21-1 紅い帳




 コツ、コツ、という足音は歩《ほ》を進めるうちにグチュグチュと粘ついた音に変わっていく。
 母屋《おもや》と同じ石造りのはずの廊下や壁を覆《おお》っているのは黒ずんだ蔓《つる》。その蔓《つる》から分泌される水分が床に溜まり、粘ついた異音の元となっている。そればかりかその蔓《つる》は窓を覆《おお》い、燭台《しょくだい》を|絡《から》めとり、光を発するものを片端から排除している。
 靴底で踏みつける度《たび》に脈打つような振動が伝わり、壁全体が小刻みに揺れる。まるで巨大生物の胃の中にでもいるようで気分はよくない。
 
 此処《ここ》はメフィストフェレス本家の中でも「離れ」と呼ばれている建物。本家自体が直系の者しか住むことを許されない中で、さらに隠居した前当主やその奥方、10歳に満たない子息・子女が住む場所にあたる。
 青藍が幼少期を過ごしたのも此処《ここ》、離れだし、前当主が隠居後に移り住んだのも此処《ここ》。前当主の第一夫人ソーリフェルと第三夫人アダマスも|此処《ここ》にいた。
 犀《さい》は、記憶の中とまるで様相《ようそう》を変えてしまった廊下に目を向ける。

 見る者が見れば、とは言わない。誰が見たって此処《ここ》がまともではないとわかる。
 たったひとりの想いを餌に増え続けた蔓《つる》は、何時《いつ》かはこの屋根を、壁を突き破り、世界中に放たれるだろう。
 だから誰にも見せない。誰も、これを知らない。いや、誰も、というには語弊がある……か。

 犀《さい》は廊下の突き当りに鎮座する扉の前で立ち止まり、取っ手に手をかけた。
 壁と扉とを同化させている蔓《つる》がスルスルと左右に分かれ、埋もれていた蝶番《ちょうつがい》が顔を出す。まるで呪文ひとつで現れる魔法の扉のようだ。

 そんな扉の先には大抵、お宝が眠っているものだが。
 犀《さい》は自嘲気味に鼻を鳴らす。
 宝と言えばそうなのかもしれない。誰も彼もが、


『――お願いできる?』


 脳裏に響いた声と共に、こめかみに刺すような痛みが走った。
 その声の主は第二夫人。青藍の実母で、今はもうこの世にはいない。





 最初に執着を見せたのは前当主だった。
 純血でもない、嫡男《ちゃくなん》になるわけでもない幼い息子を、それでも家の外には出すなと命じて来た。家を継がせるつもりもないのに「何時《いつ》か家のために必要だから」とは、理由としてはあまりにも稚拙《ちせつ》。だがその子供じみた理由なき理由も、当主という地位が可能にした。

 次は紅竜が落ちた。散々嫌っていた彼が掌《てのひら》を返すように執着を見せ始めた。張り合うように武術師範だったアンリが執着を見せ始めたのもこの頃だ。
 そしてそれから数十年後。次に執着らしきものを見せたのはその息子の母、第二夫人だった。
 私《犀》は彼女からその子を人間界に……この家から出すように頼まれ、それを実行した。血を分けた息子を意味不明な理由で15年も幽閉されるような場所になど置いておきたくない、とは母心だろうが、生み落としたままずっと放置しておいて今頃よく母親面《づら》ができるものだと思った覚えがある。
 子育てひとつしなかった女にも母性は残っていた、と言うべきか、己《夫人》に酷似した息子を他人に好き勝手にされることが許せなかったのか、今となってはわからないけれど。

 さらに10年が経《た》ち、その息子は再びこの家に戻って来た。彼《青藍》を鳥籠から空に放った私《犀》の手によって。

 そして今。
 彼を取り戻すべく、人間界からこちらに向かう者がいる。

「……ひとはどうしてこうも執着するのでしょうね」 

 誰も彼もが「彼」を求める。
 そこまで必死になる価値があの子にあるだろうか。容姿と魔力は魔族の中でも秀でているだろうがそれだけだ。炎を授かっていたあの子に面白半分にジルフェ《風》が加護を上乗せしたことも、それを特別なものと考えるのは精霊くらいだろう。

