EXTRA5 風の行方


 

「魔王様には蒼いリボンをつけて」Extra5。

 

ルチナリス一行と別れたカリンは、

メイシアに引き摺られるようにしてノイシュタインに辿り着く。

其処《そこ》にいたのは懐かしい顔ぶれだった。

 




 風が頬を掠《かす》めていく。
 ドラゴンに騎乗しての運び屋という文字通り地に足がつかない生活を続けるうちに、この風の感触も日常のひとつ程度には慣れたつもりだった。だが、今日はやけに冷たく感じる。

 眼下に見えた森はあっという間に彼方に消え、最後に立ち寄った港町も通り過ぎた。
 徒歩での視点ではわからなかったが、中央広場から海岸線に向けて扇形に延びる街路がかつての繁栄を物語っているその町は、実際、貿易拠点として多くの船や商人の出入りがあったと聞いている。3度に渡る人間狩りがなければ聖都ロンダヴェルグやオルファーナを凌《しの》ぐ大都市に発展していたのではないだろうか。
 崖の上に建つ廃墟はその町に住んでいた富豪のもの。
 町を見下ろすように建てられた家は悪魔たちの格好の目印になったのだろう。半壊した屋根から雨ざらしになった室内が――長椅子《ソファ》だったらしい木の骨組みや、天井と共に落下して壊れたのであろうシャンデリアの金枠が――見て取れる。主のいないその家は、まるで町の栄枯盛衰を写し取ったかのようだ。


 往路はドラゴンの騎乗に不慣れな客を、それも大勢同乗させていたこともあって休みながらの旅だったが、帰路は自分《カリン》ひとり。途中休憩なしに吹っ飛ばせば、明日の朝にはロンダヴェルグに着く。其処《そこ》に預かって来た人形を返せばひとまずの依頼は完了だ。
 グラウスから「ルチナリスが脱落するかもしれないから1度様子を見に森に戻ってくれ」と頼まれているが、それは依頼と言うよりもアフターサービスの一環として受けた。あの森の近くには香草が大量に生えている場所があったから、採集も兼ねれば無駄足にもならない。


 それにしても変な集団だった。
 カリンは数時間前に別れた客一行を思い起こす。
 ルチナリスと呼ばれていた娘の義兄《あに》を取り戻すために魔界に行く、なんて世迷いごとを、至極当然な顔で言われた日には耳を疑った。依頼内容は「|魔界に入る手前の《人間界にある、とある》森まで」だったから引き受けたものの、あの森は春になれば山菜摘みに少女たちが通うような所謂《いわゆる》「比較的安全な」森。其処《そこ》が魔界に――悪魔が住んでいるという地に――繋《つな》がっているだなんて聞いたこともない。
 しかしこちらの疑念など何のその。
 彼らは礼を言い残すと、平然と森に入って行ってしまったわけで。

 「ルチナリスが脱落するかもしれないから」という例の追加依頼とドラゴン《ウィンデルダ》の負担とを考えれば森の入口で待っていたほうが楽かとも思ったが、もし本当にあの森が魔界と繋《つな》がっているのだとしたら、待っている間に自分たちが悪魔と遭遇する危険もある。
 元々1度ロンダヴェルグに戻ってからでいいからという依頼だし、と理由を付け、人形の返却を優先させたが……もし本当に途中で脱落したのなら、自分たちが戻るより前にルチナリスは森の入口に到着するだろう。そして自分たちを待っている間に、今度は彼女が悪魔に遭遇するかもしれない。
 9割の確率でルチナリスは戻らないと踏んではいるが、明日以降、誰もいない森の入り口を前にして、それが魔界に行ったからなのか悪魔に食べられてしまった後なのかを判断する手段はない。
 代金を受け取っていないのだから、間に合わなかった、でも許されるであろうことなのに、見捨てたことに似た罪悪感は魚の小骨のように心の奥に刺さったまま抜けない。

 そして懸念はもうひとつ。

「……いくらティルファの依頼だからって、ミルも何考えてんのよ。ねー?」

 友人兼お得意様のミルがその魔界行きに同行していってしまったことも。
 ミルが強いのは知っているし、止めたところで彼女が言《げん》を撤回することはないこともわかってはいるけれど、止められなかった自分の力不足を感じる。

 入団早々から騎士団長と同レベルという噂は聞いていた。実際、騎士団長も聖教会も彼女には一目置いているのだから心配する必要などないに違いない。「そんなに信用できないのか?」と一笑に付されるであろうことも想像がつく。
 実際、ロンダヴェルグが悪魔に襲われた日も、剣士亭《冒険者組合》に押しかけて来た悪魔をひとりで薙《な》ぎ倒したらしい。あの噛まれた者が悪魔と化す悪夢は、剣士亭にいた冒険者も、そして迎え撃とうとしたマスターをも悪魔と変えてしまったそうだが、ミルは彼らをどんな思いで切ったのだろうと思うと同時に、過去の親交も何もかもを切り捨てて非情になれるのが彼女の強さだとも思う。
 それに彼女の剣には聖騎士団特注の退魔の呪符が埋め込まれている。彼女の腕前と剣があればいくら悪魔がウヨウヨしている魔界に行ったところで無事に帰って来てくれるはず、な、の、だが。

 あの非情になれるところが、全てを切り捨てられるところが怖い。何時《いつ》か、ミル自身をも切り捨ててしまいそうで。

 カリンは胸ポケットから干し肉をひと切れ取り出すと口に含む。
 この干し肉のレシピをミルに教えたのは自分《カリン》。数年前にパーティを組んでいた女性から教わったこのレシピは仲間内で伝授し合うことで広がり、今や旅する冒険者の間ではポピュラーな品《定番品》となっている。

 ミルはロンダヴェルグに来た時には既《すで》に天涯孤独の身の上だった。恋人や親しい友人もいないし、作ろうともしない。聖騎士団に入団したものの、ロンダヴェルグに落ち着くつもりでいるようには見えない。それどころか他人と極力関わらず、何時《いつ》でも出て行くつもりでいる風《ふう》にすら見える。
 そんな|様《さま》が少し自分と重なった。できることなら誰ともかかわらずにひっそりと生きていきたい。でも世間がそれを許してくれない。みたいな。

 何時《いつ》か、何もかもを捨てていなくなるのではないか。この世からも。

 そんな根拠のない疑惑はずっとついて回り、もしかしたら未練があればすんでのところで思いとどまるのではないか、との結論に達し。それじゃあその未練になってやろうじゃないの、と期待を込めて教えたのが干し肉のレシピだった。
 ミルは友人で仲間だと、そう思っている者がひとりはいる、と伝えたかったが……今になって思えば、他人とのかかわりを避けているミルにとってはそれこそが負担だったのではないか、と後悔の念もよぎる。


 そのミルが騎士団を辞めてまで彼らに付いて行った。
 ルチナリスの護衛に任命されたからとは言え、それは彼女《ルチナリス》がロンダヴェルグにいる間だけの話。次期聖女候補のひとりとしてやって来た彼女《ルチナリス》が本当に聖女になったのなら聖都の外まで護衛し続けるのもわかるが、彼女《ルチナリス》は自他共に認めるほど才能がなかった。到底聖女になどなれそうにないし、実際、彼女自身がレースから降りてしまったのだと聞いている。
 だから守る必要などないはずなのに。
 しかも、ロンダヴェルグに来たのも聖女になることが目的ではなく、魔界行きの役に立つ力が手に入るかもしれないから、という理由。そんな娘を何故《なぜ》ミルは守り続けるのだろう。

 仲間だからか?
 今の今まで誰の手をも掴もうとしなかったミルが、あのポッと出の小娘は仲間だと思ったのか?
 腑《ふ》に落ちないし負けたようで悔しいが、ミルが初めて示した意思を尊重したいと思う微妙な親心っぽいもの前に出てきて、結局、引き留めることなどできなかった。




 そう言えば。
 つらつらと考えているうちに、カリンはふと引っかかりを覚えた。

 魔界、とは何処《どこ》だ?

 悪魔に攫われるのは珍しいことではない。
 そして近しい者を奪われ、残された人々が取る行動は、大半が泣き寝入りするか、自分の命が助かっただけでもありがたいと思うかのどちらかだ。
 そんな中、奪われた人を取り返しに行こうと、また悪魔を倒そうと立ち上がる者もいなかったわけではない。そんな彼らは冒険者の中でも勇者と呼ばれ、かくいう自分も――自分の場合は幼馴染みに付き合っただけではあるけれど――そのひとりだった。
 けれど。

 自分たちは何処《どこ》へ向かったのだろう。
 悪魔が住む地に向かったはずだが、魔界ではない。
 海の向こうでもない。ふたつのパーティに属した自分は2度、彼《か》の地を訪れたが、其処《そこ》は列車や馬車で辿り着ける場所だった。
 なのにその場所が思い出せない。少なくとも森の中に秘密の入口が、なんてことだけはなかったと記憶している。
 幼馴染み――アルド、という名だった――がMAPを開いては「此処《ここ》が目的地だから」と何度も示した場所。マッパーなら最初に覚える場所だと偉そうに言っていた地。何十回も何百回も同じことをするせいであたしのMAPはその頁《ページ》だけ開き癖が付き、その1点だけ黒ずんでしまった。
 其処《そこ》は。

「ノ、イ……」

 そうだ。あの場所はノイシュタインと言った。
 海沿いのあの小さな田舎町で、山の中腹に悪魔たちの、

「っ!」

 突然、こめかみに鋭い痛みが走った。
 その声にウィンデルダが驚いた目を向ける。そんな彼女に大丈夫だ、と笑いかけ、カリンは再び意識に潜り込んだ。

 思い出せ。
 あの場所は……そう、城。悪魔の、城。
 そこには、

 思い出そうとする度《たび》に痛みが突き刺さる。
 これはいったい何なのだろう。考えるな、と言われているようだ。
 でも。

 そう言えばルチナリスたちはノイシュタインから来たと言っていなかっただろうか。
 人間狩りで奪われた人々を救い出すために、奪って行った悪魔を倒すために勇者が向かう地。其処《そこ》に住んでいた彼女らがノイシュタインではなくあの森に入って行ったのは、ノイシュタインに行っても何の解決にもならない、と知っていたからではないのだろうか。
 彼らが向かった「魔界」こそ、悪魔《自分たちの敵》がいる場所だったのではないだろうか。



 それならアルドと共に向かって、そして惨敗したあの場所には何がいた?
 チートスキル持ちだという2番目のパーティですら歯が立たなかった相手は誰だった? そんな強大な敵を倒したとしても「意味がない」のか?
 大勢の勇者が旅立って。ただのひとりも勝てなくて。
 あの場所には何があった?
 何がいた? 


