22-4 逃亡者は再会の輪舞を踊る~Rondo~




 気が付くと、蔓も紅竜もいなかった。

 ああ、この「気が付くと~」シリーズも何度目だろう。ルチナリスはぼんやりと天井を見上げた。
 この天井には見覚えがある。等間隔に続く窓、壁に取り付けられた燭台、そして天井の幅の狭さ。これは廊下――メフィストフェレスの城の廊下だ。
 黒い蔓が見当たらないということは、此処《ここ》は紅竜の目が届かない場所ということでいいのだろうか。あの光のせいで移動することができたのだろうか。

 立ち上がろうとしたルチナリスだったが、そのままガクン、と倒れ込んだ。
 左足が動かない。
 見ればタイツが裂けている。そこから見える肌がタイツと同じ黒、いや、もっとどす黒く染まっている。

 そうだ。蔓《つる》に足を貫かれたんだった。
 ルチナリスは上体を起こし、左足に手を伸ばす。
 突き刺さっていた蔓はない。場所を移動した際に抜けたのかもしれない。貫かれたのだから穴でも開いているかと思ったが、傷口は塞がっている。

 紅竜に襲われてからそんなに時間は経《た》っていないと思われる。窓の外はこの城に侵入した頃と同じように帳《とばり》が下り、月もほぼ同じ傾きで空にある。気を失っている間に数日経過して、同じ時刻に目覚めたのなら怪我の具合も空の様子も辻褄《つじつま》が合うが、よもやそんなに経《た》ってはいまい。
 それじゃあこれは?
 聖女の力が発動したのか?
 空間転移して、傷を塞いで。聖女の力は癒しの力だそうだから傷を治すのは問題なくできそうだけれども、瞬間移動したなんて事例はロンダヴェルグの図書館におさめられていた歴代聖女の中にはいなかった。

 そして義兄《あに》もいない。
 紅竜の周囲に渦巻いていた風が義兄《あに》の魔力を元にしているのなら、そこに反応したとも考えられるが……自分の力か、通りすがりの第三者のおかげかはともかく、窮地を脱したことだけは確かなようだ。


 だが、此処《ここ》とて長居はできない。
 片足が動かないのがネックだが、何処《どこ》かにいるであろう師匠《アンリ》や執事《グラウス》と合流できる手立てはないだろうか。
 体の自由が利いた今までなら、目的地である義兄《あに》の居場所に向かえば、同じようにやってくるであろう彼らと合流できる可能性は高かった。しかし今はどうだろう。彼らは渡り廊下から落ちたのだ。致命傷を負っているかもしれない。先に進むことはもうできない、と撤退に舵《かじ》を切っているかもしれない。
 だとすれば自分が無理をして先に進んだところで彼らとは合流できない。むしろ離れる。


「どうしよう」

 思わず声に出たが、だからと言って解決策が閃《ひらめ》きはしない。
 こういう時、物語なら颯爽《さっそう》とヒーローが出て来るものなのに。いや、ヒーローなんて高望みはしない。口が耳まで裂けた人外でも、大鍋で毒スープを掻き回していそうな婆さんでもいい。話を進めるキーマンが登場するものなのに!
 モブだから何時《いつ》の間にフェードアウトされるかわかったものではない。冒険が終わってエンドロールが流れている頃になって、

「そう言えばルチナリスさんって何処《どこ》に行ったんだろう」

 と呟かれて終わり、みたいな。

「今になって思えば彼女もいいところがあったよね」とか「そう言えば|云々《うんぬん》」と昔語りされて、

「きっとこの空の下の何処《どこ》かで元気にしてるよ!」

 と、異様に素早い動きで放射線状に流れて行く雲を見上げながら……いやいや、元気にしてないから。爽《さわ》やかに見捨てるのはやめて。
 ルチナリスは大きく首を振る。


 あたしはヒロインなのよ?
 モブだし、他の女性陣が押し並《な》べて華があるから胸を張ってはとても言えないけれど、でも「魔王様は人間の女の子を拾いました。さてこれからどうなっていくのでしょう」って視点で進む話があれば間違いなくヒロインはあたし。誰かに命がけで守られたり助け出されたりするのは魔王様のほうが多いし、誰が本当のヒロインなんだよ的なところは多々あったけれど、ああ、何だか悲しくなってきた。
 でも! ヒロインはあたし。
 そのヒロインが足から血を流して動けなくなっているってぇのに誰も助けに来ないなんて、物語の風上にも置けやしねぇ!! 異論があるならとっとと助けに来やがれってんだベラボーメェェェェェェエエッ!
 ルチナリスは心の中で叫……


「ああ!? 嬢ちゃんじゃねーか!? こんなところで一体、」


 ……んだと同時に声が降って来た。
 ルチナリスは顔を上げる。

 自分のことを嬢ちゃん、と呼ぶのは師匠《アンリ》しかいない。ヒーローと言うには予想外、本命、対抗、と当てはめて行けば大穴にきそうな位置にいる中年のオッサンだ。
 あたしなんかヒロインじゃない、と自分の価値を落とす発言をしつつも少しは助けに来るヒーローにちょっとだけ期待したところもあったのに、何故《なぜ》にオッサンが来るんだ。
 普通此処《ここ》は勇者《エリック》か執事《グラウス》でしょ!? 大穴でも「敵を欺《あざむ》くにはまず味方からってことで記憶喪失のふりをしていた」義兄《あに》ってところでしょ!?
 なんでオッサンなのよ! 誰も期待してないと言うか、あたしも期待してないと言うか、残念が過ぎるでしょ!! そうよ、執事《グラウス》と仲良く一緒に落ちて行ったのに、何で重要なところで一緒にいないの!?
 心の中は嵐が吹き荒れる。

 だがしかし。

「行くぞ!」

 「一体何があったんだ!?」とか「今まで何処《どこ》にいた!?」とか「無事か!?」とか「その足は!?」とか「俺のほうはこうだったんだ」とか、そういう再会したヒーローが言いそうな台詞《セリフ》を全部すっ飛ばして、師匠《アンリ》はルチナリスを抱え上げ、そして走り出した。


「ちょ、っ〇▽☆×▲〇××▼☆▽△▼!!!!」

 ガンガンと上下にと揺さぶられる振動で舌を噛みそうだ。
 助けてくれたのは有難い。運んでくれるのも有難い。誰と遭遇したのかを根掘り葉掘り聞いてこないところも好感が持てる。
 だがしかし!!!!!!!!

 一体何があったんだ!? とこっちが聞きたいくらいだ。
 義兄《あに》の居場所がわかったのだろうか。
 時間が勝敗を決する策を遂行中なのだろうか。
 どうせ自力では動けないんだし、「この空の何処《どこ》かで~」と思いを馳せられることなく物語のメインパート内でエンドを迎えることができそうなのだから文句を言うわけにはいかないが、それにしたって急展開すぎる。
 あたしは!
 怪我人なのよ!!!!


「ごめんね、少しの間我慢して」

 突然湧いた別の声に首を向ければ、師匠《アンリ》の少し後ろを勇者《エリック》が走っている。どうやらふたりとも無事なようだ。偽物かどうかは不明だが。
 ただ。

 執事《グラウス》はいない。




 不安だ。
 視界が上下に揺れる中、ルチナリスは自分を抱えている中年男とその傍《かたわ》らを走るフルアーマーとを交互に見比べた。
 念願のお姫様だっこなのに微塵《みじん》も嬉しくないのは若い美形ではないから、と言うのが失礼なことだとは重々承知しているが、この10年、若い美形な男の顔だけを見て、そういうシチュエーションを夢見れば大抵相手は美形の男が浮かぶ環境で育ってきたのだ。大目に見てほしい。
 なのにその男どもと恋愛フラグが立つことは1度もなく、それどころかそいつらは度々《たびたび》ふたりの世界に入り込んで、あたしひとりが|蚊帳《かや》の外。そんな境遇だったのだから! 大目に! 見てほしい!!(2回目)。


