22-1 別れのための円舞曲~Walzer~




     完璧に無垢で高い知性を持つ男の子が
     もっとも申し分のない
     最適な生贄である。



               A・クロウリー




 大丈夫。
 少年は、とある扉の前で大きく息を吸った。

 彼が住まう城の最上階。何百年か前に破損して以来、修繕が間に合わず、閉鎖されているその階の最奥にその扉はあった。
 もともと住む者が少なく、空いている部屋などいくつもある。古い城だから修繕費用を優先させる場所は他にいくらでもあるし、修繕よりも他に予算を回したい。そんな諸々《もろもろ》のせいでずっと放置されている場所だ。
 此処《ここ》まで来るのは大変だった。なんせ足の踏み場もないのだから。
 しかし辿り着いてみれば、扉のまわりを飾る蔓草《つるくさ》の装飾を取ってみただけでもその部屋が他と違っているのは明らかで、否《いや》が応《おう》にも期待が高まる。


 噂ではこの中には願いを叶える宝物が眠っていると言う。それを手に入れれば望みが叶うのだと言う。
 最初にそれを聞いたのは誰からだっただろう。兵士か、メイドか、滅多にやって来ない分家筋の従兄弟《いとこ》か、どう記憶を辿《たど》っても誰から聞いたのか思い出すことはできない。
 社交上で付き合いのある貴族の子弟からではない。自分が知らないこの城の秘密を彼らが知っているはずがないのだから。

 足の踏み場がないとは言え、ただの城の一室にあるものが望みを叶えてくれるなんてうますぎる話だとは自分でも思う。こういうものは海底深くに眠る海賊船の中とか、砂漠にある洞窟とか、そういう難関辛苦《なんかんしんく》を越えた先で手に入れるものだ。
 しかし何かはきっとある。
 父や他の大人に聞いても「危険だから近付くな」の一点張りか「知らない」と言うばかりで、挙句《あげく》、「そんなくだらないことにかまける暇があるのなら勉強しろ」と、違う話題を持ち出してくる。
 やましいことがなければ教えてくれるだろう。幾重にも結界で封じ、鍵をかけて。これは、この先にあるものが本物の証拠だ。大人たちの目を掻《か》い潜《くぐ》って此処《ここ》まで来るのにどれだけかかったことか!


 宝物を手に入れたら何を願おう。
 王様になれますように?
 誰よりも賢く、強くなれますように?
 いや。願いなんてそんなに幾つも叶えてはもらえない。
 ランプの魔人だって3つしか叶えてはくれないのに、洞窟の奥深くどころか自分の部屋から歩いて十数分もかからない場所なのだから、せいぜいひとつがいいところだろう。

 とくり、と心臓が鳴る。
 知らず汗ばんだ手を上着に擦《なす》り付ける。

 子供じみていると嗤《わら》いたければ嗤《わら》えばいい。
 他人を貶《おとし》めることで対面を保つことしかできない馬鹿どもは、一生、井戸の底で空も海も知らずに生きていればいい。それだけのことだ。


 扉をそっと押す。
 鍵がかかっているものとばかり思っていたその扉は、見た目の重厚感からは想像もできないほど軽く、少年を受け入れた。





 部屋の中に足を踏み入れた少年に、誰かが囁きかけてくる。


『――望みは』
『望みを言え』


「望み、は」


 嗚呼《ああ》。本当に願いを叶えてくれるのか。
 何を願おう。
 1番、僕が叶えたいこと。
 それは――。




「年寄りと言うのは本当に口ばかりで何の役にも立たないな」

 豪奢《ごうしゃ》な黄金色の髪をした青年――紅竜――は、片肘を肘掛に預け、欠伸《あくび》を噛み殺した。
 窓の外は既《すで》に闇の帳《とばり》が下り、微《かす》かに聞こえていた音楽も途絶えている。
 夏であればチリチリと空気を震わせる虫の音が聞こえているのだろうが、今はその音も聞こえず、城ごと虚無に呑み込まれてしまったようだ。
 闇の眷属《けんぞく》と呼ばれていようとも、眠りについている時刻。しかし彼が欠伸《あくび》を噛み殺したのは決して睡魔に負けかかっているからではない。