『忘れろ。お前たちは何も見なかった。ただ、負けた。それだけだ』


 そうだ。其処《そこ》には魔王がいた。
 自分たちは知り合いが悪魔に連れ去られたわけではなかったから純粋に名声を得るために行ったわけだし、アトラクションに期待するような高揚感すら抱いていたけれども、知り合いを人間狩りで奪われた者はそれこそ必死にレベルを上げて、それで向かったはずだ。魔王を倒せば連れ去られた人が戻って来ると聞いていたから。
 しかしその魔王の姿を知っている者はいない。
 人間狩りの場に魔王が現れたことはなく、大勢の悪魔の中にそれらしい者を見つけることもできず。ダンジョン内部の情報は行った者からリークされるものなのに、悪魔の城に限っては何ひとつ流れては来ない。

 そもそも冒険者は冒険者組合に張り出された依頼からめぼしいものを拾って遂行《すいこう》し、報酬を受け取る。報酬は早い者勝ちで、「何処《どこ》ぞのパーティが向かっているからこの依頼は現在、受けることができない」なんてことはない。
 だから誰がどの依頼に行ったかは完遂して戻ってくるまでわからない。
 斡旋《あっせん》した冒険者組合ですら把握していない。
 向かった冒険者がどうなったかは、本人が凱旋して戻って来るまでは誰も知らない。
 だが、マスターランク依頼だから誰も勝てないのだ、と勝手に思い込んでいたけれど本当にそうだろうか。
 彼《か》の地に赴《おもむ》く冒険者は腕に自信のある者。魔王は無理でも入口付近の雑魚敵くらいは倒すだろうに、その情報すら出て来ないというのはおかしくないか?

 そう、おかしいのだ。
 2度も彼《か》の地を踏んだ自分《カリン》ですら今の今まで悪魔の城のことは忘れていた。挑戦しようと思ったことは覚えているのに、戦った記憶は抜け落ちていた。
 それどころかこうして思い出そうとすると頭痛がする。

 自分たちは……人間は、誰ひとりとしてそのことに気付かなかったのか?
 ずっと悪魔の掌《てのひら》の上で踊っていただけなのか?




「よく気付いたな人間よ!」
「きゃあっ‼」

 その時だった。突然ウェストポーチの蓋が弾け飛び、中からタラコ唇の不細工な人形が飛び出してきたのは。
 悲鳴に驚いたウィンデルダがバランスを崩してグラリと傾き、背から落ちそうになったカリンは慌てて背びれを掴む。
 やめてくれ。上空2000フィートから落ちたら流石《さすが》に生きてはいられない、と、そうじゃなくて!


 人形は吹き荒れる気流をものともせず、カリンの眼前に制止している。
 時速数十kmで飛んでいるドラゴンの上で制止、と言うことはそれ自身も同じ速度で飛んでいなければできない芸当なわけで。それも脅威ではあるのだが、その前に飛び出した拍子にぶちまけられたポーチの中身の回収ががが!!!
 両手で背びれを掴んでいたせいで、当然のことながら飛び出した全てが風に乗って消えて行った。その中には売れば数千Gにはなる秘密道具もあった。
 なのに! 諸悪の根源は申し訳なさそうな顔すらしない。その描いた顔が「顔は変更できないんだも~ん♡」と言っているようで腹が立つ!

「弁償!」
「その前に行ってほしいところがあるのだが!」
「依頼なら先払いよ!」

 こいつのせいでなくした秘密道具の分も上乗せして請求してやる!
 こんな時に金銭面だけ冷静でいられる自分を感心しながら、それはおくびにも出さず、カリンは人形を睨みつける。



 アンリとグラウスが言うにはこの人形こそが四大精霊のひとり、大地のメイシアであるらしい。
 ロンダヴェルグに返す、というのはメイシアの本拠地がロンダヴェルグと言われているからだ。風の精霊ジルフェがウィンデルダ山脈を拠点としているように。
 どう見てもただの古ぼけた人形だし、ジルフェや他の精霊たちのように動きもしなければ喋りもしないコレに「四大精霊なんて嘘だろう?」とは思ってはいたが…こうして喋って空を飛ぶのを目の当たりにすれば、ただの人形と思うことのほうが無理。少なくとも呪いの人形であることは間違いない。

「と言うことでノイシュタインに向かうが良い!」
「何が”と言うこと”なのか全然わかんないんだけど!?」 

 「と言うことで」と言うなら、それこそ即刻ロンダヴェルグに押し付けるべきだろう。
 長年の勘でわかる。こういう空気を全く読まずに我だけ通そうとする輩《やから》と関われば、とばっちりを受けるのは自分だ。
 ああ思い出す。最初のパーティは悲惨だった。
 何で知ったのか「頂点を目指すパーティにはこの職業《ジョブ》が必須なんだ」と言い出し、料理人だの大工だのでパーティを組んだアルドのせいでスライム撃破にすら苦労する最弱パーティとなり、戦闘要員でもない自分《マッパー》までもが前線に駆り出される羽目になった。片っ端から女に手を出す2番目の勇者のせいで痴話喧嘩の仲裁に入ったことも数えきれず、逆恨みで刺されそうになったこともある。
 おかげで花も恥じらう年頃だというのに男は苦手だ。嫁に行けなかったからと言って奴《やつ》らに責任を取ってもらうほど人生を捨てる気はないが。
 この人形《メイシア》は一応はスカートを履いているデザインだが……だから許せるというものでもない。


「そなたは魔界について知りたがっていたな! ではその情報を報酬としよう! だから、」
「現金以外はお断り」

 冒険者を辞めた自分に魔界の情報など今更だ。
 そんな信憑性すらない情報、風に消えた秘密道具ひとつで50は買える。

「では悪魔の城についても付けよう!」
「いらない。そのまま真っ直ぐよ、ウィンデルダ」
「う……ぐぐ……で、では、報酬は全てティルファから得るが良い! 言い値で払おう!」
「じゃ、ロンダヴェルグの防衛予算10年分」
「鬼じゃ……此処《ここ》に鬼がおる……」
「世は等価交換。Give《ギブ》&Take《テイク》よ」

 当事者は漫才のツッコミ役をしている気分なのだが、観客はそうでもないらしい。心配そうに振り返るドラゴン《ウィンデルダ》にカリンは前方を指し示す。
 ロンダヴェルグまであと数時間。自分たちはこの人形を彼《か》の地に返してから先ほどの森にとんぼ返りしなければいけないのだ。ノイシュタインなどに行っている暇はない。間に合わなくてルチナリスが悪魔に食べられでもしたら見捨てたことになりそうで嫌だと思っているくらいなのに、何故《なぜ》確実に間に合わないルートを選択する必要がある!?

「それにノイシュタインって人間狩りがあったところじゃない。そんなところにウィンデルダを連れてはいけないわ」

 言いながら、少し前にも同じことを口にした、と思い出す。
 ルチナリスたちの仲間がひとり、彼《か》の地に向かったきり戻って来ていないそうだ。迎えに行くことはできないか、と乞われた時、同じように断った。

 が。




「ではこのドラゴンがいいと言えば良いのだな!」
「はあ!?」

 何故《なぜ》そうなる!?
 言うなよ!? 絶対に言うなよ!? という何処《どこ》かの芸人の持ち芸のような文句が頭の中に溢れる。頭だけではなく、口からも溢れそうになる。
 だが。
 それを口にする前に、ウィンデルダは旋回した。




 と、言うことで。




 何が”と言うことで”なんだよ!! と叫びたいくらいなのだが、叫んだところでどうなるものでもない。カリンは町の入口に立つ「ようこそノイシュタインへ」と書かれた木のアーチを見上げて溜息を吐《つ》いた。




 メイシアとの押し問答はウィンデルダによって強制終了させられた。
 今までに彼女《ウィンデルダ》が自分の指示を無視したことなどなかったのに、今回は何を言っても聞く耳を持って貰えず。呪いの人形《メイシア》に呪われ《体を乗っ取られ》たのではないかと本気で疑うも、坂道を暴走するトロッコを同乗者がどうにもできないように、為《な》す術《すべ》なくこの町まで連れて来られてしまったのは不覚の至《いたり》と言えるだろう。
 カリンはふたたび溜息を吐《つ》く。
 

 そのウィンデルダはカリンの後ろでドラゴンのぬいぐるみを抱えて突っ立っている。
 そのぬいぐるみは彼女が人化した時用の服を入れる鞄を兼ねているので、人化している今、詰め物を失った空腹状態。こちらに向かってクタリと力なく項垂《うなだ》れているのが謝っているように見えなくもない。
 けれど、当の本人《ウィンデルダ》はと言えば、いつもどおりの冷めた目をしていて反省の色などまるで見えない。それがまた腹立たしい。

 ルチナリスを迎えに行く件は依頼ではないとは言え、受けた以上は完遂するのがプロというものだ。
 それなのにこんなところまで来ちゃって、もう絶対に間に合わないわよ! 落ち合う時間を決めたわけじゃないから後から行けばいいじゃないとか思ってるかもしれないけど、そういう時間にルーズな発想は嫌いなの!
 ええそうよ、あたしは待ち合わせ時間の15分前には到着する女。15分待たされたと怒ったりはしないし、30分くらいなら待てる許容はあるけれど、今回のコレはどう考えたって24時間以上遅れるわよーーーー!!!!
 と、カリンの心の中では吹っ飛びすぎて論点がズレて行ってしまうほどの嵐が吹き荒れている。


「……ねぇ、あたし、ロンダヴェルグに行け、って言ったわよね?」

 子供のしたことだから、と笑って言うことはとてもできない。これは仕事。子供だろうが仕事。
 カリンは怒りを押さえ込んで――押さえ込みすぎて表情筋が硬直し、声のトーンが5段階くらい下がっているけれど――肩越しにウィンデルダを振り返る。

