19-3 剣士亭と天使の涙




 何時《いつ》見ても不気味だ。
 ルチナリスは部屋の中央に据えられた巨大な結晶を見上げて、何度目になるともつかない感想を頭に浮かべた。
 それでも、結晶自身が部屋中に黒い蔓を放つ元凶のように見えていたものが、最近では黒い蔓に絡めとられて囚われている、と見え方が変わって来た。ほぼ毎日見ているうちに無機物のはずの結晶に対して親近感が湧いて来た表れなのかもしれない。お互い、縛りつけられて大変よね、みたいな。
 ルチナリスは別段、囚われているわけではないのだが、何処《どこ》へ行くにもミルが付いて来るし、何の成果も出さずにこの街を出て行くのは負け犬みたいで悔しいし、出たところで帰る場所もないし、意味不明に過剰な期待が(司教から)圧《の》し掛かって来るし……と、これだけ積まれれば被害者じみた心境にもなるというもので。

 結晶に罪はないのよ、結晶には。これは全部あたしの心の持ちようのせい。
 青に緑に、そしてピンクや赤にと色を変えるこの結晶と同じものが街角に立っていたら、「わあ綺麗」と思う人のほうが多いはずだ。大きさも色合いも待ち合わせの目印にちょうどいいし、夜になればいい感じに雰囲気も出る。「ふたりで手を繋《つな》いで結晶に触ったら恋人同士になれる」なんて謳《うたい》い文句のひとつもでっちあげれば一儲《ひともう》けできそうなくらいで、きっと、誰ひとり「不気味」なんて感想を持つ者はいない。 


「この結晶は近くにいる者の色を感じ取って変化するのです。これはあなたの色なのですね」

 結晶をじっと見たままのルチナリスに司教《ティルファ》が微笑む。

「あたしの、色……?」

 以前、執事《グラウス》にオーロラのようだ、と言われた。その言葉がまだあたしの中に残っているから、こんな色が出るのだろうか。だからと言って、自分の色、と言われたところで不気味だという印象を拭い去ることはできないのだけれども。
 青は義兄《あに》の色。緑は執事の色。どちらもあたしの色ではない。だがピンクや赤がそうかと言えば、それも違う。


「さて。聖女が力を使った時の詳細が知りたいのでしたね。各々《おのおの》の力の出し方が違うので参考になるかはわかりませんが、こちらの文献に」

 司教《ティルファ》は書棚から1冊の本を取り出す。
 勇者と「力を使うには集中できる何かがあればいいのではないか」と話していた雑談の内容が既《すで》に教会で1番偉い人《司教》にまで伝わっているとはこれ如何《いか》に。有難いが少し、いや、かなり怖い。ミルが伝えたのかとも思ったが彼女はずっと一緒にいたから無理だし……と言うことは、盗聴器が仕掛けられているのだろうか。それとも、


「……どうしてティルファ様はそんなにいろいろして下さるんですか?」
「言ったでしょう? 最も可能性があると思っている、と」


 ストーカーとか!?

 スクープ! ロンダヴェルグ聖教会の司教は地味な貧乳が好きだった!

 いや、待って。いくらなんでもそれはない。絶対ない。きっとない。多分……ああ、変なことを考えついてしまったせいで司教《ティルファ様》の顔が見られない。


「においがするんですよ」

 臭《にお》いぃぃぃぃぃぃいいい!?
 ストーカー疑惑再び!
 どうしよう、洗濯前のパンツとかこっそり持ち帰られていたら、って、パンツ無くなってないから! 無くなってないけれど、臭いを嗅ぐくらいなら、って……駄目駄目! そんなことを考えちゃ!
 司教を変質者扱いしたのが知られたら不敬罪で捕まって市中引き回しの上、打ち首獄門よ! 本当《ホント》かどうかは知らないけど!!!!


「ああ、実際に何か臭《にお》う、というわけではないのです。魔力のにおいと言いますか、あなたからは前《さき》の聖女と同じ力を感じるのです」

 たじろぐルチナリスに、司教《ティルファ》は弁解するようにそう言うが、彼もまさか忍び込んでパンツの臭いを嗅いでいる疑惑を持たれているとは思うまい。
 しかし魔力皆無で16年やってきた身としては「魔力のにおいがする」と言われても「はいそうですか」と納得はできない。なんせミバ村時代、あたし《ルチナリス》は神父から治癒の呪文を徹底的に教えられ、1回も発動できなかった前歴があるのだ。あたしが聖女候補と呼ばれるのはミバ村にいたから、というだけ。同じ理由で候補になったメグは違った。あたしが当たりである確率は1桁台も満たない。


「そうだ! もしかしてさ、ルチナリスさんの本当のお母さんが聖女だった、ってことはない?」

 そんなやりとりを眺めていた勇者が突然、閃《ひらめ》いた! とばかりに口を挟んできた。
 この男が何か思いつくのは大抵ろくでもないことなんだけれども、「本当の母が聖女」というパワーワードのおかげか、その場にいた全員が口を閉ざし、勇者を見る。
 視線を一身に浴びて気をよくしたのか、勇者はふふん、と鼻を鳴らすと勿体ぶって口を開く。

「だってほら、ルチナリスさんは孤児でしょ? もしかしたらルチナリスさんのお母さんが”前の聖女様”でさ。駆け落ちか何かそんな理由で辺鄙《へんぴ》な山奥まできてこっそりひっそり暮らしてたんだよ。
 そして娘が生まれて人並みの幸せを掴んだと思った矢先……そこへ悪魔がやって来た! ルチナリスさんの両親は娘を庇《かば》って亡くなり、何とか生き延びた村人Aの手によってルチナリスさんだけはミバ村まで逃れ! そして現在に至る!!!! そう考えたら辻褄《つじつま》が合わない!?」


 あたしや執事に、そして義兄《あに》に武勇伝を語って聞かせた時を彷彿《ほうふつ》とさせるがそれよりも。
 勝手に他人《ひと》の親の生涯を語るな!
 
 ……と言いたいのは山々なれど、確かに辻褄《つじつま》は合う。
 まぁ、辻褄《つじつま》が合うように創作するから、勇者の話を本気に取る人(主に町長)もいるわけで。


 あたしをミバ村まで連れてきた人は、あたしを神父に託して息を引き取った。酷《ひど》い怪我をしていて、ミバ村まで辿り着けたのが奇跡だったらしい。その怪我の具合から考えてもあたしが生まれた村《場所》はミバ村周辺、と呼んでも差し障《さわ》りがないレベルだろう。

 前《さき》の聖女が失踪したのは何十年も前で、次期聖女としての候補者が見つかりはじめたのはここ1年ほど。亡くなった時期は不明だが失踪と候補者が見つかり出した頃の間であることは明らかで、2度の人間狩りもその頃に含まれる。
 そして司教《ティルファ》は「聖女の力は血縁者に流れることが多い」と言っていた。
 だとしたら聖女の力は10年以上前――ママが死んだ時――に既《すで》にあたしに流れていて、でも何らかの理由で魔法が使えるには至らなくて、それで……。

 って、ちょっと待て。

「聖女の力って癒しの力なんですよね?」


『聖女の本質は光、つまり癒しです』


 最初に司教《ティルファ》に会った日。彼は確かにそう言った。

「ならやっぱりあたしじゃないわ。だってあたし、神父様から治癒の呪文を教えてもらっても全然だったし!」
「治癒の呪文が使えたら、お前も他の候補と同じで”魔法使いの素質がある”ということになるんじゃないのか?」
「え? あ、うー」

 閃《ひらめ》きはあっさり覆された。何故《なぜ》だ。何故《なぜ》あたしの理論では辻褄《つじつま》が合わないのだ。でもミルの指摘を違うと言い切るだけの知識はない。創作もできない。
 
