~6月~




 あれ以来、ノクトは帰って来ない。
 セルエタがこちらにあるのなら見つけ出すことは不可能ではないと思われたが、しかし1年前の旅立ちの日と同様、いやそれ以上に、彼のセルエタは持ち主の居場所を感知してはくれなかった。
 彼が本物ではないから感知しないのか。それとも改造を施《ほどこ》してあるのか。前回は距離とアラームは作動したのにそれもない。
 以前、イグニのセルエタをバラバラにしていたのは、この日のために構造を知るつもりだったのかと思ったものの、時既《すで》に遅し。前回と違って門《ゲート》は閉ざされたままだから外に出た《死んだ》可能性は薄い、と言うのがせめてもの救いだろうか。
 それでも旅立ちの日までに見つからなければ、ノクトはただひとりこの町に取り残されるわけで。
 チャルマ、ヴィヴィに続いてノクトまで失い、たったひとり残されたこの気持ちが何に対する不安なのか、もどかしくて困っている。
 
 寮の部屋が分かれていたからか、直近まで臥《ふ》していたからか、僕がノクトの監視責任を問われることはなかった。
 もしかすると彼は、僕に責任が及ぶことも見越して相部屋を解消したのかもしれない。




 三日三晩降り続いた雨が止んだある日、アポティが学校にやって来た。
 配らなければいけない薬があるのだと言う。
 この時期に飲む薬などなかったはずだがと訝《いぶか》しく思うも、ファータ・モンドに病気を持ち込まないための予防薬だと言われれば、はいそうですかと受け取るしかない。
 何処《どこ》も悪くないつもりだけれど、かつて人類を滅亡の危機に陥《おとしい》れたウイルスも感染者の移動で広まったそうだし、ヴィヴィの”特殊な病気”もあったばかりだし。感染に対して鋭敏《えいびん》にならざるを得ないのは理解できる。
 が。
 
 何だろう。随分とかわいらしい。
 卒業祝いのつもりなのか、大きなバスケットにひとり分ずつ小分けにされた袋が詰められた状態で飾られている。栄養剤の時とは違って既《すで》にひとり分ずつ分けられているから配るのは苦でもないけれど、袋の口に結わえたリボンも色とりどりなら、中身のカプセルもカラフルだ。
 菓子だと言って渡したら疑いもせずに口に入れるどころか、感じるはずのない甘味まで感じてしまいそうな……。

 小袋をひとつ手に取り、僕はそれとアポティとを見比べる。

 ……これはアポティが包装したのだろうか。
 夜、店を閉めてからひとり黙々と袋詰めする彼《アポティ》の姿を思い浮かべてしまった。さらには、クルーツォがいたらきっと手伝わされていただろうと、このふたりが夜なべして袋にリボン結びする冗談のような光景まで……ああ、自分の想像力が恨めしい。


「アポティはこれが何の予防薬なのかは知ってるの?」

 だがしかし。その想像は置いといて。

 ヴィヴィの”特殊な病気《木化》”は病気ではない。
 レトははっきりと言わなかったけれど、僕はそう思っている。それに病気であろうとなかろうと、レトは「感染しない」と言った。
 それからいくとこの薬の山は矛盾としか言いようがないけれど、きっと僕が知らないだけで、それ以外にもファータ・モンドに入れたくない病気はこの薬の数だけあるのだろう。

「説明するかい? 1種類3分として15種類あるから、45分ほどかかるけど」
「あー……ええと……木化についての予防薬があるかどうかだけ」
「ああ、木化ね。やっぱり気になるよねぇ」

 アポティは深く考える様子もなく、半透明な粒を指さした。

「これだよ。これは予防って言うより抑制剤って言ったほうがいいかもだね。あの病気を防ぐ薬はまだ開発されていないんだ」

 ”特殊な病気《木化》”について、レトは「安全に発症できるようにする」と言った。この薬はきっとそれだ。
 木化が成長に伴うものなら、その時だけ成長を抑制すればいい。どうしても木化されては困る場所……例えば、ファータ・モンド行きのバス車内で発症しないように、とか。
 痣《あざ》すら出ていない僕には不要のものだが、痣《あざ》の発現から木化ガチャのスイッチが入るまでに何時間あるかは人それぞれ。飲んでおくに越したことはない。


「それじゃよろしく頼むね監督生くん」

 さすがに相手の顔色から容態を推測する達人も僕の想像は範囲を超えたのか、夜なべリボンの光景は伝わらなかったようだ。アポティはげんなりする僕を「また面倒な仕事を押し付けて」くらいにしか取らなかったらしい。

 6月現在、”レトの学徒”は僕ひとり。
 ヴィヴィの一件以降、入院療養や検査を望む学生が後を絶たず、最上級学年で残っているのは僅《わず》かに40人ばかり。去って行った中には残り3人の”レトの学徒”も含まれていたから、必然的にこの手の雑用は僕に集中することになる。
 そんな雑用を任されるのもあと少しで終わりと思えば、寛容にもなるけれど……。

「いやあ、5人もいた時には誰にお願いしようか毎回迷う羽目になってたんだよねぇ。ほら、同じ子にばっかり集中しちゃうと悪いじゃない?」
「……栄養剤の時も僕でしたよね」
「栄養剤? ああそう言えばきみだったね。頼みやすい顔してるんだよね、きみ」

 悪気はない。悪気はないんだきっと。
 やもすれば腹の底から湧きあがって来ようとする悪態を、僕は理性で抑え込む。
 僕はクルーツォ絡みで意味もなく薬局に行くことが多かった。アポティにしてみれば不愛想な仕事仲間がやたらと子供に懐かれているなんて面白い以外にないだろうから、一方的に親しみを持ってくれているに違いない。ちょっと迷惑だけれども。


 そう言えば、あの時の栄養剤は引き出しにしまい込んだまま飲み忘れてしまった。
 原材料が虫ではないと判明した以降、飲もうとは思ったのだ。でもしまった場所にはなくて……だから結局飲まずじまい。
 ノクトの分と一緒にしていたから彼が間違って飲んでしまったのかもしれない。
 「飲むくらいなら光合成していたほうがましだ」と豪語した手前、僕の不在を狙って急いで飲んだから数なんて気にしていなかった、とか。「どうせ栄養剤だから飲まなくてもいい」、「大目に飲んでも大丈夫」、もしくは「正直に僕に言うと怒られる」なんて理由で黙っていたかもしれない。
 
 でもこの薬は栄養剤ではない。むしろその逆。だからこそちゃんと飲まなければ。
 ヴィヴィの最期を思い出し、僕はひとつ身震いする。


「そんな顔するなよ。良いこともあるんだから」

 僕の顔をどう見て取ったのか、おどけたようにアポティは言う。

「どんな?」
「預ける相手を選ばなくていい」

 いや。それはアポティにだけ”良いこと”であって僕にとっては”良いこと”でも何でもないと思うのですが。 
 この人と喋っていると疲れて来るのは何故《なぜ》だろう。

 ああ、でも。
 僕に頼んでくれたおかげで、僕はクルーツォに出会うことができた。そう考えれば僕にとっても”良いこと”だったのかもしれない。

 ……”良いこと”。
 そうだろうか。僕に関わらなければ今頃クルーツォは……。

 胸が痛い。
 両手で籠を抱えたまま、僕は俯《うつむ》いて唇を噛む。





「しかし、あのチビ助たちも卒業か。クルーツォだったら泣いてたねぇ」

 僕の思いが伝わったわけではないだろうけれど、アポティは感慨深げにそんなことを呟いた。
 毎年、卒業生に言っている台詞《セリフ》かもしれないが、クルーツォの名が出て来た部分だけは今年オリジナルだろう。だから余計に感情が籠《こも》っているようにも聞こえる。

「クルーツォが?」
「そうさ。なんせ10年見守ってきたんだからね。クルーツォは表には出て来ないから知らないまま卒業する子も多いだろうが、きみらの健康を管理してきたのは彼と私だよ」

 言われてみればそうかもしれない。
 学校に薬を卸《おろ》すのはアポティだし、その薬を作ってきたのはクルーツォだ。
 やもすれば僕たちは勝手に育ったように思ってしまうけれど、やはりここまで大きくなれたのは多くのアンドロイドの支えがあったからで。だからやはり、彼らを嫌うノクトは間違っている。


「クルーツォは見た目が若いからか、子供たちにやたらと懐かれるんだよねぇ。エンカウント率は私のほうがずっと上だって言うのに理不尽だよ。ほら、きみだって私よりクルーツォだろう?」
「え? いえ、そんなことは」

 鋭い指摘に心臓が跳ね上がる。
 クルーツォと比較してどちらが、なんて考えたこともないけれど、ただどうにもアポティにはレトの影がチラついて、だから避けてしまっていた。
 悪意は気付きやすいと言うし、やはり当人なら気がつくものなのだろう。初等部の頃から見守ってくれていた恩を|仇《あだ》で返してしまったようで申し訳なく思う。

 アポティは「みんなそうだから気にしなくていい」と苦笑いを浮かべると、つい、と門《ゲート》のほうに目を向けた。
 正確には門《ゲート》の向こうにあるファータ・モンドを見たのかもしれない。クルーツォはまだ帰って来ない。


「何だかんだ言ってクルーツォは子供好きだからね」
「そうでしょうか」
「そうとも。彼の感情のオリジナルには弟妹でもいたんじゃないか、って見てるよ私は」


 僕と話すのも今日が最後だからだろうか。アポティは随分と饒舌《じょうぜつ》だ。
 いや、喋ろうと思えば明日も明後日も喋ることは可能だけれども、卒業を間近に控え、式のリハーサルやら荷造りやらで僕たちは結構忙しい。
 アポティも新たに入って来るであろう新入生に向けてする準備があるだろう。だから彼と話す機会は今日が実質最後になる。


「オリジナル?」

 クルーツォがいれば、アポティもここまで思い出話に花を咲かせなかったかもしれない。
 しかし彼が帰って来る目処《めど》はたっていない。

「そう。初期型はね、人間の記憶と感情をデータ化して乗せてあるんだ。そのほうが人間に近くなる、人間に好かれやすくなる、って理由でね。でもその分、思考に矛盾を生じて壊れやすい。で、結局、後期量産型には感情を乗せるのはやめたのさ」

 クルーツォが妙に何か言いたげな顔をしたり、レトとの情報共有を切ったりしたのは感情のせいだったのだろうか。確かにあの時、フランやアポティなら情報共有を切ることはないと思ったけれど。

「そのせいで腕を失くして、ホント馬鹿だよ」

 実際にクルーツォの腕を吹き飛ばしたのはアポティの銃であって、感情ではない。
 クルーツォが僕を助けようとしたこともアンドロイドの義務であって、感情ではないかもしれない。
 ただわかるのは、飲み込まれた腕を切り離すことに躊躇《ためら》って対処が遅れれば、腕どころかクルーツォそのものを失っていたと言うこと。
 アポティは感情がないからこそ撃つことができたのだ、と言うこと。


「だからね。こういうことがあると感情なんてないほうがいいと思ってしまうね、私は」

 クルーツォばかり懐かれるのは理不尽だ。
 クルーツォには感情があるから。
 そんな話をしておいて、それでもアポティは感情などないほうがいいと言う。


 確かに、命令されたことの良し悪しを考えることもなく実行するだけのほうが楽だ。矛盾を抱くこともない。
 けれどこうして話をしていると、後期量産型アンドロイドにも感情があるように思えてしまう。
 いや量産型に限らず……アンドロイドも人間も、体のつくりが違うだけで宿る魂は同じじゃないかと、そう思いたくなる”人”が多すぎる。




「でもアポティだってクルーツォと同じ立場だったら助けてくれたでしょ?」
「どうだろうねぇ。我々は人間を守る使命があるけれど、ひとりと数十人とどちらを選べと言われたら数十人が助かるほうを選ぶよ。もしきみが私が到着した時点のクルーツォの状態だったら、私は周辺にいる子の安全を優先させただろう。きみはあの木と一緒に燃やされてたかもしれない」

 アポティは淡々と答える。燃やされていたかもしれない僕を前にそんなことが言えることこそ感情がない証拠なんだろうけれど、それはさておき。
 あの時、僕たちの周りには人が集まりつつあった。
 野次馬とは言え命は命。ただでさえ人間の数は少ないのだから多く助かるほうを選ぶのは当然のことだ。クルーツォの行動は、やはりここでも他とは違う。

 そう。それこそが感情なのかもしれない。
 クルーツォは僕やヴィヴィと面識があったから助けに入り、攻撃を躊躇《ためら》った。

「馬鹿だよね。クルーツォは自分が壊れることよりもきみを五体満足で助け出すことを優先した。木になった子もなるべく傷つけないようにしようと考えたんだろう。ろくに攻撃もしないで、ホント馬鹿だ」

 馬鹿だ、馬鹿だと繰り返すけれど、どうにもアポティが泣いているように聞こえるのは僕がおかしいのだろうか。
 アポティにとって、10年で入れ替わる僕らは最初から何時《いつ》かはいなくなると思って接する者。思い入れなんてないし、入れ込まないようにする。
 けれど何十年と付き合いがあって、この先何十年も別れる予定のなかったクルーツォを失うのは予想だにしていなかったことだ。予測できていなかった衝撃は、受け身が取れない分、深手を負《お》う。

「あの、ごめんなさい。僕のせいでクルーツォが」
「……………………クルーツォが壊れたことで私がきみを責める権利はないよ。木になったあの子も、巻き込まれたきみも不可抗力だ」

 アポティの口調はずっと変わらない。
 けれど、今までは口に出すまでに溜めることなどなかった。その言葉にならない時間に台詞《セリフ》とは別の感情があるように……言うなれば本音があったように思う。
 責める権利はないけれども、責められるものなら責めたいと。
 感情のぶつけ先がなくて、振り上げた拳《こぶし》を下ろすところが見あたらなくて、どうしようもないモヤモヤが言葉にならないまま漏《も》れたに違いない。 

「なんだろうね。ストン、と明快な答えが出ないもどかしさのようなものが此処《ここ》にあるんだ」

 アポティは片手で胸のあたりを叩く。

「これをやり場のない怒りと言うのだろうか。作られて1,907,207,760秒経《た》って、やっと私も初期型に近付けたのかねぇ」

 何も言えなかった。
 僕もそうだ。ヴィヴィを責める権利などなのに、心の何処《どこ》かでヴィヴィが悪いと言い張る自分がいる。
 ヴィヴィがいなければこんなことにはならなかった。クルーツォを失わずに済んだのに、と。


