2-7 帰るべき家




 ところ変わってここはノイシュタイン城。
 静まり返った暗闇の何処からか、ボーン、ボーン、とふたつ、柱時計の音が響く。

 その音の余韻が消えるよりも先に、玄関扉が遠慮がちに開いた。
 細く差し込んだ青白い光の筋が暗闇を切り裂いていく。
 柱が、階段が、暗闇から浮かび上がった。



 軋《きし》みやすい扉をなるべく鳴かせないように玄関ホールに足を踏み入れた青藍は、奥を見てわずかに眉をひそめた。
 階段のあたりに人影が見える。

 勇者の待ち伏せかとも思ったが、客人を何時間も待たせておくような失礼なことをガーゴイルたちがするはずがない。魔王の代役を頼んでいるような日ならなおさらだ。
 それに前庭に並ぶ石像は1体も欠けることなく出迎えていた。もし倒されていたのなら台座しか残っていない。だから「ガーゴイルを倒した勇者に待ち構えられている」ことはあり得ない。
 それなら……。

 後ろ手に扉を閉める。
 闇を2等分にしていた月明かりが細く、細く、そして消える。
 踏み出した足音がやけに大きく響いた。
 だが、人影は動かない。 


「……るぅ?」

 近付いてよく見れば、階段の手すりに頭を預けて眠りこんでいるのは朝別れたはずの義妹《いもうと》だった。
 夜ともなればまだまだ冷え込む季節だが、彼女は毛布を掛けるところか朝と同じメイド服で座り込んでいる。きっとこんなところで居眠りするつもりもなかったのだろう。
 思わず口から洩れた溜息は安堵か、それとも困惑からきたものか。
 それはついた本人にもわからないが、後ろに隠したままの左手から殺気を纏《まと》った炎が音もなく消える。

「るぅ、風邪ひくよ」

 声をかけても返事はない。
 肩を揺すってみても目を覚まさない。熟睡しているようだ。



 青藍は義妹《いもうと》を見下ろしたまま周囲の気配を探る。
 誰もいない。
 彼女が「悪魔の城」で危険な目に遭わないように、と監視を兼ねてガーゴイルたちを側に付けているはずなのに、今ばかりは何処へ行方をくらましたものだか1匹もいない。

 全く。何時《いつ》勇者が来るかも知れない場所にひとり残して、もし何かあったらどうしてくれる。人質だと思われて保護されるならまだいい。しかし、もし悪魔の仲間だと見なされて傷つけられる事態にでもなったら。
 何の力もない娘にとって、この城は危険が多すぎる。彼女は自分たちとは違う。 だからちゃんと見張っていろ、とあれほど言っておいたのに、と憤《いきどお》りかけ……違う、と黙り込む。

 夜会で自分が黙って席を外したことを知った執事は、きっと同じように心配しただろう。
 ここには味方のほうが多いが、侯爵の城にはふたりきり。精神的な負荷は義妹を守るガーゴイルより上だ。
 その負荷を知っていればこそ、自分にガーゴイルをなじる資格などありはしない。


 上着を脱いで義妹《いもうと》の肩にかけると、静かな寝息が手に触れた。
 目を覚まさないようにそっと抱え上げようとして、青藍はその体の冷たさに手を止めた。

 こんなに冷えるまで待っていたのだろうか。
 いつ戻るかしれない自分を。





「……ただいま」

 昔から義妹《いもうと》にはいつも留守番ばかりさせていた。
 眠っている間にこっそりと出かけても、帰って来る頃には必ず目を覚ましていて泣きながらしがみついてきたものだ。
 あの頃はまだガーゴイルも姿を見せないようにさせていたから、本当に心細かったことだろう。
 せめて普通の人間の家庭だったら。呼びもしないのに訪れる来訪者の物音に息を潜めて震えていることも、突然の物音に怯えることもない。戦闘に巻き込まれる心配もない。


 アイリスはルチナリスの存在を知っていた。きっとアーデルハイム侯爵も知っている。他の魔族にも知られているだろう。そして。

『聞いた話では、家畜の娘を手元に置いて兄妹ごっこをしているらしい』

 ……知られている。あの人にも。


 青藍は天井を見上げた。
 ここは悪魔の城。人間と悪魔が戦う場所。
 やって来て、そして散っていった多くの者の血と怨みが、壁にも天井にも染みついている。

 やはり人間と魔族は共にいられないのだろうか。
 いや、人間と「自分」が、共にはいられないだけなのかもしれない。
 もしルチナリスを引き取っているのが自分ではなくグラウスであれば、そこまで風当たりは強くない。あの執事《グラウス》が引き取るとは思えないが。


 冷たくなった頬を撫でると、ルチナリスは薄目を開けた。薄茶色の瞳を何度か瞬かせ、緩慢な動作で身を起こす。
 近くにいるのが義兄《あに》だと認識したのか、わずかに口を開いた。

「おかえ……なさ……の、」

 虚ろな目をしたまま、首に手を回して抱きついてくる。
 肩にかけたばかりの上着が滑り落ちる。

「る、」

 ぱさ、と上着が乾いた音を立てたのと同時に、かすかに唇が触れた。




「……る、ぅ?」

 にへら、と色気もなにもない顔で笑ったルチナリスは、そのままガクリと首を垂れた。
 揺すっても声をかけても、もう目を覚ます様子はない。


 今のはいったいなんだったのだろう。
 何か暗示でもかけられ……いや、寝ぼけていただけだろうか。
 いつもなら悲鳴を上げて逃げる彼女がこんなことをしてくるとは思えないが、暗示にかけられていたのだとすれば殺しに来るのが普通だろう。今の行為が誰かの得になるとは思えない。
 それじゃ、こんな悪戯をするためだけに寒い中で待っていたとか?
 ……まさか。

 眠りこんでしまった義妹の寝顔をまじまじと見、義兄《あに》は再び溜息をついた。




「どうかなさいましたか?」

 背後で、遅れてホールに入って来たグラウスの声がした。
 彼は階段手前で屈みこんでいる青藍のそばまで来ると、背越しに主人の手元を覗き込んだ。

「ルチナリス? どうしてこんなところに」
「お兄ちゃんの帰りを待っていてくれたらしいよ。いやぁ、愛されてるね、俺」

 青藍は怪訝な顔をする執事を見上げて苦笑すると、眠り続けるルチナリスを抱え直した。

「……へーぇ」

 グラウスは床に落ちたままの上着を拾い上げると、凍りつくような目を向ける。

「|余所《よそ》に妹作って、入浴まで勧められるようなお兄ちゃんだと知っても愛してくれますかねぇ」
「おま……! 言うなよ!? それ、るぅには言っちゃ駄目だから!!」
「さあ? どうしましょう」

 含み笑いをしているグラウスを睨みつけ、青藍はルチナリスを抱き上げる。
 肩にもたれかかった彼女の顔がそれでも幸せそうに見えたのは、決して気のせいではありませんように。