「わけのわからない理論を展開していないで、お前はするべきことをすればいい」


『……あなたはあなたのできることをしなさい。私が青藍様の代わりに戦うしかできないように、あなたにしかできないことがあるでしょう?』


 執事の声が重なって聞こえる。
 彼が「聖女になることだけに集中しろ」という意味でこの台詞《セリフ》を言ったのではないと言うことは百も承知だが。


「お前の母親が聖女であろうとなかろうと、お前自身、力が出せなければ意味はない。たとえ血縁でもだ。お前は何をしに此処《ここ》へ来た?」
「……わかってます!」

 散々指摘されるまでもない。
 あたしは、できることをするしかない。





「ああ、それであなたのお母様のことですが、」
「はい?」

 部屋を立ち去りかけたルチナリスに、司教《ティルファ》が声をかける。

「遺体は……埋葬されてますか?」
「わかりません。その場所もミバ村と同様、長い年月の果てに草木が覆い尽くしてしまっているかと思います」

 人間狩りに遭ったのなら、あたしの時のように魔界に連れて行かれたかもしれない。その場で打ち捨てられたかもしれない。あたしをミバ村まで連れて行ってくれた人も怪我をして限界だったらしいし、手厚く埋葬して行ってくれたとは思えない。
 ただ、それから何年も経《た》った。無残に放置されたままの骸《むくろ》も、その上に草や葉が落ち、雨が降り、今は自然の一部になっていることだろう。花でも咲いていてくれればいい。

「そうですか……」

 司教《ティルファ》はもうそれ以上何も言わなかった。




「ソロネはグラストニアに向かったらしい」

 塔を出た途端、ミルはそんなことを口にした。

 結晶の部屋を出、図書館でいつものように文献を漁《あさ》り、そして何の収穫もないまま「昼になったから一旦、食事に帰ろうか」となった矢先のこと。
 呪文を一言一句間違えずに暗唱しても何も起きないのは、ミル曰《いわ》く「魔法使いの素質がないのだから呪文を唱えても無理」。だったら呪文以外で精神集中できる何かが必要なわけで、歴代の聖女はどうしていたのかと調べたりもして。
 その間ずっとその件を黙っていたのは邪魔をしないための配慮だったのだとは思うけれど、それにしても唐突だ。

「グラストニアぁあ!? ……って、何処《どこ》!?」
「海のほうだ。昔は音楽の都と呼ばれたこともあったらしいが、何度も人間狩り被害に遭ったせいもあって今は人など数えるほどしかいない」


 ロンダヴェルグに来た目的のもうひとつは、先に来ているはずのソロネと合流すること。しかし未《いま》だに会えていなかった。自由気ままな彼女のこと、とにかく見つけたら教えてほしいと初日に関係各所には伝えてあったのだが、どうやら既《すで》にロンダヴェルグを出てしまっているらしい。

 どうりで見かけないはずだ……じゃない! 頼りにしていたのにどうして去ってしまわれたのですかお姉様!
 出会えたからと言ってあのお姉様《ソロネ》が力を貸してくれるとは限らないが、思うだけなら勝手。それにあのお姉様なら司教《ティルファ》でも知らないようなことをいろいろ知っている気がする。背中から羽根、というあのビジュアルがそう思わせているだけかもしれないけれど。

 しかし困った。この分では彼女は自分たちが此処《ここ》に来ていることも、義兄《あに》がいなくなったことも、魔界に乗り込もうとしていいることも、それが期限付きだということも知らない。
 グラストニアまで追ったところで、其処《そこ》にいてくれる可能性は今回と同じくらい低い。連絡をしようにも宛先がわからない。「私がソロネです」と幟《のぼり》を背負って歩いていてくれるのなら早馬に手紙を託すだけで何とかなるかもしれないが、あのお姉様がそんな選挙前の政治家のようななりで出歩くはずがない。

 でもね、聖地でボーっとしていれば自動的に聖女になれるほど世の中は甘くないけれど、少しくらい甘くても|罰《ばち》は当たらないと思うのよ。

 いなくていい時にはいるくせにィ~、会いたい時に~あなたはいない~。

 そんな演歌のような感情の波に足元を掬《すく》われる。理不尽すぎて涙が出そうだ。


「ソロネちゃん、そんなところに何しに行ったんだろう」

 勇者が首を傾《かし》げる。
 あの派手好きなお姉様が人《ひと》けのほとんどない港町に遥々出向くなんて、とでも言いたげだ。ゼスの海水浴場のようにバックボーン《金》があれば、また「ちょっと時代を先取りしすぎちゃった」知識で貧乏田舎町を開拓する楽しみもあるだろうが、グラストニアもそうなのだろうか。
 
「昆布が美容にいいとか、そんなところじゃないのか」

 音楽の都の再開発より昆布なんですかーーーー!?

「うわあ……何かネバネバしたやつを顔に塗ってそう」
「ちょ、そんなわけないでしょ」

 否定したけれど、想像はできる。と言うよりもその会話のせいで、頭の中ではミイラの如《ごと》く昆布を全身に巻き付けたソロネが「ネバネバ~ネバネバ~」と歌い踊っている。生憎《あいにく》と、健全な乙女の脳内でポロリはないけれど。

 ネバネバ~。ネバネバ~。フコイダン発射ー!

 頭の中で昆布がスパッと切れる。切り口からドロドロした液体が溢れ出す。いやん、粘液が出て来ると絵面《えづら》が一気にエッチな感じになるじゃない。って、


「グラストニアは前《さき》の聖女が最後に目撃された場所だな」
「海ってことはミバ村とは全然近くないよね」
「其処《そこ》からの足取りは掴《つか》めない。陸路か、海路か、目撃された頃に人間狩りはなかったらしいが」


 あたしが一緒になって妖しい妄想の世界に足を踏み入れようとすると通常会話に戻るのはよせーー!!!!
 わざとか!?
 わざとですか!?
 ツッコみたいけれど、ネバネバ昆布音頭はあたしの脳内妄想だから言ったところで通じるはずもない。うん、どうどう。落ち着けあたし。
 
「すぐ帰るという話だが、あいつがそんな言葉通りにいくものか」
「そうだね。またきっと冬の新作とかいうのに捕まってるんだよ」


 だぁぁぁかぁぁぁらぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!
 嗚呼《ああ》! 此処《ここ》が街のど真ん中でなければのた打ち回りたい!

「空気が乾燥するから保湿タイプがいいのよ~とか言ってそうだよね。あ、だから昆布?」

 頭の中で再びネバネバ音頭のイントロが流れ始める。
 脳内劇場の両端から昆布がススススーっと登場する。
 畜生! 美容成分豊富な食品と女性を美しくするための化粧品の数々が、これほどまでに強大な力を持つ敵となって立ち塞がって来るとは!

「保湿しないとすぐ肌が荒れる歳なんだからしょうがないな。実際、夏用と謳《うた》っているものは暑い気候に対処する機能が付けられているから冬に使っても意味はない」
「わざわざ行くってことはグラストニア限定品なんだろうね」

 やめろー! ルチナリスのLP《ライフポイント》はもう0《ゼロ》だ!
 そんな叫びでこの状況を打開してくれる誰かが欲しい。切実に!


 一見したところ美容には全く縁のなさそうな剣士ふたりが冬の化粧品の保湿について語り合っている。よく見れば片方は女性なんだけれど。
 でも。
 待って下さいお二方《ふたかた》(2回目)!
 お姉様《ソロネ》がグラストニアに行ったのは化粧品を買うためでFA《ファイナルアンサー》なんですか? 前《さき》の聖女がドータラコータラはどうなったんですか!?


