22-15 未来讃歌~ Inno~




 窓を開けると、天を支えているかのような塔が見えた。
 あの塔はこの街の要《かなめ》。ロンダヴェルグ聖教会の本部があり、この街の行政・司法機関と騎士団の本営もあり。そして最上階には聖女が座すと言われている。
 

 何時《いつ》にも増して街が華やいでいるのは、決して気のせいというばかりではない。
 白を基調にした、良く言えば清潔感、悪く言えば殺風景な家々の窓や扉に、今日ばかりは色とりどりの花が飾られている。遠くで音楽が聞こえる。何処《どこ》かでばら撒いているのか、風に乗って薄紅色の花弁《はなびら》まで舞っている。
 まるで街を上げて結婚式でもするかのようだが、正確には違う。
 今日は聖女候補の中からたったひとり、新たな聖女が選び出される日だ。

 何人もの聖女候補がこの街に集まっているというのは暗黙の了解になっていた。
 候補が現れたと言うことはすなわち、聖女の不在を意味する。だからこそ、聖女がいるからこそ安全だと思っている住人が不安に駆られて暴徒と化すことがないよう、教会関係者を始め、関わりがある者も、候補者当人も口を噤《つぐ》んでいた。教会関係者が3分の1を占めるロンダヴェルグでは、3人に1人が知っていて黙っている計算になる。
 しかし当人たちが街中《まちなか》を闊歩しているのだから噂を完全に断つのは無理と言うもの。そこへ来て、とあるカフェで起きた小さな騒ぎ。候補者と名乗る少女ふたりの口喧嘩のせいで、その存在は完全に明るみに出てしまった。
 だが、その直後に悪魔に襲撃されたのは今となっては良かったのかもしれない。
 彼女らはよく働いた。護衛騎士が戦う傍《かたわ》ら、持ち前の回復魔法で人々を癒《いや》した。
 内心では人々の支持を集め、次期聖女に選ばれる足掛かりにしようと目論《もくろ》んでいたかもしれないが、その危険を顧《かえり》みず献身的に働く姿に、人々は「聖女は不在のようだが、代わりがいるなら安心だ。それもこんなに大勢が」という空気が流れ……危惧《きぐ》していた暴動も起きずに今日を迎えることができた。不幸中の幸い、と言うのは亡くなった人々に対して不謹慎なのかもしれないけれど。


「でもねぇ。てっきり、るぅちゃんがなると思ってたわよあたしは」

 鳩《はと》の香草塩釜焼きをテーブルに起きながら、カリンが大袈裟に肩を落としてみせる。
 グラストニアでミルが作った料理だ。あの時は鴨《かも》を使っていたが、カリン曰《いわ》く、この街では鳩のほうが手に入りやすいし肉も柔らかい、のだそう。確かに鳩はたくさんいるけれど……。

 窓の外を見上げれば、「たくさんいる」の証明のように真っ白な鳩が数羽、並んで羽ばたいていくのが見えた。
 あの鳩は聖都を演出するための言わば観光資源のようなものだから、肉屋に並んでいるアレは別物だと信じたい。


「あたしは力が使えませんから」
「そう言うけどさ。お兄ちゃんが近くにいればいいんでしょ? 本物の聖女を差し置いて、ただの回復魔法の使い手が聖女、聖女って崇《あが》められるのは腑《ふ》に落ちないわぁ」 

 「そう言うけどさ」という台詞《セリフ》はそのまま返すべきだろう。ロンダヴェルグ内で義兄《あに》が近くにいる状態を保つことなど、できないに等しい。
 そして人々を癒《いや》すことなく街を出てしまったあたしが、献身的に働いた彼女らを差し置いて聖女になれば人々は納得しない。今度こそ暴動が起きる。


 次代の聖女はジェシカだと内々《ないない》で通知を貰っている。あの日、カフェであたし《ルチナリス》と口論になった、そのせいで候補者の存在を明らかにしてしまった彼女だ。
 住人に面《めん》が割れてしまったから、ではなく、彼女が回復魔法では他の候補者たちより抜きんでていたから選ばれたのだと思いたいが、
 
「今まで聖女なしで何十年も何とかなってきたんですから、今度もどうにかなりますって。ティルファ様《司教》もそう言ってたし」

 司教《ティルファ》の言葉からすると、前者の気がしてならない。

 ただ前《さき》の聖女が正体を明らかにしていなかったことに対し、今回、「聖女でござい」とばかりの大々的な就任式を行うのは、人々に「聖女はちゃんと此処《ここ》にいる」とアピールしたいからに違いない。だから悪魔はもう襲っては来ない、と――襲って来るはずがないと思われていた悪魔に襲われてささくれだった人々の心を落ち着かせたいのだろう。


「ティルファはね、前《さき》の聖女様以外はみんなカボチャに見えるの。どうでもいいのよ」

 カリンは喋りながらも固められた塩を砕いて肉を取り出し、器用にナイフで薄切りに削ぐ。その1枚を窓辺にやって来た猫に放り投げる。
 あんな塩辛そうなものを猫にやって大丈夫なのだろうかと一抹《いちまつ》の不安がよぎったが、咥《くわ》え去られてしまっては追いかけようもなく、ルチナリスは心の中で猫の健康を祈るにとどめた。


