19-2 きみを連れて




 一方。
 グラウス《執事》とアンリ《師匠》はルチナリスたちと別れてから、ロンダヴェルグ近くにあるアーラという町で鍛練の傍《かたわ》ら本家潜入準備を進めていた。

 この町は所謂《いわゆる》、ロンダヴェルグに移住を望んで遥々やって来た者たちの掃《は》き溜《だ》め。彼らは|住処《すみか》や私財を売り払い、身ひとつで此処《ここ》までやって来る。門前払いをくらったからと言って帰る場所は何処《どこ》にもない。
 彼らはロンダヴェルグとは目と鼻の距離にあるアーラに居《きょ》を構え、毎日、ロンダヴェルグに通う。持って来た財産は日々の生活費に消えていくのでこの町で職を得、居付《いつ》いてしまう者がいる一方、諦めて出て行く者もいる。そして期待を胸にやって来る者は連日、後を絶たない。そうして大きくなった町だ。
 素性の知れない男がふたりで潜伏していても誰も何とも思わない。


「こういう町が本家の近くにあると便利なんだけどなぁ」

 アンリは窓の外にそびえる塔を見上げ、大きくのびをした。
 メフィストフェレス本家の周辺にも町はあるが、其処《そこ》の住人は本家に移住したくて集まってきているわけではないので見知らぬ者が来ると結構目立つ。
 加えて、危害を加えそうな者を本家に密告すれば金が入る制度《システム》が遥か昔から稼働している。金目当てに適当にでっち上げて密告する者が現れるだろうと思うかもしれないが、虚偽及び憶測だけの密告は密告した本人が罰せられるため、そのような嘘が届けられることはほとんどないと言っていい。
 なので旅人や商人は恰好《かっこう》の餌食となる。自分たちが行った日には誰かしらの目が始終ついて回っていると思いながら動かなければいけないし、ボロを出せば我先にとこぞって密告されることだろう。
 陸戦部隊長として本家にいた頃は胡散臭《うさんくさ》い者の情報がすぐに入って来る便利な制度《システム》だと思っていたが、自分たちが潜入する側になると厄介でしかない。


「ま、どうしようもないことを愚痴っても始まんねぇしな。さて。お前の記憶と合わせるとだいたいこんなもんだろう」
 
 アンリは机の上に広げた隠し通路まで記入した本家の詳細図と、侵入通路だけを記した図とを見比べながら満足げに頷《うなず》く。

 陸戦部隊長という地位にいたおかげで隠し通路の位置まで把握済みだし、もともと人生の半分以上を彼《か》の地で過ごしてきたのだ。あの城の構造は地下から離れまでこと細《こま》かに覚えている。
 だから見取り図は思ったより楽に仕上がった。歳のせいで忘れているかとも思ったが、まだまだ若い者には負けない。そんな自負心がちらりと浮かぶ。
 城を出てからかなり経《た》つので改築等々変わっている箇所もあったが、それはグラウスの記憶と照らし合わせた。

「そんなに改築していないようで助かった。あれだけ広い城になると補修費用だけで食っちまうからな。そうなかなか変えられるものでもないのだろうが」
「古いわりに扉や窓の建て付けもしっかりしていましたからね。年間でいくらかかるのでしょう。ノイシュタイン城の比じゃないのでしょうね」
「さあなぁ。銭勘定は俺にはわからん」

 何時間も図面を引いていたからか、体のあちこちが軋《きし》む。
 首に手を当てゴリゴリと肩を回すアンリの前に、コト、と置かれたカップから湯気と共に甘い香りとが漂った。引いたばかりの図面を折り畳みながら、アンリはカップとそれを持って来た男とを見比べる。

 男ふたりで潜伏中。しかも忍び込むための戦略を練っているところ。
 そこに出てくるのが生クリームを浮かべたショコラータ《ココア》というのはあまりに場違い過ぎやしないか? しかもご丁寧に削りチョコレートと刻んだピスタチオ付き、ときた。