「ルチナリスさんは化粧しないよね」

 なのに。
 トドメを刺すかのように、矛先はいきなりこちらに向いた。

「その歳でも日焼け止めくらいは塗っておくべきだぞ。シミ、ソバカスは何年も肌の下に蓄積されてから出てくるからな」
「そうだよ。日焼けしてると皺《しわ》が出来るのも早いって言うよ?」
「……はい」

 これも平和だ、と思っておけばいいのだろうか。剣士からこんなに日焼けの危険性を諭《さと》される日がくるとは思わなかった。
 思えばミルもソロネと知り合いのようだし、仮にも若い女性なんだから、延々《えんえん》とコスメトークを聞かされたクチなのかもしれない。



「でも音楽の都だなんて聖女様っぽいよね」

 勇者が前方に目を向ける。
 白い住居が並ぶ中に礼拝堂と思われる建物が見える。窓には花モチーフのステンドグラス、扉には生花のリース。道へと延びる数段の階段の手摺《す》りには白いリボンが結ばれ、手に小さな籠を持った子供たちが花弁《はなびら》を振りまいている。オルガンの音も聞こえる。

「そう?」
「だって教会にある聖女様の像は歌ってる姿じゃない。ルチナリスさんだって知ってるでしょ?」

 ほらあれも、と勇者が指さした先、開け放たれた扉の向こうに祈りを捧げる人々の姿が見える。そのさらに向こうに女性の像が立っている。

「あれ、歌ってたんだ」

 微笑《ほほ》んでこちらに手を差し伸べているのだとばかり思っていた。

 そういえば歴代の聖女の中には歌で奇跡を起こしていた人がいたとミルが言っていた。本当に聖女と歌は縁が深いのかもしれない。……けれど。

 困った。あたし、歌えない。
 ルチナリスは黙り込んだ。
 育った環境が環境だけに童謡なども知らないし、流行《はや》りの歌もつい最近になってメグから教えてもらうまでは知らなかった。歌詞を間違えやしないかという意味でなら集中できるに違いないが、きっと違う。

「歌詞を知らないのならハミングで適当に歌っとけばいいだろう」
「えーそれじゃ恰好《かっこう》つかないよ。あ、だったら歌だけ録音したのを流して、それに口パクで、」
「……精神集中と全く関係ない次元に行ってないか?」

 この人たちは本当にあたしのことを考えてくれているのだろうか。
 ミルはともかく勇者の頭の中では今頃、歌う聖女様オンステージの映像でも流れているのかもしれない。舞台装置ばりの煌《きら》めく衣装に身を包んで歌うあたし。うわ、やめて。絶対に嫌。




 そんな大喜利をやり過ごし。さらに行くと街路にテーブルを出しているカフェが見えた。
 白い聖騎士団員の制服に身を包んだ男性と、金髪を肩のあたりで内巻きに巻いた少女がテーブルのひとつに座っている。足下に鳩が群がっているのはパンくずでも撒いているのだろうか。手ずからではないから突《つつ》かれる惨事には至っていないようで、ふたりとも楽しげに笑っている。
 それにしてもあの騎士団員の制服はコスプレか本物か……本物なら勤務中に未成年とデートしているわけで。それとも一種のステイタスシンボルと化した女子学生の制服のように、遊び歩く時の外出着としても着るものなのだろうか。
 デート(休暇)中?
 それとも、デートに見せかけて張り込み(勤務)中?
 どちらにせよあまりジロジロ見るものではない……とさりげなく視界から外して通り過ぎようとしたその時。

「無視とは酷《ひど》いね。そちらは新しい聖女候補様かい?」

 騎士服のほうから声をかけて来た。


「……その方は?」
「ああ。きみにとってはライバルになるのかな。彼女は司教の1番のお気に入りで、名は、ええと」

 騎士の後ろからルチナリスを値踏みするかのような目を向ける少女は、続く「ライバル」「司教のお気に入り」の2つの単語に眦《まなじり》を上げた。どうやら彼女も聖女候補者のひとりであるらしい。

「ルチナリス=フェーリスと申します。初めま、」
「変な名前」
「うっ」

 初めて会った。メグ以外の候補者……! なんて感動している場合ではない。
 ちょっと! 火のないところに火種を持ち込んで振りまくのはやめてもらえませんかお兄さん! あなたの紹介のせいで、そちらのお嬢さんは完全に臨戦態勢に入っちゃってるじゃないですか!
 あなたはそのお嬢さんと、あたし《ルチナリス》と、はたまた他にもいるのであろう候補者の誰かの中で誰が聖女になっても構わないと思っているのだろうけれど、当人同士はそうでもないのよ! 合格者はたったのひとり、という激戦を争っているのよ!
 あたしだって「聖女になりたい!」って意気込みは薄いほうだけれども、それでも力は欲しいし、あなたの後ろにいるお嬢さんもちょっとはそういう気があるから此処《ここ》まで来ているわけで。ライバルはひとりでも|蹴落《けお》としたいし、いなくなってほしいと思っているのよ!
 なのに! 火に油を注ぐんじゃないわよー!

 ルチナリスは心の中で騎士を罵倒する。少女のほうは敵視してくる視線が痛すぎて直視に堪《た》えないから面倒ごとの元凶のほうを。

「そう、1番のお気に入りなの。それじゃあさぞ素晴らしい奇跡を起こせるのでしょうね。見せて下さらない?」
「ええ、と」

 だがしかし。
 視界に入れないようにしていたのがかえって仇《あだ》になってしまったかもしれない。彼女はすでにバトルモードだ。しかも勝手に彼女のターンだ。
 目と目が合ったらバトルだぜ! なんてかわいいものじゃない。殺意を感じる。殺さないまでも、公衆の門前で恥をかかせてあげるわ! 的な悪役オーラを感じる。

「私《わたくし》、治癒《ちゆ》が得意ですの。聖女の力は癒やしの力。候補と言えど、やはり治癒くらいはできなくてはね」

 少女は得意満面な顔で両手を掲《かか》げる。その掌《てのひら》が淡く光った。
 「聖女の力は癒やしの力」とは司教《ティルファ》の受け売りだろう。魔法と聖女の力は違うとは言われても、治癒魔法なんてそのものズバリ。むしろ違いのわからない素人としては何処《どこ》が違うのだと問い質《ただ》したいくらいで。そして、そんな力《治癒魔法》を目の前で見せつけられると凹《へこ》むのも確かなことで。


「それなのに、聞いた話ではあなた、何の力もないのですって? それでどうして候補者になれたのかしら。寄付でもしたの? それとも捜索者に色でも売って媚《こ》びたのかしら」


 もし。お嬢さん。
 あたしが何の力もないと知っていて先ほどの台詞《セリフ》なんですか?

 どうやら「司教の1番のお気に入り」であるあたしは勝手に有名人であるらしい。「領主様の妹君」の肩書きと同様、何時《いつの》の間に!? というアレだ。大抵、いい意味では伝わっていない。
 演説のように声を張り上げた少女に、周囲の客や沿道の人々が何ごとかと視線を向ける。
 ルチナリスが言い返さないことにも気を良くしたのか、彼女の舌はさらに滑《なめ》らかさを増していく。

「力がないことはご自分でもご存じでしょう? なのに何を考えて聖都にいらしたの? 
 そう言えば前にもいらっしゃいましたわね。負かして追い出してやったあの女! 胸が異様に大きくて、あの体なら飲まれる馬鹿もいるだろうとは思いましたけれど、でも今度はあまりにも酷くありません?
 見て! 不細工でチンクシャで貧相な胸! 何処《どこ》に価値があるのか私《わたくし》には全くわかりませんわ! もしかして夜になると豹変なさるの?」

 これは彼女のだけの思いじゃない。他の候補者たちの――あたしよりも力があるのに、あたしばかりが贔屓《ひいき》されることが気に食わない「彼女たち」の――悪意。
 聖女らしく振る舞う日常に抑制されて、溜まりに溜まった……


「魔法使いの素質”しか”ない奴《やつ》にそこまで言われる筋合いはないが」

 そんな迸《ほとばし》る悪意に楔《くさび》を打ったのはミルだった。あまり感情を顔に出す人ではないけれど、今日は|殊更《ことさら》その無表情が怖い。怒りがMAXまで振り切れた時の|執事《グラウス》を思わせる。

 待って! 喧嘩を売られたのはあたしだから!
 横買いしないでミルさぁぁぁん!!