 と、まあ、それはさておき。
 有無を言う暇もなくこうして連行されているわけだが、彼らは本物だろうか。
 なんせ勇者《エリック》の偽物に弄《なぶ》り殺されそうになったばかり。しかも感動の再会も何もなく、まるで借りもの競争のお題メモに「ルチナリス」と書いてあったかのような、もしくは障害物リレーの途中に「ルチナリスを抱えて運ぶコース」が設置されていたかのような……つまりは「途中ではぐれた娘が別の場所に転がっていたことを全く不思議がる様子もなく連れて行くのはおかしいんじゃないの?」という不自然さが彼らの素性を疑わせる。
 事前に「この先の角を曲がったらルチナリスが転がっています。拾いましょう」と教えられてでもいない限り、「何故《なぜ》此処《ここ》に?」くらいは問うのが普通。片足血みどろで倒れているのだ、赤の他人だって5割は声くらいかけて来るだろうに|何故《なぜ》何も言わない!?
 遠慮か?
 プライバシーに踏み込むのは失礼だと遠慮しているのか!?
 でもそんな問いかけすら遠慮する仲なら、トトを起こしたいからって「南国娘なコスプレをして歌え」なんて無茶振りしては来るはずがない。


 そして気になることがもうひとつ。
 執事《グラウス》は|何故《なぜ》いないのだろう。
 渡り廊下の崩落ではぐれたのか。だったらどうしてこのふたりは合流できたのだ? どう考えても近い位置に落ちるであろう執事《グラウス》とはぐれるのは、勇者《エリック》と合流する確率よりも低いのに。

 あの頃、勇者《エリック》はミルの助太刀をするために自分たちとは離れていた。
 助太刀の成否はともかく、終われば(あたし《ルチナリス》たちがいるであろう)渡り廊下まで戻ってくるのが妥当だし、戻ってくれば渡り廊下手前で座り込んでいたあたし《ルチナリス》とかち合うはずだ。
 あたしが偽物に連れ出された後で戻って来たのだとしても、道中ですらすれ違わなかった。ということは、勇者《エリック》はミルの元に行ってから戻らずに別ルートを進んでい可能性が高い。

 別ルート=渡り廊下の真下である地上?

 いや、それはない。
 前もって渡り廊下が落ちることを知っているわけでもなければ、わざわざ階下に降りて、屋外に出るなどという遠回りルートを使う意味がない。


 考えれば考えるほど、この勇者《エリック》は偽物に思えて来る。
 師匠《アンリ》はこの偽物に騙されて動いているのかも……いやその前に、この師匠《アンリ》も偽物である可能性が拭えない。
 こうして連れていかれた先に、また紅竜が待ち構えていないとは限らない。今度は偽勇者《エリック》と偽師匠《アンリ》と3人がかりでいたぶって来るかもしれない。


「お、下ろして!」
「いでっ、ででで」

 そう思うと居《い》ても立ってもいられず、ルチナリスは両手で師匠《アンリ》の頭を押し退《の》けた。抱えられているのだから居《い》もしなければ立ってもいないじゃない、なんてツッコむ声は遥か彼方に投げ捨てて。
 傷口が塞《ふさ》がったとは言え、左足の稼働率は10%ほど。このふたりからは逃げられない。それでも紅竜の前に――逃げ場のない部屋に――連れて行かれるよりはましだ。


 抱えていられないほどに暴れたからだろうか。師匠《アンリ》はおとなしく足を止めた。しかし下ろしてはくれない。

「あのな」

 それどころか説得するようにルチナリスを見据えた。
 抱えられているから顔が近い。でも当然のことながらときめかない。ああ、師匠の顔だけでも義兄《あに》に変えられればいいのに! なんてやっぱり激失礼なことを思いつつ、ルチナリスは目を逸《そ》らす。

「今回は撤退だ。ポチからトトを預かってるから嬢ちゃんとエリックは人間界に帰れ」
「帰れ、って」

 トトを預かっている、ということは執事《グラウス》は人間界に戻ることをやめた、ということだ。
 まさかとは思うがミルの時のように敵を前にしてひとりで残ったのだろうか。
 奴《やつ》の場合、義兄《あに》がいれば環境にはこだわらない、という理由で魔界に残ることを決めたとも考えられる。つまり、敵の幹部が寝返って味方につく例があるように、味方だった執事《グラウス》は敵サイドになった、と。
 現にあたしたちの味方であったはずの義兄《あに》は、ロンダヴェルグと司教《ティルファ》を襲い、あたしにまで攻撃をしかけてきている。義兄《あに》が白と言えばどれだけ黒かろうと白と言いかねない執事《グラウス》だ。義兄《あに》恋しさに寝返らないわけがない。


「今度はちゃんと力付けて、エリックも腕を磨いて、最低でも一個小隊くらいの仲間を引き連れてから来い。いいな」

 やはり少数精鋭すぎたのだろうか。
 それでも城の住人だけなら対応できたのだろうが、時期が悪かった。
 敵だって一枚岩とはいかない、と思っていたけれど、道中で襲い掛かって来た人々の様子を考えれば、個々の意思など関係なく紅竜の意のままに操られて動いていると考えられなくもない。
 そして今、婚儀に参列するために魔界中から人々が集まって来る。いわば敵側の兵士はいくらでも補充が効く。


 だが、師匠《アンリ》は次があるようなことを言ったが、本当にそれでいいのだろうか。
 人間界に逃げ帰ったところで、そこで自分を鍛える余裕などあるとは思えない。
 執事《グラウス》は義兄《あに》に会って話をしたというだけでその後何年も密偵に付きまとわれ、家族まで傷つけられた。義兄《あに》を取り戻すと公言し、城に忍び込み、中で何度も乱闘騒ぎを起こしたあたしたちを紅竜が見逃すとは思えないし、逆に人間界のあたしたちはどれだけ攻撃されようとも「魔界にいる紅竜」には手が出せない。
 そしてその間も闇は増え続ける。
 魔界だけが闇に染まるのならまだしも、メグのように人間界に飛び火してこないとは言えないし、むしろ積極的に闇を送り込んできそうだ。
 義兄《あに》にしても、今はまだ生きているからと言って、今後も無事でいる保証はない。紅竜は気に入らないとサクッと処分してしまう人だと聞いている。
 つまり、先延ばしにすればするほど、自分たちは不利になる。


「今進まなきゃ無理だと思、」
「だから自分たちが犠牲になるのか? 前に闇を封印した時だって、何人の命を犠牲にしたと思っていやがる」

 言いながらも、しぶしぶと言った様子で師匠《アンリ》はルチナリスを下ろした。
 そして肩をボキボキと鳴らしながら(自分《ルチナリス》が重いせいで肩が凝ったから抱えていられなくなった、ではないと信じたい)、師匠《アンリ》は窓の外に目を向けた。

 もしかすると当時犠牲になった中に知り合いがいたのかもしれない。
 だ、けれども。

「でも今なら紅竜様って人を何とかすれば、まだ」

 師匠《アンリ》は次と言ったが、次なんてない。
 力を付けて、腕を磨いて、1個小隊の仲間を引き連れて此処《ここ》に現れる者が今後いたとしても、それはあたしたちではなく別の勇者になるだろう。

 だが別の勇者――つまり他の人間たちは魔族に怨みしか持っていない。
 魔界が闇に呑まれそうになっていることを知ってもいい気味だとしか思わない。
 義兄《あに》のことにしたって、知り合いでもない赤の他人(しかも|魔族《悪魔》)のために命を賭けようなんて思う者がいるものか。
 だから。
 言い換えればあたしたちが此処《ここ》で脱落すれば、「次」なんて何処《どこ》にもなくなるのだ。


「簡単に言うな。紅竜が何処《どこ》にいるのかもわかんねぇのに」
「わかる」

 仏頂面の師匠《アンリ》を遮《さえぎ》り、ルチナリスは彼が眺めていた窓の外を指さした。

「あたし、少し前まで紅竜様って人と一緒にいたもの。あの部屋の窓も同じ高さに月が見えた。でも下のほうに見える森の、1本だけ高いあの木。あの木はもっと右端にあったわ。
 だからあの人のいる部屋はこの階《フロア》。そして」