 狭いながらも他よりずっと重厚な装飾を施されたこの部屋は、当主が私用《プライベート》で他人と会うために設《しつら》えた部屋だと言われている。何時《いつ》の時代の当主が作ったのかは不明だが、もし本気で言っているのだとしたらかなり意地の悪い当主だと言えるだろう。
 そのつくりは決して歓迎しているようには見えない。部屋は数段違えて高さの違うふたつの床面から出来《でき》、上段には当主が座す椅子がひとつ。そして椅子どころか何もない下段に客は通される。
 見下ろしているのが国王だとでも言うのなら納得できるかもしれないが、かなり客人を馬鹿にした作りの部屋だと言える。
 権力に屈して媚《こ》びへつらう者は気にしないだろう。むしろ喜んで床に膝をつくに違いない。
 だが、一族の長老衆となればそうもいかない。 


「枯れ果てて魔力もほとんどない。ケルベロスにくれてやるにしたって、食べる部位すらない有様だ」

 紅竜は 部屋の片隅に立ち並ぶ石の塊に侮蔑《ぶべつ》の視線を向けた。口調どおりのつまらなそうな顔だが、その視線の先に「年寄り」と呼べる人の姿はない。

「父上はこんなゴミどもを本当に敬《うやま》っていたのかい?」
「長い齢《よわい》を重ねた方々は見習うべき礼節や知識をお持ちです。手駒としてばかりではなく、」
「ほう。夜更けに当主を叩き起こしに来るのも、見習うべき礼節と言うわけか」

 紅竜は冷ややかな視線を犀《さい》に向ける。


 紅竜の傍若無人《ぼうじゃくぶじん》さを見かねたという理由で長老衆が苦言を呈《てい》しに押しかけて来たのが数時間前。それからさらに1時間近く待たせたのは紅竜なりの嫌がらせだろうが、気の短い老人には効き過ぎたようだ。頭ごなしにいろいろ言われたであろうことは想像に難《かた》くない。
 彼ら《長老衆》にしてみれば、たとえ一族の当主であろうとも「目上である」自分たちを蔑《ないがし》ろにすることなどないだろうという甘えもあったろう。わざと1日の終わり、それも就寝時間を狙うことで紅竜の覇気が弱まっていることを期待した旨《むね》もあったかもしれない。それが逆効果にしかならないとは思いもしないで。

 文句を言いに来たのだと予《あらかじ》め伝えておいたつもりだが、そんな予備知識など何の役にも立たなかったようだ。
 犀《さい》は自分に向けられる視線に背を向け、客人のなれの果てに形ばかりの目礼《もくれい》をする。こんな些細《ささい》なことでも見咎《みとが》められれば厄介なことこの上ないが、これでも歴代の当主を支えて来たであろう重鎮、最期くらい礼を尽くしても罰は当たらないだろう。

 犠牲になるのは何も長老衆ばかりではない。
 この城に招かれている他の貴族の面々も、それ以外の者も、遅かれ早かれ彼らと同じ運命を辿《たど》ることは間違いない。それが紅竜の意思なのか、彼を裏で操る彼の望みなのかは知らないが。

 その中で自分が生きのびていられるのはまだ利用価値があるからで、決して味方だの仲間だのと思われているわけではない。
 ずっとこの城で魔族の生き様を見てきたが、潮時はとうに過ぎてしまっている。足首を叩く程度だった波は今や膝を越え、後は体ごと持って行かれるのを待つばかり。だが、そのおかげで面白いものを見ることができそうだ。
 自分が魔族と心中する羽目になる前に紅竜の息の根を止めることも以前なら可能だったかもしれないが、今は――。

 犀《さい》は部屋中に張り巡らされた黒い蔓《つる》を見上げる。
 今はもう、無理だろう。




 紅竜の逆鱗に触れ、長老衆は石にされてしまった。石化の呪文は水属性の彼《紅竜》には使えないから、あれは石に酷似した別のものだ――なんて洞察をしたところで何が変わるわけでもない。
 ただ、彼のもうひとつの属性、闇の仕業に違いない、とは思っている。

