22-10 囚われの聖女~Passion~




 あたしは何をしているのだろう。
 ルチナリスは目の前に広がる光景に、暫《しば》し、我を忘れていた。

 確か、第二夫人やミルがいて、会ったこともない前当主って人を紹介されて。
 部屋もこんな蔓だらけの気持ちの悪い部屋ではなくて、半分が空でできているのかと錯覚しそうになるほど大きな窓があって。テーブルがあって。お茶の入ったカップが置かれていて。
 義兄《あに》がいて。
 あたしの頭を撫でてくれて。
 それで、

「青、」

 声が出ない。何度も叫び続けた後のように喉が枯れてしまっている。空気が通り抜けようとする度《たび》に内壁を削る。ヒリヒリと酷《ひど》く痛む。
 その義兄《あに》は数メートル離れた壁際にいる。氷のような透明な棺《ひつぎ》の中で眠っている。つい今しがたあたしに微笑《ほほえ》んでくれたのは夢だ、と言わんばかりに。

 義兄《あに》の目の前には紅竜がいる。
 剣を両手で持ち、その切っ先を義兄《あに》に向けている。あれで貫《つらぬ》くつもりだろうか。いや。

 貫《つらぬ》いていた。あたしはそれを見た。
 なのに貫《つらぬ》く前に戻っているのは、やはり夢だったのか。それとも本当に時間を遡《さかのぼ》ったのか。

 この後、紅竜は義兄《あに》を刺す。
 義兄《あに》はそれで目を覚ます。

 起こし方が普通ではないけれど、それで目を覚ましてくれるのなら黙って待っていればいいじゃないか、と思う反面、それならばこのほんの僅《わず》かな時間の遡行《そこう》には何の意味があるのだろう、とも考える。
 あれがただの夢ではなかったら。
 過去を変えるために与えられた機会《チャンス》だったりしたら……以前、勇者《エリック》と共に入り込んだ城の一室で、紅竜とキャメリアと思《おぼ》しき少年少女が秘密の通路に消えるのをただ黙って見送ったことを後《あと》から後悔したように、今回も見ているだけの自分を後悔するに決まっている。

「さあ、呼べ。お前の兄を」

 紅竜は先ほどと変わらず、剣を義兄《あに》に向けている。

 呼んでは駄目。
 呼べば――


『――お別れだ、るぅ』


 義兄《あに》とは、きっともう2度と会えなくなる。
 


               



 一方その頃。
 柘榴《ざくろ》を先頭にグラウスとエリックは廊下を進んでいた。

 アンリとはかなり前に別れたきり、未《いま》だに合流できていない。
 こうも遅いのはすれ違ってしまったか、もしくは戦闘に巻き込まれたか。前当主が闇堕《お》ちしていないとは言い切れないし、其処《そこ》に犀《さい》までいるとなると、アンリと言えど無傷ではいられないだろう。
 しかしラスボスを前にしてこれ以上戦力が減るのは避けたい。せっかく仲間に引き入れたアーデルハイム侯爵もアイリスに取られてしまったし、正直に言って自分《グラウス》とエリックだけでは紅竜に勝てる気がしない。

 が、そう思っているのは自分だけかもしれない。
 グラウスは柘榴《ざくろ》について前を進むエリックの背に目を向ける。其処《そこ》にあるのは鞘《さや》におさまった大剣。柄に結びつけられた紅い房飾りも兜の羽根飾りと同様、新品のように色鮮やかだ。
 エリックには端《はな》から戦う気などないようにも見える。
 あの剣は長さから言って背負《せお》ったままでは鞘《さや》から抜けない。勇者とは名ばかりで、ろくに戦闘などしたこともない証拠だ。
 ノイシュタインを出て魔界に行くと打ち明けた時、エリックは「戦いに行くのではなく、会って話をして、それから考えろ」と言っていた。
 青藍が人間界に、いや、自分たちの元に戻って来てくれるつもりがあるのなら戦闘は避けられる。
 しかし現実は甘くない。
 彼の中から自分たちの記憶は抜け落ちてしまっている。会って話をしたところで心を揺さぶることができるとは思えないし、そうなると確実に紅竜を仕留めておかなければ返り討ちに遭《あ》ってお終《しま》いだ。
 まして、記憶がないばかりか、今の青藍はおとなしく攫《さら》われてなどくれそうにない。ロンダヴェルグにたったひとりで乗り込んで来た彼だ。自分たちを「紅竜の敵」として攻撃して来かねない。


 物語なら、再会すれば都合よく記憶が戻ってくれるものなのに。
 グラウスは両手に視線を落とす。
 渡り廊下に現れた青藍は、自分を見て「グラウス」と呼んだ。だから記憶が残っているはずだ、と思うのは虫のいい考えだろうか。
 でも、それなら何故《なぜ》名を呼んだ?
 何故《なぜ》、消えてしまったんだ。


 そんなことを考えながら廊下を4回曲がった後。

「……あの部屋です」

 ふいに柘榴《ざくろ》は立ち止まると前方を指し示した。
 そこにあったのは、本当に紅竜がいるのか疑わしくなるほど簡素な扉。一旦、目を離したら最後、両隣の扉と見分けがつかなくなってしまいそうだ。

「では僕はアイリス様のところに戻ります」

 役目は果たした! とばかりに柘榴《ざくろ》は頭を下げるとソワソワと後退《あとずさ》った。長居はしたくない。アイリスの元に戻りたい。そんな心が透けて見える。

「アイリス嬢は侯爵も付いてるし、心配することないんじゃないかな」

 エリックが宥《なだ》めるように呟いたがこればかりは同意見だ。侯爵は性癖はアレだけれども、直系筋のアイリスに手を出すほど間抜けではない。魔界貴族の中でも頂点に近い位置で他の貴族からも傅《かしず》かれて生きて来たのだ。あの立場を失う愚行は及ぶまい。
 だが。

