21-8 束の間の夢




 ミルが目を覚ますと、ひとりの青年が覗き込むように自分を見ていた。
 逆光で縁取られた金色の髪のせいだろうか、何故《なぜ》かとても神々しいものに――自分と同じ世界にいてはいけない人に――見えた。
 それと同時に何があったのだろうとも思う。何処《どこ》も痛くないし、不自然な箇所もない。むしろよく眠った、と清々しさすらあるほどで、不安げに覗き込まれなければならない意味がわからない。

 もしかすると、この人は天使なのだろうか。
 そんな子供じみた考えが首をもたげる。
 死した自分を迎えに来たのだろうか。だからこんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。
 天に召されることは喜ばしいことだと教会で何度も教えられたけれど、迎えに来る側としては「迎えに来なければもっと長く生きられたのに」という考えなのかもしれない。司教も司祭も1度たりとて死んだことなどないのだから、天使が死者を天に連れて行くことをどう思っているなんて知っているはずがない。


「よかった。きみが無事なら、それでいい」

 そんな考えがよもや伝わっているわけではいないだろうが、彼は顔を曇らせながらそんなことを言う。台詞《セリフ》だけ聞けばもう少し安堵の表情を見せてもよさそうなものなのに、この顔はまるで「無事で残念だった」と言っているようだ。
 無事だということは私は死んでいないということなのだろうか。
 その表情は、連れて行けなくて残念に思っている、ということなのだろうか。
 矛盾を感じるところは多々あるが、それよりも気になることがひとつ。

「……誰」

 私は彼を知らない。
 懐かしく感じる気がするものの、何処《どこ》で出会ったのかも、その名も、思い出すことができない。


 案の定、彼は悲しげに目を伏せた。だがすぐに顔を上げる。こちらを心配させまいと気を|遣《つか》っているのだろうが、痛々しい笑みが余計に悲壮感を漂わせていることを、彼はきっとわかっていない。
 もしかするとこの不安を|煽《あお》る表情が元々の顔立ちなのだろうか、と思うと同時に、違うと心の中で否定が入る。彼はいつも強気だった。自分に自信を持っていた。大勢の前でも堂々と笑っていた。覇者という文字を人の形にしたらこうなるのだろうと思わせるほどに……。

 そこまで考えて、ピタリと思考を止める。
 おかしい。
 何故《なぜ》私は見ず知らずの彼のことを、こんなにも知っているのだろう。



 私の挙動を不審がることもなく、彼は私に手を差し伸べる。
 面と向かって誰だと問われたにも拘《かか》わらず、まるで気にしていないのも不自然だ。こうして尋ねられることに慣れているようにも見える。

 私は幾度となく彼に名を問うているのか?
 それなのに覚えていないのか?
 何かがおかしいと思いながらも、手を差し伸べて来た彼に促《うなが》されるまま私は上体を起こす。

 小さな部屋だ。
 壁も天井も黒く、木が枝を張り巡らせたような柄に埋め尽くされているのは悪趣味だとしか言いようがない。室内なのに鬱蒼《うっそう》とした森の中にいるようで、何処《どこ》となく不安を呼んでくる。
 窓にはカーテンが引かれ、主《おも》だった灯りは暖炉の上に灯る燭台《しょくだい》ただひとつという暗さと、自分ひとりではないことで辛《かろ》うじて我慢できるものの、ひとりで放り出されたら薄気味悪さで発狂してしまいそうだ。

 この部屋自体も見覚えがある。
 と言うよりもこの部屋を知っている。
 これは、敵に追いかけられ、這《ほ》う這《ほ》うの体で逃げ込んだ部屋。書棚に日記があって――

 私は彼を見上げた。
 記憶が、するりと入れ替わった。


 そう。
 此処《ここ》は、彼の部屋だ。





 正確には彼が使っている部屋のひとつ、と言ったほうがいいだろう。寝室や日常的に使っている部屋は別にあって、此処《ここ》は言うなれば隠れ家のようなもの。この城にはこのような使われていない部屋が多くあるから、ひとつくらい拝借しても構わないらしいし、実際、彼がそう言えば拒絶する者などいないに等しい。
 なのに。
 そこまで知っているのに、私は彼を知らない。