 闇の存在は犀《さい》ですら詳しくは知らない。聞いた話では遥かな昔より存在自体はあったらしい。人間界に存在する「聖女」が「聖女」となる時に光の属性を持つ、ということからして、闇も後天的に手に入れることができる属性なのだろう、と、そう言われている。
 魔族の持つ4つの属性がそれぞれ4すくみになっていることに対し、闇と光はその4すくみの輪から外れる。そして闇の唯一の弱点と言われている光属性は人間界にしかなく、魔族が手に入れることはない。
 だからこそ闇は危険視されてきた。多くの命を犠牲にしてでも封じたのは、「奪い合いの末に闇を手に入れるであろう者は間違いなく魔族最強と推測される。それを倒すのは不可能だろうから闇のほうを隠してしまおう」と、「ひとりだけ強い力を手に入れて抜け駆けすることがないように」というふたつの意味合いがあったと思われる。
 そうした諸々《もろもろ》の思惑によって闇は封じられ、封印に携《たずさ》わった者が亡くなったことで、闇の存在は文字通り闇に消えた。
 だが。

 それが今、此処《ここ》にある。



 思えば、闇は誰の心の中にも巣食っているものではないのだろうか。だから4すくみの属性の輪の外にあるのではないだろうか。
 不平。
 不満。
 いつもなら理性で抑えているそれが抑えられなくなった時、ひとは予期せぬ行動に出る。暴言を吐き、暴力を振るい、他人に、物に、攻撃の矛先を向ける。
 紅竜は幼い頃から次期当主として、嫡男《ちゃくなん》として、自らを律《りっ》する生活を余儀なくされていた。子供だからと言って羽目を外すこともできず、何時《いつ》どんな時でも優秀であることを望まれていた。心の中に溜め込んだ鬱屈《うっくつ》はかなりのものだろう。
 もしかしたら彼は自由に生きられないこの世界を壊したいと、そう願ってしまったのかもしれない。
 彼の生んだ闇が過去の闇に呼ばれてしまったのかもしれない。


 唐突に黒い髪をした夫人を思い出した。
 彼女から、そして前当主から受けた密命はまだ終えてはいない。
 だがもしその密命が完遂したとしても、今のままでは解決したことにはならない。

 いや、解決できるなどと思うほうがおこがましい。
 犀《さい》は遥か昔、自分に向かってそれを言ってきた前当主を、そして夫人を思い返す。彼らはそれが最善だと言い、当時の自分もそうだと思った。しかし今になって違うのではないかという思いばかりが渦を巻く。

 今は風が紅竜に向いて吹いている。
 対する自分たちは、頼みの綱であった青藍が闇に堕ち、ただの魔力の器でしかなくなってしまった今、万策尽きてしまっている。
 ああ、そうだ。そう言えば第二夫人が息子《青藍》に託した人間の小娘、あれが次代の聖女だとか。注視しているがそれらしい兆《きざ》しも片鱗《へんりん》も見せないあの小娘が……いや。あんな非力な小娘に期待しなければならないのなら終わっているも同じこと。夫人が息子に託したのだって単なる偶然でしかない。


「……何を企んでいる」

 紅竜は目を細めて犀《さい》を見据える。
 椅子と混じった影が黒く濃く伸びた。それ自体が意思を持っているかのような動きで、数段下に跪《ひざまず》く犀《さい》の足元に絡みつく。
 仲間だなどと思われていないのだから当然の反応だろう。前当主に仕えていた自分《犀》は「長老衆と同じ、監視し、苦言を呈《てい》し、意のままに操ろうとする煩《うるさ》い大人」でしかないのだ。

「何も。私は仕える家が滅びないようにするまでのことでございます」
「そのためなら当主をも欺《あざむ》くか? 犀《さい》」
「滅相《めっそう》もない」

 否定する声に呼応するように、蔓が犀《さい》の頬を打った。
 パシ、と乾いた音ががらんとした部屋に響いた。

 傷つけられたのが核ではないから、すぐに再生できる。相手もそれを見越して傷つけて来るのだろう。それはまだ、殺すには惜しいと思われているからなのだろうか。
 犀《さい》は頬に当てた指の陰から、立ち並ぶ石の塊に目をやる。紅竜の気が変われば、次にああして立っているのは自分なのだ。その前には方《かた》を付けたいが――。