「お前なぁ、子供じゃないんだからショコラータなんか出してくるなよ」
「お疲れのようでしたので」

 グラウスは前の椅子に腰かけると、物憂《う》げに折り畳まれた紙に視線を向ける。


 ショコラータにはリラックス効果があるらしい。
 本当なら今すぐにでも魔界に行きたいところを堪《こら》えている男にはちょうどいいのかもしれないな。
 アンリは暗く沈んだままの碧眼を一瞥《いちべつ》するとショコラータを啜《すす》った。

「……そう言えばお前、本当に青藍を取り戻す気か?」

 グラウスは何を今更と言った顔をする。
 そのために行くのだ。取り戻す気がないのなら行く必要すらない。そう言いたげだ。

「取り戻して、どうする。ノイシュタインには戻れないんだろう? 本家の手を逃れながら行くところなど何処《どこ》にもないぞ」

 青藍の魔王解任と共にグラウスとルチナリスの雇用契約も破棄された。今頃は新たな魔王役が決められている頃だろう。本家から青藍を連れ出したところで、再び魔王役には戻れない。

「……世界を、見て回ろうかと」

 グラウスはショコラータの入ったカップを口元に運びながら壁に掛けられた額に目を向ける。
 この家を借りた時から壁にあった、古ぼけた絵画。ただ蒼い海とくすんだ色の空と1隻の船が描かれているその絵は、名画の模写というには稚拙《ちせつ》すぎる。おおかた、前の住人の誰かが描いたまま置いて行ったのだろう。

「あの人は知らな過ぎるんです。本の中の知識はとんでもないのに本物は見たことがない。私はあの人に世界を見せてあげたい。あの人がよく口にする東洋の国の人々があの人と同じ黒い髪をしていることも、あの人が苦手にしている海がどれだけ広いのかも」

 魔族にもこのあたりの人間たちにも、青藍のような髪の色をした者はいない。それが昔から彼を孤立させ、異質だと思い込ませてきた。でも此処《ここ》を離れれば、異質は同質に変わる。
 あなたは決して異質ではないのだと、そう教えたい。海を越えて。ずっと遠くの地で。

 青藍を自分《グラウス》の実家に連れて行った時に子山羊に触らせた。稀代の魔王様が、折れてしまいそうな手足の細い子山羊には怖々《こわごわ》と触れていた。あんな体験をあの人はもっとしなければいけない。その記憶すら……青藍の中にはもう残っていないのだろうけれど。


 黙って聞いていたアンリは、ふん、と鼻を鳴らす。

「楽しそうな夢だが、それが叶うことはねぇな」
「何故《なぜ》です?」
「メフィストフェレスは、青藍を外には出さない」
「紅竜様がかわいがっていらっしゃるのは知っています。でも閉じ込めておくのがいいとは、」

 初めて会った時からそうだった。
 青藍の後ろにはいつも兄の影があった。彼は決して自由には羽ばたけない籠の中の鳥だった。
 だから。

「そうじゃねぇ」

 呻《うめ》くように呟くと、アンリはグラウスから目を逸《そ》らすように匙《スプーン》で溶けかかった生クリームを掻き混ぜる。クルクルと回る白黒の渦巻きに乗って匙《スプーン》もくるりと1回転して止まった。

「紅竜が当主に相応《ふさわ》しくないと判断された時、俺たちは奴《やつ》を排《はい》して青藍を担ぎあげることになってる」
「俺たち、とは」
「……犀《さい》、だ」




『お前たちふたりに青藍の教育を任せる。次期当主として使えるように、頼む』

 もう何十年も前の、青藍が本家に連れて来られた日のこと。当時の当主に呼び出されたアンリと犀《さい》はそう申し渡された。

 執務室や謁見室を使わなかったのは他の誰かに聞かれないためだろうか。しかしいくら魔力が高いとは言え、人間の血を引く者を重んじるなど貴族の家ではありえないこと。本人とて針の筵《むしろ》に座らされるのと同じことだし、他の貴族からの風当たりも強くなろう。


『紅竜様よりも、ですか?』

 犀《さい》が確認するかのように問いかける。

『魔族は純血がお好みなのでしょう? 紅竜様のほうが適任ではありませんか。何処《どこ》の馬の骨ともつかない人間の娘に産ませた混血の坊ちゃんのほうが勝《まさ》っているところなどありませんよ』