 窓の外を指していた指をそのまま廊下の先へ――今まで師匠《アンリ》に担がれて走って来た廊下を戻っる方角へ――向ける。

「この廊下をもっと戻った先だと思う」




「……そうか」

 師匠《アンリ》はルチナリスの指さした先に目を向け、それから腰からぶら下げた袋を探ると短剣を取り出した。
 色とりどりの石で鞘《さや》を装飾したその短剣は執事《グラウス》が持っていたもの。トトが宿っているもの。それを師匠《アンリ》は勇者《エリック》に押し付ける。

「ポチが言うにゃ、トトを呼び出さずとも持っていれば隔《へだ》ての森は通れるらしい。これ持って、行け」
「行け、って、師匠は?」
「俺はまだすることがある」

 勇者《エリック》は両手で短剣を握ったまま、左右を見回し、目の前の中年男を見上げ、あたし《ルチナリス》を見下ろし、それからまたおそるおそる中年男に目を向ける。

「……することって?」

 いつも口先三寸で世間を渡って来た勇者《エリック》らしからぬ動揺が見える。
 てっきり一緒に撤退するものだと思っていた師匠《アンリ》が、ここへきて突然脱落する兆《きざ》しを見せたからだろう。
 それはあたしも同じだ。師匠《アンリ》がいなければ森まで行けない、なんて他力本願を発揮するつもりはないけれど、「ルチナリス《あたし》をつれて」ということは実質、勇者《エリック》の両手は塞《ふさ》がれたままも同じこと。敵襲に遭《あ》ったら反撃も防戦もできない。 
 それに執事《グラウス》に続いて師匠《アンリ》までもがいなくなると言うことは、この城の内部構造を知る者がひとりもいなくなるということだ。帰り道が怪しくなることはもとより、次の機会がもしあったとしても道順を知る者がいなければ、此処《ここ》まで辿り着くことは難しい。

 その頃は魔界全土に闇が蔓延《まんえん》しているからわざわざこの城まで来なくても敵には当たり放題さ! 無問題《モーマンタイ》!! というものではない。
 蔓延《まんえん》したところで大元《おおもと》は此処《ここ》。人間に例えてみても指先を傷つけるのと心臓を貫くのとでは致命傷率も大違いなように、結局は此処《ここ》に来る必要がある。


「僕らが犠牲になることにウジャウジャした顔で文句言った師匠が、自分は犠牲になるって?」

 勇者《エリック》は不審な目を師匠《アンリ》に向ける。

「ウジャウジャって、」
「前回だって大勢でやっと封印したんでしょ? 師匠ひとりで何ができるのさ。紅竜様って人を倒せば闇が消えるの?」
「それはわからねぇが。でも紅竜がしでかしたことならこの家で落とし前を付けにゃなんねぇ」

 師匠《アンリ》は拳《こぶし》を握り締める。

「俺は追放された身だけどよ、家族同然の同僚も、育てて来た部下も大勢いるし、青藍も犀《さい》も当てにできないんじゃ俺がどうにかするしかないだろう」
「ひとりで?」
「だからって、お前らが役に立つのか!? ……あ、いや、すまねぇ」

 指摘に思わず声を荒げた師匠《アンリ》は、片手で口を押え、勇者《エリック》の視線を避けるように横を向いた。


 魔界貴族は昔から勢力争いをしていたと聞いている。
 今でこそ直接的な交戦は減ったが、その分、政治的権力に重点が置かれるようになった。夜会やお茶会で上っ面の平和を演じつつ、水面下では駆け引きが続き。日に日に力を付けて行く紅竜の恩恵を受けようと傘下に入りたがる家が増える一方、ヴァンパイア《アイリスの家》などの旧家はそれを不快に思い、対立はさらに深まっているのだとか。
 義兄《あに》が頑《かたく》なに執事《グラウス》に頼ろうとしなかったのも、そんな背景のせいだろうか。ミルがロンダヴェルグで仲間を作らずにいたのも、魔界に行く理由をずっとボカしていたのも、ひとりで進んでしまったのも。
 「他の家は敵であり、味方だとしても何時《いつ》寝返るかもわからない暫定《ざんてい》的なものでしかない。頼れるのは身内だけ」。そんな考えが魔界貴族の根底には根付いてしまっているのかもしれない。

 でも、それでは駄目だ。
 特に今回は義兄《あに》と犀《さい》が付いていたとしても勝てる保証がない相手なのに、師匠《アンリ》ひとりでどうにかできるものではない。だからと言って自分《ルチナリス》たちが役に立つのかと言えば、師匠《アンリ》の見立てどおり「役には立たない」のだろうけれど。

 勇者《エリック》は短剣を握りしめたまま続ける。

「マーガレットから闇が消えた時、ソロネちゃんは”闇が逃げた”って言ったよ。消滅したとは言わなかった。
 今までの話からして紅竜様ってひとがその封印した闇を解放しちゃったんだとして、だったら紅竜様を倒したところで闇は残ったままになるんじゃないの? 紅竜様から逃げ出して世界中に撒き散らされるとかにでもなったらそのほうが困るよ」


 もしかしたらこの勇者《エリック》は本物かもしれない。
 ルチナリスは勇者《エリック》を見上げる。
 マーガレット、こと勇者《エリック》の妹であたしの幼馴染みでもあるメグは、闇に染まってあたしたちを攻撃してきた。あの場にはメグと勇者《エリック》とあたし《ルチナリス》とソロネ、あとは義兄《あに》と執事《グラウス》とメイシアだけで、観客となり得る第三者もいなかった。
 当時のことを知っているから本物だ、という考えは短絡的すぎるかもしれない。けれど、この勇者《エリック》が言いたいことはあたし《ルチナリス》も同じ。役には立たないかもしれないけれど、だからと言って師匠《アンリ》ひとりに任せるべきではない。任せても、いい結果は出ない。


「けどよ、」
「あ――――――――っ!!」

 それでもなお師匠《アンリ》が反論しかけたその時、急に勇者《エリック》が奇声を上げた。師匠の背後、枝分かれした廊下の先を指さしている。

「何だ?」
「領主様がいた!」

 その声に師匠《アンリ》もあたしも目を向ける。
 勇者《エリック》が「領主」と言った場合、それは義兄《あに》のことだ。義兄《あに》がいたというのか? しかしどれだけ目を凝らしても、真っ暗な闇の中に人影らしきものは見えない。

「ほら、やっぱりさっきの変な竹が領主様だなんてほうが間違いだったんだよ!」
「竹?」


 竹、とは何だ? いや、形はわかるけれどもそれが義兄《あに》とどう関係してくると言うのだ?
 ルチナリスは首を傾げる。その一方で、


『竹の花が咲く頃戻ると伝えておいて下さぁぁい』

『椿さんは言ったわ。”竹の花が咲く頃に戻って来る”って。あの意味も知ってるの?』


 偽勇者《エリック》に尋ねたことをも思い出す。


「竹って、花が咲いてた……?」
「そうだよ! でもそんなことはどうでもいいんだ。領主様がいたんだよ! ほら、僕らの目的って闇をどうにかすることじゃなくって領主様と会うことでしょ!? 会って、話をして、執事さんは連れ戻すつもりだったみたいだけど……ああそうだ、執事さんにも教えなきゃ! でもその前に領主様を、」