「気にすることはない。じきに何もかも良くなる」

 何が良くなると言うのだろう。
 尋ねたかったが、あまりに何もかもを鸚鵡《オウム》返しに聞きすぎている気がして、口に出すのが憚《はばか》られた。

 誰だと問いかけたにもかかわらず名乗ろうとしないのは、尋ねられたことを忘れているのか、冗談だと思ったのか、それとも面倒だと思われたのか。
 口調から察するに自分と彼は親しいようだから、言う必要などないと思われているのかもしれない。何を問うても答えてはもらえないような、質問自体を拒絶する空気を感じる。
 彼をどう呼べばいいのか、いったい自分にとっての何なのか。
 本当に天からつかわされた天使だとは思わないが、最近では馴れ馴れしく《親しさを装って》近付く誘拐犯もいると聞いている。実際、彼の弟は攫《さら》われかけたことがあるらしい――。

 ……ああ、まただ。
 彼のことを知らないのに、何故《なぜ》私はそんなことを知っているのだろう。



「さて、そろそろお姫様が探しに来る時間だ。行こうか」

 そう言いながら立ち上がった彼に、慌てて自分も立ち上がる。
 立ち上がって、よろけた。
 見れば踵《かかと》の高い、小洒落《こじゃれ》てはいるが歩きにくそうな靴を履いている。こんな靴では走るどころか歩くだけでも足首を捻《ひね》ってしまいそうだ。
 いや、靴だけではない。腰《ウエスト》を締め上げたドレスは着心地よりも見た目を重視しているとしか思えないし、その前に何故《なぜ》私はこんな重そうなドレスを着ているのだろう。こんな衣装を日常的に着る生活は送っていないはずなのに。
 そしてそう思う傍《かたわ》ら、ドレス以外に何を着ると言うのだ、と言う声も聞こえてくる。

「あの、」
「おねえさまー!」

 それでも、何もかもがわからないまま過ぎていくことに耐えきれなくなって、再度、彼に声をかけたその時。
 けたたましい足音と共に扉が開き、幼子が飛び込んで来た。
 彼女は真っ直ぐに自分に向かって走って来ると、当然のような顔で抱きついて来る。幼子特有の、ミルクが混じったような甘い匂いがする。

「おねえさま、たんけんはおわったの? たからものはあったの? どうしてあいりすはおるすばんなのー?」
「……よろしかったでしょうか、兄上」

 矢継ぎ早にまくしたてる幼女の後ろから、やけに申し訳なさそうな声が聞こえた。
 戸口から顔を覗かせた少年は、彼にそう尋ねながらも部屋の中には入って来ない。
 
 この少年は彼の異母弟《おとうと》。男装の少女のような面差しは少年期の今だけにしか見ることができない儚《はかな》さと相《あい》まって、誘拐されかけたのも仕方がないとすら思わせてしまう。

「気にすることはない。そろそろお前たちが戻って来る頃だと思っていたところだ」

 彼は私に背を向けたまま、弟が待つ入口に向かって歩いていく。
 弟の話題として彼の口から出て来るのは昔から悪口ばかりだったが、そのわりに彼は弟のことを気にしている。今だって、弟が現れてからこちら、自分《私》の存在など忘れてしまったかのようだ。


「楽しかったかい? 青藍」
「楽しいかと仰られても……アイリス嬢の相手は難しいです」

 青藍。
 その名は知っている。
 ルチナリスの義兄《あに》の名だ。
 あの日記の主がしきりに書き記していた弟の名だ。
 だとすると。

 私は彼《・》を見る。
 青藍を弟と呼ぶのなら彼は紅竜なのか? だとすると、


 弟の肩を抱きながら、彼はやっと暗闇に残したままの私を振り返った。

「そろそろ思い出したかい? キャメリア」



 私は夢を見ているのだろうか。
 犀《さい》からキャメリアと呼ばれたから、だからこんな夢を見ているのだろうか。
 記憶がないのに記憶がある。知らないのに知っている。そんな矛盾がグルグルと回り出す。

 私は。



 行かなければ。 
 私は立ち上がると足を踏み出す。


 ――何処《ドコ》ニ?


 何処《どこ》って、決まっている。彼らのところへ。明るい場所へ。
 此処《ここ》はあまりにも暗いから。


 踏み出した足が何かを踏んだ。
 バランスを崩し、転倒する。
 見れば、床だと思っていたものが黒い何かに覆われている。ドクリ、ドクリと脈打つように動くその黒いものは、よく見れば部屋中を覆っている。壁の模様だと思っていたあれも……。


「来ないのかい?」

 彼の声がする。
 弟の肩を抱き寄せ、彼は既《すで》に私に背を向けている。 

「待っ、」


 ――行クノ?


