22-2 愛し姫に捧ぐ~Elegie~




 さやさやと葉が擦れる音がする。
 先ほど歌声らしきものが聞こえたが、今はどう耳を澄ませても葉擦れの音以外には嗚咽《おえつ》しか聞こえて来ない。

「おいポチ」

 嗚咽《おえつ》の主は彼《グラウス》だ。大の男が人目も憚《はばか》らずに泣いている姿には正直引くが、それだけショックなことがあったのだろうと推測できる。
 そして彼の周囲に転がる人のものらしき手足と、彼の口から漏れるひとりの名前。どう考えたって予測できる結末はひとつしかない。


 犀《さい》が青藍を魔界に連れて行ったのは、紅竜のかわりに当主に据えるためだと思っていたのだが、違っていたのかもしれない。少なくとも紅竜に限っては、その意図《いと》で弟を呼び寄せるはずがない。
 青藍を据えるということは、彼《紅竜》が当主の座を追われることと同義。当主になってからというものかなり強引な手腕で突き進んできた紅竜が権力を失えば、今まで媚《こ》びへつらっていた魔界貴族どもなど掌《てのひら》を返すであろうことは想像に難《かた》くない。
 第三者の自分《アンリ》ですら容易に予測できる失墜《しっつい》を、紅竜が想像できないはずもない。

 だとすればこれこそが紅竜の仕業《しわざ》なのだろうか。
 覇業の障害となるから、と、青藍を殺してしまったのだろうか。

 それとも第二夫人のように体が砕け散るような何かが起きた、とも考えられる。
 青藍に魔族の血は半分しか流れていない。運のいいことに成長速度や齢《よわい》は魔族と変わらないから日常生活の面で「人間」を意識することはないが、それでも半分は人間なのだから契約の術を施行することは可能だ。
 なんせ契約の術は施行する魔族側には何のリスクもない。失敗して死ぬのは施される側だけだ。
 クォーターの自分にもあてはまるが、子供の頃は魔族並に遅いとされてきた成長速度も、気がつけば同年代に比べると明らかに老いが見て取れる。第二夫人から譲り受けた容姿を若いまま保つ――傍《そば》に置いて飾っておくだけだとしても――ためだけに契約の術を施すことも紅竜ならやりかねない。犀《さい》が連れ帰ってからか、人間界に行く前《幽閉されていた間》か。紅竜が手を出す時間はいくらでもある。

 もしくは青藍自身の中に巣食っている闇が作用したとも考えられる。
 闇は存在自体が封じられていたから研究らしい研究もされていない。記憶を消し、蔓と化し。常識ではあり得ないとしか言えない事例をいくつも目の当たりにしている今、手足が千切《ちぎ》れることだって起きないとは言えない。
 

「おい、これは、」
「――……ったじゃないですか」

 再び声をかけると、嗚咽《おえつ》の中から振り絞るような声が聞こえた。

「あ?」
「大丈夫だ、なんて、嘘だったじゃないですか!!」



『犀《さい》のことは大丈夫だろう。それに青藍も』
『お前が思うほど青藍は困ってねぇだろうから心配するな』


 ロンダヴェルグ近郊にあるアーラの町で潜伏していた時、居てもたってもいられずに出て行こうとしたグラウスを、アンリはそう言って止めた。
 青藍には犀《さい》が付いている。魔界にいた時の青藍にとって最も信頼できるのは兄《紅竜》。その兄がいるのだから青藍自身は何も困ってはいない。自分が記憶を失っていることすら知らないでいるだろう――。
 自分《アンリ》は確かにそう言った。
 大丈夫の根拠など何もないが、ひとりで魔界に旅立たせては生きて帰れるものも帰れなくなる。そう思ってのことだった。


「それは、だな……」

 自分だってこんなことになるとは思ってもみなかったんだ。と言うのは真実ではあるが、逃げだろう。
 もしあの時グラウスひとりを先に行かせていれば、天文学的な確率であろうとも、青藍が生きているうちに会うことができたかもしれないのだから。

「……すまない」

 アンリは謝罪を口にする。


 だが、こうしているわけにはいかない。
 自分の失態を置き去りにして他ごとに注意を向けようとしているようで気が引けるが、目的達成が断たれた今、此処《ここ》にいる意味はなくなった。

