1-4 邂逅




「るぅチャンはホント愛されてるっすね~」

 義兄《あに》が出ていくのを待ち構えていたかのように、何処《どこ》からか茶化すような声が話しかけてくる。

「坊《ぼん》が甘いというか、グラウス様が鬼畜というか」

 他には誰もいない。
 絶対に風の音なんかじゃない。

「あれ絶対嫉妬入ってるって」

 この10年、あたしの隣で聞こえていた、「危害なんか加えない」と思っていた声。
 その声は、執務室で聞こえた声にも似ている。
 魔王に会えてみんな喜んでいると言っていたあの声に。

「気にしちゃ駄目っすよ、るぅチャン。俺らはるぅチャンの味方っす」

 味方なの?
 魔王に会えて嬉しい「あなた」があたしの味方なの?
 あたしは魔王になんか会いたくない。だって魔王よ? 悪魔なのよ? 捕まって、殴られて、引っ張られて、それで食べられるのなんて真っ平御免《まっぴらごめん》だわ。


 思い出すのは10年前。悪魔が村を襲った日の……それから数日間のこと。
 家を焼かれたあたしたちは縛られて繋がれて、悪魔に引き立てられるまま延々と歩かされた。道中、「どうしてあんな山奥の村が襲われなければいけないんだ、人間たちの間ですら秘境と言われているような場所なのに」と声が上がり、誰かが悪魔に村の情報を売ったのではないかと言い出し……その矛先はあたしに向いた。
 孤児だったからか。言い返せない子供だったからか。今になって思えば理不尽な目に遭った鬱憤《うっぷん》を何処《どこ》かで晴らしたかったのだとわかるけれど、だからと言って未《いま》だに許すことはできそうにない。

 そんな味方が誰ひとりいない中で助けてくれたのは、今は義兄《あに》と呼んでいるあの人で。
 化物が襲いかかってくる中で視界をふわりと横切った黒い髪は、今でもあたしの脳裏に焼き付いている。

 わけがわからぬままメイドとして此処《ここ》に連れて来られて。でも義兄《あに》はあたしのことをメイドではなく義妹《いもうと》と呼んだ。本当に兄妹のように接してくれた。かわいがって、甘やかして、守ってくれた。
 まさかその後10年も、親代わり兄代わりをする羽目になるとは思ってもいなかっただろうけれど。


 あたしにとって此処《ここ》は最後の砦《とりで》。
 追い出されても帰る場所はない。
 迎えてくれる人もいない。
 ノイシュタインの人々があたしをかわいがってくれるのは「領主様の妹」だからで、「領主様の妹」でなくなれば彼らも村の皆と同じように「悪魔の手先」と石を投げて来るのよ。投げても誰も投げ返してこないことを知っているから。
 なのに。

 この城が悪魔の城などと呼ばれていると知ったのは、それよりずっと後のことで。
 この城に悪魔がいると知ったのは、つい数時間前のことで。
 悪魔じゃなくて魔王だって知ってからは、まだ30分も経《た》っていなくて。

 義兄《あに》は悪魔から避けられていて。
 でも此処《ここ》には悪魔がいて。
 悪魔どころか魔王までいて。
 勇者と呼ばれる鎧を着た強そうな人たちが、今まで何人も挑みに来て……それで誰ひとりとして勝つことのできずにいて。

 そんな魔王を、義兄《あに》は知っている。


 執務室で聞こえた声は確かに魔王、と言った。魔王が出てくるのを皆が喜んでいる、と。
 そしてその場に義兄《あに》はいたのだ。



「……るぅチャン?」

 黙ったままのルチナリスに、声は訝《いぶか》しげな色を含ませる。


 魔王。
 悪魔。
 あたしの村を襲った化け物。
 育ててくれた神父様は、悪魔は人間を食べるために狩るのだと言っていた。あたしと一緒に連れていかれた人々がどうなったかは今更知る由《よし》もない。
 そんな化け物がこの城にいる。
 あたしのお兄ちゃんは、裏で悪魔と繋《つな》がっている……?