 行くだろう?
 こんなところに残されても困る。

 
 ほんの数歩の距離なのに、私は何を焦っているのか。
 立ち上がることもできず、歩き出すこともできず。

 そんな私を……彼の弟だけが、じっと見ている。




「あなたの病気、ですか?」


 そんな声に顔を上げると、まわりの光景が一転していた。
 金髪の青年も、その弟も、幼い妹も姿を消し、人影と言えば少し離れたところに立っている男だけだ。自分に背を向けている彼は、どうやら調理をしているらしい。野菜が煮える匂いがする。
 その男は「父」。年齢からすれば多少は若いが父と呼べなくもない。けれど、本当に血が繋《つな》がっているかはわからない。

「どうかしましたか?」

 父は私に敬語を使う。
 仕事柄、敬語が身に付いてしまっているのだそうだが、他の親子と比べると違和感は拭えない。
 世の父親というものは大抵娘には甘く、蝶よ花よと扱うらしいが、この「父」の過保護ぶりはそれを越え、まるで自分《私》を主人として扱っているかのようで……それが余計に本当の父なのだろうかと疑う原因になっている。

「夢を……見ていました」
「夢」

 今しがたまで見ていた光景は夢だったのだろうか。
 私は周囲を見回す。
 台所と食堂と居間と寝室を一部屋で賄《まかな》おうとするとこうなる、という見本のような部屋だ。暖炉と書棚のあった夢の中の部屋とはまるで違う。
 狭い中に生活の道具がゴチャゴチャと詰め込まれた雑多さは、この家がとりわけ片付いていないわけではない。このあたりの家は皆、そんな造りだ。戸板で開け閉めする窓には硝子《ガラス》もなく、雨風が強い日は閉めきらなければならない。硝子《ガラス》は高価なので、自分たちが借りられる程度の家には付いていないと、父はそう言っていた。

 硝子《ガラス》。
 夢の中のあの部屋の窓には付いていた。きっと他の部屋にも付いているだろう。それだけではなく、あの世界では皆、小綺麗な服を身に纏《まと》っていたし、自分もそうだった。
 しかし今は違う。あんな服、買うこともできなければ着る機会もない。なのに、想像で作り出したにしてはリアルすぎる。


「どんな夢でしたか?」

 私は膝の上に置いた両手に視線を落とす。
 手を引かれた時の温もりも、感触もまだ残っている。
 まるで今の今まであの世界にいたような、何らかの力が作用して平行世界《パラレルワールド》の自分と入れ替わってしまったかのような。

「……青年と、少年と……妹がいて……」
「彼らの名は覚えていらっしゃいますか?」
「名前?」

 何故《なぜ》そんなことを聞くのだろうと思いながらも、朧《おぼろ》げになりつつある記憶を紐解《ひもと》く。
 少年と妹の名は出ていた。青年だけはあの場面では名が出て来なかったが、その前の……ああ、それも夢なのだろうか、あの世界の自分とはまた違う、第3の平行世界《パラレルワールド》のような場所で私は「あの少年の兄」の名を知っていた。それは、

「……名前、は……」

 出て来ない。
 あの金髪の青年の名前だけが、いや、今しがたまで覚えていたはずの少年と妹の名までもが、ポッカリと抜け落ちて思い出すことができない。



 父はそんな私を黙って見ていたが、やがて竈《かまど》の火を落とすと椅子を引き寄せ、私の対面に腰掛けた。

「それがあなたの病気なのです」
「名前が、わからないことが?」

 記憶喪失だと言いたいのだろうか。
 しかしそれ自体は病気ではない。頭に何らかの衝撃を受けたり、高熱を出したりした後遺症として出て来ることはあるけれど、それは障害であって病気ではない。
 それに夢の中で出会った登場人物の名がわからないことなどよくあることだ。現実世界の友人や家族ばかりが出て来るわけではないのだから。

「脳の病気として見れば似たようなものはあります。しかしそれらと根本的に違うのは、脳自体は委縮することもなく正常であること、身体機能に弊害が出ることもなく、ただ、”ある特定の記憶”だけが消えてしまうこと、なのです」
「それが、私の場合は彼らの記憶だと?」
「正確には彼らと過ごした時《とき》の記憶、ですね」


 だとすれば、あの夢は夢ではなく、実際に過去にあったこと、ということになる。
 あんなゾロゾロした服を着ていた日が、硝子《ガラス》のはまった窓のある部屋で過ごせるだけの身分が、過去の自分にはあったと。
 それが、何故《なぜ》。
 医者にかかるにしたって、此処《ここ》まで貧しい暮らしをする必要などないはずだ。むしろあの場に残っていたほうが優秀な医者にかかれる率は上がる。腕のいい医者は診察を受けるだけでも高くつくのだから。


