21-5 漆黒の暗殺姫




 エリックは慌てて振り返った。
 この部屋には自分たち以外誰もいなかった。気配もなかった。気の抜けた部分がなかったとは言わないが、これでも一応は敵地。長椅子《ソファ》の陰から出る時も警戒はしたし、誰もいないからこそ、室内探索に入ったのだ。
 なのに。

 暗闇でしかなかった中から何かがこちらに向かって歩いて来る。しゃらり、しゃらり、と布が擦れる音は戦闘とは無縁な……自分たちに襲い掛かって来た人々の足音とも獣たちのものとも違う、戦意のなさを感じさせる。
 此処《ここ》に来て無害な第三者の登場を期待するほどおめでたくはないつもりだった。だが今までのピリピリと肌を刺すような敵意が感じられないだけで、この相手が味方になり得るのではないか、と、思いそうになってしまう。


「誰だ」

 小さく呟いたミルが腰の剣に手を掛けるのが見えた。ずっと戦って来た彼女は自分《エリック》よりも敵対心を感じ取るハードルが低くなっているのかもしれない。
 何といっても自分《エリック》の背後には壁しかなかったし、暗くて見えなかったとしても、人がいればわかる。その程度の距離だった。そんなところに突然現れたのだから仕方がない。


 その数歩の距離を、人影は随分と長い時間をかけて歩いて来る。まるで闇の中に他の場所からの道が繋《つな》がっているかのような錯覚すら覚える。

 見るからに切りかかって来そうな体勢で出迎えられているにも関わらず、相手からは怯えも動揺も伝わっては来ない。「話せば理解し合えるはずだ。僕たちはみんな仲間だ、兄弟なんだ!」という思想の持主なのか、戦意など見せずとも片を付けてしまえるほどの強者なのか。
 前者ならば勇者的ポジティブ思考。その手の考え方をする冒険者には何人も会った。その考えに迎合しておけば角《かど》は立たないし、志《こころざし》を共にする仲間として一方的に親身になってくれたりもする。


 凝視している中で、やっと人影が姿を現した。
 首元の詰まった闇色のドレスは引き摺《ず》るほど長く、陰の中にいると首だけが宙を漂っているようだ。結われることもなく垂れ下がった金糸は、子供が散々遊んだ後で放り出した人形の髪の如《ごと》く乱れ、幼さすら感る顔立ちに不釣り合いな深紅を唇に差した|様《さま》は、見方によっては娼婦に見える。
 彼女は気だるげに自身の右手に視線を落とす。
 ドレスと同色のたっぷりとしたレースから覗《のぞ》くのは、やはり深紅に染めた爪。


「アイリスさん! じゃなかった、様!!」

 思わず叫んだエリックだったが……相手《アイリス》の視線はそれを無視するように自《みずか》らの右手に注がれるだけだった。

「嫌だわ。よれてしまっているじゃない。これも邪魔が入ったせいよ」

 名前を呼ばれても無反応なのは聞いていなかっただけなのだろうか。
 誰宛てともつかない文句を並べ立てた後、彼女はやっと顔を上げた。口角をつりあげる。

「……あら? こんなところにネズミがいるわ」


 そんな今やっと気が付いたみたいな言い方して――!!
 心の中に嵐が吹き荒れたが、そんな上から目線の高慢な態度もアイリスらしい。
 見るからに金のかかった衣装のせいで最初は誰だかわからなかったが、こうして見れば彼女はやはりアイリスだ。随分と大人びたと思うのは衣装のせいに違いない。
 ノイシュタイン城に押しかけて来た時のワンピースに編み上げブーツのいで立ちは「彼女らし」かったが、今の姿は「貴族令嬢らしい」。縁談の話を聞いた時はあの歳で嫁に行くのかと思わなくもなかったが……って、それはともかく!

「よかったぁ、アイリス様で!」

 嗚呼《ああ》! 渡りに船とはこのことだ!
 現れたのが見知った少女だったことに思わず安堵の息が漏れた。
 何と言っても此処《ここ》は敵地。遭遇する相手は99%敵で、味方(もしくは中立)に出会える確率はコンマ以下。勇者とて緊張はするのだ。
 

「急で申し訳ないんだけど、廊下の何処《どこ》かにウサギを置いてきちゃったんだ、灰色の。あ、そうそう、アイリス様が連れてた、ええと……そう、柘榴《ざくろ》さん? に似たウサギ。まさか本人だったりしないよねぇ、と言うか本人? 探してたりする?」

