3-9 金色のお守り




「ホント、デリカシーのない連中って嫌だわ! そう思いません?」

 それから数日後。
 城主の執務室では少女の甲高い声が響いていた。

「女の子なんだもの。あんな奴ら《ガーゴイル》よりあたしたちのほうがずっといいお友達になれると思うわよ。ねぇ青藍様。あたし、暇な時だけでもあの子の相手しますよ?」

 執務机の端に積まれた本の上に仁王立ちになっているのは手のひらサイズの精霊の少女。蜻蛉《かげろう》のような薄羽を忙《せわ》しなく動かしているのは機嫌が悪い証拠だ。
 腰にに巻いた青い布が、彼女がヒラヒラと動くたびに波のように揺れる。

「そう言わないで。私たちは必要以上にあの子の前に出ないほうがいいの。そうでしょう?」

 そんな彼女を淡い微笑みを浮かべたまま諫《いさ》めたもうひとり――彼女の姉――は、自分たちにずっと背を向けて何やら呟きつづけている青藍に視線を向けた。

 
 彼は手のひらを重ね合わせて呪文を唱えている。
 指の間からほの白い光が|零《こぼ》れている。
 魔王である時に使う魔法と違って、意味があるようにすら聞こえない言葉の羅列を抑揚《よくよう》すらつけずに紡ぎ続けているさまは、見ている側にもその儀式を遮ってはいけないような気にさせる。

 
「でもねぇ。あいつらみたいに怖い顔をしているのはどうかと思うけれど、あたしたちなら大丈夫でしょ?」
「此処は人間の世界なのよ? スノウ=ベル」

 空気を全く読まない妹を、姉は城主の代わりに嗜《たしな》める。スノウ=ベルと呼ばれた妹は、頬を膨らませると積み重ねた本の上に乱暴に座り込んだ。


 姉の名はアドレイ。
 妹の名はスノウ=ベル。
 姉妹で代々の魔王に仕えてもう千年近くになる。
 彼女たちもやはりガーゴイルと同様、ルチナリスの前に姿を見せることは控えていたのだが、今回のガーゴイルの行動は目に余るものであったらしい。特に妹のほうは。


「でもね、アドレイ。三つ子の魂100までって言うでしょ? 大きくなった時の魔族の基準がアレ《ガーゴイル》になっちゃってたらどうするの!? こぉぉぉんなにもかわいい精霊種だっているのに!」
「大丈夫よ、ルチナリス様はもう5歳だから影響しないわ」
「そうじゃないでしょ!」

 仕事の上ではミスひとつしない姉の微妙に的外れな返答はわざとはぐらかしているようで、スノウ=ベルは爪先でペンスタンドを蹴った。
 無造作に突っ込まれている数本が、カチャカチャと賑やかな音を立てた。




「苦労をかけるね」

 それから数分後。
 呪文を唱え終わった青藍がやっと精霊たちのほうに顔を向けた。
 先ほどの呪文の余韻か、空中に浮かんだままの光の粒がホロホロと溶けるように消えていく。

「ホントにそう思ってますぅ?」

 スノウ=ベルが疑わしげな目を向ける。
 そんな妹の脇腹を姉は肘《ひじ》で突く。

「でもお前たちにはお前たちの仕事があるからね。るぅは……しばらくは様子を見よう。何かあっても俺が責任を持つから」


 スノウ=ベルにしろアドレイにしろ、専用の役目を持ってこの城にいる。
 人数が多いが故に代わりがきくガーゴイルに比べ、彼女たちの仕事は代理がいない。
 そうでなくても人手の少ない城、見た目からしても幼子《おさなご》の扱いにしてもガーゴイルに任せるよりずっといいだろうが、彼女らにこれ以上の負担を強《し》いることはできない。
 早めに他の使用人を探さないと……いや、今自分が欲しているのは使用人ではく乳母ではないだろうか。しかし一《いち》メイドに世話係をつけるというのも何か違う。

 あれか?
 やはり自分が「お世話をする」と、そういうことなのか?


「はいはい。すっかりパパみたいな顔しちゃって」

 スノウ=ベルの言葉に青藍は目を瞬かせた。

「……そんなに父親っぽい?」
「ぽいぽい」

 本に座ったまま足をぱたつかせる妹の膝を、アドレイは行儀が悪い、とばかりに軽く叩く。

「ルチナリス様はご両親がいらっしゃらないのですもの。親代わりは必要ですわ」
「ルチナリス様、だって」
「私は青藍様の妹君として話をしているの。ちゃちゃは入れないで頂戴、スノウ=ベル」


 ルチナリスを妹、と言ったせいで、城内にも彼女を魔王の妹として扱おうという空気が流れ始めている。
 それは特に問題はない。
 むしろこの城の裏の管理をも任されているアドレイがルチナリスを妹と認識し、公言してくれるなら、知らないうちに食べられるかもしれないという心配もしなくて良くなる。