「後悔しておいででしょう?」

 父はそう言いながら席を立った。背を向けられてしまうと、どんな意図でその言葉を言ったのか、表情から推《お》し量《はか》ることができない。
 あの夢が現実で。
 私が後悔しているとして。
 そこから導き出される答えは、私があの生活から逃げ出した(そしてきっと「父」はその当時から同行している)というもの以外にない。

 考えている間にも父は何やら皿に盛りつけて戻って来た。
 貼りつけた笑みがわざとらしい。私が後悔しているのか、ではなく、私に付いて来た父は後悔していたのか、ということを読み取らせないようにしているとしか思えない。
 
 大量のチコリの上に炒めた人参とジャガイモ、さらに燻製肉《ベーコン》が乗ったその料理は父の得意料理であるらしく、週に2、3度は登場する。自分も好んで口にしていたが、あの夢が現実だったと聞かされた後では貧しさの象徴のように見えて仕方がない。

 だが後悔しているか、と問われると首を傾げる。
 病気はなりたくてなるものではない。何を後悔すると言うのだろう。
 あの場に留まって医者にかかるという選択肢を蹴って、父とふたり、こうして旅をして回ることを、だろうか。
 だが、それも奇妙な話だ。
 前述したとおり、あの場に留まっていたほうが腕のいい医者にかかれる率は高い。周囲がオカルトの妄信者ばかりで、イワシの頭だの、イモリの黒焼きだの、魔法陣だので治そうとするのなら、まともな医者にかかるために外に出ようと思うかもしれないが、そんな事例は稀《まれ》だろう。
 だとするとこの旅は本当に病気を治すことが目的なのだろうか。
 もっと他に、あの場所を出なければならない理由があったのではないだろうか。


「でもその後悔も……こうして話したことも、あなたはいずれ忘れてしまう」
「何故《なぜ》? 消えるのは”彼らと過ごした記憶”だけなのでしょう?」
 
 父は何かを隠している。
 もしくは私が忘れている。

「教えてください。私は、何故《なぜ》こうしてあなたと共にいるんですか? 此処《ここ》にいるのは病気以外の理由があるのではないですか? 例えばあの青年のために何か、」

 身を乗り出して問う私に、父は貼り付けていたものとは別の、もっと人間じみた笑みを浮かべた。
 自嘲《じちょう》のようでもあり、嘲《あざけ》りのようでもあり。
 ただ察したのは、父があの青年を良く思ってはいないであろうことと、だからこそ決して真実を教えてはくれないであろうということだけで。


「きっと忘れてしまうでしょうが、ひとつだけお教えしましょう」

 チーズの塊を小刀《ナイフ》で細かく削り、燻製肉《ベーコン》の上に振りかけながら、父は重い口を開いた。

「あなたは彼のために此処《ここ》にいる。私はあなたを助けるために此処《ここ》にいる。全てはひとつの未来に向かって動いています」
「そんな抽象的な物言いをされても」

 相手に伝わらなければ意味がない、と常々言っている父が、何故《なぜ》こうも曖昧《あいまい》な言い方で濁そうとするのだろう。
 私は誰だ。
 あの青年は誰だ。
 目の前にいるこの男は誰だ。
 明日になれば、いや、数時間後には抜け落ちてしまう記憶かもしれないけれど、それでも知らないままでいいということにならないはずだ。
 何度も聞かれて、何度も答えて、受け答えが面倒になってしまったのだとしても、あと1回だけ知りたい。未来の自分に記憶を残す方法はある。日記やメモに記しておけば、過去の自分が何を聞いたか、どう思ったかを未来の自分に渡すことができる。だから、


「何時《いつ》かわかります。今後の全てのあなたの行動は、その未来に向かってのものですから何も心配することはありません」


 だが、父の話は的を得ない。
 それはまるで、口に出すことで第三者に知られるのを恐れているかのようで――。




「……その行動で苦しんでいる娘がいたら、どうすればいいのでしょう」

 思いがけず、そんな言葉が口をついた。
 自分で口走ったにもかかわらず、何故《なぜ》そんなことを口にしたのか……いや、わかる。
 またしても記憶がすり替わっていく。青年たちと共にいた記憶ではなく、父といた記憶でもなく、それよりも前で、それよりも未来の記憶に。それが鮮明になるにつれ、他のふたつが霧の向こうに消えるように薄れていく。
 この感覚は何なのだろう。
 記憶が抜け落ちる病と何か関係があるのだろうか。と思いながらも、鮮明になったとあるひとつの記憶を失わないよう、私はしっかりと握り締める。 


