22-8 黒き水晶宮~Obligato~




 と、言うことで。

 アンリは廊下を歩いている。向かうは前当主の居室。
 越境警備の隊長に抜擢《ばってき》(という名の左遷《させん》)されこの城を離れている間に当主が代替わりし、戻って来たその日に追放された自分は、「離れにある前当主の居室」を訪れたことは1度もない。だが自分《アンリ》が在籍していたころから少しずつ隠居準備は進められていたから場所は知っている。
 継《つ》ぎ足《た》しに継ぎ足しで迷路のようになっている母屋《おもや》に比べて、離れの構造はシンプルだ。構造図上でしか知らない部屋でも辿り着くことはできるだろう。そう、思っていたのだが。

「違うわよ。本っっっっ当に方向音痴なんだから!」

 メイド服を着た性別不明の人外に怒られながら道を正されること数回、気が滅入って来るのを感じる。

 だいたい何故《なぜ》こいつが此処《ここ》にいるのだ。
 性別不明と言ったが、少女に見紛《みまご》う少年とか、その逆とか、要するに目の保養になるのなら許せる。しかしこのガーゴイルは元石像なだけあって肌もザラザラしているし、黒ずんでいるし、どう見ても人の顔ではない。女を連想させる要素が何処《どこ》にもないのに着ているのはヒラヒラしたメイド服で、まるで悪趣味な性癖を見せつけられているかのようだ。

 アンリは今来た廊下を振り返る。
 薄暗いその先に、人の気配はない。




 事の発端はアンリが扉を開けたこと、だと思う。
 廊下に出かかったところで、銃火器を肩に担いで歩いていく太った男の姿が見え、慌てて扉の陰に隠れた。

 人間に気に入られるためにそうなったと言われるほど美形揃いの魔族の中では滅多に見かけない体型であるが故《ゆえ》に、間違えようもない。
通称・アーデルハイム侯爵。ヴァンパイア一族のひとりだ。
 アイリスの親族である彼がこの城にいること自体は不思議ではない。だが客人は全て母屋《おもや》の客室に通され、離れに立ち入ることはないはずだった。以前、爵位を持つ者全てを呼び寄せたとされる紅竜の当主就任を祝う夜会でも、宿泊客はは全て母屋《おもや》に通されたと聞いている。
 そして何より奇妙なのは、ヴァンパイアの一族が未《いま》だ誰も到着していないのにアーデルハイム侯爵だけがいる、ということだ。アイリスの父母、そして当主カーミラならともかく、分家筋の叔父でしかない彼が武器を携《たずさ》えて、少し前まで敵だった一族の城を闊歩《かっぽ》しているのは違和感しかない。

「(何であいつが)」

 眉をひそめてその後ろ姿を見送るアンリに、何ごとかと顔を覗かせた面々が同じようにアーデルハイム侯爵を認識し。

「(やっぱり僕らを探してるのかな)」
「(アーデルハイム侯爵は銃の名手です。狩猟が趣味なだけありますよ)」
「(ひとりで、というのはおかしくないですか? 本来なら部下の数人が彼の護衛につくはずです)」

 そんなことをひそひそと口にす……る間もなく。
 聞こえたのだろうか。くるりと踵《きびす》を返した侯爵が銃をぶっぱなしながら駆けて来て、驚きのあまりてんで散り散りに逃げ出し、そして気が付いた時には皆とはぐれてしまった、というわけだ。




 心配ではあるが、別行動で前当主のところに行く、と宣言した以上、彼らも自分《アンリ》を探してはいないだろう。自分にできることはなるべく早く前当主の部屋に辿り着いて……抱《いだ》いている推測が間違っていることを確認する。それだけだ。
 この推測が確かなら、ことは一刻を争う。阻止することができれば、自分が間に合わなかったとしても彼らだけで紅竜とは互角に対峙《たいじ》できるはずだ。
 そして次に会った時は、お互いに確認が取れる。
 アンリは胸当ての内側に貼り付けたカペレガムを引っ張り出し、歪《いびつ》なハート型をこしらえて、また内側に貼り直した。


「ほら、こっちよー」

 廊下の先ではガーゴイルが手招いている。自分の頭の中にある構造図の目的地に近付いている。
 度々《たびたび》窓の外の景色を見、アンリは方角を確かめる。ガーゴイルが示す道は全く違う方向に見えて、結果的に正しい。侵入者防止に目くらましの術でもかけてあるのかもしれない。
 この城にいた頃から彼ら《ガーゴイル》とは付き合いがあるから信用できることは知っている。犀《さい》がスノウ=ベルを託したくらいなのだから今でもその評価は間違ってはいないだろう。
 ただ、紅竜の息がかかっているかもしれない、ということがネックなだけだが……今のところは敵味方に分かれたとは言え、迷わせるつもりはないようだ。

「で、お前は何で俺に付いて来るんだ」
「きっと運命の紅い糸で結ばれてるからじゃないかしら!」
「……………………切っていいか?」


『様子がおかしい。犀《さい》だけでなく、あの家にいる他の同胞《はらから》も、全て』


 精霊の国でジルフェはそう言った。あの頃から既《すで》に犀《さい》やスノウ=ベルには「変わる」兆候が出ていたのだろうか。
 このガーゴイルが持っているスノウ=ベルも、これから行く先にいる犀《さい》も、敵になっているおそれがある。犀《さい》はともかく、掌《てのひら》サイズの精霊ならば苦もなく握り潰せるだろう。が、彼女《スノウ=ベル》は青藍やグラウスの知己《ちき》。できることなら害したくはない。
 グラウスはジルフェに向かって「主目的は青藍の奪取で、それ以外は余力があったら」と言い放ったし、ジルフェも個々の危機は個々が招いた結果だから、とシビアな考えを見せていた。それに比べて「はいそうですか」と切り捨てられない自分はどれほど甘いのだろう。
 犀《さい》はきっとそこを突いて来る。それを思うと、申し訳ないがガーゴイルにはスノウ=ベルを持って立ち去ってほしいとすら思う。


「――ちょっと! 何処《どこ》行くのよ! 此処《ここ》よ!」

 ガーゴイルの声に、アンリは我に返った。
 声のしたほうを振り返れば何時《いつ》の間に追い越したのか、ひとつの扉の前でガーゴイルが手招いている。
 そんなに大声で叫んだら中まで聞こえているだろう。もしかするとガーゴイルは聞こえるように大声を出したのかもしれないが、そうさせてしまう隙を見せた自分も悪い。

 アンリは扉を見上げる。周囲を絡まった蔓の装飾で縁取った、見るからに重厚そうな扉だ。
 前当主の終《つい》の棲家《すみか》とするに相応《ふさわ》しいと思うか、離れの一室だけなんて質素すぎると思うかは、意見が分かれるところだが。


「なぁ。着いたことだし、お前はもう行っていいぞ」

 言外に「スノウ=ベルを連れていなくなってくれ」という思いを滲《にじ》ませる。が、

「何水臭いこと言ってるのよ! アナタとアタシは一蓮托生! 骨は拾ってあげるわ!」

 中途半端に思いは伝わらない。
 俺は決してお前《ガーゴイル》の身を心配して言っているわけではないのだが。と言いたいけれど、言えない。
 確かルチナリス曰《いわ》く、ガーゴイルは他人の心を読んで来るからプライバシーも何もあったもんじゃない、だったが、この城のものは仕様が違うのだろうか。

