21-7 漆黒の暗殺姫2




 柘榴《ざくろ》はアイリスの姿を見つけたのだろう。ゼンマイ仕掛けの玩具《おもちゃ》のように忙《せわ》しなく動く短い足が、グラウスの視界の端を通り過ぎて行くのが見えた。
 目で追えば、蔓が伸びている部屋に駆け込んでいく柘榴《ざくろ》の姿。あの部屋の中にアイリスがいるのだろうか。彼女もこの蔓に捕まっていると言うのだろうか。

 ああ。きっと捕らえられているアイリスの姿を見つけて我を忘れているのだろう。黒い蔓に絡み取られた青藍を見た時の自分がそうであったように。

 だが子ウサギ1匹で何ができる? 
 あの蔓は自分《グラウス》の記憶にあるものと同じであるならば、ただの植物などではない。例えていえば黒鉄《くろがね》を編み込んだ鞭《むち》のような……切ろうとすれば逆に自分が傷付いてしまう。間違っても彼《柘榴》では太刀打ちできない。
 見た目で判断してはいけないと言うけれど、それでもほんの少し前まで意識不明だったことを考えれば、(自分《グラウス》と比べるなんて、と笑われてしまいそうなほどの実力の持ち主だったとしても)その力が十分に発揮できるとは思えない。


 だが、突然の柘榴《ざくろ》の乱入に動揺したのだろうか。
 グラウスの首に巻きついている蔓が|弛《ゆる》んだ。
 その一瞬の隙《すき》に両手で蔓《つる》を掴《つか》むと力任せに引き剥《は》がし、大きく息を吸った。体を反転させ、体勢を立て直すと同時に蔓の輪から自身の首を抜き、その蔓を投げ捨てる。

 正位置に戻った視界に映ったのは、開け放たれた扉の向こう側から飛び出した柘榴《ざくろ》の姿。



 飛び出した?

 あれ? と違和感を感じるよりも早く足が床を蹴る。
 手を伸ばしたが間に合わなかった。弧を描いて飛んだ柘榴《ざくろ》の身はグラウスの爪の先スレスレを通り抜け、ボタリ、と落ちた。


 何が、起きた?
 
 拾い上げるより先に、柘榴《ざくろ》の後を追って来た新たな蔓がその身に巻きついた。
 目の前で奪い上げられ、一瞬、手が止まった隙に、柘榴《ざくろ》の身は高々とつり上げられた。
 そして。

「……馬鹿なウサギ」
「アイリス、嬢?」

 グラウスは声のしたほう――部屋の中――に目を向けた。

 部屋の中は廊下よりも暗い。
 照明を落としているのは寝ようとしていたからだ、なんて平和ボケした考え方は、今だけは頭の片隅に追いやっておく必要があると言えるだろう。
 その真っ暗な中で、シャリシャリと衣擦れや金属が触れ合う音が聞こえる。
 近付いて来る。


 目の前にあるのは蔓に吊り下げられた灰色のウサギ《柘榴》。
 その周囲を取り囲んでいるのは、少しでも助けに入ろうとすれば容赦しないとばかりに、先端を自分たちのほうに向けた蔓。ユラユラと音もなく蠢《うごめ》く様《さま》は、この目の前の光景が夢ではないのかと錯覚しそうになる。

 背後を窺《うかが》えば、意識のない勇者《エリック》とルチナリスが壁にもたれるようにして座り込んでいる。少しばかり離れているが、今までに何度か戦った黒い蔓の動きを思えば、この程度の距離は距離にもならない。
 それを承知しているのだろう。彼らを守るようにアンリがその前にいる。

 ミルはいない。
 勇者《エリック》とルチナリスが此処《ここ》から飛び出してきたことを考えれば、ミルもこの部屋の中にいる可能性が高い。柘榴《ざくろ》のように蔓に捕まっているのか、既《すで》に倒されてしまっているのか。
 そして、彼女も心配だが――。


「執事さん。やっと来てくれたのね」

 グラウスの背を冷や汗が伝った。
 全身に鳥肌が立ったかのようなゾワリとした感触が、頭の先からつま先まで一気に走り抜けた。

「ア、アイリス嬢……?」


 アイリスは捕らえられているわけではなかった。
 ゆらり、ゆらり、と左右に揺れながら、ゆっくりと廊下《明るい場所》に出て来た彼女は、そのままスルスルと蛇のような動きで音もなくグラウスに詰め寄った。そしてその腕を掴《つか》むと目を細めて顔を近付ける。


 顔立ちも記憶の中のアイリスだが、妖艶《ようえん》な笑みだけは違う。
 この笑みは、笑い方は、アイリスのものではない。
 そして。
 この身長も、アイリスのものではない。