「此処《ここ》に来る意味ないわ、よ、ねぇ?」


 ノイシュタインに来ることはメイシアの依頼ではあるけれど、代金を払っていない以上、契約を結んだことにはならない。ルチナリスを森に迎えに行くアフターサービスと何処《どこ》が違うんだと言われるかもしれないが、あちらはその前の「グラウスらをウィンデルダ山脈からロンダヴェルグまで運ぶ」と「ロンダヴェルグからグラストニアの先の森まで運ぶ」依頼で破格の代金を受け取っている。そこから今回の分を差っ引いてもお釣りが出るくらいだ。
 それに時速数十kmで飛ぶドラゴンの上に制止していたメイシアなら、自力で此処《ここ》まで飛んでこられるじゃないか。自力で(ノイシュタインに)来て、自力で(ロンダヴェルグに)帰れ!
 そう思うのは決して自分《カリン》が薄情だからではないはずだ!
 しかし。

「カリンは来るべきだと思った」

 まるで「仕方ないから連れて来てやったぜ」と言わんばかりの言い草に、口角が引きつりそうになる。

「……………………何で?」
「呼んでるから」
「誰が?」
「知らない」

 嗚呼《ああ》! これが人間の子供だったらもう少し意思疎通ができるのだろうか。それとも子供は皆こうなのだろうか。ただ単にウィンデルダの口数が少なすぎるのが悪いのだろうか。
 何にせよ、返答は到底、カリンが満足できるものではない。
 ドラゴンだから人間には聞こえない声でも聞こえたのか? ドラゴンだから精神世界とオトモダチなのか? だが今はこういうスピリチュアル系の回答は期待していないし、これで黙らせることができると覚えられでもしたら後々厄介すぎる。

「呼んでるったって」

 誰が呼ぶというのだこんな田舎町で!!!!
 悪魔か? 亡霊の類《たぐい》か? 冒険者になりたての頃、弱小モンスターを狩ってレベル上げをしていたが、今になってお礼参り(でも自分からは来ない)がしたいとか?
 冗談ではない。お礼参りなんて考える奴《やつ》は、大抵、相手より強くなっているからこそ実行に移すものと相場が決まっているのに!


 埒《らち》が明かない。面倒だが「この町には何の用もない」ということをわからせなければ飛んでもらえなさそうだ。
 ウィンデルダから視線を外し、カリンは背後を――町を振り返った。
 人間狩りの被害に遭《あ》ってからまだ1週間ほどだろうか。燃え尽きて土台だけになった家、瓦礫《がれき》の山、真っ二つに折れた街路樹……と被害の爪痕はまだ其処《そこ》彼処《かしこ》に残っている。
 ただ人がいない。
 連れ去られたのか、殺されたのか。考えたくはないがこの光景を前に楽観的な発想はできそうもない。

 こんなところで誰が呼ぶと言うのやら。
 だからこそ、誰もいないと知れば帰る気になってくれるだろう。





 そんな人気《ひとけ》のない町だが、道が残っているおかげでかつての面影を思い浮かべることはできる。
 街道だけでなく、立ち寄った各々《おのおの》の町内MAPをも作っていたせいもあるのだろう。マッパーなんて不必要と存在を軽んじられることが多かったけれど、やっぱり役に立つじゃない! と自画自賛したものの、それを共有し、吹聴して回ってくれる者がいなければ此処《ここ》で役に立ったことなど誰にも知られずに終わるのだ。
 剣士や魔法戦士のような前線で華々しく活躍する職業《ジョブ》にばかり人気が集まるのもわかる気がする。


「……人気《ひとけ》がないって不気味よね、ゴーストタウンみたいで」

 冒険者から足を洗った自分にとっては関係のない話だ。忘れよう。
 カリンは首を振ると、屋根の壊れた建物のひとつに足を踏み入れる。
 流石《さすが》に1週間も経《た》っていれば悪魔が潜んでいることはないと思うけれど、3度に渡って襲われたグラストニアの例もある。前後左右+上から丸見えな往来はどうにも落ち着かない。


 其処《そこ》はかつて冒険者組合があった場所。ロンダヴェルグの冒険者組合は酒場を兼ねていたが、此処《ここ》は純粋に組合だけの建物で、受付のカウンター以外には何もない。田舎町ながら列車の線が走っていること、そして悪魔の城のお膝元だからと建てられたその建物は当然のことながらもぬけの殻で、あちこちに飛び散った黒い染みが此処《ここ》で起きたであろう惨劇を物語っている。
 損傷も酷《ひど》い中で、しかし依頼書が張られた壁は辛《かろ》うじて残っていた。

「懐かしいわねー」

 そうだ。あたしはやはり此処《ここ》に来た。
 アルドと共に、そして2番目の勇者一行と共に。そして。
 カリンは町を見下ろすようにある山と、その中腹で木々に埋もれている城を見上げる。
 あの城が悪魔の城。
 人間たちが「倒せば全てが終わる」と思っていた魔王がいた城。



「……いた?」

 脳内で喋る自分に思わず問いかける。
 何故《なぜ》過去形? 魔王を倒したという話は聞いていない。現に依頼書だってこのとおり――

「え? 嘘、何で……」

 悪魔の城、そして魔王討伐に関しての依頼書は其処《そこ》にはなかった。
 建物が破壊された時に「それだけが」剥《は》がれた、と言うのは他の依頼書が生き残っている点で不自然だし、悪魔が持ち去ったにしても壁にそれらしい空白部分はない。
 カリンは目を皿のようにして依頼書の集団を凝視する。
 でも、ない。



 自分が冒険者を辞めた後で倒されたのだろうか。だから依頼書がないのだろうか。
 でも悪魔は未《いま》だに人間を襲っていて、ロンダヴェルグも、そしてこのノイシュタインも被害を受けていて。
 「魔王を倒しても意味がない」のは本当なのか? だからルチナリスたちは魔界に行ったのか?


『――では悪魔の城についても付けよう!』


 腐れ人形《メイシア》が言っていたのはこのことなのか?
 それとも他に何かあるのか?
 そう言えば、

「ちょ、あのタラコ唇、何処《どこ》に行ったのよ!」

 今更思い出したくもないが、ノイシュタインに着いてからこちら、諸悪の根源《メイシア》の姿を見ていない。途中で落とした覚えも(落とすどころか2000フィートから地面に向けて叩きつけてやりたかったが)ない。

「飛んでった」
「何処《どこ》に!?」

 畜生! 何度も言いたくないが、飛べるならひとりで来いよ!!

 ウィンデルダが指をさしたのは更《さら》に北。木々の向こうに屋根が点在しているが、誰か生き残っているのだろうか。帰ってこないルチナリスの仲間か、此処《ここ》の住人か。
 自分を呼んでいるという「誰か」ももしかしたら其処《そこ》に……いや、それは想像しないでおこう。




 北側に進むにつれ、住宅が減っていく。閑静な住宅街と言えば聞こえはいいが、田舎だから過疎《かそ》っていると言うのが正しいのだろう。
 ポツリ、ポツリと姿を現す家々はどれも損傷が激しく、こんな寂れたところまで念入りに壊していくなよと思う一方、小さい町だから駅前だけでは収穫ノルマに達しなかったのだろうか、なんて物騒な考えも首をもたげる。
 だとすれば生き残りを期待するのは無理そうだ。
 釣りでも小魚は捕まえずに再放流《リリース》、山菜取りでも芽が3つあったら1つ残すというのが来年以降も同じ収穫を望む上での基本だが、悲しいくらい収穫がなければ小魚も新芽も狩り尽くしたくなるのが人の性《さが》。って相手は悪魔だけれども。
 どうにも変な方向に流れて行ってしまう思考を切り捨て、カリンは空を見上げる。
 鳥が1羽、遮《さえぎ》るものの何もない空を横切っていく。


 考えが歪んで来る理由はわかっている。
 ずっと歩いているのに、一向に人の姿を見ないからだ。
 昼だというのに煮炊きの匂いもしてこなければ、煙が立ち上ることもない。悪魔の再来を恐れて火を使わずに済むものだけを口にしているのか、食べる物がないのか、食べる者がいないのか。
 人間狩りの惨状が残る地上と、いつもどおりの晴れやかな空とのギャップが、世界に自分ひとりが生き残ってしまったような錯覚を連れて来てどうにもいたたまれない。

 ウィンデルダが言う「カリンは来たほうがいいと思」う理由にも未《いま》だに逢えない。
 1周して何も収穫がなければ森に戻ろう。メイシアが行方不明のままだが、あの人形は自力でどうにでもできる。

 そう思った矢先。道の脇に人形が座り込んでいるのが見えた。
 一瞬、メイシアかと思ったが違う。両手を膝の上に置き、縁石《えんせき》に行儀よく腰を下ろす芸当などあのタラコ唇《メイシア》にはできない。
 子供が逃げる際に落としていったものを、誰かが拾ったのだろうか。人間狩りの情報を聞いてこちらに向かったまま行方不明になっているルチナリスの仲間と同様、悪魔討伐や人命救助を目的として現地入りした人々が此処《ここ》にいたであろう子供を思いながら座らせたのかもしれない。

 持ち主が戻って来ることなどないのに。
 そう思いつつも通り過ぎたカリンとは逆に、ウィンデルダは立ち止まる。しゃがみこんで人形を見つめている。無口だしドラゴンではあるけれど、その前に女の子だ。

 が。

「連れて行かないわよ」

 そうでなくとも運び屋だ。持ち運ぶ私物は極力抑えなければならない。
 と言うのは建前で、誰のものかもわからない人形は怨念とかが入っていそうでちょっと嫌だから、というのもある。しかも人間狩りの遺物。飛んでいる間、その人形を持つのは自分《カリン》の役目になるのだし、メイシアみたいに突然飛び出して来たらどうしてくれる!
 そんな心霊現象に遭う確率のほうが低いはずなのに、メイシアを知った後だと普通にありそうだと思うのが不思議だ。

 しかしウィンデルダはカリンの声など無視して人形に手を伸ばした。無造作に頭を掴《つか》むところは子供、というより幼児のようだが、ってそう言うことじゃなくて!

