷淡な目をしている。ロンダヴェルグ聖騎士団員としては魔族《悪魔》は女子供であろうとも敵。たとえ今は非力そうに見えたとしても、成長すればひとりで数十人の人間を殺傷する能力を持つとわかっている相手を前にして見逃すという選択肢はないのだろう。
 それにアイリスは自分《グラウス》や柘榴《ざくろ》、そして勇者《エリック》やルチナリスにまで危害を加えている。味方として、または友として目の前に現れたアイリスを知っている自分《グラウス》たちと、悪魔の手によって|ロンダヴェルグ《住処》を壊滅させられたミルとでは、映る姿も違えば抱く感情も違う。

 だが、それとミルひとりを残すこととは別だ。


「お嬢は……ルチナリスを守るのが仕事だろう」

 アンリも苦い顔をしている。
 このメンバーの中で、ミルとトトだけは部外者。戦うことも辞さない覚悟で此処《ここ》に来た自分たちが戦わずに、部外者のミルに任せるのは違う、と、彼《アンリ》もわかっているに違いない。


「彼女には、私の剣しか効かない」

 そんなグラウスやアンリの想いをどう受け取ったのか、ミルは腰の剣を軽く叩いた。
 残っている呪符があと幾つあるかは不明だが、退魔の剣しかアイリスに効かないと言うのはただの誇張ではなかろう。先ほどは蔓も切っていたし、対・悪魔と考えた時にこのメンバーで最も攻撃力を出せるのは、多分、ミルだ。



「いや、お嬢には任せられねぇ。俺が足止めする。この中じゃ俺が一番場数《ばかず》を踏んでるしな」

 アンリが首を振った。
 最もダメージを叩き出せるのがミルだとわかっていても、置いていくことはできない。それはアンリもわかっているだろうが、何故《なぜ》ひとりだけ残る選択肢しかないのだろう。
 彼《アンリ》は確かに場数は踏んでいる。城内にも1番詳しい。アイリスを倒した後で先行している自分たちに追いつくことも、アンリのほうが早く合流できる。しかしだ。

「だからどうしてひとりだけ残らなければならないんです。此処《ここ》は皆で、」

 口論している場合ではないのだが、ミルは首を縦に振らない。
 今の今まで特に主張らしいことをしないまま付いて来た彼女にしては珍しいほど頑《かたく》なだ。

「お手手繋《ててつな》いで一緒に、という性分ではないのでな。遠慮する」
「だから俺が残るって、」
「アンリ先生には無理だ。わかっているだろう」
「それを言うなら! ……あ、いや、」

 声を荒げて何かを言いかけたアンリは、そのまま口籠《くちごも》った。
 気圧《けお》された、と言うよりも何かを隠しているように見える。アンリとミルだけが知っていることを、彼ら以外の――自分たちに。


 そう言えば言っていなかったか?


『やめろ!お嬢! その娘は――』
『知っている!』


 何を知っている?
 グラウスはミルを、そしてアンリを見る。アンリがミルの同行を簡単に許したのも、もしかしたらその「知っている」ことが理由なのか? ミルとアイリスには因縁があるのか? アンリはそれを知っているのか?

「……あなたは、」
「駄目だよ! 他に策はあるはずだよ!」 
「エリック! 目ェ覚めたのか!?」

 グラウスは問い詰めようと口を開きかけたその時、今の今まで意識がなかった勇者《エリック》が頭を抑えながら身を起こした。放り投げられ、叩きつけられたとは言え、やはりフルアーマーの防御力は伊達《だて》ではなかったらしい。

「あー目の前が真っ暗だー。きっとこれは僕が生と死の境目にいるからに違いない。声は届けど姿は見えず。よくあるよね、死にかけている主人公が”お前の顔が見えないんだ……”とか言ってヒロインの頬に手を伸ばすアレ。ああ、いや、ヒロイン役がいないからって無理にヒロインやらなくていいからね!? 僕だってオッサン相手にそんなことをする趣味は、」
「……兜が後ろ前になってるだけだ」
「あ? なぁんだ」

