廊下に出ると、目的の後ろ姿は既に遥か彼方にあった。追いかけてばかりだ、と自嘲するとグラウスは足早に彼を追う。
簡単に追いつきはしたものの、しかし、追いついたところで青藍は足を緩《ゆる》めようとはしない。
「青藍様?」
声をかけても返ってくるのは沈黙ばかり。ただずっと速足《はやあし》のまま、まるで尾行されているのを撒《ま》くかのように何度も廊下を曲がり続け……必然的にグラウスも同じように続くことになる。
どうにも定めた目的地に向かっているようには見えない。執務室から遠ざかっているのは確かなのだが。
「……どちらへ?」
答えないだろうと思いつつ聞いてみるも、やはり返事は梨《なし》の礫《つぶて》。
まぁいい。地獄の底にだって付いて行くつもりなんだから城の廊下くらい、いくらでもお付き合いしますとも。
そんな思いで付き従うこと十数分の後。
「グラウス」
青藍は足を緩めないまま、唐突に自分を呼んだ。
「はい」
「お前、るぅのことどう思う?」
「…………………………またその話ですか」
何を言われるのだろうと期待していた気持ちがあったことは否めない。だからこそ、その中身がルチナリスのことだと知れは失望も半端ない。意図せずとも嘆息もしようというものだ。
前にも同じことを聞かれた。
定職に就いていて身分がそれなりで信用もある自分は義妹の嫁入り先に最適らしい。最適かもしれないが、当人の気持ちと言うものをおもんばかってもらいたい。
眠り病の上にあの高飛車女の襲来で、さすがに危機感を覚えたのだろうか。ルチナリスばかりで自分《グラウス》のことは全く気にかけてくれないその態度が悲しいが、彼にしてみれば料理もできず、ひとり暮らしの経験もなく、世間知らずな義妹《いもうと》の行く末のほうが心配だろう。
しかしだ。
「だから私は、」
「いや、そうじゃなくて」
もう1度言い聞かせないといけないかと思っていたのだが、言った本人があっさりと否定してきた。どうやら嫁としてどう思うか、ではなかったらしい。
「……るぅ、ちょっと変だと思わない?」
少し小声。
密談は歩きながらするものだ、とは誰の言だっただろう。よく言ったものだ。
「少しおとなしくなった、とは思いますが。勝手に海に行ったことを本人も気にしているのでは?」
いつものキャンキャン吠えるような子供っぽさがなくなって良かったじゃないか。甘えられないところに義兄《あに》の体調悪化が加わったせいで、それなりに自立する気にでもなったのだろう。「もう大人」なんだし、とばかり思っていたけれど。
会えたのが久しぶりすぎたからか、よそよそしさが転じて奇行に走りつつあるようだけれども、彼女の心情を思えば大目に見られる。ルチナリスにとって青藍は、生まれて初めてできた唯一の肉親のようなものなのだから。
そんなことを思うあたり、自分もこの兄妹に絆《ほだ》されてしまったのかもしれない。
「そう?」
どう見ても納得していない顔のまま、青藍はまた黙り込む。
足音が絨毯の毛足に消えていく。
いつもならそこら中で感じる気配も全く感じられないのは、ガーゴイルの数が半数以下に減ってしまったせいだろう。
時間が時間だけに、頭上にある明かり取りの窓から差し込む陽射しも弱々しい。廊下に敷かれた赤い絨毯も、酷《ひど》くその色を褪《あ》せさせている。
静まり返った城内に「まるで物語に出てくる魔王の城のようだ」などと思い……グラウスはその矛盾に苦笑した。
おかしなものだ。だったら今までのこの城は何だと言うのか。
そしてさらに歩くこと数分、とある階段の踊り場で青藍はやっと足を止めた。
「俺、あれがるぅだとは思えないんだけど」
「そうは仰《おっしゃ》いますが、姿を似せただけではこの城には入れませんよ」
何を言い出すのかと思ったら。
そりゃあいつもの彼女に比べれば嘘臭《うそくさ》すぎるほどの違和感は感じた。だが声も匂いも彼女のものだ。狼の嗅覚をもってしても、それは間違いない。
それにこの城の造り自体が、彼女に化けただけの他人が易々と入り込めるようにはなっていない。
これでも一応は魔族の城。居住区域に張り巡らせた結界が城の住人以外を排除することになっている。
