22-5 揃うことのない五重奏~Quintett~




 その頃。

「其処《そこ》から離れなさい、グラウス=カッツェ」

 鋭い声に、グラウスは緩慢に顔を上げた。何時《いつ》の間に部屋に入って来ていたのか、犀《さい》が立っている。竹藪の外周ギリギリのところにいるのは、踏み込まないように意識した結果だろう。
 離れろということは、これはやはりただの竹ではないのだろうか。
 何もかも考えることを放棄してしまった頭の中で、僅《わず》かにそんな考えが首をもたげる。

 だとすると、

 少しずつ。少しずつ。考えれば最悪の事態をどうしても思わずにはいられなくて、それで考えないようにしていたのに、生来《しょうらい》の性分はあらゆる想定を引っ張り出して並べ始める。
 犀《さい》は竹藪には1歩も踏み込んでは来ない。口調の厳しさからして一刻の猶予も辞さない、そんな意思が見て取れたにも関わらず、入って来て実力行使に及ぼうとはしない。

 踏み込めば毒なのか?
 否《いな》。もう長い時間此処《ここ》にいる自分は何処《どこ》にも変調を感じない。

 神聖な場所なのか?
 否《いな》。この部屋には鍵も結界もかけられてはいなかった。

 ならば?


 動かないグラウスを犀《さい》は黙ったまま待っている。黙っているが、「何度も言わせるな」と目が言っている。組んだ腕の上で、人差し指がトントンと同じリズムを刻み続けている。

「退《ど》きなさい」

 譲歩してやっている、とばかりに犀《さい》は繰り返す。
 今度は聞こえただろう? と……この男は何を考えているのかわからないところがあったが、今はその感情が手に取るようにわかる。苛立っている。
 しかし無理にでも退《ど》かせようと思っているのなら、それこそ口で済ませるはずがない。役職は執事長だが、かつてはアンリと共に戦場に立っていたと聞いたし、ノイシュタインで彼が投げつけてきた鉱石の刃――あれが彼の武器なのだろう――を前にして、自分は全く歯が立たなかった。
 自分《グラウス》の氷に似た、しかし溶けることのない鉱石。命中率や殺傷力を取ってみても、自分《グラウス》の能力を軽く凌駕する。それは彼自身もわかっているはずだ。だが、彼は攻撃してこない。

 怪我をさせたくないから、とは思わない。あれだけ情け容赦のない攻撃をしておいて今更そんなことを言っても、説得力はまるでない。
 いくら命中率が良いとは言え、人型に投げるのが不可能だからだろうか。多少は周囲にも――周囲の竹にも――当たることを懸念しているのだろうか。
 竹藪に踏み込めないことと言い、犀《さい》が竹を傷つけたくないと思っているであろうことはまず確定だろう。犬、犬と蔑《さげす》まれてきたけれど、此処《ここ》までわかりやすい反応をしてくれれば本当の犬でもわかる。

 となれば、やはりこれはただの竹ではない。外れていてほしいと心底願っている予想は、きっと……外れてなどない。



 何故《なぜ》こんな姿に変わってしまったのか、犀《さい》は知っているのだろうか。元に戻す方法は……いや、わかっているのなら、とうの昔に処置している。アンリが言う「青藍を魔界に連れ戻す理由」が犀《さい》の行動と繋《つな》がっているのなら尚更だ。
 しかし、もし違うのであれば。
 フロストドラゴンや魔剣士のように魔力だけを欲するのなら、見た目がどうなろうと関係ない。むしろ動けないほうが好都合。そう考えると、こんな姿にしてしまったのは犀《さい》自身ではないのか? なんてことまで思う。

 2度と逃げ出すことができないように。
 抵抗することもできないように。

 フロストドラゴンは食べる《体内に取り込む》ことで青藍の魔力手に入れようとしたし、自分《グラウス》がドラゴンの力を宿せるようになったのも同じ方法による。剣に吸い取らせようとした魔剣士の方法もそれに準拠《じゅんきょ》する。
 それから考えれば、魔力を吸収させる媒体の存在、もしくは魔力を与えたいものの体内に青藍を取り込ませれば目的は叶う。人の身ならば刻むにも罪悪感が伴《ともな》うが、痛がることもなく、また手折《たお》った端から伸びる植物なら、そんな感情も湧かない。
 小刻みに刻んで、泥から作り上げたゴーレムにでもその魔力を封じ込めれば、簡単に青藍の廉価版ができる。刻んだ分だけ魔力は弱いかもしれないが、元々規格外の魔力。破片程度でも平均的な力《パワー》を出す可能性は決して薄くない。


「早く出なさい」

 そんな犀《さい》の声に反応したように、グラウスの背後で何かが裂ける音がした。今まで気まぐれに明滅を繰り返していた光も強まった気がして振り返れば、先ほどまでぼんやりと光っていた節が折れている。折れた節があった場所に、いかにも「光の出所はこれだ」と言わんばかりに光の玉が浮かんでいる。
 強く感じたのは、覆っていたもの《竹》がなくなったからだろう。

 お伽話《とぎばなし》に似たようなシチュエーションが存在するが、あの話では勝手に折れたわけではなく爺さんが叩き切っていた。光の玉ではなく、赤子だった。まぁ、これはあの話を踏襲《とうしゅう》しているのではないのだから、多少の誤差は気にしなくてもいいのだろう。むしろ青藍が赤子で生まれて来たほうがいろいろと(倫理的な問題で)困る。