「そうじゃなくって、」


 そんな時。

「――さっさと入ってきたら如何《いかが》です」

 待てど暮らせど入って来る様子がない自分たちにうんざりしたのか、声と共に内側から扉が開かれた。




 部屋の中は案の定、黒い蔓《つる》が蔓延《はびこ》っていた。
 しかし長老衆のいた1階や、アイリスが現れた母屋《おもや》の部屋に比べると生え方が違う。向こうは無節操に伸びるだけ伸びていたけれど、この部屋は床や壁を覆うものは僅《わず》かで、多くは部屋の奥で繭《まゆ》のように固まっている。
 メグ《エリックの妹》が闇に呑まれて海の魔女と呼ばれていた時、姿を変えるために黒い蔓の塊になったと聞いているが、こんな感じだったのだろうか。目の前の繭《まゆ》も大きさ的に人が入っていそうではあるが……。

 人?
 そして此処《ここ》は、

 ふと思いついた推測に背筋が凍る。
 ちょっと待て。俺は今何を考えた? あの蔓の中にいるのが、まさか、

 見れば見るほどその中身を想像してしまう。
 アンリは背《そむ》けるように足下に目を向けた。毛細血管のように細く枝分かれした蔓が床に貼りついている。プチプチと小さな音を立てながら、少しずつ、少しずつ先端を延ばしている。


「――何故《なぜ》此処《ここ》に来たんです?」

 犀《さい》の声が聞こえる。冷淡な、記憶のままの感情の籠《こも》らない声であるが故《ゆえ》に、自分が此処《ここ》に押しかけて来たことを咎《とが》めているようには聞こえない。と言うよりも、興味すらない、社交辞令的に尋ねただけ、に聞こえる。

「………………お館様《やかたさま》をどうする気だ」

 今更来たところで阻止などできないと踏んでいるのか。そこまでの段階に入ってしまっているのか。
 でも、否定してくれ。お前は「お館様《やかたさま》の右腕として」此処《ここ》にいたはずだろう!? 
 アンリは念じる。
 しかし。

「どうする、ではなくどうしたと尋ねるべきではありませんか? 答えはもうあなたの目の前にありますよ」

 目の前、と言われてアンリは顔を上げる。其処《そこ》にあるのは蔓の繭《まゆ》が3つ。犀《さい》の言葉をそのまま取れば、そのひとつに前当主が入っていることになる。

 どうした。
 前当主をこんな姿にしたのは犀《さい》なのか? それとも紅竜なのか? 犀《さい》に蔓が操れるはずがないから紅竜の仕業だとして、その紅竜が不在の今ですら助けようとしないのはどうしてだ?
 もう助けようがないのか?
 蝶は蛹《さなぎ》と化している時、ドロドロの液体になっているそうだが、前当主も既《すで》に肉体を失っているのだろうか。繭《まゆ》を壊した途端に濁った液体が噴き出し、後は何も残らない。そんなことにはならないだろうか。

 そして繭《まゆ》が3つあることも気になる。これは犠牲者がさらにふたりいるということだ。
 青藍か? グラウスの前に現れた犀《さい》は、青藍の体が別の場所にあるようなことを言っていたらしいが。そしてもうひとりは。
 アンリは黙ったまま唾を飲み込む。

 切って壊したところで最悪の事態を招くだけかもしれないが、その前に退魔効果の付いていない自分の剣ではあの蔓を切ることすらできない。ルチナリスを奪われた時も、阻《はば》む蔓を前に、手も足も出なかった。
 グラウス曰《いわ》く、あの蔓は何度も攻撃を繰り返せば切ることは可能だそうだが、彼《グラウス》はその際に肩の骨を砕き、全治一ヵ月――ソロネに回復魔法をかけてもらわなければさらに数ヵ月はそのまま――の重傷を負った。ただの剣がそこまで根性を見せてくれるだろうか。成果が出る前に剣がオシャカになる可能性も、いや、その前に犀《さい》が黙って見ているはずがない。

 だが。
 あの中にいるのなら。

「無為な行動はおやめなさい。そんなことをせずとも――」

 犀《さい》が止める間もなく、ゴボリ、と音がした。粘度の高い液体の中で気泡が割れた時のような、くぐもった嫌な音だ。

 蛹《さなぎ》。
 想像の中の最悪の事態を思い起こして、足が止まる。
 
「な、んで……こんな、」
「全て無に還《かえ》るためです」
「青藍も、ルチナリスもか!?
 お前言ったよな、青藍はこの城を出て市井《しせい》で生きたほうがいい、って。第二夫人に手を貸して青藍を魔王役に仕立てて、紅竜の目を欺《あざむ》いて外に出して。なのに」

 青藍が魔王役に決まったと風の噂で聞いた時、裏で手を回したのは第二夫人らしい、という話も耳にした。だが西の塔に半幽閉のような形で暮らしている第二夫人に、魔王役の推薦などできない。そのためには外部に通じる仲介者が必要だ。
 そしてそれは、あの城の中で唯一、西の塔に出入りしていた犀《さい》に他ならない。

 魔王役は命にかかわる危険な職で、平均任期は5年とされる。だが自分《アンリ》と犀《さい》とで育てたのだ、生き残ることができるに決まっている。
 犀《さい》もそれを見越して出したのだろう。幽閉され、外の世界を知らないまま終わるよりは、と。
 その青藍を魔界に連れ戻したのが犀《さい》だと聞き、かつて「青藍は必要だ。外に出すな」と言ったお館様《やかたさま》の命《めい》に従う時が来たのかと思った。自由時間が終わったのだと思った。

 だがお館様《やかた》は何処《どこ》にもいない。
 犀《さい》の後ろに見えるのは紅竜の影ばかり。

「そうまでして何がしたい?」
「少々誤解をなさっているようですが、坊ちゃんと聖女は此処《ここ》にはいませんよ。彼らは紅竜様のところにいます。此処《ここ》にいるのはお館様《やかたさま》、そして第一夫人と第三夫人」
「ソー……リフェル様、が?」


 青藍とルチナリスがあの蔓の中にいない、ということには安堵しながらも、新たに飛び出した名には新たな疑問が湧《わ》く。
 第一夫人ソーリフェルは紅竜の実母だ。
 それを言うなら前当主も実父だが、彼には魔力がある。しかし第一夫人と第三夫人は家の格を重視して婚姻を結んだ、所謂《いわゆる》政略結婚で、貴族の子女ではあるが魔力はそれほどのものではない。
 そして養育を乳母任せにするとは言え、彼女は決して息子《紅竜》と不仲というわけではなかった。なのに蔓の餌食にしたのか?


「でも、彼女らは別荘地にいるんじゃなかったのか!?」

 前当主が隠居して離れに引っ込んで以降、彼女らは城を出て避暑地でのんびりと暮らしている、と聞いている。息子ににて華やかな人だったから田舎暮らしなどすぐに音を上げるのではないかと最初の頃は言われたが、何時《いつ》しかそんな噂も絶え、

『生んだ息子を次期当主にしたことで実家から課せられた使命は果たした』
『彼女は勝ち組だ』
『母屋《おもや》に比べて脇役感の強い離れに引き籠るよりは彼女の性に合ったのだろう』……

 
 そんなやっかみと共に、人々の話題に上ることもなくなった。
 なのに。

 犀《さい》は薄笑いを浮かべるだけで否定しない。

 
「ソーリフェル様も本望でしょう。最期に息子の役に立てるのですから。アダマス様は……当主夫人としては何の役にも立っていないのですから、これくらいはして頂かなくては」
「当然みたいな面《つら》で言うな! 彼女らが望んだのか!? 違うだろう!?」
「家のために生きるのが貴族に産まれた者の宿命です。本人の意思は関係ありませんよ。あなたもよくご存じでしょう」