「ちょ、」

 この「ちょ」は「頭を掴《つか》むな、かわいそうでしょ」という意味の「ちょ」ではない。少しは思ってしまったけれど、それが大意ではない。
 何故《なぜ》こうも言うことを聞かないのだこの娘は!! 反抗期か!? という意味だ。
 頭の中で怒りメーターの針が振り切れる。
 元はといえばウィンデルダを養っているのもただの偶然で立候補したわけではないのに。独女《独身女性》にもかかわらず、世間は未婚の母という目で見て来るから余計に出会いも減ったのに!
 カリンはウィンデルダを放《ほう》ったまま踵《きびす》を返す。
 その時だった。

「そ~らにか~がやくに~ちりんの~~♪」

 と、変な歌が流れて来たのは。



 呪いの歌か!?
 確かに見上げれば青空に日輪が輝いてはいるけれど、これは天気予報ではない、絶対。
 悪魔によって無念の死に追いやられた人々の怨念がと言うにも歌詞が明るすぎるけれども、むしろそれがかえって薄気味悪い。
 慌てて見回すが、やはり人影はなく。こういう時に限って隠れられそうなものもなく。
 なのに歌だけが聞こえるなんて、シュールを通り越して背筋が凍りつきそうだ。

「あたしこういうの苦手なのよぉぉ」
「き~らひの~じあをふ! っと! ば! せ! ヘイ!♪」

 思わず漏れた泣き言に浮かれた歌詞が重なる。
 ヘイ! じゃないわ!! 「きーらひのーじあ」って何よ、何の暗号よ。


 よく聞けばところどころ雑音《ノイズ》が混じる。レコォドのように録音したものかもしれない。
 うん、そうよ。きっと録音よ。
 地中にスピーカーが埋めてあるのよ!
 「かもしれない」ではあるけれど、正体不明に比べれば恐怖も雲泥の差。これは録音! 現物はいない! と自分で自分に暗示をかけ、カリンは歌に耳を澄ます。
 伴奏はない。
 若い男がひとり、アカペラで歌っている。
 台詞《セリフ》パートで力《りき》み過ぎて声が裏返るあたり素人だろう。こんな田舎町でももっと歌の上手い者はいくらでもいるだろうに。
 そんな洞察をひととり終えてもまだ、歌は延々と続いている。
 そして。

「GO! GO! GO! ゆ~う~~者、ロ~ボ~~~~♪」

 頭を抱えるカリンをよそに声は最後まで歌い切り、満足げに途絶えた。
 




「……は?」

 今のは何だ。歌を聞かせて終わりか? 生存者がいることを知らせる合図とか魔除《よ》けの歌とかそういう意味は一切《いっさい》ないのか? 
 この町に元々ある仕掛け《ギミック》なのだろうか。以前訪れた時は、駅前の店で足りないアイテムを買い揃えてすぐに出発してしまったから気が付かなかっただけで。
 交通量の多い交差点や時報代わりとして……と言うには採用した偉い人《町長や助役》の趣味を疑うが、田舎というものは多分に受け狙いで斜め上に行ってしまった看板や公共建造物《トイレや子供向け遊具》が存在する。此処《ここ》は言うまでもなく田舎だし、似たような過程を経《へ》た産物がないとは言えない。

 そう思っていると、ゴゥン、と重い音が足下で響いた。
 地面が揺れる。そしていきなり道に四角く切れ込みが入ったかと思うと、ぽっかりと穴が口を開けた。



 ……何だこれは。
 いや、これは所謂《いわゆる》、「秘密の抜け道」という奴《やつ》だ。冒険者経験があれば1度は見る機会がある。
 大抵は罠《トラップ》が大量に仕掛けられていて、それを越えた者だけがお宝を手にすることができるのだけれども、普通はダンジョンにある。間違ってものどかな田舎町に突如《とつじょ》現れるものではない。
 怪しい。
 いかにも「入れ」と言わんばかりの登場ではあるが、こんないかにもな場所に入る奴《やつ》なんかいるわけが……!

「ちょっと! そう思ってる端《はな》から進むんじゃないわよ!!」

 その横を淡々と追い抜いていったウィンデルダを、カリンは慌てて追いかける。
 しかし。

「いる」

 此処《ここ》へきてスピリチュアルな台詞《セリフ》発動とは!
 何が? ねぇ、何が!? その「いる」は「進む奴《やつ》がいる=ウィンデルダ」という意味なのか、得体の知れないアレが「いる」という意味なのかどっちですか!? マジであたし、こんなところ進みたくないんですけど!!
 帰りたい。
 心の底からそう思う。




 1歩足を踏み入れれば、ゴウ、と暗がりから風が押し寄せて来る。
 空を飛んでいる時に頬に当たる風に、此処《ここ》に来る時に感じたあの冷たい風に何処《どこ》か似ている。

 ヒタリ。
 ヒタリ。 
 そんな中で音が聞こえる。罠《トラップ》満載(予定)の秘密の通路のさらに先、暗闇だけが広がっている其処《そこ》からこちらに向かって歩いて来る人影らしきものも見える。


 カリンは身構えた。
 ひとり。
 背格好からして女性。
 足音がするということは幽霊じゃない。
 半分以上が風に乗って飛んで行ってしまったけれど、ウェストポーチの中にはまだ秘密道具が残っている。カペレガムもある。いざとなればガムを足下《あしもと》に投げつければ大抵の者は足止めできる。ミルほどになってくるとかわされる可能性も大なのだが、あんな超人が何人もいてたまるか!
 問題は背後の出口が閉まらないでいてくれることなのだが。
 カリンはウィンデルダの両肩を捕まえたまま、暗闇を凝視する。


「……カリン?」

 声が聞こえた。
 光が射す。顔が見える。
 見覚えがある、なんてものじゃない。半年近く一緒にいて、一緒に戦って、一緒に旅をして。干し肉を始めとする携帯食のレシピをたくさん教わって。
 魔王戦敗退とそれに続いたパーティ解散以降、会う機会は1度もなかった彼女は、

「リド!?」

 以前、同じパーティにいた料理人だった。




「此処《ここ》は氷室《ひむろ》なのよ」

 リドに先導されて、カリンとウィンデルダは暗い通路を歩いている。
 暫《しばら》く下り坂を下り続け、今歩いているのは平坦な道。しかし周囲がいかにも「掘りました!」とばかりの岩肌しか見えないので、平らなのか傾斜があるのか、感覚からしてわからなくなっている。
 距離だけはかなり歩いた。多分、集落の外に出てしまっているのでないだろうか。
 家や畑の下に大きな穴を掘って地盤沈下でもしたら事《こと》だから町外れに作ったのかもしれないが、本当に氷室《ひむろ》に向かっているのか、リドを信用していいのか、目の前の彼女はリドに化けた何かだったりしないのだろうか、と疑問は次々に沸いて来る。

 そもそもこんな大きな氷室《ひむろ》なんて聞いたことがない。
 氷問屋の中には洞窟で氷を保存する者もいるらしいが、このように穴を掘って氷室《ひむろ》を作るのは稀《まれ》だ。掘るだけでも労力が半端ないのに、穴の奥は空気が届かなくなるし、生き埋めになるおそれもあるし、素人にできるものではない。
 だからと言って職人を雇うにしても膨大な金がかかる。
 この町は悪魔の城があるせいで、年がら年中冒険者が訪れては金を落として行ってくれるから近隣町村よりは潤っている、と聞いたことがあるけれど。

 しかし何故《なぜ》氷室《ひむろ》?
 魚なら毎日獲れたてが食べられるし、近くに山まで付いているのだから野菜にも肉にも困りはしないだろうに。


「お隣のゼスがね、夏に氷を出して大儲《おおもう》けしたでしょ? あれを見て町長さんがうちもやろう、って言い出して」

 リドが言うには、海水浴が大当たりした隣町に便乗しようと言うことであるらしい。
 隣町に行くにはノイシュタインにまで汽車で来て、駅前から乗合馬車に乗る必要がある。徒歩圏、馬車圏以外の客は全てがノイシュタインを通る。
 ただの通り道に甘んじるのは勿体ない。
 でも砂浜のないノイシュタインでは海水浴客は呼べない。
 ならば大当たり要因のひとつでもある「夏に冷たい甘味」だけでも真似しようじゃないか!
 と言う町長の鶴の一声で、この氷室《ひむろ》計画《プロジェクト》が始まったのだとか。

 職人を呼び、町民も総出で手伝い、そして穴は完成した。
 今は冬の間に凍った湧水やら雪やらを掻き集めては貯める作業の最中で……悪魔に襲われたのもちょうどその作業中だったのだと言う。

「ってことは、皆無事、ってこと?」
「流石《さすが》に全員ってわけにはいかないよ。小《ち》っちゃい子や店番で作業に参加できなかった人もいたし。でも6割くらいは逃げられたんじゃないかな」

 全滅よりはよかったよね、と微《かす》かに笑うリドに、言葉どおりの喜びは感じない。
 襲われたら全滅前提の人間狩りで6割も生き残ったのは喜ばしいことだが、それ以上に亡くなった人々に対する申し訳なさを背負ってしまっているのかもしれない。
 ロンダヴェルグでも見かけた。「自分よりも、未来のある子供が生き残ればよかった」、「稼ぎ頭の夫が生き残るべきだった」と嘆く人々を。



「……でも生き残ったのはいいことだわ。綺麗ごとだけど、生き残った者にはまだやることがあるから生き残ったのよ。嘆いていても何も変わらない」
「やることが……そうよね。きっと、だから生きてるのかもね」
「リド?」

 何かにひとりで納得しているリドを横目に、カリンは背後を振り返る。
 リド登場以来空気と化しているウィンデルダはどうしているのかと見れば、自分たちの話になど全く興味もないようで、物珍しげに壁を触りながら歩いている。

 あたしはジルフェからあの子《ウィンデルダ》を託された。冒険者から足を洗った今、あたしが生きるのはあの子を生かすためだ。
 生き血だ肉だ鱗だと狙われやすいドラゴンを、せめて巣立つ時までは。
 カリンは黙ったまま、視線を背後から前に移す。


 そんなカリンの頭の中などまるで気にもしていない様子で、リドは氷室《ひむろ》の説明を続けている。町を挙げての一大プロジェクトらしいし、自慢したい部分もあるのだろう。
 が。

「ああいう入口が町の中に4箇所あるの。公道に面しているのはさっきのだけだけど、あとは駅舎の待合の下とか、民家の竈《かまど》の奥とか、」


 竈《かまど》の奥って何だ?
 灰を掻き分けたら入口が出て来るのか?
 どうして普通の入口にしないんだ? 
 ヒーローもので秘密基地に向かう時に壁や床に隠し入口が現れる演出があるけれど、それを模《も》しているのだろうか。先ほどの変なアカペラも「ロボ」だの「正義」だのと言っていたし。

「そう言えば変な歌が聞こえたけど、」
「ごめんねぇ。エリくんがノリノリで歌い出したら止まらなくなっちゃって」

 まさかとは思うが、本当に歌っていたのか? 録音ではなしに。
 あの入口を開けるのに必要だとか、そういうわけでもなく?
 何のために? と聞きたいが……何だか墓穴を掘りそうな気がするのはどうしてだ。


「……さっきの入口も、あれ、どうやって開けるわけ? 人力じゃないわよね」

 だから歌以外の疑問を優先させる。
 道にぽっかりと開いた入口から始まって、何かいろいろと非常識が常識だ。
 空前のブームに乗ろうと、どんな形であれ氷室《ひむろ》の完成を急いだのはわからなくはない。急いだからこそ設計士がこっそり紛《まぎ》れ込ませた秘密基地趣味もチェックが入らないまま通ってしまったのだろうというのも……大金が動く事業にしてはあまりにも杜撰《ずさん》だと思うがわからなくはない。
 けれど! ツッコミどころ満載なのにリドを始め誰もツッコまないのは何故《なぜ》だ!
 完成してからではどうしようもないから諦めてしまったのか!?
 それともツッコミすぎて慣れたのか!?
 他とは違うオリジナリティとか、慣れて来ると童心に帰るようで楽しいとか……それって言いかえれば住民も染まって《毒されて》いるということじゃないのかーー!?!?