 たとえ魔力が低くても、知識が皆無でも、周囲が支えれば当主に据えることは可能だ。
 家同士で勢力争いをすることもなくなった昨今、当主に必要なのは兵を率いる采配でも政治力でもなく、血筋《血統》。そう言い張る馬鹿な貴族どもが増えた今、次期当主に青藍を推《お》す意味など何処《どこ》にもない。むしろ、出された書類にサインするだけしか脳のないハリボテでいてくれたほうが側近としてもやりやすい。
 生憎《あいにく》と紅竜はハリボテで収まっていてくれるほど無能ではないが、だからこそ青藍が出る幕はない。

 それは自分《アンリ》も同感だが、しかし当主は飾りだ、なんて意味合いにしか取れないことを当主の前で言うか? 昔から犀《さい》はこういう奴《やつ》だったからこそ当主も重用しているのだろうけれど……アンリは隣の歯に物着せぬ言い方に絶句する。

 しかし当主は怒りも笑いもしなかった。

『この家だけを考えれば紅竜を当主に据えておけばいい。しかし青藍は外には出すな。何時《いつ》か、あれが必要になる時が来る。それだけだ』


 あくまで兄の代用品ということだろうか。「当主の側近である」自分たちを使うのは、混血の弟に家庭教師を雇うのがもったいないというケチくさい意味でしかないのか? まさか。
 そんなことを考えながら、チラリと隣に立つ犀《さい》を見る。
 何かを知っている顔だ。先ほどの質問も自分《アンリ》に聞かせるためにわざと聞いたような節もあった。
 何を知っている、と問い詰めたところで答えるとは思わないが、暗に意図するものがあるのかもしれない。だとすれば「脳まで筋肉」と揶揄《やゆ》される自分が短絡的に異を唱えるのは止めたほうがいい。

 代役の予定云々《うんぬん》は置いておくとして、魔力は抱えているだけでは意味がないし、自在に操れるようになっておくこと自体は、青藍が将来どの道に進んでも困ることにはならない。
 自分《アンリ》に課せられているのは戦闘全般。今まで兵士を何十人も育成してきたのだから、相手が子供とは言えすることは同じだろう。子育てとは違う。

 そうして育てた彼《青藍》は、人間界で10年もの間、魔王役の傍《かたわ》ら領主を務めあげた。
 紅竜の代わりとして引っ張り出したところで、今や表立《おもてだ》って不適切だと罵《ののし》る者はいないだろう。むしろ紅竜の独裁を良しと思わない他の貴族からは歓迎されるかもしれない。
 そして、犀《さい》は青藍を連れて行った。その意味は――。




 聞いている間、グラウスは両手で持ったカップの中身に視線を落としている。
 クリームの白もピスタチオの緑も、すっかり赤みがかった焦げ茶の中に溶けてしまった。下に絡みつく温度と相《あい》まって淀《よど》んだ甘さになっているだろう。青藍が顔をしかめるくらいに。

「お言葉を返すようですが、紅竜様は当主としてはよくやっているほうです。あの人を褒めるのは腹立たしいのですが、没落していく家が多い中、ずっと繁栄させ続けているのはあの人の力でしょう? 青藍様が必要になることなど、」

 前当主が青藍を次期当主に据えてもいいと思っていたと聞けば我がことのように誇らしい。
 この10年、魔王として、そして領主として人の上に立つ青藍を見てきた。快楽主義が基本の魔族にしては真面目すぎるのは人間の血が入っているせいではないかとすら思ったこともあるが、そんな彼だからこそ本家を任されてもやっていくだろう。そう胸を張って言える。

 しかし。

 同時に寂しくも思う。
 彼を必要とするのは自分ひとりでいい。大勢に必要とされるのではなく、ただ自分の隣で笑っていてくれればいい。でも青藍が本家を継げば、そんな小さな願いすら泡と消える。
 そのためなら、紅竜にはこの先もずっと当主として頑張って行ってもらいたいとすら思う。


 アンリはそんなグラウスの想いを遮るようにカチャン、と音を立ててカップを置いた。

「決まってるんだ。そのために青藍には紅竜以上の力を付けさせた。もしお館《やかた》様の命を実行に移さなきゃならんとしたら……あいつのことは諦めろ」
「仰る意味がわかりません」

