その日は夕焼けがとても紅《あか》かった。
まるで熟れすぎて落ちる寸前のトマトのような、少し崩れた紅い夕陽が稜線の彼方に引っかかっている。きっと地面に着いたらベシャリと潰れるのではないだろうか、なんて思いたくなる、そんな色をしている。
養父でもあるこの村の神父が言うには、こんな日は悪魔が彷徨《さまよ》い出て来るらしい。
早く帰るようにと言われていたのだが……ルチナリスは今日だけはどうしても帰る気になれなかった。
ルチナリスと同じように牛の柵に腰かけて足をぶらつかせているのは、幼馴染みのメグ。
麓《ふもと》の町で流行っているのだと言う歌をハミングで口ずさんでいる。
どちらも帰る気はないが、気分は逆なのかもしれない。ルチナリスはちらりと横を見る。
彼女に会えるのは今日が最後。
明日になれば、彼女は村を出て行ってしまう。
「お引っ越し先はね、海の近くなんですって」
「海? いいなー、あたし海見たことない」
笑みすら浮かべているメグに、ルチナリスも顔だけで笑って見せる。
ここはミバ村。
四方を山に囲まれた小さな村で、海なんてものは本の中だけの存在。
あたしはきっと、一生海なんて見ることなどないのだろう。
ルチナリスは以前本で見た「海」というものを思い描く。
この世界の7割をその「海」が占めているらしい。「海」というのは、村にある池を何十倍も広げたものであるらしい。
そんなにたくさんあるのに1度も見ずに終わるなんてあり得ない、と思う反面、この村を出ることがない身では1度でも見る機会があることのほうがあり得ないのだ、と考え直す。
「でもねぇ、搾りたてのミルクやチーズが食べられなくなるのは残念」
ルチナリスが海に思いを馳せている間もメグは喋り続けている。
チーズトーストに、シチューに、フォンデュ。
指折り数えている料理の数々は平凡な家庭料理ではあるけれど、想像して唾を飲み込むくらいにはルチナリスも好物だ。
ミルクやチーズは引っ越し先の町にもあるだろうが、やはり味は落ちるだろう。食べ物は新鮮なものが美味しいのだと神父様もよく言っていたし。
そっか。メグは食べられないんだ。
そう思うと、メグに対して優越感さえ抱《いだ》く自分がいる。抱いて、そして嫌な子だと自己嫌悪に陥るのもいつもの話。
ルチナリスはトマトのような夕陽から目を逸らし、隣を振り返る。
「そのかわり、新鮮なお魚が食べられるじゃない」
「そうなんだけどぉ、あたし、お魚あんまり好きじゃない」
こんな山奥では生魚はほとんど手に入らない。干物がほとんどで、たまに漬魚を見るくらいだ。
だから「新鮮なお魚」というのがどんなものであるのか、ルチナリスは知らない。
そして食べる機会があまりない上に生臭い、とくれば、ほとんどの子供が敬遠する。
ルチナリスだって魚は好きなほうではない。乳製品と魚のどちらかを選べと言われれば、100%乳製品を取る。
ああ言ったものの、新鮮な魚が食べられることを羨ましいと思わない。
それはメグも察しているのだろう。
野辺の花で作った花輪を弄《もてあそ》びながら、メグは口を尖らせた。
「向こうに着いたら手紙を出すわ。遊びに来てね、るぅ」
「うん、絶対」
夕陽の紅が幼馴染みの顔を紅く染めている。
彼女が見ている自分の顔もきっと同じように紅いのだろう。そう思いながら、ルチナリスは稜線に目を向ける。
夕陽は半分以上潰れている。潰れて、どろりと横に広がっているようにも見える。
遠くでメグを呼ぶ声がした。
「あ、ママだ」
その声にメグは柵からぽん、と飛び降りる。
「じゃあね、るぅ。またね」
「うん」
また明日も遊ぼうね、とでも言うように手を振って、彼女は道の向こうで待っている母の元へ走って行く。嬉しそうに母に抱きつき、手を繋いで帰っていく。
1度も振り返ることなく。
その姿を牛の柵に腰掛けたまま見送ったルチナリスは、黙ったまま少しずつ暗くなってきた空を見上げた。
『絶対』
……また会うことはないだろう。
ここから海は遠い。子供のあたしが村を出て遠くまで出かけられるようになるには、あと何年かかると言うのか。
その頃にはきっと、メグはあたしのことなんか忘れている。
視線を落とすと足元の草むらにしおれた花輪が転がっていた。
メグが持っていたものだろう。ここいらでは珍しくもない花だが、海のほうでは咲かない。
村の思い出に持って行くの、と言っていたのに。
白かった花が茶色く変色しかけている。
ピンクも黄色も色褪せて、どこかみすぼらしい。
まるで、この村みたいだ。
世界から忘れ去られた山奥のちっぽけな村。訪れる旅人もほとんどいない村。
海を見ることもなく、この村で生まれて、この村で死んでいく。そんな人たちばかりの村。
あたしも……。
「ふぅぅ」