「……ああ、そう言えばきみは以前クルーツォに何やら聞いていたよね。あれは解決したのかい?」

 アポティは思い出したほうに呟いた。

「この町で起きた問題ならファータ・モンドに行く前に解決していくことをお勧めするよ。なんせ向こうに行ったら此処《ここ》には戻って来られない」

 アポティが言っているのは、クルーツォが町の外に行くと聞いて問いかけた話だ。
 またレトが? と一瞬警戒したものの、アポティの目は先ほどと変わっていない。


 旅立ちの日に星詠《よ》みの灯台で見つかったノクトが本物か否《いな》か、あの頃の僕はまだ疑っていた。
 能登大地が転生してノクトになり、あの日、ノクトの中に能登大地の記憶がよみがえったとして、今までのノクトの記憶は何処《どこ》に行ってしまったのか。
 幼馴染みだったノクトが急に別人になったことが、この世界にいた記憶をすっぱり忘れているのに前世のことだけはやたらと覚えていることが許せなかった。
 「俺は能登大地だ」と言い張る彼は”能登大地”であって、僕が知っている”ノクト”は別にいると、そう思いたかった。

 あの日以降、公《おおやけ》に消息を絶ったとされる学生はいない。
 だからもし誰か外に出た形跡が残っているとすればそれがノクトで、今”能登大地だと言い張るノクト”は言葉通り、”能登大地という別人”という図式が成り立つ。

 だがクルーツォは「人間の形をしたものは見ていない」と言った。さらに「遺体ではない」とも。
 旅立ちの日から数ヵ月。ノクトはそれほど体力に自信があるほうではないから力尽きるとすれば町周辺だろうけれども、遺体は何処《どこ》にもない。しかし町中《まちなか》で能登大地以外のノクトを見かけたと言う声も聞かない。
 そのあたりから推測するに、ノクトは町の外には出ていないと思ったほうがいいだろう。
 きっと最初にヴィヴィたちと出した結論どおり、ノクトは能登大地の記憶にすっかり取って代わられてしまっているのだ。僕たちと過ごした彼の過去は失われてしまったけれど、記憶喪失と同じだと思うしかない。

 何時《いつ》か彼も、ノクトだった時の記憶を思い出す時が来るのかもしれない。
 その頃はもう、僕は隣にはいないけれど。


「ううん……もう解決したから」

 この問いがアポティとレトのどちらから発せられたものかはともかく、僕の中ではもう完結している。話すことも問うことも何もない。


 アポティは中指で眼鏡のブリッジを押し上げた。秀才キャラが皆の前で真相を解明する前にする仕草に似ている。

「……人間の形をしたものは見ていない、だったっけ」
「どうしてそれを、」

 病院帰りの会話がアーカイブに残されていない、と言ったのはアポティ自身だ。だから彼《アポティ》は僕とクルーツォは栄養剤の受け渡しの時以来会っていないと認識しているはずだった。
 なのに何故《なぜ》その台詞《セリフ》を知っているのだろう。
 
「人間の形では、か。クルーツォも上手く逃げたものだ。遺体でとは一言も言っていない」
「で、でもクルーツォは遺体じゃないって」

 あの時、クルーツォはさらに「遺体ではない」と言い直した。あれは僕を傷つけまいとする嘘《うそ》だったとでも言うのだろうか。
 だが。

「そう。遺体じゃない。遺体ではないが遺体のようなものだ」
「それって」

 何が言いたい? 僕はアポティを凝視する。
 遺体ではないが遺体のような、とは仮死状態を意味するのか?
 人間は外の世界では数ヵ月で干乾びてしまうと言われているけれど、何らかの奇跡が重なって未《いま》だに生きている、とか?

 ああ、そう言えば鳥が飛んでいた。
 もしかすると外の世界は僕が知らない間に、かなり穏やかな気候になっているのかもしれない。
 それなら生きていられる。でも僕が「ノクトは死んだ」と決めつけてそのままファータ・モンドに行ってしまったら、もう誰も探さない。


「アポティは何を知っ、」
「ああ、だからクルーツォはきみを守ったのかねぇ。お友達を何度も同じ形で失うのは心のない私でも酷《こく》だと思ってしまうからね」
「え、ちょっ、」
「これ以上は勘弁しておくれ。私はアーカイブの切り方が上手くなくてね」

 僕の問いを遮《さえぎ》って一方的にそれだけ言うと、アポティは「それじゃ」と片手を振って去ってしまった。
 どうせなら全部教えて行ってくれればいいものを。まぁそれがアポティらしいと言えばそうなのだが、この時期、中途半端に謎のまま置いていかれても困る。



 僕は籠を抱えたまま、アポティを見送る。
 時計は夕刻を指しているが、曇り空のせいで全く時間が経《た》った気がしない。ただ少し雲の色が暗くなってきたように思う。

 彼は何を言おうとした?
 言わなかったのではなく、言えなかったのか? レトに伝わると困ることだから。
 それでも教えようとしてくれたのは彼にも感情が生まれようとしているからなのか?

 ファータ・モンドに行ってしまえば、此処《ここ》に戻ることはできない。だから心の残りがあるのなら今のうちに片付けて行ったほうがいい。それはわかる。
 文脈から言って、アポティが話題にしていたのは最初のノクトだ。能登大地ではない、幼馴染みのノクトだ。

 アポティはノクトの所在を知っているのだろうか。
 でも何かの事情でノクトは此処《ここ》に戻ってくることができなくて。だから探してやってくれと……いや。
 
『お友達を何度も同じ形で失うのは――』

 アポティは”失う”と言った。その意味は。



 僕は籠を脇に抱え直し、ポケットからフローロの手紙を引っ張り出す。
 時間切れ《タイムアップ》間近だが、僕はまだ文面以上を読み取ることができないでいる。

 フローロは木化についても知っていたかもしれない。
 けれどこの町やファータ・モンドから逃げたところで木化からは逃れられない。むしろ此処《ここ》にいたほうが抑制剤も手に入る。レトの庇護から外れても大丈夫なのは、フローロのように木化を免《まぬが》れた者だけだ。
 でも外れたところで今と同じ水準の生活は手に入らない。メリットがまるでない。

「……何が言いたいのさ、フローロ」

 僕は片手で手紙を畳み直し、ポケットにねじ込む。

「誰も彼も謎かけばっかりで」

 疲れてしまった。わけのわからない不安に振り回されることに。
 このまま何もしなくても数日後には僕はファータ・モンドに行く。将来の伴侶を紹介されるのが先か、進む道を選ぶのが先かはしらないけれど、僕の未来はもう、僕の与《あずか》り知らぬところで決まっている。
 この問題が何ひとつ解決しなくても。
 この町のことを全て忘れてしまっても。




 卒業式の今日でさえ、ノクトは帰って来なかった。
 僕は上着のポケットに手を突っ込み、忍ばせておいたセルエタを取り出す。塗りの甘い、黒いセルエタはノクトのもの。水族館で渡されたものだ。
 自己満足に過ぎないけれど、今日はこれを持って式に出た。一緒に卒業したつもりで。
 本当はヴィヴィやチャルマのセルエタも持って来たかったけれど、どちらも行方不明。永遠に続くと思っていた日々は、こうもあっさりと失われてしまう。




 数日前から降ったりやんだりと雲行きの怪しい空から、何時《いつ》の間にか雨が落ち始めている。
 教室棟の壁が、まだらに色を変えていく。
 3日も降った後なのに、レトはまだ降らせるつもりらしい。前文明の今頃はよく雨が降っていたそうだからそれを模《も》しているのだろうが、何処《どこ》も彼処《かしこ》も舗装して雨水を吸い込む地面が少ないこの町で、そこまで真似る必要性を感じない。

 この雨で別れの涙を表している、と情緒的に思いたくとも、昨年は降っていなかった。イベント日は大抵晴れるのに、今年から方針を変えたのだろうか。
 せめて旅立ちの日は晴れるといいのだけれ……いや、ヴィヴィもチャルマもノクトも、そして後輩の多くもいない今、別れを惜しむ時間なんてないほうがいい。

 どうせならこの雨も外の世界で降ればいいのに。そうすれば海も復活するだろうに。
 無理だと知りながらそんなことを思う。
 このの雨は町を覆《おお》うドームに仕込んだ散水弁から放出される偽物。屋根のない外の世界では降りようがない。


 式が終わったばかりだというのに人の気配を感じないほど閑散としている。
 昨年は校庭で歓談する学生の姿が何時《いつ》までもあったが、今日は何処《どこ》にもいない。それが除《の》け者にされた時のような寂しさを連れて来る。

 僕は証書筒を手に昇降口へ足を向ける。
 その時だった。

「卒業おめでとう。少しお話していかない?」

 其処《そこ》に図書館司書のクレアがいた。 




「荒野の中に降る雨、と考えればこの雨も慈雨《じう》と呼べるのかもしれないわね」

 誰もいない図書館で、クレアは窓際に立ち、中庭を見ている。
 狭い空間の中で我先にと枝葉を伸ばす様《さま》は、植物界の生存競争を見せつけられているようだが、彼女の目はこんな小さな中庭など通り越し、砂嵐が吹きすさぶ町の外が映っているのかもしれない。
 乾燥した砂地の中でただ一点、雨が降りしきる此処《ここ》。
 大昔ならオアシスだと歓迎したかもしれないけれど、想像してみると案外にシュールな光景だ。

「町の外で降らなきゃ慈雨《じう》とは呼べないよ」

 僕は鞄《かばん》と証書筒を机の上に置き、クレアに倣《なら》って外に目を向ける。
 暴力的な雨音は、先ほどよりもさらに強まっている。


 フローロが卒業した後で再び”フローロの卒業”を認識できるのか疑問だったが、意外なことにクレアはすんなりと理解していた。
 ここで「1年前に卒業してるよね、僕」と意地悪く聞いてみたらどんな反応が返って来るか気になったけれど、彼女は顔認識以外にもいろいろ故障を疑いたいところが多々ある。
 もし矛盾が処理できなくなって司書の業務に支障が出ることになったら、それで処分されることにでもなったら完全に僕のせいだ。怖いことはできない。


「そうかしら。まずは植物の生える環境を整え、そこである程度の群生になるまで育て、それから劣悪な環境下に放つ。1本では折れてしまう草木も群生でなら生き延びることができるでしょう?」

 確かにこの中庭は”ある程度の群生”だけれども。
 僕は成長した木々が窓硝子《ガラス》を突き破って図書館内に侵入する様《さま》を思い浮かべる。図書館を占拠した後は廊下を伝って教室棟や研究棟へ広がり、学園を越えて商店街に魔手を伸ばし……最後にはこの町全体を飲み込み、塀を突き破って外に出て行く様《さま》を。
 そんな荒野を浸食していく緑のヴィジョンにヴィヴィの木が重なった。
 逃げ惑う周囲の学生が枝に絡めとられ、同じように木に姿を変えていく。助けを求めて伸ばされた学生の手の先からも芽が吹き、葉を広げる――。
 想像しておいて何だが、背筋が寒くなる。

「――それならこの雨も慈雨《じう》と呼べるのではなくて? 万物を潤し、育てる雨、と」

 身震いをひとつする僕に気付く様子もなく、クレアは笑みを浮かべたまま指をさす。

「見てごらんなさい。環境が整ってさえいれば荒れ果てた世界でもこれだけ育つことができる」
「……それより。どうして彼処《あそこ》に?」

 僕は話題を遮《さえぎ》って彼女に問う。
 まさか一緒に中庭の木を眺めるために、図書館司書の彼女がわざわざ教室棟の昇降口まで迎えに来たわけではないだろう。
 僕と彼女は雑談に花を咲かせるほど親しい間柄ではない。
 今年に入ってからは何度か言葉を交わしたこともあるけれど、あくまでそれはフローロと間違われていたからで、昨年までは口をきいたこともない。

「待っていたのよ、あなたを。だってあなたのことだから私のことなんてすっかり忘れて帰ってしまうでしょう?」

 クレアの台詞《セリフ》に僕は沈黙で返す。会う約束などした覚えもない。
 1年前に”フローロと”約束をしていたのだろうか。
 例えば彼が旅立ちの日に言い残した「追いかけたくなったら図書館のクレアを訪《たず》ねて」のくだり。昨年の今日、彼はクレアに託していったのかもしれない。

 それを僕でもう1度再現しないといけない、なんてことにはならないと思うけれども。いや、ここでフローロになりきって話を進めれば、彼がクレアに何を託したのかがわかるのではないか?
 僕はポケットを上から撫でる。カサリとした感触は、そこにフローロの手紙がある、と言っている。

「……クレア。今になって言うのは狡《ずる》いと思うんだけど、僕はフローロじゃない」

 でも結局、なりきるのはやめた。託したということなら話の主導権はフローロが持っていたはずだから僕では会話が成立しない可能性のほうが高い。
 それに最後までクレアを騙していくのも気が引けた。
 だが。

「知ってるわ」

 返ってきたのは意外な返答だった。

 知っている?
 以前、フラン《レト》の「僕《マーレ》が図書館で勉強しているとクレアから聞いた」という言葉に違和感を覚えたことを思い出した。
 アンドロイドとレトの間でなら、認識したことがそのままデータとしてレトに送られる。どれだけ僕のことを「フローロ」と呼ぼうとも、彼女《クレア》が僕をマーレとして認識していたのだとすれば、レトには「マーレ《僕》が図書館で勉強していた」としか伝わらない。

 つまり、クレアは最初から僕を僕だと認識していたのか?
 では|何故《なぜ》彼女は僕をフローロと呼んだのか。
 僕をフローロとして扱うことで彼女に何の利益があるのか。
 
「クレアは、何を知ってるの?」
「全てを」
「全て?」
「そう。フローロがあなたに伝えたかったことも、あなたが此処《ここ》で知り得たことも」
「貸し出しコードを誤って渡す演技までして?」

 そうだろうか。
 クレアが、僕にフローロの後を僕に辿《たど》らせたかったのか?
 フローロ自身に、僕が追って来るように仕向けてくれと頼まれたのか?
 何にせよ、彼《フローロ》自身が僕に結論を話す、という手段が取れなかったからこんな回りくどい方法――クレアが僕をフローロと間違えていると錯覚させ、フローロの貸し出しコードを渡し、フローロが置いて行った本を読ませ、手紙を渡すこと――がなされたのだと言うことだけはわかる。

 フローロはそれだけ監視されていた。
 誰に?