 この光は赤子の代わり。
 ということは生きているのだろうか。
 思わず宙に浮かんでいた光の玉に手を伸ばすと、

「触るんじゃありません!」

 すかさず、制止の声が響いた。




 触れれば壊れてしまうのだろうか。
 それとも汚れてしまうのだろうか。

 祖母が昔から「魂が見える」などと言っていたのは、もしかしたらコレが見えていたのかもしれない。青藍に向かって光だと、その光のおかげで孫である自分《グラウス》の姿も見ることができるのだと、そう言ったらしい。
 あれはこの身から青藍が闇を抜き取ったより以前のことだから、当時の自分は闇を宿していたと言える。そればかりか父や弟も闇に染まりつつあった。祖母が「見えない」と言っていたのは、光のない盲《めし》いた世界では闇に染まった魂が見えないと、そういうことだったのかもしれない。

 祖母は青藍の魂を汚れていないと称したらしいが、コレが魂ならまさにその通りだ。それに対して青藍が汚れていると返した意図が気になるが、多分、謙遜《けんそん》だろう。
 「そうですとも! 私の魂は光り輝いているのです! お目が高い!」なんて言いそうな何処《どこ》ぞの白鎧の勇者とは違うのだ。私の青藍様は。
 誰も聞いてやしないのに心の中でこっそりとマウントを取るグラウスを微笑《わら》うように、光の玉はゆらゆらと揺れる。揺れて、元々あった場所から転がり落ちる。浮いているわけだから落ちると言うよりも緩《ゆる》やかに漂いながら下方に向かっている、という表現のほうがしっくりくるが、何にせよ地べたに落ちるまで見ているわけにもいかない。それこそ汚れてしまう。

 ……どうせ竹藪の中に入って来られないのなら、いくら吠えようが関係ない。

 犀《さい》の声を無視してグラウスは再び手を差し出した。
 
 温かい。
 それ自体か細い弱々しい光でしかないのに、触れた掌《てのひら》は確かに温かみを感じる。陽だまりにいる時のような、いや、もっと何か……そう。小動物を抱えている時のような。
 この温もりを私は知っている。だから。

「それをこちらへ渡しなさい」

 渡せない。
 グラウスは光を両手で包み、横目で犀《さい》を見据えた。
 これは渡せない。これは――。
 渡さないことの意思表示のようにその光を胸に抱え込めば、当然のことながら発狂にも似た怒声が飛んでくる。あの犀《さい》がここまで冷静さを欠くのなら、もう間違いようがない。
 何故《なぜ》こんなことになってしまったかは知らないが、ひとから取り上げておいてこんな結果にしかできなかった連中にこの人を有する権利などない。誰が何と言おうとも、私は認めない。

「渡しなさい!」
「断る!」


『――俺が消える時は傍《そば》にいてくれる?』


 声が聞こえる。
 遥かな昔に思えてその実、まだ1年も経《た》っていないあの日の誓いを、私は決して違《たが》えたりはしない。

「……いますとも。ずっと」

 もう2度と、この人は誰にも渡さない。
 どんな姿になろうとも、2度と、誰にも。
 


 呟いたその声が聞こえたのだろうか。
 光はふいに明滅を繰り返し、そのまま溶けるように胸に吸い込まれていった。

「……え?」

 今まで確かに其処《そこ》にあったものがない。渡り廊下崩落の際に抱きかかえたはずなのに、気が付いた時には消えていたあの喪失感に似た――しかし決定的に違うのは自分の胸の中に今までにはなかった温もりが入り込んでいる、と感じていることだろうか。
 闇を引っ張り出された後からずっと感じていた空虚《くうきょ》。
 本当に半身を、魂を抜き取ってしまったのかとすら思う「胸にぽっかりと穴があいた感じ」のその穴が、今まさに埋められたような。足りなかった1片のパズルピースをやっと見つけてはめ込んだような。

 そして、それと同時に異変も起きた。
 周囲を覆っていた竹藪が崩れ始めたのだ。黒々と茂っていた竹の1本1本が光の粒となって消えていく。
 音もなく、ほろほろと崩れていく。
 それはやがて、あたりが白くなるほどの光と化し。次の瞬間には、竹藪があったという痕跡すら残ってはいなかった。



「何をするんです!」

 竹がなくなったからだろうか。慌てたように駆け寄ってきた犀《さい》は、グラウスの両腕を掴むと左右に広げた。しかし、抱え込んでいた光の玉は既《すで》にない。

「どうして他人の体に!? そんなことは……!」

 ああ。
 やっぱりあれは青藍だったのか。
 焦る犀《さい》を前に、グラウスはと言えばこみあげて来る笑いを止めることができずにいる。顔にも出ているだろう。犀《さい》が喚《わめ》いている。
 が、耳には届かない。
 聞こえるのは、ただ、あのメロディ。月の下で青藍が歌っていた、あの……。



 その歌が止む頃になってやっと犀《さい》の声が聞こえて来た。

「――戻るのなら本来の体に戻るべきでしょうに。何故《なぜ》こんなことに」

 聞こえなかった今までからの文脈が不明だが、犀《さい》の状態からして重要なことは言っていないだろう。ただブツブツと呟いている。
 その呟きからしても、やはりアレは青藍の魂と呼べるものだったようだ。そんなものが本当にあるとは未《いま》だに信じられないが、実際に目で見て手で触れた後では何とも言えない。魂かもしれないし、別の何かかもしれない。ただ、魂に近いもの、似たもの、ということは間違いない。