 窓のあるほうに目を向ければ、夜空を呑み込まんとばかりに黒い蔓が取り囲んでいる。曲線に沿って、涙が滴《したた》るように月明かりが零《こぼ》れ落ちる。

 

「ひとり逃げただろう。あれはどうなった」
「……聞かずともご存じでしょうに」

 紅竜は、ふん、と鼻を鳴らす。

「どいつもこいつも。
 ああ、興《きょう》が醒《さ》めたな。こんな時間にわざわざお出《い》で頂くのだからさぞかし面白い余興を見せてくれるのだろうと楽しみにしていたのだが。
 いや、あれが余興のつもりだったのか? かくれんぼだの鬼ごっこだのを楽しめる歳ではなかったつもりなのだが」


 押しかけてきた長老衆を黒い蔓が襲った時、ひとりだけ逃《のが》してしまった。
 てんでバラバラに動く10数人を捕えようと言うのだから、ひとりくらい取り零《こぼ》しても仕方がないとも言えるが、そのひとりも先ほど捕えた。反撃されて逃げる羽目になる可能性を考えずに来た老人など、端《はな》から相手にもならなかったと言うことだ。

「まぁいい」

 紅竜は、つい、と扉を指さす。

「鼠《ネズミ》が入り込んでいる。処分しろ」
「……はい」

 神妙な顔つきとは逆に、犀《さい》は心の中で失笑する。鼠《ネズミ》になったり犬になったり、彼も大変なことだ。
 彼とは言うまでもなくグラウスのこと。逃げ出した老人を捕えた場に居合わせていた。
 予定より随分と早い到着だが誰か手を引いた者がいるのだろうか。本家直系筋は母屋《おもや》で暮らすのが慣習となっていることを知っている彼らが、母屋を差し置いて離れに来るとは思えない。まず母屋の部屋を虱潰《しらみつぶ》しに探し、離れに来るのはそれから。そう思っていたのだが。
 もしかするとこの早さのせいで、紅竜は自分《犀》が指示して彼らを招き入れたと思ったかもしれない。身に覚えはないが、余計な弁明は首を締める。

 犀《さい》は一礼すると踵《きびす》を返し、部屋を後にする。その背後を、ズズ、と引き摺る音が続くのを聞きながら。
 



「さて」

 犀《さい》が出て行った後を暫く眺めていた紅竜は、やがて肘掛に付いていた肘を外し、誰もいない正面に向かって座り直した。

「そろそろ出て来たらどうだい?」

 そんな呼びかけに応じるように、カーテンの陰からひとりの少女が現れる。
 襟口と袖口に同色のレースをあしらった黒のドレス。背に流された淡い金髪。
 アイリスだ。
 その姿はグラウスらの前に現れた時と同じだが、袖口とドレスの裾からそれぞれ覗くのは「人の」手と足であって黒い蔓ではない。そしてその手には細身の剣が握られている。

「物騒なものを持っているね」

 アイリスは答えない。
 答えないまま左足を下げ、剣を構える。その姿は実践経験を積んだ慣れを感じさせる。

 紅竜はくすりと笑うと椅子から立ち上がった。

「久しぶりの再会に何故《なぜ》刃を向けられなければならないのか、それを聞いても構わないかな? キャメリア」




 アイリスは黙っている。その目には何の感情も見えない。
 数日後には妻となる自分を姉の名で呼ぶ紅竜に腹を立てているわけでも、何故《なぜ》その名で呼ぶのか訝《いぶか》しく思っているわけでもなく。婚儀の日取りが迫っているのに一度たりとも会いに来ない紅竜に業《ごう》を煮やして、自ら出向いたわけでもないようだ。

「何故《なぜ》黙っていなくなったかを弁明しに来たわけでもないようだが」

 そして紅竜はと言えば、相変わらず彼女をキャメリアとして扱っている。

「私と共に生きることを選べば今頃きみは魔界の女王だった。私ときみは共に彼の寵愛を受けた身だ。此処《ここ》にいれば体調を崩すこともなかったし、貧しい暮らしに身をやつすことも、庶民に混じって暮らすこともなかった。誰もが我々の前に傅《かしず》いた。その何処《どこ》が不満だったのかな?」