 ――本当ハ ワカッテイル クセニ。


 心の中にぽっかりと穴が空いている。
 その穴の中から声が聞こえる。


 わかっている?
 わからない。


 ――ワカ「リタクナイ」。デショ?

 
 明るくて温かい場所にいる「義妹《いもうと》」を演じるためにあたしがしまい込んだ淀《よど》みが、ケタケタと嗤《わら》っている。


「どうしたっすか? るぅチャン」

 この声も。
 義兄《あに》も。
 ずっと味方だと思わせていただけなの? 殺人事件の犯人みたいに、あたしが味方だと思って油断するまで待っていたの?


「違うって、言ってよ……」



 そう。義兄《あに》はいつもあたしを置いて行ってしまう。
 あたしをひとりだけ、温かくて明るい場所に残して。
 ひとりで、暗い世界に行ってしまう。その場所は、


『玄関ホールに近付いたら駄目だって言ったよね?』


 それを知る鍵は玄関ホールにある。
 近付いちゃいけないって言われている玄関ホールに。





 ルチナリスは扉を開けた。
 左右に伸びる廊下はさっきとはまるで違う、水を張った水盤のような静けさが広がっている。
 ゆらゆらと光のカーテンを揺らめかせていた陽射しも今は凍りつき、時間すら止まってしまったかのようだ。

 誰もいない。
 義兄《あに》も。執事も。誰かの気配も。
 あたしひとりを安全な場所に残して消えてしまったかのよう。
 

「……あなたは、誰?」

 義兄《あに》が悪魔とどんな関係で、どんな契約をしているかは知らない。知るのは怖い。でも。



「るぅチャン!? こら、ちょっと! 動くなって言われてるでしょ――!!」


 確かめればいい。
 あの場所に何もないって、悪魔なんていないってわかればいい。
 此処《ここ》には悪魔なんていない。
 あたしは悪魔の手先なんかじゃない。
 あたしは、あたしは、あたしは……!


 駆け出したルチナリスの後ろから慌てた声が追い縋《すが》る。
 けれど足は止まらない。止められない。


 
 急がないと。
 今日もまた、あの人《義兄》が何もかもを隠してしまう前に。




「……っ」

 初めて足を踏み入れた玄関ホールは廃墟と化していた。ある意味、女子供には見せられない場所と言える。大理石だったであろう床は崩れ、抉《えぐ》られ、あたり一面に散らばった瓦礫《がれき》で立つ場所を探すほうが難しい。
 そして、その瓦礫《がれき》に押しつぶされるようにして転がっているのは、つい1時間ほど前に城内に導き入れた勇者一行。鎧は見るも無残に凹《へこ》み、光り輝いていたであろう剣も折れ、ただの残骸《ざんがい》にしか見えない。
 まだ息はあるのだろうか。
 息があるのなら助けたほうがいいのだろうか。


 いいに決まっている。
 だってあたしは悪魔の手先なんかじゃないもの。


 ルチナリスは彼らのほうへ足を踏み出す。
 1歩踏み出して、ふと、近くに人の気配を感じた。

 ホールの中央に据えられた階段の踊り場。壁に埋められるように飾られている石造りのレリーフの下に誰かが立っている。


 一瞬、その闇に溶け込んでしまいそうな姿に悪魔を思った。
 でも、違う。
 ローブのように頭から被《かぶ》ったままの黒い布から見えるのは、村を襲ったあの異形の化け物ではなく、人の顔だ。白皙《はくせき》の頬はどこまでも冴え冴えとして、生まれてから一度も陽に当たったことがないのではないかと思えるほどに透き通り、鼻筋も、唇も、異形と言うよりも精巧にできた人形のよう。
 こんな人がいるのかと逆に思ってしまうほどに、それは確かに人だ。


 誰だろう。
 義兄《あに》に似ているが義兄《あに》ではない。町の奥様がたを魅了して回っているかわいらしさなんて|微塵《みじん》もなければ、悪魔が怖いと枕を濡らす儚《はかな》さも持ち合わせてはいない。艶然としていて、それでいて重圧を感じるその姿は、朧《おぼろ》げな記憶の中にある――あたしを助けてくれた後ろ姿に似た……。