ルチナリスは、わざと大きく息を吐く。
胸の奥に溜まったもやもやを全部吐き出すように。
かわりに山の新鮮な空気をいっぱいに吸い込んで。そうすれば、また明日から頑張れる。
ルチナリスには両親がいない。物心ついた頃には既にいなかった。
聞いた話では、彼女は悪魔に襲われた何処か別の村から逃れてきたのだそうだ。ここまで連れて来てくれた人も血縁ではなく、この村に辿り着いたものの、そのまま力尽きたと聞いている。
そんな身寄りのない彼女を育ててくれたのは、教会に住まう神父だった。
神父とは神の教えを人々に知らしめるのが仕事だ。
だがそれだけではない。
学校が無いが故に読み書きを習う機会のない人々に教えるのも、神父の仕事のひとつである。
ミバ村にも学校などというものはない。本格的な学校に通うつもりなら麓の町まで下りなければならず、貧しかったり親がいなかったりする子供はその時点で就学を諦めなければいけなかった。
そんな就学できない子供たちを教会に集め、神父は無償で勉強を教えていた。
まず確実に学校に行く機会などないルチナリスにとって、神父がこの村にいたのは幸運だと言えるだろう。
それだけではない。
彼と共に暮らしているルチナリスは日中の授業以外……例えば夕食後の暇ができた時などに個別に教授してもらう機会まであった。その点では彼女はむしろ恵まれていたと言える。
おかげで、孤児であるにもかかわらず、読み書きは村の中でもできるほうだったりする。
後に教会の手伝いをさせる心づもりもあったのだろうか、神父は個別教授の時には読み書き以外に治癒の呪文なども教えてくれたのだが……しかし、魔法だけは持って生まれた才能が左右する。
残念なことに、ルチナリスにその才能が花開くことはなかった。
この世界には魔法がある。
しかし魔法は誰にでも扱えるものではない。
主にそれを使う者は「悪魔」と呼ばれる人間の敵で、人間はと言えば、ごく稀にしか魔法を扱える者は現れない。
先祖返りしたのだとか、ルーツのどこかで悪魔と混じったのだとか言われるが、何故魔法が使える者と使えない者がいるのか、その理由は明らかになっていない。
だから魔法が使えないということは「お前は悪魔じゃない」と認められたようなもの。
それは残念な反面、ルチナリスにとっては喜ばしいことでもあった。
でも、魔法が使えればもっと神父様のお手伝いができるのに。
魔法が使えれば、パパとママを殺したっていう悪魔に復讐することだってできるのに。
魔法が使えないことを喜ぶ反面、そう思うのも正直なところ。
しかしルチナリスがそう言うたびに、神父は悲しそうな顔をしたものだった。
『復讐なんてするものじゃない。過去に取り憑かれて生きるより、自分のために生きなさい』
彼はよくそう言って諭す。
だが、何故復讐してはいけないのだろう。
それってどういうこと?
悪魔に殺されたっていうパパとママは、きっと悪魔を恨んでいるわ。
あたしが1匹でも悪魔をやっつけることができれば、パパもママも喜んでくれる。
それ以外のみんなからも喜んでもらえる。
いいことじゃないの?
どうして、そんな顔をするの?
『親がいないなんて可哀想に』
『大きくなったら悪魔をやっつけるの? 偉いわねぇ』
まわりの大人はそう言った。
神父のように駄目だとは言わない。むしろ褒めてくれる。
どっちが正しいの?
あたしは両親の顔を知らない。
だから、ママが迎えに来るメグが羨ましい反面、よくわからない。
パパってどういう人?
ママってどういう人?
顔を知らないって「可哀想」なことなの?
誰かを恨んだり復讐するのは悪いことなの?
……わからない。
そんなどろどろした膿《うみ》を、息と一緒に吐き出す。
吐いても吐いても、どんどん溜まっていく膿を。
森の木々の向こうに消えた夕陽は空に紅を残していった。それが空の紺青と混ざり合ってグラデーションを作っている。
熟《う》れ過ぎたトマトのような禍々《まがまが》しい紅は、幼心にも不安と恐怖を植え付ける。
まるで。
まるで、悪魔が好みそうな、血の紅《くれない》。
ううん。ここは大丈夫よ。
ルチナリスは首を横に振った。
『こんな山奥にまで悪魔なんか来やしないさ』
と、誰かがそんなことを言っていた。
同じ労力を必要とするなら、効率の良い大きな町を襲うものだ、と。
でも悪魔が来なくても、熊や獣が来るかもしれない。
獣も日中は村まで入って来ることはない。だが、人気《ひとけ》のない夜ともなれば違う。
ワォ――……ン
遠吠えが聞こえた。その声にルチナリスはひとつ身震いする。
帰ろう。もう聖女様の像にお祈りする時間だわ。
だが、そうしてルチナリスが柵を降りようとしたその時だった。
上の方から、ギャアギャアと鳴き声が聞こえてきたのは。
カラス?