 コント展開も忘れないのは勇者の鑑《かがみ》と言うべきだろうが、死亡フラグがかかったシリアス場面であるが故《ゆえ》に笑えないし、場違い感が半端ない。

 頭を抱えるグラウスの気持ちなど伝わるはずもなく、勇者《エリック》は兜を被《かぶ》ったまま、180度クルリと回す。嗚呼《ああ》! 何故《なぜ》こうもやることがいちいちギャグ漫画じみているのだこの男は。


「って言うか、イチゴちゃん、どうやって倒すつもりさ。浄化するの?」

 が。
 やっていることは間が抜けているが、指摘は鋭い。

 そう。彼女の剣は退魔の剣。アイリスにも効果があるであろう剣。
 だがその効果とは。
 呪符の力で魔族《悪魔》を浄化する《滅する》こと以外にないじゃないか。



「アイリスさ、いや、様は……僕が見た限りでは闇に呑み込まれている」

 |勇者《エリック》は唐突に勿体つけて切り出した。座り込んだままの体勢でそれをやると、麻酔針で眠らされて主人公の推理を代弁させられる名探偵のようだが、そのツッコミはやめておく。

 アイリスは未《いま》だに起き上がっては来ない。
 来ないが時間の問題だろう。のんびりとラスト15分前の探偵もののように「主要メンバーの前で種明かし」をしている暇などない。


「その闇を取り除くことができければ、それが1番いいんだよ。そうでしょ?」
「そりゃあそうだけどよ」


 勇者《エリック》とアンリの会話を聞きながら、グラウスは考える。
 闇を抜けばいい。青藍が自分《グラウス》の身から闇を引っ張り出したように。
 彼女《アイリス》が闇に呑まれてどれほど経《た》っているか、闇とどれだけ同化しているかによるのだろうが、|自分《グラウス》は闇が抜けても記憶が残った。|勇者《エリック》の妹同様、アイリスも体が黒い蔓になるほどまでに同化しているから何ごともなく元通り、とはとても言えないが、浄化《殺》してしまうよりは救いがある。
 だが、どうやって。
 アイリスから闇を引き抜くことができたとして、その闇は。
 自分の体に乗り移らせることはできない。無論、他の誰の体にも。青藍はそれをやって自身を闇に堕《お》としてしまった。


「で? アイリス嬢の闇を取り除けばいいとして、どうやって」
「例えばさ、あの蔓を全部切ってアイリス……様から切り離すとか」
「首から下、全部蔓だぞ?」
「あ、そっかー」

 そして。
 緊張感がないのは勇者《エリック》の性分だから仕方ないとは言え、埒《らち》が明かない会話は続く。
 そうしている間にも蔓の動きを止めている氷は溶けてきている。いつもならもう少し凍らせておくことができるのだが……フロストドラゴンを出してからまだそれほど時間が経《た》っていないから、魔力が回復しきっていないのだろう。
 再度凍りつかせることはできる。できるが、今後のことを考えれば魔力はできるだけ温存したい。そのためには敵のど真ん中で迷推理を聞いている暇などない。


 闇の蔓からアイリスを切り離す、というのは良い案かもしれない。浄化以外で闇を失くす。アイリスを救える方法は他にない。
 ただ、問題はその方法。


「何か……何か。そうだ、炎! とか、は!?」

 勇者《エリック》は閃いたとばかりに手を叩いた。
 海の魔女事件の際、彼の妹が抱えていた闇は、青藍の放った火柱に呑み込まれて消滅した。記憶は全て消えたが命は残った。
 ソロネはメグ《妹》と共に自滅する前に、闇が彼女を捨てて逃げたのだろうと、そう言っていた。
 炎が闇に効くなんて聞いたことがない、とその時の彼女《ソロネ》は言っていたが、祭儀などで火を焚《た》くのは穢《けが》れを祓《はら》う意味があったりもする。先例がなかったのは誰も闇に炎を当てることを試さなかっただけ、と言うこともある。

