~4月~




「あらフローロ。今日はイグニと一緒なの?」

 ノクトを連れて図書館を訪れると、カウンターにいたクレアが声をかけて来た。
 やはり今日も彼女の周囲には操作ディスプレイが展開され、忙しそうにしている。しかし作業自体は前回此処《ここ》を訪れた、僕に気がつかなかった時と同じようで……気がつく日と気がつかない日の違いがよくわからない。


 彼女が僕をフローロと呼ぶのは、フローロの貸し出しコードを預けるための演技だと僕は思っていた。
 しかしそうなるとノクトをイグニと呼び間違えるのは何故《なぜ》だろう。
 それも演技なのか。
 それとも本当に顔認識機能が壊れているのか。
 出会った当初のワンテンポずれた対応があまりにも嘘臭《うそくさ》さかったから、演技だと思い込んでしまったけれど、もしかするとあの反応の遅さは故障のせいかもしれない。
 もし本当に顔の識別ができないのであれば、他に見分ける材料になるのは髪型か服装くらい。でも制服着用の学生ばかりの中、服装で見分けるのは無理がある。
 だが残る髪型で、となるとそれも難しい。ましてノクトとイグニは髪型すら似ていない。

 自分を名指しで会いに来る学生はフローロ。フローロと一緒にいる学生はイグニ、という認識なのだろうか。
 司書に望む対応なんて学生からしてみれば誰でも同じだから、わざわざ指名したりはしない。言い換えれば「クレアを」と言って来る学生はほぼいないと言っていい。
 フローロはそれを逆手《さかて》に取って、「クレア」と名指しする学生はフローロ、と覚えさせてしまったのかもしれない。後でやって来るであろう後輩に自身の貸し出しコードを渡すために。

 しかしイグニは。
 共犯だと言うくらいなのだからフローロがイグニに信を置いていることは確かだ。学校や寮で一緒にいたことなどほとんど見たことがなかったけれど、此処《ここ》では違ったのかもしれない。
 

「ねぇフローロ、」

 クレアは先に書架に行ってしまったノクトの後ろ姿に目をやり、声をひそめた。

「学生時代のお友達は貴重なものだけれども、相手はもっと選ぶべきだと思うわ。あなたは”レトの学徒”でしょう?」

 一緒に図書館に来る程度の仲で「相手はもっと選ぶべき」なんて苦言を呈《てい》されるはずがない。彼らが此処《ここ》でどれだけ仲睦《なかむつ》まじく過ごしていたかまで、その言葉から想像させられてしまう。

 けれどアンドロイドの目(しかも壊れた目)を通しても、フローロとイグニは釣り合わないように――釣り合わない、と当人に言いたくなるほどに――見えるのか。
 それでもフローロはイグニを遠ざけるどころか、信用に足ると思っていたのか。


 ”レトの学徒”の称号は万能ではない。
 学生の中でも秀《ひい》でているとレトに認められた5人、と言うことで一目《いちもく》は置かれるけれど、何をしても許される免罪符にはならない。
 むしろ他の学生の規範になることを求められる足枷《あしかせ》。
 1年でたった1度、クリスマスと言う最も羽目を外しても許される日なら、とヴィードがヴィヴィを誘ったのもわかる気がする。

 交友関係にまで”レトの学徒”に相応《ふさわ》しい相手を求められる。強制される。
 フローロもそれが嫌だったのかもしれない。……だからと言ってイグニを選ぶのはどうかと思うけれど。




「変な女だな」

 席に戻ると、先に戻っていたノクトが不審そうに目を細めた。
 「釣り合わない」と言われていたのが聞こえたのだろうか。正確には僕でもノクトでもなく、フローロとイグニのことを言っていたのだけれども、自分のほうをチラチラ見ながら声をひそめて言われる悪口は、人違いだとわかっていてもいい気はしないものだ。

「もしかしたらクレアも初期型なのかもしれない。壊れてる部分もあるみたいだし」
「初期型?」
「うん。アンドロイドが量産される前の型……らしい。性能はすごくいいんだよ」
「イングラムとエコノミーみたいなもんか」
「何それ」


 アンドロイドは初期型、後期量産型で分けられる。
 初期型が何年前に作られたかは定かではないが、修理に修理を重ねて生き延びさせたところでクレアの壊れっぷりを見るに、いい加減寿命だろう。
 とは言え、初期型のスペックはかなり高い。顔認識機能が壊れた程度なら交換しないで使い続けたほうがいい、と判断されているのかもしれない。

 それでもクレアのように屋内、いや町の中から動かないのなら量産型アンドロイド複数体で補《おぎな》うこともできるかもしれない。所謂《いわゆる》「あの人は〇人分の働きをする」「あの人が抜けた穴には〇人必要だ」みたいな感じで。
 だがクルーツォのように外に出る業務はどうなる?
 あの砂嵐の世界は量産型では耐えられない。もし初期型が全て活動を停止したら、生命《いのち》の花は……摘むのを止めるのだろうか。


「……クルーツォがどうにかなる前にワクチン作ってもらわないとね」

 しかし今僕らが考えるべきことはワクチンだろう。
 初期型だからと言って今日明日に壊れるわけではないが、しかし壊れないとも言えない。
 先日ヴィヴィと「クルーツォが帰ってきたら」という話をしたけれど、帰って来ない可能性は今こうしている間もかなりの確率である。通せる話は早めに通して早めに手に入れなければ、永遠に入手できなくなるおそれがある。
 けれど。