「いや。彼だから、なんでしょうか。ねぇ」

 思えば青藍は魔眼という厄介な目を持っていた。見た者を意のままに操れるというその目を幼い頃の青藍は制御することができなかった。持っていることは早くから知らされていたから皆、注意してはいたはずだが、不意を突かれることもないとは言えない。





「さて、その大事なお宝を紅竜様が壊していなければいいのですが」

 扉を開け、犀《さい》は溜息を吐《つ》く。
 部屋に充満する甘い香りは昔、弟の意思を奪うために紅竜が焚いた香《こう》の臭い。まるで熟《う》れすぎた果実を握り潰したような、香《こう》と呼ぶにはきつすぎる香りは、そのまま濃度が濃いことを表している。
 この中にいて何も感じないとは。長期にわたって同じ薬を服用していると効かなくなってくるように、鼻と脳がこの臭いに慣れてしまっているのだろう。

 入口に立ち止まったまま、暫《しばら》く、香りが流れ出るに任せておく。鼻が慣れるにつれ、視界のほうも真っ暗な屋内に慣れて来る。色が浮かび上がってくる。
 丸テーブルにかけられたクロスの白と縁取りの紅《あか》。
 真冬の湖に張った薄氷の色をした花瓶。
天井から吊り下がっているシャンデリアの硝子《ガラス》が、廊下から差し込むごく僅《わず》かな明かりを受けて反射する。
 その中でカーテンと絨毯《じゅうたん》の色が浮かんでこないのは、もともと闇に溶けてしまいそうな藍色だからか、それとも、例の蔓《つる》によって覆《おお》われてしまっているからか。


「……グ、……ス……」

 その中で、微《かす》かに声が聞こえた。
 掠《かす》れた声は、それ以前に何度も声を上げて、喉を絞り切ってしまっているからだろう。

 犀《さい》は好き勝手に伸びている黒い蔓《つる》を踏みつけて部屋の奥に進む。
 衣擦《きぬず》れの音がして、天蓋の覆いが揺れた。
 続けてドサリ、と何かが落ちる音。その間も漏れ聞こえて来るのは同じ言葉だ。


「灯りを」

 犀《さい》が呟くと部屋のあちこちが一斉に光を放った。蔓に絡みつかれ、壁から引き剥がされた燭台たちだ。オレンジ色の光が部屋を満たす中で、暖炉《だんろ》の薪《まき》にパチリと火がつく。眠っていたシャンデリアも、外側から渦を巻くように灯《あか》りを取り戻した。


「無粋《ぶすい》だな、犀《さい》」

 ベッドから身を起こした青年の豪奢《ごうしゃ》な金髪が、先ほどともしたばかりの灯《あか》りに輝く。
 彼は薄い笑みを張りつかせたまま乱れたシャツの襟を整えると、改めて無粋な男に向き直った。

「家令と言うのはこんな夜更けに、それも主《あるじ》の私室にノックもせずに入ってくるものなのかい?」




 突然明るくなった室内に、蔓《つる》が闇を求めてズルズルと後退していく。
 暖炉に巻きついていたそれが明々《あかあか》と燃える炎から慌てふためいて逃げる様《さま》は、何処《どこ》も彼処《かしこ》も我が物顔で覆い尽くしていた光景を思えば嘲笑《あざわら》いたいほどに滑稽《こっけい》だ。
 蔓が引いた床はあちこちに粘液状の置き土産が散乱し、見るに堪えない。
 だが、どうせそう長居はしない。歩くたびに気味の悪い感触を感じるのでなければ、他人の部屋などどれだけ汚部屋だろうとどうでもいい。


 犀《さい》は戸棚を開け、中から比較的状態のいいグラスと、未開封の酒瓶を取り出す。その際、瓶に粘液が付着していたらしい。
 訂正。歩くたびに、だけでなく、触るたびに、も追加。

 眉をしかめ、そんなことを心の中で呟いた犀《さい》だが、振り返った時には既《すで》に何食わぬ顔をしている。うっすらと笑みまで浮かべてサイドテーブルにグラスを置き、瓶を開封して注ぎ、それをベッドに腰掛けたままの紅竜に差し出した。

