1-7 兄妹なんてそんなもの




 ああ。あの音は何の音だろう。
 ルチナリスは耳を澄ます。

 音が鳴る度《たび》に、金色の光がぽつん、ぽつん、と広がっていく。
 それは見る間に広がって、一面を金色に変え。
 そして。


『何ですか? これは』
『これは、お守り。怖いものが出ないように』


 そう言いながら小さかったあたしの髪を掬《すく》い、後頭部でパチン、と留めた義兄《あに》が見える。素直にありがとうと言えなくて、はにかんでお茶を淹れるあたしがいる。
 真っ白い部屋で。温かい光の中で。


 砂埃が舞い上がる。
 あたしに背を向けている人が見える。
 目の前には刀を振り上げた一つ目の化け物。その化け物からあたしを庇《かば》って、化け物に相対《あいたい》して。
 その背が……


『その人の本質を見るようにしなければいけないよ』


 あたしに背を向けてシチュー鍋を掻き混ぜているのは、あたしを育ててくれた神父様だ。

『ほんしつ?』
『そう。例えば、このパンを誰かが盗んだとしたら、その人は悪い人かな』
『もちろんよ!』
『その人の家には1週間もご飯が食べられなくてお腹を空かせた子供がいる。このパンを持って帰らなければその子は飢えて死んでしまう。だとしたら?』
『そ、れは。でも、』
『でも、悪いことだね。悪いことだけれども……今ルチナリスが言い淀んだ時の気持ち。それも大事なことなんだよ』


 ――ソノ人ハ、悪魔?


 そうよ。


 ――ダカラ、敵。ヨネ?


 それは、……




「駄目!」

 ルチナリスは義兄《あに》の手を両手で掴んだ。

「あたし、あたしやっぱり、」
「心配することはない。お前のことは町長にも言ってあるし、城下の人々も好意的だ。それに彼らの記憶からも俺たちの記憶は消してしまうから、お前と悪魔の繋がりをどうこうと言う奴《やつ》などいない」

 そうじゃない。
 あたしはそんなことを心配してるんじゃない。
 
「あの勇者たちも城を出た時点で俺たちの記憶は消える。お前にも町の人々にも攻撃を加えることはない」

 ああ。あの人たちは生きているのか、って、違う。
 勇者一行なんてどうでもいい。
 あたしは。

 視界がぼやけているのは涙のせいよ。魔法じゃない。そう自分に言い聞かせる。
 目をこすったら見えるようになるかもしれない。でもこの手を離したら、もう2度と届かない。そんな気がする。
 つながっているのはこの手だけ。すぐ目の前にあるはずの義兄《あに》の顔すら、今のあたしには見えなくて。
 気配すら、今にも消えてしまいそうで。

 なのに。

「お前が言うように俺たちは人間じゃない。いや、人間を襲う立場だ。……人間の、敵なんだよ」

 義兄《あに》は掴《つか》まれた手を解くこともないまま、そう言う。
 まるで「人参を食べなきゃ大きくなれないんだよ」とか「夜遅くまで起きていたら朝起きられなくなるよ」みたいな言い方で、敵だ、と言う。

「お前も見ただろう? ボコボコにされた勇者たちを。俺はああしてお前たちの希望を潰すのが役割だ。敵、なんだ」
「だ、けど」



『相容れないものだな』


 あの時、弓使いはあたしを狙った。
 あたしが悪魔の仲間だから。城下町の人々も悪魔の仲間だから。だから倒すのだとそう言った。
 同じ人間なのに。


 ――アナタハ 悪魔?


 違う。


 あたしを庇《かば》ってくれたのはこの人だった。
 城下の人々にも慕われて、心配されて。だけどそれは偽りの顔で。偽りの顔だけれども、中身は同じ、で……。


「もうお前はひとりで生きていける。人間の世界に戻りなさい」


 ――イイコト ジャナイ。
   今マデ ガ オカシカッタ ノヨ。
   敵ヲ 慕ッテ。懐イテ。義兄《アニ》ダナンテ 思ッテ。


 ――何処《ドコ》マデ 馬鹿ナノ? ッテ 笑ッテ ヤリタイクライ。

 
 そうね、馬鹿よ。
 馬鹿だわ。
 本当なら正体を知られた、って殺されても食べられても文句は言えなかったのに。
 この人はあたしを外に出すって言っているのよ!? 町の人に正体が露呈するかもしれないのに。それなのに。

 どうして? あたしの言うことなんか、いつもみたいにはぐらかしてくれればいいのに。
 どうして今日はあたしの言うことを否定してくれないの?



「青藍様、」

 執事の声がする。

「嬉しいだろ? やっとこいつが視界からいなくなるんだぞ」

 くつくつと自嘲気味に笑う義兄《あに》の声に合わせるように、あたしの手の中の義兄《あに》の手も小さく揺れる。

「……あなたがそんな顔をしているのに喜べ、と?」


 どんな顔をしているの?