 それができるのは、レトだけだ。



 しかし疑問も残る。アンドロイドであるクレアが、いくら人間からの頼みだとは言え、レトを介さない行動に加担するだろうか。
 初期型ならレトへの服従よりも感情を優先させるかもしれないが、クレアもそうなのだろうか。顔認識を始めとする故障を疑いたくなる言動は、初期型故《ゆえ》だろうか。

 それともこれも演技なのか?
 自分はレトに反する者だと……レトよりフローロの味方だと僕に思わせるための。


 そもそもこのクレアは本当にクレアなのか? レトが入り込んではいないか?
 フローロがあれだけ回りくどい方法で伝えようとしたのは、クレアにも知らせないため。クレアを通じてレトに伝わることを恐れたからだ。
 今彼女は全てを知っていると言ったけれど、探りを入れているだけかもしれない。
 フローロの……あの手紙の存在だけはきっと知らない。

 僕は周囲を見回す。
 監視カメラは部屋の四方と出入口に2ヶ所、書架コーナーに4ヶ所、中庭に面する硝子《ガラス》扉の上に3ヶ所。
 こうしている今も、レトは僕を見張っている。




「この町に勤めて5,692,075,200秒。私はずっと子供たちを見守ってきたの」

 クレアは図書館を見回す。何時《いつ》来ても閑散としている此処《ここ》は今日も僕たち以外誰もいないけれど、かつては賑わったこともあったのだろうか。彼女には今まで此処《ここ》を訪れた全ての子供たちが見えているのかもしれない。

「私はこの町を巣立ったあの子たちは皆、幸せになっていると思っていた」 

 幸せ、ではないのか? 
 僕は黙ったままクレアを窺《うかが》う。

「でもね、違ったの。そして1週間後、また私の大事な子供たちは、」

 1週間後は旅立ちの日。僕たちがファータ・モンドに行く日だ。
 彼女の言う「大事な子供たち」とは十中八九僕たち卒業生のことを指している。

 ファータ・モンドに行くことが不幸なのか?
 確かに彼《か》の地で僕たちは大人として生きなければならない。今までは子供だから、と免除されてきた勤労の義務もあるだろう。学校の勉強だけしていればいい此処《ここ》とは全く違うだろう。
 でも。

「ファータ・モンドに行くと不幸になるの?」

 此処《ここ》ではファータ・モンドの情報は何ひとつ入って来ない。
 けれどクレアはアンドロイド。彼女の見知った情報がレトを通じて全てのアンドロイドと共有できるように、彼《か》の地の情報もクレアなら――いや、きっとアポティやクルーツォも――知ることができる。知って、その上で僕たちには黙っている。

 ファータ・モンドには何がある? クレアに子供たちを行かせるに忍びないと思わせるほどのことがなされているのか?
 もしかしてフローロはそのことまで知って、だから逃げろと言ったのか?

「ファータ・モンドには何があるの? 不幸になるの」
「……さあ、どうかしら」

 しかし肝心なところになるとクレアははっきりしない。

「幸せか不幸せかは自分で決めることだわ。世界のために尽力すること、自分の人生を費やすこと。それが幸せだと思うのなら幸せなのでしょう」
「それって暗にフローロの夢は叶わないから不幸だって言ってない?」

 フローロの夢は海を復活させること。けれど、いくら彼《フローロ》が優秀な学生だったからと言っても彼の代では無理だ。その意思を僕が受け継いだとしても、それでもきっと叶わない。
 けれど指1本携《たずさ》わっていないクレアが不幸だなんて判断していいことではない。
 現にレトは評価している。彼《か》の地に行ってまだ1年、絶対にめぼしい成果なんて挙《あ》げていないだろうのに、彼女は「フローロは世界のために尽力している」と言ってくれている。


「ともかく、これが最後なの。ねぇ、マーレ。フローロから聞いたでしょう?」
「何を」
「ファータ・モンドに行ったら駄目だって。今なら此処《ここ》を抜け出せる。私はあの子からそれを託され、うっ」

 言葉の途中でクレアは苦鳴を上げると、頭を抱えてうずくまった。

「クレア!?」

 クレアはあの手紙の内容まで知っていたのか?
 フローロは僕(とそれ以外にあの手紙を読む可能性がある後輩)をファータ・モンドに行かせないように、クレアに託したと言うのか?
 でもどうして?
 どうやって?
 木化という時限爆弾を抱えて、レトの庇護《ひご》を逃れて外に出て、それでどうなる? 出たところで導いてくれる者はいない。

「……この町は……地下通路が、あって」
「そこから逃げろって!?」

 アポティから貰った予防薬の効果はせいぜい半日~数日。バスに乗ってファータ・モンドに行って、彼《か》の地で新たな住処と伴侶をあてがわれ、新たな道を提示され、荷造りを解き、新しい生活に落ち着くまでの間だ。
 フローロは木化を免《まぬが》れているし、イグニもいる。「手に手を取って逃避行」でも「愛があればお金なんて」でも何でもすればいいけれど、僕に同じことはできない。
 そしてそのフローロはファータ・モンドで今日も楽しく研究に明け暮れている。自分だけレトの恩恵を享受しておいて僕には出ていけだなんて、矛盾もいいところじゃないか。

 フローロが妙なことを吹き込んでいったせいでクレアは苦しんでいる。
 此処《ここ》から逃げる手助けをするなんてレトに反する行為だ。一時的にアーカイブを切るだけでもアポティは支障が出ているようだったのに、クレアはこのことを丸1年レトに隠し続けた。どんな影響が出ているかなんて想像するまでもない。

「クレア、いいから。フローロが言ったことなんて全部忘れて! フローロは手紙にも残してくれたし、今ので何となく把握できたし」

 地下通路をどう通れば外に出られるかなんて知らない。
 でも逃げるつもりがないのなら、そんな情報は必要ない。
 それよりもクレアだ。彼女が子供たちを大事に思っていることを逆手に取って、「子供たちが不幸になる」と吹き込んで。

 フローロは何がしたいんだ?
 何が目的で――


「……フローロはいい子だったわ」

 頭を抱えてうずくまっていたクレアは、ふいにそう呟くと身を起こした。
 僕に向かって手を差し出し、パラリ、とその手をゆるめる。
 落ちるようにして現れたのは花枠のついたセルエタ。1年前の旅立ちの日に、イグニが首からぶら下げていたそれは、フローロのものだ。

「え?」

 何故《なぜ》それをクレアが持っている?
 フローロのセルエタがあれば彼と再会することができる。ファータ・モンドでか、落ち延びた外の世界でかは不明だが、彼は再び僕と会うつもりで……その意味でクレアにセルエタを託していったのならわからなくもない。
 けれど、そのセルエタはイグニが持っていたのを僕は見ている。

 なのに何故《なぜ》それが此処《ここ》に?
 前述のとおりフローロが僕に探し出してもらうつもりだったのなら、最初からイグニに渡したりはしない。
 まさかイグニから奪ったのか?
 フローロは本当に、まだファータ・モンドで元気にしているのか?


「あなたは、何を知っているの?」

 クレアの笑みが何処《どこ》かうすら寒く感じる。

 僕は後退《あとずさ》った。
 先ほどまでのクレアじゃない。このクレアは本当に味方なのか?

 |何故《なぜ》気がつかなかったのだろう。フローロの気付きは、僕が出した推測は、レトにとって都合が悪いということに。
 レトは何時《いつ》でも僕を見張っていたのに。
 何時《いつ》でも、クレアを乗っ取ることができるのに。



 考えてみれば引っかかる点はいくつもあった。 

『――お友達を何度も同じ形で失うのは心のない私でも酷《こく》だと思ってしまうからね』

 アポティの言葉。あの文脈はクルーツォの言葉の「人間の形をしたもの」にかかっているように聞こえた。
 「何度も」。
 「同じ形で」。
 僕がその言葉どおりに失った友人はヴィヴィとチャルマだ。ふたりとも木化して死んでしまった。だから「人間の形をしていないもの」は木化して亡くなったことを指すはずだ。
 町の外でクルーツォが見たのは……ヴィヴィのように”木に変わってしまった人間のなれの果て”。


 レトは「安全に発症できるようにする」と言った。
 僕はそれを木化を抑制すること、あわよくば痣《あざ》が出ても木化しないようにすることだと思っていたけれど、本当にそうだろうか。
 安全に……周囲に被害を及ぼさないように”確実に”木化させるという意味には取れないだろうか。


『そこである程度の群生になるまで育ててから外に放つのなら』

 僕は見た。ヴィヴィの背を突き破って木が生える様《さま》を。
 まるで発芽だった。ヴィヴィという種を割って、新芽が伸び、根を張り、成長する。種が役目を終えて朽《く》ち果てても、木は自力で光合成をして栄養を蓄え、さらに成長していく。
 もしレトが欲しかったのが、”種《人》”ではなくて”木”だったとしたら。


『この町にも植物は多いわ』

 街路樹もある。花壇もある。外界に比べれば植物の量は確かに多い。
 でもクレアが指した”植物”はそれだけではない。


 僕らは本当に、”人類”の突然変異なのか。
 この疑問は、ノクトに植物呼ばわりされたことが未《いま》だに尾を引いているからなのかもしれない。
 でも実際問題、前文明の人間は光合成をしない。いくら突然変異だからって指の間に水掻《か》きができるのとはわけが違う。

 
 僕たちは前文明の人々の末裔《まつえい》なんかじゃない。
 突然変異でもない。作為的に作られた、人間に似せた”植物”。もしくは限りなく植物に近い、人間の形をした何か。
 そして僕たちは、この世界を元の緑豊かな世界に変えるために使われる。

 この考えは間違っているだろうか。
 フローロが伝えようとしたこととは違うだろうか。貸し出しコードの中に並んでいた植物に関する本は”ただの趣味”なんかじゃなくて、むしろそちらが本命で。


『ファータ・モンドに行ってからフローロに何かあるかもしれない。可能なら来年、ファータ・モンドで手を貸してほしい。僕を探して、追って来てほしい』

 イグニはそうチャルマに言い残した。
 そのイグニが身につけていたフローロのセルエタは、今クレアの手中にある。
 
 もしかしなくてもイグニとフローロは既《すで》に”何かあっ”たのかもしれない。
 「フローロは世界のために尽力している」とは、海を復活させるための研究に明け暮れているという意味ではなくて、本当に”世界のために”使われてしまったのかもしれない。

 
 僕はどんな病気にも効果がある花の存在を知っている。
 生命《いのち》の花、とは、僕たちが木化した後に咲かせる花のことを指しているのではないか? だからファータ・モンドの近くで……毎年、卒業生が送り込まれるファータ・モンドの近くで群生しているのではないか?
 あれはその名のとおり、僕たちの命を糧《かて》に咲いた花。
 大量に集まれば、この世界を回復させる力になる。


『――ってことはさ、あの花をたくさん育てれば海を復活させることも可能なのかな』


 そう。かつて生命の頂点に立ってこの世界を食い物にした”人間”と同じ形をしたモノを食って、この世界は復活する。


 だからフローロは言ったんだ。
 「逃げて」と。



「な……何を知ったかって言えば海の成分とか成り立ちとか、そんなことかな。僕はフローロと一緒に海の研究がしたくて参考資料を漁《あさ》ってたんだもの。おかげでフローロが目指してた分野の目処《めど》は立ったよ」

 僕は手を伸ばして鞄《かばん》と証書筒を手繰《たぐ》り寄せ、それからクレアの手のセルエタに目を向ける。まるで人質みたいに頼りなく揺れるセルエタは、できることなら奪取したかったけれど無理だろう。非力な女性に見えても彼女はアンドロイド。身体能力は僕よりずっと上だ。

「そろそろ寮の門限が心配だから帰るね」

 嘯《うそぶ》いてみたけれど何処《どこ》まで通用するだろう。知ったことが海についてだけだなんて絶対に信じていない。それに僕は把握したと言っている。
 このまま殺されるか、捕まえられて頭の中を掻《か》き回された果てに木にされるか。下手に動けば逃げることはまずできない。現に、

「そう。知ってしまったのね」

 クレアは死神が鎌を持って歩み寄るように、ゆっくりと近付いて来る。


 近寄られた分だけ僕は間合いを開ける。
 開けても詰められる。
 このまま進退を繰り返していれば、僕は図書館の最奥にまで追い詰められる。

「何故《なぜ》逃げるの? もしかして私が何かすると思ってる?」

 彼女の顔には酷笑《こくしょう》ともとれる凄惨《せいさん》な笑みが貼りついている。
 子供を不幸にしたくないと苦しんでいた彼女は、もう此処《ここ》にはいない。


 どうやって逃げたらいい?
 外に通じる扉はクレアの後方にしかない。ロングスカートに踵《かかと》の高いブーツといういで立ちのクレアは走ることには不慣れなはずだ。机の間を縫《ぬ》って走れば撒《ま》けるだろうか。


「いらっしゃい、私のかわいい子供《ピーポ》。あなたは私に必要なの」

 クレアは手を差し出す。でもこれはクレアじゃない。レトだ。クレアは「私の子供《ピーポ》」なんて言わない。

「……フローロと同じようにね」

 クレアの目の奥がチカリ、チカリ、と瞬《またた》く。
 
 フランの時と同じだ。この目を見ていると何も考えられなくなって、隠していることも全部喋ってしまいそうになって。
 僕はクレアの目から視線を逸《そ》らす。しかし初手遅れを避けるためには完全に見ないわけにもいかない。
 視界のギリギリ端で彼女の目が瞬《またた》く。
 見ないように気を付けるつもりが、余計に注視してしまう。

「フローロに、何をしたの?」

 レトは僕が必要なんじゃない。
 此処《ここ》で知ったことを他の学生に吹聴して回らないように……計画を潰されないように口封じしたいだけだ。フローロと同じように。


 その時、中庭で何かが光った。
 何? と確かめる間もなく光が弾け、木々が木っ端みじんに散る。
 硝子《ガラス》が割れ、爆風が吹き込む。
 その風は中庭を背にしていたクレアを硝子《ガラス》ごと吹き飛ばした。 




 空が青い。
 初めて見る色なのに何処《どこ》か懐かしいと感じるのは、散々刷り込まれた”本当の空の色”のせいだろうか。抜けるような薄青は海の色とはまるで違う。
 波音に足元を見れば、足首まで水に浸《つ》かっている。
 チャプ、チャプ、とリズムを刻みながら打ちつける小さな波が、僕の足首に当たって小さな泡を散らせている。

 ぬるりとした感触に思わず足を引くと、先ほどまで足があった場所を灰味がかった小魚が滑り抜けた。
 ニャアという声に空を仰げば、白い鳥が数羽、群れながら沖に向かって飛び去るのが見えた。
 鳥が来た方角を見れば、白い砂浜と、防波堤の先に小さな灯台。砂浜の向こうに居並ぶ木々は、一様に薄桃色の花を付けている。

 此処《ここ》は何処《どこ》だろう。

 身を屈《かが》め、両手で水を掬《すく》う。
 指の間から流れ落ちる水の臭《にお》いに、何故《なぜ》か青白い光に照らされた標本が並んでいる光景が浮かんだ。


 此処《ここ》はただずっと、見渡す限り水しかない。
 懐かしいと思うのに、一方で僕は此処《ここ》にいるべきではないなんて思う。

「……どうして」

 知らず、声が出た。
 どうして此処《ここ》にいるべきではないと思うのだろう。
 こんなに空が青いのに。
 こんなに静かなのに。
 こんなに、







 目を覚ますと、そこには空も海もなかった。
 錆《さ》びついたパイプが何本も壁に沿って走る、薄暗いトンネルのような場所。一段低くなった場所には暗緑色の藻《も》に埋め尽くされた水が申し訳程度に流れている。
 水路だろうか。見覚えのないその景色はゆらり、ゆらり、と不安定に揺れている。

「お? 気がついたか?」
「ノ……クト……?」

 僕はノクトに背負《せお》われていた。
 どうりで景色が不安定に揺れているはずだ……ではなくて。

 彼《ノクト》の服は水族館に行った時と同じもの。着の身着のままで失踪したのだからと言うには全体的に薄汚れ、ところどころ擦《す》り切れ、どうにも汚れ方が尋常ではない。
 が、そんなことより何故《なぜ》ノクトが此処《ここ》に?
 いや何故《なぜ》というなら、何故《なぜ》僕までこんなところに?