「ったく、上があれじゃ使われるほうは大変なんだって」

 カリンの言葉を聞きつつ、初対面の時から前《さき》の聖女の身を案じていた司教《ティルファ》を思う。
 彼が髪をピンクに染めているのも前《さき》の聖女の助言のせいだと言うし、ただの司教として以上の感情を彼女に抱《いだ》いているであろうことは第三者のあたし《ルチナリス》から見てもバレバレだけれども……だから、その彼女が|悪魔《魔族》と結婚して、魔界に行って、子供まで作っていたことは黙っていよう。
 それと。

「あ、っと、カリンさん、マッパー《地図作成士》で聖騎士団入りしたんでしたっけ」
「何その誤魔化《ごまか》しました、みたいな話題転換」
「え、ははは」

 カリンやミルがどうして司教《ティルファ》を呼び捨てているのかは、あたしにとってロンダヴェルグ最大の疑問なのだが、どうにも地獄の窯《かま》の蓋《ふた》を開けてしまいそうで、舌にのせるのが憚《はばか》られる。
 確かミルは魔法少女リリカル☆ストロベリィの印象操作のためだとか何とか言っていた気がするが、モデルとなったミルならともかく、カリンが呼び捨てる理由にはならない。
 まぁカリンの場合、ミルが呼んでいるのを真似して呼んでいたら実は司教だった。でも今更変えられない、というあたりだろうと踏んではいるけれど。

 それより気になるのはカリンの聖騎士団入りのこと。
 冒険者の頃からマッパー《地図作成士》だった彼女が今になって剣を振るったり魔法を唱えたりできるはずもない。きっと入団後も地図を作るのだろう。ウィンデルダのおかげで俯瞰《ふかん》で見ることができるから、地上を歩いて地図を描くよりも正確なものができる。その点で彼女に勝《まさ》る者はいない。
 ただ、ジルフェ《風の精霊》からウィンデルダ《風竜》を任されているのは入団しても変わらないから、今までの運び屋稼業も続けるらしい。

「仮よ仮|マッパー《地図作成士》なんて本当はいらないのよ。ただあたしに今後のロンダヴェルグの防衛予算10年分を支払わないといけないから、だったらその分働け《拘束する》ってこと」


 防衛予算云々《うんぬん》のあたりは、ロンダヴェルグを拠点にしているメイシア《大地の精霊》との契約によるものらしい。何故《なぜ》そんな話になったのかは全く見えないが、メイシアなら司教も教会本部も経理も全部すっ飛ばして口約束しかねないし、彼女《メイシア》の力で結界を張っている街としては文句も言えなかろう。
 その過剰な支払いのおかげで魔界まであたしたちを迎えに来るサービスが付いたのだから、あたしとしては有難《ありがた》いの一言に尽きるのだけれども……魔界にまで行った彼女に彼《か》の地までの地図を描かせるつもりで採用したのではないと信じたい。





 風に乗って燻製肉《ベーコン》を焼く匂いが流れてくる。
 このあたりの家は皆、同じ造りをしているから、壁の向こうや通りの反対側でも同じように食卓を囲んでいるのだろう。

 この家はかつてミルが住んでいた家。今はカリンがロンダヴェルグにいる間の住まいとなっている。
 そして、魔界から戻ってきたものの帰る家がなかったあたしがカリンの好意に甘えさせてもらって、早《は》や、数ヵ月が経《た》とうとしている。

 カリンが住むようになってから調理器具だの小物だのが増え、この家は全体的にかわいらしい雰囲気になっていた。
 が、ミルの部屋だけは当時のまま残されている。
 あたしにとっても勝手知ったる他人の家ではあるけれど、その部屋だけは未《いま》だに入ることができない。


 あたしたちと再会した時にミルがいなかったことに、カリンは何も言わなかった。「ミル」の2文字を口に出すことすらなかった。少人数で魔界に送り出した時点で再会が叶わなくなることは覚悟していただろうけれど……だからあたしも勇者《エリック》も何も言えなかった。
 ミルはただ単に悪魔と戦って死んだわけではない。でもそれを語るにはもっともっと前から――ミルが此処にいた頃《カリンと出会った頃》より前から話さなければならない。
 また聞きでしかないあたしに全てを説明することができるかは不安だが、何時《いつ》か、カリンには話さないといけないと思っている。


「さ、食べたら出発よ。ウィンデルダも食べて食べて。あんた食べるの遅いんだから」
「……よく噛んだほうが消化にいい」
「だけどさ」
「美容にもいい。早食いは太る」
「…………………………早く食べなさい」

 4脚ある椅子のひとつに腰掛け、隣の椅子にドラゴンのぬいぐるみを座らせ。匙《スプーン》を取る姿は歳相応の子供だ。
 毎回そうして隣にぬいぐるみが座るせいで、その席にも皿とカトラリーが並んでいるのは、子供のいる家庭あるあるなのだろうか。

「ルチナリスも」
「うん。食べる」

 ウィンデルダに促《うなが》され、あたしも匙《スプーン》を取る。


 聖女就任の大事な日だけれども、あたし《ルチナリス》はこれからこの街を出る。
 選ばれなかったからこの街に用はない、と言うわけではないが、そう思われても仕方がない。仕方がないがあたしは元々聖女になりたくて此処《ここ》に来たわけではないし、この後、もっと大事なことが待っているのだ。