「だから心配なんです」

 柘榴《ざくろ》の返答は違った。

「アイリス様は護衛のためだけに侯爵を連れ歩く方ではありません。きっと此処《ここ》で、何かをするつもりなんです。危険が及ぶかもしれないことを」
「何かって?」

 何をすると言うのだ。
 自分を闇に堕とそうとした怨みを晴らすつもりだろうか。 
 闇と同化したアイリスは強かったが、今のアイリスは違う。叔父に似て武器マニアだったりするかもしれないが、標的になるであろう紅竜は、あのアンリですら片目を奪われた相手。一矢報いるつもりならそれこそ自分たちに同行したほうが勝率は高い。


 柘榴《ざくろ》は窓の外に目を向ける。

「勇者さんたちと旅をしてから、僕らもいろいろ考えていたんです。伯父上とキャメリア様がどうして魔界を捨てたのか。そして伯父上が言った”真実を追って来い”という言葉。
 それで僕らは闇の存在を知り、伯父上とキャメリア様の痕跡を辿《たど》り。今回のことは紅竜様を倒しただけでは終わらないんだというところまではわかったんです」


 紅竜を倒しただけでは終わらない。グラウスはその事実に愕然とする。
 青藍を取り戻せばそれでよかったのに。
 世界がどうなろうと構わなかったのに。


「お嬢様がキャメリア様に会っている頃、僕も伯父上に会いました。いや、会うと言うのは語弊がありますね。お嬢様がキャメリア様と戦っている間、僕の体には伯父上の意識がありました。伯父上が志半《こころざしなか》ばで亡くなり、キャメリア様がその意思を継いだことを知りました。
 お嬢様は……もしかするとキャメリア様から何らかの形で解決方法を教えられたのかもしれません。僕に言わずに行ったのは、きっと危険が伴《ともな》うからです。だったら僕は行かないと」

 早口でそれだけ言うと、柘榴《ざくろ》は踵《きびす》を返した。
 ごめんなさい、ごめんなさい、と謝りつつ、転がるように駆けて行く。





 それを無言で見送っていたふたりだったが、先に口を開いたのはエリックだった。

「ごめんなさい、って言われても……行けとしか言えないよね」
「……そうですね」

 あまりにも唐突すぎる。
 紅竜を倒しただけではどうしようもない?
 キャメリアがその方法を知っていてアイリスに教えた?
 そんなことを中途半端に教えられて、自分たちはどうすればいいと言うのだ。とりあえず紅竜を倒すほうに専念すればいいのか?

 もともと柘榴《ざくろ》は戦力外だったから、紅竜戦を前にいなくなってくれたのはむしろ好都合。だが、この扉を開けて、紅竜と対峙《たいじ》することになって。それでいいのだろうか。
 攻撃は連携が重要だ。同じタイミングで致命傷を与えなければ倒せない、なんて時もある。
 この城の何処《どこ》かでアイリスがやろうとしていることと、自分たちの行動は、別々に行っても問題ないのだろうか。効果が半減したり、最悪、干渉し合って0《ゼロ》になるようでは困る。

 第一、アイリスにしろ柘榴《ざくろ》にしろ、そういう重要なことを何故《なぜ》言わないのだ。
 彼らがキャメリアと千日紅の意思を欠片《かけら》でも汲み取ったと、それで対策があると言うのなら、教えてくれれば策を講じることもできように。
 アーデルハイム侯爵がいたから口に出せなかった……なら、アイリスが彼を連れて行ったのをどう説明すればいい。彼に言えて、自分たちには言えないことなのか?

 アイリスと柘榴《ざくろ》に対する不信感がモヤモヤと胸の中を埋めていく。


「あのふたりには報・連・相の重要性を教える必要があると思わない?」
「この戦いが終わったらきっちり教え直しましょう。柘榴《ざくろ》さんは執事見習いだそうですから私が」
「え!? 僕にアイリス様の教育は無理!! 首が飛ぶ! 河原で晒《さら》し首にされる!」

 その光景を想像したのか、エリックはひとつ身震いする。
 溜息をつき、手の甲を拭い、宙を仰《あお》ぎ。

「でも、時間がないって言ってたしなぁ。待ってる時間ないんだろうなぁ」
「そうですね。きっと別々に行動しても大丈夫なんでしょう。そう思うしかありません」

 グラウスの中途半端な納得に、諦めたように扉のノブを掴《つか》んだ。




 どうすればいい。
 目の前では紅竜が今にも義兄《あに》の胸に剣を突き立てようとしている。

「呼べ! お前が!」

 あたし《ルチナリス》に義兄《あに》を呼べと言っている。


 紅竜が手にしている剣に義兄《あに》の魂が入っているとして、それを突き立てることで体に移せるとして。それで義兄《あに》が目を覚まして、そしてどうなるの?
 ロンダヴェルグを襲ったように、義兄《あに》を使って人間界を襲わせるつもりなの?
 自分に従わわない魔族がいたら、人間と同じように義兄《あに》に襲わせるの?