 察するに、魔界に連れて来たものの何かのはずみで体から魂(と一時的に称する)が抜けてしまった、というあたりだろうか。
 魂が抜けるということは死と同義。魔族は死ねば灰となって跡形もなく消えるのだが、魂に似たものだからそうはならなかったのか、彼《青藍》は混血だから通説通りにはいかなかったのか、そのどちらかだろう。第二夫人のように粉々にならなくてよかったと思う反面、その体が今どうなっているのかも気になる。
 「何故《なぜ》他人の体に!?」という言葉からして、元の体はまだある。存在していなければ、他人の体だろうが竹だろうが、それこそ命すらない鉱石などに入り込んだところでそんな台詞《セリフ》は出て来ない。


「体は無事なんですか?」

 もしそうなら、先ほどの光の玉を戻せば青藍は生き返る。
 しかし取り出し方も戻し方もわからない。
 あの動転具合からして犀《さい》も戻し方を知らないに違いない。知っていれば竹藪のまま放置などしないでさっさと取り出しているはずだ。
 ただ紅竜は……青藍の魔力だけを必要として連れ戻したのであれば、前述したように人の身よりも植物などのほうが物理的にも精神的にも都合がいい。だとすると彼《紅竜》だけは魂を戻す方法を知っていて黙っている可能性がある。

「体は無事な、」
「あなたに教えることではありません!」

 余程焦《あせ》っているのだろう。「魂を返せば考えてあげますよ」などと取引を持ち出してきそうなこの男が、ただ否定するばかりで駆け引きをしてこない。それどころか、

「返しなさい!」

 の一点張り。
 冷静さを欠くばかり、思考が止まっているようだ。
 今なら倒せる気がするが……理由はともあれ青藍を案じるこの男を倒す必要があるのだろうか。彼ほどの男が紅竜に妄信しているとは思えないから、上手くいけば寝返ってくれるのではないだろうか。なんて思う。
 あれだけ痛めつけられておいてそんな温《ぬる》いことを考えるのは、きっと脳にルチナリスが伝染《うつ》ったに違いない。嘆《なげ》かわしい。


 だが、それはともかく。


「返せません」

 どうやって魂を抜けと? 嫌味っぽい疑問を浮かべつつ、グラウスは先ほど少し思ったことを再度思い返す。青藍が己《おのれ》の中から闇を引き抜いた時のことを。

 あの日、半身と称して彼は自分から闇を抜いた。
 あれはただの闇ではなく、闇に染まった自分の魂だったのではないだろうか。
 自分の魂の黒く染まった分を彼は抜き取った。その空いたところに、今度は彼の魂が入り込んでしまったのではないだろうか。「胸にぽっかりあいた穴を埋めるように」は比喩などではなく、本当に埋まってしまったのではないだろうか。

 まるで……そう。まるで契約の呪文のように。
 成功すれば魔族の長命を与えるかわりに、失敗すれば即、死に繋《つな》がるあの呪文は、言い換えれば人間の魂を削り取って、其処《そこ》に魔族の命を吹き込むこと。成功すれば新たな命と融合するが、失敗すれば魂は削られたまま終わる。
 あの日、青藍は私の魂を削り、今、彼の《新たな》魂を与えてくれた。


「返せません」

 だとすれば彼の魂は既《すで》に、私の一部。
 私の、魂になってしまったのだから。




 一方その頃、離れ某所。
 目の前であっさりとルチナリスを連れ去られた男ふたりは、今しがた自分たちに起きたことが信じられない、といった様子で呆然としていた。
 いきなり紅竜《ラスボス》が現れたかと思う間もなく、一方的に痛めつけられ、為《な》す術《すべ》なく逃してしまった。そればかりか人質を取られた。最悪の展開じゃないか。


「ど、どどど、どうしよう師匠っ! ルチナリスさん連れて行かれちゃったよ!!」
「あー……そうだな……」

 自分《アンリ》の腕を掴んで力任せに揺さぶる弟子《エリック》はいつもと変わらないように見える。しかし先ほどの――ルチナリスが連れて行かれる前、先行した彼《エリック》と再会した以降の彼は、どう見ても正気ではなかった。

 正気ではない。
 そう思う一方で、「もしかするとあのほうが正気だったのかもしれない」ともうひとりの自分が呟く。
 彼は自分《アンリ》やグラウス、そして青藍が魔族だと知っても態度を豹変させることなく、ずっと仲間として其処《そこ》にいた。「相手を知ってしまった今、悪魔だからと言って嫌うことなどできない」と言っていたし、敵だ、騙していたのか、と責められなかったのは正直有難《ありがた》かった。
 しかしその態度は住んでいた村を焼かれ、知り合いを人間狩りで失った人間が取るものではない。勇者と呼ばれる者の言動でもない。
 自分の手柄でもないのに行く先々で尊敬を集め、恩恵を受けられるのはその肩書きのおかげだし、冒険者組合で請《う》け負う依頼も悪魔討伐に関するもののほうが報酬がいい。そうして、何時《いつ》しか悪魔への怨《うら》みや大義名分より、今の厚遇を享受し続けるために悪魔を倒し続けることへと目的が変わっていく。それが勇者だ。

 自分たちの目的である青藍は報酬の最高ランク「魔王」に位置する。強制的に辞めさせられたような形になってはいるが、後任が決まっていない以上、今の魔王は青藍のままだ。
 退任の影響を受けて今の人間界に「悪魔の城」と「魔王」の依頼は消えている。だが連れ戻してその椅子に据《す》えれば、再びマスターランク依頼として現れる率は高い。
 たとえ知り合い《ルチナリス》が慕っている相手だとしても、彼《エリック》にとっては最高の栄誉を受けられる獲物。ぼんやりとした勇者らしからぬ顔立ちと体形、そしてオタク気質のおかげで誰もが彼を「戦力は期待できない」「むしろ戦いには向かない」と思っているが、本当にそうだろうか。自分たちを油断させるための演技ということはないのだろうか。
 自分たちもまた彼《エリック》を知り過ぎた。戦うにしても情が入ってしまう。自分《アンリ》もグラウスも、きっと青藍も。そこまで計算に入れていたとしたら?
 彼《エリック》の別の一面を見た以降、そんな考えが消しても消しても、消えることがない。