「早く出発しないと、式が始まってからじゃウィンデルダを飛ばしにくいのよね」
「見られても瑞兆《ずいちょう》だって喜ばれますよきっと」
「……呪いの人形《メイシア》が見つけて押しかけてくる前に出たいのよ」
「……そうですね」




 空が青い。
 あの空は魔界にも繋《つな》がっているだろうか。
 ふわりと舞った花弁《はなびら》が1枚、くるくると舞い上がって消えて行った。




 その魔界にまで続いているかもしれない空を、ウィンデルダの背に乗って飛ぶ。
 当たり前のことだが何処《どこ》まで行っても人間界の空で、眼下《がんか》に点在するのも人間界の民家ばかりで。なまじ魔界に行って彼《か》の世界の家の造りを見た後では「この空が魔界と繋《つな》がっている」なんて錯覚すらできやしない。


 前に乗った時は振り落とされないようにしがみついているのが精一杯で、景色を見る余裕などほとんどなかった。こうして見る余裕ができたのは慣れたこともあるのだろうが、以前より乗り心地が良くなったからと言うのが大きい。ウィンデルダが人の姿をとっている時はそれほど成長を感じなかったが、安定して座っていられるようになったのは、座る場所が広くなった、つまり彼女《ウィンデルダ》が成長したからに他ならない。
 カリンが言うには、風を読むのも、風に乗るのも、上手《うま》くなってきたそうだ。子供の成長は早い、と目を細めるカリンに、ふと、義兄《あに》も同じことを思ったことがあるのだろうか、と思う。


「でもぉ! カリンさんが騎士団ってぇ! 意外でしたぁ!!」

 ゴウゴウと耳の横を通り過ぎていく風に負けじと、ルチナリスは大声を張り上げる。

 カリンの家に転がり込んで数ヵ月が過ぎたが、その間、カリンの団服姿は1度もお目にかかっていない。ミルの団服姿もとうとう拝むことができなかったが、カリンもあまり好きではないようだ。白地に十字架を背負《せお》った意匠《いしょう》に宗教っぽさを感じるのかもしれない。
 無論、今日も団服ではない。今日の彼女は運び屋だ。魔界にまで迎えに来てくれた時と同様、アフターサービスだと言う。
 このまま一生タダで乗せてくれそうな勢いだが、貧乏性としては無賃乗車のようで居心地が悪い。ウィンデルダの乗り心地UPと相殺《そうさい》ね! なんて笑っていられないくらいに悪い。

「そーおぉ?」
「カリンさんってぇ! 一箇所《いっかしょ》にいないイメージだったからぁ! ”騎士団に入らなきゃならないってんなら金なんか返すわ!” って突き返しそうでぇぇ!!」
「あはははは。そうよねー!」

 ミルのいた家に住んで、ミルのいた騎士団に入って。
 故人を想う美談として語られそうだが、カリンという個を捨てているようで何処《どこ》か痛々しい。
 それに今はまだ運び屋を続けているけれど、二足の草鞋《わらじ》状態なのだから、簡単に見積もって精神的・体力的な負担も倍だろう。仕事を入れることで考えない時間を作っているようにも見える。

 だったらあの家に住まなければいいのに。
 騎士団にも入らなきゃいいのに。
 ウィンデルダ山脈周辺にも町はある。ロンダヴェルグまで来なくても客は取れる。あたし《ルチナリス》が言える立場ではないのだけれど、しばらくは距離を置くことも必要ではないのか? それなのに。 

 帰る場所のないあたし《ルチナリス》にとっては、カリンがミルの家に住んでくれて、尚且《なおか》つ、同居を許してくれているのは有難《ありがた》い以外にないのだが……。



 そう。あたしには帰る場所がない。闇の件は一段落したものの魔王役の後任は未《いま》だ決まらず、だからノイシュタイン城は封鎖されたままになっていた。
 勇者《エリック》がいつものように

『うちに泊まればいいよ。メグもいるしさ』

 と言ってくれたが、何時《いつ》魔王が復活するかわからず、また、復活したところでメイドとして住み込めるかどうかもわからない今、無期限で泊めてもらうことになりそうな事態は避けたい。
 ノイシュタイン城下町の宿屋のおかみさんを始め、数人が養女に迎えてもいいと言ってくれているそうだが、何処《どこ》も海の魔女事件で跡継ぎを失った店ばかりで……「家を継いでくれる婿《むこ》を取るための餌」として望まれているのかと邪推してしまうと、これまた受けることができない。
 だから聖女候補に戻ることを提案された時は「どの面《ツラ》下げて戻るつもりよ」と嘲笑《あざわら》う自分を感じながらも、他に選択の余地がなかった。聖女になる気もないのにロンダヴェルグに居座るのは申し訳なかったが、あの街にいれば魔王が復活したかどうかもすぐわかる。

 そして昨日。
 剣士亭《冒険者組合》の貼り紙に変化が起きた。今まで影も形もなかったマスターランク依頼「悪魔の城の攻略」が現れたのだ。

 それは、言い換えれば新たな魔王役が決まったということ。
 ノイシュタイン城の封鎖が解けたということ。
 
 今まで存在すら認められていなかった「魔王」を誰もが普通に口にする。義兄《あに》と共に魔王の存在が人々の中から消え去ったあの日に巻き戻されたような違和感をも感じるけれど。
 でも。
 今度ばかりはそんな違和感も希望としか思えなかった。