 言われっぱなしにカチンときたのだろうけれど、ここはあたしが我慢しておけば収まる話。
 聖女候補に喧嘩を売るなんて、もし彼女が聖女になったらどうするのよ! ミルさんの立場なくなるわよ!? チャラ男《騎士服》とも険悪になるわよ!

「み、ミルさ、」
「他人を貶《おとし》めていられるほどの才能があるのなら、さっさと聖女になったらどうだ。ただの候補のうちはお前もルチナリスも立場は同じ。たかが治癒魔法如《ごと》きで勝ち誇るなど器が小さいとしか」

 ああ、駄目だ。止める間もなく少女は今にも噴火しそうな活火山状態。
 もう、こうなったら、

「……勇者様、戦略的撤退」
「そ、そうだね」

 問題はミルをどうやって連れ出すかだ。
 自分たちを取り囲む人の輪は見る間に膨《ふく》れ上がっていく。火事と喧嘩が華《はな》だなんて物騒なたとえとは縁がなさそうな街だけに、喧嘩ひとつでも一大イベントになるのかもしれない。しかも対立しているのは聖女候補がふたり。

 ルチナリスは周囲を見回す。
 南北に延びている道は人が多すぎて抜けそうにない。彼女の後ろ、隣の店との境に小さな路地があるが、その先がどうなっているかはわからない。
 わからないけれど、追いかけてまでは来ないだろう。尻尾を巻いて逃げ出した、と思わせることができれば。多分。
 でも。


「まあまあ、それくらいに。ジェシカも引いてくれないか?」」

 その時だった。騎士服がおもむろに立ち上がるとにこやかな笑顔を浮かべて間に入って来たのは。
 見るに見かねたのか、いや、このシチュエーションは何処《どこ》かで見た。
 そう、勇者ロボの基地で紅蓮《ぐれん》と雹《ひょう》が殴り合いを始めた時。散々傍観した末に止めに入った翡翠《ひすい》と同じだ。


「……………………しかたないわね」

 微笑《ほほえ》んで頼まれたら引くしかないじゃない。みたいな顔で少女がおとなしくなる。このあっさりした終幕も同じだ。
 どれだけ喧嘩になっても最後には義兄《あに》の顔に折れる執事を見るよう。「間に挟まれて苦労したあたしの立場は!?」と声を大にして言いたい。意味不明にセクハラな罵倒を受けたあたりも、精神的苦痛で慰謝料を要求したい。
 でも。
 ま、まあ。それでも大ごとにならなかったんだから良かったじゃない! ね、ミルさん!

 無理やり自分を納得させて護衛のお姉様を見ればこちらは先ほどと全く表情に変化がなかったりもするけれど、紅蓮《ぐれん》と雹《ひょう》の再来とばかりにミルと少女で夕陽の中を駆けて行く絵《青春》を見せつけられる展開だけは回避できたのだ。これはこれで良しとして、先へ行こう。うん。


 少女が引きさがってしまったので、周囲の人々もちらほらと散っていく。
 そんな中、

「お嬢さんもすまなかったね☆彡」

 と……何を思ったのか、騎士服は投げキッスを送ってきた。

 場を収めてくれたのは助かりましたが、やめて下さいお兄さん(2回目)! 後ろのお嬢さんが口から放射能を撒き散らしそうです! 「鎮《しず》まりたまえー!」と叫びながらお兄さんを捧げたらおとなしくなるだろうか。そう思ってしまうくらい。
 顔がいい男というのは何故《なぜ》にこうもチャラいのだ。あ、お兄ちゃんは違うけれ……いやいや、あの人も外面《そとづら》だけは異様に良かった。城下町の奥様がたの間にファンクラブができたほ、

 ――ああ。

 ルチナリスは俯《うつむ》いた。

 何をしても、どんな時でも、義兄《あに》との思い出がぶり返されてしまう。





 人の輪が消えて、静かになって。
 勇者が「帰ろう」と目で合図してきて。
 そんな勇者に今になって気が付いたのか、騎士服が口走った。

「そう言えば、とうとうイチゴちゃんのヒモになったのか? 聖剣の勇、」

 途端。
 騎士服が吹き飛んだ。ああ、いや、服が弾け飛んで全裸になったわけではなくて、中身も一緒に飛ばされたわよ念のため。
 そんな誰に向かってかわからない説明をしている間にも、騎士服(中身入り)はテーブルを越え、街路樹を越え、隣の店の入り口にブチ当たってやっと止まった。

 何が起きた!? いや、この現象も前に見た。
 ルチナリスは隣に立つお姉様を窺《うかが》う。剣の柄に手をかけている。腰の剣は鞘《さや》に入ったままだが、って違う。
 鞘《さや》に「入ったまま」、ではない。


「……イチゴと呼ぶなと言っておいたはずだ」

 悲鳴を上げて騎士服に駆け寄るジェシカを尻目に、ミルは「行くぞ」と踵《きびす》を返す。
 彼らを気にしつつもその場に残ったところですることもないので、ルチナリスもミルを追う。
 この人《ミル》はイチゴに親でも殺されたのだろうか。そんなことを思いながら。




「すまなかったな。リョウは腕はいいんだがあのとおり軽くて」
「イイエー」

 どうやら先ほどの騎士服ことチャラ男はリョウという名前らしい。とは言え、その情報が特段、何かの役に立つとも思えない。それよりも気になるのは――。
 ルチナリスは自分に速度を合わせて歩いてくれている女騎士を横目で見上げる。

 ……何故《なぜ》、ミルは白を着ていないのだろう、と言うことだったりする。

 それは初日から思ったことだが、その時は「護衛は騎士団の任務外だから制服は着ないのだろう」と勝手に納得していた。
 しかし今回、リョウなるチャラ男は白い騎士服を着用していたわけで。街のあちこちでも同じ服装を見かけたから、きっとあれは制服なわけで。

 少し前に騎士団が隊列を組んでいるところを見かけた。戦うんだから汚れるだろうという予想に反して、彼らは鎧まで白かった。
 銀色の縁取りがついた白い甲冑。マントの鮮やかな赤との対比が目に焼きついた。ミルが着たらジャンヌ・ダルクのようだと思う人も多いのではないだろうか。

 服など公序良俗に反していなければ何を着てくれても構わないのだが、今日に至るまでミルがその制服に袖を通したことは1度もない。それ以外の服も白くはない。
 今日のいでたちも焦げ茶と紺の騎士服。似合ってはいるが白の中ではとてつもなく目立つし、彼女の性格からいって目立ちたくて着ているわけではないだろう。
 ならば何故《なぜ》。

 どうでもいいことなのに、案外気になりだすと止まらない。
 見習いだからか?
 いや、見習いだって制服の貸与くらいあるだろう。仲間意識を持つことが重要視される集まりはまず見た目から統一するもの。学校の枠からはみ出た学生がわざと制服を着崩して他人とは違う自分をアピールするのは、その「仲間意識」と「統一」への反発からだったりすることが多い。