 だがしかし。

「この面子《メンツ》で、炎なんかどうやって出せって言うんだ」

 所詮《しょせん》は机上の空論。炎属性がひとりもいないメンバーでどうやって。
 アンリが苦渋の表情を浮かべるのが見えた。




 あちらこちらから、パリン、パリン、と氷が砕ける音がする。
 蔓がゆっくりと、だが確実に息を吹き返していく。
 蔓が動くと言うことは、とアイリスを見れば、仰向《あおむ》けに昏倒したままではあるが、シュウシュウと音を立てて黒い霧を吐いている。
 あれも勇者《エリック》の妹の時と同じ。彼女《妹》はあの黒い霧を纏《まと》って姿を変えた。そして紅竜も……。
 グラウスの脳裏に半年ほど前、此処《ここ》を訪れた時のことが浮かぶ。
 第二夫人の葬儀でこの城に来た時のことだ。自分《グラウス》は確かに紅竜の胸を貫いた。
 なのに噴き出したのは血ではなく黒い霧で。その霧に掻き消されるようにして紅竜は姿を消して。

 この先に進めば現れるであろう紅竜とも、今回のアイリス戦と同じく蔓を相手にする羽目になるだろう。ミルの剣に付いている退魔の呪符は1個で魔族1体を浄化できる代物だが、それをミルは蔓を切るためだけに何個も使っている。
 アイリスから延びる蔓はアイリスひとりだけの闇ではないのか。紅竜が見せた闇の中で蠢《うごめ》いていた髑髏《どくろ》のように、数多《あまた》の魂が入り込んでいるのか。どういう理由かはわからないが、今現在、蔓を切ってもアイリス本体は浄化されずに済んでいる。
 心置きなく蔓が切れるのは良いことだが、そのせいで呪符を多く使わざるを得ないことも確かで。
 ミルを此処《ここ》に置いていけば、(ミルが生き残ってくれたとしても)確実に紅竜戦での決定打は失われる。 


「とりあえず撤退だ。命がありゃあどうにでも立て直せる。ルチナリスが目ぇ覚ましゃあ……あんまり変わんねぇかもしれねぇが、青藍を奪還できる機会は必ず来る。此処《ここ》で無理して死亡フラグおっ立てるよりはいい!」

 アンリはそう言うとルチナリスを担ぎ上げ、ミルの肩を叩いた。
 
「お嬢も死に急ぐな」
「……死に急いでいるつもりはないが」


 時間が足りない。
 敵の手の内がわかってきた今、撤退して作戦を練り直すことは悪いことではない。
 数が多ければ力押しで突破することもできるが、少数精鋭ではひとり欠けるだけでも戦力は格段に落ちる。落ちれば敗北する率も、それこそ死亡する率も上がる。

「だがアイリスもルチナリスも私のせいで、」
「お嬢のせいじゃねえだろう。とにかく引け! 今のままじゃアイリス嬢の闇をどうにかすることもできねえ。お嬢だって殺したくは、」
「そうだよ! どうして忘れてたんだろ!!」
「あ?」

 空いた手でミルの腕も掴み、撤退しかけていたアンリは、唐突に叫んだ弟子に怪訝《けげん》な目を向けた。
 でかい声を出すな、と小さくぼやくのが聞こえたが、何か閃《ひらめ》いたらしい勇者《エリック》は止まらない。アンリに駆け寄るとルチナリスを担ぎ上げている左腕を掴《つか》み、力任せに揺すっている。

「そうなんだよ! ねぇ、どうして領主様の炎は闇を消したんだと思う!? それは、」
「後にしろ!」

 肩からルチナリスがずり落ちそうになって、アンリは思わずその手を振り払った。
 アイリスが目覚めるまでにもう時間がない時に何を言い出すのやら。疑問は後から聞く、とばかりに身を翻《ひるが》したアンリに構わず勇者《エリック》は続ける。

「ねぇ! 領主様って……何者?」
「何者って、青藍は青藍だろうが」

 アイリスを御《ぎょ》す方法を思いついたわけではないのか?
 この男《エリック》の思いついた推理を垂れ流さないと気が済まない性分は今に限ったことではないが、まわりの命にも関わるんだからTPOをわきまえろ。99%の創作とでっちあげで組み立てたホラ話をありがたがるのは暇を持て余した金持ち《ノイシュタインの町長》だけだ。
 そう言いたいのだろう。流石《さすが》のアンリも殴り掛かりそうな顔をしている。両手が塞《ふさ》がっていなければボコボコに殴った挙句《あげく》、窓から投げ捨てている。