 勇者《エリック》はまくしたてる。
 その口調の速さに、こうして座り込んでいるのが害悪であるかのような焦りが湧いて来る。

 竹に花が咲いた。椿が言っていた竹が。
 椿は戻って来るのか? それとも、もう戻って来て、それで……いや、今はそのことよりも。
 
 義兄《あに》がいた。
 行かなきゃ。でも、足が――。


「何ぼーっとしてるのさ師匠! 見失っちゃうよ! 間違いないって! 髪の毛黒かったし、ちらっとだけど顔も見た。あれは領主様だよ!」

 埒《らち》が明かないと思ったのか、勇者《エリック》はひとりで駆け出す。
 ただ、闇がぽっかりと口を開けているだけのように見える廊下の先へ。

「おい! そいつが青藍だって確証なんかないんだぞ!?」
「だからってぇぇぇ、ここでぇ、無視してぇ、帰るのぉぉ? それはぁぁ……ない……で……」

 銀色の鎧は瞬《またた》く間に見えなくなる。足音も、切らす息も、そして声そのものも聞こえなくなる。


「……師匠、あたし、行きたい」

 そして動けないあたしの心も勇者《エリック》と共に駆けて行こうとしている。
 枷《かせ》に繋《つな》がれたように動かない体を置き去りにして。

 先に行ってしまった心に引っ張られて、体がぐらりと倒れた。
 それでも。
 這《は》ってでも。




 罠《わな》かもしれない。いや、十中八九、罠だ。
 アンリはエリックが消えた廊下の先に目を向けた。
 なんせほんの少し前に全く同じ手口で騙されたばかり。あの高さから落とされて五体満足でいられるほうが奇跡だと言うのに、奴《やつ》らはそれをした。命を奪っても構わないと思っているわけだ。
 今回のことだって罠だとすれば、空を飛べるわけでもなければ身体能力が超人並みなわけでもないただの人間が無事でいられるはずがないし、第一、紅竜も犀《さい》も相手が人間だからと言って手加減してくれるようなタマじゃない。廊下を爆破するか、槍や鉄砲が降って来るかは知らないが……エリックもルチナリスも前回のアレを知らないからホイホイとついて行けるのだ。

 そうは思うが、下から見上げて来る懇願《こんがん》混じりの視線に「駄目」の二文字がどうしても言えない。
 思えば青藍を相手にしている時もそうだった。「子リスみたいなウルっとした目で見上げられたら理性を吹っ飛ばす野郎は何人かいる」と犀《さい》が称したのは特に青藍だからではなく子供全般に言えるだろうと今でも思うのだが、要するに常日頃ムサい男どもに囲まれて、筋肉と武器が家族だぜ☆彡 みたいな生活をしていると、小さくてかわいいものに耐性がなくなってくるのだ。

 だがしかし!
 いくら頼みと言えど、危険が待ち構えているとわかっている場所に連れて行くわけには……!

「でも師匠。勇者様が短剣持って行っちゃったからこのままじゃ帰れない」
「~~~~~~~~っ!!」

 しまった。渡すのならルチナリスのほうに渡しておけばよかった、と言っても後の祭り。
 アンリは頭を抱えた。
 どうする? 追いかけて行ってエリックを捕まえて来るとしても、その間にルチナリスが襲われる可能性がないわけではない。いや、今までの状況から考えて、絶対に狙って来る。
 罠であろうところに行くのは気が進まないが……エリックが言い残したとおり「まさかの本人だった説」を期待するしかない。 

 それに、きっとこれが最後だ。
 ここでルチナリスを無理に人間界に返せば、彼女は2度と義兄《あに》に会う機会を失う。次は、なんて言ったけれども、次があるなんて自分《アンリ》だって思ってはいない。

「~~~~っ、仕方ねぇ……な」

 アンリはルチナリスを背負うと、

「剣使う時は手ぇ離すから、そん時《ときゃ》ぁ自力でしがみついてろよ!」


 ――これが、最後だ。

 
 エリックが消えた廊下の先へ足を向けた。


               


 廊下は何処《どこ》までも続いている。
 この時点で既《すで》に罠に落ちている気がして来る。
 この離れという建物はかつてこの城にいた時に何度も足を運んだ。追放されている間に改築や増築をしているかもしれないが、それでも外から見た分には目立つ変化はなかったし、おおよその大きさや構造は把握しているつもりだった。だから、本来ならとうの昔に突き当りに着いていなければおかしい、というのもわかる。
 そして黙って歩いていれば余計なことも考えてしまうもので。

 ルチナリスが気にしていた「竹の花が咲いたら云々《うんぬん》」は知らないが、似たようなことなら犀《さい》も口にしたらしい。執事《グラウス》からのまた聞きだから何とも言えないが、青藍を連れて行く時に「花が咲いた」と言ったと言う。
 同じことだろうか。
 だとするとやはりあの竹らしきものは青藍だったのだろうか。人の姿では花など咲かせようもないが、植物に身をやつしてしまえば可能ではある。
 だが、青藍は植物に姿を変えるような特性は持っていない。人間との混血だから魔族とは違うことが起きてもおかしくはない、と考えてみても、あれはない。
 しいて上げれば闇による黒い蔓《つる》への変化。
 あの蔓《つる》は正確には植物ではない。青藍の場合は(混血が影響したのかは定かではないが)たまたま蔓《つる》ではなく竹に似てしまった、と考えることはできる。
 それか、あの竹自体が自分たちを惑わすためのもので、青藍本人は何処《どこ》か別のところ――多分に紅竜の傍《そば》だろうが――にいる、とも考えられる。むしろそっちを推《お》したい。

 連れて行かれたと言うグラウスの言《げん》を疑うのは今更過ぎるが、もし本当なら何処《どこ》かに閉じ込められていると考えるのが妥当。城内を自由に行き来しているのなら、それこそ誰かに連れ出されても文句は言えない。
 その誰か、とは自分たちのことばかりではない。青藍は昔からその魔力のせいで他者から狙われることも多かったし、青藍が魔王役から外れて損をする者が再び彼を魔王役に据えようと画策することだってないとは言えない。
 だからロンダヴェルグ襲撃などの紅竜指示で動く場合を除き、青藍自身の意思で自由に城内を歩き回ることが許されているとは思えない。婚礼の儀を控えて城内に部外者が多くいるような時期ならなおのこと。1日の大半を眠り続けていたという青藍の体調が、この数カ月で回復したとも考えにくい。

 しかし、此処《ここ》には闇魔法を繰る紅竜がいる。他の誰よりも闇には詳しいだろうし、対処の仕方だってわかっているはずだ。
 エリックの妹やアイリスが闇堕ちして自我を失い、青藍が記憶を失くし。そんな中で紅竜ひとりが無事でいるのが何よりの証拠。彼《紅竜》の処方で青藍が歩き回れるほどまでに回復した、と言うのなら……それはそれで悪いことではないけれど、だからと言って自由に歩き回らせはしないだろう。

そして犀《さい》。
 紅竜に何かあったときは、彼を廃して青藍を担ぎあげる。それは前当主に命じられた最後の使命のはずだ。自分にとっても、犀《さい》にとっても。
 眠らせていたのでは使命は果たせない。きっと青藍の目を覚まさせる手立てを考えてくるだろう。


『――坊ちゃんは市井《しせい》に逃がしたほうがいいんじゃないでしょうか』


 独《ひと》り言と称してそう呟いた犀《さい》が、青藍を本家に連れ戻した。
 それはつまり、前当主から言われた使命を達成する時に他ならない。己《おのれ》の考えも青藍の意思も捨て、使命に従う時。だが。

「お前は……まだ味方なのか? 犀《さい》」

 友だと、仲間だと思っていたが、甘かったかもしれない。
 たとえ精霊種だとしても、ずっと紅竜に近い場所にいれば闇に染まってしまう。



「そう言えば犀《さい》って人は、ロンダヴェルグを襲ったのは結晶を壊すためだって言ってました」

 背中からルチナリスの声が聞こえる。

「それはあの街の結界を消すためだろう」

 ロンダヴェルグを覆う悪魔除《よ》けの結界は強力だ。あのせいで狩りができない。今後のことを考えれば、2度と張れないように大元《おおもと》を壊しておくのは当然のことだろう。


 ……ロンダヴェルグと言えば。
 アンリの頭の中で別のことが首をもたげる。
 犀《さい》は彼女のことを聖女と呼んだと言う。精霊種だからと言って予知能力などないから、ロンダヴェルグでルチナリスが落ちこぼれ扱いされていたことを知らないだけかもしれないが、どうにもあの犀《さい》なら確証できる何かを知っている上でそう言ってきている気がしてならない。


「あの結晶、メイシア様の精霊の力が封じてあるんだそうです」
「ああ、あれだけ飛び回って目からビーム出すような人形は封じたほうが精神衛生上いいかもな」
「でも、何だか黒い管《チューブ》がいっぱい付いて、縛られてるみたいでした。あたしは……メイシア様は自由になって喜んでるみたいに見えて、もしそうなら結晶は壊れたほうが良かったのかな、って」


 同じ精霊仲間が力だけとは言え結晶に封じられていることが気に入らなくて……? いや。
 アンリは首を振る。


『当人が選んだ道なら結果も受け入れるしかなかろう。私も他の精霊たちも関与はしない』


 ジルフェも言っていたが、彼らは仲間意識が薄い。何があろうと自己責任、と突き放すきらいがある。
 メイシアはそんじょそこらの精霊とは違う。四大精霊だと言えども、いや四大精霊だからこそ、自分のことは自分で何とかしろと思うのではないだろうか。


『当人の意思が介入しないのなら話は別。力づくでどうにかするつもりなら、私は守る術《すべ》を持たぬ彼らの盾となろう』


 ただ、管《チューブ》を繋いで縛りつけることにメイシアの意思は入っていない。眠っている間にされたのなら抵抗もできなかろう。
 犀《さい》は不本意に囚われの身となった同胞《はらから》を解き放つつもりで……?