 下で出会った長老衆の生き残りは蔓《つる》に命を絶たれた。あの蔓が紅竜が操るものであるのなら、自分たちが離れにまで来ていることも紅竜には知られている。だとすれば兵士が差し向けられるのも、蔓が飛んでくるのも時間の問題だ。
 その前に退散しなくては。
 もし青藍がこの世の者ではなくなってしまったのだとしても、グラウスやルチナリスに後を追わせるわけにはいかない。彼らがそれを望んでも、させてはいけない。青藍はきっとそんなことを望みはしない。

「――師匠。置いていかないでよー……って、うわ! 何これ!」
「退散だエリック」
「へ?」

 縄梯子《なわばしご》をフルアーマーで必死に上ってきたであろう弟子《エリック》にアンリは冷たく言い放つと、竹藪を掻き分け、グラウスの腕を掴《つか》んだ。
 
「ポチ。お前もだ」

 しかしグラウスは立ち上がろうとはしない。
 気持ちはわからないでもないが、だからといって置いて行くわけにはいかない。


「私は……此処《ここ》にいます……」
「死ぬ気か?」

 切れ切れの声にアンリは眉をひそめた。魔王並みに戦える程度には仕上げたが、所詮《しょせん》は付け焼刃。こんなところにひとり残していけば、いずれ見つかって弄《なぶ》り殺しに遭うだろう。この城の兵力は陸戦部隊長だった自分が1番よく知っている。

「ポチ! いい加減にしろ! 此処《ここ》にいたって死ぬのを待つだけだろう!
 青藍が知ったら軽蔑するぞ。折角《せっかく》助けてやった命を粗末に捨てた、とな」


 嗚呼《ああ》、何て奴《やつ》だ俺は。
 自己嫌悪で自分が嫌になる。こいつ《グラウス》がどれだけ青藍に会いたがっていたか、ずっと見てわかっていたのに。なのにその望みの邪魔をして、今またこうして動かないこいつ《グラウス》が悪いとばかりの言い方をして。
 死なせるわけにはいかない、なんてただの偽善だ。死にたがっている奴《やつ》にとってははた迷惑なだけ。ひとり残されて、それでも生きろなんて、拷問と同じことじゃないか。


 ざわり、と枝葉が音を鳴らす。グラウスとその周囲に転がる手足から目を背《そむ》け、アンリは枝葉に視線を向ける。
 少しでもこいつを生かしたいと思っているなら何か言え。
 お前が、2度も助けた命だろうが。

 だが、そう念じた程度で奇跡が起きるはずもない。
 若い娘の涙ならともかく、中年男が心の中でどれだけ叫んだところでたかが知れている。


 その時だった。

「………………捨てません」
「あ?」
「私は死にません。ただ、もう暫《しばらく》く此処《ここ》に……青藍様の傍《そば》にいさせてください。後で追いかけますから」
「傍《そば》にって」

 顔を上げることもない。片手で目を覆い、じっと俯《うつむ》いたまま。
 それでも口調はいつもの冷静な執事のものだ。自分が為すべきことも、言われていることも、全てわかっているように聞こえる。
 青藍の傍《そば》で命を絶つために残るつもりではないように思える。
 実際問題として、梃子《てこ》でも動きそうにないグラウスを引き摺《ず》って連れて行くのは不可能だ。もし襲われたところで抵抗する気力すら残っているようには見えないが、それでも一応、彼には身を守る程度の力はある。

 死ぬつもりがないのなら、気が済むまで好きにさせてやったほうがいいのかもしれない。
 魔界を出れば、もう2度と彼はこの城に――青藍が眠るこの城に――足を踏み入れることなどできないのだから。


「……わかった」

 アンリは手を離した。
 そのまま背を向け、竹藪から抜ける。

「師匠?」
「行くぞ」
「行くって、執事さん置いて行くの!?」

 腑《ふ》に落ちないとばかりに声を上げるエリックの首を片腕で抱き込み、アンリは部屋を出て行った。




「……寂しかったでしょう?」

 誰もいなくなった部屋で、グラウスは上を仰いだ。
 黒い竹が頭上を覆っている。さや、と鳴る葉擦れの音が、まるで返事を返しているように思える。
 転がっている手足が青藍のものかどうかはわからない。だが、これだけは言える。この竹には青藍の何かが宿っている。彼を取り込んで成長したせいなのか、彼自身が姿を変えたものなのかはわからないけれども、この竹は青藍だ。