「此処《ここ》は?」

 僕は周囲を見回す。

「地下通路だ。この町にはこういうのが張り巡らされてる」
「地下通路」

 クレアが言っていた脱出経路のことだろうか。
 先ほどから随分歩いているけれど行き止まることもなく、それどころか途中には幾《いく》つもの分岐があった。たまに用途不明の機械を見かけるものの監視カメラらしきものはなく、そのどれもが錆びつき、壊れているように見える。
 経年劣化か、湿気か、汚れか。どんな理由で壊れたかは不明だが……ノクトはずっと此処《ここ》に潜んでいたのだろうか。だとすればレトの包囲網を掻《か》い潜って今の今まで消息を絶っていられたのも合点がいく。
 そればかりか、此処《ここ》を通って行けばレトに知られることなく外に出ることもできそうで、空論にしか聞こえなかったクレアやフローロの言《げん》が俄然《がぜん》現実味を帯びて来る。

「でもどうして……僕は図書館にいたのに」

 そう。僕は図書館にいた。
 いきなり中庭が爆発して、硝子《ガラス》が割れて、クレアが吹き飛んで。それから目を覚ますまでの記憶がない。
 どうして図書館ではなく地下にいるのだろう。
 ノクトは何処《どこ》で僕を見つけたのだろう。
 あの爆発は。
 クレアは。

「……クレアは?」

 ノクトは答えない。
 襲われそうになった(?)僕が彼女の身を案じるなんてどれだけ平和なんだ、と呆れているのかもしれない。



 黙りこくったノクトに背負《せお》われたまま、全く見覚えのない場所を進む。けれどノクトは何処《どこ》を歩いているのかわかっているのだろう。足取りに迷いがない。
 道に迷っているわけではない。そんな安心感からか、時折、睡魔に飲み込まれそうになる。何処《どこ》に連れて行かれているかもわからないのに。


「……夢を見たんだ」

 ゆらゆらと揺れる景色に、先ほど見た夢が重なる。

「空が青くて、鳥が飛んでて。ノクトが好きな魚? もいたよ。”海”に似てて、”海”よりずっと広くて。果てがなくて」


『――水族館の中庭にある水溜りじゃなくってね、ずっと遠くまで広がる本物の海が見たい』

 何時《いつ》かの夢で、フローロはそう言った。
 本物の海には果てがないらしい。

「あれは本物の海だったのかな。僕、海なんて見たこともないのに、どうしてあんな光景を見たんだろう」

 僕にとって海とは、水族館にある”果てのある水溜り”。
 鳥らしきものは影で見たけれど本物かどうかは定かでなく、魚に至っては子供向けにデフォルメされた絵でしか見たことがない。
 なのに随分とリアルだった。魚の表面のぬめりまではっきりと感じた。
 未来視とか暗示とか僕にはそんな能力はないけれど、ただの夢で終わらせるにはリアルすぎる。

 けれど、やはりノクトは答えない。
 僕にとってはリアルな夢でも、本物を知っているノクトにしてみれば空想の域を出ないばかりか矛盾の塊。なのに「本物かもしれない」なんて夢見心地で話す僕に、心の中で「馬鹿な奴《やつ》だ」と嗤《わら》っているのかもしれない。


「……今まで、何処《どこ》行ってたのさ」
「すまない」

 こういう普通の指摘には返事をするのだから、きっとそうだ。





 遠くで重いものを打ちつけているような音が聞こえる。
 パイプの隙間に無理やり押し込んだ細長い電灯が、あたりを弱々しく照らしている。少し先にある同型の電灯はチカチカと不規則な明滅を繰り返している。
 そんな見覚えのないものばかりの中でノクトだけが記憶のままで。
 でも中身は違っていて。

「……ねぇノクト」
「何だ?」
「フローロが危ないんだ」
「前にチャルマが言ってた奴《やつ》か? イグニに言われたっていう」


『世界のために尽力すること、自分の人生を費やすこと。それが幸せだと思うのなら幸せなのでしょう』

 そうクレアは言った。しかし彼女の目には幸せに生きているようには映らなかった。
 そんな場所にフローロは向かい、そして。

「……もう駄目かもしれない」

 フローロの思惑はレトに知られていた。
 ただのフローロの思い過ごしなら阻止することもない。愚かな子供のごっこ遊びだと放置しておけばいい。「危険だ」と声高に叫ぶ子供が数人いたところで何ができる。
 でも今までの会話からして、レトは放置しなかった可能性がある。
 
 ”フローロはファータ・モンドで世界のために尽力している”
 ああ。フローロは今、どうなっているのだろう。


「レトはフローロと同じように僕が必要なんだって言ったけど……酷《ひど》く怖かった。まるで口止めのために何かされそうで。それと同じようにって、フローロはもしかして」

 何時《いつ》も皆のことを考えてくれていたフローロだから、自身はファータ・モンドに行く決断をしたのだろう。
 そんな彼を僕は疑った。木化しないから逃げろだなんて軽々しく言えるんだと、そう思った。
 あれだけお膳立てて行ってくれたのに、僕は彼が言いたかったことをまるで理解しようとしなかった。

 フローロと同じように。
 つまりは僕がされそうになったことをフローロにもした、ということではないのか?
 僕は逃れることができたけれど、フローロは――。
 

「いや、まだ死んでないかもしれないし、その結論は早いだろ」

 僕の断片的な記憶と推測をひとしきり聞いて、ノクトは言う。

「お前言ってたろ? 自分より優秀なのがいるのにどうして”レトの学徒”に選ばれたのかわからない、って。そうやって考えれば、お前もフローロも他の学徒も一般学生とは違う何かがあるんだろう。レトにとって必要な何かが。だから死んじゃいないと思うぞ」

 そうだろうか。宥《なだ》めるような声色が、偽りの色を帯びて聞こえる。
 死んではいないかもしれない。
 でも生きているとも限らない。
 それにレトは”学徒”を評価していない。僕に対して言ったのは、「これからは痣《あざ》持ちが評価されるようになる。痣《あざ》が現れた者はその後、世界の担い手として役に立つ」とだけ。

 ”レトの学徒”に選ばれたものの僕には痣《あざ》がない。
 一方でヴィヴィとチャルマは学徒ではないのに痣《あざ》が出た。レトが評価するならあのふたりで、木化しなければ今頃は僕以上の信頼を勝ち取っていただろう。
 ああ、でもそんな条件を全てクリアした数少ない人材なのにフローロは口止めされたかもしれなくて。なのに、片や世界のために尽力していると言われて。


「……少し休むか?」

 ノクトは気遣《きづか》うように僕を下ろす。

「そうだ。チャルマのことなんだけどな」

 そして首から下げているセルエタを起動させ、あるリストを展開させた。

「それは?」

 ノクトのセルエタは僕が持っている。彼が取り出したのはイグニのセルエタだ。

 卒業生のセルエタなんて他人に譲ろうが廃棄しようがレトは関与しない。
 言い換えれば、本来の持ち主以外の誰が持ち歩いているか知れたものではないセルエタがいくら居場所を伝えてきたところで、それを持っているのは本人かどうかも定かではないのだから、その情報には何の価値もない。
 しかしセルエタ自体の機能は持ち歩くに値する。
 自分の居場所をレトに知らせることなくセルエタの機能だけを使う。ノクトがイグニのセルエタを使っているのは、そんな仕組みの裏をかいた結果に他ならない。

 の、だろうけれど。
 だったら最初から自分のセルエタを使えばいい。ノクトのセルエタは彼の居場所を示さないのだから。

 他に理由があるのだろうか。
 わざわざ使い慣れないイグニのセルエタを使ってまで、自分のセルエタを僕に渡して来た理由……。

 ……いや。
 いやいやいや。こんな時に何を。
 あの理由は絶対に違う。だってノクトのセルエタを持たされたからって再会なんてできないじゃないか。
 本人も「これは俺のじゃない」って言ってたし、あのセルエタを持っていると自分が”ノクトの代用品”にしか思えなくて嫌だったから返して来た。それだけだ。


「チャルマに処方された薬のリストだ。病院のデータベースから取ってきた。前にクルーツォが栄養剤の成分が違うって言ってただろう?」

 しかしノクトは、僕の「それは」はリストのことだと思ったらしい。
 言いながら、とある項目を指さす。


 ああ。僕の推測は当たっていた。
 チャルマに投与されていた大量の栄養剤。薬を知らない素人でも違和を感じることができる一項目だけ桁《けた》の違う数字。
 チャルマの痣《あざ》は、木化した理由は栄養剤の過剰摂取だと、その数字が語っている。

「これってさあ」
「……知ってる。痣《あざ》のことも、」

 木化したことも。


 レトが僕らに”本当に”期待しているのは木化することかもしれない。
 木化して生命《いのち》の花を咲かせること。僕たちの命で次代の人類を育て、その命でさらに次の人類を育む。そうしながら鳥を、魚を、世界をよみがえらせる。
 でもそれは僕たちには教えられない。
 だから町中《まちなか》で発症した日にはその貴重な1本を切り倒し、特殊な病気だと説明し、さらには見た者の心のケアと称して実生活から隔離する。そこまでして隠し通して。

 性徴《せいちょう》が来たら。大人になったら。
 僕たちはそんな少し先にあるはずの”自分たちの”未来すら知らなかった。いや、知る術《すべ》がなかった。



「僕ね、人間じゃないんだ」
「……」
「ノクトの言う通りだったよ。言ったでしょ? 植物みたいだって」

 僕たちは人間ではない。
 少なくとも前文明の人々の末裔《まつえい》ではない。
 ただ、彼らがそのままピラミッドの頂点にいたのなら、僕たちの祖先はこの世に現れることはなかっただろう。頂点を極めていられるほどの数がいるのなら、彼らは人工知能に命運を委《ゆだ》ねることはなかったし、生命《いのち》の花なんて代物《しろもの》が必要になることもなかったのだから。

 そして。

 ワクチンが入手できなくてよかった。
 心の奥底で沸き上がった暗い想像に、自分かわいさにそう思ってしまったことに、僕は唇を噛む。

 もしノクトが当初の予定どおりワクチンを持って前世に戻ったら。人類が生き延びたら。そうしたら……今この世界で人間として生きているのは前文明の末裔の人々であって、僕たちではなかっただろう。
 過去が変われば未来も変わる。僕たちは存在しなくなる。
 

「いや、あれは俺も言葉が過ぎたって言うか、」
「ごめんノクト」
「今度は何だよ」
「僕ね。前文明の人たちが死んでも構わないって、思っちゃったん、だ」


 一時期は能登大地が転生してきたのには彼らを救う理由があったのでは、と思ったのに。
 なのに僕は、僕が生き延びるためなら前文明の人々が――その中には能登大地の家族や知り合いもいるだろうに――死んでも構わないとすら思ってしまった。


「……普通だろ。俺だって知らねぇ奴《やつ》がどうなっても何とも思わん」
「でも僕のは、ノクトの家族も入ってる。だけど死んでもいいって、思っ」

 ノクトはひとつ溜息を吐《つ》いた。
 チカチカ点滅していた電灯がフッと消えて、それから慌てたように点灯する。

「それを言うなら俺も同じだ。俺だって最初は誰が死んだって構わないって思ってたんだ。それで涙が呼べるなら。ファンタジー物書きは何人殺して一人前、なんて言葉があったくらいだしな」

 まさか失踪中に誰か殺したのだろうかと心配になったが、ファンタジー物書き云々《うんぬん》のくだりからして比喩だろう。
 能登大地はゲーム制作者だが、その舞台は大抵がファンタジーだろうし、自分でシナリオから作っているのだとすれば考え方は”物書き”と変わらない。
 きっとそのストーリー上で何人も死なせたのだ。プレイヤーを泣かせるために。

 でもそれはあくまで創作。
 生きていた人々の死を望んだ僕とは次元が違う。


「こういう時ばっかり優しいのは狡《ずる》いよ」

 同じじゃない。
 そんなこと言うなんて、と罵倒《ばとう》してくれたほうがずっといい。


「安心しろ。俺が優しいのは裏があるから」

 そう言って言葉を止めたノクトは、暫《しばら》くして意を決したように口を開いた。

「ごめんな。この世界を作ったのは俺なんだ」




 今しがたノクトが口にした言葉は、僕の右耳から入って左耳から抜けて行った。それはもう華麗に。華麗過ぎて何を言ったのか暫《しばら》くの間理解できなかったほどに。

 ええと?
 作った?

 ……何を??

 失踪している間に厨二《ちゅうに》病が悪化したのだろうか。
 こんな時、僕はどう返せばいいのだろう。

「理解できないのはわかる。俺もやっとそうなのかなって思い始めたところだし」

 いや、初期段階ならそこで立ち止まろう! 転生勇者でも正直引くのに神とか言い出したら、僕はすっぱりと関係を断ち切れる自信がある。幼馴染み《ノクト》のよしみ、兼、年長者《能登大地》への礼儀で口には出さないけれど。

 が、出さなくても伝わってしまったようだ。
 ノクトは少しだけ口を尖らせる。しかしそれでも考えを改めるつもりはないらしい。

「ホラ話に聞こえるだろうけどお前、出まかせには耐性あるだろ? だからちょっと黙って聞いてくれ」

 そんな長い前置きの次に続いた言葉は、僕の想像なんて軽く超えていた。
 曰《いわ》く、この世界は能登大地が引き籠《こも》って作っていたゲームの世界であるらしい。ゲームと言ってもシステムと、突発的なイベントを少々盛り込んだまでの未完成品で、だからノクトも最初は、この世界がそうだとは思っていなかったそうだ。
 その世界はAIに支配されていて、人類は数百年前に数を減らし、舞台となる町には子供しかいない。
 ノクトが語った”ゲームの世界”は、僕が知っているこの世界と確かに酷似《こくじ》している。

「でも疫病の話は? あれもノクトが作った創作なの?」
「俺の世界では実際にあったんだ。隣の国で正体不明のウイルスが見つかって、数ヵ月の間に世界中に広がって大勢死んだ。俺が知る限りではまだワクチンも見つかってなくて、とにかく他人と接触しないようにするしかなくて。店も会社も閉まって、いっつも混んでるバスもガラ空きで……ちょうどいいって言うとアレだけど、いかにもディストピアな設定だからゲームに盛り込んだ」

 加えて、そのゲームはキャラクターが大勢死ぬらしい。
 先ほどの「知らねぇ奴《やつ》がどうなっても~」だの「ファンタジー物書きは~」だのと言った発言はそこに起因しているのだろう。
 けれど。

「でもそれだけで此処《ここ》がゲームの世界だとは言えなくない?」

 と言うか、普通は「此処《ここ》は俺が作ったゲームの世界だ!」と言われて「はいそうですか!」とは思わない。
 ホラ話に耐性があるというのは、何を言われても信じるということではない。何を言われても信じずに聞き流せるということだ。

 そんな僕の内なるツッコミなどまるで伝わっている様子もなく、ノクトの話は続く。

「最初はわくわくしたんだ。俺が作った世界にいるってことが。どうして此処《ここ》に来たのかは知らないけど戻ったところで明るい未来が待ってるわけでもないし、だったらゲームをリアル体験するのもいいかな、って。だってよ、概念だけの未完成品がこうして完成して世界になってるんだぜ?」
「はあ」
「でもさ、チャルマやヴィヴィがいなくなったあたりで怖くなったんだ。あいつらは此処《ここ》で生きてて、俺なんかのためにいろいろ考えてくれたりしたのに……キャラがバタバタ死ぬのはそうしたほうがディストピアっぽいかなとか、そんな軽い気持ちだったのに、俺、とんでもないことしたんじゃないかって」

 その表情は本気で苦悩しているように見える。
 しかし。しかしだ。
 あり得ない。転生だって認めたくないのにゲーム? 死んだほうがディストピアっぽいから? そんな浮かれた理由でヴィヴィやチャルマが死んだって!?