 インパクトのありすぎる登場で一方的に相手のターンに持って行かれそうな空気の中、エリックはまくし立てた。
 相手がアイリスならば遠慮はいらない。というのは歴《れっき》とした貴族令嬢に向かって失礼な話ではあるが、押し寄せる安心感がエリックの舌を滑らかにする。
 なんと言ってもルチナリスに向かって、

『何をそんなに考え込む必要があるのよ。今自分のできることをするしかないじゃない。それともあなた、考え込むとスタンプでも貯まるの? 20個貯めるとウサギ柄のバッグでも貰もらえるの?』

 と啖呵《たんか》を切ったこともある彼女は、一般的な「お嬢様」像とはかけ離れている。下手に遠慮して遠回しな言い方をするよりも要件をはっきり言ったほうが、誤解も生じないし理解も早い。


 あのウサギが柘榴《ざくろ》だという確信がまたひとつ増えた。
 彼女《アイリス》はきっと行方不明になった柘榴《ざくろ》のを心配して探し歩いていたに違いない。
 気だるげに見えるのは憔悴《しょうすい》していたからで。髪が乱れているのも、爪がよれているのも、自《みずか》らを省《かえり》みることなく探し回っていたからで。


 アイリスは自分たちの――正確にはアンリとグラウスの――敵であるこの城の当主・紅竜の婚約者だ。しかし立場上は敵ではあるが、自分《エリック》たちとは連れ立って旅をしたほどの仲だし、いきなり捕《とら》えて突き出す真似などしないに決まっている。
 それに、その万が一が起きたとしても相手が彼女《アイリス》ひとりなら勝てる。
 彼女も魔族である以上、魔力を秘めてはいるだろうが、こちらにはミルと退魔の剣がある。聖剣《我が愛剣》もある。

 ルチナリスは義兄《あに》に会えればそれでいいと言っていたが、連れて帰る気満々のグラウスが同行している以上、紅竜側も警戒して会わせようとしないかもしれない。そんな時のためにアイリスを捕らえて紅竜を交渉のテーブルにつけるという策も考えなくはなかったが……勇者たるもの、無害な第三者を巻き込む手は使いたくない。



「……柘榴《ざくろ》?」

 アイリスは小首を傾《かし》げた。
 やはり探していたのだろう。手がかりを持っていると知って食いついたのを感じる。ガツガツと食らいついてこないのは性格だろう。ツンデレお嬢様だし。

「そう。ずっと意識がなくってね。そんな柘榴さんを何処《どこ》かに置いてきちゃった失態は認めるけど、僕らも道に迷ってて、探しに戻っても見つけ出せるかわからなくて。でも本当に早く見つけて介抱したほうがいいと思うんだよ。予想ではね、何処《どこ》かの廊下の、柱の横に花瓶が乗ってる机が、」
「そんなことより」

 だがしかし。
 一方的に言いたいことを言うエリックにうんざりしたのか、話半分にしか聞いていないのか。アイリスはエリックの言葉を遮《さえぎ》り、つまらなそうにあたりを見回した。

「執事さんは一緒じゃないの?」
「はい?」

 執事さん、と言うのはグラウスのことだろう。
 旅の道中でも「身を挺《てい》して主人を守る様《さま》がカッコいい」とか何とかと言うのを何度か耳にした。その度に柘榴《ざくろ》がぶすくれているのも見た。

 婚礼を前にしてもまだアイリスはグラウスのことを気にしているのだろうか。
 柘榴《ざくろ》の容態を聞いても無視を貫こうとしているあたり、もしかすると「執事さん」絡みで喧嘩したのが原因なのかもしれない。機嫌を損《そこ》ねて飛び出した柘榴《ざくろ》は、何らかの事故に遭って意識不明になったのだ。きっとそうだ。

 でもそれは柘榴《ざくろ》には悪いが、彼《柘榴》が相手だからこそ口にできた想いだっただろう。犀《さい》にも、ましてや紅竜にも言うことができない少女時代の淡い憧れを、過去のものとして昇華するために柘榴《ざくろ》に話しただけなのだろう。
 快活だった昔の彼女の面影など見る由《よし》もない虚《うつ》ろな瞳は疲れているだけならいいのだが……柘榴《ざくろ》に否定され、行方をくらまされたことは、嫁入り前の彼女に多大なダメージを負わせたに違いない。

 政略結婚とは無縁な自分でもわかる。この結婚は家同士の繋《つな》がりとしての意味合いしかないということに。
 しかし此処《ここ》はそれが普通の世界。当人の意思など全く入らなくとも婚姻は成立する。
 好きでもない人のところへ嫁ぐ気持ちを「わかる」と言っては失礼になってしまうが、それでも推測はできる。どれだけ豪華なドレスでも、豪華な式だとしても、手放しに喜べるはずがない。




 しかしアイリスの立場には同情するが、貴族の家に生まれた宿命と言ってしまえばどうしようもない。
 身分も人種も世界も違う自分たちが、アイリスが置かれている立場を覆《くつがえ》せるわけもないのだ。知り合いのよしみで逃げたいと言うのなら手助けくらいはしてやりたいところだけれども、後々まで責任を持つことはできない。
 だって僕は勇者だから。
 勇者は特定の彼女を作ってはいけない。そんなことをしたら全世界の美少女とお姉様を失意のどん底に沈めることになってしまう。おっ〇いを悲しませては真の勇者とは言えないのだ!