声のしたほうを見上げると、紅と紺青が混ざり合う空一面に何かがいる。グラデーションに混ざることなく、ただ黒く、黒く、広がっていく。
「な、に?」
カラスのように羽根がある。
しかし手も、足もある。
落ちくぼんでいるわりにぎょろりと光る目と、尖ったくちばし。
鳥や獣というよりは人間のようにも見えるが、それは決して人間ではない。人間は飛ばない。
人間に似た、人間ではない異形の化け物、それが上空を覆っている。
紅でも紺青でもなく、真っ黒に。
「あれは、なに?」
思わず口をついて出た言葉が、なんだかとても滑稽に聞こえた。
あれは。
…………悪魔!?
村はずれであったことと、小さい体が柵の陰になって見えなかったのが幸いしたのであろう。化け物たちはルチナリスの頭上を越えて行く。
越えて、次々と村に下りて行く。
見慣れたはずの村のあちこちで火の手が上がる。人々の悲鳴が聞こえる。
「メグ!」
母と手を繋いで帰って行った幼馴染みの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
彼女はどうしただろう。彼女の家はこの道を真っ直ぐに行った、あの化け物の下りた先。
『お引越し先はね、海の近くなんですって』
夕陽に紅く照らされた笑顔が、そのまま紅に塗り潰されていく。
「メグ!」
「ルチナリス!」
ルチナリスがよろけるように村への道を駆け出しかけた時、声が響いた。
時同じくして腕を掴まれる。
振り返ると、神父が青い顔をして立っていた。
だが彼は掴んでいるルチナリスではなく、村を凝視している。
「……神父様」
ルチナリスの声に神父は強張《こわば》った表情のまま息を吐き出し、それからなだめるように彼女の頭に手を置いた。
置かれた手がかすかに震えている。
「悪魔どもの人間狩りだ。お前は早く逃げなさい」
神父は早口にそう言うと裏山を指差した。村とは反対方向の裏山を。
にんげん、がり。
ルチナリスは神父の言葉を反芻した。
どうして? こんな山奥の村なんかには悪魔は来ないんじゃなかったの?
「明日の朝日が昇るまでは決して村に戻って来てはいけないよ。決して、だ」
でも
あれは
空に現れたあの化け物の群れは
どう見て、も
燃え盛る炎に包まれる光景がルチナリスの瞼《まぶた》に浮かんだ。
自分を庇うようにして目の前で倒れた女の人。顔はわからないのに、逃げて、と動いた唇だけがやたらと鮮明で。
あれは。
あれは……マ、マ……?
そして。
彼女が視界から消え失せた後に立っていた、黒い人のようなもの――。
「人間狩りって!? 村は!? メグは!?」
「心配しなくていいから早く行きなさい。私は、」
「ねえ! メグは!?」
神父は身を屈めてルチナリスの顔を覗き込むようにしながら、諭すように言う。
「心配することはない。あとでメグも連れて行くから。だからお前は先に行って……そうだな、ホワイトセージの茂みがあったろう? あの陰に隠れているといい」
「神父様は?」
「私は聖職者だからね。悪魔を追い払わなければ」
「あ、あたしも、」
悪魔が来たのなら、やっつけるチャンスじゃない。
奴らは弱いから集団で襲ってくるんだって、1匹でいる奴を狙えば子供でも倒せるんだって、この間村に寄った勇者様たちが言っていたわ。
神父は唇を噛みしめ、首を左右に振る。
「逃げなさい。奴らはお前のような幼い子供を狙っている。捕まってはいけない。逃げて、隠れて、生き延びることだけを考えなさい。できるね?」
「神父様!!」
彼はそれだけ言うとルチナリスを裏山へ押し出した。そしてそのまま村への道を駆け下りて行く。
薄暗い中に、紅い火の粉がはらはらと散る。
神父の後ろ姿も、その中に溶けるように消えて行った。
人間狩り。
この世には悪魔と呼ばれる存在がいる。
悪魔は魔法が使えて、そして人間を捕まえて食べてしまう。
逃げないと。
ルチナリスはのろのろと立ち上がると周囲を見回した。
神父の姿はどこにもない。
眼下に広がるのは炎の海と、まるでそれ自体が生きているかのようにもくもくと増えていく黒い煙。
風に乗って漂う異臭。
ただ、悲鳴も何も、人の声らしきものは聞こえない。
「あ、」
あたし、ひとりで逃げてしまっていいの?
悪魔が来たら、そいつらを倒すんじゃなかったの?
……でも。
どうしよう、足がすくんで動かない。
前にも、後ろにも。
『逃げなさい』
逃げないと。
『悪魔に復讐する機会じゃない』
倒さないと。
でも。
動けない。
「あ、ああ」
どうしよう。
どうしたらいいの。
メグ。
神父様。
あたし……あたしは。
その時、背後で大きな翼の音がした。
後ろからルチナリスの小さな体に覆い被さるように差し込んだ影は、両手を広げた人の形。
そして。
「かわいこチャン見~っけ」
……振り返りたく、なかった。
ルチナリスの後ろに、羽根の生えた悪魔が立っていた。