「……随分殺伐《さつばつ》としたゲームだね。その分だと僕も危ないね」

 爪の垢ほども信じられる要素がない。
 しかし嫌味混じりに言った指摘にノクトはと言えば、

「心配するな。お前は死なせねぇ」

 なんて、主人公が言いそうな台詞《セリフ》を吐いてくれちゃうからツッコミが追いつかない。
 死なせないって?
 ノクトが?
 マルヴォの時は全部終わってからやっと出て来て、ヴィヴィの時は助けてもくれなくて、フランの中にレトがいることを知った上で僕をフランとふたりきりにして逃げた奴《やつ》の、どの口がそれを言う!?


「攻略法は俺の頭の中にある。筋書きのとおりなら、世界を支配している人工知能を倒せば異世界への扉が開いて、そのディストピアから脱出できるんだ。つまりレトを倒せばいい」

 要するに、”魔王を倒したら勇者は元の世界に戻される”みたいなものだと考えればいいのだろうか。さらに、転移してきた勇者だけでなく生き残った現地民も一緒に行ける、というオプションが付く、と?
 「だから安心してレトを壊していい。世界が壊れてもその先の生活は保障する」と突然言われたところで納得も信用もできないけれど、壊した世界と心中する羽目にならずに済むのは良かったと言うか何と言うか。
 突然すぎて考える余地は欲しいところだけれども。


「あの、それで……もう倒してたりする?」

 そして手の内を明かされると、ちょっとばかり不安と言うか、気になることが。

 先ほどから続く轟音と振動。何処《どこ》かのパイプが外れて落ちたのか、時折《ときおり》金属を叩きつけたような音までが聞こえて来る。
 あの音は何だろうとさっきからずっと気になってはいたの……だ……けれど……もしかして僕が知らない間にレトを破壊してしまったのか!?
 彼が好きそうなファンタジーだと、ラスボスを倒すと大抵、意味不明に施設が壊れ始めるのだけれど。

「いや。つぅか《と言うか》、俺じゃ全くレトに遭遇しない。主人公じゃないからなんだろうな」

 だがしかし。どうやら不発に終わったらしい。ほっとしたような、そうでないような。
 が、だとするとあの爆発音は?
 振動は?
 地下でこれだけ揺れるのなら、地上はとんでもないことになっているような気がして仕方がないのですけれど、僕の意識がなかった間に一体何が起きているのですか?

 そんな複雑な心情をノクトは不安と受け取ったようで、僕の肩をポンと叩くと何処《どこ》ぞの勇者がやりそうな笑みを見せた。

「だが町のあちこちに爆弾仕掛けて逃げ道は絶った。爆破の後処理で手一杯になってる間に何処《どこ》にも逃げられなくなってるって寸法だ。それに今度は遭遇できるはずだし、必ず倒す!」
「爆弾んんーー!?」

 待て! 爆弾って何だ! やっぱりお前が原因か!?
 いや、爆弾は知っているけれどもそんなものを一学生、もしくは引き籠《こも》りゲーム制作者に作れるものなのか? 創造主だからなのか!?

「そんなに驚くことじゃねぇだろ。簡単なのならその辺の材料でできるんだよ。ドライアイスとか。まぁ殺傷力はアレだけど」
「殺傷力とか言わないで!」

 失踪している間に何をしていたのか、とてつもなく不安だ。
 少なくとも町のあちこちに爆弾を仕掛けたことだけは判明したが、ってこれはもうレトを倒して自分たちが正義だと主張しなければ犯罪者まっしぐらなパターンじゃないのか!?
 
「あの……僕此処《ここ》で脱落してもいいかな」
「何言ってんだ」
「いやでもレトを倒すとか無理無理の無理」
「安心しろ。お前は命に代えても守る」

 ああ! こういう台詞《セリフ》を吐かれたらときめくのがお約束なんだろうけれど、相手はノクトだ。ときめいたら負けだ!

「何だよその顔は! これでも1回は守ってんだぞ。お前が卒業式の日に襲われるイベントがあったのを思い出して、とにかくそれは阻止しようと思って。まぁちょっと試算がズレて爆破規模がデカくなっちまったけど、そのおかげであの女に邪魔されることなくお前を連れ出せたわけだし、」

 ノクトの言葉に思考が止まる。
 図書館の爆破事件のことだろうか。クレアは僕に何をするつもりだったのか……いやその前に、話の流れから言ってあの爆破はあなたのせいですか!? 1歩間違えれば僕に引導を渡していたであろう奴《やつ》が、どの面《つら》下げて「命に代えても守る」ってぇぇ!?

「いや、そこで感動するなよ? 俺が優しくするのは裏があるって言ったろ?」
「感動してない! 感動どっか行っちゃった!!」

 僕は頭を抱える。
 殺されかけて感動できる人徳者がいるなら紹介してほしい。



「……と言うか、あのさ。今更何も期待してないけど、裏って何」

 僕が抱えていた秘密どころではない怒涛《どとう》の展開に頭が追いつかないけれど、さっきからノクトの言葉に妙に引っかかる単語がひとつ。
 これはスルーしたら駄目なやつ。早めに問い質《ただ》しておかないと、後で勝手に聞いて答えたことにされている、そのくせ結構重要度の高いやつだ。

「あー、だからさ。俺じゃレトに遭遇しないって言ったろ」
「うん」
「それは俺がしがないモブだからだ。敵に遭遇するのは主人公。つまり確実にレトに出会える奴《やつ》が要る」
「主人公?」
「そう。そいつは俺が知る限り、この1年の間に4回レトに会ってる」

 それが裏?
 でもそれが僕と何の関係が?

 ノクトは黙っている。僕に当てさせるつもりなのか、答えを言う気はなさそうだ。
 ヒントはこの1年の間に4回レトに会っている、と言うだけ。
 レトが一個人の前に現れるなんて稀《まれ》なことだから、簡単に見つかりそうではあるけれど……。

 主人公。
 主人公って……?





「………………………………………………………………………………………………僕?」
「自己肯定感低すぎないか!? 仮にも監督生だろう!?」

 いや、いきなり主人公と言われても!
 しかもどう考えても、

「……つまり……僕に囮《おとり》になれと」
「あ、そこの理解は早いんだな。さすが監督生」

 なんだろう。僕《主人公》に期待している理由が世間一般の主人公に対するものと違う。
 まぁ、いきなり城に呼び出されて魔王を倒せとか言われるよりはまし……ましなのか!?

「帰っていい!?」
「だから駄目だって言っただろう! いいか? 俺はお前を手放すつもりなんかねぇからな」

 だーかーらー!!!!
 そういう台詞《セリフ》は普通の学園ドラマのうちに聞きたかった! ってそうじゃない!



 カミングアウトを終えてすっきりしたのか、すっかり世界を救う主人公(のチームの一員)になったような顔で、ノクトはズンズンと歩いて行ってしまう。
 何時《いつ》の間にやら休憩は終わりなのか、僕を背負《せお》うのはやめたのか。おんぶしてほしいわけではないけれど、あまりにも後ろを気にしていない。
 僕はこのままこっそり踵《きびす》を返して逃げることだってできるのに、僕が付いて来ると信じている。その背(猫背だけど)が無言で語って来る全幅《ぜんぷく》の信頼……いや! そんなことで絆《ほだ》されちゃ駄目!
 第一、ついて行けば確実にレトの敵対勢力になる。
 この、町に爆弾を仕掛けまくっているらしい凶悪犯の仲間にされてしまう。

 僕はどうすればいいのだろう。
 レトに従ったところで将来は読めない。ヴィヴィやチャルマの後を追うだけになるのか、フローロと同じ道を辿って《レトの学徒になって》、違う結末《死なずに済む未来》に辿り着けるのか。
 それともノクトに協力してレトを倒し、過去に――疫病が蔓延して、且《か》つ同じ”種”がいない世界――に行くのか。髪が緑だからと奇異の目で見られ、下手をすれば人体実験の材料にされかねないおそれのある世界に。
 


 そうこうしているうちに、ある扉の前でノクトは立ち止まった。此処《ここ》が当座の目的地らしい。
 しかし錆《さ》びついた扉は見るからに歪《ゆが》み、押しても引いてもびくともしない。

「ちょっと待ってろ」

 ノクトは2、3度扉に体当たりした。だが開かない。

「おかしいな。開くはずなんだが」
「そのままじゃ無理だよ。油、ほら、そこのパイプから漏《も》れてる黒いのが多分油だから、それを下の蝶番《ちょうつがい》と錆《さび》のところに塗って。そのほうが開けやすい」
 
 僕は壁に這《は》うパイプを指さす。
 繋《つな》ぎ目が緩《ゆる》くなっているらしいそのパイプから壁にそって黒い染みができている。表面のギラつきは油の証拠だ。
 この扉を出れば”レトとの対決”に近付いてしまうわけだから本音を言えば出たくないけれど、あちこち崩れてきている水路に残るのも嫌だ。仕方ない。

「塗ってから暫《しばら》く置いておいたほうが効果があるんだけ、」

 言い切るか切らないかのうちにノクトは言われた通りに油を掬《すく》い取り、蝶番《ちょうつがい》に垂らし、有無を言わさず力任せに体当たる。
 と、メリメリと何かが剥《は》がれるような音を立てて扉が開いた。

「おお! さすが主人公効果!」
「違う」

 ……この調子だと、僕は本当にレトと対決させられそうだ。



 明るい陽射しが射し込む、いかにも外界な景色が広がっているかと思いきや、扉の外は暗かった。
 道幅は狭く、陽《ひ》も射《さ》さず、貧民街と言わんばかりの狭い路地。その路地を挟むようにして立つ両側の壁は家屋《かおく》らしいが、人が住むことを考えて作られているようにはとても見えない。
 壁のところどころに点在する穴は窓のつもりだろうか。
 陽《ひ》が射し込まないから大きく取っても意味がないのか、壁としての強度のほうを重視しているのか。ほぼ全てが顔の大きさ程度しかなく、申し訳程度のすり硝子《ガラス》が嵌《は》め込まれている。
 何気《なにげ》なく目を向けた窓に人の顔らしきものを見、僕は思わずノクトの腕にしがみついた。

「どうした!?」
「人! 人がいた!」


 ラ・エリツィーノは学園都市。人間は学生しかおらず、その全てが寮生活をしている。
 だとすればあの窓に映った顔はアンドロイドのものだろうか。彼らならどれだけ劣悪な環境でも生きていけるし。
 そう思い直して、再び人の顔があった窓を見る。
 が、誰もいない。

「ああ……いるかもしれないな。このあたりは犯罪者を収容しておく場所らしいから」

 僕の指さした窓を目を細めて見たノクトは、そんなことを呟く。

「脱走した奴《やつ》とか。ほら、マルヴォみたいに何処《どこ》かに連行されて帰って来ない奴《やつ》がいるだろ? そういうのを集めておく場所」
「更生施設?」
「更生してたかどうかは知らん。俺らがいた町はこの上だ。行くぞ」
「え、ちょっと待って」

 クリスマスの時のマルヴォのように、規律を乱した学生は何処《どこ》かに連れて行かれる。
 町の何処《どこ》かあるという更生施設で反省している、と言われているが、戻って来た者がひとりもいないのでその場所も内容も定かではない。あまりにも見つからないので、その施設は町の外にあるのではないかとまで言われていたけれど……まさか町が二重構造になっているとは。

「……此処《ここ》が、」

 凶悪事件を起こした奴《やつ》を閉じ込めておく場所なら、この小さすぎる窓も扉のない壁も納得がいく。全ては脱走防止ということだ。
 しかし何故《なぜ》ノクトはそんなことを知っているのだろう。
 そして、何故《なぜ》僕はその説明を鵜呑みにしているのだろう。何時《いつ》の間にやら”この世界を作ったのは俺《ノクト》”説を信じている自分の順応力が恨めしい。


 爆発音はまだ聞こえる。振動も続いている。
 この上にいつもの町があるということは、この壁は実質的に上の町を支える支柱でもあるわけで……そこで爆発騒ぎが起きれば当然、支える側にも影響は出る。一ヵ所でも崩れれば、砂で作った城のように全部がグシャッと潰れる可能性が高い。
 窓から確認しようにもこんな路地では状況も掴《つか》めないだろうし、中ではパニックになっているかもしれない。

「助けられないのかな」

 マルヴォのような奴《やつ》は困るけれども、町の外に出た程度で生き埋めになるのは忍びない。そう思うのは、(幼馴染みの)ノクトも此処《ここ》に収容されているかもしれない、という淡い期待のせいかもしれない。
 アポティの言葉からすれば、いるはずがないのに。

「無理だ。此処《ここ》をぶっ壊せば上層も崩れる」
「爆弾仕掛けまくったの誰だっけ」

 ノクトは苦虫を噛《か》み潰したような顔をしたが、腰のベルトから何やら数本取り出し、壁際に並べた。
 
「おい! 壁の向こうにいたらちょっと離れろ!」

 と言うや否《いな》やそれらに火を点《つ》け、踵《きびす》を返す。
 無言のまま僕の肩を掴《つか》み、引き摺《ず》るように数メートル離れた瞬間。

 壁が爆発した。

「へ」

 今の棒みたいなのが例の爆弾なのだろうか。
 あんなものをノクトは何本も持ち歩いているのだろうか。
 僕は上着の上からノクトの腰に手を伸ばす。

「……痴漢とはいい度胸だな監督生」
「ち、違う!」

 妙な疑惑を持たれたせいですぐに手を引っ込めてしまったけれど、確かにあった。それも1、2本なんて生温《なまぬる》い数ではないものが。
 ああ! 本当に失踪している間、何やってたんだノクトーー!!