「でも人間は成長が早いですから、あと数年で父と呼ぶには違和感が出てきます。後々、側室として囲うおつもりかどうかは別として、今のうちは呼び方も兄で統一し、兄として振る舞われるほうが世間体からしてもよろしいかと思いますわ。……僭越《せんえつ》ながら」
「は?」

 しばしの沈黙。
 後々も何も、いずれは人間の世界に出そうとは思っているが、


『大きくなってから食っちゃうつもりっすね?』
『坊《ぼん》のエッチ―』


 彼らが思っているようなことに発展する予定はない。


 至って真面目な顔のアドレイは、場を和ませようとしてそんなことを言い出したようには見えない。きっと本心から言っているのだろう。
 その台詞《セリフ》には妹もニヤリと笑って同調する。

「そうよねー。義妹《いもうと》に手を出す義兄《あに》なら青春系ライトノベルで済むかもしれないけど、義父《ちち》がそれやったら官能小説ばりの犯罪になっちゃうし」
「そこは義兄でも犯罪よ、スノウ=ベル。行為の最中にそう呼ばせる趣向もあるそうだけど、さすがにそこまで私たちが口を出してはいけないわ」
「……お前らもそっちのネタを振るわけ?」

 先日、ガーゴイルに散々犯罪者呼ばわりされたばかりだと言うのに。
 なんだ? 俺はそんなに軽そうな男に見えるのか?

 嫌そうに口元を歪めた青藍に、姉は不思議そうに、妹はしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべて、顔を見合わせた。



 姉妹とは、兄妹というものは、本当はこういうものなのだろうか。
 青藍は精霊姉妹を眺めながら思う。
 双子だからというわけではないだろう。きっと世の兄弟姉妹の大半はこのように見えない絆で結びつき、お互いを認め、理解し合うものなのだろう。
 父と娘であろうと兄と妹であろうと、自分とルチナリスの間がここまで親しくなることはきっとない。

 そしてあの人とも。
 青藍は手をそっと広げると、手のひらのものを見つめた。


「それそれ。さっきからなに作ってるんですか?」
「ん、ちょっとね」

 手元を覗き込むスノウ=ベルのほうに、青藍はできたばかりのそれを差し出した。
 濃紺の、ルチナリスのメイド服とよく似た色の髪飾り。リボンの真ん中に金色のボタンのようなものがついている。

「お守りがわりにね。ガーゴイルがさ、何かプレゼントしたらいいんじゃないかって言ってたし」
「ちょ、お守りって、これ」

 金色に光る中に見えるのは、この城の至るところで見かける紋章と同じ図柄。鳥が羽根を広げた、彼の家を表すもの。
 確かにこんなものを持っていれば、低級魔族は手を出すのを躊躇《ちゅうちょ》するだろう。
 しかし。

「これって耳飾り《イヤリング》じゃないですか! なんでこんなの持ってるんです!」
「さぁ。母上のかなぁ。荷物に紛れて入り込んだのかもしれないけど、返すあてもないしそのまま貰っておこうかと」

 何故、男のはずの彼が女性の装飾品など持っているのか。
 第二夫人のものだとしても黙って貰ってしまっても良いのだろうか。その前に、誰の所有かはっきりさせたほうがいいのではないだろうか。
 こんな勝手に加工してしまって……後で返せと言われたらどうするつもりなんだか。
 宙に視線を向けたまま首を傾げる青藍に、スノウ=ベルはがくりと肩を落とす。

「青藍様ってホント、適当すぎ……」
「そんなことありません。きっとお喜びになりますわ」

 そんな妹の横で、姉のほうは少しだけ愁いを帯びた目をしたまま微笑む。

「そう思う?」
「紋章は魔力を封じるのに最適ですもの。お兄様がそばにいるようで、ルチナリス様も安心できますでしょう」

 アドレイは、つ、と窓へ目を向けた。
 自分のほうに目を向けている人がわずかに頷くのが映る。唇が「そうだね」と動くのが見て取れた。

「ん、まぁ、そうね。メフィストフェレスの紋章が刻まれた耳飾り《イヤリング》なんて、持ってる人はいくらでも持ってるもんね」

 ぶっ壊しちゃったものはどうしようもないし。とスノウ=ベルが溜息交じりに同調する。



 空には月。
 薄い雲に見え隠れしつつ、ずっと夜空を照らしている。
 こんな夜はあの月を目印に帰路を急ぐ者もいるだろう。

 アドレイは窓から目を離す。妹となにやら言い合っている城主を黙って見つめる。

 そう。最適。
 その紋章が刻まれた装飾品が此処にある意味を、「あなた」は知らない。




「青藍様、お茶入りましたよー」

 小春日和の午後。
 ルチナリスはティーセットをワゴンに載せて執務室のドアを叩いた。
 いつものようにペンを走らせていた青藍は、手を止めて彼女に目を向ける。
 

 小さな丸テーブルを組み立てて、そこに運んで来たカップを並べる。
 今日のお茶菓子はホームメイドタイプのクッキー。貴族様のお茶席に並べるにはどうよ、とも思うが、ルチナリスはお上品なラング・ド・シャよりもこっちのほうが好きだった。
 ザク、と噛んだらボロボロと口の中で零《こぼ》れる感じも、食べ応えのある大粒のナッツやチョコチップも。