 ノクトは顔を上げた。
 何処《どこ》か不満そうにも見える。

「なに?」
「いや。……この間からいろいろ考えてもらってて悪いけど、やっぱ俺、向こうの世界に戻るつもりないからさ。ワクチンは別にいいかな、って」
「でも、それじゃ」
「俺が持って帰らなくても人類はそこそこ生き残るよ。あれで結構しぶといんだ」


『人類が滅んじゃったら、この世界もなくなる』

 ノクトを乗せるために言った言葉は、僕の中で予想以上に重く沈み込んでいる。
 今のところはワクチンと突然変異の間に因果関係はない。
 ノクトが苦労してワクチンを手に入れて戻ったとしても、無駄骨《むだぼね》で終わる可能性もある。いや、彼がそのあたりの神託を受けて此処《ここ》に来たのではない以上、無駄骨《むだぼね》の可能性は非常に高い。
 けれど、もし因果関係があったのなら。
 彼が動かなければ人類は数百年前に滅び、数珠繋《じゅずつな》ぎにこの世界も、そして僕の存在も消える。

「だって今、俺はワクチンを持って帰る前だけど、世界はこうしてあるし、人間も生きてるし。下手に持って帰ったら余計に未来が変わることにならないか?」
「そ……んなこと」


 昔は異世界転生と言えば勇者になって魔王(もしくはそれに該当する厄災をもたらすもの)を倒すまでがお決まりコースだった。
 今までのノクトが口にしてきたホラ話も、勇者になって世界を救うばかりだった。

 が、このノクト《能登大地》は違うのかもしれない。
 転生モノの最近の|流行《はや》りも目的もなく飛ばされては気ままにスローライフに明け暮れたり、元の世界の知識を生かして店を出したりと第2の人生を楽しんでいる話が多いらしい。このノクト《能登大地》もそうなのかもしれない。
 考えてみれば、30歳にもなって部屋に引き籠《こも》ってゲームを作っている時点でインドア派だ。「きみの行動が人々を救うよ!」と言われたところで奮起《ふんき》するタイプではない。


「まぁ、本当にワクチンができてそれを向こうの世界に持って行ける手段があるんなら、やったほうがいいのは確かなんだけどな。向こうの世界の連中にとっちゃ《とっては》」

 僕はどんな顔をしていたのだろう。
 ノクトは気まずそうに笑う。
 その笑みは星詠《よ》みの灯台でヴィヴィが見せたものによく似ていて……子供じみた我が儘《まま》を言われて困っているようで。


 そうなのだろうか。
 本当に持って帰らなくても大丈夫なのだろうか。
 持って帰ったほうが逆に過去を改変することになるのだろうか。


 この世界が消えることも、僕が消えることも、確かに僕ひとりの我が儘《まま》でしかない。
 僕が消えたところで困るのは僕だけ。他の誰も、ノクトですらきっと僕が消えたら困るとは思っていない。 
 仮定の粋を出ない話でノクトを縛りつけ、無駄になる率の高い、且《か》つ意に沿わないことをさせようとする僕は、自分勝手で汚い。
 でも。


「飽きた。帰るぞ」
「え!? もう!?」
「もう、だ。そのクルーツォとやらにも話を通さないといけないなら、こんなところで本読んでる場合じゃないだろう?」


 何かが癇《かん》に障《さわ》ったのだろうか。「元の世界に戻る気はない」と言った口で、「クルーツォに話を通しに行く」と言うのは矛盾している。
 ああ言ったけれど、やはり僕の意見を立てる気になったのか。
 それともこの僅《わず》かな間に「ワクチンを手にするのです勇者よ」なんて神託が下りた……はずはないだろうけれど。


 広げていた本を鞄《かばん》に押し込んで図書館を出ていくノクトを見送りかけ、僕も慌てて借りたばかりの本を抱《かか》えて後を追う。
 今日は喋ってばかりで全く勉強にならなかったから此処《ここ》に残ってもよかったのだが、ノクトの性分からしてこのまま放置すると「何故《なぜ》追いかけて来ない」と理不尽に責めてくることは間違いない。




 図書館を出、見上げた空はやはりサンドベージュ。
 雲が流れているけれど、あの雲は映像でしかないから、実際のところは町の外でどれだけの風が吹いているのかは推測のしようもない。

 クルーツォは帰って来ただろうか。
 ヴィヴィは今日も星詠《よ》みの灯台から外を見ているのか。それともクルーツォの調合室《ラボ》に行っているのか。

 しかし考えてみればヴィヴィがクルーツォに会いたがっていたのはクリスマスの時の礼がしたいから、だったはずだ。前回の「クルーツォの調合室《ラボ》に行ったことがある」時点で礼は言えているだろうから、あとはクルーツォの無事が確認できれば会いに行く理由はなくなる。
 僕が勝手に想像して勝手に気にしているだけで、今頃ヴィヴィは全然関係のない取り巻きの誰かと遊び歩いていたりするのだ。きっとそうだ。
 そう思うと少しは気が楽になってくる。
 

「……何ひとりでニヤニヤしてんだよ」
「え? そんな顔してた?」

 飛んできた指摘に声のほうを見ると、ノクトが不機嫌そうに僕を睨《にら》んでいる。
 何だ? 僕は彼を怒らせるようなことをしただろうか。「帰る」と言われて「はいそうですか」と放り出すこともなくちゃんと付いて来たし……ああ、もしかして。