「これも勇者のさだめ。悪く思わないでくれお嬢さん」

 エリックは、ふっ、と自嘲《じちょう》気味な笑みを漏らす。もちろん犬歯を輝かせるのも忘れない。
 そう! たとえお金持ちであろうとも!
 貴族様であろうとも!
 勇者ロボの開発資金と、人々から「様」付けで呼ばれる至れり尽くせりの生活が待っていようとも!
 おっ〇いに貴賤《きせん》はないのだ!!!!


 アイリスの立場への同情からどうしてお〇ぱいの話に変わってしまったのかはわからない。
 わからないけれどもこれは嘘偽りのない本心、心の叫びに蓋はできない。
 だがしかし。

「何を言っているの?」

 お嬢様に勇者のなんたるかは伝わらなかった。おっ〇いの価値は持たざる者にしかわからないのかもしれない。隣の芝生は青い、とか、そういう感じ。嘆かわしいが仕方ない。


「私はね。執事さんに用があるの。執事さん、だけ」

 アイリスは不正解を出した生徒を見るような目でエリックを一瞥《いちべつ》すると、口元に手をやり、ちいさく息を吐いた。
 そんな仕草までお嬢様だ、ではない。やはり記憶の中のアイリスとは違う。


 手で隠れている口元が、ゆっくりと三日月を|描《えが》く。
 以前会った時とはまるで違う黒い笑みは、海で再会したメグ《妹》の顔に貼りついていたような、嘲笑《ちょうしょう》よりもずっと冷淡な――。


「あ、ええと、執事さんも来てることは来てるんだよ。あとルチナリスさんも」

 虫の居所が悪いのかもしれない。嘘偽りのない本心ではあるけれど、勇者の主張は今するべきではなかった。
 エリックの口から思わず弁解が飛び出す。
 旅の道中も彼女《アイリス》は自分《エリック》よりもルチナリスとよく喋っていた。喧嘩別れしているであろう柘榴《ざくろ》やOUT OF 眼中の自分《エリック》よりは興味を惹くに違いない。

「執事さんだけ」と言われた先から「ルチナリスもいる」と言うのは、冷静に考えれば話が通じていないように聞こえなくもないのだけれども、柘榴《ざくろ》同様、救いの手が欲しいのはルチナリスも同じ。


 エリックは長椅子《ソファ》を指さす。
 背もたれの向こう側にいる彼女《ルチナリス》の姿はこちらからは見えないが、実際にいるのだから大丈夫。きっといつものツンデレな悪態を撒き散らしつつ、ルチナリスの心配をしてくれるはずだ。


「ルチナリスさんも眠っちゃったまま起きないんだ。闇に呑み込まれているらしい。もし彼女が闇に負けたら、もう2度とあのルチナリスさんには会えなくなっちゃうんだ」

 記憶を全て失い、性格まで変わってしまった|メグ《妹》のように。


 勇者オタクと蔑《さげす》むメグよりは素直で純真なメグのほうがいいと思うかもしれない。
 でも違う。
 どれだけ反発して来ようとも、それが本当の、16年間見てきたメグだった。その彼女はもういない。


「執事さんもそのうち来ると思うから、先に柘榴《ざくろ》さんと、」


 グラウスの居場所が不明であることがそんなにも気に入らなかったのか、アイリスはルチナリスにさえ興味を抱くことなくエリックの横を通り過ぎる。
 いや、ルチナリスの様子を見に行くのか? と思いきや……。