「人力よ? 詳しい技術はわからないんだけど、梃子《てこ》の原理とかいろいろ組み合わせてあるみたい。あの入口は開閉に男衆が10人は要るから滅多に開けないんだけど、カリンを迎えにね、開けてもらったの」

 横文字がズラズラ並んだ説明が出て来なかっただけありがたい、と思ってはいけない。「秘密基地には素人《しろうと》のあたし」にもわかるように、簡単な言葉に訳してくれているだけとも考えられる。



 リドが言うには、鏡を何枚も使って遠方の景色を目の前にあるように見る設備もあるのだとか。
 人間狩りから1週間、それで町の様子を窺《うかが》っていたらカリンの姿が見えたので、だそうだが……だとすると例の「自分《カリン》を呼ぶ誰か」とはリドのことだったのだろうか。
 確かに久しぶりの再会は嬉しい。
 が、|腑《ふ》に落ちない。
 彼女の言葉からは「たまたまカリンを見つけた」というニュアンスしか伝わってこない。会いたいと思っていたわけではなさそうに見える。
 当時のメンバーはリド以外にもいる。別れて何十年も経《た》っているわけではないから懐かしいというほどでもないし、実際、彼女《リド》がノイシュタインにいたことも人間狩り被害に遭《あ》ったことも知らなかった。「何処《どこ》かで村人Aとして平和な暮らしをしているのだろう」と思っていた。
 そして人間狩りに遭った今ですら、それほど困っているようには見えない。
 助けを乞うようにも見えない。
 町の復興に運び屋の力が借りたいのかとも思ったが、彼女《リド》は自分が運び屋をしていることすら知らないし、知ろうともしない。

 まぁ、ウィンデルダの言《げん》そのものが「問い詰められて口から出まかせをいっただけ」ということも、微粒子どころではないレベルで存在するけれども。




「着いたわ」

 考え込んでいたカリンの耳にリドの声が飛んできた。
 と同時に冷たい風が吹き込む。
 帽子を押さえたカリンの前には、まるでラスボスがいる部屋にある重厚な扉が鎮座していた。巨大な怪獣(多分に竜だと思われる)と怪鳥が口から火を噴いて戦っている図が描かれている。


 ……何だこれは。

 氷室《ひむろ》って言ったわよね?
 氷室《ひむろ》に怪獣と怪鳥は必要ないわよね?
 炎吹いてる絵なんて、氷の収納庫に飾る絵じゃないわよね?

「ね、ねぇ、リド」

 もしかして騙されたのだろうか。
 やはり彼女はリドに似せた別の誰かでしかなかったのだろうか。
 だって、これはどう見たって氷室《ひむろ》じゃない。設計士の趣味だとしてもこれはない!

 が、しかし。
 当のリドはカリンの困惑など無視したまま扉に向かって両手を上げる。そして。

「さあ、開かれるが良い! 我が名はリド! 遠き大地より招かれし我らが友を連れて参った!」
「ちょ、」

 変な宗教ですかーー!?
 どうしよう、秘密基地みたいだとは思っていたけれど、悪の秘密結社のアジトだったかもしれない!
 そうよね、聖教会関係者で固められたロンダヴェルグっていう見本があるんだもの、住人全てが悪の秘密結社の社員って町もあるわよ!

 思わず後退《あとずさ》るカリンの前で、扉の中央に亀裂が入る。
 ゴゴゴゴ、といかにもラスボス風の音を立てながら、扉は左右に開いていく。




 カリンの目の前には到底氷室《ひむろ》とは言い難い光景が広がっていた。
 銀色に光る壁と、天井からつり下がった何本もの管。床に走る蛍光色の線は何を意味しているのだろう。
 そして最も目を惹くのは部屋の中央に据えられた、金属の板を組み合わせて作ったであろう巨大な人型。大きすぎて頭が天井につかえている。

 往路、いや、例の怪獣大決戦図が入った扉まではそれなりに氷室《ひむろ》だった。だがこれはどうだ。
 氷室《ひむろ》と称していたくせに氷はない。部屋の奥に続く扉があるからその先にあるのだろう。そう信じたい。
 此処《ここ》は出入口に直接通じているから、人が通る度に温度が上がってしまって氷を保存するには向かない。それにきっと土の重みで潰れてしまわないよう、壁や柱を増やす目的で小さい部屋を多く作っているのだ。あの巨大な人型は大黒柱のようなもので、壁が金属の板で覆われているのも補強のためだ。きっとそうだ。
 だが。
 壁に沿ってつり下がっている潜水艦の潜望鏡のようなアレは何だ? リドが外を窺《うかが》うのに使っていたのがあの中の1本なのだろうとは推測できるけれど、他は空気穴か? それとも町の至る所を見ることができるように何本もあるのだろうか。
 運よく人間狩りの被害には遭わなかったけれど、此処《ここ》では外の様子がわからない。だから安全が確認できるまで外の様子が見られる設備を……って、いや、潜望鏡を取りつける穴なんて外から工事する必要があるし、後で追加するのは無理だ。絶対に最初からあった。あの入口や怪獣大決戦の扉と同様、設計士の趣味に違いない。


「よく参られた。新たなる友よ!」

 そしてもうひとつ。
 背中に剣を背負《せお》ってふんぞり返っているこの男は誰だ。町長にしては随分と若いようだが、この男がこの氷室《ひむろ》(自称)の責任者なのだろうか。
 それとも自分《カリン》を呼んだのがこの男、とか?

「(いや、友になったつもりはないし)」 

 小さく呟いたつもりが、「何か言いましたか!」と直視されて思わず目を逸《そ》らす。
 逸らしている間も「もしかしたら何処《どこ》かで会っているかもしれない。友達の友達は全員友達だ! 的な思考の持ち主なら勝手に友認定するかもしれないし」と記憶をひっくり返して見渡していたのだが……それでもやはりこの男に見覚えはない。
 ストーカーだろうか。友達になりたいから呼んだんだ、だとしたらキショい《気色悪い》どころの話ではないけれど、でも隣にはリドもいる。扉の向こうにもきっと倍以上の人がいる。大声を出せば身の安全は確保できる。

 この男が悪の秘密結社のトップでなければ。

 カリンは男を、そして周囲を見回す。
 大丈夫。悪の秘密結社だって1枚岩じゃない。
 中盤で主人公サイドに寝返る敵なんて定番中の定番だし、誰かひとりくらいは助けてくれるはず!
 空想世界《フィクション》が理由になるかは知らないが、この状況下で他に縋《すが》れそうなシチュエーションを自分《カリン》は知らない。



 そんな中、男は前髪を掻き上げた。

「ふっ、自己紹介が遅れてしまったね。僕はエリック。この秘密組織の参謀《ブレイン》さ」

 自分で秘密組織って言うな。
 此処《ここ》は氷室《ひむろ》! いるのは町からの避難民!
 カリンは頭の中だけで否定し続ける。


「やあ、この最新設備にぐうの音もでないようだね。それも仕方ない、皆最初はそうだったよ」

 やはりリドたちは洗脳されているのだろうか。

「僕としては湖の湖面にツツーって線が入ったかと思うとそこから左右に水が割れて、秘密基地や勇者ロボの発進射出機《カタパルト》が出て来るような仕組みにしたかったんだけど、防水処理がうまく行かなくてね」

 これは氷室《ひむろ》!
 秘密基地も勇者ロボも射出機《カタパルト》もいらない!

「まぁ、プロトタイプだから妥協している点はいくつかあるかな」

 こぉぉぉれぇぇぇはぁぁぁぁ! 氷室《ひむろ》! HI・MU・RO!!
 どうしよう。ツッコミどころが多すぎる。


「ああそうだ。町長《マスター》は今、氷を溶かして飲み水を作る作業中だから失礼させてもらうよ」
「……………………いや、別に町長に会いに来たわけじゃないから」

 町長に水を作る作業をさせておいてお前《参謀》は何をしているのだ。
 その前のくそ長い自慢話からしてツッコむか嫌味を言う以外の展開が思い当たらない。だからさっさと話を進めてくれ。カリンは冷淡に切り捨てる。
 ふっ、と笑った時に歯が光ったが、見なかったことにする。野生の勘もそうしろと言っている。


 冷ややかな空気は此処《ここ》が氷室《ひむろ》だからというだけではない。
 あたしの視線も絶対に冷たい。
 そんな漂う冷たい空気を読んでくれたのか、進むようで全く進まない展開に見えない部分で巻きが入ったのか、唐突にリドが口を挟んだ。

「そう、それでね。カリンに会わせたい人がいるの」




 その人は氷室《ひむろ》の中のひとつの部屋にいた。蝋燭《ろうそく》を付けると酸素が減るから、という理由ではないだろうが、灯りのない真っ暗な部屋で何をするでもなく、ぼんやりと壁に向かって座り込んでいる。
 髪が伸び放題に伸びているが、肩幅や骨格からして男だろう。ボロボロになった服は長旅の冒険者というよりも浮浪者のようだ。

 リドはそんな男に歩み寄ると、両肩を抱き寄せて「カリンが来たわよ」と囁く。
 まさかとは思うがこの男があたしを呼んでいる、と? さっきの参謀《ブレイン》といい、あたしって何処《どこ》まで男運がないのよ、と思わず嘆きたくなるが、人間、見た目で判断してはいけない。実は何処《どこ》ぞの国の王子でした、なんて展開は期待していないけれども。