「ごめん、聞いてなかった。もう1回言って」
「だから何ニヤニヤしてんだって……それだけしか言ってない」

 ”しか”をやたらと強調したノクトは、「もういい」と呟くと歩《ほ》を速めた。

 あっという間に離れた距離に、やってしまった感だけが漂う。
 やってしまった。僕が全く話を聞いていなかったことまで完全にバレた。
 しかもニヤニヤって。ノクトは僕がクルーツォのところに行くのを楽しみにするあまりそんな顔をしたと思っているに違いない。
 確かにクルーツォのことを考えていたから反論はできない。
 けれど「会えるから嬉しい♡」なんて意味はこれっぽっちも……5%……いや10%くらいしか入っていない。


 抱えたままになっている本が重い。
 僕は鞄《かばん》を下ろし、本を押し込む。その間にも猫背気味な後ろ姿は遠ざかっていく。
 図書館で読もうと思っていたもののノクトの気まぐれのせいで持ち帰る羽目になったその本は、フローロのリストに載っていた植物の本。以前、ヴィヴィが生命《いのち》の花が図鑑に載っていないと言った時に、フローロももしかしたら調べていたのかもしれないと思い当たった本だ。
 ヴィヴィが見た本と同じかどうかはわからないけれど、この本も図鑑サイズなのでかなり重い。持ち歩く厚さではない。

 鞄《かばん》を持ち直し、視線を前方に向ける。
 放課後の通りは授業から開放されて浮足《うきあし》立った学生で溢《あふ》れ、ノクトの姿は遥《はる》か彼方に消えようとしている。

 ……こんな重い本を抱えて付き合ってあげてるんだから、そんなに怒らなくたっていいのに。
 と言うか、何をそんなに怒っているのだろう。クルーツォにワクチンを頼みに行くのは、別に僕ひとりで行っても構わなかったのに。




 足早にノクトを追いかけてやっと手が届く距離にまで詰めた頃。遠くに薬局が見えた。
 そしてその前に止まっている、見覚えのある車も。
 ゴツゴツした溝の大きなタイヤは最初は違和感しか覚えなかったけれども今ならわかる。これは砂地を走るため。町の外に――生命《いのち》の花を採取しに行くためのものだ。

 クルーツォが帰って来た。

 僕は薬局に駆け寄り、窓から中の様子を窺《うかが》う。
 ヴィヴィと違って僕は此処《ここ》か病院にしかクルーツォとの接点がない。けれどいつも薬局で店番をしているアポティには、レトの影を感じてからどうにも苦手意識が働いてしまって、だから迂闊《うかつ》に入ることができない。

 覗《のぞ》き込むと、見慣れた赤錆《あかさび》色のマントが見えた。カウンター越しにアポティと話をしている。
 と、窓に背を向けているクルーツォの代わりに、アポティに気付かれた。

 クルーツォを指さし小さく手招く様《さま》は悪戯《いたずら》好きな好中(?)年にしか見えないが、その仕草に騙《だま》されてはいけない。
 アポティはレトと繋《つな》がっている。
 それを言うのならアンドロイドの全てがレトの支配下にいるわけだが、何故《なぜ》かクルーツォにレトの影を感じたことはない。
 感じないだけで本当のところは初期型《クルーツォ》も後期量産型《アポティ》も大差ないのだろう。けれどその”感じ”が、僕がクルーツォを信用している理由なんだと思う。

 だからアポティがどれだけ親しげに振る舞おうとも、騙《だま》しにかかっているようにしか見えなくて。
 「お目当ては此処《ここ》にいるよ。入って来なよ」と身振り手振りと目が雄弁すぎるほど雄弁に語ってくれているけれど、かえって僕の足は動かなくなって。


 アポティが窓《僕》に向かって奇妙なジェスチャーを繰り広げること数分。
 やっとクルーツォが気付いた。振り返り……僕を視認したと思いきや、眉間に皺《しわ》を寄せて口角を歪《ゆが》ませる。

 アンドロイドだから無表情なのだろうと思っていた当初の頃に比べると、随分と表情が変わるようになった。
 向こうも僕に心を開いてくれているから、なんてことを口走ったら最後、隣にいる幼馴染みの皮を被《かぶ》った奴《やつ》に「アンドロイドに心があるはずないだろう」と言われるのがオチだけれども。





「薬が入用《いりよう》か? 至《いた》って健康そうに見えるが」

 薬局から出て来たクルーツォは開口1番そう言うと、カウンターの中にいるアポティを振り返った。

「あ、違うんだ。薬が要るわけじゃなくて」

 けれどアポティを呼ばれても困る。
 一応、買わざるを得ない状況になった時用に、虫よけスプレーか目薬あたりの安価なものの購入も想定してはいたけれど、買わずに済むなら買いたくない。

「久しぶりに会えて嬉しいんだよ。なんせ5ヵ月ぶりだからねぇ」

 次《つ》いで現れたアポティのほうが以心伝心。
 「お腹がシクシクするんです」だの「頭が重い」だの「なんだかよくわからないけれど調子が悪い」だのという漠然《ばくぜん》とした不調の訴えから最適な薬を処方する達人は、僕が思っていることなんてお見通しなのかもしれない。

 5ヵ月前とは11月。栄養剤を取りに来た時のことを言っているのだろう。
 クルーツォとはその後、クリスマスと病院でも会っているけれど、その情報はアポティとは共有されていないらしい。
 人間同士ならただ単に教えていないだけの話だが、アンドロイドとなると話は別。彼らはレトと繋《つな》がっているし、レトを通じて情報も共有しているはずだ。
 なのに何故《なぜ》アポティはそのことを知らないのだろう。


 思えば、

『いい子でいろよ、”レトの学徒”。お前はお喋りが過ぎる』

 病院の帰りに言われたあの台詞《セリフ》は意味深だった。「レトにとってのいい子でいろ。でなければ危険だ」と言う意味だったのではないか、と後で気付いた時には背筋が寒くなった。
 あの夜の会話をクルーツォはアーカイブに残さなかった可能性がある。レトに伝わらないように。
 何故《なぜ》か。それは……でも! 今はちょっと置いといて!!