 わからない。わからないことが多すぎる。
 アイリスのことといい、ミルのことといい。犀《さい》がルチナリスを狙っているような発言をしたことといい。根底にはもっと何か別の問題が隠れているのではないだろうか。
 せめて前当主《お館様》か犀《さい》に話が聞ければ――。


 窓の外に目をやれば、黒い背景を背に鳥が飛んでいる。鷹ほどではないが、雀よりは大きい。
 アンリは一瞬だけ宙に視線を彷徨《さまよ》わせる。
 そう言えば、青藍の使役獣は鳥だった。あの鳥の近くに、彼がいるかもしれない。




 そうだ。
 アンリはルチナリスを背負《せお》ったまま考える。
 此処《ここ》は離れ。隠居した前当主《お館様》は母屋《おもや》を引き払ってこちらに居《きょ》を移している。
 彼《お館様》が闇堕ちしている可能性も拭《ぬぐ》いきれないし、それどころか今の今まで消息不明、音信不通。それでも大悪魔と謳《うた》われた男だ。そう簡単に死ぬはずがない。囚われの身になっているのだとしても正気を保っていてくれる、と期待したい。
 彼《お館様》ならば何かを知っている。闇についても、紅竜のことも、第二夫人を娶《めと》った意味も、当主に据《す》えるわけでなくとも青藍をこの家から出すなと言ったことの真意も……脳筋だからと考えることを止めてただ従って来た様々な命令は、きっとひとつに集約されていく。そんな気がする。

 だが今から前当主《お館様》を探し出して真相を確かめよう、なんて言い出したところでルチナリスは首を縦には振らないだろう。今此処《ここ》で目的を変更して前当主《お館様》を探しに行ったところで、二兎追うものは一兎をも得ず、とばかりに青藍にも前当主《お館様》にも会えずに敗走する未来しか見えない。


 やはりルチナリスたちを逃がしてからどうにかするしかあるまい。
 この城に闇が蔓延《はびこ》っているのは|紛《まぎ》れもなく紅竜が一枚|噛《か》んでいるはずだし、だとすれば放ってはおけない。
 だがルチナリスやエリックは部外者だ。自分《アンリ》ひとりで何ができる、と彼らは言うが、彼らがいたところでどうにかなるものでもない。ルチナリスが聖女の力を引き継いでいればまた違っただろうが、今のあの娘ははっきり言って足手まといでしかないし、危険な目に遭《あ》わせればお嬢《ミル》にも申し訳が立たない。



 靴底で絨毯《じゅうたん》が擦《す》れる微《かす》かな音だけが聞こえる。
 無限回廊に入り込んだかのように同じ廊下を歩き続かされていると思っていたが、少し変化があったようだ。何時《いつ》の間には窓から見える景色が変わっている。
 今までは月が見えた。窓枠に沿うようにして並ぶ木々が見えた。しかし今は月も木も見えない。その代わりに母屋らしき建物の陰《かげ》が見える。

 真っ直ぐに歩いていたはずなのに、自分たちは何時《いつ》の間にか紅竜の術中にはまっている。
 月と木の位置で紅竜がいたという部屋の位置がわかるとルチナリスは言ったが、今の状況ではそれも叶えられそうにない。
 ルチナリスはそのことに気付いているのかいないのか、何も言わない。きっと心は今もエリックと共に|義兄《あに》を追いかけているのだろうから、外の変化には気付いていないのだろう。不安がらせるだけだろうから黙っていたほうがいいかもしれない。
 


 そんな中、ふいにルチナリスが、

「勇者様」

 と叫んだ。

 見れば廊下の先に見慣れた白銀のフルアーマーが立っている。何時《いつ》の間に現れたのか、つい先ほどまでは誰もいなかった。アンリは足を止める。
 疑わしい部分は他にもある。
 エリックは逃げ足は速い、なんて嫌味をよく言われているが、何にせよ「足は」速い。その足でも青藍は見失ったのだろうか。それらしき姿はない。
 本物のエリックは青藍を追いかけさせておいて、偽エリックで自分たちを罠にはめるつもりなのか?
 見た目が違うだけで効果が同じ罠を2度も仕掛けられるというのは「脳筋は単純だから何度でも引っかかる」と馬鹿にされている気がしないでもないが、短時間だからこそバリエーションが思いつかなかったとも考えられる。渡り廊下の時と同じだと爆破を警戒させておいて、それ以外の策で来る可能性も高い。

 やはり本人だとわかるように印を刻んでおくべきだった。と悔やんでも遅い。
 よくよく考えてみればミルの助太刀に行ったはずのエリックが離れに現れた時点で怪しいし、爆破で落下したグラウスが五体満足で離れの中にいたことも、渡り廊下の向こう側《母屋側》に置いて来たルチナリスが離れの廊下にいたことも怪しいのだ。
 歩けないほどの傷を負っているルチナリスは本物だろう、と思いたいが、紅竜や犀《さい》なら自分《アンリ》がそう思うところまで見越して、わざと傷を付けて転がしておくことだってしかねない。つまりは、誰も彼もが偽物であるかもしれないわけで。
 そう考えると敵かもしれない者を背負《せお》い、あまつさえ首に両腕を巻きつかせている状態というのはかなり危険だ。そう思う一方で、万が一にも本人だった場合を考えると振り落とすわけにもいかない。

 どうすればいい?
 エリックから数メートル距離を置いて立ち止まったままアンリは逡巡《しゅんじゅん》する。


「青藍様は?」
 
 そんなアンリ《アッシー》の心知らず、ルチナリスは背中からエリックに問いかける。
 まともに歩けないくせに下りようという素振りを見せたので、アンリは身を屈《かが》めてルチナリスを下ろした。背負《せお》わされていた時限爆弾を下ろすことができた安堵に似た感情に、自己嫌悪に陥《おちい》りそうになりながら。

「見失った?」

 ルチナリスは片足を引き摺《ず》りながら数歩進み、周囲を見回す。
 その姿からは純粋に義兄《あに》に会いたいという気持ちしか感じない。けれど油断はできない。エリック共々偽物で自分《アンリ》を陥《おとしい》れるつもりがないとは言えない。

 しかし、もしエリックだけが偽物だとすれば、彼が牙を剥《む》くのは自分《アンリ》よりもルチナリスに対してだろう。距離からしても、戦闘力からしても。
 彼女《ルチナリス》を囮《おとり》にするようで気が引けるが……アンリはその場に突っ立ったままエリックに問いかける。

「……そう言やあ、お前、ちゃんと剣持ってるだろうな」
「剣?」

 案の定、エリックは背負《せお》っている大剣に手をやる。

「そっちじゃねえ」
「ああ」

 すぐに気付いたのか、エリックは執事《グラウス》の短剣を取り出した。

「これ? やっぱり師匠が持ってる?」
「いや。……ありゃあ《あれば》いいんだ」

 見る限り、短剣は預けたものと寸分違《たが》わない。装飾も色合いも脳筋なりに必死に覚えてから渡したつもりだが、同じもののように見える。
 姿形を似せることはできても寸前に預けた小物《アイテム》までは用意しきれないだろうから、とりあえず目の前の彼《エリック》は「領主様がいた」と叫んで飛び出して行ったエリックと同一人物と考えていいだろう。
 本物ならルチナリスを連れて人間界に帰ってもらわねばいけないから、持っていてくれたほうがいい。