「おかしなことを。俺がるぅを手元に置くのをあれほど嫌がっていたお前が、何故《なぜ》今になって咎《とが》めるようなことを言う?」
「咎《とが》めてはおりません。私はあなたが決めたことに従うのみですから」


 義兄《あに》が魔王だったのだとして。
 義兄《あに》は何故《なぜ》、魔王なのだろう。
 魔王なのに、何故《なぜ》人々を襲わないのだろう。
 |何故《なぜ》、あたしなんかを傍《そば》に置いてくれていたのだろう。義妹《いもうと》として。家族みたいに扱ってくれていたのはどうしてだろう。


 ――騙シテタノ。


 本当に、そうだろうか。
 小娘ひとりを10年も騙して、それで義兄《あに》にどんなメリットがあると言うのだ。


「坊《ぼん》、考え直しましょ? るぅチャンはこう見えて結構世間知らずっすよ? 今追い出したら悪い男に捕まって身売りして日銭稼ぐような生活になるかもしれないっすよ?」
「かわいいるぅチャンがそんなになるのは嫌でしょー?」
「そんなに拗《す》ねないでさぁ」

 ガーゴイルたちの声もする。

「それにるうチャン外に出しちゃって、もし坊《ぼん》が魔王だってバレたら此処《ここ》にいられなくなるっすよ」
「任期は務めた」
「次の魔王様だって魔族じゃないかって疑われるっす」
「それは魔界がなんとかするだろう? 今まで領主と兼任してもバレないように操作してたんだから」
「でも、」
「俺の任期が長すぎるって言っていたのはお前たちだろう」
「そう、すけど」


 あたしの、せいだ。
 全部、あたしの。

 あたしが敵だ、悪魔だ、ってなじったから。嫌っている素振りを見せたから。
 だからこの人はあたしの前から姿を消そうとしている。たまたま居合わせただけのあたしを拾って、10年間義妹《いもうと》だって言って傍《そば》に置いて。
 何時《いつ》正体がバレるかもしれないのに。
 この人があたしを育てるのは義務でも何でもなかったのに。

 そして今度は何も言わずに消えようとしている。


 ――コノ人 ハ 悪魔。


 そうよ。


 ――コノ人 ハ 魔王。


 そうよ。

 でもそれは悪魔の頂点に立って人間を狩れと命令する存在ではなくて。
 領主をする傍《かたわ》ら、やってくる勇者の相手をするだけで。


 ――デモ 勇者ヲ 倒シタワ?


 倒したくて倒していたの?
 倒さなければいけない役割だっただけではないの?
 勇者の、人間の敵として。魔王として立たなければいけない理由があるのではないの?


 ――悪魔ダモノ。
   勇者ヲ 人間ヲ 倒スノニ 理由ナンテ アルハズ ガ、


 それは、この人の本質を見極めてからじゃないと言えない。
 この人は悪魔で魔王で。
 領主で城主で。
 それで。

 「あたしの」お兄ちゃんなのよ。





「ごめんなさい……」

 ルチナリスの声に、握っている手が揺らいだ。

 ごめんなさい。勝手なことばかり言ってごめんなさい。
 敵だって言って。悪魔だって言って。
 それでもこんなことを思うあたしを。

「あたし、やっぱり傍《そば》にいたい。悪魔でもいい」


 あたしの村を襲ったのは義兄《あに》ではない。
 悪魔だけれども、悪魔だから、と括《くく》ってはいけない。
 ここで|義兄《あに》を恨むことは、魚が腐っていたと八百屋に文句を言うのと同じことで。
 |義兄《あに》がどんな人だかなんて、この10年見て来たあたしが1番よく知っているわけで。
 
 あたしにとっては、「悪」なんかじゃなくて。


 馬鹿だわ。あたし。
 一時《いっとき》の感情で捨ててしまうところだった。1番大事なことを。


「ずっと傍《そば》にいて、あなたを見極める。それで嫌になったらそう言うから。その時は追い出すなり消すなりしてくれて構わないから。
 だから嘘は言わないで。隠さないで。あたしを騙さないで。あたしは、」

 ルチナリスは手を握り締めた。

「あたしは、青藍様といたい。です」

 もう、駄目ですか? お兄ちゃん。




「……本当にそれでいいの?」

 小さく呟かれた声と共に義兄《あに》の手がすい、と離れる。あ、と思う間もなくその手はルチナリスの瞼《まぶた》を塞《ふさ》いだ。
 しばらくしてゆっくりと外された手はそのまま彼女の頬を拭《ぬぐ》い、くしゃり、と髪を乱していく。

「絶望するかもしれないよ?」
「その時は、その時。です」
「それに、」


 視界が、揺れる。
 見える。
 蒼い瞳は髪に結んだリボンと同じ色。


「此処《ここ》には、こいつらもいるんだぞ。お前、怖いって言ってただろ?」

 義兄《あに》の声に執事が苦笑いしてながら腕を組むのが見えた。
 こいつらってなんすかぁ!? と騒ぎ出すガーゴイルの声もさっきまでの霧の向こうから聞こえるような声じゃなくて……その煩《うるさ》さまでもが今のあたしには懐かしい。


 目をこすった。ちゃんと見えるように。
 そして義兄《あに》であった人に、これからも義兄《あに》でいてくれるであろう人に笑顔を向ける。  
 大丈夫。これでもこの人の妹を無駄に10年もやってないんだから。
 あたし、人《ひと》を見る目はあるつもり。



「そ、か」

 義兄《あに》は微笑むと右手を差し出した。

「お手をどうぞ、お嬢さん。ノイシュタインにようこそ」




 あたしの家はこのお城。

 優しい悪魔たちが、
 ううん、あたしの「家族」が住んでいるの――。