「キラリン☆リリカル☆コズミック☆彡 愛♡と正義☆でパワーオーーン!!」

 その時、何処《どこ》かで聞いたフレーズが聞こえた。
 左斜め前方――どうやら劇場らしい建物の前に、白い衣装を着、剣を構えた美少女が描かれた看板が立っている。

「……魔法少女リリカル☆ストリベリィ」
「あ、イチゴちゃん! ……って、あっち! あっちのほう!」

 ルチナリスの目線に気付いて同じように看板を見た勇者が思わず呟き、そして慌ててルチナリスを盾にするように背後に隠れた。

「? イ、もぎゃ」

 イチゴ、と言いかけたルチナリスの口を勇者が後ろから両手で塞《ふさ》いだ。
 人質を取った犯人が人質を盾に逃げようとする光景に似ている。相対するミルが剣の柄《え》に手をかけて見据えているから余計にそう見える。
 
 イチゴ。
 イチゴちゃん。

 ルチナリスは改めて看板を見る。
 肩までの金髪。羽根飾りのついた帽子と白い騎士風の衣装はロンダヴェルグ聖騎士団の例の制服に似ていなくもない。下半身がショートパンツ&ニーハイブーツなのは魔法少女(?)だからとして、容貌は何処《どこ》となくミルに似……

「ああ!」

 もしかして!?
 だからミルは制服を着ないのか!?

 しかしその閃《ひらめ》きが仇《あだ》になった。先ほどのジェシカとの喧嘩の時のように、ルチナリスの声に振り返った人々がこちらを見る。

 マズい。

「行きましょうっ!」

 ルチナリスはミルの腕を掴《つか》むと駆け出した。勇者は放っておいても付いて来るから放っておく。
 聞こえる。人垣の中から「イチゴちゃんだ」という声が。黄色い歓声が。
 ああ。だからミルは制服を着ないのだ! 騎士団や教会が宣伝のために作ったのか、舞台関係者が勝手にミルをモチーフに興行しているのかは知らないがっっ!!




 闇雲に走って、走って、さらに走って。

「何処《どこ》まで行く気だ」

 という制止の声にやっと我に返ってルチナリスが足を止めたのは、案の定、見覚えのない路地だった。
 ゼエゼエと荒い息を吐くルチナリスを、ミルは息ひとつ乱すことなく、それどころか呆れたように見下ろしている。それからかなり遅れて勇者が追いつき、力尽きたようにへたり込んだ。

「運動不足じゃないのか? 毎日食っちゃ寝てるから」
「よ・ろ・い!! 鎧のせい!」

 確かに総重量20kgを越えるフルアーマーで全力疾走すれば息も切れるだろう。
 海水浴の時は砂山を平然と駆け上がっていたし、アイリスの城で崩れていく世界から逃げた時も全く息など切らしてはいなかったあたりから考えると、この男は鎧を着ないほうがいいのではないかとすら思えてくる。

「急に走り出すんだもん」
「だってぇ……」

 まさか護衛のお姉様が魔法少女のモデルだったとは。そりゃあ魔法少女の衣装にそっくりな(真似しているのは魔法少女のほうだとしても)騎士団の制服なんか着たくないはずだ。


「いいじゃないか。あのままあの場にいたら、お前はあらぬ疑いをかけられて今頃取り調べを受けているところだ。ルチナリスに感謝するんだな」
「感謝するのは僕じゃなくてイチ、じゃなかった、ミルさんでしょ? あと数分逃げるのが遅かったらミル様ファンクラブの皆様にもみくちゃにされてたよ」
「私にファンなどいない」
「……ツッコんでいい?」

 それにしても。
 今のシチュエーションも前にあった。オルファーナでナンパ男を振り切るために、義兄《あに》の手を掴《つか》んで走ったんだっけ。
 あの人、本当に外面だけはいいんだもの。ああやって誰にでも愛想を振りまくから勘違いする奴《やつ》が出てくるってぇのに!

 ルチナリスは再度、ミルを見上げる。
 義兄《あに》よりは少し背は低いが、何処《どこ》か似ている。人懐っこいお兄ちゃんのほうではなく、魔王様に……いや、義兄《あに》と執事を足《た》して2で割った感じ。
 線は細いけれど力を隠し持ってるような。
 几帳面すぎて堅苦しそうな。
 ……惜しい。これで男性だったら確実にフラグが立っていた。ああ、もしかしてこれは禁断の百合フラグというやつでは!?

「ね、ルチナリスさんもそう思うでしょ?」
「思わない! そんなアブノーマルなお付き合いはできませんっっ!」
「……は?」

 悲鳴みたいな声を上げた後で、はた、とルチナリスは我に返った。
 アブノーマル? と目を点にしている勇者と、相変わらず冷やかな視線のミル。

「あ、ち、ちょっと考えごとをしていて。あははははは」

 危ないぃぃぃぃ!
 勇者か執事のあたりの妄想癖が伝染《うつ》ったかもしれない。自重するのよルチナリス!



「でもイチゴちゃ、いやミルさんは勇気あるよ。僕だったら私服でも白着るな、此処《ここ》じゃ」

 ルチナリスの妄想と突拍子もない発言は既《すで》に「いつものこと」と認識されてしまっているのか、勇者はそれ以上追及することもなく別の話題を振った。
 「ルチナリスさんはいつも妄想ばかりしていて変なことを叫ぶんだよ」と脳内ファンタジー男に思われたくはないが、ネバネバ音頭といい、最近、妄想が激しいのも確かなこと。下手に何か言って墓穴を掘るよりも、黙っているに越したことはない。

 
 この街では白を着る人が多い。
 大半を占める教会関係者《聖職者》と騎士団などの警護従事者の服装を真似たのか、建物が白いから景観に合う服装ということで白に行きついたのか、八百屋や魚屋、カフェの店員等々、一般の人々までもが白っぽい恰好《かっこう》をしている。
 平和なこの街で、勇者は何故《なぜ》毎日銀色の《白っぽい》鎧を着て歩いているのだろうと思っていたが、どうやらそういう理由であるらしい。

 褒めているのか貶《けな》しているのかも微妙な勇者の台詞《セリフ》に、ミルは帽子を目深《まぶか》に|被《かぶ》り直した。

「白なんて色は……私には最も縁遠い色だ」


 表情が見えない。
 縁遠いって、正団員になったら嫌でも着ないといけない色なのに。
 ミルは何故《なぜ》此処《ここ》の騎士団に入ったのだろう。警護のために腕の立つ冒険者を雇う町はいくらでもある。オルファーナにもあった。交易で潤ってるから給金も待遇もかなりいい、と聞いたことがある。それなのに……やはり「聖女を守る騎士団」というステイタスがいいのだろうか。

 あらやだ、そうだったらどうしよう。ルチナリスの頭の中で妄想が頭をもたげる。
 「いけませんわお姉様」「いや禁断の愛だとはわかっていてもこの気持ちはもう隠すことはできない!」とか……いやいやいやいや、それはない。絶対にない!