 紅竜側の理由などあたしがいくら想像したところでif《仮定》の枠から出ることはない。だから置いておくとして。
 気になるのは先ほどの妙にリアルな夢の部分。
 第二夫人はあたしの力を義兄《あに》に移した。それで何をするつもりなの?
 あたしと義兄《あに》のふたりが揃って使えていた力が、今度は義兄《あに》ひとりで使えるようになる?
  それで……紅竜と闇を倒す? 
 村人Aでしかないあたしに使わせるよりは義兄《あに》のほうが魔力の扱いは適任だ。加えて義兄《あに》は魔王として10年間、勇者を退《しりぞ》け続けた実績もある。多分、紅竜と闇に対して互角以上に戦えるのは義兄《あに》しかいない。
 
 そうだ。きっと義兄《あに》に紅竜と闇を倒させるのが第二夫人たちの目的だ。
 性別は違えども義兄《あに》は第二夫人《前の聖女》の実子。魔族の中でも桁外れに高い魔力を持っているとか、人間との混血なのにとか、義兄《あに》に関していろいろとイレギュラーな部分が多かったのは全てこのために仕組まれていたのだ。
 第二夫人がどうにも母親らしくなかったのは、義兄《あに》を何時《いつ》でも切り捨てられるという覚悟が言動に透けて見えていたから。
 言い換えれば義兄《あに》はこの作戦のための駒であり道具。
 そう思うと、そのためだけに生を受けた義兄《あに》の存在理由にどうしようもないモヤモヤを感じる。

 しかし、この想像が正しかったとしてもだ。
 闇を排除するために生を受けた義兄《あに》とて、第二夫人がしようとしていることを受け入れるのは難しいのではないか?

 聖女の力は光。魔族では持つことのできない力。
 そして聖女の力は聖女が亡くなった時点で血縁者に流れる。ああして義兄《あに》に移すつもりだったとして、元々それが可能なら、第二夫人が亡くなった時点でその力は直接義兄《あに》に流れたはずだ。
 でも流れなかった。
 男だから流れなかったのか、魔族だったから流れなかったのかは知らないが、そうならなかった時点で義兄《あに》と聖女の力の間には相反するものがあると考えられるし、だとすれば第二夫人がやろうとしていることは義兄《あに》に尋常ならざる負担をかけること。それはきっと間違いない。
 勝算はあるのか? と言えば、前述したようにあたし以上に義兄《あに》のほうが魔力の扱いも戦闘面でも適任だ。けれど。
 紅竜と闇を退《しりぞ》けることができたとして、その時に義兄《あに》は生きていられるのか?



いや。


『お別れだ』


 ――ない。
 義兄《あに》は、その後、自分がどうなるのかもわかっている。





『人間として、人間の世界で生きなさい』


 1年と少し前。あたしに正体がバレた時に義兄《あに》はそう言った。
 義兄《あに》はずっとあたしを外に出すつもりでいた。自分たちのことも魔族のことも忘れて生きろと。
 昔から、あたしのことばかり優先させて。体調が悪いのに海に来たり、拾った子の面倒をみたり、挙句《あげく》、庇《かば》って刺されたり。
 それで今度はあたしから聖女の力を取り上げて。あたしには平凡な世界で幸せになれって? そんなの、


「呼べ!」

 ルチナリスは口を噤《つぐ》んだ。
 誰が呼ぶものか。心でも思わない。頭でも考えない。
 別のことを考えるのよ、例えばクレイが作る目玉型茹《ゆ》で卵が入った真っ黒い悪魔シチューとか、女装ガーゴイルさんたちの女装ラインダンスとか。
 絶対に。紅竜が怒ってあたしを殺しに来ても、それでも。


 ――ソレデ イイノ?


 ふいに声が聞こえた。この声は闇ルチナリスだ。



 ――青藍様ヤ 第二夫人ヤ みるサンガ ヤッテキタコト ガ 失敗シテ
   ソレデ イイノ?


「……失敗」

 第二夫人も義兄《あに》もミルも、何時《いつ》からこの計画を進めていたのだろう。
 義兄《あに》は生まれてからすぐに第二夫人と離されて、物心がついた以降もそう頻繁に会うことはできなかったらしい。
 ミル《キャメリア》は100年近く前に魔界から失踪。
 第二夫人とミル《キャメリア》に関しては何処《どこ》で繋がりがあったかもわからない。
 彼らを繋《つな》ぐ協力者が別にいたとしても、当人同士が顔を合わせることもないような計画、まとめるのに何年かかっているのだろう。
 それが、あたしが義兄《あに》を目覚めさせなければ……。

「で、でも」

 失敗すれば義兄《あに》は助かる。実行しなければそれで終わりだ。
 紅竜や闇の力は今以上に増して、世界を呑み込んでしまうかもしれないけれど、義兄《あに》は生き延びる。


 ――ソレデ イイノ?


 それで、義兄《あに》は喜ぶだろうか。
 あたしや執事や他の皆が闇に呑まれて。何もかもが無に消えて。


 ――ソレデ イイノ?


「でも、それで青藍様がどうかなるのはいいの!?」

 ルチナリスはまくし立てた。

「あたしは青藍様に生きていてほしい。だから此処《ここ》まで来たのよ。グラウス様だってそう。世界のために死んでほしいなんてこれっぽっちも思わないし、どうしてそれを青藍様ひとりに負わせるのって思うし!
 ねぇ! あなただってあたしなんだからわかるでしょ!? あたしは青藍様に生きていてほしいの! 生きて、また帰って来てほ、」


 その時だった。
 カッ、と眩い光が一瞬で部屋を覆ったのは。
 
 この光は。
 まさか。


「でかしたぞ小娘!」

 白に覆われたままの世界で、紅竜の声だけが聞こえる。
 あたしを称賛するということは、義兄《あに》が目を覚ましたのだろう。
 あたしは何もしていないのに。呼んでないのに。ただ、義兄《あに》を死なせたくなくて、でも生き延びたところで義兄《あに》が喜ぶのか考え、……て……。

「あ、あたしを嵌《は》めたわね!?」

 ルチナリスは叫んだ。
 義兄《あに》のことを考えないようにしようとしていたのに、闇ルチナリスに横からやいやい言われて考えてしまった。呼んだつもりはないけれど、その想いが義兄《あに》に届いてしまった。


 いや、本当は最初から呼び続けていたのかもしれない。
 ずっとあたしは義兄《あに》を返してほしいと思っていた。義兄《あに》がいた今までの生活が続けばそれでよかった。
 クレイのシチューだのガーゴイルさんのラインダンスだのを必死に想像していた時も、義兄《あに》のことを忘れることはできなかった。頭の中から消そう、消そうとするあまり、逆にこびりついてしまっていた。