 その音にグラウスは顔を上げる。
 もし青藍を当主に据えるために魔界に行くと言うのなら、この男《アンリ》を連れて行かないほうが自分にとってはいい結果になるかもしれない。本家がどうなろうと、魔界が紅竜に支配されようと、大軍を率いて人間を襲おうと関係のない話。自分には……青藍だけいれば、それでいい。
 その|彼《青藍》を取り戻すのにもアンリの戦力はあったほうがいいけれど。それでも。


「メフィストフェレス本家の当主をくれてやるわけにはいかねぇって言ってんだよ。お前が青藍のことをどう思ってるか、忠誠心でひた隠しているつもりだろうが」


 この想いは歪んでいる。同性に向けるものではない。いくら魔族がそういうイレギュラーな関係に寛容だとしても誰も彼もが賛同するわけもなく、真っ向から嫌悪の目を向けられることもないわけではない。
 以前、アイリスには応援されたが、あれだって面白がっているだけ。彼女自身、もしくは近しい血縁者が同性愛思考の目を向けられていると知った時に同じ反応を返すとは限らない。
 この男もそうだろう。
 幼い頃から育て上げた……いわば息子のような存在に同性が異常な目を向けていると知れば気分のいいものではない。話を聞く姿勢を取ってくれているだけ有難《ありがた》いのかもしれない。でも。

「……それは、」

 他人に言われてやめることができるレベルなど、とうの昔に振り切ってしまった。



「とにかく犀《さい》が何を考えて青藍を連れて行ったのか。紅竜が相応《ふさわ》しくないと判断されたからなのか、それとも当主を務められない事態に陥って代役が必要になったのか。俺はそれを見極めないといけねぇ」

 口籠《くちごも》ったまま喋ろうとしないグラウスをどう取ったのか、アンリの話は別の話題に移行しようとしている。むしろそちらが本題のようだ。
 追及しても折れるはずもなく、真っ向から立ち向かってくるだけだから時間の無駄だ、と思われたのかもしれない。



 1ヵ月後に婚礼を控えている紅竜の身に何かあったとは考えられない。もし何かあったのなら式自体を中止するはずだ。
 と言うことは当主には相応《ふさわ》しくないという判断がされたのか?
 しかし魔王だった頃の彼ならともかく、記憶を失ってしまっている今の青藍が紅竜以上に当主として相応《ふさわ》しいとはとても言えない。

 ……違う。
 決して紅竜の代わりにするために連れて行ったのではない。
 では何のために必要になったと言うのだろう。かつて青藍の魔力を取り込もうとして襲いかかって来たドラゴンや魔剣使いと同じ理由だろうか。


 そもそも犀《さい》という男は何処《どこ》まで信用できるのか。
 青藍を連れて行ったあの日、奴《やつ》は青藍に花が咲いたことを紅竜が喜んでいると言った。それは奴《やつ》が紅竜の手先としてノイシュタインに来たと言うことだ。
 青藍が必要な時は紅竜を排《はい》す時と言うアンリの話とは食い違う。


「俺がお前らに協力するのは本家に行く必要があるからだ。だからそれまでは協力してやるが、」
「何時《いつ》か敵になる日まで共同戦線を張りたいと言うわけですね。いいでしょう」

 とにかく、本家に行かないことには真相は掴《つか》めない。辿り着くまで戦力は多いに越したことはない。
 最終的な目的が違うから、と邪魔しに来ないだけ良しとするしかない。

「そう言えばあなたは魔界に行くための鍵をお持ちではないのですか? どうやって人間界に来たんです?」
「お前、今それを聞くのか?」
「気になったもので」

 魔界は行きたいと思って行ける場所ではない。
 だから「魔界に行く予定の」自分たちと行動を共にするのは得策だろう。そうでなければ魔界に行くつもりの魔族を探すところから始めなければいけない。……と、それは全て鍵を持っていないことが前提だ。
 本家を追放されたとは言え、アンリは軍を率いる役職にいた。何度も人間界に来ているだろうし、鍵も自由に扱えたろう。現に人間界にいるのだから鍵を持っていないはずがない。
 持っているのならトトを迎えに《エルフガーデンに》行く必要などないのだが……。