 エリックに揺さぶられるまま、アンリは自身の腕を見る。
 蔓の刃によって新たな傷が無数に付いている。鎧と衣服に覆われていたにもかかわらず。血が滲《にじ》む程度の細かい切り傷ではあるけれど、全身ともなれば、一箇所の深手に相当する。


10年以上前、青藍を連れ出そうとして失敗に終わったあの日も大敗を喫《きっ》した。
 紅竜が主属性である水魔法しか使うことができなかったのなら、むざむざ青藍を奪われることはなかった、とは言わない。むしろ当時も今も同じ闇で来ているのに、同じように同じ相手に大敗したなんて、武人としてはあり得ないこと。今日のこの日を見越して鍛《きた》えていたつもりだったが、身を潜め、一民間人として暮らしているうちに腕も考え方も鈍《にぶ》る一方でしかなかったようだ。

 紅竜自身がまだまだ成長の途《と》にあるからなのか、闇の力が強まっているのか。何にせよ、体力も持久力も下降線を辿《たど》るばかりの自分とは違う。
 魔剣や聖剣のような特殊武器に頼るのは自分が弱いと認めているようで嫌だったが、プライドなどかなぐり捨てて補《おぎな》える戦力は補《おぎな》っておくべきだったのかもしれない。


「師匠! 突っ立ってたって何も起きないよ!」

 エリックの焦る態度とは裏腹に、アンリの心は冷めていく。

 このエリックは信用できるのか?
 急いだほうがいいことくらいわかってはいるが、無闇に突っ込むのは無謀なだけだ。以前、そう言ってグラウスを止め、そのせいで彼が青藍に会う機会を奪ってしまったが、だからと言って今回は脳筋の示すままに突っ走ろう、とは思わない。
 このまま紅竜を追って行ったところで、3度目の負けを喫《きっ》するだけ。
 それよりも何故《なぜ》連れて行った?
 何処《どこ》へ連れて行った?
 彼女のことを聖女と呼んだが「聖女の力」が目的だろうか。魔族が聖女の力など何に使うのか。第二夫人と青藍のように、コレクション目的で子を生《な》そうと考えているわけはないと思うが、ならばやはり自分と魔界に仇《あだ》なす「聖女」をこの世から抹殺するためか。

「わからねぇ……」
「だー! もー!! わからないならとりあえず上!!」

 口をついて出た独り言を掬《すく》い上げるようにしてエリックが叫ぶ。
 先ほどからずっと耳元で叫び続かれている影響だろうか。思わずアンリの声も音量が上がる。

「何で上なんだよ!」
「偉い人っていうのは上が好きなんでしょ!? なら、上にいるに決まってるじゃない!」

 言いながら元来た廊下を戻って行くエリックの背を見送りつつも、アンリの足はまだ動こうとはしない。

 上。
 そう言えばルチナリスを連れて行く少し前、紅竜は上のほうを見なかっただろうか。そして「役に立った」と。
 少し前、ルチナリスは紅竜はこの階《フロア》にいると言ったが、此処《ここ》に現れ、ルチナリスを連れ去った以降も同じ場所に戻るとは限らない。

 上に行けば何かがある。少なくとも紅竜が待ち望んでいた結果のひとつが出たであろうことは間違いない。
 連れて行かれたルチナリスがいればそれに超したことはないし、紅竜がいなければもっといいが、そこまで望むのは贅沢だろう。
 
 上。
 またさっきの部屋に戻ることになるのか? 追いかけると言ったくせに全然来ないグラウスの様子も見に行けるしちょうどいい、とポジティブに考えたいところだが、折角《せっかく》此処《ここ》まで下りて来たのに、との思いもよぎる。

「ほらぁ、師匠!!!!」
「わかったから少し黙れ!」

 此処《ここ》に来て真意が掴めなくなった弟子《エリック》と同行して敵陣に向かうのは気が進まないが、ルチナリスを見捨てるわけにもいくまい。それに自分《アンリ》のことを|敵《悪魔》と認識していたとしても、彼女を救い出すまでは貴重な戦力。後ろから刺す真似はしないだろう。と言うか、今のままなら自分のほうが後ろにいるわけだけれども。
 そう自分自身に言い聞かせ、重い腰を上げかけた時。
 反対側の廊下から灰色のウサギが何かを引き摺《ず》りながらやってくるのが見えた。


 こいつ、何処《どこ》かで見た。
 ウサギに知り合いなどいないつもりだったが……。


 無言で凝視しているとウサギのほうも人がいることに気付いたらしい。ギョッとしたように立ち止まると、引っ張っていた何かを床に下ろし、パタパタと両手を上げ下げする。

 何かの宗教だろうか。ウサギ教? ウサギの神に祈っているとでも? 
 動揺しているのだと思いたいが、動きが意味深すぎて新たな展開を期待したくなる。

「ああ!! 柘榴《ざくろ》さん!」

 ツッコミどころを決めかねて悩んでいると、エリックが、大声で指さした。先に行ったと思っていたが、何時《いつ》まで経《た》ってもついてこないアンリに業《ごう》を煮やして戻って来たのだろう。ついでに怪しいウサギの素性も教えてくれたのは好都合。
 が、しかし。
 柘榴《ざくろ》、とは? 聞き覚えのある名前なのだが。それもつい最近。24時間以内、12時間以内……いや、1時間以内に…………………………………………あぁ、そうだ。ルチナリスが水路で拾ったウサギか。ただのウサギだったら後で焼肉にでもしようと思っていたのに。