 矛盾している。
 仲間か。敵か。そんなことに神経を割《さ》かなければいけない。これも紅竜や犀《さい》の思惑どおりだとしたら。


「それより、僕も師匠に聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「あ?」

 エリックの冷ややかな声に、アンリは顔を上げた。
 剣を抜いている。


 ああ、そうか。

 アンリは息を呑んだ。
 自分《アンリ》がエリックやルチナリスを偽物か、と疑うのと同じように、エリックも自分《アンリ》が本物か否《いな》かを疑っている。
 先ほどまではそんな素振りを見せていなかったのに、少し離れていた間に何があったのか。
 自分《アンリ》と同じように走っている間にずっと考えていたのか。それとも、あの青藍、もしくは他の誰かに何かを吹き込まれたのか。
 何にせよこのままでは……最悪、同士討ちで自滅する。


6から



「勇者、様?」

 ピン、と張りつめた空気にルチナリスは目の前のフルアーマーの男を見、それから背後に立つ中年男を振り返った。
 自分と合流する前、彼らは揃《そろ》ってやって来た。人間界に戻れ、と執事《グラウス》の短剣を託しもした。なのに、少しの間離れただけでどうして敵対するような空気になっているのだろう。
 どちらかと言えば、置いて行ったはずなのに進んだ先《廊下》に転がっていたあたし《ルチナリス》のほうが怪しいと思うのだけれども、「だから疑うならあたしを疑って!」と言うのも違うし、疑われて剣を向けられても困る。
 だが、こうして剣を差し向けられているわけにはいかない。
 これで勇者《エリック》が義兄《あに》を捕まえていてくれていれば立ち止まっていても構わないのだが、見失ったのか義兄《あに》はいない。と言うことは、此処《ここ》で仲違いしている間にも義兄《あに》の行方はこの広い城の何処《どこ》かに紛《まぎ》れてわからなくなってしまう、と言うことだ。
 
「勇者様、それ、今聞かなきゃ駄目なこと?」

 そして剣を突きつけて質問というのもおかしな話。
 それも仲が悪かったのならまだしも、今まで「師匠」「師匠」と懐いていた相手に突然剣を向けるなんて尋常ではない。
 離れていた間に何があったのだろう。自分たちのように、いろいろと考えながら走っていたのだとしても、でも、それで剣を向けるほどの考えに至ったとは思えない。
 誰かに会ったのだろうか。何か吹聴されたのだろうか。
 誰か。
 誰?
 義兄《あに》?
 追いつくことは追いついて、話もして、それで決定的な何かを言われた。とか?


「……領主様ってメフィストフェレス、って言っていたよね」

 ルチナリスの疑問も他所《よそ》に、勇者《エリック》は絞るように呟く。

「……………………それが何?」

 その名は鬼門だ。聞けば10人が10人とも悪魔を連想する。いかにも悪魔でござい、とばかりに聞き慣れた名称だから、義兄《あに》の素性を隠し続けていた間は誤魔化すのが大変だった。
 魔界に行くのに隠しておくわけにはいかない、と此処《ここ》へ来る前に一応伝えたが、やはり元々教えずとも察していた部分はあったようで、極端に驚かれることもなかったから拍子抜けしたくらいだ。
 まぁ、悪魔の呪いで魔王をさせられている、なんて嘘が通用するとは思っていなかったが、それでも「騙したのか!」と責められるどころかあっさり受け入れてくれたことは有難かった。

 でもそれはこちら側《ルチナリス》の勝手な思い込みで。
 本当は腸《はらわた》が煮えくり返る思いでいたのかもしれない。執事《グラウス》も師匠《アンリ》も魔族だから下手なことを言ったら命にかかわる、と自重していただけだったのかもしれない。
 それが|何故《なぜ》今になってタガが外れたかはわからないけれど。

「僕ん家《ち》さ。ミバ村が襲われた時、ちょうど引っ越すところだったんだ。空に黒い影がいっぱい広がったのが見えて、荷物を積み込むのも途中で馬車を出したんだよ」
「……そう」

 突然の昔語りにどう対応すればいいのか考えあぐねて、ルチナリスは相槌《あいづち》を打ちながら様子を窺《うかが》う。
 2割引きとは言え聖剣。此処《ここ》で恨みに任せて師匠《アンリ》を浄化されては困るし、してほしくない。

 勇者《エリック》一家は今は4人でゼス《隣町》に住んでいる。
 当時、村が襲われる中、自分たちだけ逃げることに罪悪感でも抱いていたのだろうか。少なくとも勇者《エリック》はそうだったのだろうか。
 あの場で逃げずに立ち向かったところで、もしくは他の村人を救おうと走り回ったところで、自分たちがミイラになるのは確実だ。養父を失ったルチナリスとしては「自分たちだけ逃げないで助けなさいよ!」と言わなければいけないのかもしれないが、きっと神父《養父》なら「とにかく逃げろ」と言うだろう、とも思う。
 不幸な事故だった、で済ませるわけにはいかないけれど、あのおかげであたしは義兄《あに》に会えた。義兄《あに》と10年を過ごすことができた。それも、事実。
 だから。


 昔話を持ち出しても芳《かんば》しい反応がないことに業《ごう》を煮やしたのか、勇者《エリック》は剣を床に叩きつけるようにして下ろした。絨毯《じゅうたん》から紅《あか》い毛が散った。

「あの時、聞いたんだ。僕らを襲った悪魔の名前」
 

 小高い丘に降り立った黒い人影。
 その背後でなびく旗には……そうだ。ノイシュタインの玄関ホールに掲げられていたモチーフと同じ紋章が刻まれていた。

 あたしは何故《なぜ》今まで忘れていたのだろう。
 いや、忘れようとしていたのだ。辛《つら》い、思い出したくない過去を。自分の心が壊れないように、その過去に鍵をかけて心の奥底に封じたのだ。
 もしくは……義兄《あに》を「味方」として信じ続けるために、知らないふりをしていたのか。


「領主様がミバ村を襲った連中の中にいた、とは思わない?」


 ミバ村を襲ったのはメフィストフェレスと呼ばれる悪魔。人間狩りで捕まって連行される日々の何処《どこ》かで、目の前で倒れた大人が今際《いまわ》の|際《きわ》にそう告げた。
 怨《うら》め。
 この命が無駄にならないように。
 怨《うら》んで、再び復讐を。
 どう、と倒れた男の見開いたままの目が、ずっと自分《ルチナリス》を見ていた。追い立てられ、遠ざかっても、振り返ればあの目があった。


 ――怨《うら》め。


 嗚呼《ああ》、だから義兄《あに》はあの場所にいたんだ。
 ルチナリスは勇者《エリック》の話を聞きながら遠い記憶を思い起こす。

 繋《つな》がれて延々と歩かされた到着地。其処《そこ》に義兄《あに》は現れた。化け物ばかりの、他に隠れられそうな場所など何もないところに。
 あの化物たちが青藍「様」と呼んだのも、聞き間違いでも脳内補完でもなかった。あまりにも生活感のない王子様系だったからと子供心に無理やり納得させたけれど、あの時、化け物どもは義兄《あに》を確かに「様」を付けて呼んだのだ。


 ――怨《うら》むの?