 グラウスは目を見張る。
 アイリスの背格好はルチナリスと似たようなものだった。どれだけ背伸びをしようと、踵《ヒール》の高さがあろうと、彼女の顔がこんなところにあるはずがない。
 
 その顔の位置は自分《グラウス》の目の前。
 190cm近い自分の背の前では、アイリスは何度飛び跳ねたところで顔を近付けることなどできない。


 グラウスは彼女が纏《まと》う漆黒のドレスに目を向ける。光をも吸い込んでしまう闇の色は、決して目立つ色ではない。少なくとも婚儀を数日後に控えた娘が夜会に出る際に着る色ではない。
 だが、部屋でくつろいでいたのかと言えば、そのような意匠《デザイン》ではないとはっきり言える。細さを強調するように腰《ウエスト》を引き締めたドレスは、息をすることすら辛《つら》かろう。

 そんなドレスが――部屋を出てこようとしていた時には引き摺《ず》るほどだった裾《すそ》が――宙に浮いている。
 その下から覗《のぞ》くのは無数の黒い蔓。
 靴でもなければ、指先でもない。


 唇でも奪われるのではないかと思いそうになるほど近付いた口元から、しかし予想外の言葉が漏れた。

「あなたは今日から私の専属執事になるのよ。嬉しいでしょ?」
「……今、何と?」

 専属?
 そんな話が自分の存ぜぬところで進んでいたのだろうか。
 しかし何故《なぜ》。アイリスには蘇芳《すおう》も柘榴《ざくろ》もいる。きっと彼女が幼少の頃から知っているであろう彼らを差し置いて、何故《なぜ》自分にそんな役割が回って来たのだろう。

 アイリスは自分が紅竜から敵視されていることを知っている。はっきりとではないかもしれないが、察してはいる。
 青藍が魔王役を下り、執事を解雇された自分《グラウス》の今後を案じて、そのような話を進めてくれていたのだろうか。この家に戻った青藍の傍《そば》に仕えることはできないだろうから、と。
 もしそうなら、とてもありがたい申し出なのだろうけれど。

 再び自分の腕を掴もうとしてきたアイリスの手を、だが、グラウスは撥《は》ね退《の》けた。
 退《の》けてしまってから、脊髄反射のように払《はら》ってしまったことに躊躇《ためら》いを覚える。
 アイリスは上級貴族。下の者が触れてはいけない。
 今しがたの自分の行動は彼女の好意を無にするものだ。それこそ紅竜の処罰を受けても自業自得だと言うしかなさそうな。


 逡巡するグラウスを、アイリスはただ嘲笑《あざわら》う。
 見下した笑みは獲物がかかるのを待っている蜘蛛《くも》にも似て。


『仲直りのおまじないを教えてあげる――』


 そう言って笑った、無邪気な少女のそれではない。




 グラウスは己《おのれ》の腕に食い込む指に、自分の手を重ねた。
 いや、これはもう指と言えるだろうか。黒く変色し、関節もわからないほど自由にうねるこれは……もう指ではない。蔓《つる》だ。ドレスの裾《すそ》から覗いているものと同じ、柘榴《ざくろ》を吊り下げているものと同じ。

 ああ、これは。海の魔女と同じだ。
 闇に呑まれたというルチナリスの幼馴染みが形を変えたものにそっくりだ。
 だとするとアイリスも闇に呑まれてしまったのだろうか。幼馴染みの彼女はルチナリスへ抱いた嫉妬《しっと》と羨望《せんぼう》が闇に呑まれる切欠《きっかけ》となったが、アイリスには何があったと言うのだろう。
 姉の身代わりにされることへの恨みか。
 自分の人生を自由に生きられないことへの悲観か。
 かつて青藍と縁談があったことをあっけらかんと口にした彼女が、本当にその程度のことで闇に呑まれるだろうか。貴族の家に生まれた以上、そのあたりは幼い頃から覚悟してきているはずだろうに、と言うのは第三者的な《憶測だけの勝手な》言い分でしかないが、そんな人生は魔界貴族の大半が当てはまる。他の者が闇堕ちしなかったのにアイリスだけが堕ちるだろうか。
 しかし頭の中でどれだけ推論を並べ立てようとも、論より証拠が目の前にいるわけで。


「……せっかくのお話ですが」

 グラウスは視線を落とし、腕に絡みついた蔓を1本ずつ外していく。
 以前、青藍の手をこうして外したことがあった、と、そんなことを思い出す。


「青藍様はもうあなたのことなんて覚えていない。あなたは捨てられたの。捨て犬なのよ?」
「それでも、」


 全ては青藍のために。
 ずっとそう想い続けて生きてきた。
 自分が離れないのは、己《おのれ》を犠牲にしてまで命を救ってくれた彼への償《つぐな》い。そんな建前でずっと傍《そば》にいた。
 氷属性であるはずの自分の心の中に灯った炎は年を追うごと周囲の氷を溶かし、勢いを増す。生まれてこのかた抱いたことのなかったこの熱情をどう扱っていいかもわからないまま、何時《いつ》しか、それはなくてはならないものになっていた。そのつもりだった。