 そんな物騒な考えをアンリがしているとは露知らず、柘榴《ざくろ》と呼ばれたウサギはエリックに目をやる。そして同じように指さ(……すには指が短いので獣の前足を丸ごと突き出)す。

「あ! 勇者ロボの人!!」



 アンリは傍《かたわ》らの弟子を見下ろした。
 今日はこの弟子の知らない一面をよく見せられる日だと思ったが……


 ……何だ? 勇者「ロボ」って。




 しかしほっとした顔をしたのもつかの間、柘榴《ざくろ》は警戒するように飛び退《の》いた。先ほどまで引き摺《ず》っていた黒い塊を庇《かば》うようにその前に立ち、仁王立ちで自分《アンリ》たちを見上げている。
 喋るのも二本足で立つのも普通のウサギにできる芸当ではないから、これはやはり獣化した魔族なのだろう。気を失っている間に毛をむしって焼かなくてよかった。ではなくて。

 柘榴《ざくろ》だとすれば全くの初対面というわけではない。エリックも顔見知りのようだし、自分《アンリ》も母屋の廊下で彼《柘榴》を拾った時に会っている。その時の会話はほとんどグラウスがしていたけれど自分《アンリ》だって視界には入っていたはずだ。見忘れるほど過去のことではないし、第一、落ちているのを先に見つけたのは俺だぞ? と、ちょっとばかり心に傷を負った感想を抱……いている暇などなかった。

「それアイリス様じゃないの!? 生きてる!? じゃなかった、怪我でもしてる!?」

 アンリを突き飛ばす勢いでエリックは柘榴《ざくろ》に、いや、柘榴《ざくろ》の背後に転がっている黒い塊に駆け寄り、それを抱き起こす。
 淡い金髪を高い位置で結い上げている様《さま》は自分たちの前に現れたアイリスとは違う。髪を結う余裕があったと言うことは、ミルに勝ったのだろうか。「先に行け」という彼女《ミル》を都合よく過信して置いて来たのが間違いだった、と、今更悔やんでも遅いけれど|居《い》たたまれない。
 アンリは母屋があるであろう方角にちらりと目を向け、そして片膝をついてアイリスを抱きかかえているエリックの背後に歩み寄った。

 ずっと名を呼び続けている。
 そんなに必死になるほどの仲だったか? と疑いたくなるほどだ。これが柘榴《ざくろ》ならアイリスのことも幼少期から知っているだろうし付き合いも長いから何とも思わないのだが、エリックでは不自然さしか感じない。

 何故《なぜ》案じる?
 闇に呑まれていたとは言え、アイリスは己《エリック》とルチナリスを投げ飛ばした相手だ。ミルがどうなったか……ミルにどう「したか」もわからない。
 ミルの生死が推測のとおりだったのなら、彼女が戻って来ないのはアイリスのせいだとは言えない。しかしアイリスの闇を祓《はら》って消滅したのか、祓《はら》う前に倒されたのか。どちらにせよ、「先に行け」と自分たちを送り出した彼女《ミル》は、未《いま》だ現れないわけで、だからこそ最も非情な結果を彼女《ミル》に与えたのではないかという想像を払い除《の》けることができない。
 そしてエリックも。
 自分《アンリ》に魔族だから、と剣を向けたこの男が、黒い蔓と同化して攻撃して来たアイリスを案じるのは何故《なぜ》だ? 柘榴《ざくろ》のことを知っているのなら彼女《アイリス》が魔族だということも当然知っている。そればかりか直接、攻撃を受けている。
 アイリスは倒さないのか? それとも倒す機会を狙って抱き上げたのか? 意識がないことを確かめるためか、確実に心臓を一突きにするためか、何にせよ0《ゼロ》距離のほうが確実に致命傷は与えられるけれど。

 ああ、でも今はそれよりも。
 1時間もしない間に何度も頭に浮かべることになった問いが、再度、アンリの頭の中で芽を出した。

 この柘榴《ざくろ》は本物か?
 柘榴《ざくろ》はアイリスとの戦闘から逃走する際、行方知れずになって《置いて来て》しまった。エリックが拾いに向かったものの、しかしその後で現れたエリックは彼《柘榴》を連れてはいなかった。
 それから考えれば柘榴《ざくろ》は母屋の、アイリスが現れた廊下付近にいるはず。逃げるとしても何処《どこ》も彼処《かしこ》も黒い蔓で覆われている屋内よりは外を目指すだろう。此処《離れ》に来る必要はない。

 もし偽物だったとしたら、グラウスやエリック以上に面識の薄い自分では柘榴《ざくろ》が本物か否《いな》か判断することなどできそうにない。できそうにないから、エリックが柘榴《ざくろ》と認めた言動をする以上、本物だと信じるしかない。でもそのエリックが本物だという証拠もないわけで……。

「……お嬢は、いや、キャメリア様はどうなった」

 なので、別の問いを投げかける。
 答えられればあの場にいたことになるから、本物だという証拠のひとつになる。

「キャメリア様、は」

 柘榴《ざくろ》は仁王立ちのまま、声を詰まらせた。
 小さすぎて握っているように見えない両の拳《こぶし》が震えている。




「――何をしている」

 その頃。
 犀《さい》と対峙《たいじ》していたグラウスの背後でいきなり声がした。それと同時に背中に鋭い痛みが走った。
 何が起きたのかわからなかった。ただ、視界に紅《あか》が弧を描くように飛び散るのが見えて。その色は真向いにいる犀《さい》の姿が一瞬見えなくなるくらいに鮮烈で。
 誰だ? あの紅は何だ? と、視線を動かして、そこで初めてグラウスは自分の胸から剣の切っ先が生えていることに気がついた。
 それと同時に視界に入って来た豪奢《ごうしゃ》な金髪。
 見下してくる紅の瞳。