「人間界に行くっていう奴《やつ》らに護衛がてら同行させてもらったんだよ。最近は魔界を嫌って人間界に逃げて来る奴が結構多いからな。貴族に支配されてる魔界よりは人間界のほうがユートピアに見えるんだろう」
「そうですか」

 だが流石《さすが》にそれは考えが甘かった。

 役に立たない。
 口に出せば一触即発の事態になることはわかっているし、今は止める者もいないので言うつもりはないが、グラウスは偉そうに喋り続ける筋肉ダルマ《アンリ》に冷めた目を向ける。


「第一、青藍はかわいい嫁を貰って幸せな家庭を作る予定なんだ」
「他人の人生にあなたが口を出す権利などないと思いますが」
「それを言うならお前にだってねぇだろう!?」
「私は最初から”私の”人生設計に基づいて話をしています。あなたにこそ口を出す権利などありませんよ」


 当主の指示を受けているのは犀《さい》も同じだが、紅竜は口で言っても書類を突きつけてもそれでおとなしく引くような男ではない。比喩でも何でもなく椅子から引き摺《ず》り下ろして追放するなり幽閉するなりしたほうが手段としては手っ取り早いし、武力に訴えるのならこの男は必要だろう。本人もそのつもりで行くのだろう。


「だからだ。お前のメルヘンな希望を叶えるためだけに遥々魔界まで付き合うつもりでいる、なんて思うんじゃねぇぞ」


 そうしたいならすればいい。
 だが紅竜を排《はい》した後までは勝手にはさせない。


「……せいぜい寝首を掻《か》かれないように気を付けるんですね」

 グラウスは笑みを浮かべると、冷めてしまったショコラータを口に運んだ。




「物騒な男だな」

 アンリが薄笑いを浮かべる。
 ルチナリスが自分《グラウス》は青藍のことになると何も見えなくなるから心配だと言っていたが……この脳内筋肉男ですら見通してしまうほど単純なのだと言われているようで腹立たしい。

「ま、1番腑《ふ》に落ちねぇのはお館《やかた》様のことだけどな。この10年のうちに隠居されたと聞くが、今はどうしておられるものやら。人間界にいたんじゃ情報が入って来ねぇってだけかもしれねぇが、もしかするともう、」
「亡くなっている、と? 第二夫人の時ですらあれだけの葬儀を執り行ったんですよ? 前当主の時に何もしないはずがないでしょうに」

 お館《やかた》様、ことメフィストフェレス前当主にして青藍と紅竜の父は、紅竜の当主就任以降、引退して離れに移り住んでいる、というのが定説になっている。
 しかし第二夫人の葬儀の時でさえ姿を見せることはなく、遠い親戚から長老衆まで親族が一堂に会した朝食の席にも表れなかった。
 引退したとは言え自分の妻の葬儀に顔を出さないなどと言うことがあるだろうか。
 今まで紅竜の陰になっていて気にも留めたことなどなかったが、アンリから指摘されると確かに違和感を感じる。

 もしも前当主が生きていれば、紅竜を当主の座から下ろすのは犀《さい》やアンリだけで行うより格段に楽になるだろう。そして青藍を救い出すことも。
 いくら紅竜とて前当主を処分することなどできないし、力でねじ伏せるにしてもかつて大悪魔と称された前当主が相手では返り討ちにあう可能性のほうが高い。
 そして、だからこそ前当主は紅竜の覇道の前には障害になるのではないか? だったら人知れず手を下すことくらい辞さないのではないか? とも思う。


「死んでいる、と生きているかもしれない、の差は大きい。いくら我が物顔で振る舞っていようとも紅竜はまだ若輩者、と見る者もいる。お館《やかた》様が生きているかもしれないからこそ他の家は何も言って来んのだ」
「亡くなっていたとしても公にすることはないと?」
「公表するのは利用価値がなくなってからで十分だ、とあいつなら考えるだろう。葬儀は棺《ひつぎ》と肖像画があれば何時《いつ》でも開けるしな。お館様の威を借りて地盤を強固にした後で」