「此処《ここ》は紅竜様の部屋ではありませんし、私もまだ家令職は頂いておりません。どうやらこの部屋だけ、1ヵ月ほど時間が進んでいるようですね」




 嫌味の混じった反論に、紅竜は機嫌を損ねるどころかくつくつと笑い声を立てた。
 グラスの中身を一気に煽《あお》ると、もう1杯、と催促するように犀《さい》に差し出す。

「手袋が汚れたくらいで怒るな。替えはいくらでもあるだろう? 使用人と同じくらい」
「紅竜様のなさりようがあまりに無体《むたい》で、最近ではなり手が少なくて困っています。在庫の少ない手袋と同じくらいに」  
「足りないことなどないだろう? 田舎からいくらでも連れて来ればいい。城に住み込みで働くことに一種のステイタスを持っているような連中を」
「そうしましょう」

 再びグラスを満たして渡しながら、犀《さい》は紅竜の背後に目を向ける。
 整えてあった原形すら留《とど》めていないほどに乱れたシーツ。ところどころ、ナメクジが這《は》い回ったように光っているのは、この上にまで蔓が浸食してきていた証拠だろう。使役したのか、共に楽しんでいたのかは知らないが。
 そしてその玩具《おもちゃ》は……シーツから覗《のぞ》く、白い、人の腕。


 犀《さい》の視線に気付いたのか、紅竜が笑い声を立てる。

「何だ? 興味があるなら、」
「いえお気遣《きづか》いなく」


 部屋の中に充満する臭いは香《こう》ではないようだ。その臭いはベッドの中から――その白い腕の主から発しているように感じる。
 腕の主が誰かは、考えるまでもない。

 犀《さい》はベッドの反対側に回り込み、顔があると思われる場所の布を引く。こんな薄い布1枚で臭いを覆《おお》い隠すことはできない、と思ったが、めくった途端に予想以上のむせ返るような臭いが漂い出た。思わず鼻を押さえ、数歩後ずさる。
 紅竜はそんな執事の行動を、ひとり手酌で酒を注ぎながら眺めている。


「……香《こう》を飲ませたのですか?」

 香は温めて香りを立たせるもので、飲むものではない。吸引するより直接体内に入れたほうが効果は増すかもしれないが、人体にどんな影響があるものやら。現に香の主は放心している。何処《どこ》ともなく向けられている目は虚《うつ》ろで意思の欠片《かけら》も見ることはできない。
 力なく放り出されたままの四肢《しし》や首に何本もの紅《あか》い筋が付いているのは縛り付けた痕《あと》。シーツに点在する粘液から鑑《かんが》みても蔓《つる》を使ったであろうことは間違いない。

 悪趣味な。

 頭の中で思っただけのつもりだったのに、思わず口をついて出た。
 紅竜は何杯目かの酒を飲み干すと、音高くグラスを置く。置かれたものの、不安定なうちに手を離されたせいだろう。グラスは自身が酩酊《めいてい》しているかのように揺れ、床に転がり落ちた。カシャン、と小さく音が鳴った。


「酒に混ぜてみただけだ。それほどの量は入れていない」
「口に入れるのは食べ物だけにして下さい」
「蔓は駄目か? なかなかに淫靡《いんび》な絵になったが」


 紅竜の声を聞き流しながら犀《さい》は手袋を脱ぎ、横たわったままの人の口元を探る。
 先ほど酒瓶を取った時に付いた、あの不快な粘液は付いていない。念のために口の中に指を入れてみたが……どうやら今しがたの「口に蔓」発言は、自分を揶揄《からか》うために言った嘘らしい。
 
 無言のまま手巾《ハンカチ》を取り出し、口元を拭う。
 処置の最中《さなか》に口が動いた。そう言えば部屋に入った時からずっと何やら呟いている声は聞こえていたが、ことが終わっている今もなお口にするのなら嬌声《きょうせい》の|類《たぐい》とは違う。
 おおかた香《こう》の悪影響が出ているのだろうが、無表情のまま何を囁かせたところで興《きょう》など醒《さ》めるだけだろうに。