「こんな暗い部屋に閉じ込められて」

 だとすると渡り廊下で見た青藍は自分を呼ぶ幻だったのだろうか。
 自分《グラウス》の記憶が残っていないはずの青藍が微笑んで名を呼んでくれることなどない。消えてしまったのだから幻でしかないのは確かなのだけれども、会いたいと思うばかりに錯視したとも思えない。
 記憶を失い、魔界に連れ戻されて、それでも犀《さい》や紅竜がいるから何も困ってはいない、とアンリは言ったが、本当は此処《ここ》から連れ出してくれる誰かを待っていたのではないのだろうか。その誰かが自分を指していてくれればいいが、今となってはそれももう確かめようがない。
 だから……そう自惚《うぬぼ》れても許してくれるだろうか。

 命を捨てることはしない、と言ったが、青藍がいなければとうの昔に失われていた命。彼のために使うつもりでいた命を後生大事に抱えて生きたところでその人生に何の価値があるだろう。
 10年前の夜会の夜に。
 度《たび》重なる嫌がらせの果てに。
 そして半身を貰い受けるという名目で彼はこの身の内に巣食う闇を――黒に染まった魂の半分を引き抜いた。あのまま闇を抱えていれば、自分も海の魔女のように、そしてアイリスのように自分を失い、闇と同化していた。
 それなのに自分は彼に何をした? 守られるばかりで何ができた?


 冷静に考えれば、渡り廊下に現れた青藍は紅竜なり犀《さい》なりの罠で、最初から爆破に巻き込むつもりだったと考えるのが自然だろう。あの高さから落ちれば、獣化したとしても無事に着地はできなかった。
 自分が今無事でいられるのはトトと彼の「お姉ちゃん」によって空間転移させられたおかげ。アンリが無事だったのは彼の人並み外れた肉体が為せるわざだと思っておくしかないが、何にせよ、敵の策は失敗に終わった。
 終わったが……それは向こうもわかっている。敵は新たな施策を送り込んで来る。此処《ここ》にいればアンリが懸念《けねん》するとおり、多勢に無勢で弄《なぶ》り殺される。だが。


『俺が消える時は、傍《そば》にいてくれる――?』


「寂しいの嫌いですもん、ね」

 そんな指摘をすればきっと彼《青藍》はむっとして睨み返してくるのだろう。しかし今はさやさやと葉を鳴らすだけで肯定も否定もしない。
 はは、と乾いた笑いに湿り気が混じる。
 自分も同じ。この体にはぽっかりと穴が空いてしまった。寂しさがその穴を叩いては崩して広げていく。何時《いつ》かそう遠くないうちに、穴は全身に広がって、この身を粉々に砕いてしまう。


「前に……あなたが花やなにかに生まれ変わったとしても、生きていてくれるならって……そう、思っていたのですが……」

 誰もいない部屋の中でグラウスは話し続ける。
 葉擦れの音だけがさやさやと聞こえる。


 魔剣に刺されたあの日。
 眠り続ける青藍を前に、生きていてくれればそれで耐えられると、そう思った。
 思っていた、のに。


 頭上の、もうずっと高いところから細かい光の粒が下りて来る。握りしめた手の甲に舞い降りた光は、そのまま溶けるように消えていく。

 雪のようだ。

 手の甲から視線を移せば、上空から舞い降りる無数の雪が見えた。
 その雪の中でひとり立ち尽くす自分が見えた。
 ああ、これはあの日。フロストドラゴンに襲われた日のことだ。青藍は出て行ったきり帰ってこなかった。
 やっと帰って来たかと思ったらそのまま昏睡状態になって。
 彼に着せた外套《がいとう》の裾《すそ》から、溶けた雪がタラタラと落ちて。
 まるで血のように床に広がって。

 その床に広がった無色が紅《くれない》に染まる。
 視界が変わる。
 胸を剣で貫かれ、倒れて行く青藍と、剣を握って狂ったように高笑いし続ける男が見えた。

 あの時の自分は慢心していた。10年もの間無敗だった魔王が今更負けるはずがないとそう思っていた。
 だからこそ失いそうになったことが怖かった。
 その原因を作ったルチナリスを憎いと思った。


 光が降って来る。
 青藍の後ろにはいつも月があった。
 月明かりがあった。
 月下美人の香るベランダで少女が彼を連れて行こうとしていた時も月があって、月明かりが降っていた。
 こんなふうに――。