 ああ、さっきから変な妄想が止まらない。欲求不満なのだろうか。
 でも。
 あたし、今、執事の思考回路が少しわかった気がする。



「そう言えばルチナリスさんは青が好きだよね」

 勇者の言葉にルチナリスは妄想の世界から引き戻された。
 いや、青が好きなわけじゃなくて。制服が青系だったからと言うか、1番馴染みの深い色が青だったと言うだけで。

 青。蒼《あお》。
 義兄《あに》の瞳の色。
 この色は、いわば義兄《あに》のチームカラー。メイド服のリボンも、執事の徽章《きしょう》も同じ色。青を身に付けることで、あたしは彼らの仲間でいられた。少なくとも、そう思えた。


「普通女の人って赤とかピンクとか好きだと思ってたけど」
「赤……」
「赤、か」
「あれ? ふたりとも赤は嫌い?」


 義兄《あに》の蒼《あお》に対するように、紅《あか》は義兄《あに》の実兄、紅竜への所属を指す色だと聞いたことがある。
 メフィストフェレス当主の色。義兄《あに》を連れて行った人の色。
 紅《あか》い、紅《あか》い、血の色。


「赤は……好きであると同時に1番嫌いな色、だな」

 ミルが何処《どこ》か遠くを見るような目で呟いた。
 きっと彼女にも赤にまつわる思い出があるのだろう。あたし《ルチナリス》が青にそう思うように、ミルにとって赤は、きっと特別な色に違いない。


「あーそうか、イチゴって赤いもんねー」

 そして。
 場の空気を読まない勇者はまたしても吹っ飛ばされた。




「それで、だ」

 カチャリ、と剣を戻しながら、ミルが口を開いた。
 勇者は数メートル先の路地に並べられた樽のひとつに頭から突き刺さっているから、多分、あたし《ルチナリス》に向かって言っているのだろう。

 ……何からの「それで」ですか?
 そう聞きたいくらいに脈絡がない。ミルが魔法少女のモデルだったってところから? リョウが軽いってことから? それともジェシカに喧嘩を売られたことから? あたしのママのことから? もしかしてお昼を食べに帰りましょうまで遡《さかのぼ》っちゃう?

「剣士亭で何か預かってるそうだ」

 何をーー!?
 いや、これは流れから言って、放っておいても「だからこれから剣士亭に行きましょう」になるパターンだ。黙ってついていけば全て解決する。その剣士亭なる場所に着くまでの数分か数十分か、ずっとモヤモヤし続けないといけないけれど。

 ああそうだ。確か此処《ここ》に着いた初日に、勇者から剣士亭の場所を聞いた気がする。確か……確か、何処《どこ》ぞの路地だった。どうせ行かないと思って聞き流していた。
 此処《ここ》も路地だけど、まさか目の前のあの扉が剣士亭だったりするなんてオチは……。まさかね。

「行くぞ」

 ルチナリスが考えに没頭し、勇者が樽に頭から突っ込んでいるこの状況を完全に無視したまま、ミルは目の前の扉に手をかける。

 待て。
 ……余計なイベントで尺を取り過ぎたから巻きでも入ったのだろうか。
 周囲を見回したが、「巻いて巻いて」と指をクルクルさせているディレクターの姿はない。いや、あるほうがおかしいんだけれども、何と言うかあまりにも出来過ぎじゃない!?


 古ぼけた扉の上には、「剣士亭」と書かれた木の看板がキィキィと音を立てていた。




 剣士亭はロンダヴェルグにある冒険者組合の俗称だ。
 外観は他の建物と同じように白いが、中はいかにも酒場! といった風情を醸し出している。
 全体が黒ずんで見えるのは昼間でもランプを灯《とも》さなければ見えないほど店内が薄暗いからというだけでなく、板張りの壁や天井までもが黒いからだろう。外壁が白いだけに違和感が半端ない。
 この色は煙草《タバコ》の脂《ヤニ》でも染みついたのだろうか。タールを塗り込んだようにすら見える照りのある壁は、手を触れることすら躊躇《ちゅうちょ》するほど。他にも壁一面に積まれた酒樽。棚に並ぶラベルの色が変わった酒瓶。使い込まれたテーブルは乱闘騒ぎの名残か、端が欠けていて、建物に性別があるのなら剣士亭は確実に男だろうなんて思う。
 イメージとしては師匠《アンリ》のように戦いの場にずっと身を置いて来た熟練の戦士。酒を樽から直《じか》に飲みそうな。

 冒険者は掲示されているいくつもの依頼案件の中からめぼしいものを選び、受付をして、出発する。冒険者組合はそのための場所。
 だからお役所の職業斡旋《あっせん》窓口のようなものを想像していたのだが……あたし《ルチナリス》ひとりではとても足を踏み入れることなどできそうにない。

 カウンターにいた「昔は剣を振るっていました」と言わんばかりのマスターが、入って来たあたしたちを見て片手を上げる。
 こういう場所って、

「お子ちゃまが何のようだ?」

 と嘲笑《あざわら》われるのがお約束のようなものだけれども、どうやら歓迎されているようだ。それだけでも少し安心する。
 彼の後ろの壁に飾られている長剣はマスターの愛剣だろうか。いろいろ(意味深)切ったのだろう。使い込まれている。
 危険だ。機嫌を損ねたらミルのように抜いてくるに違いない。
 手の届く範囲にあると言うことは、まだまだ現役だとも言える。


「よおエリック! 久しぶりだな。お前のことだからとうにくたばったと思ってたぜ」

 今日は美女を侍《はべ》らせてるな、なんて酒場の男そのものみたいな冗談に、ミルが侮蔑の視線を向ける。

「いい加減に冒険者なんかやめて定職にでもついたらどうだ。親が泣いてるぞ」

 そしてミルの忠告と全く同じことを此処《ここ》でも言われている。
 誰の目から見ても彼は冒険者には向いていないように見えるのだろう。が、その前にひとつ気になることが。

「エリックって誰」

 ルチナリスは「エリック」と呼ばれたばかりの男にそう問いかける。
 ピッカピカに磨き抜かれた鎧を着、赤い羽根飾りのついた兜を被《かぶ》り、背に剣を背負った幼馴染みの兄に。

「僕」
「え!?」


 と驚いてはみたものの。
 そうよね。いくらなんでも勇者って名前のはずがない。と心の何処《どこ》かで納得している自分もいる。
 それにしても、前にも「勇者って呼称だけではどの勇者だかわからない」って思ったはずなのに、何時《いつ》の間にか「勇者」という名前だと思い込んでいる自分が怖い。


「そっか……。勇者様、名前あるんだ」
「あのねえ」

 しみじみと呟くルチナリスの横で、勇者ことエリックは引きつった笑いを浮かべる。




 そうしている間にも、ミルはカウンターに歩み寄り、マスターと話をしている。
 酒場に来て酒の1杯も頼まずに用件に入るあたりがミルらしい。

「マスター。それで預かりものというのは」
「ああ」

 マスターはカウンターの下から何かを取り出すと、カウンターの上を滑らせた。
 ほら、よく

「あちらのお客様からです」

 なんて台詞《セリフ》と共にグラスが滑って来る、あんな感じ。
 ランプの灯りを受けて、それはキラリと光った。

「何ですか?」

 ミルの手元を覗き込んだルチナリスに、彼女は受け止めたものをそのまま差し出した。
 白いリボンの髪留め。真ん中に付いた石が虹色に反射しているそれは、昔、義兄《あに》に貰った――オルファーナで壊れた――あの髪留めによく似ている。

「ルチナリスに、だろう」

 と言うミルとその髪留めを見比べ、ルチナリスはそれを受け取る。
 この面子《メンツ》なら多分に自分宛てだろう。多大に嫌味が混じっているのだとすればミル宛てかもしれないが、ミルとも面識があるらしいソロネなら彼女《ミル》の人となりも知っているはずだし、だとすればそんな命知らずな真似をするとは思えない。

「……天使の涙か」
「天使の涙?」
「その石の名前だ。何でも、天使の力を封じてあるらしい。簡単に言ってみればお守りだな」

 ソロネには全く似合わないネーミングだ、とミルは鼻先で笑う。
 確かに。あの女王様気質のお姉様《ソロネ》は見た目だけなら天使だけれど、涙を流すことなど天地がひっくり返ってもなさそうだ。いかにもたおやかな女性が贈って寄越したのであれば「ああ、この石はこの人の涙が固まってできたものだろうか」なんてメルヘンな想像もできるのだろうけれど、あの人では無理。