 目を見開いたまま同じ音を呟き続けている様《さま》は、精巧《せいこう》にできた人形を見ているようだ。生身に相手にしてもらえない者か、生身は飽きてしまった者か、世の中のごく一部には人形を相手に行為にふける者もいる、とは聞いたことがある。一応は生身だから、どちらかと言えば死姦に近いのかもしれないが――。

 |犀《さい》は耳を澄ませた。
 人の名前だ。ずっと、壊れたオルゴールのようにただその名前だけを呼んでいる。

「……記憶が……?」
「いや」

 ベッドに腰を下ろしたまま、紅竜は手を閃《ひら》かせる。部屋のあちこちから、パリン、パリン、と音が聞こえ、部屋全体を覆っていたオレンジ色が暗さを増した。部屋の暗さに相反《あいはん》するように、もしくは割れた燭台《しょくだい》の灯りを吸い込んだかのように、その瞳は紅《あか》く煌《きら》めいた。

「深夜に明るいのは好かないね。夜には夜の美しさがある。これも、」

 そして手を伸ばし、シーツの上に散らばった髪を、つい、と掬《すく》い上げる。

「……これも闇の中にいるのが1番映《は》える。他の誰よりも」


 自分《犀》と話をしているように見えて、独り言を呟いているだけなのかもしれない。
 犀《さい》は紅竜の言に同意することなく無言で返す。
 どうせ紅竜も返事など期待していない。返事が返ってきたところで9割方反論なのは当人もわかっていよう。
 

 婚儀を控えている今、その相手を放置し続けていることに、そして別の者を囲い込んでいることに罪悪を抱きはしないのか。
 紅竜にとってこの婚儀は計画を遂行するための段取りのひとつでしかなく、そこに愛だの恋だのは存在しないのか。


 ……しないのだろう。
 どれだけ時が経《へ》ようとも。きっと。

 そうひとりで結論付けて、愛だの恋だのという甘い考えを僅《わず》かでも持っていた自分に驚いた。
 この城で魔族の推移を眺め続けて来たから情が移ったのか。

 いや。

 きっと疲れてしまったのだろう。予想通りにしか動かない彼らに。期待を裏切らない彼らに。破滅に向かって進むだけの彼らに。





「話が途中だったか。これの記憶は戻ってはいない。流れ落ちてしまった水が元に戻ることなどないように」
「では」
「その名だけを呼べと命じてある。面白いぞ。まるでそいつに救いを求めているようだろう? ……決して救いになど来ないのにな」


 救いなど来ない。
 ハッピーエンドにはならない。

 いや、救いは来ている。来ているが――。


 会話の間も犀《さい》は、唇以外はぴくりとも動かないそれの体についた傷を調べ、淡々と処置を施《ほどこ》す。
 大きなものでも手首の擦り傷のみ。この処置も1度や2度ではなくなってしまったが、その間、擦り傷以上の傷を見たことはない。


「私のモノだ。どう扱おうと自由だろう?」

 嘯《うそぶ》く紅竜を一瞥《いちべつ》し、犀《さい》は動かない体に衣服を着せ、髪を整え、虚《うつ》ろに開いたままの目を撫でるようにして閉じさせる。

 口調の割には大事に扱っている、と思えば救いに聞こえるだろうか。
 ひとつ吐いた溜息がスイッチとなり得たのか、ずっと動き続けていた口が止まった。
 
「……おやすみなさいませ」

 常人ならこんなところで眠れるわけがない。
 しかし心を失った器には隣に誰がいようとも、周囲で何が見ていようとも気になどならない。
 彼がこうなってしまったのは自分のせいでもあるのに、今になって人として扱おうとする自分も大概《たいがい》だ。
 犀《さい》は幼子を寝かしつけるようにその髪を撫で続けた。




 そんな犀《さい》を紅竜は面白そうに眺めている。心の内の懺悔《ざんげ》を見透かすような目で。

「そんなことより何用だ? まだ夜は長いと言うのに」
「……こちらは一段落お済のようですし、まだ夜は長うございますから、奥方の部屋にでもお伺いなさったら如何《いかが》です?」

 その悔恨の念がつい、嫌味に形を変えて口から出た。

「あれはまだ奥方ではなかろう。やはり私とお前の間では時間軸が1ヵ月ほど違っているようだな」

 紅竜は悪びれるどころか挑戦的な目をして犀《さい》を見据える。
 自分《犀》が挑発したせいで寝た子を叩き起こすのだけは止めてもらいたいのだが……助言を聞く気も、此処《ここ》を動く気もないようだ。