 闇ルチナリスは何も言わない。
 無視しているのだろう。所詮《しょせん》、彼女は闇。闇に呑まれた世界では全部無になるんだとか何とか言っているのを聞いたことがあるけれど、何にせよ闇にとって都合がいい世界になるに決まっている。

「青藍様、」

 そして義兄《あに》や第二夫人の思惑とは別に紅竜も企んでいる。戦わせるだけなのか、他に義兄《あに》を目覚めさせなければいけない何かがあるのか。
 戦わせるためだけならいいけれど、もしそれ以外の理由があるのなら。あの「全てのものは無に帰す」ために義兄《あに》が必要なのだとしたら。

 あの夢の中では義兄《あに》は義兄《あに》だった。あたしのことを覚えていた。
 でも現実の義兄《あに》にあたしの記憶はない。
 目覚めた義兄《あに》はどちらの義兄《あに》なのだろう。
 

「青藍様」

 紅竜と義兄《あに》がいた先は白くて見えない。
 見えないけれど、気配はまるでしない。
 ずっと後頭部でチリチリ鳴り続けていた天使の涙も、今ではウンともスンとも言わない。
 彼らのいた場所に行きたいのに、両手を戒《いまし》めた蔓は解《ほど》けない。それどころか、


 ズズ。

 音が聞こえた。
 
 ズズ。
 ズズ。

 引き摺るようなその音は徐々《じょじょ》に近付いて来る。自分のいる壁に向かって、他の三方から。
 何? なんて考える必要もない。
 これは蔓だ。この城のあちこちで、そしてアイリスが現れた時にも聞こえた。この部屋の壁や天井に這っている、あの黒い蔓だ。



 白い光が薄れていくにつれて、部屋の輪郭が戻ってくる。
 やはり紅竜はいない。義兄《あに》が入れられていた棺《ひつぎ》もない。その代わりに増えているのは自分《ルチナリス》を取り囲むように迫る黒い蔓。蛇のように鎌首を持ち上げ、ゆらゆらと揺らしながら近付いて来る。よく見ればその先端はふたつに割れ、口のように開いた其処《そこ》からは黒い液体が|涎《よだれ》のように垂《た》れている。

「ひっ!」

 喉の奥で引きつった音が出た。
 これは蔓か?
 でも今までの蔓と違う。今までのは植物のようだったのに、今のこれは完全に生き物だ。生き物があたしを狙っている。あたしを食べようと――!

「離し、」

 ルチナリスは必死に手首を引っ張った。しかしどれだけ引っ張ったところで手首に巻きつく蔓は外れないどころか、さらにきつく締めあげて来る。
 そうしている間に先頭の蔓が足下に辿り着いた。それはこともあろうに足首からふくらはぎ、膝、と、足を伝って上ってくる。

 ちょっと待て! これってエッチなファンタジーものの定番、触手プレイというやつではないのか!?
 あの蔓の先がそのままパンツの中に……いやいや、それはないから! あたしお色気担当じゃないから!! 
 と、どれだけ思ったところで蔓に聞こえるわけもなく。

「あたしそういう趣味ないからーー!!」

 声に出してもみたけれど、よく考えなくたって蔓に耳など付いていない。つまり全く聞こえていない。
 どうしよう。ここにきて触手凌辱モノに出演する羽目になるとは思わなかった、って、なに悠長に考えてるのよあたしは! 脱出! どうにかして脱出しないととんでもないことになる!
 貧乳も素人もそれなりに需要があるし、メイドコスだし、童顔だしって本当に若いんだけれぇぇ! どぉぉ! もぉぉぉぉぉおおおお!!!!  

「ぎゃああああああああああ!!」
「……たまに怪獣みたいな声出すよねルチナリスさんってさ」

 思わず獣の如《ごと》き雄叫びを叫んでしまったルチナリスの横で、ふいに声がした。
 見れば、何時《いつ》の間に来たのだろう。勇者《エリック》が自分を戒《いまし》めている蔓を切っている。迫《せま》っていた蔓も凍りつき、動きを止めている。無論、あのエッチな蔓も……

「冷たぁぁぁあい!」

 足に貼りついたまま凍りつこうとしていた。

 蔓を凍らせるだけでは飽き足らず、足まで凍りつかせようとする勢いで上って来る氷をルチナリスは自由になった手で必死に払う。その間にも勇者《エリック》と執事《グラウス》は無言のまま蔓を駆逐《くちく》していく。

 ああ、無言で働く男の姿って恰好《カッコ》いい。

 ってそんなことを考えている場合ではない。彼らが助けに来てくれたのは有難《ありがた》いけれど、ほんのちょっとだけ、いや、こんな経験滅多にないのだから1時間でも2時間でも「助け出される囚われのヒロイン」でいたかったけれど、そうしている暇はないのだ。
 ルチナリスは勇者《エリック》の腕を掴《つか》んで叫んだ。

「青藍様が! 紅竜に連れて行かれちゃったの!!」
「前からそうだよね?」
「違うって! 青藍様が目を覚まして(多分)《カッコ多分》、それで紅竜と一緒にいなくなっちゃったの! あのままじゃ青藍様は聖女の力を使って死ぬ!」
「……聖女?」