 回る。
 ぐるぐると思い出が回る。


「駄目なんです。やっぱり、それだけじゃ駄目なんです……!」

 会いたい。
 この想いが作られたものだったとしても。

「戻って来て下さい。私は、私は……っ」

 喉を振り絞って吐き出した声が、グラウスを悪夢のような現実に引き戻す。

「青藍様」

 手の中の細いリボンを握りしめる。

「青藍様、私は、ずっと、」

 ルチナリスが買ってきたこの蒼《あお》いリボンを、青藍は文句を言いつつもずっと使っていた。振り返ればいつもこの蒼が視界の中で揺れていた。

「……あ……いして、い、ま……」

 とうとう最後まで言えなかった。
 たった一言、言えば何かが変わっていたかもしれないのに。

 


 アンリとエリックはグラウスを置いて帰路を急ぐ。上って来た縄梯子《なわばしご》は、下りる途中で敵に見つかれば体《て》いのいい的に成り下がってしまうから、と廊下に出たが、選択を誤ったようだ。
 人気《ひとけ》のない廊下には黒い蔓が蔓延《はびこ》っている。
 攻撃してくる様子はないからアイリスの時の蔓ように人の体から生えたものではないのかもしれない。かもしれないが、この蔓によって自分たちの様子が紅竜たちに伝わることがない、とは言えない。
 カーペットのおかげでほとんど足音も立たないが、それがかえって息を潜めて様子を窺《うかが》われているように感じる。

 窓の外に見えるのは紅《あか》い月。月明りまでなんだか紅《あか》く感じる。廊下が血の海に見えて、エリックは思わず身震いした。


 冒険者だの勇者だのと呼ばれていても、自分でそう自称することもあるけれど、だからといって取り立てて剣を振るうのが好きなわけではない。冒険者組合の扉を叩いたのだって、元はと言えば失踪した妹を探すためだった。妹が戻って来た今、冒険者からは足を洗ったほうがいいと会う人会う人が全員言って来るくらいだから、傍《はた》から見ても自分はこの職《ジョブ》には向いていないのだろう。

 今までの自分の冒険はとても冒険などと呼べるようなものですらなかった。
 ソロネが何故《なぜ》自分《エリック》の仲間に甘んじていたのかは知る由《よし》もないし、背負《せお》っている聖剣だって本物かどうかは疑わしい。彼女と剣がなければただの村人Aで終わっていた自分が、今こうして魔界に立っていることも信じられない。
 だからアンリから撤退の2文字を聞いた時、正直ほっとした部分がなかったわけではない。


「いいの? 置いてきちゃって」

 ずっと黙っているアンリの広い背中にエリックは声をかける。
 戦力が減るという観点だけでなく、今まで仲間として一緒にいた者をひとり残していくことに気が引けた。少し前、同じようにしてミルを置き去りにした自分が言える義理ではないが、どんな理由があろうとも、それが最善の策だとしても、誰かの死の上に自分の生があるというのは頂けない。

 グラウスを無理やり引き摺《ず》ってくることなど物理的にできないのは承知している。本人の悲しみも察したし、「駄目でした、それじゃ帰りましょう」と、あっさり切り替えられないのもわかる。
 しかし今の彼《グラウス》は生きることに執着があるようには見えない。口では死なないと言っていたが、そんなもの口先だけでならどうとでも言える。今まで口の上手さだけで世間を渡って来たからよくわかる。
 でも、生きていればいいことはあるよ、なんて言葉をかけるのは簡単だけれど、そうすることが本当にいいのかと言われると自信がない。
 

「とにかくお前らを人間界に帰すのが先だ。余計な人死には増やしたくない」

 先を行くアンリが振り向きもせずに呟く。その呟きに後ろ向きになりかけた気持ちを引き戻す。
 此処《ここ》でずっと悲しんでいることはできない。ミルを失い、グラウスも離脱した。行方不明のルチナリスも探し出したい。此処《ここ》に留《とど》まっている時間が長ければ長いほど、それは自分たちの死に繋《つな》がる。


 何だろう。
 死よりも深い悲しみを前にして、それでも生きようとするのが恥ずかしいと思うのは。

 想いを胸に散るのは華々しくてドラマチックだ。少し前の自分なら、そうすることを選んだかもしれない。
 冒険譚《ぼうけんたん》に華はつきもの。「ボロボロになって汗と鼻水にまみれて、それでも必死で生き延びました」よりも、「世界を、そして仲間を救うために勇者は敵に向かって駆け出しました。彼の消息は未《いま》だわかりません」のほうが聞き手の涙も誘える。
 しかし後になれば、生き延びることを選んだ自分の判断は間違ってなかったと言えるだろう。きっと。

 そんな考え方に、背中の剣が同意するかのように鳴る。