 この婚儀は100%打算。紅竜にしてみれば、いずれは潰す予定の家の血を後世に残す気などさらさらないのだから、アイリスの元に通うという発想も端《はな》からないに違いない。そのことをアイリスが何処《どこ》まで察しているかは知らないが、彼女とて紅竜は兄、それも姉の元許婚《いいなずけ》という認識なのだから、手を付けられないでいることをむしろ喜んでいる節もあるだろう。
 跡継ぎがどうとか言っている彼《か》の家側は送り込んだ娘に手をつけてもらわねば困ると思っているだろうが、両人揃ってその気がない。知らぬは彼《か》の家ばかりなり、だ。
 その娘も、いや、もう何も言うまい。

 犀《さい》は青藍に視線を落とす。
 眠っている、とうよりも機能を停止している、と言ったほうがしっくりする。
 このまま棺《ひつぎ》に入れても、いや、紅竜のことだから、ただ棺《ひつぎ》に入れるくらいなら透明な結晶に封じ込めれば飾っておける、などと言い出すかもしれない。そしてその時、自分《犀》にお呼びが掛かるのは確実だ。

 ふ、と、ひとつ笑う。

 そのほうがいいかもしれない。
 同じ顔をしていながら第二夫人の最期《さいご》は酷《ひど》いものだった。辛《かろ》うじて頭部は損傷も少ないまま残ったけれど、やはり首だけというのは頂けない。
 当時、紅竜は剥製《はくせい》にすれば美しいまま残せると言ったらしいが、結晶漬けも剥製も同じ。残すのなら首から下もあるに越したことはない。


 犀《さい》は青藍が眠る直前まで紡《つむ》いでいた名を、その名を持つひとりの青年ことを脳裏に呼び起こした。
 彼がもしこの青藍を見たら……結晶漬けでも剥製でもいい、命より大事だと公言して憚《はば》らない相手がボロボロに汚され、無残な形で残されているのを見たらどう思うだろう。
 狂うだろうか。
 命を絶つだろうか。
 タイトルは嘆《なげ》き。慟哭《どうこく》。この紅い瞳の主が何とも好みそうではある。
 実際、彼《紅竜》も行為の最中に同じことを考えていたであろうことは想像に|難《かた》くない。

 グラウスが此処《ここ》まで乗り込んで来るであろうことは紅竜も心の片隅どころか真ん中に置いている。「救いになど来ない」という台詞《セリフ》との齟齬《そご》を感じるが、きっと来ることを期待している。そして彼の目の前で「彼を失意の底に叩きこむためだけに」青藍に傷を付ける。
 今はまだ擦り傷程度で済んではいるが、何をしても痛みや苦しみを訴えない人形相手では、何時《いつ》、度を超さないとも言えない。


『――お願いできる?』


 第二夫人は青藍を人間界に出すことを望んだ。
 紅竜の傍《そば》には置いておけないと、自分《犀》に、紅竜から青藍を守ってくれと――。


 ズキ。
 再び、犀《さい》のこめかみに刺すような痛みが走る。
 此処《ここ》の空気が合わないのだろう。今は慣れてしまっているからそう感じないだけで、この部屋に充満した香《こう》は尋常ではなかった。あの臭いの中で正常を保つために無意識に無理をしているに違いない。
 自分の核である水晶は浄化の石。
 しかし浄化するにも限度というものがある。
 


「で? 私は何時《いつ》までお前の辛気《しんき》臭い顔を見ていなければいけないのかい?」

 考え込んでいた犀《さい》の耳に紅竜の声が聞こえた。
 からかうような口調だが、先ほどよりも確実に機嫌は悪くなっている。
 遊んでいる最中に玩具《おもちゃ》を取り上げられたのだから仕方がない。心の中ではさっさと追い出して続きに耽《ふけ》るつもりかもしれないが、今夜ばかりは諦めてもらわねば。
 犀《さい》は此処《ここ》へ来た当初の目的を思い出す。

「……長老様がたがいらっしゃっております。次の魔王役の件でお話があるそうです」

 紅竜と話し込んでいる時間だけでもかなり経《た》ってしまった。待たされるよりも待たせることのほうが多い老人どもはしびれを切らしている頃だろう。
 だが、それに対する罪悪感はそれほど感じない。
 紅竜もそれを察したのだろうか。ふん、と鼻を鳴らした。