 言いながらも紅竜は歩を進める。ふたりしかいない部屋に、コツリ、コツリ、と靴音だけが響く。

「用意された未来よりも自分で掴《つか》んだ未来のほうが尊い? 愚かだね。この世の9割の者が喉から手が出るほど欲しても手に入らない未来を、きみは私の妻になるだけで何の努力もなく手に入れることができたと言うのに」

 段差を越えようとした時、アイリスが動いた。小さく詠唱を唱えると剣の柄に埋め込まれた宝玉が紅みを増す。それと同時に刀身にも紅が走った。

「まさか我々の計算された未来図よりも、千日紅が嘯《うそぶ》いた夢物語に価値を見出していたとは……残念なことだ」

 紅竜は足を止めた。
 蔓を通じて城内の動きは伝わっている。
 キャメリアが持ち込んだ剣に埋め込まれた魔族を浄化する呪符は対アイリス戦で全て使い切った。柄に埋められている石――吸い込んだ魂の能力を剣の持ち主に与えると言う「魂の宝玉」――の力もアイリスの闇を祓《はら》うのに使ってしまった。
 彼女が握っている剣は、今やただの抜け殻。何の効果も持たない鉄の刃。埋め込まれた石も今となってはただの硝子《ガラス》玉だ。間違っても紅く光りはしない。
 それなのに石は紅く光り輝いている。
 それは、未《いま》だに魂が封じられていることを示している。

「……呪符も石も使い切っているはずだが」

 アイリスは紅竜を見上げると、ゆっくりと口を開いた。

「アイリスに使ったのは千日紅の魂。今此処《ここ》にはキャメリアの魂が入っている」

 その口調はアイリスのものではない。
 キャメリア、いや、ミルと呼ばれていた女剣士のものだ。その姿と口調は別人を装うためのものだと思っていたのだが、自分の前でさえかつてのキャメリアの面影を微塵《みじん》も感じさせないでいることに紅竜としては失笑を隠し得ない。
 いや、微塵《みじん》も、というのは大袈裟だったろうか。
 遥か昔、幼い頃の彼女は快活だった。奔放《ほんぽう》さはアイリスの比ではなかった。流石《さすが》に男のなりで剣を振り回しはしなかったが、長いドレスの裾《すそ》を邪魔に思っているであろう仕草は何度も見た覚えがある。


 千日紅のことは他家の執事、という以外には知らない。
 夢の中でなら「キャメリアを幸福になどできない」と自分《紅竜》を責め立てたこともある男だが、現実世界では会話をすることすら稀《まれ》。そして知り合う以前の問題として、彼はキャメリアを連れて失踪してしまった。
 意図《いと》は知らない。長く世話をして来た令嬢に懸想《けそう》したのかもしれない。
 勤勉で執務に忠実。彼《か》の家の家令でもある蘇芳《すおう》の後継者だとも聞いていた。そんな彼だからキャメリアの体調の変化や彼女を治そうと独自に調べているうちに、雑学やオカルトなどの知識や能力を手に入れていてもおかしくはない。
 アイリスから闇を祓《はら》うために魂の宝玉を使うことを提案したのも、きっと彼の入れ知恵だろう。千日紅はキャメリアの闇を祓《はら》うために使うつもりだったのだろうが、

「私は、あなたの闇を祓《はら》うために此処《ここ》にいる」
「祓《はら》う? 我々の協力者であり理解者を? それが私のためになるとでも言わたのかな? そんな何の根拠もない理由を鵜呑みにするとは、きみは本当に素直だ。素直で愚かしい」

 千日紅の思惑とは別に、彼女《キャメリア》は自分《紅竜》の闇を祓《はら》うために使うつもりでいたらしい。
 魂の宝玉はひとつ。1度しか使うことはできない。しかしそのつもりで此処《ここ》に来たものの……アイリスを前にして、キャメリアは妹《アイリス》を救うために貴重な1度を使い。そして。
 キャメリアと千日紅は共に目的を果たすことなくあの場で消滅した。
 そのはずだった。
 なのに。