 そう。
 あたしはこれから向かう地はノイシュタイン。
 行ってどうなるものでもないけれど、行かないという選択肢はない。

 

「でもね」

 ルチナリスの心の声など聞こえていないであろうカリンは、前方を見つめたまま口を開いた。

「あたしは|マッパー《地図作成士》だからぁ、全世界の地図を描き上げたいって野望もあるのよー。今だって、各町と其処《そこ》へ行くまでの馬車や汽車の路線だけは辛《かろ》うじて地図化されてるけれどぉ、それ以外の道は全然でしょ?」


 地図を描くと簡単に言うが、描くには労力以外に紙代などもかかる。そして描いたところで正しいと思ってもらえなければ金は入らない。
 ルチナリスは翼越しの眼下《がんか》を見下ろす。
 街道と呼ばれる幅の広い道が白い川のように蛇行している。地図に載っているのはあれだけだ。沿うように走る細い道や、途中で森の中に消える道は地図には載らない。
 悪魔が何処《どこ》で出るかわからないのに得体の知れない道を進むのは冒険者くらいで、その冒険者たちからマッパー《地図作成士》は不要と言われているわけで。
 さらに一般人が町から町へ移動するのは馬車か汽車。だからこんな民家も町もない場所は街道さえわかっていればいい、という認識の者が多いわけで。
 だが騎士団の後ろ盾有りきで地図が描ければ、確実に報酬も入って来る。騎士団も正確な地図が手に入るからwin-winだ。

「今はさぁ、街道だけあればいいって考えだけどぉ、そのうち人が増えれば考えも変わるって! その時になればー誰かが地図を描くんだからぁ、だったらーあたしが描けばいいじゃない?」

 地図を描ける人がこの世界を見下ろせば、あたし《ルチナリス》にはただの風景にしか見えない景色も巨大な地図に見えるのだろう。



 そうか。

 カリンはミルの後を歩いているだけではない。
 きちんと自分のすることを、未来を見ている。 



「安心しましたぁ」
「何がぁ?」

 とぼけたように口をへの字に曲げてルチナリスを見下ろしたカリンは、やがてニヤリと笑った。
 身を寄せ、ひそりと囁《ささや》く。

「だいたい、先駆者っていうのは莫大な金が入るのよ。2匹目のドジョウは所詮《しょせん》、ドジョウでしかないわ。それが、騎士団に入れば騎士団の予算で成せるわけよ。こんな美味《うま》い話ってないと思わない?」
「…………………………………………ソウデスネー」

 何処《どこ》まで本気なんだか。感動を返せ。
 そんな反論もできないままカリンの視線を避けるように再度下を見下ろしたルチナリスの目に、数十頭の動物を乗せた荷車を繋《つな》いだ馬車が映った。

 牧場の引っ越しだろうか。
 それともあの動物たちは何処《どこ》かの食肉工場にドナドナされて《運ばれて》行く最中なのだろうか。動物を長距離運んでいる光景などあまり見ないので、思わず凝視する。
 すると。

「おおーーーーーーーーーーい! ルチナリスぅぅぅぅうううう!」

 こともあろうに、馬車を操っていた青年があたしたちを見上げて大声を張り上げたではないか!

 何故《なぜ》見える!?
 いや、こちらから見えるのだから向こうからも見えるだろうけれど。でも人の形をしているな、程度で顔など誰だかわからないし、名指しされた今もわからない。
 何だ? とてつもなく目のいい知り合いなどいただろうか。
 それとも領主の妹を10年、聖女候補を1ヵ月やっていたおかげで、地味に有名人だったりするのだろうか。まさか魔法少女リリカル☆ストロベリィの後続作品に出演するアイドルの卵だと認識して呼んだわけではないだろう。そう信じたい。

「知り合い?」
「いや、ええと」

 カリンに尋ねられるが、知らないものは知らない。
 無視して飛び去るのは一瞬で済むけれど、それもどうかと気を遣《つか》われたのだろう。ウィンデルダは軽く旋回し、馬車の少し先に着陸した。




「やっぱルチナリスじゃん! すげぇな! ドラゴンなんて初めて見たわ俺!」
「ク、クレイ。どうして」

 笑顔が眩《まぶ》しい彼は執事《グラウス》の弟。名はクレイ。
 はるか上空を飛んでいたあたしを認識するなんてどんな視力なのだろう。あたしも目は悪いほうではないつもりだったが、毎日大自然の中で山羊《ヤギ》を追いかけて暮らしていれば人智を越えた視力の持ち主になるのだろうか。と、それは置いといて。

 彼らは此処《ここ》から遥《はる》か北の地で山羊《ヤギ》を飼い、一家総出で引き籠《こも》り生活をしていたはずだ。
 見れば両親と祖母もいる。だが、見覚えのない人々もいる。後ろの荷車にいるのはやはり山羊《ヤギ》で……あたし《ルチナリス》たちが遊びに行った時に生まれた子山羊《ヤギ》もいるぜ、と教えられたものの、その子はちょっと目を離した隙《すき》に見分けがつかなくなってしまった。