 冷ややかに勇者を見下ろしたまま、その人はひとつ溜息をつくと身を翻《ひるがえ》す。
 すぐ近くでルチナリスが見ていることには気付いていないようだ。
 見つかる前に、と、ルチナリスはそっと身を隠した。


 此処《ここ》に居ると言うことはこの城に縁ある人なのだろう。
 この人がいるから玄関ホールには立ち入ってはいけなかったのだろうか。しかし玄関ホールは住処《すみか》にする場所ではないし、彼も終始此処《ここ》にいるわけではないだろうに。

 そして何故《なぜ》、この人は見ているだけなのだろう。それもあんなに堂々と。
 勇者が倒れているということは此処《ここ》で戦闘があったことは間違いないけれど、相手は誰なのだろう。悪魔だとしたら彼らは何処《どこ》から来て何処《どこ》へ行ったのだろう。
 まさかあの人が勇者様たちを倒した?
 いや、まさか。何処《どこ》の世界に勇者を倒す人がいるのよ。

 もしかして。
 勇者を天国に連れて行くために降臨して来た誰かさん? 実体がないから手が出せない、なんてことは……。



「修理費はそこの鎧どもに、」

 だがそんなルチナリスの想像をあっさりと裏切って、その人は階下に向かって見た目からは想像し得ないような現実的なことを呟いた。

 ……修理費?

 ルチナリスは思わずその人を二度見し、それからその人の視線の先へ目を向けた。
 よくよく目を凝らすと、勇者一行以外には誰もいないと思っていたホールに人影のようなものが蠢《うごめ》いている。闇に溶け込んでしまいそうな黒いシルエットのそれは、人のように2本の足で立っているものの、どう見ても人ではない。

 何処《どこ》かで見た。
 何処《どこ》かで。

 と、記憶を探って、ルチナリスはそれが前庭に並んでいた石像に似ていることに思い当った。



 奇妙な光景だった。
 石像と同じ姿のそれが、わらわらと何匹も這い回っている。動かなくなった鎧を引きずって城の外に出そうとしている者、剣や矢の残骸を掻き集めている者、汚れた床を掃除している者までいる。
 ガーゴイル、と言っただろうか。やっていることはともかく、見た目はどうにも悪魔っぽい。

 悪魔がいる。
 悪魔に指示する人がいる。

 すると、あの人が……魔王?
 ルチナリスは改めて踊り場を見上げた。



「待て! まだ戦え、」

 ホールから引きずり出されようとしていた鎧から切れ切れの声が走った。
 その声に立ち去ろうとしていたその人が足を止める。引きずり出されようとしている鎧に冷淡なままの視線を送り、ガタガタと震えながら伸ばされる手に、ひとつ、溜息を洩らす。

「……己の弱さを知れ」
「なんだと!?」
「お前はまだ此処《ここ》へ来るには早かった。それだけのことだ」


 義兄《あに》に似ているようで似ていないその人は義兄《あに》の声で滔々《とうとう》と言葉を紡ぐ。
 違う、|義兄《あに》の声ではない。
 温かみの全くない、冷たく凍りつきそうな声を義兄《あに》が発するはずがない。顔が少し似てるからって悪魔の親玉かもしれない人と声が似ているだなんて、それは義兄《あに》に失礼だ。


「馬鹿にするな! 殺せ! 悪魔に情けをかけられるなど、」

 鎧の叫びにもそれ以上なにも言わず、その人はかるく頭《かぶり》を振った。
 薄暗い中で紅い光がすっと流れた。



 違う。
 あの人は義兄《あに》ではない。

 ほっとする反面、ルチナリスは息を呑んだ。

 目の色が違う。
 義兄《あに》の、空や海を思わせるあの印象的な蒼《あお》ではない。


 では。
 あの人は、誰?

 悪魔?
 それとも?




ああ。
でも。なんて綺麗な紅《あか》なのだろう。