 
「何も関係ない妹に乗り移って。そうそう、彼女が私の今の婚約者だ。彼女に憑依してでも許嫁《いいなずけ》の義務を果たしに来たと言うのなら、」
「もし私にそのつもりがあったとしても、あなたにはもうその気などないだろうに」
「何故《なぜ》そう言い切れる?」

 聞くまでもない。キャメリアは今でも目的を果たすつもりだ。当初の、自分《紅竜》の闇を祓《はら》うという目的を。
 自らの魂を宝玉にしてまで。闇を祓《はら》うための道具に成り下がってまで。

 今、目の前にいるのはアイリスではない。
 本体は剣。キャメリアの魂がアイリスを操っている。


「何故《なぜ》祓《はら》う必要がある? 私はこの力で魔界貴族を掌握した。昔の私ではできなかったことだ。きみも賛同してくれていた。だろう?」
「気が変わった」
「私よりもあの執事《千日紅》を選んだということか。そこまで嫌われていたとはね」

 紅竜は大仰に肩を竦《すく》める。

「嫌ってはいない。私はいつもあなたの幸せを思ってきて、」

 対してアイリス《キャメリア》は口ではいろいろと言うものの、幸福を願っている顔ではない。


 そうだろう。
 親しく付き合っていたように見えたとは言え、家同士で決めた間柄。私たちは親が敷いた道を踏み外すことがないよう、手を取りあって歩いていたにすぎない。
 きみの言う「幸せ」とはあの家の幸せ。私はそのために利用する駒でしかない。


「……それでこの仕打ちかい? 他者の生き血を啜るような野蛮な一族の考えることは、私には理解できないようだ」


 言うなり、アイリス《キャメリア》に向かって蔓《つる》が飛んだ。
 その身を貫くかに見えた蔓は、しかし、床を抉《えぐ》るに終わる。蔓に貫かれる前に跳躍したアイリス《キャメリア》は、軽い身のこなしで数メートル後に着地した。

「死に損ないが!」

 その足を蔓がさらに払う。
 仰向けに転倒しかけたアイリスは片手で蔓を掴《つか》むと、逆上がりの要領で身をかわし、剣を閃かせた。
 一閃で、彼女に襲い掛からんと迫っていた蔓が千切《ちぎ》れ飛ぶ。しかしその千切《ちぎ》れた蔓の隙間を縫うようにして、壁や天井を覆っていた蔓が鎌首をもたげ、後を追う。 

 呪符は既《すで》に使い切っている。だから本来ならあの剣に蔓が切れるはずがない。
 なのに切れているのは宝玉の力に他ならない。魂の宝玉は吸い込んだ者の技能や才能を剣の持ち主に与えると言う。どんなことをしてでも自分《紅竜》を倒そうというキャメリアの気迫のようなものを感じて、紅竜は浮かべていた笑みを消した。

 アイリスはさらに宙を舞う。
 向かって来る蔓を受け流すと同時にその蔓を足掛かりにし、一瞬のうちに紅竜の間近に迫る。


 ザシュ、と貫く音がした。
 剣は確かに紅竜の心臓を貫いていた。



「……だがそれでも私はきみを気に入っていたよ? 共に未来を歩むつもりでいるくらいには」

 心臓を貫かれたまま、悲しげに微笑んだ紅竜に、アイリス、いやキャメリアは目を見開いた。
 その隙を突き、貫いたはずの紅竜の身が黒い霧となって崩れる。たじろいだアイリスの手から剣を叩《はた》き落とす。
 剣を奪った黒い霧は、その剣の周囲を覆い、刀身に、柄《つか》に絡みつく。宝玉に吸い込まれていく。


「何を、」
「今でも、そう思っている」
「そ、んな、はずは、」


 紅い光を放っていた石は2、3度瞬いた後、その色を黒く染め沈黙した。
 そして。
 操っている本体が沈黙したからだろう。アイリスもその場に倒れ、そして動かなくなった。