 駄目だ。何を言ったところで、犀《さい》の耳には届かない。
 それにきっと、

 その時。
 プシュン、と音がして繭《まゆ》が弾けた。
 液体が飛び散るかと思わず身構えたアンリだったが、予想に反して黒い粘液がドロリと蔓の隙間から垂れただけだった。
 その液体に絡まるように無数の蔓がうねる。喉の渇きを訴えていた獣たちが湧き水を見つけて殺到するように、ドクリ、ドクリ、と音を立ててその液体を飲み干している。
 そう、飲んでいる。喉が動く時と同様に蔓が膨らみ、また萎《しぼ》む。嚥下《えんげ》するようにその膨らみが蔓の中を動いていく。


「な、」

 あまりのおぞましさにアンリは2、3歩後退《ずさ》った。
 今までの話からすると、あの液体は前当主、もしくは第一夫人か第三夫人。それを。

「お前、何を、」
「紅竜様の闇はもう抑えるところを超えてしまいました。このままでは本当に世界を呑み込んでしまうでしょう」


 紅竜が闇の力を使っていることは知っている。
 彼自身が闇を使いこなしているのか、闇に使われているのか。メグやアイリスのように黒い蔓と化していないから断定はできないが、最も長く闇に接している紅竜が未《いま》だに呑まれもせずにいる、ということはないだろう。
 そしてソロネが言っていたように、このままでは闇は世界中に――魔界だけではなく、人間界をも呑み込んでしまう。

 だが、それならこの光景は何だ。
 前当主を蔓《闇》に食わせておいて、世界を危惧《きぐ》する意味がわからない。
 前当主の体に闇を弱らせる効果があるとでも? 否《いな》。あの粘液を呑み込んで以降、確実に蔓の色つやと動きはよくなっている。




 犀《さい》はアンリの動揺など意に介した様子もなく、壊れた繭《まゆ》へと歩いていく。
 靴の裏でジュブリ、ジュブリ、と蔓が潰れ、汁が飛び散っても動じないあたり、踏み慣れているのだろうか。母屋《おもや》も離れも蔓だらけの城に何年もいるのだから、慣れているのが当然だとは思うが……

「待てよ!」

 アンリはそんな犀《さい》を追おうと足を踏み出した。
 だが、ブチュ、と、ミミズかナメクジを潰したような感触に思わず足を引っ込める。引っ込めて、「たかが蔓を踏んだ程度で何ちゅー《という》リアクションしてんだよ! 女学生か俺は!!」と自己嫌悪に陥《おちい》りそうになる。
 一線を退《しりぞ》いて長いから、知らず、平和ボケしてしまっていたのかもしれない。過去には異臭を放つ沼に腰まで浸かって渡ったこともあるというのに、蔓を、それも靴の上から踏んだくらいで怯《ひる》むなんて、元・陸戦部隊長が聞いて呆れる。


「踏み潰したところで修繕費を払えとは言いませんから、思う存分お潰しなさい」
「嫌だよ!」

 そしてやはり犀《さい》には見透かされている。嫌味に思わず素《す》で拒否してしまい、またしても自己嫌悪を塗り重ね。
 そうしている間にも、犀《さい》との距離は開いていく。執事なら身だしなみも大事だろうに、潰れた蔓から飛び散る汁で靴が濡れることにも動じないで歩いているのだから当然だ。


 廊下を踏み抜いた際、修繕費を給料から差し引くと言われたことが遥《はる》か昔に感じる。あの頃とシチュエーションは似ているが……非、なるものだ。
 今、目の前にいる犀《さい》はあの頃の犀《さい》ではない。自分の記憶の中にいた犀《さい》はもう何処《どこ》にもいない。いるのは闇に染まり、紅竜の僕《しもべ》に成り下がった大馬鹿野郎だけ。
 メルヘンな懐古厨になるつもりはなかったが、前当主がいて、犀《さい》がいて、幼い青藍がいて、かつての部下の成長を垣間見ながら新たな兵のスカウトに走り回っていたあの頃はよかった。どれも流血や打撲、骨折などが日常茶飯事で、決して淡いパステル調に彩られて思い浮かぶような思い出ではないのだが、今は切《せつ》にそう思う。


「……此処《ここ》まで来たのなら、最後まで見ておいきなさい」

 そんなアンリをどう思っているのか、犀《さい》は壊れた繭《まゆ》の傍《かたわ》らで振り返った。
 繭《まゆ》の周囲は酷《ひど》く血生臭い。それがなお一層、「あの液体は人だった」と告げているようで……胃のあたりから酸っぱいものがせり上がって来るのを感じる。
 未《いま》だに壊れていない両端の繭《まゆ》を見れば、中央の繭《まゆ》に比べると固く、言い方が微妙だが「熟《う》れていない」印象を受ける。これが第一夫人と第三夫人だとすると、彼女らはつい最近になって捕らわれたのだろうか。


 ――ヨコセ。


 そんなアンリの耳に何かが聞こえた。
 犀《さい》ではない、ガーゴイルでもない者の声。男にも女にも、年寄りにも若者にも聞こえるのは、ザラザラとして不明瞭だからだろうか。

「おい、今」


 ――ヨコセ。
 ――ヨコセ。
 ――我々ガ 表ニ出ルタメノ 道ヲ


「何か聞こえる」
「闇の声ですよ。何百年も前に封印された闇は、誰にも聞いてもらえないまま、ずっと此処《ここ》で叫び続けていたんです。此処《ここ》から出してくれ、ってね」

 とうとう亡霊の声まで聞こえるようになったのか、と一瞬でも思った自分が情けないほど、犀《さい》は全く動じない。
 しかし。

 闇、だと?

 いや、闇があることは知っている。この城に蔓延《はびこ》っていることも、紅竜を始めとする人々が落ちていることも知っている。世界のためにその闇を祓《はら》わなければ! なんて勇者的な台詞《セリフ》を言うつもりはないが、どうにかしたいと思ったのも確かで。だが、どうすればいいのかもわからない。
 それが、目の前にいる。

「……出すのか?」

 封印はとうに解かれていると思ったが、違うのだろうか。
 では巷《ちまた》に溢《あふ》れている「闇のせい」で括《くく》られている事象は?
 目の前に広がっている黒い蔓は何だというのだ。

「紅竜はまだ闇を手にしていないのか?」
「してますよ」

 紅竜が闇を手にしているかどうか、なんて手の内もいいところだ。まさか答えが返って来るとは思わなかった呟きだが、返ってきたところで疑問は解消されない。

「それじゃあ、これは」
「……用法を間違えれば薬が毒になるように、負の感情も心の持ちようでどうとも取れるものなのですが、彼らはそれを悪として封じてしまったんですよ。
 自由を奪って、存在を否定して、そんなことをすれば怨まれても仕方ないですよねぇ」

 改めて尋ねたことには触れず、犀《さい》は繭《まゆ》を見上げながら呟く。
 闇に同情しているようにも聞こえるのは、彼が闇に堕ちている証拠だろうか。


 1階でこと切れた長老衆の最後のひとりは「当時の当主が命と引き換えに闇を封じた」と言ったらしい。だとするとこの場所が闇を封じていた場所なのだろうか。
 そして今まで見てきた例から言って、あの蔓が――繭《まゆ》の中身を飲んでいたあの蔓が闇であることは間違いない。
 繭《まゆ》の中身――前当主を。

 ゾワリ、と悪寒がアンリの背筋を走り抜けた。
 後に残ったのは怒り。闇と、それに同情的な素振りを見せる犀《さい》へ向けての。


 負の感情は悪だろう。
 闇だって悪だろう。
 メグもアイリスも客人たちも闇に接触しなければ、記憶が消し飛ぶことも、傷付いて意識不明になることも、人として姿を失くすこともなかった。前当主だって生きていられた。
 全部闇が悪いんじゃないか。何処《どこ》に同情する要素があるんだ。外に出ているのか出ていないのかは知らないが、これ以上外に放つな。不幸の原因にしかならない闇など封じ込めて当然だ。