「私はネズミと遊べと指示した覚えはないぞ、犀《さい》」

 
 ネズミとは何だ? なんて野暮な問いは馬鹿にされるだけだろう。ネズミ=侵入者=自分たち以外にない。
 黒い蔓と紅竜の因果関係の有無など今更議論するまでもないが、どんな手段であれ彼《紅竜》が自分たちの動向を知っているのは事実。だから何度も追手を差し向けられ、待ち構えられていたのだ。
 兵士や操られた客人からアイリス、そして犀《さい》。敵は確実にランクアップしている。この分なら次回あたりでラスボスと当たるだろうと思っていたが、まさかラスボスから出向いて来るとは。


 胸を刺されていながら、痛みは感じない。だからこんなに冷静に洞察できるのだろう。
 グラウスは胸から生えた剣の切っ先に目を向ける。刺された箇所は痛まないが、刀身を掴んで引き抜くのも押し戻すのも無理そうだ。
 が、それなら何故《なぜ》刺した?
 もしかして痛みがないのは先ほどの光の玉を吸い込んでしまったせいなのだろうか。剣が刺し貫いているのは自分《グラウス》の命ではなくて、あの光の玉――青藍の魂――のほうで。今まさに彼《青藍》のほうが刺されて死にかけている、なんてことだったりは……!


 紅竜は足下《あしもと》に座り込んでいるグラウスになど目もくれず、犀《さい》に向き合う。まるで今しがたグラウスを刺したことすら忘れているようにも見える。

「話は聞かせてもらった。こいつの中に青藍の魂が入り込んでいるのなら引っ張り出せばいい。こうやって!」

 言い放つなり、切っ先がズルリ、と抜けた。
 堅い異物が体を抜けていく。と同時に、内臓のような……体内にある「何か」が刀身に刺さったまま一緒に引っ張り出されるような感触。
 そして、抜けた途端、体が冷たく、視界が暗くなった。今の今まで痛みも何もなかったのに。
 体が動かない。上体を起こしていることすらできなくなって、グラウスはそのまま倒れ込んだ。

 暗い視界の中で金髪の男が紅く染まった剣を握って見下ろしている。握った剣の柄の部分から火花が散っている。パチパチ、と小さく雷のように弾けては、柄の部分に埋め込まれた石に吸い込まれていく。


「グラウス様!」

 女の声がする。
 あの声はルチナリスだろうか。でも、何故《なぜ》。何処《どこ》に。


「何をなさいます、紅竜様」

 犀《さい》の声も聞こえる。声色に動揺を感じる。
 此処《ここ》に紅流が現れることが予想外だったのか、それとも自分《グラウス》を刺したことか。ルチナリスの声がしたけれど、彼女を連れて来たことか。

「何って、お前こそ今まで何をしていた。まぁ、此処《ここ》にいることで大方《おおかた》の推測はつくがな」

 そんな様々な含みを滲《にじ》ませた声に対し、紅竜の声からは嘲笑《ちょうしょう》しか感じない。

「青藍がこうなったのも私のせいだと、胸の内ではそう思っているのだろう?」
「何を疑っておいでかは存じませんが、私は」
「……私に従う以外に道はない」


 何の話をしているのか。犀《さい》は味方なのか? 紅竜に従うしかないというのは、彼《紅竜》に従属しているからという意味なのか、肉体的、精神的に縛られているものがあるのか。
 そしてルチナリス。紅竜と共にいると言う時点で捕まったと考えるのが妥当だろうが、何のために。
 聖女であることが理由ならその場で殺してしまうはずだ。
 人質にするつもりなら真正面から見せつけるはずだ。
 あと、あと……は。


 胸が冷たい。
 埋まったはずの穴がまたぽっかりと開いている。あの光の玉が塞いでくれた穴が。それは。

「せ、」

 また、連れて行かれた。
 もう2度と離すことなどできないと思っていたのに。犀《さい》ですらその方法を知っているようには見えなかったのに。こんな、簡単に。

 グラウスは手を伸ばす。
 その先に立っていた人影は、無言のまま踵《きびす》を返し、歩き去っていく。



『――待って』

 かつて、同じように手を伸ばした。
 遠ざかって行く人の背で、ひとつに結った髪が流れるのが見えた。



「……い、藍、様……」

 声を出す度に隙間風のような音が漏れる。視界がザラザラと砂に覆われるように消えていく。人影も自分の手も。
 そして。

 グラウスの視界は、闇に閉ざされた。




 それから何処《どこ》をどう進んだのかわからない。
 片腕で首を締められたまま引き摺《ず》られ……歩いていないのに、周囲の景色が次々に変わっていく。瞬間移動というのはまさにこんな感じなのだろう。
 同じ魔族でも義兄《あに》や執事《グラウス》がそんな能力を使ったことはなかった。師匠《アンリ》もアイリスも柘榴《ざくろ》もだ。こんな便利な力があるのならもっと早くに使ってよ、と思いたい場面はいくらでもあった。
 と言うことはこれは紅竜ひとりに備わっている能力なのかもしれない。闇が関わっているのかは知らないが、力の違い《格の差》を感じる。
 