「嬉しい? 会えて?」
「うわあああああああ!!」

 本人の前で言わないでほしい。
 ずっと隠していた恋心を片想いの相手にバラされた女子学生みたいな声を上げてしまったのは、ヴィヴィがクルーツォに興味があるようなことを言ったせいで変に意識してしまっているからだ。そうだ。そうに違いない。

「立ち話もなんだから中で喋って行ったらどうだい。今日はもう客も来ないから構わないよ」

 ニヤニヤとアンドロイドとは思えない笑みを浮かべながら、ドアを大きく開け「どうぞ」と手で促《うなが》して見せるアポティに対し、クルーツォは、

「喋るだけなら外でいい。金を払わない客は客じゃない」

 と、にべもない。

 けれど僕としてもそのほうが助かる。アポティが聞き耳を立てている前で疫病用のワクチンが欲しいだの、生命《いのち》の花を融通してくれ、だのとはとても言えない。
 贅沢を言えば外と言っても店の前では通行人に聞かれそうだし、監視カメラ経由&読唇《どくしん》術を駆使《くし》すればレトが会話の内容を知ることもできるわけで……小説の読みすぎだと言われそうだけれども、言えるものなら「お人払いを」なんて言いたかったりもする。

「ええっと、」
「……………………ちょっと来い」

 言い淀《よど》んでいると、突然クルーツォの腕が僕の肩(と言うよりもほぼ首)に回った。

「かわいいからって拉致《らち》っちゃいけないよ?」
「お前と一緒にするな。ちょっとそのあたりを散歩してくるだけだ。あと3,180秒で蒸留が終わるからすぐ戻る」

 探るように目を細めるアポティにそう言い残し、クルーツォは僕(の首)を捕まえたまま歩いていく。そのままでは首が絞まるので、僕も拉致《らち》られた体勢のまま後に続く。
 行き先は不明だが商店街とは反対方向。多分、僕の言いたかったことを察して人の少ないところに移動してくれるつもりなのだろう。
 3,180秒が何分なのかは咄嗟《とっさ》に計算できない。もの凄く長い時間のようだけれども、きっとそんなに長くはない。


「おい!」
「心配ならきみも付いて来るといい。と言うか来い。勝手に犯罪者に仕立てられても困る」

 声を荒げて呼び止めようとするノクトを一瞥《いちべつ》し、クルーツォは肩越しに言い放つ。

「ちゃんとアーカイブは取っておけよクルーツォ。今度忘れたら修理工場行きだ」

 立ち去る僕たちにアポティの声が追いかけて来た。
 ”アーカイブを取り忘れた”とは病院から送ってくれた時の会話のことだろうか。僕がいろいろと質問攻めにしたあの日の会話をクルーツォはわざと残さなかったと……そう言うことなのだろうか。




 拉致《らち》られること数分。クルーツォが足を止めたのはフォリロス広場の入口だった。

 赤錆《あかさび》色のマントを羽織ったアンドロイドに首を抱え込まれて連れて行かれる赤ベスト《レトの学徒》という構図は予想以上にかなり目立ったらしく、通りすがりの方々《ほうぼう》から投げられる奇異の視線が痛すぎる。
 明日あたりどんな噂になって流れているのか、今から考えただけでも気が重いけれどもこれも自分が蒔《ま》いた種。仕方がない。

 僕らの後ろを同じく無言でノクトが付いて来るのが見えた。
 アンドロイドから「付いてこい」と命令口調で言われたのが癇《かん》に障《さわ》ったのか、先ほど以上に機嫌が悪そうな顔をしていた。


 広場を挟んだ彼方にある門《ゲート》は固く閉じられ、その前にふたりの警備兵が立っている。
 旅立ちの日にはバスが何台も停留する此処《ここ》は、テニスコートに例えれば8面は軽く入る大きさ。しかしさすがに警備兵が立っている前で遊ぶ物好きはおらず、誰もいない広場にやって来た僕らは(たとえそれが広場の端《はし》だとしても)彼らの恰好《かっこう》の的になったようだ。
 警備兵からしても、見飽きた広場よりも僕らを見ているほうが暇つぶしになる……その心情はわからないでもないけれど、|何処《どこ》に行っても結局人の目が付いて回る事実には失笑を隠し得ない。

 距離があるから声が警備兵にまで届くことはない。口の動きを読まれることもない。
 監視カメラを仕掛ける場所もない。
 密談するには何処《どこ》よりもいい場所なのだろう、けれども。


「で? 要件は何だ」
「……アーカイブは、」
「心配するな。残さないから」

 あれだけアポティに念押しされたにもかかわらず、クルーツォはこの会話を記録するつもりはないようだ。彼が記録しないのなら、この会話がレトに伝わる可能性はほぼ消えたと言っていい。
 しかし。
 多分《たぶん》に第三者に聞かれたくなさそうな素振りをした僕のせいではあるけれど、レトの指揮下にいなければならないアンドロイドがレトと情報を共有しないように動くなんて、本来ならあり得ない。
 アポティやフランならきっと何も考えずにレトに繋《つな》ぐ。もしくは最初から繋《つな》がっている。でもそれは配慮がないのではなく、情報をレトと共有することはアンドロイドにとって当然のことだからだ。
 しかしクルーツォはそれをしないと言う。1度ならまだしも2度。
 しかも事前に忠告まで受けているのに記録しなかったとなれば、今度こそ”壊れている”と判断されかねない。