昨夜の勇者や今日の町長などは招き入れたから入って来られるのであって、そうでない者――通常の勇者やあの高飛車女のような――は玄関ホールより先に入って来ることはできない。
「また妙な入れ知恵でも付けられたんじゃないですか? 前もいきなりよそよそしくなったりしたでしょう?」
そうでなくても年頃の娘なんて気まぐれだ。何を考えているかわからない。
あの媚びた態度も彼女なりの「大人」のイメージなのだろう。なんせ身近にいる大人の女性と言えばマーシャ《厨房のおばさん》か小間物屋の女店主だ。こういっては申し訳ないが、若い娘が理想とするセクシーな女性像からは縁遠い。
ここは「るぅがおかしい」と悩むよりも、ガーゴイルを1匹捕まえて締め上げたほうが早いだろうに。
そんな折り、階下の廊下をガーゴイルが横切った。
こちらが目に留めたのと時同じくして、向こうも階段の途中にいる自分たちに気が付く。
ちょうどいい。ルチナリスに何を吹き込んだのか、捕まえて――
「あー!! 坊《ぼん》!! 勇者が来たっすよー!」
……捕まえて締め上げることはできなかった。
勇者が来たならそれが最優先事項。締め上げるのはその後だ。
そんな不穏な空気を漂わせる執事の横で、当の「坊《ぼん》」はと言えば淡々とルーチンをこなす時の顔で「わかった」と返事を返し……そのまま、グラウスの横をするりとすり抜けかけた。
その腕を無意識のうちに掴む。
何? と無言のまま向けられる眼差しに1度は緩みかけた手を再び掴み直し、グラウスは息を吐く。
吐いて、言わなければいけない言葉を舌に乗せる。
「私が行きます」
「お前には、」
「腕は完治しました。行けます」
高飛車女との戦いの最中に発症した眠りは思いのほか浅かった。
あれではまたいつ再発するかわかったものではない。もう2度と、目の前でこの人を失いそうになるのは御免だ。
出過ぎた真似かもしれない。
恰好をつけて出て行ったところで、この人を残して死ぬ結果しか生まないかもしれない。
それでも……何を言われようとも、この人を守るのは私の役目だ。矛盾ばかり抱《かか》えた私の、根幹をなすものだ。
そんな心の内が伝わったわけではないだろうが、いつもなら出番を取られたと怒る彼が大人しく足を止めた。
勇者を片付けるまではもたないと自分でも察していたのだろう。申し訳なさそうな顔が逆に辛《つら》い。
「何て顔をしているんです?」
だからだろうか。
いつもなら決して自分から触れることなどしないのに、彼がそうしてくれるように、その黒髪に指を通していたのは。
「……お前は、いつも俺を子供扱いするんだな」
「……………………気のせいでしょう」
彼は一瞬驚いたように目を見張ったが、それでも手を払い除けはしなかった。友達だと認識されているからなのかどうかはわからないが、特別扱いされているであろうことは感じる。
おとなしくされるままになっている彼は、本当に、初めて出会った時の姫を彷彿とさせる。
彼が彼として生きている以上、彼女と重ねることはやめようと思ったのに、だから私は、まだ思い切ることができないでいる。
「あなたに付いて行く苦労に比べたら、勇者の相手なんて楽なものですよ」
「……苦労してるんだ」
ああ。あなたっていう人は。
こういう時は「お前なら大丈夫。信じてるよ」と励ますものではないのですか?
自分の身を案じてくれているのは光栄なことだが、言い換えれば未だ実力を認めてもらえていないということ。これでも、もう何度も魔王の代わりに敵の前に立ってきたのに。ちゃんと帰って来ていたのに。
「苦労なんて、私は」
「あのー、どっちでもいいっすから早くしてもらえませんかー……ねぇ」
盛り上がりかけた気持ちは、ガーゴイルの声によって現実に引き摺り戻される。
しまった。ギャラリーがいたのをすっかり忘れていた。元・石像《ガーゴイル》なだけに顔からその感情は読み取れないが、呆れているのは確かだろう。
慌てて手を離し、足早に階段を駆け下りる。その背後から声が聞こえた。
――利用価値ガ ナクナル ノヲ 心配シテイル ダケ ダロウニ。
「グラウス」
ざらりとした、人の声とはとても思えない「音」と、それを掻き消す青藍の声と。
え?