 そんな折、突然、ルチナリスは投げ出された。
 急なことで受け身も取れず、硬い石床で顎《あご》と胸を打つ。ゲホゲホと咳き込んでいると髪を掴《つか》まれ、引っ張り上げられた。そこへ両手首と足首に蔓が絡みつき、後方に引っ張られる。後頭部と背を壁に打ち付けられ、声にならない声が漏れかけたが、首に巻き付いた蔓がそれを許さない。そんな蔓による連携によって、ルチナリスは為《な》す術《すべ》もなく、あっという間に壁に貼り付けられてしまった。

 磔《はりつけ》状態にされたせいで室内がよく見える。いや、「よく」とは言えないかもしれない。
 床も天井も黒い蔓で覆われている。
 秘密の通路を通った先など「黒い蔓に覆われた部屋」を見たのはこれが初めてではないが、その中でも群を抜いて蔓率の高い部屋だ。扉も窓も見えない。言い換えれば逃げ出せる場所が何処《どこ》にもない。
 無駄だとわかってはいるがルチナリスは手首を動かす。動かした分だけ絞まった気がして、周囲を見回しかけた首を慌てて止めた。


「な、んのつもりよ」

 そんな彼女を冷ややかに見据えているのは豪奢《ごうしゃ》な金髪の男。ルチナリスを此処《ここ》まで連れて来た男だ。
 窓を覆う蔓の、針の穴程度の隙間から漏れる弱々しい月明かりでさえこの男を輝かせるには十分で、それが余計に腹立たしい。

 これが紅竜。ルチナリスは歯噛みした。
 義兄《あに》の口から語られた「兄像」からは尊敬や思慕のようなものを感じていた。執事《グラウス》が口にする「紅竜像」とそれはあまりにもかけ離れていて、執事《グラウス》のほうが嫉妬による色眼鏡越しに見ているのではないか、とすら思ったほどだ。
 この城に来てから受けた仕打ちの数々も「闇に呑まれたから」攻撃的になっているだけだと思いたかった。義兄《あに》の想いを尊重したかった。だが本人を前にして、やはり執事《グラウス》のほうが正しかったのか? という思いが今更ながらに浮かんでくる。

 彼は義兄《あに》の実兄。現メフィストフェレス当主。そして今や魔界を牛耳っていると言っても過言ではない男。金も権力も人目を引く外見もあって、さらには年若い嫁までいる。これで闇堕ちするなんて何が不満だ、と言いたいが……。
 メグの闇は誰よりも特別な存在でいたいことを望む気持ちから。
 執事《グラウス》の闇は義兄《あに》を(あたし《ルチナリス》を含む)他人に取られたくないと思ったことから。
 アイリスの闇は本来姉が背負うはずだった重圧を背負わされ、自由を奪われた怨みから。
 それから考えれば貴族の嫡男《ちゃくなん》という紅竜の立場では重圧も並大抵のものではないだろうし、それに加えて桁《けた》外れの魔力を持った弟のせいで何かと比べられるとなれば闇堕ちしたくなる気持ちもわからなくはない。

 自分《ルチナリス》が度々《たびたび》考え込むと出て来るもうひとりの自分、あれは自分の抱えている闇だと思っていた。暗い、負の感情のことを指すのだと思っていた。だから自分の心の持ちようで御せるものだと思っていたし、実際、それで折り合いをつけたこともある。
 が、対峙《たいじ》してみると彼《紅竜》の闇はあまりにも深く、暗い。


 紅竜はルチナリスを見下ろしたまま呟く。

「キャメリアが言っていた。後は貴様と青藍に任せる、と。……どういう意味だ?」
「そんなこと、あたしが知ってるわけないでしょ!!」

 まるで刑を宣告する時の声色のようだ。目をそむけたくなるような敵意を前に委縮したくなるのを堪《こら》えて、ルチナリスは声を上げる。黙り込んだら最後、もう何も言えなくなる。

 そう言えば秘密の通路を通った先で何時《いつ》の間にかすり替わっていた紅竜は、ミルがあたし《ルチナリス》を何処《どこ》へ連れて行こうとしていたのかと聞いて来た。
 彼女が自分たちに何を任せるつもりだったのかはわからない。そんな思惑を抱いていたことすら知らない。が、逆に言えば、義兄《あに》とあたし《ルチナリス》のふたりの力が必要なことをさせようとしていた、と考えればいい。
 義兄《あに》はあのとおり魔力も戦闘力も魔王級だから何をさせても期待を裏切らない成果を出してくれるだろうが、問題はヘッポコなあたしだ。
 ミルは魔界へ行くという話を聞いて、ロンダヴェルグから付いて来た。メイシア《大地の精霊》の加護を授かったのは道中でのことだから、それが「あたしを魔界に連れて行って何かさせる」理由になったとは思えない。
 理由になるとすれば、やはり聖女の力だろう。執事《グラウス》の実家でのことと、ロンダヴェルグの結晶の部屋で光を放った時はまさに義兄《あに》がいた。秘密の通路の先の部屋から逃げ出す時だけ義兄《あに》がいなくても力が使えたのが気になるが、あれだけ散々戦闘に巻き込まれていればスキルも溜まるだろうし、レベルアップして自力で使えるようになったのかもしれない。
 その頃既《すで》にいなかったミルが「あたしが力を使うには義兄《あに》が必要」としか認識していなくてもおかしいことではない。
 ミルが魔界にまで付いて来たのは司教《ティルファ》から護衛を依頼されたから。でも他の理由があるのなら……あたしを使って紅竜や魔界に影響を与えるつもりだったのなら、そのほうがずっと納得がいく。いくけれど、何も説明されていないから聞かれても答えられない。
 それよりも。