「残さないと危ないんじゃない? クルーツォが」


『――今度忘れたら修理工場行きだ』

 去り際、アポティが投げて来た言葉がまだ耳に残っている。
 クルーツォがアーカイブを残さないのは僕を守るため。僕がいつも不用意に、レトに伝えられないようなことを聞いて来るからに他ならない。
 伝わればただでは済まないと知っているからこそ、こうして庇《かば》ってくれている。

 親しい相手だからか、人間を守ると言うアンドロイドの特性のせいなのか、理由はわからないけれど、とにかく僕が興味本位で動いていることでクルーツォに害が及ぶわけにはいかない。

「気にするな」

 クルーツォは、ふ、と鼻で笑った。

「それにアーカイブを残すと言ったらお前は何も喋れなくなるんじゃないのか? そういう話がしたいのだろう?」

 アポティは心配性なだけだから、と付け加えてくれたけれど、何にせよ彼《アポティ》の前で生命《いのち》の花の名は出せない。
 あの花の存在を学生が知る必要はない、とされていることは確かだし、だとすると僕の知っていますアピールは何の得にもならない。
 それどころか、誰が教えた? と犯人探しが始まりかねない。
 クルーツォはアポティを信用しているようだし、薬の知識や商いの上ではこれ以上ないほど信用できる人だけれども、それと同時にアンドロイド《レトの下僕》。そして権力者の忠実な手足とは、押し並《な》べて世間から信用される人物だったりするものだ。


 一緒に来ているノクトは何も言わない。
 ワクチンの提案をしたのは僕だから、僕から話したほうが正確に伝わると思っているのか、クルーツォ《アンドロイド》と喋りたくないだけなのか。
 生命《いのち》の花の秘匿《ひとく》性も、知るはずのない情報を知ってしまった場合にどうなるか、なんてこともわかっていないだろうから、ワクチンの話をするだけなのに何故《なぜ》こんな場所まで、と訝《いぶが》しんでいるのは間違いない。

「時間がないぞ。あと2,617秒」
「あ、あのね、疫病のワクチンのことなんだけど!」

 疫病と聞いてクルーツォの片眉が上がった。

「疫病!?」
「ち、違う違う違う! もしそういう依頼があったら作れる? って言う、」

 こんななりでもさすがは薬師《くすし》。病気に対する食いつきが普通じゃない。
 そりゃあこの町の薬を一手に引き受けている、みたいなことをアポティが言っていたし、薬の切れ目が生死の境目と言うか、僕たちの命を預かっている自負もあるのだろうけれど。

「感染源になるウイルスか菌があれば作れないことはないが……本当に誰か感染したわけじゃないんだな?」
「誰も感染してないしウイルスも菌もないよ。でも、あの、例えば生命《いのち》の花でその”ウイルスも菌もない疫病”のワクチンを作ることはできないかな、って」
「何故《なぜ》そんなものが要る?」


 僕の説明を聞いたクルーツォは、冷ややかな目を僕ではなくノクトに向けた。
 『ノクトは前文明の世界から転生して来た。あの時代に流行《はや》った疫病を打ち負かすワクチンを持って帰らければならない――』
 そんな与太《よた》話にしか聞こえない説明でもクルーツォならきっとわかってくれる、と言うのは泡《あぶく》ほどに脆《もろ》い期待だけれども……案の定、言葉の意味としては”わかって”くれたようだけれども、納得の意味では”わかって”くれない。

「……純真な子供に嘘《うそ》を教えるな、って目はやめろ」
「よくわかってるじゃないか」

 ああ。ノクトとクルーツォの間で冷戦が勃発《ぼっぱつ》しそうだ。

 どうも最近、クルーツォが僕の保護者を買って出ているように見えるのは気のせいだろうか。
 ノクトも僕のことを子供扱いするけれど、彼の中身は能登大地30歳だから……と、それを言うならクルーツォだって3桁《けた》、確実に2桁《けた》後半は間違いない。何だこの外見詐欺。ってそうじゃない。

「あの、」
「お前もお前だ。人間はそう簡単に転生しない。常識的に考えればわかるだろう」

 仲裁しようとしたら飛び火した。
 半年近く前に、転生と転移について語るヴィヴィに対して僕が放った言葉が、クルーツォから返って来る日が来るとは。

 非常識なのは当然だし信じられない気持ちもわかる。
 加えてクルーツォはアンドロイドだ。どれだけ言動が人間臭くても、それは数多《あまた》の数式やプログラム――0と1から割り出された結果でしかない。

「だけど、もしノクトがこの世界に飛ばされてきたことに意味があったら? 世界の命運をかけて飛ばされたんだとしたら?」

 僕のようにあと数ヵ月待てば彼《クルーツォ》が転生話を信じるようになるとは限らない。
 むしろならない。
 でも、待つ時間もない。

「本人にそんなつもりは全くないのだろう?」

 ノクトは帰る気はないと言った。
 ワクチンを持って帰るのが転生理由じゃないかと言っているのは僕だけだ。でも。

「覚えてないだけ! とにかく急に来たんだから急に帰されることもあるかもしれないでしょ? その時になってワクチンを用意するのは遅いでしょ?」
「覚えていないということは、その命運は他の誰かに託されていると考えるべきじゃないのか?」

 信じないのに、転生者がいること前提で話を進めてくれる《諭してくる》。
 しかもやけに説得力がある。
 
「そ、それはそうなんだけど、ほら。その誰かが不慮《ふりょ》の事故で入手できなくなったとかあるじゃない? 現に向こうの世界では疫病が流行《はや》ってるんだよ? 持って帰る数は多いに越したことはないよ!」