「こんな夜更けにか? 老人と子供は早寝するものだと思っていたのだがな」


 時計の針はあと数時間で日付が変わる、と訴えている。
 いくら長老衆とは言え、こんな時間に他人《ひと》を訪ねるのは配慮がないと言えるだろう。当主の傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な振る舞いも今回ばかりは腹に据《す》えかねたとお見受けするが、だからと言って真夜中に押しかけていいものではない。
 きっとそれが罪悪感を感じない原因。時間にルーズな爺《じじい》など、紅竜の怒りを買って処分されてしまえばいい。
 


「先日、青藍様を連れ戻されたことは魔界の隅々にまで達しております。魔王役がいなければ人間どもは手当たり次第に魔族を襲いますからね。おちおち人間狩りも楽しめない、と各家のほうから苦情が上がって来たのかもしれませんよ」

 実際、30分ほど前に犀《さい》が長老衆から投げつけられた暴言の数々はこんなものではない。が、それをそのまま取り次げば紅竜のことだ、例え長老衆と言えども処分すると言い出すだろう。
 自分《犀》としてもただ歳を取っているだけで偉ぶる老人など戯《たわむ》れに処分される使用人たちよりも必要ないし、むしろ処分してほしいと思うくらいだが、そう言うわけにもいかない。
 作り上げた笑みを張りつかせたまま、犀《さい》は紅竜の出方を|窺《うかが》う。


「魔王役など適当な奴《やつ》を後釜に据えれば済むだけのこと。いちいち私に言って来ずとも、爺《じじい》どもで見繕《みつくろ》っておけば、いや、いっそのこと自分たちがやればいいじゃないか。いつも安全なところから吠えることしか知らぬゴミどもが」

 まだ話し始めたばかりだというのに、紅竜は「いかにもうんざりした」とばかりに耳をほじる。
 彼にとっては人間界にいる魔族など、もしかすると魔界にいる魔族ですらどうなっても構わないのだろう。

 人間は魔族を殺して食べたりしないから、鬱憤《うっぷん》を晴らして、見える範囲に魔族がいなくなれば攻撃の手を止める。無差別に魔族を攻撃すると言ったところで一過性のものだと思っているのかもしれない。

「もう10年だ。うちの役目は終わった。あんな仕事でもやりたい奴《やつ》はごまんといるだろう?」
「今はまだ当家が魔王役の後見ですから。例え長老様でも当主に伺《うかが》いを立てなければ、代わりを見つけるにしろ当家以外の誰かに任せるにしろ、ままならないのでは?」
「当主と話がしたいのなら日を改めろ」
「そう返しますか?」
「いや」

 紅竜は嗤《わら》う。
 楽しいことを思いついたとばかりに。

「……と言いたいところだが、老い先短い老人どもは夜が明けるのも待てないだろうしな。
 最後に花くらいは持たせてやるのも当主の務《つと》めだろう。後で行くと言っておけ」


 忍び笑う声に、彼ら《長老衆》が明日の日の目を見ることは叶わないだろうと思いつつ、犀《さい》は軽く一礼した。




「ああ、あの男にやらせたらいい」

 去りかけた犀《さい》の足を紅竜の弾んだ声が止めた。
 振り返れば、さも楽しいことを思いついたとばかりに目を細めている。何処《どこ》か無邪気にも思える表情をするのは血なのだろうか、青藍に、そして若かりし頃の前当主に似ている。

「……あの男、とは?」
「逆に犬以外の誰を指すと思う?」

 犬、と紅竜がそう呼ぶのはただひとり。彼の弟《青藍》に忠犬の如《ごと》くつき従う、人狼族のあの青年《グラウス》のことだ。
 紅竜はグラウスを嫌っている。いや、嫌うほどに気にしている。過去に処分し損《そこ》なったから、というだけではなく、弟が唯一、心を許している相手であるのが気に入らないのかもしれない。
 紅竜の気に障《さわ》ったにも関わらず彼が未《いま》だに生きながらえているのは青藍が命乞いをしたからだ、と思われているが、あの後青藍は幽閉され、グラウスの生死を知ることが叶わない状況下にあったのだから黙って殺してしまうことも可能だった。
 それをしなかったのは弟の顔に免じて許したのではない。殺しておしまいにするよりも、生かしたまま苦しませ続けることを選んだだけのことだ。憎い相手《グラウス》を苦しませるためなら、彼《紅竜》は弟をも利用する。
 《グラウス》も酷《ひど》い相手の気に留《と》まってしまったものだ。