 大悪魔メフィストフェレスの次男。紅竜の異母弟。魔法属性は炎。
 母の第二夫人は人間で、だから魔族としては血が薄いはずだけれども何故《なぜ》か純血の魔族よりも強大な魔力を持って生まれた。多分に大悪魔である父の影響を受けたものと思われる。
 その強大な魔法力は紅竜の嫉妬の的となり、また魔眼と共に他の数多《あまた》から狙われる元ともなり、だから公に出されることもなく、ずっと城の外を知らないまま生きてきた。
 それだけだ。勇者《エリック》は人間でそこまで詳しくは知らないから疑問に思う点があったのかもしれないが、別段引っかかるところは何もない。


「大がついたからって悪魔は悪魔なわけでしょ? どうして闇が消せるの? 闇を消すことが出来るのは、聖女だけなのに」
「だぁぁぁかぁぁぁらぁぁぁぁあ! それは炎が、」
「これだけの闇を、本当に炎だけで消せると思う?」
「何が言いたいんだお前は!!」


 もうどちらの声が大きいなどと言っている場合ではない。
 これだけ騒ぎ立てればアイリスだって起きてしまうだろうに。
 グラウスとミルはチラチラとアイリスの様子を窺《うかが》う。彼女が目覚めればもう撤退なんて悠長なことは言っていられない。


「俺は青藍を小《ち》っせえ時から知ってるんだ。お前が疑問に思うことなんざ何もねえ!」
「此処《ここ》に来るまでにソロネちゃんとも話してたんだけどさ」

 勇者《エリック》はアイリスを警戒しながらも言葉を続ける。

「前《さき》の聖女様はグラストニアで消息を絶った。彼女が消えてから、グラストニアはもう襲われることはなかった。だよね?」


 何度も悪魔に襲われた港町。
 あの町で出会った老婆は、紅《あか》いイブニングドレスの歌姫、シェリーの声を「悪魔を呼ぶ声」と称した。人々は去り、襲ったところで得るものが少ないとわかったのか、以降、悪魔の襲撃は止んだ。


「あの町が何度も襲われたのは、そこにあるものが欲しかったから、とは考えられない? 襲われなくなったのは、悪魔がそれを手にしたからだ、とは思わない?」
「人間の血肉だろう?」
「違うよ」


 他の町ではなく、グラストニアにだけあったもの。
 悪魔が欲しがったもの。


「あの町を通る時に聞いたんだ。聖女様が悪魔と一緒に町を出て行くのを見た人がいるんだって。聖女様は、悪魔に魂を売ったんだって」


 魂を売る。
 グラウスの脳裏にある光景が浮かんだ。
 前に、ルチナリスに説明したことがある。そう呼ばれるただひとつの魔法があることを。
 その魔法に失敗した者は、悪魔に魂を売った者の末路に相応《ふさわ》しい、むごたらしい死体になると言う――。

「……契、約の、」

 契約の呪文。
 人間のような短い命しかもたない種族に、魔族の命を与える魔法。
 しかしそれはとても高度で、失敗することのほうが多いと言われている。失敗すればその場で死んでしまうと言うのに、それでも契約に挑もうとする人間は後を絶たない。
 そして魔族とて、そう誰彼《だれかれ》構わず契約するわけではない。人間はあくまで食料。食べるよりも手元に置きたいと思わない限り、そんな面倒な魔法を使おうとする者はいない。
 手元に。
 その人間を、伴侶として一族に迎える時以外は。