「青藍様の魂とか、どういうこと!? グラウス様はどうなったのよ!!」

 声を。心を強く。
 委縮してはいけない。


『――こいつの中に青藍の魂が入り込んでいるのなら引っ張り出せばいい。こうやって!』


 そう言って、紅竜は執事《グラウス》の背に剣を突き立て、引き抜いた。
 何故《なぜ》執事《グラウス》の中に|義兄《あに》の魂があるのかはわからないが、その話のとおりなら、今、義兄《あに》の魂は紅竜が持つ剣の中にあるはず。
 その剣は……見間違えようもない。ミルの剣だ。柄に埋められている石は魂の宝玉と言って、切った者の魂を吸い取るらしい。師匠《アンリ》が見たという石は透明で、ミルが持っていた剣には紅い石が付いていた。今は蒼《あお》に――やや黒ずんだ蒼《あお》に染まっている。
 
「青藍様は、」

 だが、問うことはできなかった。

「煩《うるさ》い小娘だ。質問しているのはこちらなのだが、答えることもなく自分の欲ばかりを優先させるとは余程《よほど》低能なのだろう」

 言葉を遮られたばかりか、ザン! と音を立ててルチナリスの頬の真横に黒い蔓が突き刺さる。その蔓に手をかけ、紅竜はルチナリスの眼前に顔を近付けた。

「……魔界貴族の言葉は家畜には理解できなんだか。
 まぁ大方《おおかた》は予測できている。私を倒して魔界を取り戻そうとか何とか、そういう似非《エセ》正義ごっこがしたいのだろう?」
「あ、あたしは、青藍様に会いたいだけで」
「会うためだけに命がけで魔界に来る? そんな嘘を」
「嘘じゃ、な、」


 逆に、紅竜は何故《なぜ》此処《ここ》に連れて来たのだろう。
 ミルの目的を探るためだけなら連れて来る必要などない。あっさりと執事《グラウス》を刺したが、「言わなければこの男の命はない」と脅すことだってできた。それをしなかったのは、此処《ここ》に自分《ルチナリス》を連れて来る理由があるからだ。
 まさか聖女(候補)を鹿の頭部の剥製のように壁に飾るつもりで連れて来たわけではないと思いたいが……。


 そんなルチナリスの様子をどう思ったのか、紅竜はふいに身を翻《ひるがえ》すと、

「ほぅら、お兄様とご対面だ」

 と冷笑した。


 兄、と聞いてルチナリスは目を凝らす。
 薄暗いを通り越して、ほぼ漆黒と言っても過言ではない部屋。しかし慣れて来ると何となく形が見えて来る。
 先ほど紅竜の髪で弾かれた月明かりだろうか。小さな光が少し先の壁で光った。
 いや、壁ではない。窓と同じように蔓で覆われた其処《そこ》に、埋もれるようにして透き通った何かがある。

「……青、藍様……?」

 硝子《ガラス》か氷か、材質は不明だが透明な棺《ひつぎ》の中に義兄《あに》がいる。
 黒い蔓に巻きつかれ、眠るように目を閉じている。胸の上で組まれた手にはめられた、紅《あか》い幾何学模様を描く指輪だけが、やけに光って自分を主張している。

「ずっと目覚めなかったのだがな。お前が来たおかげで動きがあった」


 ずっと。
 義兄《あに》の眠り病は魔界に連れて来られてからも進行し続けていたのだろうか。回復することはなかったのだろうか。
 だとするとロンダヴェルグを襲った義兄《あに》は義兄《あに》だったのか? その頃はまだ目を覚ましている時間もあったのか?
 わからないけれど、他の誰でもない紅竜が「兄だ」と言うのなら、この目の前にいる彼は義兄《あに》なのだろう。


『礼を言うぞ、聖女。私のために早速役に立つとは。ただの汚ない小娘だと思っていたがなかなかの女だ』


 師匠《アンリ》たちと再会したのも束の間、突然現れた紅竜に捕まった時、彼《紅竜》は暫《しば》し動きを止めた後、そう言った。何の礼かさっぱりだったのだが、もしかすると義兄《あに》が目を覚ます兆候があったのかもしれない。
 あの時、天使の涙が光った。
 聖女の力が、もしかしたら眠り続ける義兄《あに》に働いたのかもしれない。


「返し、て」

 ルチナリスは身をよじる。体中に巻きついた蔓が動く度《たび》に肉に食い込むが、そんなことを言っている場合ではない。

「返……し、」

 蔓は首も絞めて来る。
 声が出ない。


「そうだ。呼べ。お前の兄を」


 やっとここまで来た。
 返して。
 あたしに、お兄ちゃんを返して。

「お願……」

 後頭部が痛い。チリチリと無数の針に刺されるようだ。
 それでも、これで義兄《あに》が帰って来るのなら。

 義兄《あに》に向かって紅竜が歩いていくのが見える。握った剣は柄の部分の石だけではなく、全体が蒼く光り始めている。
 そして氷の棺の前で止まると、紅竜は剣を握り直した。

「目を覚ませ! 青藍!」

 剣が棺ごと義兄《あに》の胸に突き刺さる。
 彼を戒《いまし》めていた黒い蔓が巻き戻されるように解《ほど》かれ、幾何学模様を描いていた指輪が音もなく砕け散る。

 それと同時に、ルチナリスの頭の後ろで、パァン! と何かが弾けた。
 留めていたはずの横の髪がバサリと落ちると同時に、あたりは闇に閉ざされた。



 お、兄、ちゃん。

 ルチナリスは見た。
 ずっと閉じたままだった義兄《あに》の瞼《まぶた》が微《かす》かに動くのを。