思わず足を止めて見上げたが、そこにいるのは青藍だけ。
窓は既に採光の役割を失くし、薄く零《こぼ》れ落ちる光よりも、色濃い影が彼の姿を隠そうとしている。
今のは、何だ?
彼の声以外に、何か聞こえたよう、な。
「ほらぁグラウス様早く早く」
「わかっています」
頭数が少なくなった分、気分的にも切羽詰まったものがあるのだろう。いつもなら勇者なんて自分たちだけで十分、と豪語しているガーゴイルに急かされる。それはわかっているが、生憎《あいにく》と自分の名を呼ぶご主人様を無視する機能は持ち合わせていない。
「青藍様、何か?」
「ううん」
彼は首を横に振る。
何か言いたかったのだろうか、と思いつつも、言うつもりがないなら強《し》いるものでもない。
急を要する事案も待ち構えている。軽く頭を下げ、再び階下に足を向けたのだが、
「……もし俺に何かあったら……るぅのこと、頼む」
面と向かっては言えなかったのだろうか。ふわりと降って来た言葉に再び足を止める羽目になった。
もう1度振り返る。だが、そこに青藍の姿はない。
「青、藍様?」
戦いに行くのは自分だ。彼に「何かある」ことはない。
そして。
最後の最後までルチナリスのことばかり気にかけないでほしい。
「私は”あなた”に生涯を誓ったつもりなんですが、ねぇ」
誰もいない踊り場に向かって、ぽつりと独りごちる。
面と向かって言っても伝わらない彼に、独り言が伝わるはずもないと思いながら。
「なんか言ったっすか?」
「いいえ」
グラウスは首を振る。
今は招かれざる来訪者のほうに集中しなくては。例え今までの敵が雑魚ばかりだったとしても、|何時《いつ》、あの高飛車女レベルの者が現れるとも知れない。
「それより。ルチナリスに余計なことを言わないように」
そして。忘れる前に念をひとつ。
先ほどの彼女の態度は、たとえ寂しさから来た奇行だとしても目に余る。
「胸がまな板ってことすか? あれはグラウス様も黙認してたじゃないっすかー! また正座させるつもりじゃ、」
「それはどうでもいいです」
案の定、ガーゴイルは忘れているようだ。何も考えずに喋っているから記憶に残らないのだろう。こんな連中の助言を真に受けるなんて、義兄《あに》に会えなかったことはそれほどまでに堪《こた》えていたのだろうか。
それを変だと言われ、挙句《あげく》、犬猿の仲の男に託されそうになる。不幸としか言いようがない。
「……鈍すぎるのも罪ですよ」
変だ、おかしいというところには気付くのに、その理由に心当たりはないのだろうか。
立場に遠慮して言いたいことも言えないあまり妙な行動を取ってしまったのであろうルチナリスに、グラウスはわずかばかりの同情を寄せる。
視界は薄暗い膜に遮られていて、何もかもが輪郭を曖昧にしている。
自分が立っているのか、横たわっているのかも定かではなく、背に硬いものが当たっている感触があるのに、それが硬い寝台のようなものなのか、鈍器を突きつけられているのか、壁に張り付けられているのかもわからず。
はるか上のほうに辛《かろ》うじて見える青味がかった光も、捕まえようと手を伸ばした途端に消えてしまいそうなほど弱々しい。
此処《ここ》は、何処《どこ》だろう?