「知ってるよね執事さんも師匠も。魔族と契約した人間の歌姫の話」


『あの人は人間ですよ。人間だった時はアリアの歌い手として舞台に立っていたと言われています』




「「……第二夫人!?」」

 アンリとグラウスがほぼ同時に叫ぶ。
 叫んで、まさか、とばかりに目を見合わせた。

「そうだよ。領主様のお母さんって人が前《さき》の聖女だったんだ。だから領主様に聖女の力が流れちゃってるんだよ」
「いや、ちょっと待て。だって、ええ!?」


 そう考えれば色々と辻褄《つじつま》がが合う。
 どういう経緯でそんなことになったのかは知らないが、前《さき》の聖女はメフィストフェレスに嫁いだのだ。血縁者に流れることが多いとされる聖女の力は、彼女のたったひとりの息子に流れたのだ。
 しかし彼は娘ではないから完全に流れることはなかった。流れなかった力は受け入れ先を求めてその周辺にいた娘に向かい、ロンダヴェルグはそうして流れ出た力の欠片《かけら》を「次代の聖女候補が現れた」と感じ取った。


「いや、だがな。青藍が産まれたのは80年くらい前で」
「しかし第二夫人が亡くなったのは最近です。それこそ彼の妹君が聖女候補に選ばれたのと同じ頃、」

 アンリの否定をグラウスがさらに否定する。

 第二夫人は契約によって寿命を延ばした。
 前《さき》の聖女の寿命と聖女候補の登場が合わなかったのは、そのせい。


『――どうかしたんですか?』
『いえ、あの湖の形を何処《どこ》かで見たような気が』
『人間狩りで連れてこられた時に見たのでしょう』


 ああ、そうだ。
 メフィストフェレスの城を見た時に、ルチナリスが発したあの言葉、あれは――。

 この城の前にある湖はミバ村の池と同じ形。取り囲む森の位置も同じ。
 第二夫人が亡くなったこの城は、人間の世界ではミバ村に位置する。だからロンダヴェルグの司教はミバ村周辺で前《さき》の聖女が亡くなったと思ったのだろう。
 人間の血に加えて聖女の力まで入っているとなれば、青藍がロンダヴェルグの結界を抜けることなど容易《たやす》い。

 ミルが思い出したように呟く。

「そう言えば、ロンダヴェルグが襲われた時、ティルファ《司教》がルチナリスの義兄《あに》に向かって”シェリー”と、」


 ロンダヴェルグで司教《ティルファ》が「シェリー」と呼んだ時、そこには青藍がいた。
 第二夫人に酷似していると言われている彼が。
 ルチナリスが聖女の力を発したのはその時と、グラウスの実家で祖母を前にした時。そして|グ《勇者の妹》が炎に焼かれて闇を消した時。そのどれにも青藍がいた。ルチナリスと青藍が共にいた。




「でもそんなこと、犀《さい》もお館様も何も」

 納得がいかない様子でアンリが呻《うめ》く。
 わからなくもない。彼は青藍が10歳の時からずっと育ててきた、所謂《いわゆる》義理の父親のようなものだ。犀《さい》と半々とは言え、何十年と見ていればそれなりに責任も愛着も湧くというもの。紅竜の傍《そば》には置いておけないと奪い取ろうとしたことは、他の誰でもなく自分が1番親身になって考えているという自負があったからだろう。
 そこまで思い入れのあった教え子の秘密を知らなかった、教えられていなかったというのは、それはそれでショックに違いない。
 それでも、

「あなたのような脳筋に喋ったら翌日には城中に広まるだろうから、あえて黙っていたのではないですか?」

 だからこそ黙っていた可能性が微レ《微粒子レベルで》存《存在する》。
 得意げに触れ回ったり、当人に話したりは流石《さすが》にしないと思うが、この男の場合、顔と行動にでるからバラしているも同じだろう。

 アンリははた、と気づいたような顔をし、それから髪を掻きむしった。
 以前にもそうして教えてもらえなかったことがあるのかもしれない。敵を欺《あざむ》くにはまず味方から。犀《さい》なら重要事項ほど黙っているだろう。自分《グラウス》ならそうする。
 

 しかし勇者《エリック》の推測が正しいとすると、前当主は第二夫人を「聖女だから」娶《めと》ったことになる。人間たちの防御の要《かなめ》である聖女を魔族側に取り込もうとしたのか。しかしそんな理由、仮にも聖女が納得するはずがない。
 それに聖女を人間たちから奪うだけなら殺してしまえばいいことだ。
 その力を持った子を得るのが目的だとしても、人間は子を孕《はら》んでから産むまでに約1年。契約の呪文を使う必要はない。それどころか、もし失敗してその場で死んでしまったら元も子もない。
 失敗する確率の高すぎる契約の呪文を使ってまで生き延びさせようとしたのは何故《なぜ》だ。