 クルーツォは大きく溜息を吐《つ》いた。
 呆れている。感情などないはずなのに表現力が凄い! じゃなかった、突拍子もない話だってことは重々承知しているつもりだけれども。

「クルーツォ、」

 何も山や海を元どおりにしたいと言っているわけではない。
 人類が滅亡しかけた疫病とは言え、簡単に言ってしまえばウイルス性の風邪。高熱が10日以上続き、倦怠《けんたい》感を覚え、悪化すれば血栓ができて死に至り、回復しても後遺症が残るだけの、ただの風邪の超強力版だ。

 なのにあの世界には対処する薬がない。爆発的な感染は薬の完成よりも先に、多くの命を奪ってしまった。
 けれどこの世界には生命《いのち》の花がある。あの時代にはなかった花が。
 症状もまるで違う病気があの花ひとつで治すことができる。そんな花なら”薬のない”疫病だって治せるはずだ。


「まぁ、確かに生命《いのち》の花を使えばそれなりの効果は期待できるかもしれない。しかしだな」

 生命《いのち》の花の存在を教えた手前、知らぬ存ぜぬで済まされないと思ったのか、変に隠すと何をしでかすかわからないから観念したのか。
 クルーツォは考え考えしながら口を開いた。

「普通の花では駄目だ。0《ゼロ》番花なら期待はできる……が……」
「0《ゼロ》番花?」


 0《ゼロ》番花とは、生命《いのち》の木が最初に咲かせる花を指すそうだ。
 花の季節になって最初に咲かせる1番花よりも希少な、その木が一生に1度しか咲かせない花。当然のことながら効能ももっとも高い。
 しかしクルーツォでさえ0《ゼロ》番花の現物は見たことがないと言う。


「0《ゼロ》番花だけは花の時期が定まっていない」

 クルーツォに限らず、生命《いのち》の花の開花を待つ者は他にもいる。
 群生林が近いファータ・モンドでは生命《いのち》の花についての研究も此処《ここ》以上に進んでいて、当然のことながら0《ゼロ》番花もその研究対象で。数が少ないだけに勝手に持って行かれることがないよう、日夜貼りついて見張っているのだとか。
 この分では僕がフローロに伝えようとした”大発見”も既《すで》に誰かが思いついていそうだ。しかも手を尽くした後かも知れない。

 でも、疫病のワクチンはまた別の話だ。
 そのワクチンが全く必要なくなったこの時代に作ろうと思う者などいない。
 伝え聞く症状だけを頼りに精製した薬がどの程度効くかは博打《投与してのお楽しみ》でしかないけれど、材料《0番花》さえ手に入ればそれなりに効果の見込めるものが作れそうだ。

「それじゃあ、」
「マーレ! クルーツォ!」

 その時、声が聞こえた。
 ヴィヴィだ。僕らに向かって駆けて来る。商店街であれだけ目立ってしまったから、ヴィヴィの耳にも届いたに違いない。

 それにしても人生15年、彼が喜々として駆け寄ってくることなんてなかった。
 チャルマを失い、ヴィードが大怪我をし、あれだけいた取り巻きに避けられれば人恋しくなるのか。それとも、

『――僕、クルーツォの調合室《ラボ》に行ったことがあるんだ』

 クルーツォがいるからか。

 僕は横目でクルーツォを窺《うかが》う。
 表情は変わらない。ヴィヴィに会えたことを喜んでいる風でも――。

 まただ。
 そんなことに安堵する自分が嫌になる。




 息せき切って駆けて来たヴィヴィは、僕の肩にもたれ掛かる。
 先に言っておくと甘えているわけではない。リレーでバトンを渡した後の選手に駆け寄って両脇から支える人役、言い換えればストッパーに選んだだけだ。
 その証拠に目はクルーツォに向いている。

「レトの学徒がクルーツォっぽい人に抱きかかえられて何処《どこ》か行ったっていうじゃない? 車があるのに薬局にいないし、そしたら薬局のオジサンがこっちのほうに行ったって教えてくれてさ。ねぇ何あの噂。どういうシチュなの?」

 随分と親しげ、いや、ヴィヴィは親しくなれば誰にでもこんな感じだ。相手がクルーツォだからじゃない。そう思う傍《かたわ》ら、調合室《ラボ》に行く間柄だし、なんてヒネくれた思いが首をもたげる。
 一体どんな経緯でクルーツォはヴィヴィを調合室《ラボ》に入れたのだろう。僕なんて第三者に聞かせる内容の話ではない、と察してくれながらもこんな場所《フォリロス広場》なのに。

「って言うか、帰って来てるならそう言ってよー」
「わざわざ教えることでもないが」

 クルーツォが塩対応なのが救いだ。
これでヴィードたちのように彼氏面だったりしたら、居たたまれなくて逃げ出して、余計に変な空気を残してしまっていただろう。


「すまない。残り1,080秒を切った。時間切れだ」
「え? 何?」
「ごめんヴィヴィ。戻らないといけない時間なんだって」

 クルーツォは今、薬の蒸留をしている。今だってその隙間時間を縫ったもの。僕自身、話し足りないけれど、最初からそう言う約束で時間を貰っているのだから無理は言えない。
 薬の蒸留というものがどれほど大事な工程なのかは素人の僕にはわからないけれど、それでも帰さなければその薬は駄目になるわけで。そうなれば材料の採取から始めることになるのは明白で。