 早口でまくし立てるルチナリスに、勇者《エリック》と執事《グラウス》は顔を見合わせた。




「「……生贄《いけにえ》だ」」

 次《つ》いでふたりの口から同じ言葉が飛び出す。

「生贄《いけにえ》?」

 鸚鵡《オウム》返しに聞き返したが、ルチナリスとて言葉の意味がわからないわけではない。そして誰のことを指しているのかも何となく察しがつく。

 ちょっと待て。
 第二夫人たちがやろうとしていることも義兄《あに》ひとりを犠牲にする鬼畜な作戦だと思ったけれど、紅竜も義兄《あに》にそういう役目を期待しているの!? でもどうして義兄《あに》なんだよ生贄《いけにえ》と言えば美女と相場が決まっているし美女なら此処《ここ》にいるでしょうが! なんて自惚《うぬぼ》れたことを言うつもりもないけれども! 
 だがしかし!
 生物学上の女は老若問わず幾《いく》らでもいるでしょうが!
 話の流れ的にも生贄《いけにえ》にするなら捕まえて来たヒロイン《あたし》でしょうが!
 それが何!? あたしの役目は義兄《あに》を起こしたら終わりってわけ!? いくらモブ女だからって、もうちょっと使い道ってもんがあるわよ!
 そりゃあ義兄《あに》は執事の「心の姫」だけれども! 実の兄《紅竜》まで義兄《あに》をヒロイン視しなくたっていいじゃない!?
 ルチナリスの中で暴風警報が鳴りそうなほどの嵐が吹き荒れる。


「うん、でも何か美女じゃなくて少年が必要らしいよ? アイリス様が言うには」

 それを察してくれたのか、親切にも勇者《エリック》が入れてくれた説明によると、紅竜が求める生贄は少年《性別:男》でなければいけないらしい。
 何だそんな縛りがあったのか。うん、それなら許す。……じゃあなくってぇ!!

「で、でも第二夫人は青藍様を使って闇を消すつもりみたいなんだけど」

 紅竜が義兄《あに》を生贄《いけにえ》にしようとしていることは、第二夫人たちは知らない。
 第二夫人たちが義兄《あに》を使って闇をどうにかしようとしていることも、紅竜は知らない。
 たったひとつのキーアイテムをふたつが使おうとすれば、当然どちらかは使えない。つまり義兄《あに》がどちらにつくかで、どちらかの失敗が決まってしまう。

「……どういうことです?」

 執事《グラウス》が眉をひそめる。
 彼らにしてみれば第二夫人が画策していることは初耳だ。しかも現実世界で誰かから聞いたというのではなく、あたしの夢の話なのだから信じられないと思うのもわからなくはないけれど――

「それじゃあ青藍様は兄からも母からも道具としか見られてないということですか?」

 執事《グラウス》が考えていたことは、少し方向が違ったようだ。
 
「それで青藍様はどうなるんですか? そんな、聖女にもできなかったことをあの人にさせようだなんて、絶対ただで済むはずがないじゃないですか! どうしてみんなあの人を、そんな、道具みたいに……!」

 執事《グラウス》は絞るようにそれだけ言うと俯《うつむ》いた。怒りをぶつける先がないのだ。

 数ヵ月前、惚気《のろけ》と称されて聞かされた彼らの過去からいくと、執事《グラウス》が義兄《あに》に執着するのは義兄《あに》が家のために不幸でも受け入れようとしていることが許せなかったから、が起因となっているらしい。
 義兄《あに》はどうにも自己犠牲の精神が強い人であるらしく、言われてみればフロストドラゴンが来た時も、海の魔女が来た時も、義兄《あに》はひとりで行動を起こしていた。魔王として勇者と対峙《たいじ》する時ですら、執事だけは「領主《裏の顔》の代役をしてもらわないといけないから」と戦力に加えてもらえなかったらしい。

 あたしが義兄《あに》の正体を知った1年前。
 玄関ホールに忍び込んだあたしを咎《とが》めた執事が辛そうな顔をしているように見えたのは、きっと義兄《あに》を守らせてもらえない己《おのれ》を持て余していたからだ、と今ならわかる。

 そして今。
 実の兄ばかりか母までが義兄《あに》を使って何かしようとしているわけで。自分たちには初耳だったわけで。今こうして知ったところで、どうにかする手段なんて思いつかなくて。
 義兄《あに》は命を落とすかもしれない。
 でも自分たちは何もできない。
 また守ることができない。……それでは執事《グラウス》が怒るのも無理はない。


『――お別れだ』


 どちらに転んでも義兄《あに》の未来には死しかない。
 だから「お別れ」なのか?





「行かないと……」

 執事《グラウス》は呆然としたまま、よろりと足を踏み出した。

「でも何処《どこ》に」

 義兄《あに》を手にするのは紅竜か、第二夫人か。どちらに与《くみ》するのが最善なのか。
 いや。
 どちらを選べばいいかなんてわからない。と言うよりどちらを選ぶのも反対だ。
 あたしたちは義兄《あに》を助けるために来たのだ。義兄《あに》が死に直面しているのなら助け出すしかない。 

「確か……確か青藍様たちは此処《ここ》にいたの! 足音がしなかったから移動はしてないと思うんだけど!」

 ルチナリスは叫ぶと義兄《あに》たちが姿を消した反対側の壁に駆け寄った。
 その場所は黒い蔓で覆われてはいるけれども扉も窓もない。あの白い光に乗じて出て行ったのか、隠し通路でもあるのか。ルチナリスに倣《なら》って執事《グラウス》も壁や床を叩いているがそれらしいものは見つからない。


「駄目だ、一体何処《どこ》に、」

 そしてお約束。数分後には執事《グラウス》が歯噛みし、壁に拳を叩きつけた。
 駄目よ! 諦めないで! 諦めたら今度はあたしが壁になる《凹られる》! 「どうしてちゃんと行き先を見ておかないんだこの無能!」 と自分で言うと悲しすぎるけれど、その方面の未来がぱっくりと口を開いたのを感じる。
 思い出すのよルチナリス! 青藍様たちは何処《どこ》へ行った!? 
 ルチナリスは必死に記憶を探る。