 男はゆっくりと振り向く。
 虚《うつ》ろな目がカリンに向く。

「………………アルド?」
「……」

 頬がこけ、目の下の真っ黒なクマとボサボサの長髪のせいで勇者と呼ばれたころの容貌は何処《どこ》にもないけれど、これは確かにアルドだ。リドにわかって自分《カリン》にわからないはずがない。
 だが、目は確かにカリンを映すように向いているが、男の顔には何の変化もない。認識したようにも見えない。
 
「リド、これは」
「山で拾ったのよ、少し前に。ほら、ノイシュタインの近くに山があるでしょ? あの中腹にお城の跡があって」
「悪魔の城でしょ? そんな遠回しな言い方しなくたってわかるわよ」

 アルドもリドも同じパーティのメンバーだった。
 自分たちはあのマスターランクのダンジョン「悪魔の城」攻略に来て、そして負けたのだ。気を失ってひっくり返ったままのアルドを置いて、彼女らはさっさと山を下りて行ってしまった。
 そのアルドが何故《なぜ》此処《ここ》に。
 もしかして悪魔の城に再挑戦したのだろうか。また打ち負かされたのだろうか。でも。

「悪魔の城? 何それ」

 まただ。
 眩暈《めまい》がしそうになるのをカリンは足を踏みしめて耐える。
 冒険者組合の依頼書の中から悪魔の城だけが抜け落ちていたように、あたしがずっと忘れていたように、リドも悪魔の城のことを忘れている。

「悪魔の城、ノイシュタイン城よ。そこに魔王がいるって言われてて、マスターランク依頼で、あたしたち一緒に挑戦しに行ったじゃない」
「あたしが?」

 案の定、リドは目を瞬かせる。

「ノイシュタインは悪魔の城があるせいでやって来る冒険者にか事欠かなくて、彼らがアイテムを買ったり、武器や防具を新調したり、修理したり、宿に泊まったりして落とすお金でこんなに広い氷室《ひむろ》を作れたのよ」

 氷室《ひむろ》の費用に関しては憶測の域を出ていないが、全く違う、ということはないだろう。
 この町は悪魔の城の恩恵を受けていた。
 なのに、それすら忘れている。リドだけではなく此処《ここ》の何処《どこ》かにいるという町長も、そして町の人々も。そして先ほどの参謀《ブレイン》も――。


「――そうだよ。リドさんは言ってた。前にパーティを組んでた冒険者がまた悪魔の城に挑戦しに来るかもしれないから、って。その時に彼らを応援できるようにこの町でパン屋を開くのが夢だって」

 いきなり背後から声をかけられたが驚きはしない。先ほどの参謀《ブレイン》だ。リドの知り合いだとは言え部外者だし、アルドの知り合いでもあるようだし、ということで様子を見に来たのだろう。
 が、問題にすべきは其処《そこ》ではない。

 リドは確かに覚えていた。
 自分が悪魔の城に挑戦したことを。
 なのに、今は知らないと言う。アルドのこともあたし《カリン》のことも覚えているのに。


「ってことはあんたも知ってるの? 悪魔の城のこと」

 そしてリドが忘れている悪魔の城のことを、この男は覚えている。
 この男は何者だ?
 悪魔の城が自分《カリン》の記憶を含めた一切から消えてしまったことについて、何か知っているのだろうか。




「知ってるよ」

 参謀《ブレイン》ことエリックはヒソリ、と声をひそませた。
 彼が言うには、今は魔王が不在のため、魔王の城そのものが人々の記憶から消されているらしい。全世界の人間の記憶にひとり残らず干渉するなんてできるわけがないと思ったものの、実際にその現象が起きているのだから嘘だとは言えない。
 エリックとルチナリスは魔王城が閉鎖された当日に城にいたので記憶の干渉を受けずに済んだそうだが、その理由も定かではない。ただ自分《カリン》が思い出したように、記憶そのものを消すわけではなく引き出しに鍵をかけて取り出せなくした状態なので、魔王が復帰すれば悪魔の城の記憶も戻って来る可能性が高いし、今でも探せば同じように悪魔の城のことを思い出している人もいるかもしれない、ということだった。


「……でも、あんたが本当のことを喋ってるっていう証拠はないわよね」

 やっと見つけた悪魔の城を知る人物ではあるが、理由として出て来たものがあまりにも荒唐無稽《こうとうむけい》すぎて逆に信用できない。初対面時の参謀《ブレイン》になりきっている様《さま》といい、どうにも口先だけで世の中を渡って来たような印象を受ける。第一、剣士の命とも言うべき剣が2割引で売っていた聖剣というところからして偽物《パチモン》ではないか。
 カリンは項垂《うなだ》れて座り込んだままのアルドを一瞥《いちべつ》する。
 そう言えば彼が大事にしていたジーザスフリードは何処《どこ》に行ったのだろう。パンを買う金すらなくなって、雑草を齧《かじ》っていた時代ですら手放そうとしなかった剣なのに。打ち直しにでも出しているのだろうか。


「それで、その魔王は何処《どこ》へ行ったの?」

 しかしアルドに聞いたところで返事が返ってくるとは思えない。もしかして廃人のようになっているのはジーザスフリードを失くしたからかもしれないし。
 カリンは行方不明になっているもう1本の聖剣のことを頭の隅に追いやり、再びエリックを見据えた。

「魔界に連れて行かれたらしい」
「魔界? って、るぅちゃん……ルチナリスたちが行った、あの!?」
「そう。お姉さん、ルチナリスさんの知り合い?」

 と言うことは、この男が例のノイシュタインに行ったまま戻って来ない仲間なのだろうか。
 しかし何故《なぜ》その仲間がこんなところに?
 悪魔たちから町民を守りつつ此処《ここ》で身を潜めていたのはわかる。だがそれから1週間以上経《た》ち、外に悪魔はもういない。隠れていたからそれを知らないのは置いておくとしても、此処《ここ》で秘密組織ごっこをし、アカペラで1曲歌う必要はない。
 それに。
 自分《カリン》を招き入れるために女ひとりを向かわせる時点で、外は安全だと認識していたのではないか?

 やはり魔界に行くのが嫌になった、と考えるのが普通だろう。
 なんと言っても魔界だ。悪魔の本拠地だ。ルチナリスのように目的があってもあれだけウダウダと悩んでいたのに、確固《かっこ》とした目的もない(と思われる)者なら尻込みして当然だ。真の勇者なら危険を顧《かえり》みずに突っ込んで行くのだろうが、この男の聖剣は2割引だし。


「……ルチナリスは魔界に入ってしまったわ」

 あんたが来るってずっと信じて、ね。
 どうせこのウスラトンカチは言外に滲《にじ》ませた嫌味になんか気付かないでしょうけど! カリンは立ち上がると、

「行くわよ」

 相変わらず空気と化しているウィンデルダの腕を取った。


 胸糞悪い。
 ルチナリスらはずっとこの男が戻って来ることを信じていた。訳《わけ》があって戻るのが遅れているのだろう、もしかしたら人間狩りに巻き込まれたのではないか、と心配すらしていた。
 なのにこの男は! 何が秘密組織だ! 何が参謀《ブレイン》だ! 貴様に正義を謳《うた》う資格などないわ!!

 腹立たしいのは、自分もこの男と同類だからだ。人間界に残ることを選んだ自分にエリックを責める権利はない。ないからこそ、腹立たしい。
 この男に。そして自分に。


「カリン?」
「帰るわ。リド。アルドのことをお願いね。ってあたしがお願いする必要なんかこれっぽっちもないんだけど」

 唐突な変化にリドが目を瞬かせているが、もう視界にも入らない。
 廃人同然のアルドも同様だ。昔、リドとアルドで韻《いん》を踏んでいるのが姉弟《きょうだい》みたいだ、などと言っていたから今でもそのつもりでいればいい。パン屋をこの町で開くことだって、他の誰でもない、アルドが立ち寄るのを待っていたのだろうし。


 とは言え、帰ったところで魔界に行くわけでもない。
 ただ自分が逃げているという事実に直面し続けるのが嫌なだけだ。
 ここからも、逃げているだけだ。

 今頃、ルチナリスたちは、いや、ミルはどうしているだろう。
 悪魔たちのほんの一握り程度に襲われただけでロンダヴェルグもノイシュタインもこのざまだ。それよりずっと大量の悪魔がいる地にたった4人で行って、生きて帰ってこられるはずがない。

 そんなところに、あたしはミルを行かせてしまった。
 でも助けには行けない。行かない。卑怯者。
 ああ、頭の中がグチャグチャだ!


「カリン。メイシア様は」
「勝手に空飛んで帰ればいいでしょ! 探す義理はないわ」

 メイシアもメイシアだ。
 飛ぶドラゴンについて来られるほどの能力があるのなら一緒に魔界入りしてルチナリス《加護を授けた娘》の手助けになってやればいいものを!
 ジルフェだって嫌われる要素しかない嫌がらせを振って鍵を渡すくらいならもっと直接的に助けてやればいいものを!
 違う。1番はあたし。ウィンデルダを理由にして逃げた卑怯者のあたしが1番――



 踵《きびす》を返し、扉を開けたカリンの目の前で雪崩《なだれ》が起きた。
 扉の向こう側で聞き耳を立てていたのであろう女性たちが、内開きの扉と共にわらわらと押し寄せてきたのだ。彼女らは床に転がり、さらにその上に積み重なりながらも一斉にまくし立てる。

「本当にるぅちゃんは魔界なんぞに行ったのかい!?」
「死にに行くようなもんじゃないか!」
「何のために!?」

 どうやらルチナリスの知り合いらしい。彼女はもともと此処《ここ》に住んでいたのだし、こんな小さな町なら全く顔を知られないままというわけにもいかないだろう。それこそ年端もいかない子供の頃から地域ぐるみで育ったに違いない。

「あ、えっと、確かお兄さんを連れ戻すんだ、って」

 そして彼女は義兄《あに》を連れ戻すために魔界に行った。
 けれど……ほんの少し前、エリックも似たようなことを言わなかっただろうか。
 確か、

「お兄さん!? るぅちゃんにお兄さんなんていたかい!?」
「と言うか、るぅちゃんって何処《どこ》の家の子だったかね!?」
「……は?」

 ちょっと待て。
 何処《どこ》の家の子かわからないって、どういうこと?
 それにさっき引っかかったアレ。アレは確か、

「そうそう! 思い出したよ! いたじゃないか、あのやたらと綺麗な坊ちゃん然とした、」
「ああ! いた! いっつも後ろにのっぽのお兄さんが貼りついてる、」
「そうそう! 距離感がね、ちょっと近いのよねあのふたり。だから妖《あや》しいって噂になって、」
「でもあの坊ちゃんのお嫁さんになるのはるぅちゃんじゃなかったのかい!?」
「……………………は?」

 ちょっと待て(2回目)。
 兄妹で結婚? そんなことが許されるのか?
 ああ、でも兄は兄でも義兄《あに》だった。文字で書けば一目瞭然だけれども会話だけでは絶対に気付かないトリックをどうして見破れたのかは大目に見てもらうとして、血が繋《つな》がらない兄だとか、兄と呼ばせているだけだたとか、世の中にはいろんな兄がいるじゃない、ってそれよりアレよ。アレは、

 女性陣《おかみさんがた》の情報交換《お喋り》は途絶えることを知らない。おかげで考えに集中できない。
 カリンは物理的に両手で耳を塞《ふさ》ぐ。塞いだところでこの騒音を遮断することなどできないのだけれど。

 思い出せ。今さっきのことだったじゃない。
 エリックは何て言った?
 悪魔の城が人々の記憶から消えたのは?
 魔界に連れて行かれたのは?