 しかしこの荷物。
 ルチナリスは馬車を見上げる。
 馬車に乗っている人数にしては少ないがかなりの荷物だ。屋根の上にまで縛りつけてあるせいで重心が安定しないようだ。止まっていてもグラグラしている。馬車を引く痩《や》せ馬も息を切らしている。


「引っ越しでもするの?」
「んー、まぁそんなもんかな。俺ら魔界に帰ることにしたんだ」

 寂しそうに感じないのはクレイの性格のせいなのか、初めての魔界デビューに浮足立っているからか。今から買い物に行くんだ、みたいなノリで、とにかく寂しそうには感じない。

「魔界!?」

 唐突だ。と思うほど彼らと親交があったわけではないから、もっと前から戻る算段をしていたのかもしれないけれど意外だった。
 彼らが人間に混ざって暮らしてきたのは魔界貴族社会のしがらみが嫌になって魔界を飛び出してきたからで、其処《そこ》へもってメフィストフェレスの嫌がらせで余計に戻る気を失くして。なので彼らは一生、あの土地で生きていくものだとばかり思っていた。

 紅竜がいなくなったから戻る気になったのだろうか。
 それとも、魔界にいる執事《グラウス》に呼ばれたのだろうか。


「青藍様がさ、貴族様がたの集まりで、隔《へだ》ての森を全部閉じるって決めたらしいんだ。
 俺らもこっちで骨を埋めるつもりでいたんだけどさ。いざ戻る手段がなくなるって言われると”やっぱ戻ろうか”って気になっちゃって」
「隔《へだ》ての森を閉める!?」

 鸚鵡《オウム》返しに聞き返しながらも、目の前が真っ暗になる。
 隔《へだ》ての森を管理しているのは魔界貴族の各家だ。好き勝手に人間界に行くことができなくなった貴族以外の魔族はそれぞれの家の下につくしかなくなった。
 「何時《いつ》でも狩り放題にすると狩り尽くしてしまうから」という絶滅指定動物の保護文句のような理由は、通行権を持つ魔界貴族の権威を保つと同時に、人間側からしても悪魔《魔族》の襲来を抑制してくれる取り決めで。無論、そんなことが決められているとは人間側からは知る由《よし》もなかったし、閉めてくれると言うのなら万々歳だろう。
 けれど……その森を閉める? しかも義兄《あに》がそう決めた、と!?

 余程《よほど》悲痛な顔をしていたのだろうか。
 クレイが気の毒そうに眉を寄せる。

「ルチナリスが良ければ一緒に連れていってやってもいいぜ? 今更ひとり増えたところで変わんねぇし、人間だからって食いやしねぇから安心しろって」


 クレイ曰《いわ》く、既《すで》に半数以上の森が閉められているらしい。
 彼らはグラストニアの先にある例の森から魔界入りするそうだが、荷車を引いた馬車なら此処《ここ》から3日はかかる。
 その間に戻って来られるのなら連れて行ってやる、ということなのだが、空路ならノイシュタインに行って戻ってせいぜい1日。クレイが森に着く前には十分間に合う。


 ノイシュタイン城の封鎖が解けたのなら、ガーゴイルたちもアドレイも眠りから覚めているはずだ。
 彼らは家族だった。きっと彼らもそう思ってくれている。行けば笑顔で迎えてくれる。
 新たな魔王役が人間のあたしを雇ってくれるかはわからないけれど、それでもこうして戻るのは、生き別れみたいに消えてしまった彼らと再会だけでも果たしたいから、だったりもする。もちろん、

『るぅチャンはメイド歴10年のベテランっすよー』
『魔族にも理解があるっすよー』
『城下の人間たちとも親しいんすよー』

 と口添えしてくれれば最《さい》の高《こう》。

 そして。



 ……馬鹿だ。あたし。
 何時《いつ》の間にか抱《いだ》いていた淡い期待をルチナリスは拭《ぬぐ》う。

 大怪我をし、記憶を失い、回復したらしたであの家の当主になることが決まっている義兄《あに》が魔王役として戻ってくる可能性だけはコンマ以下だってことくらいわかっていた。わかっていたのに。




「そんなにがっかりすることかぁ?」

 そんな声に顔を上げると、クレイの隣で掌《てのひら》サイズの精霊が浮かんでいる。
 意味不明に大きな帽子と民族調のヒラヒラした衣装の少年。トトだ。
 彼《トト》が宿る短剣は執事《グラウス》が持っていたはずで、その執事《グラウス》は今現在魔界にいるのだが……クレイたちが魔界に戻るのに必要だから、とトトだけ先に帰されたのだろう。
 闇|堕《お》ちしていた彼《トト》は道具扱いされていたことが気に入らなかったようだが、今、彼に期待されているのも隔《へだ》ての森を通るための鍵役。彼《か》の森を通り抜けるには精霊の力が必要だとは言え――

「え? でもさ、エルシリアが俺っちの力が必要だってんなら、こりゃあもう1枚でも2枚でも脱ぐしかないじゃねぇか!」

 いや。トトがそれでいいと思っているのならこちらが言うことなど何もない。

 エルシリア、とは執事《グラウス》の家が爵位を貰う切欠《きっかけ》になったご先祖様のことだ。女性ながら武勲を上げてのことらしいから、ミルのような剣士だったのかもしれない。トトがやたらとミルに懐いていたのも、彼女にエルシリアの面影を見たのだとすれば納得がいく。