 この部屋の扉は執事《グラウス》たちが入って来たであろう後方の一箇所のみ。窓は蔓で覆われている。
 足音は聞こえなかった。目を覚ましたばかりで意識が朦朧《もうろう》としているであろう人を連れて、足音を立てずに移動するのは無理だろう。だからこの付近に隠し通路があるに違いない。
 ロンダヴェルグの結晶の間への入口のように壁に偽装されているか、ノイシュタイン城の次元の狭間のようにそれとわからない穴があいているか。もしくは――


 


「暖炉!」

 そうだ、暖炉だ。
 この城はどの部屋も、標準装備のように同じ形の暖炉が設置されている。本棚に囲まれていたり、壁に埋め込まれていたりと微妙に違うけれど。
 そして微妙な変化その2。上に置かれている小物も違う。何も置いてなかったり、装飾具の皿《アクセサリートレイ》があったり。この部屋には細身の「燭台」が置かれている。
 この仕掛けは偽勇者《エリック》が秘密の通路を開いた時と同じ。そして此処《ここ》に似た城で紅竜とキャメリアの幼少期と思われる少年少女が使った手段とも同じ。
 同じ仕掛けを複数個所で使うなんて手抜きが過ぎるけれど、勇者《エリック》に言わせれば「主人公にわからせるようにした仕掛け」。今は同じが有難《ありがた》い!
 ルチナリスは暖炉の上に置かれた燭台を前に倒した。ガゴン、と大きな音がして何かが外れた。

「開いた!」

 偽勇者《エリック》と進んだ時には、この道は別の部屋に繋《つな》がっていた。
 きっとこれも他の部屋に繋がっている。この先に、義兄《あに》がいる。

 だが。

 執事《グラウス》がその通路を覗き込んだその時。
 
「……ねぇ、ひとつ聞いていい?」

 声が聞こえた。

「え?」

 聞いて来たのは勇者《エリック》だ。自分たちのように秘密の通路探しをするでもなく、少し離れたところに突っ立っている。

「それでさ、ルチナリスさんたちはどっちを阻止するの?」
「阻止って……青藍様を助け出せればそれで、」

 急にどうしたのだろう。
 自分《ルチナリス》がロンダヴェルグに、そして魔界に行くと決めた時、この男《エリック》は「ちゃんと会って、話をして、取り返すかはそれからだ」と言った。けれど連れて行かれた目的が生贄《いけにえ》と聞かされた日には、話をするよりも取り返すほうが先に来るのは仕方がないし、|此処《ここ》でウダウダと問答をしている時間はない。考えてばかりいるあたしが珍しく考えずに動こうとしているんだから止めるんじゃないわよ!
 いつもの脊髄反射でそう口走りかけたものの、ルチナリスは勇者《エリック》の表情に言葉を呑み込んだ。
 
 いつもの勇者《エリック》ではない。
 つい先ほど、自分を戒《いまし》めていた蔓を切ってくれていた勇者《エリック》とはまるで別人にすら見える、黒いオーラを背負《せお》っている。

「コーリューサマのほうは実現したら世界が闇に染まるって言うんだもの、そりゃあ困るけどさ。前《さき》の聖女様……第二夫人だっけ? その人はコーリューサマを阻止するために領主様を犠牲にするつもりなんだよね? そっちも阻止するの?」
「何が言いたいの」

 此処《ここ》に来て闇落ち?
 少し前に師匠《アンリ》と敵対しかけた時の勇者《エリック》を思い出して、ルチナリスは半歩後退《あとずさ》る。


 闇に堕ちるには2通りある。
 ひとつは負の感情に呑まれて、心が闇に寄って行ってしまった場合。
 もうひとつは闇に接触しすぎて染まってしまう(強制的に闇に染めさせられる場合を含む)場合。
 メグは前者だが、アイリスは後者。執事《グラウス》は前者と後者のW《ダブル》コンボ。勇者《エリック》も海の魔女事件を皮切りに散々闇が関わる事件に付き合わされてきたのだから、いい加減、染まっていてもおかしくはない。

「領主様を助け出して、人間界に連れ帰って? それって第二夫人《前の聖女様》のほうも失敗するよね。そうしたら闇はどうなるの? 放置?」

 いや。闇堕ちとは違う。
 勇者《エリック》は恐れている。第二夫人の案が失敗することで世界が――メグ《妹》のいる世界が闇に呑み込まれるのを。そしてそれは義兄《あに》の犠牲の上に成り立とうとしている。
 それを知ってしまったから。だから、あたしたちが義兄《あに》を奪取することを、今になって躊躇《ちゅうちょ》しているのだ。


「……私たちは紅竜から青藍様を取り返すことを第一としています。第二夫人の策に乗るかどうかは青藍様がお決めになることです」

 執事《グラウス》が呟く。

 義兄《あに》に決めてもらうと言っているが、義兄《あに》の心はもう決まっている。「お別れ」だと。
 先ほど執事《グラウス》たちに第二夫人たちも義兄《あに》を使って何かをしようとしていると言ってしまったが、義兄《あに》が覚悟を決めてしまっていることまでは言っていない。が、執事《グラウス》曰《いわ》く「義兄《あに》は自己犠牲の権化みたいな人」だそうだから、義兄《あに》の覚悟まで察してしまっているかもしれない。
 死ぬ気でいるとわかっていて「青藍様にお決め頂く」なんて悠長なことを言う男ではないが、「暴れようが何をしようがふん捕《づか》まえて連れ帰る」と言わないのは、今ここで勇者《エリック》を逆撫ですべきではないと判断しているからだろう。


「そんなこと、思ってもいないくせに」
「私は執事ですから。主《あるじ》の決めたことには従いますよ」


 そして勇者《エリック》は執事《グラウス》の言うことを信じていない。
 まぁ、義兄《あに》絡みであれだけ暴走する様《さま》を見せつけていれば、勇者《エリック》に限らずとも同じ感想を抱くだろうが。