 カラン、と乾いた音を立てて床に転がった剣を、紅竜は身を屈めて拾い上げた。

「……最後まで愚かだったね、きみは」

 愚かで、甘い。御しやすい。
 だが気に入っていたのは本当だ。此処《ここ》から逃げ出したりしなければ、私は喜んできみに魔界の女王の座を与えただろうに。
 


 目を閉じれば、ひとりの少女の姿が浮かんでくる。



『私にはわかるわ。あなたは認められたいのよ』

 淡い金色の髪をした彼女はませた口ぶりでそう言った。
 最初に彼女に出会ったのはもう何年前のことだろう。先代からの縁ということもあって、彼女とは幼馴染みと言うよりも兄妹のような間柄だった。
 他の令嬢たちがまず家を見て近づいてくるのとは違い、彼女は自分を個として扱ってくれた。メフィストフェレスの次期当主になる坊ちゃん、ではなく。
 彼女といる間だけは自分は自分でいられる。
 等身大の自分でいられる。
 だったら、この先もずっと彼女がいてくれればいいのに。とひそかに願う。それが恋かと尋ねられればきっと違うと答えるだろうけれど。

 その彼女は真面目くさった顔で腕を組んでいる。

『認められて、自分が優れていると、愛されているとそう思いたいんだわ』
『認められるのは良いことだろう?』

 自分は認められればならない。父からも長老衆からも使用人からも他の貴族たちからも。
 認められ、敬われ、傅《かしず》かれる。いずれ人の上に立つのだから、誰よりも認められていなければいけない。誰よりも優れていなければいけない。
 そうでなければ、いつ寝首を掻《か》かれるかか知れない。


 自分には弟がいると言う。
 その弟に劣るわけにはいかない。
 少しでも劣っているところを見せれば、その弟に自分の場所を取られてしまう。
 現に、父は腹心の部下をふたり、その弟の教育にあてるつもりだと聞いている。


『良いことだけれど』

 彼女は咎《とが》める目を向ける。
 最近、彼女はよくそういう目をする。戒《いまし》める目を。
 何が気に入らないのだろう。

『認められるのと認めさせるのは、違う』

 何が違う。
 誰も彼も自分に友好的な者ばかりではない。メフィストフェレスの血を継いでいると言うだけで毛嫌いする輩《やから》だっている。そういう連中はどれだけ優れていようとも決して認めようとはしない。
 だが自分は、そんな奴《やつ》らにさえ認められなければならないのだ。どんな手を使っても。
 それが、それだけが自分の場所を確固たるものにしてくれる。幸福な未来をもたらしてくれる。

『幸せというのは、与えて初めて戻って来るものよ?』

 何処《どこ》か遠くを見るように彼女は言う。
 此処《ここ》ではなく、何処《どこ》か遠いところに本当の幸せがあるかのような、そんな顔で。


『私といるこの場所にきみの幸せはないと、そう言いたいのかい?』
『そうは言ってない。私はあなたにも本当の幸せを知ってほしいと思うだけ』
『つまり、此処《ここ》にはない、と』
『だから、』

 彼女との縁談話が持ち上がっていることは知っている。
 しかしどうにも彼女は喜んでいるようには見えないし、正式な返事も届かない。こうして面と向かっては何度も会っているというのに。

 何故《なぜ》。
 私を嫌ってはいないはずだ。
 上級貴族と言っても彼女の家は落ちぶれつつある。過去の栄光を振り返っては思い出に浸るだけの年寄りに食い潰されようとしている。家柄だけを重視して姻戚関係を結んだら最後、自分たちの財産すらこの旧家を復興させるために使われかねない、と、あからさまに距離を置く家も増えてきていると言う。
 そこに加えて、跡取りになるべき子供が生まれない。未婚は彼女と、幼い妹姫のふたりだけ。男子は喉から手が出るほど欲しいだろう。
 それなのに。



「……与えただろう? なのに、何故《なぜ》……」

 手に入らないのなら捕えてしまえ。
 捕えて、鳥籠に入れて、鍵をかけて。他の誰にも会わせないようにして。


 ――ワタシニ。


 そうすれば私を見る。
 私だけを愛するようになる。


 ――ワタシニ シタガエ。


 わかったんだよ、キャメリア。きみの説はやはり間違っていた。
 幸せは、閉じ込めて初めて得るものだ。
 聡明なきみなら、いつかはきっとわかってくれると思っていたのに。


「そうだろう?」

 歌うように紅竜は呟く。愛おしげに剣を、今や黒く染まってしまった宝玉を指先で撫でる。