 でも。

 お守り。その言葉でさえ昔を思い出す。
 義兄《あに》もあの髪留めをそう称して付けてくれた。「お守り」はその名の通り、あたしを守るために炎の竜を出して砕け散った。

 ルチナリスはそっと左手をポケットに忍ばせる。
 其処《そこ》には半分になった鳥がいる。執事が「貸してあげます」と言って出して来たそれは、あの髪留めの中央についていた金色の釦《ボタン》状のものに酷似している。
 まるで対であったかのように。

 この鳥も、執事を守って割れたのだろうか。
 やはり義兄《あに》から託されたのだろうか。
 そんなことを思う。 


「前にメグが貰ったやつだ」

 勇者が天使の涙を見て、僅《わず》かに口元を歪めた。

「気を付けなよ? これはお守りだけど、危険なものでもあるんだ」


 曰《いわ》く、この石には持ち主の潜在的な魔力を増幅させる力があるらしい。
 海で再会したメグは、執事《グラウス》と対等に戦えるほどの力を持っていた。あの力は闇の力だと思っていたけれど……そう言えばソロネは「彼女に力を貸したのだ」と言っていなかったか? 

 この虹色の石がメグに力を与えた。
 その力を過信した彼女は闇に呑まれた。
 この石を持っていれば、全く力のない自分でも超常の力を使って戦うことができるのだろうか。精神集中だのといった苦労をすることもなく。
 しかし、あの時のメグの変貌を思い出すと寒気がする。あたしはメグ以上に力がない期間が長かったんだもの。力が欲しいとずっと思っていたのだもの。闇に入り込まれてもきっと気が付かない。与えられる力の何処《どこ》までが石の力で、何処《どこ》からが闇かなんて……。


「お前は力を欲しているように見えるから心配だな」
「そうだね」

 どうする? と勇者が目で問いかけてくる。
 あたしが魔界に行くことまでは、ソロネは知らない。きっとこの石も「聖女様ご成約プレゼント」くらいのつもりで残して行ったのだろう、とは思う。
 この力があれば、師匠《アンリ》や執事《グラウス》と一緒に魔界に行ける。期限に間に合う。
 自力でどうにかしようと思っても全く進化がなかったことは自分が1番よく知っている。このままでいけば、彼らが戻って来た時にあたしは留守番を言い渡される。

 だから、と言うのはあまりにも安直だろうか。
 努力もしないで、と執事なら言うだろうか。

「だ、大丈夫よ。あたしが無能なのはあたしが一番よく知ってるしぃ」

 ルチナリスは努《つと》めて明るく笑う。
 もしそう思われたとしても手放すわけにはいかない。この石はあたしが有能になるための、きっと最後の秘策。
 お守りだと思っておけばいいのよ。義兄《あに》の髪留めと同じように。必要以上の力を求めなければ……きっと大丈夫。

「気に入《い》らねぇんなら高く買い取らせてもらうぜ」

 あたしたちのやりとりを興味深げに眺めていたマスターが口を挟む。

「見たことねぇ石だが欲しがる奴《やつ》はいそうだしな」
「え、あ、いえ、いいです! ありがたく貰っておきます!」
「そうしておけ。マスター相手じゃ二束三文で買い叩かれるのがオチだ」

 慌てて隠そうとしたルチナリスの手からミルがその髪留めを摘《つま》みあげる。そしてそのまま無造作にルチナリスの髪を掬《すく》うと、パチン、と留めた。 


『――お守り」

 あの日、自分の髪にそれを付けてくれた義兄《あに》の声が聞こえたような気がした。




「それにしてもさあ」

 マスターはあたし《ルチナリス》たちの前にグラスを並べると、身を乗り出し、小声で囁《ささや》いた。
 昼間というだけあって店内に客は数名しかいない。その数名の彼らは壁一面に張り出された紙片を熱心に眺めながら吟味している。きっとあれが依頼の一覧なのだろう。
 こちらの会話の内容など聞こえない気もするが、それでも冒険者には聞かせたくない話なのだろうか。

「最近、聖女候補っていうのが増えたけど、その子もそうなんだろう? 聖女様、どうにかなったんか?」
「ぶふぉっ!」

 盛大にミルクを噴き出してむせ込んだあたしの背を勇者がさする。ミルが手巾《ハンカチ》を差し出す。
 掲示板のほうにいた客までもが何ごとかと目を丸くしている。
 マズい。こっそりひっそり話をしないといけない時に何をやっているのよあたしってば。

「……どうもしない」
「だけどよ。聖女様の後継者なんだろ? 候補っていうのは。だったら」

 ミルがすかさずフォローに入るが、マスターの疑問は拭《ぬぐ》えていない。


 以前、勇者は「聖女が不在だということはオフレコで」と言っていたが、先ほどのジェシカの例もある。公衆の面前で聖女候補だと名乗りを上げていればそういう存在がいることも周知されてしまうし、候補という名称から、マスターのように今の聖女の生死を危《あや》ぶむ者も出て来るのは当然のことだ。


 もし聖女がいないと人々が知ったら。
 警備の厚いロンダヴェルグなら「いなくてもずっと安全だったのだから大丈夫」と誤魔化すこともできるかもしれないが、他の町では無理だ。
 何時《いつ》悪魔が襲ってくるかもわからない。
 頼みの綱の聖女はいない。
 結果としては大挙して「安全な」ロンダヴェルグに押し寄せて来るか、騙したと暴動が起きるか。それも教会を襲うだけならともかく、何時《いつ》死ぬかわからないのならやりたいことをする、とばかりに暴動を働く輩《やから》も増えるかもしれない。


 聖女の不在を疑っているのはマスターだけではない。
 この店に集まる人々も、酒や食料を買う店の人も、ご近所さんも、家族も、1匹いたら30匹隠れているというイニシャルGの虫のように、そう思っている人は他にもいる。絶対にいる。黙っているだけで。
 もしかしたら此処《ここ》でその情報を仕入れた冒険者が行く先々の町で吹聴して回ることだって……!

「あ、新しい魔法少女隊の候補なの!」

 ルチナリスは慌てて椅子を飛び降りた。

「今のリリカル☆ストロベリィの後継作! 今度は聖女様の力を預かった女の子たちが戦隊を組んで戦うのよ! その出演者の選考会がもうすぐあるから、だから! 聖女候補っていうのは”聖女様戦隊(仮)のレギュラーメンバーの候補者”の略語なの!」

 我ながら嘘が過ぎると思ったが、本当のことは何ひとつ言えない。

「あたしも出るから! だから投票してねマスター! と、そっちのお兄さんたちも!」

 「キラリン☆リリカル☆コズミック!」と踊ってみせながら、ルチナリスはマスターと、そして壁際で成り行きを見守っている冒険者ふたり連れを交互に指さす。指さしながら「ほら、助太刀なさいよ!」と勇者に目くばせする。

「そ、そうなんだ! 僕とソロネちゃんが推《お》してるのがこの子、ルチナリスさんなんだよ! 歌も踊りも微妙だけど、頑張ってます的な共感されやすいキャラクターで売って行くつもりだから応援してよね!」
「そうよ! 世界を☆《キラメキ》で満たすのよ! さあ! 皆さんご一緒に!!」

「「キラリン☆リリカル☆コズミック☆彡 愛♡と正義☆でパワーオーーン!!」」

 こんなところであの謎ダンスレッスンが役に立つとは!
 歌って踊ってキメポーズをしたふたりに、マスターが思わず拍手する。ミルが頭を抱えている。

「でもね、リリカル☆ストロベリィが終わるって話も次回作の話もまだオフレコなの! 喋らないでねマスター! あとそっちのお兄さんたちも!」
「わかった。ネタバレしたのが知られたら干されちまうかもしんねぇもんな」

 よし!
 勢いだけで有耶無耶《うやむや》にできたわ! 偉いぞあたし!!