「そういやお館様は、当主に据《す》えるだけなら紅竜でいいと言っていたな。それでも青藍は家から出すな、と」


 聖女の力を持った子を手に入れて、当主に据《す》えるつもりはないけれども外に出すつもりもなくて。
 まさかコレクション目的だ、なんてことはないだろう。
 これには裏がある。意図がある。
 第二夫人はその意図を汲《く》んで魔界に、この城に来、そして子を産んだ。彼女が亡くなった今、真意を知っているのは前当主と、多分、犀《さい》だけ。紅竜が青藍を連れて行ったことや犀《さい》が「花が咲いた」と言った意味とどのように関係してくるか、もしくは全く関係してこないかもしれないけれど、此処《ここ》へきて情報が足りない。

 
「ったく、あなたが小指の先程度の思慮でも持ち合わせていれば多少は教えてもらえていたことでしょうに」
「最近言うことが辛辣《しんらつ》すぎねぇか、ポチ!! 俺はこれでもお前のご主人様を育て、」
「はいはい。敬《うやま》ってますよ、お義父《とう》さん」
「お前にお父さんと呼ばれる義理はねぇ!!」


 青藍がどんどんと手の届かない存在になっていく。
 このことはきっと本人も知らない。知っていれば海の魔女事件で闇と対峙《たいじ》した時も、自分《グラウス》から闇を引き抜いた時も、もっとリスクの少ない方法をとっていたはずだ。闇だけ消し去ることだってできたはずだ。

 聖女の力は光。その力は魔族を滅する唯一の力とも言われている。
 前当主は魔族を滅ぼしたかったのか? いや、まさか。
 

「それじゃあアイリス嬢ちゃんをどうにかするには青藍がいるってことか? 闇堕ちしてる奴《やつ》にどうやって力を貸せと、」
「今までルチナリスが力を発したと思われる事例から考えれば、近くにいれば何とかなりそうですが」


 自分《グラウス》の実家で彼女が力を発した時、峠だと言われていた祖母は奇跡の生還をした。
 大怪我をしていた父も、弟も、そして10年以上前に銀の矢を射かけられて以来ずっと人間の姿を取ることすら叶わなかった母は再び人間の姿が取れるほどまでに回復した。
 海の魔女と呼ばれた娘から闇が抜け落ちた時も、炎に焼かれたせいだけではなく、ルチナリスの力が加わっていたのかもしれない。だから「炎で闇が消えた」という他の事例がなかったのかもしれない。
 ロンダヴェルグでルチナリスたちが司教を救いに向かった時も、彼女は同じように白い光を発したという。
 砕かれた結晶に圧《お》し潰され、全身を骨折した司教は、それでも一命を取り留めた。
 流石《さすが》はロンダヴェルグの結界をひとりで張っているだけのことはある、と人々からその回復力を称賛され、ロンダヴェルグ復興のシンボルのように見られているそうだが……。

「天使の涙を貰っても、メイシア様の加護を受けても力が出せなかったのは、力を発動するためのスイッチがなかったからなんだね!」

 珍しく推理を肯定されたからか、勇者《エリック》が鼻息荒く息巻く。どんなもんだ、と上を向いた鼻はそのまま蔓の格子を抜け、天井をぶち抜きそうな勢いだ。もういっそのこと天井も床も全部ぶち抜いて、この足止め状態を打開してほしい。

「いや、だけどよ。メグや他の聖女候補は普通に力出してたじゃねぇか」
「それは元々魔法使いの素質があったからだよ! 聖女候補として集められてきた子たちはみんな治癒魔法の使い手だった。聖女の力は癒《いや》しの力って言われているから元々そういう力がある子に目が行ったんだろうね。メグに治癒魔法が使えたかはわかんないけど、僕らはそういう小手先の才能じゃなく”ミバ村の生き残り”を重点的に探してたからさ」