「ルチナリスさんも?」
「そ、そそそそそそそそそそそそうね」
「………………ふぅん」

 勇者《エリック》は疑わしそうにあたしたちを一瞥《いちべつ》すると、

「ま、僕は勇者だから」

 と呟き、隠し通路に身を滑らせた。
 勇者だから何だ? 勇者だから先頭を行くのか? それとも勇者だからあたしたちを監視する?
 あたしの顔に免じてくれた、と言うのは今までの経験からすれば可能性はかなり低い。それよりは先ほどの執事《グラウス》の血を吐くような嘆きに胸を打たれた、のほうがそれらしいけれど、その「血を吐く嘆き」はそのまま「義兄《あに》を助けなければ」に、さらには「義兄《あに》を助けて闇は放置?」に続くわけで……やはり勇者《エリック》が手を貸してくれる要因にはなりそうにない。


 それにしても、少し前に師匠《アンリ》に対して「ミバ村を襲った中に義兄《あに》がいるかもしれない」と剣を抜いたり、どうにもこの城に来てから勇者《エリック》の様子がおかしい。最初は偽物ではないかと思ったが、やはり闇の影響を受けていると考えたほうがいいのだろうか。
 闇堕ちしたからと言って紅竜のために動くとは限らない。メグのように自分の目的のために動くことだってある。
 彼《勇者》の場合は勿論《もちろん》、「メグの幸福な未来のため」。だから闇を放置することも、闇に呑まれて無に還《かえ》ることも阻止してくるはず。

 ルチナリスは勇者《エリック》の消えた穴に目を向ける。
 だとすれば、

「グラウス様、勇者様には気を付けて下さいね」

 先頭を行ったのは自分たちを迷わせるため、かもしれない。


「大丈夫ですよ。少なくとも青藍様が紅竜の策に利用されることは、彼にとって望まない結果にしかなりりませんから、紅竜から取り返すまでは共闘してくれるでしょう」

 しかし執事《グラウス》はそんな勇者《エリック》も利用するつもりでいるようだ。
 

 侵入した当初から決して足りているとは言えない頭数ではあったけれど、今はさらに目減りしている。しかも減ったのは対魔族としては最も戦力になるミルで、他に退魔の力が使えそうなのは勇者《エリック》しかいない。
 師匠《アンリ》や執事《グラウス》も戦うことはできるが、退魔の力がない時点で決定打に欠ける。だから勇者《エリック》にはいてほしい、と思うのはこの人数では当然かもしれない。
 
 でも時限爆弾を抱えているようなものよ?
 ルチナリスは勇者《エリック》が入って行った隠し通路に目を向ける。
 勇者様はその退魔の力をあたしたちに向かって来る魔族に、ではなくて、師匠やグラウス様に向けるかもしれないのよ?
 通路内はひとひとりが屈んでやっとなほどに狭いし、暗い。先に行ったと見せかけて、暗闇の中から剣の切っ先をこちらに向けて待っているかもしれないのよ?
 出てきたところで断頭台《ギロチン》みたいに首を刎《は》ねるつもりで、剣を振りかざしているかもしれないのよ?
 
 疑い出すときりがない。
 こんな状態で共闘できるの? 共闘ってお互いに信用して初めて可能なんじゃないの? 
 だったら勇者様はいないほうがいいんじゃないの?
 だったら、


「私の邪魔をするなら返り討ちにするまでのことです」

 だが、そんなあたし《ルチナリス》をよそに、執事《グラウス》はそう言うと勇者《エリック》の後に続いて隠し通路に身を滑らせた。
 一瞬、あたしの頭上を殺意が通り過ぎて行った気がするのだけれども……あれか? どうでもいいことで足止めするな、と暗に牽制《けんせい》されたのだろうか。




 秘密の通路を通り抜けた先は廊下だった。それも今までに何度も見ていて、目を瞑《つぶ》っていても絵に描けそうなほど見慣れた廊下。
 嗚呼《ああ》。また紅竜のいそうな部屋を探すの? 何度目よ。とうんざりしかけたルチナリスだったが、

「何だお前ら、こんなところで」

 と、かけられた声に、気のたるみが一気に吹き飛んだ。
 おそるおそる振り返ると師匠《アンリ》がいる。その後ろには何故《なぜ》かフリフリメイドコスのガーゴイルもいる。

 前当主の部屋はこの近くだったのだろうか。
 犀《さい》には会えたのだろうか。
 ひとりということは犀《さい》は倒したのか。それとも会えずじまいだったのか。味方になってはもらえなかったのか。
 聞きたいことは山ほどあるし、自分たちがアイリスから聞いた話も教えたい。メンバーの中では最も昔から義兄《あに》に近いところにいた人だから、第二夫人の策について何か知っているかも知れない。

 だが。
 視線は師匠《アンリ》よりもその後ろに行ってしまう。
 メイシアに似た、無視することが許されない存在感。人々の視線を否応《いやおう》なく集めるという点では「スター性がある」「オーラがある」と言えるのか、いや、どちらかと言えば道化やチンドン屋に近いのだろう。そうに違いない。
 第一、メイドコスならあたし《ルチナリス》も同じ。なのに何故《なぜ》あたしはモブ止まりなのよ! ではなくて。あなた少し前に「あいるびーばぁぁぁあっく!」と叫んで消えて行きませんでしたか!? でもなくて!!
 いろいろとツッコミたい衝動に駆られるが、話の流れ的に今此処《ここ》でネタに走って脱線するわけにはいかない。グッと我慢のしどころだ。