「助けられるのはここまでだ。崩れるのが早まったから俺らも急いで脱出しないと」

 そう言っている間にも壁に亀裂が走る。
 先ほど開けた穴から人らしきものが這《は》い出て来るのを視界に留める間もなく、僕らは路地を駆け出した。




 ノクトに引っ張られるまま路地を抜けると、見慣れた町並みがあった。
 いや、見慣れたという言い方には語弊がある。いつもの町が突然現れた森に飲まれてしまったような、そんな光景が広がっていた。

 木が生えている。それも店の屋根を突き破っていたりとどう考えても生えるはずのない場所に。
 そして爆発も続いている。
 壁が吹き飛んだ後、窮屈《きゅうくつ》そうに枝が飛び出してくる。ノクトが仕掛けた爆弾のせいなのか、狭い屋内で行き場を失った枝の圧力で壁がもたなかったのか。
 そしてこれだけあちこちで爆発が起き、木が溢《あふ》れているのに、逃げる人の姿は何処《どこ》にもない。

「何……これ……」

 思わずそんな言葉が漏《も》れたが、頭の中ではある光景が繰り返し回っている。
 ヴィヴィが木になった時の光景が。
 僕たちがこの世界に生を受けた理由《わけ》が。
 ”僕たちは人類の末裔《まつえい》じゃない”から始まる、レトによる世界再生計画が。


 これらの木は人間だ。
 でも木化は痣《あざ》の後で発症するものだし、チャルマが栄養剤の過剰投与で痣《あざ》を発現させたように、成長しなければ現れることはない。
 だが最終学年だけが木化したと言うには数が多すぎる。
 それを証明するのは校舎の奥に見えるとりわけ鬱蒼《うっそう》と茂る森。彼処《あそこ》は揺りかご《乳幼児保育施設》のあった場所だ。
 僕たち最終学年がこの時分に揺りかご《乳幼児保育施設》に|赴《おもむ》くことはないから、あの木は彼処《あそこ》で育てられていた幼児と言うことになる。逃げることができなかったから、あれだけ密に生えているとも言える。



「マーレ! ノクト! 早く逃げなさい!」

 突然かけられた声に振り返ると、小さな子供の手を引いたフランが通りの向こうにいた。
 あの子供たちは初等部だろうか。寮生ではない気がするが、寮母の彼女が自分の寮の寮生以外の子供を抱えているなんて……他の皆はどうしたのだろう。

「フラン! みんなは」
「わからないの! でも逃げて! 何処《どこ》でもいいか、」

 そんな声は爆発音に|掻《か》き消えた。
 もうもうと巻き上がった煙が引いた後には深い地割れがあるのみで、フランも子供たちの姿もなかった。

「フラン!?」
「駄目だ、こっち」

 フランのいたほうに駆け寄ろうとした僕をノクトが引っ張る。

「何で!」
「あの地割れは越えられない。それに逃げろって言ったろ。逃げるなら町の外だ」

 そう言ったって。
 もしかしたら先ほどの爆発で、フランたちは何かの下敷きになっているかもしれない。
 あの地割れに落ちて、それでも比較的浅いところで助けを待っているかもしれない。
 行けば助けられるかもしれないのに――。

「雨が降ってきた。向こうには行けない」
「どうして!」
「……ここ数日雨が降ったろ。あれに何か仕込んであったんだろうな。傘ささないで歩いてた奴《やつ》が急に変わったのを見たぞ」


『ある程度の群生になるまで育ててから外に放つのなら、この雨も慈雨《じう》と呼べるのではなくて?』

 クレアの声がよみがえる。
 あの言葉の裏には今のこの惨状が描《えが》かれていたのだろうか。


 しかし今いる子供たちを全て木に変えることにどんな意味がある? それもこんな無作為に。
 目的があって木に変えようと言うのなら、まずは生やしたい場所に連れて行くなりするはずだ。僕も含め、大抵の学生はレトの指示には従う。疑いもせずに。
 なのに町がこれほどまでに壊れてしまっては、新たに子供を生み育てるどころか、日常生活すら成り立たない。

「どうして、」

 雨が降りしきる。
 フランがいた場所に新たに木が生えて来ないと言うことは、彼女たちはもうあの場所にはいないのだろう。いたのなら……ノクトの言葉どおりなら、彼女が連れていた初等部の子供たちは木になったはずだから。

「もうこの町は必要ないってことだろう」
「ノクトがところ構わずぶっ壊したからじゃないの!?」
「いや……そうじゃなくて多分、最終局面に入ってる。ラスト近くは詳《くわ》しく作ってなかった部分だけど、お前の説で言うところの生命《いのち》の花が世界を回復させる量に……今此処《ここ》にいる人間を木に変えた分で予定量に達するってことだろう」

 そうなのか?
 ノクトは自分の罪を隠すためにそう言っているだけじゃないのか?
 ノクトが爆弾を仕込まなければ。ノクトのせいで町が崩壊したんじゃないのか!?

「だけど! それで世界が回復したところで、誰もいなくなったら意味なくない!?」
「他の町にいるじゃねぇか。ファータ・モンドとか、俺らの知らないだけで他にも」
「ファータ……モンド……」


 レトはAI。機械は人間を守り、従うためにいる。
 無論、レトに限っては人間に盲目的に服従しては秩序が保たれないから、主《あるじ》と見なす人間を罰する力も持たされている。しかしその力は例えば脱走したり、他の学生に暴力を振るったり、そんな輩《やから》に向けるためのものだと思っていた。

 レトは最初から僕らを人間《主》と思っていなかったのか?
 僕たちは何も知らないまま、ファータ・モンドや他の町の奴《やつ》らを生かすために生贄《いけにえ》にされると、そういうことなのか?


「生贄《いけにえ》認定してたのは一般の学生だろう。お前ら”レトの学徒”はそうして回復した後の世界を担う……まぁ現代版のアダムとイブだな。その役割が待ってるのかもしれない。よかったな」
「茶化さないで。学徒じゃなくてもファータ・モンドに行った学生はいるし」
「木化要因としてな」

 そうなのだろうか。
 ヴィヴィの件以降、検査と称して多くの同級生が彼《か》の地に向かったけれど、彼らはもういないのだろうか。

「そ、それならフローロはどうなの? 生きてる感じがしないんだけど」
「……知っちゃいけないことを知った奴《やつ》ってのは昔っから口を封じられるだろ? ま、死んだって決まったわけじゃないけども」

 だとすると、僕も口を封じられる可能性のほうが高い気がするのだが。
 そんな思いがよぎったと同時に、背後から伸びて来た手が物理的に僕の口を封じた。

「!!」

 声にならない声にノクトが振り返る。
 が、その時にはもう、僕は数メートル後方にまで引き摺《ず》られていた。

「マルヴォ!」

 背後から僕を羽交い絞めにしているから顔を見ることはできないが、ノクトがそう言うならマルヴォなのだろう。
 先ほど壁を壊したから出て来たのか。助けようなんて甘いことを思わなければ良かったのか。

 ノクトがベルトに手を伸ばしかける。
 だが、マルヴォのほうが早かった。

「動くな! 動くと、大事な幼馴染みにこれがぶっ刺さるぜ」

 そんな声と共に、首に刺すような痛みが走った。
 熱と、ぬるりとした感触が首を伝うのがわかる。

「そうそう。そこで大人しくしてりゃいいんだよ」

 言いながらもマルヴォは僕を連れてジリジリと後退《ずさ》る。
 人の気配に目だけで周囲を見回すと、薄汚れたボロ布のような服を纏《まと》った連中が数名、僕とマルヴォを囲んでいる。どうやらマルヴォの仲間らしい。

「何処《どこ》へ連れて行く気だ」
「新天地だよ。俺たちには女がいるんだ」

 女?
 聞き慣れない言葉に、僕は捕まえられている状況も忘れて目を点にする。

 ああ、そうだ。木化の話題ばかりですっかり忘れていたけれど、僕たちは性徴《せいちょう》が来たら性別が分かれるはずだった。
 でも僕はまだ性徴《せいちょう》は来ていない。だから女性になると決まったわけではない。

 性別が変わったとしても、女性は少ないと言われている。
 だからマルヴォたちは自分たちが男になること前提で喋っているのだろう。彼らはずっと隔離されていたから、性徴《せいちょう》の前に木化という高いハードルがあることを知らないのだろう。
 だ、けれど。
 それを説明し始めたら刺される。きっと。
 

「俺たちは外に行く。お前だってそのつもりでこいつを連れてたんだろう?」

 面食らったように動きを止めたノクトを嘲笑《あざわら》うようにマルヴォは続ける。

「ヴィヴィには劣るけどよ、こいつも絶対女になるって顔してるもんな。こいつは俺らが連れて行く。新天地で俺らの子供を産んでもらう。まぁ、産めなくても楽しませてはもらうけどな」

 周囲のせせら嗤《わら》う声にゾッとする。
 が、ちょっと待て! こいつら僕に何を期待してるんだ!? 主人公だからと寄せられる期待もアレだけれども、どいつもこいつも好き勝手なことを!!
 しかし逃《のが》れようにもマルヴォの腕はびくともしない。


「動くな! お前はそのまま後ろに下がれ。もっと……もっとだ」

 マルヴォはノクトを牽制《けんせい》し、後ろに下がらせる。
 追いつかない距離まで離したら僕を連れて逃げるつもりだろう。
 こういう時こそ僕がきっかけをつくらなければ。主人公だからと言うわけではないけれど、他に誰もいない。マルヴォも他の奴《やつ》らもノクトを注視している今なら――。

 僕は渾身《こんしん》の力を込めて、マルヴォの鳩尾《みぞおち》に肘鉄《ひじてつ》を食らわせた。

「ぐあっ!」

 少し目視を誤ったけれども、どちらにしろ心臓付近だ。問題ない。
 腕の力が弛《ゆる》むと同時にそこから逃れる。
 だが周囲の仲間たちのほうが早かった。そのひとりに腹を殴られ、もうひとりに頭を掴まれ、押さえ込まれる。口の中に湿った土が入って気持ち悪い。

「くっそ! この、」

 マルヴォが何か叫んで腕を振り上げた。
 手にしているのは僕の首に当てていた凶器だろうか。先が尖っている。
 あれが刺さったら痛いだろうな、なんてことをぼんやりと思う。

 ノクトが駆け込んで来るのが見える。
 走りながら腰に手をやり、例の爆弾を取り。
 こちらに向けて投げるつもりだろうか。「命に代えても守る」って言ったくせに、確実に僕を殺しにきているのだけれども……。



 だが、爆発はおきなかった。
 おきなかったけれども、僕を押さえていたであろう奴《やつ》が前方に吹っ飛んだのが見えた。
 拘束が解け、上体を起こそうとした僕の鼻先を、今度は腹を殴った奴《やつ》が転がる。続けて他の仲間ふたりが同じように倒れ、

「ひぃぎゅあああああああ!!!!」

 何とも形容し難《がた》いマルヴォの悲鳴と、ボキともグシャともつかない音が鳴った。
 ドサリと投げ捨てられる音に目を向けると、肉塊と化したマルヴォが転がっていた。


 ノクトの仕業じゃない。
 彼は前にいる。爆弾を手にしたまま呆気《あっけ》に取られている。
 それじゃこれは一体……。
 僕は恐る恐る背後を振り返った。

「……クルーツォ……!」

 そこに立っていたのは、数ヵ月は帰って来ないはずのクルーツォ、その人だった。




 クルーツォは無言のまま傍《かたわ》らに膝をつき、腰のポーチから包帯とスプレーを取り出した。

「すまない。血止《ちど》めの持ち合わせがあればよかったんだが」
「え、ううん。気にしないで」

 薬の持ち合わせがないと言いながらも手際よく手当てをする様《さま》はまさに医療関係者で、でも着ているものは相変わらず砂混じりのマントで。そんなところに「ああクルーツォだ」なんて捻《ひね》りも何もない感想を抱いてしまった僕はきっと疲れているに違いない。

 ……こいつのせいで。

「無事か?」

 その”こいつ《ノクト》”は心配そうに眉を寄せたものの既《すで》にクルーツォが手当てに入っていてはすることもなく、手持無沙汰に転がっているマルヴォの仲間たちを足で遠ざけている。

 更生施設の壁を壊したからマルヴォたちが出て来たのだとしたら、この怪我も自業自得としか言いようがない。
 犯罪らしい犯罪もないこの町のこと、マルヴォ以外はきっと過去に脱走しようとして捕まったのだろう。あの中にいる間にマルヴォに感化されたのか、それとも得体の知れない爆発音と振動にさらされながらも逃げ場がない――あんな状態になっても誰も助けに来ず、解放してももらえない状況にいたからこそマルヴォに従う気になってしまったのか。
 助けてほしいと頼んだのは僕だし、だからこの件に関しては僕はノクトを責められない。
 けれど、そもそも爆弾を仕掛けなければこんな騒ぎにはならなかったはずで。


「こんな目にあったのも全部そこにいるテロリストせいだぞ」

 手当てを終えたクルーツォは冷ややかな目をノクトに向ける。ノクトが妙な動きをしようものならその前に仕留めるつもり満々だ。
 これは僕が怪我をしたせいだろうか。
 それとも町がこんなになってしまったせいだろうか。
 修理を終えていざ戻ってきたら町がこんなことになっているのだから、さぞ驚いたことだろう。

「町の爆発も。監視カメラにお前の行動は全部映っている。言い逃れはできない」

 そしてどうやらノクトの悪行は筒抜けになっているらしい。


「あー……ええと」

 未《いま》だレトには遭遇しない。
 が、よく考えれば爆弾はレトが僕たちの邪魔をしないように――騒ぎの処理で手一杯になるように――と仕掛けたもの。
 町全体で木化が始まったことは僕たちにとっても想定外だけれども、爆破の影響であちこちが弱くなってしまったからこそ被害が大きくなっている部分もあるわけで……もしそうならレトが僕らの前に現れる余裕など(当初の予定どおり)あるはずがない。
 つまり、ノクトの策は駄策だったというわけで。

「違う。爆破はレトを封じ込めるためだ。俺が壊して回ったのはこの町のネットワークで、無差別テロに走ったわけじゃない」

 僕が弁護してくれないと見たからか、ノクトは心外だと言わんばかりの顔をする。

 |曰《いわ》く、当初はレト本体――メインコンピューターと思わしき機械の破壊を狙ったが、それを壊してもレトの機能には何の影響もなかった。
 そこから考えるに、この世界の機械全てがレトと繋《つな》がっているから、レトは本体を壊されても繋《つな》がったシステムを伝って逃げることが可能なのだろう。記憶や機能もスペアをシステムのあちこちに分散して保存しているのだろう、と言うことで。
 だからネットワークを断つことで逃げ場をなくし、一ヵ所に封じ込める……爆破はそのためのものだと言う。