「言うことを聞くとは思えませんね。家族を犠牲にしても、彼は紅竜様には従わなかったではありませんか」

 誰も彼もが紅竜に媚びて、あるいは恐れて従う中、彼だけは真っ向から紅竜に対決姿勢を取り続けている。血を分けた親兄弟から身を引くように進言されても、文字通り血に染まっても、その彼らと縁を切ってでも自分の意思は曲げない。
 犬の特性がそうさせるのか。彼の青藍への執着も、見ていて呆れてしまうくらい紅竜に引けを取らない。

 だが、その執着は身を亡ぼす。
 アンリは教え子《青藍》を助け出そうとして消息を絶った。グラウスもいずれはアンリと同じ道を辿るだろう。
 アンリと同じだけの時間、青藍に関わってきた自分《犀》は何ともないのだから、魔眼に魅入られたのも身を亡ぼすのも己《おのれ》の弱さのせいだと言い捨てたくなるのだが、簡単に言い捨てるには多くの命が消え過ぎた。
 できることならもう誰にも死んでほしくない。それはきっと青藍も思っていることだろう。だがその想いを嘲笑《あざわら》うように彼らは争い、簡単に命を天秤に乗せようとする。
 それが魔眼。
 「メフィストフェレスの魔性」とはよく言ったものだ。


「あの男は、」

 それでも、もし青藍が頼むのであれば彼は魔王役を引き受けるのだろうか。
 そんなことをちらりと思う。
 青藍が彼を危険な職に就けさせることなどないだろうし、今の青藍にそれだけの言葉を綴ることができるのかも疑わしい。つまりは紅竜の意のままに彼《グラウス》が動くことはない。
 それは、わかっているのに。


「30年勤めあげたら青藍をくれてやってもいい。そう言えば従うだろう? 奴《やつ》が死に物狂いで30年苦しみ続ける様《さま》が目に浮かぶようだ」

 だが紅竜が口にしたのは意外な言葉だった。
 見るからに期待しているのは後半部分だと思われるが、最大の障害《紅竜》から許される機会《チャンス》があるのとないのとでは天と地ほどの差がある。

「……………………そ……こまでしてでも得ることができるのであれば……喜びもひとしおでしょう、ね」

 どれだけ想っても手が届かない。そんな相手を25年もの間、一途に想い続けたあの男のことだ。他ならぬ紅竜が言うなら必死に喰らい付いて来るだろう。
 青藍が同じ熱量で共にいることを願っているかどうかは定かではないが、「友人として」気に入っていることは知っている。もし彼の望みが実現するのなら、青藍にとっても……少なくとも此処《ここ》で紅竜の玩具《おもちゃ》のままでいるよりは人間らしい生活ができる。


『――食べていけるのがやっと程度でも大事にしてくれる誰かと一緒にいられたほうがずっと幸せなような気がしますよ』
『食べていけるのがやっと、ってところだけ、贅沢《ぜいたく》をしなけりゃ困らないくらいの生活に変更しとけ。金ってのは案外、愛情を超える――』


 彼は金銭面もしっかりしているからその点では安心だ。
 そこまで考えて犀《さい》は自嘲ぎみに首を振った。

 何を馬鹿なことを。
 青藍はもう2度とこの家の外に出ることはない。紅竜の蔓《執着》に絡めとられて。
 そして前当主の言霊《ことだま》に従わざるを得ない自分《犀》も彼を出すことはない。何時《いつ》か必要になる「かもしれない」事態のために、彼はこの家で生きねばならない。
 

「やるとは言っていないぞ。”くれてやる”ことを”検討してやる”と言ったまでだ。下級の犬程度の力ではその前に勇者様とやらに倒されるのがオチだろう?」

 そんな考えを見透かしたように紅竜は嘲笑《わら》う。
 「お前とてあの男に与える気などさらさらないのだから、私のことを四の五の言う資格などない」と言っているのが言外に聞こえる。
 目の前に人参をぶら下げて(彼《グラウス》の場合、狼だから肉をぶら下げて、と言うべきだろうが)必死になる様《さま》を見て笑っているのだ。苦しんで、苦しんで、後もう少しのところで力尽きることを、絶望の中で死ぬことを期待しているのだ。