「じゃ一緒に行く。話したいことが、」

 しかしヴィヴィは食い下がる。
 やっと会えたのに話す間もなく帰ると言われては仕方のない反応かもしれない。けれど。

「駄目だ」

 何故《なぜ》簡単に「一緒に行く」という選択肢が出て来るのだろう。
 そんなに親しいのだろうか。

 クルーツォは素っ気ない。「駄目だ」と一蹴《いっしゅう》するのは僕が見ているからではないと信じたい。

「どうしてさ! 僕には今日しかないのに!」
「今日しか、って?」

 僕は腕に貼りついたままのヴィヴィに目を向ける。クルーツォも、そしてずっと黙って話を聞いているばかりだったノクトも眉をひそめてヴィヴィを見ている。
 ヴィヴィはその視線を避けるように、僕の腕を強く握り締めたまま俯《うつむ》いた。

「僕……明日、ファータ・モンドに行くんだ」



 僕たちは卒業した後、大人の町ファータ・モンドに行く。
 しかし卒業を待たずに去る同級生がいる。本来ならファータ・モンドに行ってから現れる性徴《せいちょう》が早めに出てしまった者たちだ。
 でも明日とは。
 今までなら1週間前後は猶予があった。少ないながらも荷物をまとめ、友人たちと別れを惜しむ時間があった。なのに明日だなんて……まるで突然姿を消してしまったチャルマのようだ。

「……急だね」
「だろ!? おかしいよ。だって僕はまだ性徴《せいちょう》なんか来てないんだよ? なのに」

 実際に体に変化が出る前に、レトにしかわからない兆《きざ》しでもあるのだろうか。
 思えば学期途中で去っていった同級生の誰ひとりとして、実際に変化が現れた者はいなかった。宣告から出立までに1週間近くあると言うのに。
 でも宣告を受けていない僕にはその”兆《きざ》し”がわからない。だから何とも言えない。

「なのに……………………痣《あざ》が」

 そう言うとヴィヴィは髪を掻《か》き上げた。
 いつもは髪で隠れている襟足に、チャルマよりもひとまわり大きな痣《あざ》がある。南国風の花にも見えるそれは、やはり描いたように鮮明で、自然に浮かび上がってきたと言うには違和感が拭《ぬぐ》えない。

「何時《いつ》、」
「昨日の夜……かな。それで今日の昼に通知が来て、明日って」

 ”海”に行った時は|痣《あざ》なんてなかった。ツインテールにしていたから間違いない。
 チャルマに痣《あざ》が出た時も、もし出ていたなら自《みずか》らカミングアウトしただろう。ヴィヴィ自身「女になる予兆ではないか」と言っていたくらいだし。

「ねぇクルーツォ、この痣《あざ》なに? 前に性徴《せいちょう》とは関係ないって言ってたよね?」

 病院からの帰り道、クルーツォは性徴《せいちょう》で痣《あざ》が出ることはない、と言い切った。
 途中退場することなく卒業してこの町を去ったフローロに痣《あざ》があった、というチャルマの話が本当なら、痣《あざ》と性徴《せいちょう》に関連はない。

「なら病気なの? チャルマみたいにずっと入院したままになるの?」

 フローロを例にすれば、それも違うと言える。
 まさか”レトの学徒”だったからファータ・モンド行きが免除になったわけではあるまい。
 性徴《せいちょう》が現れた学生を早めに彼《か》の地に送るのは、子供社会の残酷な興味で彼らを傷つけることがないように。将来を有望視された”レトの学徒”を渦中に放置するとは思えない。此処《ここ》よりも専門的な分野が学べる地に行かない理由が”レトの学徒”だからと言うのも矛盾している。

「性徴《せいちょう》も来てない僕がファータ・モンドに行かなきゃいけないって、行ったらどうなるの? そのまま病院に押し込まれるの?」
「ヴィヴィ、まだ来てないだけだよ。1時間後、半日後には変化するかもしれない。セルエタで日々の体調管理されてるし、レトにはわかるんだよ」
「知ったかぶりしないで!」

 ヴィヴィの腕を掴《つか》む力がさらに増す。
 言いたいことはわからなくもない。痣《あざ》の出たチャルマはファータ・モンドの病院に転院したと言う理由を残して消息を絶ったのだから。


「……ヴィヴィ、秋頃、レトの学徒に預けた栄養剤は飲んだか?」

 そんな中ずっと黙って話を聞いていたクルーツォは、なのに全く違う質問を口にした。
 何故《なぜ》今、栄養剤の話を?
 ヴィヴィの不安に気付かないはずないだろうのに。

「飲んだよ! それが何!?」
「いや。……そうか。どうも表示されていた成分より生命《いのち》の花が多く使われていたらしかったんだが」
「だから何!」

 どうにもクルーツォは自分《ヴィヴィ》よりも栄養剤に関心があるらしい、と察したのか、ヴィヴィの声が甲高く、攻撃的になって来る。
 僕を掴《つか》んでいることも忘れているだろう。僕の腕は完全に怒りの吐き出し口にされていて……一旦弛《ゆる》めてもらわないと血の流れがせき止められて壊死《えし》しそうだ。