『――魔眼。知らないのか? 10年も一緒にいて』


 その炎が、彼に植え付けられたものだと知って。
 なのに自分は、もうその炎を消すことなどできなくて。


「そんな辛《つら》そうな顔をして、それでも私より青藍様のほうがいいって言うの?」


 青藍は魔眼を操る。
 メフィストフェレスの魔性などと呼ばれていることも、他人を魅了する力を持っていることもわかっていて、それでもその事実にだけは気がつかなかった。

 彼が、自分にも魔眼を使ったかもしれない、と言うことに。


「待っていても、追いかけても、追いついても。それでも青藍様はあなたのものになどなりはしない。青藍様にとって、あなたは有能な執事であってそれ以上ではない。
 だから。ねぇ、いらっしゃいグラウス=カッツェ。私と共に、永久に」

 アイリスの口元で、ちらりと牙が覗く。

「私はあなたとは戦いたくないんです。其処《そこ》をどいて下さい、アイリス嬢」


 襟の上に乗った頭部は記憶のままの少女のものだ。ミモザの花束のような淡い金髪も、菫《すみれ》色の瞳も。しかし、それ以外が違う。袖口から覗くはずの手が、裾《すそ》から伸びるはずの足がなく、代わりに蠢《うごめ》くのは無数に伸びた黒い蔓。
 これは、闇。
 闇堕ちした海の魔女と同じ。そして、自分《グラウス》の中から、青藍が引き出してくれた闇の蔓と同じ。

 闇を抜き取られた自分は、今でもこうして五体満足に生きている。
 だが、青藍は。

 次《つ》いで浮かんだ推測に、グラウスは息を呑んだ。

 まさか彼も黒い蔓に姿を変えてしまっている……なんてことはないだろうか。もしそうなら、記憶どころか姿までをもなくした彼は、まだ青藍だと言えるのだろか。そうなってもまだ自分は想い続けていられるのだろうか。
 

「何故《なぜ》戦う必要があるの?」

 そんなグラウスに、アイリスは笑みすら浮かべて手を――手の形をした黒い蔓を――差し伸べてくる。
 と思いきや、その蔓が弾けた。掌《てのひら》の形から本来の蔓に戻った蔓《つる》は勢いよく四方へ伸びていく。廊下を、天井と床を、覆《おお》い尽くしていく。


「私はあなたの味方。あなたの願いも、私なら叶えてあげられる」
「私の……願い?」

 歌うように囁かれるアイリスの言葉に、グラウスはただ彼女を見ることしかできないでいる。
 周囲に広がっていく蔓は何処《どこ》までがアイリスなのだろう。傷を付ければ、それはアイリスの傷となって彼女を痛めつけることになるのではないだろうか。
 どうしたら。


「私の闇は青藍様の闇と同じもの。
 いらっしゃい。深い混沌の水底で何もかもドロドロに混ざり合って、世界はたったひとつの無に帰る。永遠に」


 永遠に。ひとつに。
 くらり、と眩暈《めまい》がする。
 青藍はもう堕ちてしまっている。記憶が抜け落ちたあの時に。そして自分が魔界へ行く手段を講じると見せかけて手をこまねいている間に、事態は取り返しのつかないところまで行ってしまっていて。

 ああ、でも。
 闇の底であの人が待っているのなら。
 その手を取ることができるなら。
 世界がどうなろうとも関係ない。自分は勇者でも聖女でもないのだから。
 ただあの人さえいてくれれば。この想いが偽《いつわ》りのものだったとしても……私がそう想うことを、あの人が望むなら。


「呑まれるな! ポチ!」

 グラウスは、はっ、と目を開けた。
 気がつけば手足に黒い蔓が巻き付いていて身動きが取れなくなっていた。そればかりかその蔓は、再び首にまで巻きつこうとしている。

 違う。
 もしアイリスの言うことが正しいのだとしたら、青藍は自分《グラウス》から闇を引き抜くことなどしなかったはずだ。
 闇を抜くという行為は、闇堕ちを望んでいないことへの表れ。そうするしか一緒にいられる手段がなかったとしても、あの人は、それを望んではいない。


「……残念ですが、その手の誘惑は以前フロストドラゴンが使っています。同じ手には2度も乗りません」

 グラウスは蔓が幾重にも巻き付いたままの腕を伸ばすと、ピタリと蔓に添わせた。掌《てのひら》から走った氷が蔓の表面を覆っていく。蔓の動きを止めていく。