「学校も商店街もレトから切り離した。レトが町の外にも出た形跡もねぇ。だから、」
「理解不能だ」

 しかしクルーツォはにべもない。
 そうだろう。何だかんだと理由をつけてもノクトが爆弾を仕掛けたことに変わりはない。それに。

「そんなことをして何になる。人間だけでは生きていけないからレトを作ったのだろう? ネットワークを破壊すればレトが監視できなくなる、ってだけじゃない。病院の生命維持も、商品の在庫管理も、電気も水道も、お前たちの生存すら把握できなくなると言うことだ。それがどういう意味かわかるか? 着の身着のまま町の外に放り出されたようなものだぞ? お前は自分で自分の首を絞めて、」
「わあ、待って待って!」

 僕は今にもノクトに飛びかかりそうなクルーツォを抑えながら、今までに起きたこととノクトから説明されたことを並べる。
 僕たちが生命《いのち》の花の元かもしれないこと。
 レトが生命《いのち》の花の力を使って世界を回復させようとしていること。
 そしてこの世界そのものが能登大地が作ったゲーム世界であること。


 クルーツォは僕の話を黙って聞いていた。
 けれど。

「お前……そもそもそいつがお前を誑《たぶら》かしているとは思わないのか?」
「いや、ゲーム世界とか僕も嘘《うそ》だと思ったけど、でも」

 案の定、信じてくれない。それどころか先ほど以上にノクトを敵と見なしてしまった。
 以前、

『純真な子供に嘘《うそ》を教えるな、って目はやめろ」
『よくわかってるじゃないか』

 疫病のワクチンが必要なんだと話した時に彼《ノクト》を見た時の目をしている。
 きっと今も、ノクトが妙なことを吹き込んだと思っている。


「……確かにこの世界は既《すで》に最終局面を迎えている」

 しかし意外にも、クルーツォはノクトの話に一定の理解のようなものを見せた。
 ”子供だましのホラ話”の中に偶然にも合致した部分があったのかもしれない。しかしこれは嘘《うそ》を言わないアンドロイドだから正しい部分は正しいと言ったまでで、決してノクトを信じたわけではない。

「ゲームとやらは知らないが、その話のとおりならそこのテロリストはいずれ元の世界に戻るのだろう? 異世界でも新天地でも何処《どこ》へなりとも行けばいい。だがマーレは駄目だ」
「なんでだよ! こいつは、此処《ここ》にいたって、」
「マーレはレトに、この世界に必要だからだ」


 ああ。レトが言った「必要」は本当に言葉どおりの意味だったのだろうか。
 秘密を知ったから口封じとか、脅し目的で口にしたわけではなかったのか。

 レトの学徒は僕以外皆ファータ・モンドに行ってしまったけれど、今になって思えば、町全体の木化もレトの想定内で……ヴィヴィに巻き込まれた僕のように不慮の事故で失う可能性があるから、早々に彼《か》の地に隔離したとも考えられる。
 僕はまだ痣《あざ》も出ていないけれど、今後痣《あざ》が出て、木化を免《まぬが》れたあかつきには、この世界を担わせるつもりで。
 だからレトは木化や痣《あざ》のことも教えてくれたのかもしれない。

 
「戻りたければひとりで戻れ。創造主だか何だか知らんが、これ以上我々に関与するな」
「だから! 戻るにはレトを倒さなきゃいけないし、倒すにはそいつが要るんだよ!」

 ノクトはレトを倒せば元の世界に戻れると言った。僕も連れて行けると言った。
 でもそれは消滅する世界から脱出するという、言わばゲームエンドのルートのひとつ。壊れるはずの世界が残るルートもあるのなら話は違って来る。
 そしてその世界には”僕”が要る。

「倒す必要はない。世界が回復した後でレトは自然消滅する。既《すで》にその時は近付いている」

 迷う僕を後押しするように、クルーツォはノクトの訴えを一蹴《いっしゅう》する。

「あと1日もかからない」

 以前ノクトが言っていた、この町の人々が木化した分の生命《いのち》の花で世界を回復するだけの量になると、そう言うことなのだろうか。
 僕は森と化してしまった町に目を向ける。これからあれらの木は花を咲かせる。その花で全てが終わるのか?
 だとしたら。

「じゃあ俺がやろうとしていることは」
「大きなお世話、と言うやつだ。お前が暴れまわったりしなければ平穏にその時が迎えられた。お前のせいでこの町の皆は味わう必要のない恐怖を味わう羽目になった」

 世界が回復したらレトが消滅するロジックは知らなかったけれど、確定事項になっているのならわざわざ倒しに行く必要もない。
 ノクトが僕に固執するのもイベントトリガーとしての役割だから、倒さなくてもいいのなら一緒にいる必要もない。

「だいたい、本当にマーレのことを考えているのなら、わざわざ危険が待ち構えているところに連れて行くか? 行かないだろう。お前は自分のためにマーレを利用しようとしている。それだけだ」
「お前らだって利用してるようなもんじゃねぇか!」 
「していない。レトと戦う必要はない、と先ほどから言っているが聞こえなかったか?」


 もしかしたらノクトはノクトなりに転生してきた意味を探していたのかもしれない。僕が焚《た》きつけたせいで。
 ワクチンが入手できなくなって、前文明の人々を助けると言うルートが消えて。
 偶然この世界が作っていたゲームの世界に似ていたというだけで、ヴィヴィやチャルマが死んだのを自分のせいだと思って、だからゲームの筋書きどおりに完結させようとして。

 でも人工知能に支配された世界なんてSFでは定番だし、ノクトの蔵書にも幾つかあった。
 言い換えれば、誰でも思いつきそうな未来図で、実現できそうな未来。此処《ここ》が”能登大地が作った”世界だという確証は何処《どこ》にもない。


「ノクト、」
「何だよ! お前までこいつを信じるのか!? 自分たちは人間じゃないんだ、木にされるんだって泣いてたのはお前だろ!」
「そうだよ。向こうの世界に行っても、僕は木になってしまうかもしれない。此処《ここ》には抑制剤があるけど、向こうにはないんだ」
「だけど、俺が此処《ここ》に来てこんな頭と体になったみたいに、お前だって変わるかもしれないだろ!? 向こうの世界なら木になんかならない。絶対に」

 喚《わめ》くノクトを遮《さえぎ》るように、クルーツォは僕の前に出る。
 そして改めてノクトに向き合う。

「こんなところで喋っている暇はない。黙ってもらう」

 片足を下げて軽く腰を落としたかと思うや否《いな》や、クルーツォはノクトの襟首を掴《つか》み、上空に放り投げた。落ちて来たところで腹に拳《こぶし》を打ち込む。
 続いて右足を軸にして蹴りを繰り出す。その足は側頭部にクリーンヒットし、ノクトは受け身も取れないまま反対側の壁に叩きつけられた。
 生身の相手でも手練《てだ》れならそれなりに威力があるだろうところを、クルーツォはアンドロイドだ。腕も足も機械。つまりは凶器を使って打ちのめしているようなもの。
 さらにクルーツォは、一方的な攻撃に息をつくこともできずにいるノクトの右腕を掴《つか》むと捻《ひね》り上げた。

 これはノクトを敵と見なしたレトの指示によるものか。
 それとも、子供じみた妄想で日常を破壊されたクルーツォの怒りか。


「う、あああああああああっ!!」
「待って! 僕、クルーツォと行くから! だから!」

 僕の制止とノクトの絶叫のどちらが早かっただろう。
 ボキリ、と嫌な音がしてノクトの腕があらぬ方向に曲がった。




 倒れ伏したままのノクトの袖をまくり、薬を塗り、添え木をして包帯を巻く。
 添え木と言ってもマルヴォが使っていたパイプ状の凶器だ。他に棒状のものがないから仕方ない。


「……クレアが言ったんだ。植物の生える環境を整えてある程度まで育てて、それからなら荒野でも生き延びることができるって。この町を飲み込んだ森はきっと枯れない。少しずつ、少しずつ広がって、何時《いつ》かこの世界を緑で覆うくらいになるんだ。だから、」
「行ってどうなるんだ。いいようにレトに使われるだけだろう?」
「レトには僕が必要なんだって」
「俺だって、」
「レトを倒さなくていいのなら僕はいらないでしょ?」

 ノクトは縋《すが》るような目で僕を見上げる。力の入らない右手を伸ばす。

「きみには感謝してる。斜め上にばっかり行くけど、この騒ぎも僕のことを考えてやってくれたことだって思う。でも……きみは元の世界はあまり好きじゃないみたいだけど、やっぱりきみが生きるのは向こうの世界で、僕は、」

 僕は自分のセルエタを首から外し、その手に握らせる。
 これは僕の分身。期せずして交換したみたいになってしまったけれど、探してくれとか一緒にいようとか、そんな子供じみた約束は微塵《みじん》も……。
 
「……元気で」

 僕の代わりに向こうの世界に連れて行ってくれれば、なんて、ちょっとだけ。





「済んだのか」
「うん」

 ノクトに別れを告げ、ずっと待っていたクルーツォに駆け寄る。
 ノクトの視線がずっと僕を追っているのを感じる。

「行こう」



 雨は小降りになってきたものの、それでもまだ止む気配がない。

 ゾゾ、と重いものが蠢《うごめ》く音に1度だけ振り返ると、雨ざらしになったマルヴォたちの背から艶やかな葉を持った枝が伸びていた。ものの数分で彼らも大木になるのだろう。
 ノクトは屋根の下に置いて来たけれど……木の陰《かげ》になってしまって、もうわからない。



 町の外はやはり砂嵐が吹き荒れていた。
 多少は弱まっている気がするのは、門《ゲート》を越えて外に溢れ出した枝が日陰を作ってくれているからだろうが、それでも陽射しは暴力的に強い。

 この木は崩れる町から逃げようとした誰か。
 ノクトが仕掛けた爆弾やら地盤が崩れたせいやらで怖い思いをさせてしまったに違いない。今になって思えばフランたちが消えた地割れも、僕が偽善を振りかざして壁を壊せと言ったから……。
 そう思うと、全員が木化する予定だからと言われても罪悪感は拭《ぬぐ》えない。

 木を見上げている僕に、クルーツォは着ていたマントを脱ぐと被《かぶ》せてきた。

「クルーツォ、」
「気にするな。俺は慣れてる」

 先にそう言われてしまうと返すとは言えない。
 しかし慣れているとは言え、この環境だ。暑さはともかく砂が入り込む恐れはないのだろうか。いくら初期型が丈夫だとは言え、マントが砂を遮《さえぎ》っていた部分は大きい。 

 でも。
 僕は深く被《かぶ》ったフードの下で目を擦《こす》る。フードのおかげで顔が見られないのはいい。

「言っておくが、お前たちが下層を壊さなくてもこうなることは決まっていた。気にすることはない」
「そう、かな」
「全員を助けるなんて世迷いごとは本来なら創造主の仕事だろう。まぁ、あいつは全員殺すつもりで動いているようにしか見えないが」
「……それは僕も思った」

 こんな時なのに。
 こんな時だから?
 僕は、甘えている。


「ほら」

 僕の心の内を知ってか知らでか、クルーツォが空を指さす。
 迫《せ》り出した枝で今まさに羽根を休めようとしているのは、以前ノクトと一緒に見た鳥だろうか。

「”ヴィード”だ」
「ヴィード、」

 ヴィードとはマルヴォの凶行に倒れ、意識不明のままファータ・モンドに転院したレトの学徒のひとり。当時は転院ではなくて死んだのではないかとさえ言われ、当然のことながら卒業式までに戻ってくることはなかった。
 あの鳥は彼の名を冠しているだけか?
 否《いな》。

「ヴィードは……世界のためになったの?」
「そうだな」
「フローロと同じように?」

 ”ヴィード”とは鳥という意味なのだと、昔、誰かから聞いた。
 そして”フローロ”とは花を指す、とも。
 あの鳥を「ヴィード」と称したところからして、ファータ・モンドに行ったきりのヴィードと関係がないはずがない。


「消滅したものたちが何故《なぜ》お前たちに紐付いているのか、それは我々もわからないんだ」

 鳥を見上げたままクルーツォは続ける。

「ただごく僅《わず》かながら、お前たちの中には彼らの魂を宿して生まれて来る者がいる。細胞の一部でも残っていれば培養による複製もできたかもしれないが、その手段すら失われていた我々にはお前たちの存在は奇跡と言ってよかった」
「それが”レトの学徒”」
「そう言うことだ」

 どうしてかわからないのはノクトがこの世界を完全に作っていないから。
 そんなことを考えて、苦笑する。ノクトの妄言を信じるなんて、とうとう僕も焼きが回ったのかもしれない。

「そしてフローロのおかげで生命《いのち》の花の開花量が増えた。我々は感謝してもしきれない」

 ヴィードが鳥になったように、レトが「フローロは世界のために尽力してくれている」と言ったあの時、フローロは比喩でも何でもなく文字通り世界のためになってしまっていたのか。

『そんな義理蹴っ飛ばして、自分の思うほうに進んでいいんだ。これはきみの命で、きみの人生なんだから』

 夢の中で「追わなくていい」と言ったフローロを思い出す。
 あれはやはり本人だったのかもしれない。

 だから。

『――ずっと遠くまで広がる本物の海が見たい』

「……フローロの夢は、海を再生することだったよ」

 感謝されてはいるけれど、腑《ふ》には落ちない。
 チャルマもヴィヴィも痣《あざ》から木化までは数日だった。それに比べてフローロは痣《あざ》が出たにもかかわらず木化はしなかった。なのに何ヵ月も経《た》ってから発症するだろうか。

「レトは、フローロをどうしたの?」

 もしかして、能力を手に入れたいばかりに強制的に木化させた、なんてことは……?


「お前が考えているとおりだ」
 
 ああ!
 僕が尋ねたことなのに、返事も予想していたとおりなのに、なのにこんなに息が苦しい。
 フローロはいない。
 僕は2度と彼には会えない。


「ファータ・モンドは存在しない」

 クルーツォは遠くに目を向ける。
 砂嵐の向こうに彼《か》の地の象徴でもある白い塔が見える。

「あの場所には何もない。ただ、命を際限なく飲み込む虚無があるだけだ。行ったところで何もできない」
「それって、」
「人間たちの世界は此処《ここ》、ラ・エリツィーノで完結している」

 だからファータ・モンドの情報は何ひとつ与えられなかったのか? 
 「性別が分かれたら男性のほうが多くなるらしい」とか、「セルエタを交換しておきながら、姿が変わったら好みではなかったと逃げてしまうケースもあると聞いている」とか、情報がどれも皆、噂の形を取っていたのはそのせいか?