 かつては死した王の影武者を仕立てて近隣の国から攻められるのを防ぐという戦術もあったらしい。
 大悪魔と呼ばれた先代だ。怪しいと思ってもその消息がはっきりとわからない限り、攻め入ろうとする家は少ないだろう。


「もし前当主が亡くなっていたらどうなさるおつもりで?」
「どうもしねぇよ。お館《やかた》様が亡くなろうとも命令は生き続けている。本家のためにならないのであれば俺たちは全力で紅竜を止め、青藍を据える。それだけだ。犀《さい》もそうだろう」
「そうでしょうか。犀《さい》様が紅竜のもとに下ったという可能性は考えられませんか? 前当主ではなく、紅竜の命令を遂行するために連れて行ったのでは?」

 犀《さい》は紅竜の命《めい》に従っている節がある。
 「前当主の指示を達成する目的」のために紅竜を偽《いつわ》っているのか、それとも――。

 紅竜が操っていた黒い蔓はソロネが闇と称したものとよく似ていた。もしあれが闇であるなら、紅竜の近くにいるであろう犀《さい》とて影響されないわけがない。


 しかしアンリは首を振る。

「紅竜につく理由がない。あいつは地位だの金だのには興味がないし」
「闇に染まっていたとすれば?」
「あいつはそういうのとは無縁だ」
「根拠は」
「染まる心がねぇ」
「はあ?」

 予想外の返答に思わず変な声が出た。
 冷血な性分を揶揄《やゆ》っているのかとも思ったが、この脳内筋肉にそんな皮肉な返しができるはずがない。
 ならば本当に心がないのか? そんな馬鹿な。物でもあるまいし。

 怪訝《けげん》な顔を隠しもしないグラウスをよそに、アンリは話は終わったとばかりに半分ほどに減った卓上の蝋燭《ろうそく》を引き寄せ、灯《ひ》を入れる。

「とにかく犀《さい》のことは大丈夫だろう。それに青藍も」
「青藍様が!? どうして!? あの人は記憶を失って、」
「……今あいつは紅竜と、犀《さい》と、俺くらいしかいなかった世界にいる」
「それが何だと言うんです!」


 紅竜と犀《さい》とアンリしかいない世界と言うが、そのアンリは此処《ここ》にいる。犀《さい》の存在感がどの程度かは知らないが、執事長という役柄、ずっと傍《そば》にいるわけではないだろう。と言うことは必然的に、ほぼ紅竜しかいない世界ということになるではないか。

 メフィストフェレスの墓所で見たふたりを思い出す。
 黒い蔓で両手を絡め取られ、磔《はりつけ》にされていたあの人を。その前に立っていたあの兄を。
 自分《グラウス》に見せつけるために、あの男は青藍に何をした?


「犀《さい》がいるから紅竜もそう好き勝手にはできないとは思うが……おい! 何処《どこ》へ行く!!」

 無言のまま部屋を出ていこうとするグラウスの肩をアンリは慌てて掴《つか》んで止めた。

「まだその時じゃねぇ! 我慢しろ!!」
「我慢なんてできますか! 今こうして燻《くすぶ》っている間にも、」


 あの兄は弟のことを”そういう目”で見ている。
 自分《グラウス》に対する当てつけのつもりなのかもしれないが、それでも紅竜のところに置いておけば青藍がどんな目に合わされるかは容易に想像できてしまう。
 自由を、魔力を奪われ、下手すれば自我すら奪われてただの人形のように扱われて。そして、ただの欲望のはけ口にされているのではないだろうか。奴《紅竜》の気まぐれで甚振《いたぶ》られているのではないだろうか。

 10年以上前、魔界本庁で見かけた青藍は人形のように何も反応しなくなっていた。
 ノイシュタインで動いている彼を見た時には奇跡だと思った。

 その奇跡をずっと……ずっと、守っていこうと誓ったのに。
 自分のせいで、あの人は壊されていく。


 アンリは溜息をついた。

「お前見てると一途すぎて悲しくなってくるよ」
「どういう意味です!」
「いちいち噛みつくな」

 だからな、と、わざとらしく溜息をつき、アンリは机の上で腕を組む。

「お前が思うほど青藍は困ってねぇだろうから心配するな。青藍の中じゃ記憶は持っているところまで――本家にいた頃の記憶までだ。紅竜も犀《さい》もいるし、魔族は歳とるのが遅《おせ》ぇから見てくれも記憶の中とそう変わらねぇ。俺がいないことをどう思うかって程度だろうが、遠征に出ているとでも言われれば何も不思議に思わんだろう」