 魔界に連れて行かれたのは……ルチナリスの義兄《あに》。ではなくて。



「ま、お……?」

 そうだ。魔王と言わなかったか?
 それで悪魔の城から魔王が不在になったせいで、人々の記憶から悪魔の城そのものが消えた、と。
 しかし女性陣の話は。

「ちょっとエリック! どういうことよ!」

 カリンは再び踵《きびす》を返すとエリックの襟首を掴《つか》んで締め上げた。

「魔界に連れて行かれたのは誰!?」




「……ルチナリスさんのお兄さんだよ」

 吊るし上げられたままエリックは静かに呟く。

「この町の領主様だった人だ。みんな忘れてるんだ。あの人の存在を、あの日を境に」

 演説めいた口調はカリンに、と言うよりも、この場にいる女性陣《おかみさんたち》に向かって言っているように聞こえる。

 悪魔の城の記憶が消えているのは、記憶の引き出しに鍵がかかっている状態なだけ。だから、何かきっかけがあればそれが鍵の代わりになる。
 その記憶干渉は本来、悪魔《魔族》の存在を隠すためのもの。
 悪魔の城を。そこに存在した者を。魔王を。
 だが、その中に入り込んでいた異物《ルチナリス》までは対象とならなかった。女性陣が立て続けに思い出したのも、記憶消去の対象とならなかったルチナリスという「ただの人間の娘」の存在が引き金になっている。
 そして中途半端に思い出された記憶は、本来封じているはずの記憶を引っ張り出す。矛盾が生じる。


「この氷室《ひむろ》の費用、実のところは町の収入よりも大部分を出してるのは領主様だった。それだけじゃない。海の魔女の時の見舞金も、他の町に橋を架けたのも。でも全部忘れてる。お金が何処《どこ》かから湧いて出たことになってるのに、誰もそこをおかしいと思わない。矛盾してるのに気付かない」

 記憶干渉は悪魔の城に関して起きる。
 悪魔の城の存在。其処《そこ》にいた悪魔の――魔王の存在。
 そして魔王の、もうひとつの顔の存在をも。


「新しい領主様が来たら、あの人のことは全部、本当に忘れてしまう。今までの領主がどんな人だったか覚えてる? 誰も覚えてない。でも誰もおかしいと思わない。
 ルチナリスさんは怖がってたよ、新しい領主が来た時に、今度こそ自分の中からお兄さんの記憶が消えるんじゃないかって」

 記憶を手放さずに済んだのは想いの強さによるものか、ただ単に位置的なものだったのか。
 もし後者なら、新たな領主――新たな魔王が着任した時点で、ノイシュタイン城を離れてしまっている彼女《ルチナリス》の記憶も塗り替えられるおそれがある。10年共に過ごした人を、その存在を、思い出を永遠に失うことになる。


「……どうして……あんたはそんなにも知ってるのよ」

 呻《うめ》きながら吐き出した問いの答えも、もうカリンの頭の中には出ている。
 エリックの記憶もルチナリス同様干渉されていない。だから人々の記憶がどう変わったかがわかる。同じように干渉を受けなかったルチナリスや、領主を目の前で連れ去られたというグラウス。彼らの持つ情報から再構築すれば、何が起きたのかも、何が原因かも予想がつく。


「領主様って……ああ、そうだよ。領主様だ。あの子、病気で臥《ふ》せってたって聞いたけど」
「そう言えばあののっぽのお兄さん、血だらけになって町長さんの家に運び込まれなかったっけ?」
「もしかして攫《さら》われたのを隠してたのかい!?」

 女性陣はずっと喋り続けている。
 ルチナリスを知っているのだから義兄《あに》ともそれなりに交流があったのだろう。忘れていた記憶は全部、10年分の自身の過去と繋《つな》がっている。

「領主様って言えば悪魔が逃げていく血を持つ一族なんだとかって。あれ、冗談だと思ってたんだけど……そう言えば、あの領主様が来てから、一度も悪魔に襲われたことなかったね」
「悪魔の城の悪魔も町には来ないようにするって言って、本当に来なかったわ」
「それじゃあこの間悪魔が来たのは、領主様がいなくなっちまったから起きたってことかい」


 話を聞けば聞くほど、ルチナリスの義兄《あに》という人は人々から好かれていたようだ。
 だが彼は。あたしの推測が正しければ。

「ルチナリスのお兄さんって、本当は」
「……真実を知ろうとすることがいつも正しいとは限らないよ、お姉さん。誰かを守るための嘘もある。お姉さんの”知る権利”が誰かを傷つけることもあるんだ。わかってる?」

 襟首を掴まれ、吊るし上げられたままエリックは自分《カリン》を見下ろす。その目に、言いかけた続きが止まった。


 正確には嘘ではない。知っていて黙っている、が正しい。
 エリックは知っている。自分《カリン》が今しがた白日《はくじつ》の下《もと》に曝《さら》そうとしたものを。しかしそれを曝《さら》せば、ルチナリスの義兄《あに》は2度とこの地に戻って来ることはない。この町の人々がその事実を受け入れることも、きっと、ない。


 ――ダカラ 黙ッテルノガ 良イコト ナノ?


 ルチナリスの義兄《あに》は魔王だ。魔王と言えば悪魔のラスボス。もしかしなくても敵。多くの勇者が、そして自分も彼の前に膝を付いた。
 領主と言うのは人々を欺《あざむ》くための仮の姿だろう。悪魔が人間以外に何を食べるのかはしらないが、庭で家庭菜園するにしろ、山で獣を狩るにしろ、第三者に見られる可能性は高い。城に住んでいると知られれば、当然、悪魔との関与を疑われる。
 しかしルチナリスの義兄《あに》のように、下手に隠すどころか「悪魔が逃げていく血を持つ一族」などという設定を持ち、実際に悪魔を封じ、町の発展に尽力し、そして人間の顔で交流までしてみせれば、誰が悪魔《魔王》だと思うものか。
 
 町の人々はきっと知らない。忘れているわけではなく、最初から。
 今でもエリックとカリンが口を噤《つぐ》んでいるせいで、領主の正体を知らないままでいる。だから思い出を口にし、無事であることを祈っている。
 だが、どれだけ見てくれが良かろうと、町の発展に寄与しようと、人間を妹にしてようと、悪魔だ。それを知れば……そう簡単に「この人だけ例外」なんて割り切れやしない。
 もし百歩譲って町の人々全員が彼を肯定したとしても、町外の人々はそうもいかない。情報の流出を止めることは無理だし、それを聞きつけて討伐に来る人をその都度説得することも無理な話だ。


 ――悪魔ハ 人間ヲ 狩ル 敵。


 しかも魔王。
 自分《カリン》もアルドも他の大勢の勇者たちも、彼に負け、苦渋を飲んだ。
 

 ――悪魔ハ 敵ダ。


「町に居座ってたでっかいドラゴンも何時《いつ》の間にかいなくなってたけど、」
「領主様が連れて行かれたから、人間狩りが起きたの、か?」
「今までも、あたしらの知らないところで領主様が食い止めてたのかい? もしかして」
「そんな子が悪魔に連れて行かれたって、もしかして処刑されるんじゃないだろうね⁉」


 エリックを吊るしていた腕から力が抜けた。
 ドスン、と床に落ちたエリックをカリンは黙ったまま見下ろす。


 そうだ。もし悪魔だったとして。
 彼は何故《なぜ》魔界に連れて行かれたのだ?
 グラウスが血だらけになって町長の家に運び込まれたのは何故《なぜ》だ。
 ただの里帰りではない。止めることも叶わず、連れて行かれたのだ。


 ――敵。


 だけど。 
 悪の組織が1枚岩ではないように。
 ヒーローものの中盤で、裏切って味方に付く敵の幹部がいるように。
 ルチナリスの義兄《あに》がもし、人間の味方でいたのなら。
 彼は、それでも「敵」と言えるのか?