 ルチナリスがミバ村出身だと知って、ソロネは「聖女候補になってみない?」と声をかけて来たという。
 「何処《どこ》ぞの悪魔がミバ村を滅ぼしてしまったせいで候補が見当たらない」と嘆いていたことも思い出す。

 だがしかし。


「それで、どうしたら」

 いろいろな情報が入って来たけれど、だからと言ってこの状況は変わらない。勇者《エリック》のホラ交じりの憶測であることも変わっていない。
 手も足も出ない。
 出せるようになるかもしれない。
 なるかもしれないが……


「何にせよ、ルチナリスが目覚めないことにはどうしようもないということですね」
「それじゃあ撤退だ。無駄に時間ばっか取らすな!」

 勇者《エリック》の推理が当たっていたとしても今のままではどうしようもない。
 アンリは片手でルチナリスを担いだまま、もう片手を蔓の隙間にかけ、力任せにこじ開けようとし……して、止まった。
 何があったのだろう、と一同が見守る中、暫《しばら》く動かなかった彼は、それからやっと思い出したように勢いよく振り返った。

「お嬢!」

 そうだ。彼のもう片手はミルを掴《つか》んでいたのに、何時《いつ》、手放したのだろう。



 振り返った先には仰向けに倒れたままの形で音もなく起き上がるアイリスと、それに対峙《たいじ》するミルの姿があった。
 身を傾けたり手足を曲げたりすることなく、仰向けの形のまま身を起こす様《さま》は、ホラーもので死体がスゥッと起き上がるのを見たような、うすら寒さを覚える。
 あれはもう、アイリスであってアイリスではない。
 自分たちがどうこうできるものではない。


「……タイムアップだ。先に行け」
「いやしかし」
「トト!」

 アンリの反論は無視したまま、ミルはトトに呼びかける。

「さっき私を起こしたアレ、ルチナリスにもかけてやってくれ。それだけで目が覚めるとは思わんが……そのうち起きる。だからルチナリスを連れて先に行ってくれ」


 そりゃあ「そのうち起きる」だろうが。
 心の中では反論しているのに、口から先に出て来ない。
 勝ちが見えない戦いを前にして、盾になってくれるというのなら、という卑劣な考えが舌を縛り付けているようだ。
 此処《ここ》にきて判明した(かもしれない)第二夫人と青藍のトンデモ設定に忘れ去りそうになっていたけれど死亡フラグは回避できていない。
 物語の終盤で、主人公を先に行かせるために残る人は大抵は敵と相打ちになって死ぬ。お涙頂戴シーンとして盛り上がりには必要なのかもしれないが、そのためにミルが死ぬのなら盛り上がりなどいらない。
 そう、思いたいにもかかわらず。

「だから、勝手に殺すなと言っている」

 ミルは苦笑いを浮かべた。

「それにアイリスは私の妹なのだろう? それならなおのこと、私が責任を持たないといけなかろう」

 そう言うとミルはおもむろに剣を抜き、振り払った。
 見えない空気の塊が格子状に絡まった蔓に穴を空ける。この穴ならルチナリスを担いだままのアンリでも通ることができそうだ。

「安心しろ、あの娘は殺さん。しかしこの技は私にしか使えないから……お前たちは邪魔なんだ」

 だが開いたと思ったのもつかの間、その穴を補うように他の蔓が再び絡まっていく。
 先ほどまでのように悠長に話をしてる暇はない。タイムアップ。そう、タイムアップだ。

「何処《どこ》へ行こうというの? せっかく私が目覚めるまで待っていてくれたと言うのに」

 歌うようにアイリスが手を伸ばす。
 床を走ってきた蔓が一行の足に巻きつこうとするのを飛び退《の》いて避《さ》け、アンリは身を翻《ひるがえ》した。

「………………すまん、お嬢!」

 言うなり駆け出したアンリの後を目で追い、躊躇《ためら》うように勇者《エリック》とグラウスが顔を見合わせる。

「行け。後で追いつく」

 ミルはもう目も合わせないまま剣を抜いた。
 チャリ、と鳴った刃の音に、アイリスが剣呑な目を向ける。