 青藍は自分がいない世界を不思議に思わない。
 グラウスはやり場のない怒りを拳《こぶし》に込めて壁に打ち付けた。
 彼《青藍》が自分を忘れていることは目の当たりにしたし、わかっているつもりだったのに。


「それにな。お前が”紅竜がするだろう”と思ってることをされたとしても、青藍はそれほどダメージは受けない。それくらいあいつの中で紅竜は別格だ

 そう言うとアンリは息をひとつ吐いた。

「昔……青藍に魔力の具現化を教えた時、あいつは炎の竜を出したんだ。紅《あか》い、竜を。あいつの中にいるのは昔から紅竜だ」

 もう何十年も前のことになる。
 魔力に形を与えるために、自分を守るものをイメージしろと教えた。どんなものを、とは言わなかったが青藍が出したのは竜だった。目の前で紅《あか》い火の粉を散らしながら浮かぶ竜の姿を見た時、ああ、やっぱり兄貴には敵わないか、と思ったものだ。
 どれだけ邪険に扱われていても、この弟が最後に頼るのは兄。育ててきた犀《さい》や自分《アンリ》ではなく。
 あの時、アンリは大人げなくもそう思った。

 そして今、同じことをグラウスに言っている。自分が受けた失望をこの忠犬にも味わせようとしている。

 マジで大人げねぇ。
 アンリは自嘲《じちょう》の笑みを零《こぼ》す。

 だが。

「そんなの当たり前じゃないですか。青藍様のそばには紅竜様と犀《さい》様とあなたしかいなかったんでしょう? ゴリラなんかより竜をイメージするのは当然です。私がいれば狼を出して下さったはずです!」

 目の前のその忠犬は言い切った。

「それに、」

 妙に勝ち誇っているように見えるのは気のせいだろうか。

「私と青藍様は魂で繋《つな》がっているんです」


 手合わせと称して青藍が自分《グラウス》の中から蔓を引き抜いたあの夜の感覚を思い出す。魂を引っ張られて、混ぜられて、またふたつに分け合ったようなあの感覚。
 あれ以来、自分の中に青藍がいる気がする。
 何処《どこ》か遠くに――きっと青藍の中に――自分の一部が、いる気がする。

「あの日、確信しました。私の運命はやはり青藍様なのだと」
「気のせいだろう」
「だから過去はともかく!」
「……ひとの話なんざ聞いちゃいねぇ……」


 その自信は何処《どこ》から来るのだろうか。と言うか、どさくさに紛《まぎ》れてゴリラとか言うな。
 自信満々のくせに何処《どこ》かしら拗《す》ねたようにもとれる言葉に、口元に滲んでいた笑みが苦笑に変わるのを感じる。



『――僕、魔眼使っちゃったの、かな……?』


 紅竜に閉じ込められていた部屋から連れ出したあの時、虚《うつ》ろな目をして口にした青藍の言葉がよみがえった。
 混血だと忌《い》み嫌われ、そうでなければ家目当ての野心の標的にされる。それ以外は兄を恐れて近付かない。そんな中で、まさか青藍の素性を知らないまま近付いた者がいたなど信じられないことだが……だからこそ、ただ1:1の個人として好意を見せたこの男が、青藍の心の中に入り込んでしまったのも仕方がないことだったのかもしれない。

 そんな奴がいるなんて信じられなかったんだろう?
 でも、信じたいと思ったんだろう?
 青藍は向けられた好意を魔眼のせいにしようとしていたが、使っていないことくらい本人が一番よく知っているはずだ。


「……前向きだなお前」

 愛弟子が何故《なぜ》何度もこの男を守ろうとしたのか、少しだけわかったような気がした。
 気がして……それが悔《くや》しかった。