あの僅《わず》かな青い色を懐かしく感じる。
あの青に辿り付けば何もかもが安心できる。そんな根拠もない漠然としたものが頭と心を占めている。
ああ、これはきっと夢だ。
前にも見た海の夢。
手足が動かない。
いや、手足だけではない。体も、首も。
目だけを上下左右に動かし、やっと視界の隅に捕らえることができたのは、黒っぽい……|枷《かせ》のようなもの。それを繋ぐ鎖は、闇の中に溶けていて見ることができない。
あれのせいで動けないのだろうか。
だが動けないのはその戒《いまし》めのためばかりではない。
体に力が入らない。金縛りにでもあったような、まるで自分の体ではないような――……。
気がつくと目の前にはノイシュタインの城下町が広がっていた。
家の屋根には雪が降り積もり、往来に人の姿はない。
閉まっている店が多いのは雪のせいなのか、時間が早いからなのか。多分、前者だろう。
「あら、兄妹でおでかけ?」
ふいに女の声が聞こえた。
声のしたほうを見ると小間物屋が店を開けようとしている。着膨れた女店主が店先に引っ張り出しているのは、赤い柄のスコップだ。雪掻きに使うのだろう。
そしてその店先にいるのは、黒い外套の青年と濃紺のコートの少女。
見たことがある、どころではない。
何故《なぜ》。
自分は何故、彼らを第三者的な視点から見ているのだろう。
これも夢なのだろうか。あの日のことを思い出しているのだろうか。
店先で金銀に彩られた装飾品が煌《きら》めく。子供でも小遣いを貯めれば買えそうな、日常にも使える程度の品だ。海沿いの町らしく、模造真珠や珊瑚《さんご》が付いたものもある。
その中からひとつを手に取り、青年は少女の髪に当てた。少女が照れたように頬を膨らませるのを見て笑っている。
しばらく女店主と話をしていた彼らは、やがて店先を離れた。当たり前のように手をつないで駅のほうへ歩いて行く。引っ張られていく少女も、文句を言いつつも嫌がってはいないように見える。
あの日は幸福だった。
ずっとあの幸福が続けばいいと、そう思った。
視界が揺れる。
小間物屋の店先が近付いてくる。
こちらに気付いたらしい女店主が顔を上げる。
「ああ、るぅちゃん? あの子は領主様の妹よ」
そんなことは知っている。しかし何故、今更ながらに他人行儀で話をするのだろう。今の自分は「第三者」として此処《ここ》にいるのだろうか。間違いなく、視点はあのふたりのものではない。
女店主の後ろに、遠ざかっていくふたり連れが見える。あの少女のほうが「るぅ」で「領主の妹」と呼ばれている。
薄茶色の髪と目をした地味な娘。とり立てて美少女だというわけでもない。10人いれば5番目か6番目にいるであろう、全く目を惹くところのない――その他大勢という題名《タイトル》で絵を描いたら真っ先にキャンバスに描かれそうな娘だ。
漆黒の髪と蒼い目を持つあの青年と血が繋《つな》がっている、などと思う者がいるはずもない。
「まぁ妹って言ったって形式上みたいなものなんだろうけど」
女店主は背後に視線を送ると、ひそりと囁いた。
「だってほら、お兄ちゃんを”様”付けでなんて呼ばないでしょ? 領主様って何処かの貴族様の坊ちゃんらしいし……ああいう貴族の家だとよくあるって言うじゃない。小さいうちから行儀作法とかその家特有のしきたりとか教え込んで、嫁に迎えるの」
視界がまた揺らぐ。
真っ白だった世界に黒い染みが落ちる。ぼとり、ぼとり、とその染みは数を増し、明るい世界を塗り潰していく。
小間物屋も、宿屋も、薬屋も、武器屋も。目の前に立つ女店主の姿すら黒く塗りつぶされていく。
「ちょっとドラマチックよねぇ。そろそろふたりともいい歳だし、おばさん、生きてる間に式くらい見られるかしら」
闇の中で、女店主の声だけが聞こえる。
ごぼごぼっ、と変な音がする。
気がつくと、最初の暗い世界に戻っていた。
町並みもない。女店主もいない。遥か上空で揺らぐ青い光は先ほどよりもその明るさを減らしている。
自分は何故こんなところにいるのだろう。
あの夢は何を表しているのだろう。
そして。
先ほどは気付かなかったが、足の先が冷たい。この冷たさは……。
……水……?
ゆっくりと、その冷たさは足先から這い上がってくる。
動くことのできない今、このままでいればいつか全身がその冷たさに浸かってしまう。
なのに。
眠い。
動かない頭で明滅するのはその2文字。
たとえ足だけとは言え、この冷たさの中に置いたまま眠ってしまうのは良くないのではないのだろうか?
理性が警鐘を打ち鳴らす中、だが、本能は「眠り」への誘惑に呑み込まれていく。