「昔はあの場所にも町があった。そこに住む人々が木化し、生命《いのち》の花を咲かせたところから全てが始まった。”ファータ・モンド”とは”化け物の世界”と言う意味らしい。皮肉だな」

 全てを飲み込む虚無。それを化け物と称したのは時の人々か。それともレトか。
 いや、それもどうでもいい。

 卒業生がファータ・モンドに向かうのは、虚無の近くで木化させるため。
 性徴《せいちょう》が現れたとされる学生がファータ・モンドに送られるのも、虚無の近くで木化させるため。
 生命《いのち》の花を無駄に散らせないために、全てを虚無に飲み込ませるために、あの場所に連れて行く。だからあの場所には生命《いのち》の花が群生している。

「あの塔はただの墓標だ。世界のために力を貸してくれた子供たちを忘れないために名を刻んでいる」

 フローロやチャルマやヴィードの名も。
 ヴィヴィやノクトやイグニの名もあると、クルーツォは言う。


「それで……レトがお前を必要としていることについてだが」

 珍しく口籠《ごも》るクルーツォを、僕は何も返さずにただ見上げる。
 意地が悪い、とは思う。

「……マーと言う名の意味を知っているか?」

 気を遣《つか》ってくれているのだろうか。クルーツォは珍しくよく喋る。ヴィヴィが見たら僕ばかり狡《ずる》い、と文句を言って来るであろうほどに。
 木になってすぐに燃やされ、根も残っていない彼《ヴィヴィ》の名には、どんな意味があったのか。そんなことを少し思う。

「ヴィードが鳥、フローロが花を指すように」
「海を再生させるには僕の命が要るんだね」

 鳥が姿を現したように。
 生命《いのち》の花の開花量が増えたように。
 これが”レトの学徒”の使命。レトが僕を必要とすること。
 どういう理由で僕の命に海が割り振られたかはわからないけれど、学徒になることも、僕の最期も、生まれた時から既《すで》に決まっていたなんて、驚きを通り越して笑ってしまいそうだ。

「すまない」
「何であやまるのさ。僕はフローロから夢を引き継いだんだ。この命が海の再生に使われるなら本望だよ。でもね」

 僕はクルーツォを見据える。

「フローロの夢を潰したことと、チャルマに栄養剤を過剰投与したことは許せないんだ。ファータ・モンドがないならないって最初から言ってくれればいい。僕たちの命が必要ならそう言えばいい。どうして騙すようなことをするのさ。そう言うのは優しさとは言わないよ。そうでしょう? レト」
「……知っていたのか」
「意外だった?」

 クルーツォは僕のことを”マーレ”とは呼ばない。
 何時《いつ》だって”レトの学徒”と呼んでいた。クレアも、レトに乗っ取られたあの日だけ僕のことを”マーレ”と呼んだ。


 ノクトは町を破壊することでレトをネットワークから切り離し、移動を制限しようとした。「学校と商店街は切り離した」と言っていたけれど、それ以前に――チャルマのカルテを盗み見た時に病院も切り離しているはずだ。
 外側から少しずつ攻め込んで、敵の領地を削っていくのは戦争でもよくあること。国境を、砦を奪い、町や村を制圧し、城下町に火を放つ。最後に残るのは城、ただひとつ。
 その城が何に当たるのか。
 ただのシステムの何処《どこ》かにいるよりは、自由に動き回れるアンドロイドに入り込むだろうとは思っていた。
 彼らは単独で動いているようでいて常日頃からレトと繋《つな》がっている。入り込むのは容易《たやす》いし、何より土地に縛られない。


「結果的に騙したのは申し訳ない。だがこの運命を誰もが納得するとは思えなかった。現に他の町の人々は怯え、苦しんだ。だからそんな思いを抱かせて死までの16年を過ごさせるくらいなら、たとえ夢でも未来を見せてやりたいと……そんな考えは決して当事者にはならない者の驕《おご》りだったのかもしれない」

 レトはずっとこの世界と人々を見て来た。
 多くの人を見送って、見送って、見送って……それで僕らのために最善と思える楽園を作ったのだろう。

「……優しいね、とは言わないよ。でも」
「構わない。我々はそれだけのことをしたのだから」

 ちゃんと言えばわかってくれると言い切ることはできないけれど、でも責めたところで誰も戻って来はしない。
 ただ、謝罪の気持ちを持っていてくれたのなら、それ以上は言うことではない。


 レトの使命はこの世界を守ること。
 かつての世界を取り戻すこと。
 そしてその世界に、”光合成のできる人間”はいない。


「……それで……確かにレトはこの身に入り込んではいるが、今、表に出ているのは”クルーツォ”なんだが」
「わかってるよ」

 本当ならクルーツォの修理は2ヵ月以上かかるはずだった。
 なのに最後に残った僕を導くために大急ぎで手足を付け直して、こうしてレトではなくクルーツォとして傍《そば》にいてくれるなんて、本当にレトは僕のことをよくわかっている。



 僕たちが話している間にもその木はさらに枝を伸ばしていく。
 町の中の潤沢な水を吸って、外へ、外へと伸びていく。

 その枝の先、門《ゲート》から少し離れたところに、ポツンと1本、別の木が生えているのが見えた。ヒョロリと頼りなさげなその木は細いながらも幹はガサガサに荒れ、見るからに昨日今日に生えたものではない。
 わかる。これは以前クルーツォが言った、「遺体ではない、人間の形をしていないもの」。言い換えれば、町を脱走した学生の成れの果て。
 上着のポケットの中で小さく鳴った振動に、僕はこの木が生前誰だったかを知る。

「学生が減ったという報告はなかったから、過去の行方不明者の内の誰かなのだろうとなっていたのだが、やはりお前が探していた友人のことか」

 僕が能登大地のことをノクトだと言い張らなければ、ノクト失踪をレトに伝えていれば彼は無事に見つけてもらえたのだろうか。
 見つけられたところであの壁の内側に閉じ込められるだけなら、行きたかった場所《町の外》で根を張っている今のほうが幸せなのだろうか。

 見ている前で、ノクトの木を覆うように枝が伸びて来る。
 望んでいた外の世界で仲間に囲まれて。勢いの良い他の木に混ざって何処《どこ》にあるのかわからなくなってしまうけれど、寂しい思いをしなくてもいいと思えば良いことだと思いたい。

 木は空を覆《おお》うドームを突き破り、上にも伸びていく。
 屋根を壊せば外の砂嵐に直接当たることになるのに、木の成長は衰えない。


『まずは植物の生える環境を整え、そこである程度の群生になるまで育て、それから劣悪な環境下に放つ。1本では折れてしまう草木も群生でなら生き延びることができるでしょう?』

 ああ、そうだねクレア。
 僕たちの森はきっと砂嵐になんか負けない。



「そろそろ行くか」
「ねぇ」

 足を進めかけたクルーツォを呼び止め、僕は振り返る。

「やっぱり虚無のところまで行かないと駄目?」
「お前の役割は生命《いのち》の花ではないから、特に問題はないと思うが……先例がないから何とも言えないな。気が変わったのか?」
「あー……、ううん。歩いてファータ・モンドまで行くのはちょっとキツいなぁって」
「ああ。車が出せれば良かったんだが」

 町は壊滅状態。あちこちが陥没したり隆起したりして、とても車を走らせられる状態ではない。ノクトの爆破も加わって、今や取りに戻ることすら至難の業《わざ》だろう。

「もし此処《ここ》でもいいなら此処《ここ》にいたいんだけど。此処《ここ》にはノクトもいるし、ヴィヴィもチャルマも眠ってる」


 暫《しばら》く考える素振《そぶ》りを見せたクルーツォは、やがて僕の隣に戻ってきた。
 フードを深く被《かぶ》せなおし、範囲を広げつつある木陰に引っ張り込む。此処《ここ》にいてもいい、ということだろう。





 はらりと1枚、薄紅色の花弁《はなびら》が舞った。
 見れば、先ほど鳥が止まっていた枝に花が咲いている。その1輪だけではない。次々に蕾《つぼみ》が現れ、膨らみ、花が開いていく。

「0《ゼロ》番花?」
「いや、1番か2番か……0《ゼロ》番ではないな。0《ゼロ》番花はもっと、見ただけでそれとわかる」

 クルーツォは手を伸ばし、手近な花を1輪摘む。そして花弁《はなびら》を千切《ちぎ》って数枚に束ねると僕の首に当てた。
 マルヴォに切りつけられた傷の痛みがそれだけで引いていく。何番かわからない花でこれだけの効能があるのなら0《ゼロ》番花はどれだけ強力なのか。花で世界が回復するという推測の信憑性《しんぴょうせい》も増すと言うものだ。


 開いた花はあっという間に散っていく。
 しかし散った端からまた蕾《つぼみ》が現れる。
 次から次へと咲き乱れる生命《いのち》の花のせいで、あたり一面がピンクに染まる。




『――ほら、前にチャルマの病院に行った時、落ち葉が凄かったろ。あんな感じだ。あれのピンク版だと思えばいい』

 これを見たらノクトも桜に似ていると言うだろうか。
 でも僕が先に言ったら、鼻で笑うか、返事もせずに黙り込むんだ。



「あの塔、僕の名前も刻まれる?」

 遠くに見えるのはファータ・モンドだと信じていた白い塔。
 あと数日で僕もあの場所に行くはずだった。

「どうかな。お前は最後のひとりだから刻んでる暇はないかもしれない」
「え、酷《ひど》い」
「お前たちが全て木化したら俺たちの役目も終わる。名前を刻んでいる暇なんてないだろうな」
「止まっちゃうの?」
「子供たちだけに辛《つら》い思いはさせない。俺も、最後までお前の傍《そば》にいてやるから安心しろ」

 世界が回復したらレトは消滅する。
 けれどアンドロイドまでが止まるとは思わなかった。レトの支配から解かれ、守るべき人間を失えば、彼らの存在意義はなくなったようなものだけれども……。

「役目を終えれば消える。それだけだ」

 淡々と紡ぐクルーツォの声を聞きながら、僕は舞い散る花弁《はなびら》に手を伸ばす。
 伸ばして……その手にもう片方を重ねる。

「お前が咲かせる花で海が再生されるだろう。そして何千年か何万年かの後、その海から新たな命が生まれる。人間も、そのうち現れる」
「光合成しないのが?」
「そう。光合成しない奴《やつ》が」

 そして進化して、機械を作れるようになって、その機械を使ってゲームを作る者も現れて。

「……何時《いつ》か、この世界に能登大地が生まれる」
「そういうことだ」


 やはり彼は引き籠《こも》ってゲームを作っているのだろうか。
 独りよがりで我が儘《まま》で頑固で厨二《ちゅうに》病で、自分のことよりもかわいい妹の交際相手ばかり気になって。
 そんなふうだから30歳にもなって彼女のひとりもできなくて。
 
 ああ、そう考えたら。
 僕の守った世界で、何時《いつ》かきみが生きてくれるのなら。





「――マーレ!」

 声が聞こえた。
 ノクト《能登大地》のことを考えていたから空耳が、ではない。

 ノクトが駆けて来る。門《ゲート》を壊して溢れかえる木を、満身創痍の体で乗り越えて。
 手にしているのは僕のセルエタだ。1時間後に持ち主の居場所を指し示すあの機械は、今頃僕に向かって矢印を点滅させているのだろう。

「……どうして」
「お前が! 死ぬ覚悟したみたいな顔で置いて行くからだろうが! 俺は戻らなくていいんだ。世界だって……お前を代償にするなら、」

 折られたのは腕だけだが、好き勝手に伸びる木を越えて此処《ここ》まで追って来るのは並大抵の苦労ではないだろう。
 最後まであと1日もかからないって言ったんだから彼処《あそこ》でおとなしくしていればいいのに、何故《なぜ》追って来るのだろう。

「俺、ゲームのラストまでは作ってないって言ったろ? ラストはまだ変えられる。レトを倒したくないなら倒さなくてもいい。俺が元の世界に戻らない未来だってあるんだ。な、一緒に行こう。いや、マルヴォみたいに女になれとか言ってるわけじゃないからな。だけど、お前となら男同士でも女同士でも上手くやっていけると思うんだよ。ほら、お前こういうトンデモ話に耐性あるし」


 僕が”レトに必要とされている”から?
 僕が犠牲になることを選んだように見えたから?


「クルーツォの言うことが正しいとは限らないだろう!? 俺ならできる。お前を犠牲にしないで、この世界をどうにかする方法をきっと考えて、」


 そんな安っぽい正義感で追いかけて来るなんてきみらしくもない。
 僕は何時《いつ》だってきみの味方でなんかなかったし、ずっとお互いにお互いを利用するつもりできたんじゃないか。
 今度も、そう。

「残念だったね。時間切れ《タイムアップ》だ」

 僕は花弁《はなびら》を握った左手を、左手の甲を、ノクトに向けて差し出す。
 遠目からでもわかるだろう。四葉のような、花のような紅《あか》い痣《あざ》に。

「お前……! 何時《いつ》!?」
「だからね、もう、」
「だけど木化するとは限らないだろう! ほら、フローロだって」
「見える? ファータ・モンドの手前に生命《いのち》の花の群生があるんだ。フローロは彼処《あそこ》にいる。イグニも一緒にいる。ヴィードも、先にファータ・モンドに行った同級生も、みんな、」
「嘘《うそ》だ!」

 しかしノクトは納得できないようだ。
 フローロまでもが木化してしまった今、痣《あざ》が出て木化しなかった症例はひとりもなくなったと言う事実を信じたくないのだろう。
 それは、痣《あざ》の出た僕も木化すると決まったようなものなのだから。

「何でそんな悟ったみたいな目ができるんだよ! まだ15歳だろ!? 世界のために子供に命を張れってどんな世界なんだよ、って作ったの俺かも知れないけど、でももっと我が儘《まま》言ったっていいじゃねぇか!! 死にたくないって、木になんかなりたくないって、それを叶えるのが大人の、」
「ねぇノクト」

 僕は痣《あざ》を擦《さす》る。

 ノクトが「この世界を作ったのは俺だ」と言った時から、ずっと引っかかっていることがあった。
 それを考えないようにして、一緒に過去の世界へ――疫病が蔓延しているし、僕は人間扱いされないかもしれないけれど――行った後のことも想像した。
 でも。

「此処《ここ》はノクトの作ったゲームの世界なんでしょ? 此処《ここ》を出ても、僕はノクトの世界には行けない。ただのデータが実体を持つことはない。戻れるのはノクト……能登大地だけ」

 滑稽《こっけい》だ。僕自身は此処《ここ》がゲーム世界だなんて微塵《みじん》も思っていないのに。
 でも。

「そ、れは」

 ノクトにはこの言い方が効く。此処《ここ》を自分のゲーム世界だと思い込んでいるノクトには。
 そして。

「それにね」

 僕のことは僕が1番良く知っている。
 体の奥で芽は吹いてしまった。足はもう、この場所を終《つい》の棲家《すみか》と決めてしまった。


「……後ろ向いて、10数えてくれない? 僕、自分が木になるとこ、ノクトには見られたくないなぁ」
「マーレ、俺は」

 なおも言いたそうにしていたノクトは、それでも口元を歪めたまま後ろを向いた。
 
「ありがとう。ええと……能登、さん」
「ノクトだ! ノクトでいい!」

 握りしめた拳《こぶし》が震えている。
 僕の痣《あざ》を突き破って、それを具現化したような、血よりも紅《あか》い花が咲く。





「ありがとう、ノクト」