 お兄さんたちがいた壁には一面にずらっと貼り紙が貼られていた。
 依頼だけかと思ったが、依頼はむしろ少ない。半分以上は世界各地の悪魔出没情報だ。
 しかしほとんどの場合、駆けつけた時にはもう既《すで》に悪魔の「あ」の字もいなくなっているのが普通で、ただの人間狩りの被害報告になり果ててしまっている。襲われた直後に情報を流す余裕など心にも命にもないだろうから仕方ないとも言えるが……ノイシュタインでのうのうと生きてきたこの10年、他の地はこんなにも悪魔に襲われていたのかと思うと、義兄《あに》を慕い、執事やガーゴイルたちを仲間だと思い、人間と魔族は歩み寄ることができると思っていた自分の考えはあまりにも甘すぎる、と突きつけられたようで胸が痛い。


「これを見て次にどのへんに悪魔が出るかを推測するなんて面倒くせぇよなぁ。魔王でもドーン! といてくれればもっと楽なのによぉ」
「ラスボスがいないとモチベーション上がらねぇよ」

 冒険者たちの管《くだ》を巻く声をBGMに、ルチナリスは貼り紙を見直す。

 そうか。
 義兄《あに》のいないこの世界では、ノイシュタイン城は悪魔の城と呼ばれてはいないのか。
 城が封鎖されたあの日に城下町の誰もが魔王を忘れてしまった現象は、遠く離れたロンダヴェルグでも同じように起きているらしい。


 この世界の誰も、義兄《あに》を知らない。

 ゾワリ、と背筋が寒くなった。今のこの世界では義兄《あに》が存在していたことを知っている自分たちが異端。自分と勇者の、たったふたりだけが。
 執事《グラウス》や師匠《アンリ》はもともと魔族だから影響を受けなかったのだろう。執事の家族が義兄《あに》を覚えていたことからも推測することができる。

 だとしたらあたしたちは何時《いつ》まで覚えていられるのだろう。
 何かのはずみでポン、と忘れることはないのだろうか。
 例えば、次の魔王が赴任してきた時。世界には当然のように魔王がいて、当然のようにノイシュタイン城は悪魔の城と呼ばれていて。当然のように魔王はラスボスとされていて、冒険者は当然のようにノイシュタインを目指して。
 そんな当然が世界を塗り潰しに来た時、あたしはまだ義兄《あに》を覚えていられるのだろうか。

 人間界では魔族のほうが少数派。義兄《あに》のように、執事の家族のように、偽《いつわ》りの顔で人間の中に紛《まぎ》れ込んでいる。なのに、数にしてみれば人間のほうがずっと多いこの世界で、その多いはずの人間は少ないはずの魔族に記憶まで支配されている。
 魔族《悪魔》を倒すことができる勇者と呼ばれる人たちまでもが、その実、魔族にいいように操られている、だなんて。
 


 ミルは掲示版を黙って見上げている。

「あの、ミルさんも悪魔退治とかするんですか?」
「向かってくるなら誰であろうと切って捨てる」
「向かって来なかったら」

 彼女は掲示版を見上げたまま、魔族は嫌いだ、と呟いた。
 そう言えばひとり暮らしだし、家族のことは何も喋らないし、彼女も魔族に家族を奪われたクチなのかもしれない。
 騎士団に入っているのがその最もたる証拠だろう。此処《ここ》に集まって来る冒険者たちも、先ほどのチャラ男《 リョウ 》も、皆、自《みずか》ら望んで魔族と戦う使命を帯びている。
 魔族は全員悪いわけではない。
 いい人もいる。
 人間と共存できる。
 とどれだけ訴えても、その声を聞いてくれる人は少ない。
 勇者はわかってくれたけれど、彼だって家族のひとりでも欠けたらそう思ってはくれなかっただろう。ミバ村の被害者――襲われて行方不明になった人々――の中には、彼の知り合いも友人もいたのだから。

 その時だ。
 勇者がルチナリスの腕を掴んで揺さぶったのは。

「ル、ルチナリスさん、これ!」

 彼は新しく貼られた情報であろう他より白さの目立つ1枚を凝視している。

「どうかしたんですか?」

 指さした紙に書かれていた文字に、ルチナリスは声を失った。

 『ノイシュタイン』

 ノイシュタインに人間狩りが出たと。

「……嘘……!」

 
 ノイシュタインは魔王城直下の町。そこで狩りができるのは魔王、もしくはその者を輩出している家のみ。
 義兄《あに》がいなくなったから彼《か》の町への抑制が解かれたのだろうか。魔王不在の今、あのあたりの土地は誰の管轄でもない無法地帯となる。

 マーシャさんは無事だろうか。小間物屋のおばさんは? 町長さんは? 宿屋の奥さんは? リドさんは? 駅前のアイス売りのおじさんは? ウマーとロバーは? 女給のお姉さん'sは? 庭の手入れに来てた庭師のおじさんは? 毎朝パンを持って来ていたあの子は? 郵便配達のお兄さんは? それから、それから……!

「マーガレット……!!」

 勇者が声を震わせる。
 そうだ。ノイシュタインだけに留《とど》まらない。隣町にいるメグは!?

「勇者様、今すぐ帰って!」
「で、でも」

 勇者は口籠《ごも》る。

 ロンダヴェルグでの暮らしは期限付き。執事《グラウス》と師匠《アンリ》は鍵となる「トト」入手に動いている。早ければ今日にも、遅くても数日後には帰って来る。そうしたらあたしたちは魔界へ行く。

 今ここでノイシュタインに戻ったら、勇者は魔界行きには間に合わない。でも。

「あたしは大丈夫だから。護衛ならミルさんがいるし、グラウス様も師匠もいるから!」

 ルチナリスは勇者の肩を押すと入口に向かわせる。
 他の冒険者たちが何ごとかと騒《ざわ》めく。

「隣町なのよ!? 被害がないとは言えないじゃない! それに勇者様の剣なら倒せるんでしょ!? 帰って! 早く!」


 もともと彼は魔界に行く必要などなかった。悩んで動けなくなっていたあたしたちの後押しをするために付き合ってくれていただけだ。 
 彼が守らないといけないのはあたしではない。義兄《あに》でもない。
 あたしにとって義兄《あに》が大事なように、彼にとって大事なものは妹《メグ》。それなら、その妹を守りにいかなくてどうするのよ!!


 守らなければならない存在のせいで、自由に動くことが出来なくなるのなら。
 守らなければならない存在のせいで、何かを諦めることになるのなら。
 でもあたしは、勇者が本当に「守らなければならない存在」ではない。
 執事の時も、勇者の時も。彼らの1番は他にいる。だから。


「帰れエリック! まだ間に合うかもしれない。何もなければまた戻ってくればいいだけの話だ!」

 ミルの声に勇者は弾けるように剣士亭を飛び出した。背中の剣がカチャカチャと鳴る音が遠ざかって行く。


 大丈夫。もう背中は押してもらったもの。
 あの街道の分岐のように、今、あたしと勇者様との道が分かれただけだわ。

 ルチナリスは勇者が出て行ったままの、開け放たれた扉の先を見る。
 四角く切り取られた白い街並は、絵に描いたもののように虚《うつ》ろに見えた。