 アンリは剣の柄を握る。
 この剣で蔓が切れるとは思わないが、犀《さい》をどうにかすることはできる。
 あの声は「表に出るための道を寄越せ」と言った。きっと今、表に出ている《被害を出している》闇は断片で、100%解放する手段はまだ得てはいない。前当主を飲み込み、その力を手に入れた後でさえ、まだ。
 そして犀《さい》はそのための手段を知っている。

「それはお館様《やかたさま》を犠牲にしても、なし得なければいけないことなのか?」
「……だとしたら?」



 犀《さい》は、敵だ。

 掌《てのひら》の中で剣の柄がギュ、と鳴る。
 アンリは左足をゆっくりと後ろに引き、半身《はんみ》の構えを取る。

 
 青藍を無下《むげ》に扱わない犀《さい》。
 水に濡れたルチナリスとミルを助けたガーゴイルたちをまとめているのも犀《さい》。
 グラウスを止血したのも、きっと犀《さい》。
 そんな善意でできた犀《さい》と、紅竜の手先として邪魔をしてくる犀《さい》がいて。それはつまり、彼はまだ「完全には」闇に染まっておらず、明と暗の間を彷徨《さまよ》う――闇に従う部分と、闇から逃れようとする部分が混ざり合い、彼の中でせめぎ合ってるのではないか?――と考えたこともあった。
 しかし今の犀《さい》は完全に闇に染まっている。
昔から顔にも声にも目にも感情が籠らないが故《ゆえ》に非情と思われることが多かったが、自身の哲学《ポリシー》に反することが嫌いなだけで、そうでなければ甘いところもあった。この家の繁栄のため、存続のため、執事長としての役目etc.という自分で課した目標のためには手段を選ばないだけだった。
 なのに今は。俺はこんな奴《やつ》をずっと信じて、仲間だと思い続けてきたのか!?


「ち……っくしょぉぉぉおおっ!!」

 足が床を蹴った。
 駆け込みざまに剣を抜き、犀《さい》に向かって薙《な》ぎ払う。


 切ってどうなる。
 前当主はいない。青藍も、夫人たちもいない。犀《さい》は変わってしまった。帰りたかった過去はもう何処《どこ》にもない。
 でも、手遅れだからと言ってこのまま帰れるほど物分かりが良くないのだ自分は。
 無駄でしかないとわかっていても、八つ当たりにしか見えなくても、でも。


 しかし剣は空《むな》しく空気を切っただけだった。身を屈めて剣をやり過ごした犀《さい》はその体勢のままアンリの向う脛《ずね》に蹴りを入れる。
 脛あて《グリーブ》で覆っているから痛みは感じないが、バランスを崩され、アンリは前にのめった。
 間髪入れず、立ち上がった犀《さい》の両拳が背中に叩き込まれる。流石《さずが》に踏み止まれず、アンリは床を覆う蔓に顔面から突っ込んだ。

 潰れた蔓の汁が顔に貼りつく。
 目と鼻に付いた汁を手の甲で拭い、口に入りそうになった分は唾《つば》と一緒に吐き捨てる。しかし粘度のある汁は瞼《まぶた》を覆い、視界を狭《せば》めて来る。
 背後にいた犀《さい》の気配は既《すで》にない。剣が届く範囲にはいないようだ。

 だが。

 目の前には前当主を食らった蔓がいた。
 卵を割ったように途中からパックリと口を開けた繭《まゆ》。中身を飲み干された後の繭《まゆ》はテラテラとした内壁をさらしている。ポタリ、ポタリと滴る液体の下で無数の蔓が口を開けている。
 そう。口を。
 先端をふたつに割き、その裂け目を上に向けて、落ちて来る液体を待ち構えている様《さま》は口を開いているようにしか見えない。
 こうやって先ほども飲んでいたのか?
 こんなことは植物にはできない。蔓の形状を取ってはいるが、これは決して植物ではない。むしろ、蛇の集合体とでも言ったほうが合っているかもしれない。

 しかし、今までに見た蔓は全て蔓だった。口も開けなかった。
 進化したのか? ……前当主を飲んで――!
 

 アンリは剣を握り直し、左側の繭《まゆ》に切りかかる。
 この中には第一夫人か第三夫人のどちらかが入っている。彼女らとは特に親交もなかったが、だからといって前当主の二の舞、三の舞いになるのを見逃すことなどできない。

 叶わなかった前当主の仇《かたき》も兼ねて、力任せに剣を上段から振り下ろす。
 ガン! と固い音がして最初の一打は跳ね返った。そして案の定、繭《まゆ》には傷ひとつついていない。
 ならば二打。アンリは再度振り被《かぶ》る。
 しかし。

「無為《むい》なことはおよしなさいと言ったでしょう」

 何処《どこ》からともなく矢のように降って来た無数の結晶が、その手から剣を弾き飛ばした。
 弧を描いて飛んだ剣は手が届かないほど遠くの床に転がる。
 そして剣を弾いた結晶と、その役目を負えなかった他の結晶はそのままアンリに降り注ぐ。無防備な頭を両手で覆って防いだものの、結晶はその腕に無数の傷を付け、そしてアンリの足下《あしもと》に――足下《あしもと》を這《は》っていた蔓に突き刺さってやっと止まった。
 黒い汁がアンリの半身に飛び散り、新たな臭気が鼻を突いたが、先ほど顔面から突っ込んだ時に比べれば我慢できる。
 それよりも。
 足首を捻《ひね》り、アンリは剣が転がった部屋の隅へと走る。あんな剣だが素手よりはましだ。
 が、先ほど蔓から散った汁に足を取られた。横転しそうになったところで床に片手を付いてかわし……そちらに意識を取られた一瞬、追い打ちをかけるように再び降り注がれた結晶によってアンリの体はあっさりと床に縫いつけられた。

 手も足も出ない。
 アンリは歯噛みした。足を滑らせて転がりかけたことも、横からの攻撃に気付かなかったことも、過去の自分とは比べ物にならないほど鈍《なま》ってしまっていたなんて。
 共に戦場にいた時には互角だと、いや、戦歴は自分のほうが上だと思っていたのに。


「犀《さい》、お前、」

 それでもアンリは呻《うめ》く。
 悪あがきか、みっともない中年男の懇願に見えるか。
 犀《さい》からいくら見苦しいと思われても、しかし、諦めるわけにはいかない。

 推測は当たってしまった。阻止したところで自身の願う結果を手に入れることができないとわかっていても、阻止しなければ此処《ここ》に来た意味はない。
 もし自分が此処《ここ》で潰《つい》えたとしても、エリックやグラウスがいる。重要なことを他人任せにするのは気が引けるが、彼らが勝てるよう……先を行く者は後発のために道を切り開いておく必要があるのだから。
 なのに。


「おとなしく見ていて下さい」

 犀《さい》は嘲笑を浮かべている。


 この状況はどうだ。
 腕も足も床から動かすことができないでいる。
 このままでは駄目だ。何か、


 ――ヨコセ。


 そこに、またしても声が聞こえた。
 この部屋にいる、自分でも犀《さい》でもない何かの声。闇、の声。


 ――ソコニイル……すのう=べるヲ 我ガ 生贄《いけにえ》ニ
 

 スノウ=ベル?
 