 さあ、どうだろう? でも。
 小さい頃に押し込めた疑問がひとつ解決したようで、ルチナリスは微《かす》かに息を漏らした。どうしてだかはわからない。


「……何笑ってんの?」

 それが笑っているように見えたのだろう。勇者《エリック》が見咎《みとが》める。
 笑ったつもりはないが、心境としては笑いたい気分だったのかもしれない。

「自分を襲った人かも知れないって言ってるのに、」
「安心しろ。青藍はミバ村を襲った中にはいねぇ」

 だが、此処《ここ》へ来て黙りこんでいた師匠《アンリ》が口を挟んだ。まさか弟子に気圧《けお》されたとは思わないが、今までずっと黙り込んでいたのに。

「ミバ村を襲ったのがメフィストフェレスの息がかかった連中だとしても、あいつは魔王就任が決まるまではずっと廊下にすら出られなかったんだ。そんな奴《やつ》が狩りに来るわけねぇだろ」

 師匠《アンリ》は勇者《エリック》を見据える。
 かわいい愛弟子が疑われたから、口を挟んだようにも見える。

「坊主憎けりゃ袈裟《けさ》まで憎い、ってか? だったら俺を怨《うら》んどけ。俺もその頃は追放されてっから参戦しちゃあいねぇが、部下のやったことなら俺が責任取らねーとな」
「でも師匠だって手を下したわけじゃないんでしょ? それなら、」
「ミバ村は、だ。俺だって此処《ここ》にいた時は、お館様について人間界を襲ったこともある」

 感情の籠らない告白に、ルチナリスは改めて師匠《アンリ》を振り返った。
 どう見ても人間にしか見えない。魔族が美形揃いだから、と言う理由はやはり失礼極まりないし、魔法属性は水だ、と言っていたくせに魔法を使っているところなど見たことがないから余計にそう思うのかもしれない。

 結界が弱まったロンダヴェルグに入って来られたところからしても、執事《グラウス》を「血統書付き」と揶揄《やゆ》したところからしても、きっと師匠《アンリ》は純血ではない。

 執事《グラウス》は獣化する。
 魔族の血を半分しか継いでいない義兄《あに》ですら魔王様の時は角や羽根がある。
 貴族でなければ魔族と言えども純血にそれほど拘《こだ》らないのかもしれないが、それはただの人間《ルチナリス》が知り得ることではない。ただわかるのは、義兄《あに》や執事《グラウス》よりも、いやアイリスや柘榴《ざくろ》や紅竜やミルよりも、師匠《アンリ》はきっとずっと人間に近いだろうということだけ。

 しかしそんな誰よりも人間に近い彼が、過去に人間を襲ったことがあると言う。
 義兄《あに》に向いていた憎悪の矛先が自分に向くよう仕向けるつもりで告白したのであろうことは、薄々どころかはっきりきっぱり察するけれど。


「……そうなんだ」

 窓から差し込む明かりが勇者《エリック》を半分だけ浮かび上がらせる。
 それが「義兄《あに》を容認してくれていた彼」と「悪魔は敵と認識している彼」とを表しているようにも見える。

「勇者としては、倒さないといけないのかな、師匠を」

 彼《勇者》は床に打ち付けたままにしていた剣を握り直すと引き上げた。
 ずず、と重そうな音がして剣が抜かれる。抜いた剣の切っ先を、再び師匠《アンリ》に向ける。


 間に挟まれたままルチナリスはふたりを見比べる。
 戦闘になっても多分彼らは自分《ルチナリス》を避けてくれるだろうが、自分だけ安全でよかったなどと言っている事態ではない。だがもし自分が盾になっても、彼らは情け容赦なく戦闘に巻き込むであろう気もしなくもない。


「師匠も悪魔なんだもの。ね」


 だ、けれども。

 刃先に向かって、月明かりがぬるりと滑った。




 でも。

「し、師匠はそれが仕事だったんだもの。しょうがないじゃない」

 あたし《ルチナリス》は間に立ったまま、勇者《エリック》と師匠《アンリ》の双方を順繰りに見比べた。

 欺瞞《ぎまん》だ。実の両親と養父を悪魔に殺されたあたしが言う台詞《セリフ》じゃない。それはわかる。痛いくらいにわかる。


 ――ソレデ イイノ?

 いいわけないじゃない。余程DV《虐待》を受けていたとかでもなければ、親を殺されて「しょうがない」で済ませられる子供がいると思う?

 あたし《ルチナリス》は心の声に――心の中のもうひとりの自分の声に否定で返す。
こうして口に出していても、自分自身納得できない部分はある。何もかもを許せる大人の対応? そんなもの糞くらえだ! と思う。
でもそれを言うなら、人間だって同じ。オルファーナであたしを襲った3人は皆、人間だった。あたしを襲わないとその日生きていくことすらままならない、なんて切羽詰まった事情があったわけでなく、ただ単に面白がって、いたぶるつもりで襲って来た。
 洗濯物がたくさんかかっているのに誰ひとり住んでいないはずがない。路地を抜ければ普通に往来がある通りがある。なのに、どれだけ大声で助けを呼んでも、誰も助けてはくれなかった。

 助けてくれたのは義兄《あに》と、スノウ=ベルだけ。
人間じゃない、ふたりだけ。


「師匠が攻撃したって言う町の人がどう思ってるかは知らない。でもその誰かのために、"勇者様は”師匠を切れるの? その人はもしかしたら復讐なんて望んでいないかもしれないのに」
「それじゃあルチナリスさんは、彼らを許せるの? ミバ村があんなになったのはきみの大好きなお兄ちゃんと師匠の仲間だよ。もしかしたら親や兄弟かもしれない。手を下していないだけで知っていたかもしれない」

 勇者《エリック》は1歩、歩を進めた。
 闇に呑まれていた彼の半身が現れる。

「許せるの?」
「許せるわけないわよっ!!」

 あたし《ルチナリス》は拳《こぶし》を握る。
歯も食いしばりたかったが、それでは喋れない。だから手を。ギリリ、とできるかぎりの力で握る。爪が手のひらに食い込むのがわかる。

「許したくなんかないわよ! あの日、悪魔が来なかったら神父様は無事だった。でも、それを青藍様や師匠にぶつけてどうするの? 
 怨《うら》んで怨《うら》んで怨《うら》んで、それで復讐するの? 復讐され返されるの? で、また復讐するの? 復讐されるの? ずっと、ずっと、命尽きるまでそうして怨《うら》んで復讐して終わるの?
 あたしはそれ以上のものを青藍様から貰った。だから、もう……許したい。の、よ」

 怨《うら》むのも復讐しようと思うのも簡単だ。怨《うら》まないでいるのは辛《つら》いし、自分に嘘をついているみたいで気持ちが悪い。いい子ぶってると思われるのも癪《しゃく》だし、いい子ぶりたいわけじゃない。
 でも、そのために話をわかってくれそうな人まで排除したら先には進めない。



「……少し、保留にしておくよ師匠」

 勇者《エリック》は唇を噛むと構えていた剣を下す。
 しゅるり、と影が引いたように見えた。
 その姿にほっとして、あたしも背後に立つ師匠《アンリ》を振り返る。
 そして。

「……!」

 師匠《アンリ》のさらに向こう。
 そこに、義兄《あに》がいた。




「るぅ」

 目の前の人の口がそう動く。優しい笑みを浮かべて。

「青藍様!?」

 いきなり現れた義兄《あに》にルチナリスは息をすることも忘れて固まった。
 司教《ティルファ》を襲った時の彼とは全く違う、ノイシュタインにいた頃の、自分の傍《そば》にいてくれた義兄《あに》の顔。お兄ちゃんでお父さんで、あたしが好きだった――

 ふらり、と足が浮く。1歩。
 しかしそのまま駆け寄ろうとしたルチナリスの腕を、勇者《エリック》の手が掴《つか》んだ。

「何するの!」
「あの人が本当に領主様だって証拠がない」
「何言ってるの? 他の誰があたしのことをるぅって呼ぶのよ」
「よく考えなよ。僕らはあの人を追って来たんだよ。それなのに、なんで後ろからあの人が来るのさ」
「そんなこと、」

 気配を消してきたのよ。青藍様ならよくやることだわ。
 ノイシュタインにいた時だって何時《いつ》の間にか背後を取られてたことなんていくらでもあったもの。
 るぅ、って後ろから抱きついてくるのよ? 子供みたいに。

 ルチナリスは義兄《あに》を振り返る。

 ねぇ、そうでしょ? お兄ちゃん。


「るぅ、おいで」

 そんな心の声に応えるように義兄《あに》がゆっくりと手を差し伸べる。
 あの手だ。義兄《あに》も執事も、まわりにいた人たちが人間じゃないって知った時、それでも一緒にいたいって願った時に差し出してくれた手。
 あの日にあたしは誓ったのよ。
 青藍様がもっと笑ってくれるように、って。