 娘がいた。
 不器用で、優柔不断で、なのに一生懸命で。
 その娘は今、心の中の闇に向き合っている。闇に呑み込まれるか否かは彼女次第だが、その発端は自分にあるような気がしてならない。
 倒れる寸前、彼女は言った。「騙していたのか」と。
 そして倒れた彼女のことを、犀《さい》は「闇に呑まれている」と言った。

「私の名は、キャメリア、と言うのですか?」

 犀《さい》は自分のことをその名で呼んだ。
 あの青年もそう呼んだ。
 その名は魔族の、とある女の名で、ずっと人間だと思っていた自分が魔族だったことにその娘はショックを受けたようだった。
 彼女が探し求める義兄《あに》も魔族だと言うし、連れの青年も中年も魔族だし、今更魔族がひとり増えたくらいで闇堕ちするとは思えないのだが、堕ちたのは事実。自分に否がある自覚がなくても、彼女を傷つけたらしいことも事実。
 実際どうしたらいいのかわからないが、目を覚ます切欠《きっかけ》があるのなら夢の中だろうと構わない。助言が欲しい。


「名前など記号のようなものです。どのような名で呼ばれようとあなたはあなたでしょうに」
「はぐらかさないで頂きたい。そのようなことを論じるつもりはないのです」

 この世界は夢なのか。それとも過去なのか。
 それすらわからない中、父本人かどうかも怪しい男を捕まえて何を尋ねているのだろうとも思うけれど。

「どう動いてもそれが目的とする未来に向かっているとあなたは言った。でもそのために関係ない娘を闇に堕とすのは、」
「関係ないことなどないのですが」
「……ルチナリスを、知っているのか?」
「しっ」

 自分の口から零《こぼ》れ落ちた言葉に、父は口元に人差し指を当てる、所謂《いわゆる》「静かに」というポーズを取った。
 誰かが聞いているのだろうか。
 聞かれたら困ることなのだろうか。
 明かり取りを兼ねて開け放たれている窓の向こうに人がいる気配はないが、いれば聞こえないこともない。
 だが。

 此処《ここ》は過去で。
 もしくは夢で。
 その中の住人が何かを知っていると言っても、それは全て私の頭が作り出した創作で。助言を得たところで自分の想像の域を越えることはない。誰かにきかれたとしても、それも含めて私の中で完結する。
 そう思っていたのだが、この男と話していると夢と現実の境目が曖昧になっていく。


 男は暫《しばら》く黙っていたが、やがて口を開いた。
 
「いいでしょう。ではあなたは元の世界にお戻りなさい」
「戻れって、まだ何も」

 何だこの唐突な追い出しは。
 親身になってくれているようでいて、やはり父ではないからだろうか。

 足元がグルン、と回った。
 バランスを崩し、私は思わず父であった男に手を伸ばす。
 しかし彼はその手を取ってはくれなかった。
 ただ――。




「姐《ねえ》さん、目ェ開けてくれよぅ」


 気が付くと真っ暗な部屋に倒れていた。
 自分の顔の周りを、羽虫のような精霊が飛び回っている。彼の羽根からは金色の細かい光が舞い散り、このあたりだけがほのかに明るい。

「……トト?」
「よかったぁ! このままルチナリスみたいに目ェ覚まさねぇかと思ったじゃねーかよぉ」

 
 目が慣れて来ると、そんなほのかな明かりでも見えて来るものだ。
 壁と天井には黒い木が枝を張り巡らせたような模様が描かれている。
 壁一面の本棚と、その中央に据え置かれた暖炉、そして小さな燭台がある。
 天井から吊るされているのは部屋の内装のわりに簡素なシャンデリア。しかし黒い蔓が雁字搦《がんじがら》めに絡みついていうせいで、それ自身がひとまわり大きく膨らんだように見える。

 此処《ここ》はあの青年の部屋。
 そしてエリックやルチナリスと共に潜んでいた部屋。
 本棚から見つけ出した日記を見ている時に、黒衣の娘が現れて……。

「そうだ、ルチナリス!」

 振り返って見たが、長椅子《ソファ》の後ろには誰もいない。無論、前にも左右にも、上にもいない。
 だがあの黒衣の娘《アイリス》はルチナリスを捕らえていた。投げようともした。
 もしかしたらもう投げられた後かもしれない。
 アイリスも、そしてルチナリスやエリックもいない。

「ルチナリスなら、」

 トトが指さしたのは開け放たれた扉の向こう。部屋の外。
 そしてその扉の向こう側にまで黒い蔓が――アイリスのドレスの裾《すそ》から見えたあの黒い蔓が――伸びている。