 目の前の蔓がズズ、と動く先にアンリは目を向ける。
 蔓はこの部屋唯一の扉があるほうに、部屋の外に向かっている。其処《そこ》に突っ立っているのは、

「逃げろ!!」

 アンリは突っ伏したまま力の限りに叫んだ。
 突っ立っているのはガーゴイル。
 アンリを此処《ここ》まで連れて来た彼は、持って生まれた野次馬根性そのままにことの成り行きを見守っていたのだろう。自分に危険が及ぶなど思いもせずに。

 アンリの声にガーゴイルは慌てて踵《きびす》を返した。今度ばかりは逃げてくれたのだろう、廊下を走り去る音が聞こえた。


 ――逃ゲテモ、
「いいじゃありませんか。あんなライン精霊よりもっと強力な力がありますよ」


 追おうという意思表示を示した闇を犀《さい》が遮る。
 そう言えばあのガーゴイルにスノウ=ベルを託したのは犀《さい》だったはずだ。理由は知らないが、逃がそうとしたスノウ=ベルがみすみす捕らえられるのは良しとしなかったのかもしれない。

 犀《さい》はガーゴイルが消えた扉から視線を繭《まゆ》に向ける。
 アンリを通り過ぎる時に一瞬、何か言いたげな顔をした気がするが、どうせ口をつくのは「だからあなたは~」で始まる悪口だろう。アンリはふん、と目を背《そむ》ける。

 そんなアンリを軽く無視して、犀《さい》は声に話しかける。

「あなたの闇の力は強大です。そうでしょうね、かつて生きた人々の負の感情を集めて、何百年も寝かせ、恨み辛《つら》みで熟成させたものがあなたなのですから。
 だからこそ、あんな小さな精霊如きの力では糸屑《くず》のような道しか開くことができないとわかったのです」


 ――デハ、


 アンリは聞き耳を立てる。
 犀《さい》は闇が出て来る道を開こうとしている。命に代えてもそれだけは阻止しなくては、此処《ここ》まで来た意味がない。


「もっと強い精霊。世界に21人しかいないとされる貴石・半貴石の精霊の力があればいいのです。そして」
「待てぇっ!!」

 何をする気だ? なんてのんびり尋ねている場合ではない。
 遥か昔に時の当主が命と引き換えに封じた闇を、犀《さい》は引っ張り出そうとしている。暗い中に閉じ込められてグズグズと怨みを増したそれは、絶対に封じた時よりも大きくなっている。
 そして半貴石の精霊の力、とは。

「やめ、」

 叫ぶアンリの目の前で、犀《さい》は自らの胸に腕を突き立てた。
 ズブリ、と引き抜いた手の中には血にまみれた水晶の核。

 そうだ。犀《さい》は水晶の精霊。
 世界に21人しかいない、貴石・半貴石の精霊というのは、他の誰でもない、犀《さい》のことだ。




 ズズ。
 蔓が動く。犀《さい》の周りに集まって来る。
 アンリの脳裏に、先ほどの繭《まゆ》の中身を飲んでいた蔓の光景が思い起こされる。


 ――ヨコセ。
 ――ヨコセ。
 ――ソレ ガ アレバ、


 核を失えば犀《さい》は死ぬ。そして闇は完全に復活する。

「犀《さい》、」

 しかし何度呼んでも犀《さい》は返事を返してはこない。

 床に接している頬が冷たい。繭《まゆ》の周辺は蔓だらけだが此処《部屋の隅》まで伸びていないのは幸運だった。蔓に頬擦りなど御免《ごめん》だ。
 アンリは床に縫い留められている四肢に力を入れる。
 結晶の刃が刺し貫いているのは衣服や防具を止めるベルト、|鞘《さや》などで、肉体には刺さっていない。この命中精度があれば頭でも心臓でも狙えただろうに、それをしないのは昔のよしみで情けをかけられたのか……動機は何にせよ、好機と捉《とら》えるべきだろう。

 小刻みに、だが力を込めて左腕を動かすと、案の定、結晶がぐらついた。
 腕1本でも自由になれば残り3本の枷《かせ》を外すのは簡単だが、拘束が外れたことを知られれば再び縫い付けられてしまうかもしれない。外すのは一気にやったほうがいい。
 アンリは犀《さい》の様子を窺《うかが》いながら、右腕、右足、と1本ずつ拘束を緩《ゆる》めていく。





 犀《さい》の体には蔓が巻き付き、辛《かろ》うじて核を掴んだ腕だけが蔓の塊から突き出ている。
 その周囲をうねる蔓は、まるで磔《はりつけ》にされた生贄《いけにえ》を囲んで踊る食人種のようだ。

「……おやおや、慌てる乞食は貰いが少ない、と言いますよ?」

 ――ホザケ。闇ニ 従ワザル ヲ 得ナイ 立場ヲ 忘レタカ。
 
「生憎《あいにく》と私はまだ先代に任ぜられた執事長のままですのでね。主と呼ぶのは先代だけです」

 だが犀《さい》の口調からは「これから食べられる」的な恐怖は感じない。
 感情が表に出ないからそう聞こえるだけなのか、それとも、


『無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す』


 この城で何度も耳にしたあの言葉のように、無に還《かえ》ることを犀《さい》も望んでいるのか。


 それにしても、どういう意味なのだろう。
 いや、意味はわかる。が「無」とは全てを失うこと。しかしあの紅竜が地位と権力を捨てようと思うだろうか。
 物心ついたころから次期当主になることを課せられ、そうなるように努《つと》めて来て。
 そこへ自分よりも魔力の高い「弟」が現れ、自分ひとりに向いていた周囲の目が何かにつけて弟と比べるようになって。
 凡才が天才を上を行くには血の滲《にじ》む努力が要《い》るだろうが奴《やつ》のことだ。表向きは「さも持って生まれた才能だ」と言わんばかりの涼しい顔で通したに違いない。他の貴族たちの紅竜への評価が総じて「努力家」でないことが物語っている。
 そうまでして手に入れた当主の地位を手放せるのか?
 それとも、無に還《かえ》ることなく闇を利用し続けていく算段でもあるのだろうか。

 だが。
 何にせよこのままでは。


 パキン。


 その時、最後に残っていた左足の結晶が外れた。
 アンリは顔を上げて蔓と犀《さい》を窺《うかが》う。蔓に巻きつかれて新たな繭《まゆ》と化している犀《さい》に自分《アンリ》の様子は見えなかろう。四肢が自由になったこともまだ知らないに違いない。
 しかし犀《さい》が動けなくとも、蔓のほうが攻撃して来ないとは限らない。一瞬で片を付けなければ。

 アンリはゆっくりと顔を動かし、転がっている剣の位置を把握する。2、3歩で手にすることができそうだ。
 まず剣を取る。蔓に効果があるとは言えないが、素手で向かうのは無謀すぎる。
 そして犀《さい》が持っている核を奪う。最悪の場合、飲み込んでしまうか、砕いて捨てるか、持って逃げるか。何にせよ闇には渡さない。
 万が一捕まった時は、犀《さい》を道連れに死ぬことも辞さない。先ほどのやりとりから見てもライン精霊の入手など、闇が動けない自分の手足代わりに犀《さい》を頼っていることは否《いな》めない。犀《さい》がいなくなれば、闇にも紅竜にも打撃は与えられる。
 だから。

「……っ、待てゴルァ!!」

 アンリは両腕に力を込めると勢いをつけて立ち上がった。そしてベルトに刺さったまま頼りなく垂れ下がる結晶を引き抜く。
 剣を拾い、先ほどの脳内シミュレーションどおり犀《さい》に向かって猛ダッシュ! ……するはずだった。
 が。


「まぁ、家令になったところで主人が紅竜様になるだけで、やはりあなたに従わねばならない道理などないのですけれどね」


 犀《さい》の声と前後するように蔓の動きが止まった。床に広がる毛細血管のような蔓の先端が白く粉を吹き、パキパキと音を立てて枯れていく。


「何故《なぜ》あなたがああも上から目線なのか、私はいささか疑問ですよ」


 全身を蔓に巻きつかれ、そのまま絞められればあっという間にバラバラ死体になりそうな状況にもかかわらず、煽り過ぎじゃないのか!? と心配になるほど犀《さい》は辛辣《しんらつ》だ。嘲笑すら混じっているのは蔓が自分に何もできないことを――蔓に起きた変化を知っているからか。
 だが、犀《さい》が知っていようとも、自分《アンリ》は知らない。
 

 白い粉は先端から走るように蔓を覆《おお》っていく。少し遅れて動きが止まり、滑らかな曲線が強張《こわば》る。曲がり具合が急だった箇所は曲がり切れずに折れる。


「……枯れてる……?」

 壁に這《は》ったまま粉を吹いて固まっている蔓に剣先を引っかけると、大した力も入れていないうちにボロボロと崩れた。足下《あしもと》を走る蔓を踏み潰せば、黒い液体が飛び散るどころか、グシャリと潰れ、白い粉が舞う。

 何だ?
 何があった?