「――だから行ってくれないか? エリック。いや、勇者よ」

 そして新たな声がした。
 したほうを見れば、禿《は》げ頭の中年男性が立っている。首にかけたタオルで顔から頭から拭き上げている様《さま》は「何処《どこ》までが顔で何処《どこ》からが頭かわからない」という皮肉混じりの笑いを誘うけれども、流石《さすが》にこの状況で笑う者はひとりもいない。

「随分と引き留めてしまったが、外に悪魔がいないことも確認できた。再び襲って来ることはないとは言えないが、奴《やつ》らとて狩り尽くしたと思っているだろうから当分は来ないだろう。
 後は我々だけでもできるし、むしろ我々がすることだ。きみはきみの使命を果たしてくれ」
「町長《マスター》……」

 どうやら町長らしい。土木作業の人にしか見えないが、ずっと避難していたわけだし、今しがたまで「氷を溶かして水を作る作業」とやらをしていたらしいし、逆にこれでスーツ着用で出て来られたら「何だこいつ、TPOもへったくれもない」と思うだろう。これはこれでいい。

「そうさ、行っとくれ。あんたは勇者であって警備員じゃないんだからね!」
「行って、るぅちゃんと領主様を助けとくれ」

 女性陣《おかみさんがた》も口々に言い募《つの》る。

「大丈夫! 僕のこの聖剣があれば悪い悪魔なんてバッサバッサと切り捨てて、あっという間に助けてくるから!」

 そしてエリックはと言えば、背負《せお》った剣を燦然《さんぜん》と引き抜……くのは無理だったので鞘《さや》を固定しているベルトを揺すってみせる。カチャカチャと鳴る音に、アルドが僅《わず》かに顔を上げる。


 勇者、勇者と崇《あが》められて得意げになっているように見えなくもない。
 だったらこんなところで秘密組織ごっこの参謀《ブレイン》なんてやっていないでさっさと行けよ、と思わなくもない。
 町長の言い方からすると貴重な対悪魔用の戦力だし(2割引だけど)、自分たちの安全が確定できるまではいてほしいと乞《こ》うたようにも聞こえるが、この趣味満載の氷室《ひむろ》といい、半分は立ち去りがたくて居残った部分もあるのではないだろうか。ルチナリスと共にロンダヴェルグに来て、そのまま魔界に行く予定だったところからして製作《穴掘り》には携《たずさ》わってはいないかもしれないが……このノリの良さ、設計の段階では噛んでいたに違いない。


 町長の登場で何となくいい話にまとまりそうではあるのだが、納得しきれない部分はいくらでもある。
 前述したが、目的があるのにエリックが此処《ここ》でダラダラと遊んでいた理由《わけ》。依頼を受ける受けないは冒険者当人の勝手だが、受けておいてすっぽかすのは癪《しゃく》に障《さわ》る。
 メイシアが此処《ここ》に行けと言った理由《わけ》。この男《エリック》を魔界にまで運べという意味なら最初からそう言えばいいのに、彼女は言わなかった。他にもっと重要な目的があるのではないだろうか。
 リドがアルドに会わせた理由《わけ》。アルドが廃人になってしまった理由《わけ》。アルドの剣が行方不明の理由《わけ》。
 悪魔の城を皆が忘れてしまった理由《わけ》。
 そして何より隔《へだ》ての森を通る術《すべ》がないのにどうやって行くつもりだ?

「どうやって行くつもりよ。ミル、いや、ルチナリスたちはもう魔界に入ってしまったわ。其処《そこ》に行くには鍵がいるんだって言ってたけど、あんたは持ってるの?」

 どんな鍵かは見せてもらっていないが、それがなければ魔界に――隔《へだ》ての森は開かれないのだとグラウスは言っていた。それが逆に悪魔が好き勝手に人間界に入って来ることへの抑止力にもなっているのだとか。
 向こう側から来ることにも制約を付ける意味があるのかと当時は首を傾げたが、きっと小魚を再放流《リリース》せずに狩り尽くすような馬鹿はどの世界にもいるのだろう。そのせいで悪魔がこちらの世界に入り放題にならずに済んでいるのだから、此処《ここ》は素直にありがとうと面倒な鍵システムを考え出した人に感謝を述べたい。

 そしてもしエリックが鍵を持っていたとしても、魔界の何処《どこ》に行けば彼女らと合流できるのか、その場所までの道のりを知っているのか、建物ならどうやって入るつもりか、そんな様々な問題も山積みだ。
 アンリとグラウスは地図も持っていたし、巨大なリュックにもいろいろと詰まっていた。
 他人の鞄《かばん》を漁《あさ》る趣味などないから中に何が入っていたかは不明だが、もし魔界入りの必須アイテムがあるのだとしたら、「行ってくれ」「行くよ」で簡単にどうこうできる問題ではない。

 こんな時、消息不明になっているあのタラコ唇《メイシア》なら、

「妾《わらわ》に任せるが良い!」

 と甲高い声で飛び出してくるのだろうが……少しは期待して待ってしまったものの、彼女は現れない。
 此処《ここ》にはいないのだろうか。あんななりでも一応は四大精霊のひとりだし、きっと困った時には助けてくれるだろうと無意識に思い込んでいた事実に我ながら驚いたりもしたけれど、でも、いない。

 まぁ、それもそうだろう。
 氷室《ひむろ》への通路はどれも演出に無駄なこだわりがある。そして悪魔から逃れ、今の今まで見つからずに隠れていられたことからして、見つけにくく、入りにくい。自分《カリン》たちが通った道がきっと1番大きな通路だと思われるが、あの時もメイシアの姿はなかった。
 それにあんな不細工な人形が空を飛んで喋ったりしたら、それこそ「悪魔が来た」と女性陣《おかみさんがた》が発狂する。
 そうも思っていたのだが。


「大丈夫だよ。少し前にこれを拾ったんだ」

 エリックが取り出した”これ”にカリンは卒倒しそうになった。
 何だよ、やっぱり出て来るんじゃないか! ではなくてーー!!!!

 期待して、裏切られたと思ったらそうじゃなかったけれども、思っていたのとちょっと違う、という中途半端さが胸の中でモニョ、と引っかかる。そんなカリンの複雑すぎる心境など解せず、エリックは人々に”これ”を見せびらかしている。

「これはかつてルチナリスさんが海の魔女に魂を封じられた人形なんだ。何処《どこ》に置いてもルチナリスさんの近くに戻って来る不思議な人形でさ」

 何だその逸話は。
 捨てても捨てても戻って来るって、呪いの人形そのものじゃないか。

「それがさっき廊下で偶然見つけたんだ! きっとこの人形が僕を導いてくれるよ!」

 嗚呼《ああ》、何の根拠もないのに何故《なぜ》こうも自信ありげに言えるのだろう。もしかして人目のないところで自分が四大精霊メイシアだとカミングアウトされているのだろうか。魔界まで連れて行くと確約してもらっているからこその自信なのだろうか。
 町長や女性陣《おかみさんがた》の前でメイシアに喋らせるわけにはいかないから……もしそうならエリックのこの態度にも納得がいくのだが。
 

「……それじゃあ、途中までは送るわ」

 何にせよ、この男が魔界に行く術《すべ》を持っているのなら先に進もう。進ませよう。自分だって此処《ここ》に居座るつもりはない。
 ルチナリスを迎えに行く依頼もまだ捨ててはいない。どれだけ経過しているかは時計もない地下では体内時計に|縋《すが》るしかないが、それでもそろそろタイムアップだ。運命はもっといろんなイベントを用意しているかもしれないが、それを全て満喫するには時間が足りない。

 メイシアがノイシュタインに行けと言ったのは、この男を魔界に送るためだったのかもしれない。
 ただ来るだけならメイシアひとりで飛んで来られるが、エリックを連れて来るとなると乗り物がいる。グラストニアまでは列車の線も乗合馬車もないから何時《いつ》辿り着けるかわかったものではないが、ドラゴンなら直線距離。寄り道させずに送り込んでやろうじゃないの。
 そうよね? とエリックが抱えている人形を見据えたが、彼女《メイシア》は明後日の方向を向いている。


「まさかとは思うけど、カリンも魔界に行くとか言い出さないわよね?」

 リドが顔を曇らせる。
 かつては魔王を倒す勇者一行だったことを思えば、戦力としては全く期待されていなかったのだな、と悲しくもなるが、実力のほどはわかっているようだ。

「送るだけよ。子供がいるのにそんな物騒なところに行けますかっての。あたしは運び屋だから他の誰よりも都合がいい。それだけよ」

 華々しく戦いに身を投じることだけが助けることになるわけじゃない。戦えない者には戦えない者なりにできることがあるはずだ。
 例えばメイシアやジルフェほどの力がある者でさえ表立って参戦しないのは、安易に参戦することで「精霊種は悪魔《魔族》の敵になる」という意思表示を避けるためもあるのではないか? だとすればウィンデルダを巻き込めば「ドラゴンは悪魔《魔族》の敵になる」と思わせることになるかもしれない。
 そうなった時にあたしは責任が取れない。 
 今できることはエリックを森まで運ぶこと。その先は、それから考えるしかない。


「あー」

 アルドが声にならない音で呻《うめ》く。
 そこに勇者と呼ばれたこともあったかつての面影はない。もし彼が昔の彼だったら……いや、考えてもどうしようもないことなど、考えるまい。


「カリン、でも領主様は、」
「ルチナリスのお兄さん、でしょ。それ以上でも以下でもないわ」

 躊躇《ためら》うように口にしかけたリドを遮《さえぎ》る。

 女性陣《おかみさんがた》が雪崩《なだれ》れ込んでくる前、エリックは魔王と口にした。その後あたし《カリン》が言いかけたことといい、きっと勘付いているものはある。
 悪魔は敵。
 魔王は敵。
 それを人間であるルチナリスやエリックが助けに行こうとしていることが、あたしが協力しようとしていることが腑《ふ》に落ちないのはわかる。女性陣《おかみさんがた》が口々にルチナリスの義兄《あに》の思い出を語ることも、救出を望むことにも納得しきれないものがあるだろう。

 だって、もしかしたらアルドがこうなった原因はルチナリスの義兄《あに》かもしれないのだ。リドは彼をノイシュタイン城の近くで見つけたと言っていたから、悪魔の城に再挑戦してこうなってしまった可能性は高い。
 リドは、あたしとエリックが去った後で、真実をこの人たちにバラすかもしれない。
 でもそれを止める権利も、義務も、あたしにはない。薄情と叩かれそうだけれども、その先のことはこの人たちで決めることだ。




 数時間ぶりの空はすっかり紅に染まっていて、まるで血の海に浮かんでいるかのようで。
 なのに風は相変わらず冷たくて。
 案の定、森の入口には誰もいなくて。

 あたしは非力だ。何の力にもなれない。魔界に行けない理由も、行かない理由も、アルドに再会したからと言って何もせずに出て来てしまったことも、リドの不満をそのままにして置いて来たことも、別の見方をすれば保身に走っているだけにしか見えなくて、そんな自分が情けない。
 

「そう言うな。子供を育て上げるのも大事な役目だ。廃人の介護だの、知り合いの助太刀だの、かつての仲間の説得だのを優先しなければいけない理由など何処《どこ》にもない。自信を持て!」

 ウェストポーチの中から声がする。

 思えばメイシアがノイシュタイン行きを希望した理由も確かめていないが、エリックを森に送るだけで本当に良かったのだろうか。それとも行方不明の間に目的を果たしたのだろうか。

「できることをすれば良いのだ!」


 できること。
 とりあえずはこの呪いの人形《メイシア》をロンダヴェルグに返して、それから……。



「……帰ったら、ハナハッカとヒカゲノカズラを抱えきれないくらい摘むから、手伝ってよねー!」

 ミルにとびきりの薬草茶でもごちそうしようか。お疲れ様の意味を込めて。

 ドラゴンは鼻をひとつ鳴らした後、首を真っ直ぐロンダヴェルグに向けた。