「ヴィヴィ、痛、」
「その痣《あざ》は、そのせいかも――」

 僕の抗議もクルーツォの言葉も、最後まで発せられることはなかった。


 世界が止まった。
 僕たちの目の前で、ボコボコと内側から何かが出て来るかのようにヴィヴィの背中が盛り上がったかと思うと、服を引き裂いて木が現れたからだ。

「……っ!?」

 その木は尋常ではない早さで伸びていく。
 メキメキと音を立てながら枝を伸ばし、根を張り。
細かったヴィヴィの体は膨らみ、節くれだった幹になるまで時間はかからなかった。しなやかな四肢はガサガサに乾いた茶色に変色し、そのところどころに服の切れ端が残ったままで。
 恐怖に駆られたヴィヴィの顔が引きつった形のまま茶に染まる。
 訴えていた口はポカンと開いたまま2度と塞《ふさ》がることもなく、ただ”人間ではないもの”に変容していく。
 そしてその手は……まだ僕を掴《つか》んでいる。

 引き剥《は》がそうとして、一瞬、迷った。
 何故《なぜ》こんなことになったかはわからないけれど、これはヴィヴィだ。変化に最も恐怖しているのはヴィヴィのはずだ。
 なのにその手を振り払ってしまったら。
 僕はヴィヴィを”木の化け物《人間ではないもの》”と見なしたことになる。発せられている救いから目を背《そむ》けたことになる。

 そして迷ったその一瞬、ヴィヴィの手が木に変わった。
 空に向かって伸び続ける木に合わせて、かつて腕だった枝も上へ上へと上がって行き……僕の腕もそれに引っ張られる。引っ張られて足が浮く。
 
 目の前に迫る幹に顔のような節が見える。
 両目が見開かれ、口は呪詛《じゅそ》を紡ぐように歪み。
 そう、これは人の顔。ヴィヴィの顔だ。

「あ……あああああああああ!!」

 どうしてこんなことに。
 ヴィヴィに何が。何が起きているんだ!?
 
「マーレ!!」

 ノクトの声と、何かが叩きつけられるような音が聞こえた。
 けれど振り返ることもできない。枝はまるで僕を飲み込もうとするかの如《ごと》く膨《ふく》れ上がる。首に、腰に新たな枝が伸びてくる。

「ヴィ……」

 苦しい。痛い。意識が朦朧《もうろう》とする。
 僕はこのままヴィヴィに飲み込まれて木の一部になってしまうのだろうか。
 でもどうして。何故《なぜ》。これも――。


 意識が途切れかけた時、ふいに視界が開けた。
 腕に絡みついていた枝が弾けるように散る。
 次《つ》いで、首に巻きつきかかっていた細枝が消え。腰に絡んだ枝1本で辛《かろ》うじて引っかかっている状態では体重を支えきれなかったのか、ガクンという衝撃と共に僕は枝ごと地べたに叩きつけられた。
 
 視界に広がる、空を覆《おお》う枝。
 裂けて白い生木《なまき》が見える箇所は、僕を捕えていた枝が折れた痕《あと》だろうか。
 其処《そこ》にクルーツォがいる。
 彼も僕同様、ヴィヴィを攻撃することに躊躇《ためらい》いがあるのか、自身に向かって四方から襲い掛かる枝を前に防戦一方……いや、防戦するしかないのだ。よく見れば片腕の肘《ひじ》から先が幹に飲み込まれている。 
 僕を助けようとして代わりに捕まったのだろうか。
 クルーツォが割り込んでくれなかったら、ああして飲み込まれるのは僕だったのだろうか。

 攻撃できないクルーツォに縋《すが》るように――泣きながら縋《すが》るヴィヴィの姿が重なって見えて――枝がその身に、足に絡む。


 駄目だ。
 このままじゃクルーツォが――!!


「ヴィヴィ!!」
 ――パン! パァン!

 僕の叫びに重なるように銃声がした。
 クルーツォの腕が、そして足が。その銃声と共に砕け、彼は真っ逆さまに落下した。





「……蒸留の時間が過ぎているのに何時《いつ》までも帰って来ないと思ったら、何だいこれは」

 何時《いつ》の間にかアポティが僕の横にいる。猟銃のような銃身の長い銃を手にしている。
 彼がクルーツォを撃ったのだろうか。確かに木に飲み込まれるばかりのところから救出するには、既《すで》に飲み込まれた部分を切り離すのが1番早いけれど。


 そうしている間にも大勢のアンドロイドたちが木を取り囲み、枝を払っていく。
 門《ゲート》の警備兵ばかりではない。カフェの制服など様々な服装をした彼らはクリスマスの暴動の時にマルヴォを捕えた人々と同様、”人間とこの町を守るために”集まり、”人間とこの町を脅《おびや》かす”モノを排除しようとしている。

 が。

「待って! その木は!」

 その木はヴィヴィだ。切り倒されたら彼《ヴィヴィ》はどうなる?
 アンドロイドなら壊れた箇所を付け直せばいいだけだけれども、人間は胴体を真っ二つにされたら生きていけない。

「ヴィヴィが、」
「自分もあの一部になっていたかもしれないって時に平和だねぇ、きみは」

 駈け寄ろうとした僕はアポティに押さえられた。薬局販売員の細腕――しかも片腕なのに身動きが取れない。

 僕の目の前で木に火が放たれる。
 生木は煙が出るばかりで燃えないと何時《いつ》かの授業で習ったけれど、どうして、一気に火が回った。
 まるで巨大なキャンプファイヤーだ。高く燃え上がる炎の柱はあちこちから見えたらしく、何ごとかと学生が集まって来る。新たなアンドロイドたちが野次馬を抑えている。


 ゴウゴウと鳴る音に混じって断末魔の悲鳴のようなものが聞こえたのは、もしかしたら錯覚かもしれないけれど、僕にはヴィヴィが叫んでいるようにしか聞こえなくて。

「やめ……!」

 アポティを振り切り、手を伸ばしたその先でヴィヴィだったものが倒れた。
 火の粉が、砂塵《さじん》のように舞い上がった。