 ――貴様! 騙シテ、


 声が聞こえる。叫んでいる。
 騙した?
 誰が?
 誰を?

 犀《さい》が?


「騙したなど。ただ黙っていたにすぎませんよ。そしてこれは、私からの餞別《せんべつ》です」

 壊れた繭《まゆ》に開いていた穴に向かって、犀《さい》の腕が手にしていた核を投げ込んだ。
 そして。

「お帰りの道はあちらです」

 その1本だけ外に出ている腕が自身に巻きついている蔓を掴む。
 引きちぎると銀色の髪が見えた。この暗い部屋の中で、それはやけに眩しくて。


 ――  ! 


 闇のものであろう叫びが轟《とどろ》いた。一際激しく、一際深く。部屋を揺るがす嵐のように。
 何と言ったかはわからない。きっと罵詈雑言《ばりぞうごん》の類《たぐい》だと思われる。

 声がいくつも絡みついて、ゴウ、と鳴る。
 第一夫人と第三夫人が入っているとされる繭《まゆ》が、支えを失って倒れる。
 天井や壁を這う蔓が自らの重みに耐えられなくなって剥がれ落ちる様《さま》は、まるでこの城そのものが崩壊しているようだ。現に枯れた蔓は瓦礫《がれき》のようだし、白い粉は粉塵《ふんじん》にも見える。





 やがて。



「何をぼんやりしているんです。私が蔓に絡まれているというのに、助けに来るどころか阿保面《あほづら》で眺めているだけなんて馬鹿ですかあなたは」

 騒音があらかたおさまった頃に飛んできた嫌味がアンリの心を抉《えぐ》った。
 見れば、うんざりした顔で蔓を外している犀《さい》の姿がある。胸のあたりまでの蔓は既《すで》に失われている。


 いや、そうは言っても俺を床に叩きつけた上に結晶を突き刺して固定したのは何処《どこ》のどいつだよ。
 そんな文句がアンリの喉元を通りかけたのは当面の危機を脱した安心感からだろう。しかしそんな文句も舌に乗ることはなく、足を滑らせて腹に落ちていった。
 代わりに発せられたのは、

「……阿保面なんだから阿保なんだろう」

 なんていう売り言葉に買い言葉な返事。
 脊髄《せきずい》反射で返したように聞こえるが、アンリとしては話の内容などほとんど頭の中に入っていない。上手いことを言ったつもりもない。
 それどころか頭の中に浮かぶのは疑問符ばかり。

 何が起きた?

 一部始終を目にしていたはずだが、どうにも意味がわからない。結果だけ見れば万々歳かもしれないが……あの蔓は何故《なぜ》、いきなり枯れたのだ。


「何が起きた?」

 結局何もわからないまま、思ったことがそのまま口をついて出る。が、返って来るのは冷ややかな視線のみ。
 最後まで見て行けと言ったくせに解説はしないつもりかよ! とキレたいのを我慢して、阿保《アホ》なりに推測してみるしかなさそうだ。


 闇が出て来るための「道」の形成は本来ならライン精霊――隔《へだ》ての森やゲートなど、「道」を作るのに必要な力――が必要だったのではなかろうか。
 それよりも高位の精霊は上位互換。犀《さい》が言うところの貴石・半貴石の精霊でも「道」を作ることはできる。それもかなり強固に。無論、犀《さい》も例外ではない。

 が、その前に水晶は浄化の石だということを忘れてはいけない。
 核は人間で言うところの心臓。力の源だ。それを闇に呑み込ませたのだから、何が起きるかは予想するまでもない。
 だがひとつ腑に落ちないのは、蔓は核を投げ入れるより前に枯れ出したと言うことだ。
 犀《さい》が核を投げ込んだのは「とどめを刺す」ことに等しい。その前に蔓を襲った異変は核のせいではない。
 それでは何が――。


「お館様《やかたさま》ですよ」

 犀《さい》は腹回りを覆う蔓を埃でも払うように払い落とし、膝あたりまで崩して乗り越える。
 さも汚い、と言わんばかりの手つきからして、彼が蔓を好んでいなかったことは間違いない。踏みつけることに慣れているようだったが、やはり何度かは、あの黒い液体をかけられる洗礼を受けたのかもしれない。


「お館様《やかたさま》は長い年月をかけて自《みずか》らに退魔の力を溜めていたのです。こうして身をもって闇を止められるように」

 しかし、次《つ》いで出て来た言葉には解説どころか疑問を上書きされるばかり。
 魔族が体内に退魔の力を溜める?
 そんなこと、自殺行為以外の何ものでもない。

「そんなことできるわけがねぇ」
「信じる信じないは勝手ですが、結果はこうして出ています」

 即座に否定したものの、どうにも嘘を言っているわけではないらしい。

 小さい頃から微量の毒を摂取し続ければ毒に耐性のある体になるように、僅《わず》かな退魔の力を少しずつ、少しづつ取り入れていけば似た結果が得られる可能性はある。微量の退魔の力を前当主に毎日送り込むことができる者も傍《そば》にいる。第二夫人《前の聖女》だ。

 少し前、エリックが「第二夫人こそが前《さき》の聖女ではないか」という推論を展開した際、前当主が何故《なぜ》彼女に契約の術を施したのか、その理由は定かではなかった。
 彼女を娶《めと》ったのは聖女の力を引き継ぐ子供が欲しかったからだとしても、彼女自身に延命の術をかける必要はない。もしかするとそんな打算だけではなく、彼女と永遠《とわ》を生きるつもりだったのかもしれないと、一時《いちじ》はそんな乙女な考えもよぎったが、前当主に退魔の力を送り込む必要もあったのだとすれば、そのために命を長らえさせようとしたのかもしれない。
 人間の齢《よわい》を越える時間《とき》をかけて、下手をすれば前当主自身を滅しかねない力を滅しない程度の量で、少しずつ。
 そんな暴挙も稀代《きだい》の悪魔と謳《うた》われた前当主だからこそ可能だったのかもしれないが……自分の体を生きたまま溶かして蔓に飲ませることまでは想定していなかったにせよ、確実に自身の死と引き換えになるであろう作戦を実行に移すにはどれほどの決断が要《い》っただろう。


 ああ、だから第二夫人は魔界に来てから体調を崩したのだろうか。慣れない地で力を使いすぎて。
 前当主が彼女をずっと西の塔に置き、市井《しせい》の物で囲み、滅多に会いにも行かなかったのは、興味が失せたのではなく、彼女の体調をおもんばかったせいではないのだろうか。
 公《おおやけ》に姿を見せなくなったのも、自らが招いた結果だとは言え、やせ衰えていく自分を他人に見せたくなかったのかもしれない。衰えている様《さま》を見せて「メフィストフェレスはもう終わりだ」などと曲解されても困るだけ。
 でも。