 だが。
 そのエルシリアが必要としている、って……まだご健在!?
 ルチナリスは思わず馬車を凝視する。
 此処《ここ》から見えるのはクレイの両親と祖母、そして知らない親戚が数名だが……まさかまさかのお婆様だろうか。手芸が趣味の、どう考えても剣を振り回す人には見えなかったのだけれども。



 クレイの明るさに当てられたのか、必要とされる喜びを知ったからか、トトの顔にあの時の暗さは残っていない。
 そのクレイにしても闇堕《お》ちした父に加担してあたし《ルチナリス》を騙したのだから、此処《ここ》まで明るく接してこられると逆に裏があるのではないかと勘繰《かんぐ》ってしまう。堕《お》ちた理由は痛いくらいにわかるから蒸し返したくはないけれど。

 黙り込むルチナリスとは逆に、何もかもを忘れてしまったような顔でトトは続ける。

「俺らと一緒に魔界に行けばさ、青藍様には何時《いつ》でも会える……っつーと嘘になっちまうけど、全然会えなくなるってことはないわけだし」

 忘れてしまったような顔で。
 そう、記憶を失くした義兄《あに》やメグ、ミルのように、トトやクレイも記憶を失くしている可能性は捨て切れない。堕《お》ちていた期間か短かったから抜けた記憶も少なくて済んでいるだけで。
 執事《グラウス》やアイリスは何も変わっていないように見えるけれど、あたしが気付いていないだけかもしれない。
 なのに、何故《なぜ》あたしの闇は消えないのだろう。
 何故《なぜ》あたしの記憶は消えないのだろう。
 何故《なぜ》あたしの中には闇が溜まり続けるのだろう。
 闇と共存できるって意見には賛同したけれど、どうにも腑《ふ》に落ちない。聖女の素質があるから大丈夫! なんて根拠もない理由では納得がいかない。


「シュネー《グラウス》に言えばどうにかなるだろうし。いいんじゃね?」
「そうだな。婆ちゃんも青藍様に会いたいって言ってたから、”連れて行きましたー、会わせて貰えませんでしたー、酷《ひど》いわ、タワシを騙したのね!” なんてことにはならないって」

 目の前では空気を読まないふたりが喋り続けている。
 タワシって何だ。アタシの間違いか? わざとか? 場を和《なご》ませようとして冗談が滑《すべ》るのは如何《いか》にも「執事《グラウス》の弟」だけれども、そんなところは似なくていい。
 

「それにさ、俺、お前だったらマスターって認めてやらないこともなくもないっつーか」
「マスター?」
「わあっ! と、と、と!」

 口外できない極秘事項なのだろうか。クレイが慌ててトトの口を塞《ふさ》ぐ。
 とは言え、身長だけで掌《てのひら》サイズの相手だから、顔面どころか上半身を握り潰しそうになっている。


 マスターとは普通に考えれば主人のことだが、よもや「精霊は1度主《あるじ》と認識した者以外は認めません。そしてトトにはまだ主《あるじ》がいない状態なのです」なんてことはあるまい。それを言うなら魔王役が変わるたびに仕える主《あるじ》が変わるスノウ=ベルの説明がつかない。
 トトの主《あるじ》に値するのは執事《グラウス》の家の誰かだろう。正確に言えば、あの家が爵位を貰うだけの武勲を立てたという彼らの先祖。例の「エルシリア」だと思われる。

 それが何故《なぜ》あたし?
 あたしは魔族でないどころか、彼らが「餌」と蔑《さげす》む人間だ。剣も魔法もからっきしだし、聖女の力も義兄《あに》に持っていかれて無いに等しい。読み書きは辛《かろ》うじてできるものの学校にも行ってない。家事全般は赤点ギリギリ。料理に限っては某執事様より毒物認定されるほどの腕前だが、自慢できることではない。


「あの?」
「だってよぉ、シュネーは青藍様んとこから帰って来ねぇしさ。もう一生帰って来ねぇよ、って皆諦めてるじゃん。嫁にやっちまったようなもん、もぎゃ」
「は?」

 執事《グラウス》が嫁?
 いや、べったり貼りついて帰ってこないことを比喩《ひゆ》しただけだ。この10年、奴《やつ》は1度も実家に帰らなかったわけだし。

「だからお前がクレイの嫁になれば、何時《いつ》かは俺のマスターってわけじゃん? お前、結構強《つえ》えしさっ、ぎゅぎゃむぐ」
「嫁!?」

 からの、あたしが嫁!?

 何故《なぜ》そうなる!!!!
 確かに執事《グラウス》はあたしをクレイに押し付けようと画策《かくさく》したけれど、あれは全力で阻止した。クレイにその話は伝わってはいないはずだ。
 まぁ、トトを送り返す時に言伝《ことづて》たとか、手紙を託したとか、伝える方法はいくらでもあるけれど……あれか? あたしひとり人間界に帰すことになって、住む家がなくて路頭に迷いそうだったってところまで知って、それで無駄に気を利《き》かせたのか!?
 旅の間もやたらと保護者面してきたし、その前から「青藍様が悲しむ」の一言であたしの世話を(斜め上に)焼こうとしてきたし。

 クレイなら性格も素性もはっきりしている。
 家事もできて家柄もそれなり。
 人間に混じって暮らしている間は魔族だと悟られることを警戒してまともに就職することもできず、山羊《ヤギ》飼い青年に甘んじていたけれども、魔界に戻ればそんな心配をする必要もない。何爵なのかは知らないが一応は貴族なんだから、それなりに仕事もあるだろう。
 しかしだ!
 クレイにだって好みってものがあるでしょう!? 強ければいいってそれは何だ! 戦士の家系か!?