「待て! ありゃあ罠だ!」

 なのに、勇者《エリック》だけでなく師匠《アンリ》までもが自身の身で盾になるようにあたしの前に立ち塞がる。

「渡り廊下の時の、ポチを誘い出した時とまるっきり一緒じゃねぇか! 嬢ちゃんはポチほど丈夫じゃねぇから危、……っ!」

 喋っている途中で、だが、師匠《アンリ》は痺《しび》れたように口を止めた。いや、本当に痺《しび》れているのかもしれない。手足が小刻みに痙攣《けいれん》し、体も硬直している。
 その横をルチナリスはすり抜けた。

「ルチナリスさん、駄目だっ、」

 掴《つか》まれていた腕も、そんな声と共に解放される。
 

 ああ。
 こういうの、童話で読んだことがある。
 邪魔しようとする人は皆、動けなくなるのよ。それが魔法なのか天罰系の何かなのかはわからないけれど、そんな超常現象の中をすり抜けて女の子は王子様の元に向かうんだったわ。
 あたしはただのモブで姫でも何でもないけれど、一生に1度くらいはこんな夢みたいな奇跡が起きてもいいじゃない。
 だって此処《ここ》は魔界。魔法の世界。現実ではない夢の世界。

 そしてあたしは、青藍様の妹。
 また一緒にいてもいいのよね?
 戻ってきて、くれたのよ。ね。
 あたし、信じてた。ちゃんと、信じていたわ。

 足を進める。黙って手を差し伸べている人へ。
 よろよろと足を引き摺《ず》りながら、それでも必死にその手を取ると、義兄《あに》は笑みを浮かべた。

 だが。

 それもほんの一瞬だった。
 差し出していた義兄《あに》の右腕で、突如《とつじょ》黒い渦が渦巻いた。

 黒い炎。黒い、花弁《はなびら》。
 そしてその黒は竜の形になっていく。竜に吸い込まれるよう義兄《あに》の右腕もぽろぽろと崩れ、黒い霧に変わっていく。
 腕だけではない。
 体も。笑みを浮かべたままの顔も。

 義兄《あに》を呑み込んだ霧は生き物のようにうねり、ルチナリスの体に巻きついた。そして。


「あれだけ罠だと言われていて引っかかるとは愚かにもほどがあるな、聖女とやら」

 突如、勇者《エリック》でも師匠《アンリ》でも義兄《あに》でもない人の声が響いた。
 聞き覚えのない、でもこの口調は知っている。これは、


 霧が濃くなっていく。人の形に集まっていく。
 でもその形は義兄《あに》とは違う。

 黒いだけだった中に色が浮かんでくる。
 光を弾くような豪奢《ごうしゃ》な金と……銀で縁《ふち》取られた黒は服だろうか。胸元や襟には紅《あか》い輝きが見える。
 紅。
 目を刺すその色は禍々《まがまが》しさすら覚える。
 あれは鳩の目。
 魔王の瞳。
 ミルの剣に付いていた石。
 この城のメイドの襟元に付いていたリボン。
 あの色は。
 あの色が表わす者は。

「……紅、竜……」
「紅竜”様”と呼べ、汚《けが》らわしい人間の分際で。わざわざ私自《みずか》らが出向いてやっていることを光栄に思え!」

 彼は淀《よど》んだ血色の目を細めると、ルチナリスの首を片手で掴《つか》み、そのまま持ち上げた。振り解《ほど》こうにも足は宙を蹴るばかり。首を絞められているので力も入らない。
 動けないままでいる師匠《アンリ》たちと分かつように、ルチナリスたちの周囲で床が砕けた。亀裂から何本もの黒い蔓《つる》が噴き出し、彼らとの間に柵を作っていく。


「先ほど聞きそびれたから改めて聞こう。何をしに来た。私を滅ぼしに来たのか? お前たちも」
「何、の、ことよ。あたしは、青、藍様を、」
「キャメリアに何と乞われて此処《ここ》に来た。何が目的だ」
「あたしは、」

 あたしはただ青藍様に会いに来ただけ。あの人が本当に自分の意思でノイシュタインを去ったのか、それが聞きたかっただけ。
 この男《紅竜》がどんな理由で義兄《あに》を連れて行ったとしても、そんなことに興味などない。

「私から青藍を奪い返しに来たと言うのか。今まで生かしておいてやった恩も忘れて」
「あたしを生かしたのは……青藍様と、第二夫人、だわ。……あんたじゃ、な……」

 捕まれ、吊り下げられている首からミシ、と音がした。

 あぁ、こういうのを後何回かやったらきっと死ぬ。
 筋《すじ》を違えたのだろうか。首筋がつったように痛い。


「       !」

 勇者《エリック》の声が聞こえた。
 残った気力で僅《わず》かに目を向けると、黒い蔓を切ろうとして剣を叩きつけている姿が見えた。
 動けるようになったのか。それとも気力で動いているだけなのか。きっと後者だろう。一振りごとが辛《つら》そうだ。その隣で|師匠《アンリ》も蔓を両手で掴み、曲げるか引き抜くかしているように見える。
 だが、ふたりがかりでも蔓はびくともしない。

 確か魔女事件の時も、勇者《エリック》はこうして行動を遮ろうとする蔓を切っていた。
 その時は軽々と叩き切っていたようだが今回は勝手が違うらしい。さすが紅竜が操っているだけのことはある、なんて感想を思う。死にかかっているのにのんびりとしたものだ。頭に血が回らなくなっているのかもしれない。


「聖女がわざわざ魔族を取り返しに魔界に来るなど、誰が信じる? 
 他に理由があるのであろう? 答えろ! お前ら人間も私より青藍のほうが優れていると、そう言うのか? あれと手を組み、魔界を乗っ取るつもりか!? 
 ああ、そうか。懐柔《かいじゅう》して、逆に魔族を滅ぼすつもりか」

 その間にもギリギリと首は絞まっていく。


 紅竜は何を言っているのだろう。魔界も魔族も、此処《ここ》が歴史のある家であろうともあたしはいらない。必要ない。
 ただ、義兄《あに》に会いたいだけ。話がしたいだけ。そうしないとあたしの気持ちがおさまらない。1歩前に出ることもできない。
 それなのに。
 それなのに……。


「世界が欲しいならくれてやるわ! だから、青藍様を返して!」

 その時だった。
 パキ、とルチナリスの頭の後ろで音がしたのは。
 天使の涙に何かあったのだろうか。そう思う間もなくあたりが白くなっていく。

 天使の涙が発動している。
 でも此処《ここ》に義兄《あに》はいないのに。


 過去の自分とは違う。メイシアの加護を受けた自分はもしかしたらひとりで力を発動することができるかもしれない。そう思ったこともあったけれど、白く光って終わる可能性だって捨て切れない。
 そして紅竜を前にそんなハッタリを噛《か》まそうものなら、機嫌を損ねられて何をされるか。

 紅竜は目を見開き、それからにやりと笑った。
 やはり光ったからと言って目に見える効果はないようだ。聖女は悪魔を浄化できる、と聞いていたのに、ダメージひとつ与えてはいない。


 ルチナリスを吊り下げたまま、紅竜は何処《どこ》ともなく視線を向ける。考えていたかのようでもある。
 どのくらいそうしていただろう。紅竜は漂わせるままになっていた視線をルチナリスに向けた。

「……なるほど」

 腕を曲げ、顔を近付ける。
 恐怖もあるが、それより息苦しさのほうが限界で、ルチナリスは動くこともできない。

「礼を言うぞ、聖女。私のために早速役に立つとは。ただの汚ない小娘だと思っていたがなかなかの女だ」

 何?
 どういう、こと?
 あたしは何もしていない。紅竜が聞きたがっていたことも知らない。答えてもいない。なのに。


「その子を離せ!」

 蔓の向こうで師匠《アンリ》が叫ぶ。

 さも煩《うるさ》い、と言わんばかりの顔で紅竜は手を閃《ひらめ》かせた。
 鉄の檻と化していた蔓が一気に砕け散る。砕けた破片の1粒1粒が細かい刃になって師匠《アンリ》と勇者《エリック》に浴びせられる。

 



 そして、どのくらい経《た》っただろう。
 蔓の刃《やいば》が底をつき、勇者《エリック》たちは顔を上げた。
 しかし時すでに遅し。紅竜とルチナリスの姿は消え失せていた。