「そんなこと、俺は何も知らなかった……っ!」

 自分《アンリ》も犀《さい》もどちらも前当主の片腕だったはずなのに、その計画を犀《さい》だけが知っていた。自分は知らされていなかった。
 以前の闇を封じるのに当時の当主が命を引き換えにしたというのなら、今回、前当主が自らの身を闇への特効薬と変え、闇に呑ませたことも理屈としては同じ。知っていたところでそれを止める権利はないが、ひとりで負うところをふたりで負えば半身は――命は残る。
 自分《アンリ》を巻き込まないがために黙っていたのだとしたらあまりにも水くさい。


「あなたに教えるとあっさりと城内に伝わってしまうから黙っていただけですよ。あなたは顔にも態度にも出ますからね」

  いや。違ったらしい。

「だけどよ、お前だって核を、」
「先ほど投げ込んだのは、私が精製した別の水晶です。核じゃありません」
「は?」

 そしてもうひとつも違っていた。
 何だかいろいろとグダグダだ。これも教えなかった犀《さい》が悪い。
 以前グラウスにも「もっと思慮深ければ教えてもらえていただろうに」的なことを言われたが、そんなに俺は脳筋なのか!? 態度と顔に出るのか!? でもそれってあまりにも俺を信用してなさすぎるんじゃないのか!!!!


「何だよ! 俺はまた、核なんて命と同じだし、胸に腕突っ込んで引っこ抜いてたし、だから、」

 思わず舌の上に乗せた文句は、延々と続くはずだった。
 しかし、犀《さい》が遮るように口を挟む。

「生きて動いている時点で核は無事だと考えるのが普通でしょうに。そんなふうだからあなたには本当のことは教えられないんです。スノウ=ベルのことも、」
「ぐ、ぅ」


 曰《いわ》く、闇が外に出て来るのにライン精霊の力が最適だという説が浮上し、ちょうど紅竜の手元に戻って来ていたスノウ=ベルに白羽の矢が立ったらしい。メフィストフェレス本家にも数名、通信担当の精霊はいるが、何十年と付き合いのある彼女らを生贄《いけにえ》にするのは忍びない、と紅竜が思ったかは不明だが。

「こっそりとガーゴイルに託したのにあなたを連れて戻ってくるし、邪魔をするし、ホント、上手くいったからよかったものの、何で来た? って言いたいですよ」
「あー……えっと、」

 だから、計画を先に教えてくれていればもっといい結果になったんじゃないのか!?
 アンリの中でもうひとりのアンリが文句を垂れ流している。
 「こういう計画がある」とわかっていれば、連携も取れた。邪魔もしなかった。前当主だって死なずに済んだ。それなのに文句ばかり言われるのは理不尽だ。



 ――騙シテ イタノカ。ズット、ズット昔カラ


 声が聞こえる。
 闇の声だろうが、自分の気持ちを代弁してくれている、と思えて来るのが微妙だ。


 ――ダガ


 息を吐くように声が途切れ、それから再び続く。


 ――コレデ……終ワッ……タ、ト ……思ウナ


 そうだ。終わってはいない。
 紅竜の中にはまだ闇がある。今しがた前当主を犠牲にして止めた闇と同じ規模のものが。
 あれを止めるには紅竜の息の根を止めるしかないのだろうが……気が重い。




「待て。ってことはお館様《やかたさま》は闇が出てくることを知ってたのか?」

 闇に、退魔の力ごと己《おのれ》を食わせる。その準備は一朝一夕でできるものではない。何十年もかけて少しずつ取り込んでいかなければ自身がその力に負けてしまう。
 第二夫人がやって来たのは100年ほど前のことで、魔界に連れて来る際に、前当主が計画を話したことは間違いない。とすれば、その頃既《すで》に闇が出て来る兆候があったということになる。

「兆候ではありません。もう出てしまっていたんです。紅竜様とキャメリア様の手によって」
「出てた、だと? でもそんなこと俺は」

 知らなかった、と言う言葉が口をつきそうになって、向けられる冷ややかな視線にアンリは我に返る。
 知らなかったんじゃない。知らせてもらえなかったのだ。そんな昔から「言動に出るから」という理由で。

 闇が何と言って彼らをそそのかしたのかはわからない。が、100年以上前なら紅竜とて思考はまだ子供。ただ強力な魔法が手に入るというだけの理由で封印を解いてしまった可能性はある。
 そして封印を解いた後に周囲の大人の態度が変われば、奴《やつ》は絶対に勘付く。犀《さい》や前当主ならば隠し通せることも、自分《アンリ》なら顔にも態度にも出るし、口が滑るおそれもある。
 彼らの判断は賢明だ。不満ではあるが。


 流石《さすが》に100年以上前の記憶はあやふやだが、当時、キャメリアは足繁《しげ》くこの城にやって来ていた。太陽の下であるにもかかわらず紅竜と共に屋外を走り回り、ヴァンパイアらしくないと称されていたように思う。
 そう、走っていたのだ。あの頃は。
 それが年を追うごとに走り回ることがなくなった。物腰が令嬢らしく落ち着いてきたと好意的に見る意見ばかりが聞こえたが、あれは体調を崩し始めたせいで、決して良い意味での変化ではなかったのかもしれない。
 そしてその変化が闇に接触したせいだったとしたら。

 自分《アンリ》が闇云々《うんぬん》のことを事前に聞かされていたら、彼らに何を言っただろう。
 黙っていたとしても、紅竜もキャメリアもきっと気付く。自分たちが闇を解き放ったことを周囲の大人たちが知っていると知れば警戒するだろうし、闇にも伝わってしまう。伝われば前当主の作戦も失敗に終わる。


「いいじゃありませんか。おかげで作戦は成功しましたし」
「けどよ」

 良かったのか?
 このせいでふたり分の命が失われた。
 第二夫人の死は闇とは直接影響していないと言う節もあるかもしれないが、そもそも魔界に来なければ契約の術を受けることもなかった。西の塔に閉じ籠ったきり外も自由に歩けない体で生を全うするよりも、聖女として、そして歌姫として自分が望んだ道を歩いたほうがずっと幸せだったろうに。
 前当主に関しては前にも思ったとおり、ひとりで全てを背負わずに打ち明けてくれれば、命までは落とさずに済んだかもしれない。
 それなのに、成功したというのか?

「自分の一族が起こした不祥事は自分の一族で償《つぐな》う。それが魔界貴族の考え方なのでしょう? 長く勤めていたとは言え、あなた《赤の他人》を巻き込んだりしませんよ」


 紅竜が封印を解いたことで起こった問題は全てメフィストフェレスで償う。命に代えて。
 少し前、グラウスたちに向かって「この家で起きたことはこの家で片を付ける」と言い放った自分《アンリ》を見るようだ。


「それを言うならお前だって核……の偽物を呑み込ませてるじゃねぇか。
 巻き込まれてるって言うか、自分から巻き込まれに行ってると言うか、何でお前が手伝ってるのに俺は手伝わせてもらえねぇんだよ。あ、脳筋だから教えられないって理由は聞き飽きてっ《る》からな」
「同胞《はらから》を守るための行動が、たまたま手伝っているように見えただけのことです」
「ああそうかよ」

 犀《さい》に素直さを期待したのが間違いだった。
 彼は本心を言わないのは今に限ったことではない。
 しかし。

「だけどよ、自分たちだけで何とかしようって思うのは良いことじゃねぇ。手を貸してくれる奴《やつ》がいるなら素直に借りたほうがいい結果を呼んでくれるもんだ」
「言うようになりましたねぇ」
「だからさ」