「いらないわ。あなたたちにあげる」

 退屈そうに長椅子《ソファ》に座り込み、クッションを抱え上げたアイリスの腕を、エリックは掴《つか》んだ。

「……何を、するの?」
「柘榴《ざくろ》さんは友達じゃないの? いらない、って、」


 アイリスと柘榴《ざくろ》の間に何があったかは知らない。
 けれど後悔先に絶たずということわざもある。
 すぐに仲直りするつもりだったのに、相手が不慮《ふりょ》の事故でなくなってしまって謝ることもできなかった、なんて話は悲恋系の定番。最近では死んだはずの恋人が幽霊になって戻って来たり、転生して幼女の姿で現れたりという全然悲しくならないストーリー展開のほうが流行《はや》っているらしいが、彼女《アイリス》らの場合はまさに王道悲恋系。
 恋人同士ではないのだからそんな論理を繰り広げられても……と思われるかもしれないが、まぁ、それくらい何時《いつ》でも会えると思っていた相手は何時《いつ》会えなくなるかわからないんだ! そうなってからじゃ遅いんだ!」と言いたいわけで。
 そして、今まさに柘榴《ざくろ》の命は何処《どこ》かの廊下の端で潰えようとしているわけで!

 置いて来たのは誰だよ、僕だよ、というひとりボケツッコミが頭の中で展開されているけれど、それはひとまず置いといて。
 今此処《ここ》で頼れるのはアイリスしかいない。温かいベッドも良く効く薬も、彼女《アイリス》を頼らなければ手に入れることはできない。 
 そして、置いて来たのは誰だよ(2回目)というツッコミが輪唱される中、柘榴《ざくろ》は早く見つけ出さなければいけない。彼を意識不明にした「誰か」、つまり彼に殺意を抱く敵はこの城にいる。自分たちが見つけるよりも早くその「誰か」に見つかれば、今度こそ命がない。



「上級貴族に触れた者は死罪、って……知っているわよね? 家畜の分際でも」

 だが、アイリスはエリックの腕を振り払った。
 動作は軽く払い除《の》けただけなのに、エリックは本棚まで吹き飛ばされる。フルアーマーだから叩きつけられても直接痛みは感じないが、兜《かぶと》の中で頭がグワングワンと揺れた。
 そう。フルアーマー。
 鎧だけでも20kg越えるのに、それを着た男込みで吹き飛ばすとは。
 見た目は人間と変わりないけれど、やはり魔族だから力が違うのだろうか。それともミルの剣圧に似た技を腕を払うと同時に放ったのだろうか。


「……アイリス……? この娘が?」

 ずっと黙っていたミルの呆然とした声が聞こえる。
 彼女《ミル》はアイリスと面識はないはずだが、自分《エリック》がノイシュタインに行っている間にルチナリスのあたりからでも聞いたのかもしれない。どんなアイリス像を吹き込まれていたのかは不明だが、ロンダヴェルグにいた頃のミルからは想像もつかないほど動揺している。


 立ち上がったアイリスの口元に、ニタリ、と令嬢らしからぬ笑みが浮かんだ。
 彼女の周囲に黒い霧がたなびき始めるのを見て、下がれる後《あと》など何処《どこ》にもないのにエリックは後退《あとずさ》った。


 これは。
 この霧は、メグ《妹》の周囲に漂っていたものと同じ。この霧がメグ《妹》の体を覆った後、彼女は黒い蔓の塊と化した。

 黒い蔓。
 ……闇。


 なめらかな光沢のある生地は、袖口だけではなく首回りと裾《すそ》も一様に黒いレースで飾られている。指先しか見えない長い袖と、足など全く見えない裾《すそ》。
 そのレースの下に、うねるように黒いものが蠢《うごめ》いた。

 指でも爪先でもないそれが首以外のドレスの開口部から見える。
 最初は目の錯覚くらいにしか見えなかった黒い蔓状のものが、僅《わず》かな間に堂々と外にうねり出始める。
 手ではなく。
 指でもなく。
 足でもなく。
 ドレスを剥《は》いだら首から下は全て黒い蔓になっているのではないか、などという荒唐無稽《こうとうむけい》な発想を笑って否定することができない。

「私の邪魔をしないで」

 菫《すみれ》色の虹彩《こうさい》に紅《あか》が混じる。
 インクを落としたように、その紅《あか》が広がっていく。 



 ふいに蔓がしなった。
 長椅子《ソファ》に巻きついたかと思うと、エリックたちに向かって投げつける。
 頭を抱えてうずくまったエリックの真上に飛んだ長椅子《ソファ》は、自《みずか》らも大破しながら本棚の本を薙《な》ぎ倒す。
 バラバラと降り注ぐ本の雨の中、エリックの視界に映ったのは、蔓によって空中につり上げられたルチナリスの姿だった。

「ル、」

 鎧と本の重みに耐えながらエリックが上体を起こす。
 アイリスに――正確には蔓に捕らえられたルチナリスに――向かって駆けだそうとしたその瞬間。

「いらない。この娘も」

 蔓がしなった。
 先ほどの長椅子《ソファ》と同じようにルチナリスの身は宙を舞った。