「シュネーをくれてやった代償っつーか。だってお前、青藍様のイモウトだろ?」 
「ま、まぁ、嫁はともかく魔界に行ったらうちに住めばいいからさ! ルチナリスなら婆ちゃんも母さんも大歓迎するだろうし」

 クレイのフォローが全くフォローになっていない。
 そこは嫁云々《うんぬん》をはっきりさせるところではないのか? 一服盛られて契約書にサインさせられるかもしれない場所にホイホイ付いて行くわけがないでしょうが!
 「婆ちゃんと母さん」のところで彼女らが軽く頷《うなず》いたあたり「大歓迎」も嘘ではないようだが、だからこそ怖い。
 そして何より、あたし《ルチナリス》に肉切り包丁を振り上げた「父さん」の意思が最も気になるところだけれども、

「許さん!」

 と飛び出してこないから許されているのだと信じたい。何を許しているのかは怖くて聞けない。



 絶句したまま心此処《ここ》にあらず状態で呆けているあたし《ルチナリス》を置いて、

「そ、それじゃあ、行く気になったら森に来てくれよ!」

 と言い残し、クレイは逃げるように馬車に飛び乗った。
 荷車がガタガタ揺れる。山羊《ヤギ》たちの苦情と不満の大合唱が遠ざかっていく。





「………………やだ好青年じゃなァい。るぅちゃんってば何時《いつ》の間にぃ」

 それからかなり経《た》って、顛末《てんまつ》を終始眺めていたカリンが冷やかしてきた。途中で乱入して来なかったのは、彼女も今しがたの怒涛《どとう》の嫁話には情報処理能力が追いつかなかったからだと見える。

「最後だけは良くなかったけどねー。やっぱり男たるもの、女性を放り出して逃げちゃァいけないわ。大事な場面で逃げるってェのは、また似たようなシチュエーションに遭《あ》った時も逃げるってことよ?
 それでもまぁ、身寄りもない。家もない。職もない。嫁に行く当てもない。ってどうするんだろうってみんな心配してたのは確かだし。嫁姑問題もなさそうだし、あれはお買い得かもよー?」
「そんなんじゃないんですってば!!!!」

 何故《なぜ》こうなった!
 みんな心配してた!? ま、まぁそうかもしれないけれども。その「みんな」の8割は執事で1割は師匠《アンリ》、0.5割ずつミルと勇者《エリック》、と配分までわかりそうだけれども、今言いたいのはそれじゃない!
 義兄《あに》に会えないかもしれない、から一転、魔界に行ってクレイの嫁!?
 彼ら《クレイたち》が隔《へだ》ての森に着くまでに3日の猶予《ゆうよ》はあるけれど、3日で結論を出せなんて無理すぎる!


「いいわねー若いってぇ」
「カリンさんだって十分若いですよ!」

 いやむしろカリンのほうが適齢期だ。多少過ぎてはいるがその言葉は禁句だ。乳臭い小娘より、酸《す》いも甘いも経験した大人の女性の需要だって……ってそれも違う!
 
「あ、あたしたちも行きましょうっ!」
「あら、カリンじゃない?」
「へ?」

 とにかく話は終わりだ。さあ行くぜ! と拳《こぶし》を振り上げたあたし《ルチナリス》の後ろから声がした。
 何だか最近、背後を取られる率が異様に高い気がする。と言うか、どうして誰も彼もが後ろから近付くのだ。ここはもう、銃かナイフ投げでもマスターして、

「背後から近付く者は撃つように訓練されている」

 と、ニヒルに言ってみたいものだ……でもなくてぇ!!


 見れば、クレイの馬車よりも小ぶりだがカラフルな馬車がいる。
 幌はクリーム色と茶色で塗られ、ウサギだかクマだかの動物が描《えが》かれ。何処《どこ》となく、ノイシュタイン城に入り込んでいた金髪のお兄さんと行ったアイスクリームのワゴンを彷彿《ほうふつ》とさせる。

 当たり前だがあれ以来、あのお兄さんには会っていない。
 元気だろうか。妹さんとは仲良くやっているだろうか。思えば人生16年、常識人ランキングでトップに位置するくらいの常識人だった。ちょっと世間知らずだけど。
 が、それも置いといて。

 要するに「食べ物を売っています」系の馬車。そして顔を出しているのはリド。先ほど「カリンじゃない?」と言ったのも彼女だろう。
 リドがいると言うことは、この馬車はパンを売っているのか? 店を出すのが夢だと言っていたけれど……町長の家での給金で馬車を買って改造して、行商で軍資金を集めることにしたのか?