 茶化すような犀《さい》の口調に腹を立てることもなく、アンリは籠手《こて》をはめたままの手を服の腹部分で拭《ぬぐ》い、それから犀《さい》に向かって差し出した。

「今、ルチナリスが紅竜に捕まってる。エリックとポチ《グラウス》が先に向かってるだろうが、あいつらよりは俺らのほうが闇に関しても紅竜に関しても責任あるだろうし、」
「回りくどい言い方ですが、つまりは手を貸せと?」
「そうだよ!」

 戦力が多いに越したことはない。
 それに。

「そ、れにだな。俺とお前が組めば鬼に金棒っつーか、昔戦場を駆け巡ってた時みたいに、無敵! そう、無敵じゃねーか。俺の至らないところはお前が、お前の手に負えねぇところ……はそんなにないけどそっちは俺が、って、絶対に負けねぇと思わねぇ?
 全部片が付いたら青藍をサポートして、あ、紅竜が改心してくれりゃあいつでもいいんだけどよ、それでもう1回この家を建て直そう。
 俺たちならできる。っつーか、手を貸してくれ。頼む」


 嗚呼《ああ》。こんなシーン何処《どこ》かで見た。
 アンリは手を差し出し、頭を下げたまま考える。
 何処《どこ》か……そう、男女数十人を集めて自己紹介だの遊戯《ゲーム》大会だのをやって、それでイベントの最後に「付き合って下さい」的な告白を……いや、俺は告白をしているつもりはないけれど! 不純同性交遊が容認されている世界だからと言って全ての男が男に惚れるわけじゃないし、俺にそっちの気はないし、ああ、そう言うことを言ってるんじゃなくてぇ!


 犀《さい》は手を取らない。
 どんな顔をしているのか、まさか自分と同じような連想をして呆れているのだとしたらどうしよう。
 今更手を引っ込めることもできず、かと言って考えれば考えるほどこの状態は恥ずかしいことをしいるようで、だんだん顔が火照《ほて》ってくる。けれども手を引く切欠《きっかけ》は掴めない。
 沈黙が辛《つら》い。



 5分ほどはそうしていただろか。
 差し出されたままの手を眺めていた犀《さい》は、やがて、ひとつ鼻で笑うと、その掌《てのひら》を弾いた。
 パァン! といい音がした。

「そうですね。ひとりで背負うよりはいいかもしれません」

 アンリは思わず顔を上げる。
 もの凄く「いい顔」をした犀《さい》に「ああ、あと50年はこれをネタにからかわれること確定だ」なんて早まった気分になったものの、承諾してくれたことは確かで。
 
「それじゃ、」

 エリックとグラウスだけではアーデルハイム侯爵に太刀打ちできるか心配だ。柘榴《ざくろ》とアイリスを庇って動いているのだとすれば、早く合流したほうがいい。
 気もそぞろにアンリは扉に向かいかける。
 だが。

「ですが私はまだこの部屋ですることがあるので、先に行ってもらえますか?」

 犀《さい》は動かない。

「すること?」
「残務処理です。執事としてはこのままにしてはおけません」

 犀《さい》に倣《なら》って室内を見回せば、枯れた蔓が乱雑に散らばり、山になり、酷《ひど》い状態だ。
 だが掃除がしたいから先に行けという意味ではないだろう。何と言っても此処《ここ》にはつい先ほどまで闇がいた。捨て台詞《ゼリフ》を吐いて消えて行ったが、本当に消えたかどうかはわからないし、此処《ここ》で闇がどうやって生息していたのか、どうやって封印が解かれたのかなど、確認したいことは多いに違いない。
 そしてそれは頭脳担当である犀《さい》の得意分野。自分《アンリ》がいたところで役に立たないどころか邪魔にしかならないことも重々よくわかっている。


「あー……それじゃ、先行くけどよ。サボんじゃねーぞ」
「あなたじゃあるまいし」


 よかった。いつもの犀《さい》だ。
 アンリはニヤリと笑うと剣を鞘《さや》に戻し、

「あー!! お前まだいたのかよ!」
「だってぇ、ダァリンが心配でぇ♡」
「誰がダァリンだ、キショ《気色悪》いわ!!」

 逃げろと言ったはずなのに何時《いつ》の間にやら戻って来て扉の向こう側で様子を窺《うかが》っていたらしいガーゴイルに出くわし。よもや今の大告白大会を見てなかっただろうな、なんて一抹の不安とこみ上げる羞恥のやり場に困った挙句《あげく》……怒鳴りつけることで誤魔化しながら、部屋を後にする。




 声が遠ざかって行く。

「そろそろ、出て来たら如何《いかが》です?」
 
 犀《さい》がそう声をかけると、何もない場所の空気が渦を巻くようにして人の姿を形作った。風の精霊・ジルフェだ。
 半透明の長い髪と裾までのドレスはたおやかな女性を連想させるが、決して「たおやかな女性」などではない。

「珍しい。前にお会いしたのは坊ちゃんが魔王役に決まった頃ですから……10年ぶりでしょうか」
「ああ。魔界になど来たくはないが、力なき同胞《はらから》が傷付いていくのを放置しておくほど鬼畜ではないつもりだからな」

 ジルフェはアンリが立ち去った扉の向こうを暫《しばら》く見ていたが、それから、おもむろに犀《さい》に目を向ける。

「全ては当初の予定どおりなのだな。私があの少年に風の加護を与えたのも、お前が、自らの核を使って闇を浄化させたことも」

 不機嫌そうな顔をしているのは、自分の気まぐれすら予測されていたからか。それとも。

「……亡くしたと思った青藍がまだ使えそうだから、続ける気になったのか? あの女の頼みを」
「頼み?」
「忘れているのか? お前でも」

 犀《さい》は答えない。

 ジルフェは外に目を向けた。
 その先にある、視界には到底映りそうにない地に思いを馳せているようにも見える。

「昔、我々がエルフガーデンを離れていた間に金剛《ダイヤモンド》たちが狩られたことは知っているだろう。藍玉《サファイア》も、まだ小さかった蛍《蛍石》までもが核を奪われて、今生き残っている貴石は片手で足りてしまう。新たな貴石が生まれるのは数百年後か数千年後か……だから私はお前に魔族なんぞの下に付いていてほしくないわけだ。
 ……まぁ、お前が精霊の国《エルフガーデン》で茶葉を摘みながら牧歌的な生活をすることのほうが想像もできないのだが、それでも」

 言いながらジルフェは片手を口元に持って行き、ふっ、と吹いた。
 巻き上がった風が小さな竜巻となって四方に散らばる蔓の残骸を巻き上げ、集めて行く。


「私は此処《ここ》で掃除ばかりしているな」

 思えば10年前もそうだった。あの時は空気中に漂う香の匂いを掃き出したのだったか。
 ジルフェはそんなことを考えながらリズムよく指を振る。クルクルと踊りながら部屋の隅に残骸が集まっていく。

「お前は魔族に感化されすぎた。奴《やつ》らは仲間でも同胞《はらから》でもない。主《あるじ》でもない」

 魔族のことに精霊が口を出すことはないが、相手が同じ精霊なら構わないだろう。

「お前の人生だからどう生きようが私の知ったことではないが、もう少し考えろ。魔族のために死ぬほどつまらない人生はないぞ?」


 アンリにはああ言ったが、精製した石と核では効果が桁外れに違う。
 何十年、何百年と怨みを熟成させてきた闇を前に、いくら弱体化させたとは言え失敗させるわけにはいかなかったのもわかる。そのために主《あるじ》が命を賭《と》したのだからなおのこと。


「それでも此処《ここ》の前当主は多少は話がわかる奴《やつ》だったな。あとさっきの筋肉ダルマも。見ていて飽きない」


 そうして、あらかた掃き清められた室内を見回したジルフェは、改めて犀《さい》を見下ろし、息を吐いた。



「……嘘つきめ」

 犀《さい》は、答えない。