 そうやって並べている間に、青藍がやって来る。
 ルチナリスはテーブルの真ん中に菓子皿を置き、その両脇よりやや手前にシュガーポットとミルクポットを並べる。
 彼は砂糖もミルクも入れないが、自分は甘いほうが好きだ。だから取りやすいように置く。


 本来のメイドならご主人様と一緒にお茶なんてしないのだろう。
 けれど、あまりにも物欲しそうに見えたのかもしれない。苦笑交じりに差し出されたお茶菓子を頬張り、喉に詰まらせたところでお茶も貰い……としているうちに、いつの間にか一緒にお茶を飲むようになってしまっていた。
 彼は甘いものが苦手らしくいつもお茶菓子には手を付けないので、片付けてくれて幸い、などと思っているかもしれない。
 ……その考えにものすごく願望が混じっているのはわかっているけれど。


「今日はちょっといい感じにできたんです!」
「そう?」
「ちゃんと本見て、蒸らし時間っていうのも完璧にしてみました!」

 砂時計も用意したし。温度もちゃんと測ったし。
 今日こそは「美味しい」と言わせてみせるわ!
 ルチナリスは得意満面に紅茶を注ぐ。本で見た写真を真似たポーズで。

 青藍はそんな彼女をまじまじと見た後、供《きょう》されたティーカップを手に取った。
 一口飲んで、ふふっ、と笑う。

「なんですか?」
「いや、るぅの味だなと思って」
「えー!? なんですか? いつもより美味しいでしょ!?」
「同じ」

 そんなはずはない。
 完璧なはず。なのに。

「あ、これはこれで美味しいよ」
「嘘です! それは美味しいって顔じゃありません!」

 中途半端なフォローはやめて下さい。
 ぷうっ、と口を尖らせるルチナリスに青藍は困ったような顔で頬を掻いていたが、ふと思い出したかのように執務机に戻ると、引き出しから何かを取り出した。

「何ですか。賄賂《わいろ》ですか?」
「……どこでそんな言葉を覚えて来るのかなぁ」

 青藍は苦笑いを浮かべると、その取り出したものをルチナリスの目の前に差し出した。

 それは濃紺のリボン。真ん中に紋章のような模様が入った金色のボタンがついている。
 いや、ボタンではない。
 裏に……髪留めの金具ではない、別の金具がついていたような跡がある。


 青藍様の上着の襟についているのと似ている。
 ルチナリスはハンガーにかけられたままの上着に目をやった。陰になっていて見えないから同じものかどうかはわからないけれど……でも同じだったら、お揃いみたいでちょっと嬉しい。




「頭洗う時以外は外すなよ」

 青藍は頭の横で両結びにしているルチナリスの髪を解き、横の髪をすくい直した。
 パチン、と留められたその髪留めに、ルチナリスはそっと手で触れる。

「これはお守《まも》り」
「お守り?」
「怖いのが出ないように魔法をかけてみた」
「……魔法?」

 わざわざ買ったの?
 この不思議な模様のボタンがお守り?
 様々な疑問がぐるぐるとルチナリスの頭の中を回る。

 でも。この形。


『――拾ったらね、それで髪飾りを作るの。前にメグが見せてくれたのよ。リボンの真ん中にまぁるいお星様がついて』


 覚えていてくれたんだ。あの夜のこと。


「あ……りがとう、ございます」

 誰かからプレゼントを貰うのは初めてだ。
 ルチナリスはもう1度、さっきよりもゆっくりと髪留めのボタンを撫でた。
 冷たいようでいてほんのりと温かい。興味がないようでいていろいろと構ってくれるこの主《あるじ》に、どこか似ている。

  
 あれ以来あたしに話しかける声はない。化け物が姿を見せることもない。
 あれは夢だったのかな、なんて思えて来るくらい。

「お茶、まだまだおかわりありますからね!」

 いつかまた声がするかもしれないけど、今度は怖がらずに話してみよう。
 怖い人は此処《ここ》にはいないって信じよう。
 だってこの人がそう言うんだから。
 お守りだって、あるんだから!





 白い壁と紺のカーテンと焦茶の机と。
 そしてお茶とお菓子と、この人がいる。
 今は見えないけれど、味方をしてくれるであろう誰かも何処《どこ》かにいる。

 あたしは、ひとりじゃない。
 ひとりじゃなくなったの、神父様。


 部屋の片隅で甲高い声とダミ声のふたつの笑い声が、まるで祝福するかのように楽しげに響いた気がした。