「……アルド」

 カリンがリドの隣にいる青年を見、呟く。
 リドとカリンが知り合いだというのも初耳だが、この青年も初めて見る。
 冒険者時代の仲間だろうか。女性陣はふたりとも、かつて冒険者パーティにいたと聞いているけれど。

「どうして此処《ここ》に? 何この馬車」
「うん。魔王が復活したでしょ?」

 馬車について尋ねるカリンに対し、リドの答えは斜め上どころではない。

 確かに魔王は復活した。依頼書も見た。
 が、元々冒険者だったリドが、かつての仲間である(と思われる)青年アルドと共に魔王討伐に立ち上がったとしても、彼女は魔王城のお膝元であるノイシュタインにいたはずだ。なのにパン屋馬車まで作って何処《どこ》へ行こうというのだ。
 あれか? 青年の職種《ジョブ》はわからないが十中八九攻撃系。でもリドは料理人。戦力が足りないから仲間を勧誘しに行こう、と?
 パン屋馬車で移動しているのは道中、パンを売って資金稼ぎをするつもりなのかもしれない。金がなければ薬も武器も装備も買えない。途中で軍資金が尽きてその辺の草で飢えをしのいだ、なんて話はよく聞くし、カリンはスライムを食べさせられそうになったとも言っていたし、それを思えば3食パンが出て来るパーティというのは需要が高そうだ。


「でもね、アルドは剣を失くしてしまって」
「だが案ずるな! 聞けば精霊王の剣というものが存在するらしい。4人の精霊王の剣を集めると手に入る究極の剣! 聖剣ジーザスフリートの後継に相応《ふさわ》しいっ!」

 廃人同様、ボケっ、と座っていたくせに急に立ち上がって熱弁しだした青年の勢いに、ルチナリスは後退《あとずさ》る。聖剣ジーザスフリードは知らないが、聖剣というからにはこの青年も勇者なのだろう。

 だがしかし。

 勇者というのは皆、こんなハイテンションなのだろうか。ついでに言うと精霊王というのはジルフェやメイシアのことだろうか。
 確か今、ウォーティスが眠りについているから4本集めるのは至難の業《わざ》だと思うのだが、盛り上がっているところに水を差すのもアレなので黙っておこう。コンプリート特典の受け取りに期限があるわけでもなさそうだから、きっと何とかなる。

 ……なんてことを思われているとは露知らず、アルドは剣を手に入れて魔王を倒すまでの(僕が考えた)武勇伝を延々と語っている。リドが涙ぐんで

「やっぱりアルドは魔王を追ってる時が1番生き生きしてるわね」

 と言っているのを目の当たりにすると、心の中で思うだけでも良心が痛むのだけれども、

『どうでもいいが、あなたが語るソレはどれも、まだ起きていないイベントではないのか!?』
『100%創作ではないのか!?』

 とツッコみたくて仕方がない。
 しても無駄なことは、勇者《エリック》との付き合いで十二分に身に染みているから言わないが。


「リド、あんた」
「ところでるぅちゃんはまだ領主様のことを覚えてる?」

 何か思うところがあるのか怪訝《けげん》な顔を隠しもしないカリンを無視し、リドはいきなりあたし《ルチナリス》に向いた。
 彼女とは町長の家で世話になっていた時に多少の面識を持ったが、そう親しいわけではない。食事を取りに行くたびに、あの家の人々同様、「どうして此処《ここ》にいるのだろう」という心の声が聞こえてきたもので。
 要するに勇者《エリック》の口添えで住まわせてもらっていたけれど、あたしとリドは個人的に親しかったわけではない。ノイシュタイン城が閉鎖され、城下の人々との縁が切れ、彼らの中に領主だった義兄《あに》の記憶が消えたと同時にあたしがその妹兼メイドだったことも消えて……って、あれ?

 リドさん、今、何て言った?

「どう? 覚えてる? お兄ちゃんのこと」
「も、もちろんです」

 畳み掛けるように再び問われ、あたしはわけもわからないまま返事を返す。その答えに何を思ったのか、リドはにっこりと笑うと、

「ってことで、またね」

 クレイ同様、嵐のように馬車を走らせて去ってしまった。
 冒険者仲間だったのであろうカリンが連れて行かれなかったのは、未《いま》だ彼女の中では「マッパー《地図作成士》はいらない子」だったからなのか……でも。

「何だったの? あれ」
「……あたしに聞かないで下さいよ」

 かりんにそう返しながら、リドに対して引っかかっていた違和感が、今になってポロリと取れた。
 リドが義兄《あに》を覚えている。ということに。

 魔王が復活したからだろうか。
 しかし今度の魔王役が義兄《あに》だという保証は何処《どこ》にもない。だが魔王役でなければあの地の領主にはならないから、義兄《あに》のことを「領主様」として思い出すことはない。
 だとしたら。

 期待してもいいのだろうか。
 期待して、も裏切られるだけなのだろうか。


「リドさんはどうして義兄《あに》のことを領主って、」
「……今日は知り合いによく会う日ね。メイシアが追いかけてきそうで仕方がないわ」

 ルチナリスの期待が混じった思いとは裏腹に、カリンはひとつ身震いをする。その声にルチナリスも我に返る。
 そうだ。クレイにしろリドにしろ、関わりが薄かった人たちが今になってカーテンコールの如《ごと》く現れたことに意味はあるのだろうか。カリンはメイシアに再会するのが嫌なようだが、あたしにとってはむしろメイシアのほうが間が持てる。大した知り合いでもない人々がこの先ゾロゾロと待ち構えていたらどうしよう。