「……あの男を魔王役として派遣するとなると、アイリス様が残念がられますね」

 気分が悪い。
 他人を不幸に陥《おとしい》れて嗤《わら》う紅竜も、そんな子供でもわかりそうな嘘を一瞬でも鵜呑みにして喜びかけた自分も。
 そんな自分の一喜一憂までもを紅竜が察しているであろうことも。


 アイリスがグラウスを専属執事にするよう望んだ件は、「野犬は首輪をつけて飼い殺したほうがいい」という提案と共に上申してある。
 もしかすると、正妻に仕える執事ともなれば視界に入る率も高くなるから次の魔王役にして追い出してしまえ、と思ったのかもしれない。


「何かを望むのならそれ相応《そうおう》の成果を出してからだ。
 この間の鳩を見たが、あまり力が強いほうではないな。ヴァンパイアの最後の姫があれでは、あの家も大したことはない。上級貴族の名が聞いて呆れる」

 紅竜は席を立つと戸棚から新たなグラスと酒瓶を取り出す。満たされていく透明な液体の中で、白い気泡が浮かんでは消えていく。
 少ししたら行く、とつい今しがた口にしたばかりだが、この調子では長老衆はまだまだ待たされることになりそうだ。

「魔界一の旧家だか何だかしらないが、当家の敵ではない。何時《いつ》でも潰せることが判明しただけでも成果はあった、と言うべきかもしれないな。金も力も、吸い尽くせるだけ吸い尽くしたら潰してやろう」


 まだ婚儀も終わってはいないと言うのに。
 平然と言ってのける紅竜に、犀《さい》は僅《わず》かな侮蔑《ぶべつ》の視線を投げた。

 所詮《しょせん》は政略結婚。愛情も、愛情に変わるだけの何かもないことはわかっている。彼《か》の家は当家と姻戚関係になることで揺らぎかけた地盤を強固にし、この後「共に」繁栄していくことを望んでいるのだろうが……紅竜は彼《か》の家の領地も力も奪うつもりでいる。

 この10余年で魔界貴族の大半はメフィストフェレスの傘下に下った。かつてはメフィストフェレス以上の大悪魔と呼ばれていた者の末裔すらも紅竜の傀儡《かいらい》となり果てた。
 それを良しと思っていない家は今や一握り。その中の頂点にいるのがヴァンパイアだった。
 あの家が消えれば、他の家など烏合《うごう》の衆《しゅう》も同じこと。裏ではどれだけ紅竜の独裁を嫌おうと、表だってそれを言うことができる者はいない。


「あの娘より姉のほうがよかったな」
「キャメリア様ですか?」
「ああ。婚約前に失踪するような愚かな女だったが」


 キャメリア。
 紅竜の許嫁。アイリスの姉。ヴァンパイアのもうひとりの姫。
 彼女との縁談も同じように家同士の思惑の上でのことだったが……。

「そう言えば、キャメリア様について紅竜様のお耳に入れておきたいことが」
「今更消息でもわかったのか?」


 紅竜があの家を目の仇《かたき》にしているのも、キャメリアに裏切られたことに起因しているのかもしれない。婚約直前に逃げられるなど、プライドが許さなかったのだろう。
 彼の弟《青藍》とその執事《グラウス》に向けられた憎しみに、とてもよく似ている。

 ああ。青藍に対する執着は魔眼ばかりではなく、このせいもあるのかもしれない。
 手に入れたものを2度と失わずに済むように。
 2度と逃げ出せないように。
 幽閉し、香《こう》を焚き、魔力を封じ。記憶を消し、心を砕き、そうまでして紅竜は青藍を傍《そば》に置こうとしている。

 キャメリアがいてくれたら、全てが違っていた。
 紅竜が闇に呑まれることもきっとなかった。
 アイリスも青藍もそれなりに――がんじがらめの制約の中ではあるけれども――幸福を見い出せていた。

 いや。
 犀《さい》は紅竜の横顔を盗み見る。
 もし、などという言葉には何の意味もない。