「し、師匠こそ」

 何にせよ、紅竜より前に師匠《アンリ》と合流できたのは悪いことではない。ルチナリスは斜め前で背を向けている白銀の鎧を見る。


 執事《グラウス》は大丈夫だと言っていたが、どうにも勇者《エリック》のモチベーションが下がっている気がしてならない。
 元々彼《勇者》には魔界に来る理由も、一緒に戦う理由もなかった。魔界に付いて来る、とは最初から言っていたけれども、それにしたってあたしの背中を押すための口約束感が強かったし、今現在此処《ここ》にいるのも意味不明にメイシアに送り込まれたという後ろ向きな理由だ。
 そして輪郭すら曖昧だった闇が、自分たちでは収拾がつかないほど大きな存在になっていることを目の当たりにして。自分たちには無理だけれども、義兄《あに》を犠牲にすれば回避できるかもしれないと知って。
 それで勇者《エリック》は義兄《あに》が犠牲になる未来――第二夫人が講じた闇を封じる策が実現される未来――を選ぼうとしている。あたしや執事《グラウス》が「義兄《あに》を生かすためだけに」それを阻止しようと思っていることも感じ取っている。


 どちらが正しいかと言えば、きっと勇者《エリック》や第二夫人《前の聖女》の考え方のほうが正しいのだろう。
 たったひとりを犠牲にすれば、世界中の人を守れるのだから。
 でもあたしはそれを選べない。執事《グラウス》もきっと。


 そんなわけで何時《いつ》勇者《エリック》が脱落するかわからない今、師匠《アンリ》のように義兄《あに》を取り戻す理由を持っている人が増えるのは、(あたしたちにとっては)万々歳だったりもする。
 秘密の通路の先が部屋ではなく、こうして廊下に放り出されたのは、先頭を行く勇者《エリック》が細工したからではないか、なんて疑いそうになっている今は、なおのこと。


「前当主には会えたんですか?」

 勇者《エリック》が沈黙を貫いているのが気になるが、あえて無視してルチナリスは声をかけた。確か、前当主は戦闘力が高い人だから味方になってくれれば百人力だ! なんてことを言っていた気がする。
 しかし。

「あー……駄目だったわ」

 師匠《アンリ》は、前当主には会えずに終わったらしい。



 そうだろう。
 第二夫人たちのいたあの場所には前当主もいた。あの世界自体が現実にあった証拠は何処《どこ》にもないけれど、あたしはあれがただの夢だとは思わない。
 そして彼《前当主》はあたしに言った。「自分たちは死して長い」と。
 師匠《アンリ》は前当主の生死までは語っていないけれど、きっと亡くなっていたのだろう、と推測できる。




「で、お前らが此処《ここ》にいるってことは、紅竜の居場所はこの先なんだな」

 師匠《アンリ》は前当主に会えなかった失望を振り払うように、同じ意匠の扉がずらりと並んだ廊下に目を向けた。あっさりと切り替えるあたり、前当主はもう亡くなっている、と心の底では思っていたのだろう。

「うん、そのはず」

 この何処《どこ》かに紅竜と義兄《あに》がいる。
 アイリスの話からすると紅竜は義兄《あに》を何かの生贄《いけにえ》にするつもりらしいから、部屋のひとつに留《とど》まっている可能性は高い。片《かた》っ端《ぱし》から開けていけば、手遅れになる前に見つけ出せるはずだ。

「じゃあ行こうぜ。紅竜は待っちゃくれねぇぞ」

 師匠《アンリ》はそう言うなり手近な扉を開け放った。
 待てよ! もしそれで中にいたら心の準備がががががが! と一同(主にルチナリス)に緊張が走る。
 が、運が良かったのか悪かったのか、その部屋はもぬけの殻だった。暖炉の上に燭台がなかったから、秘密の通路もないだろう。

「師匠! 急に開けるのやめて!」
「あー? すまんな」

 時間がおしているとは言え唐突だ。
 文句を言っても暖簾《のれん》に腕押しのような返事しか返ってこないのは、大したことではないと思っているのか、悪いと思っていないのか。

「でもな、お館様《やかたさま》の力は借りられなんだが、闇がこれ以上出て来るのは阻止できたはずだ。後は紅竜が抱えている分をどうにかすればいい」

 それとも、別のことが頭にあるのか、だ。


「どうにか、」

 ルチナリスは執事《グラウス》を見、それから、未《いま》だもって口を噤《つぐ》んでいる勇者《エリック》に視線を移す。
 師匠《アンリ》が言った「どうにかすれば」の部分こそ、第二夫人の策そのもの。義兄《あに》を犠牲にすれば「どうにかなる」と知った時に師匠《アンリ》がどう動くか……まさか師匠《アンリ》までもが「世界のために死んでくれ」と言うとは思えないが、師匠《アンリ》の意思次第で勇者《エリック》の心がさらに自分たちから離れていくであろうことも感じる。


 しかし不在だった1時間ほどの間に「闇がこれ以上出て来られない措置」を施《ほどこ》すなんて、できる子すぎやしないか? 今までの成果らしい成果が皆無な道中から比べても、何処《どこ》かでディレクターが「巻いて巻いて」と指を振っているのかと思いたくなるスピードじゃないか。

 あれか?
 本当は犀《さい》が阻止し終わっていたのを、いないのをいいことに自分の手柄にしちゃった? それとも日付変更線でもあって半日くらい端折《はしょ》られた?

 勇者《エリック》と同じように黙り込んでいる執事《グラウス》の表情は読めない。読めないが、この男に限って義兄《あに》を手放す選択をするはずがない。「どうにか」できるチャンスなど潰しに行くであろうことは間違いない。
 それはそれで問題だけれども……師匠《アンリ》には悪いが、今のあたしの気持ちも同じ。義兄《あに》を犠牲にすること以外に「どうにか」できる手段があればいいのだが。



「師匠がどうやって闇を封じ込んだのかは知らないけど、だとすれば後はコーリューサマをどうにかすればいいわけなんだね」

 勇者《エリック》はあたしに背を向けたまま、別の扉を開ける。
 ああ、こちらは「どうにかする」気満々だ。

「信用してねぇな」
「そんなことないよ。アイリス様たちが動いている分が作用したのかもしれないし」

 いない、と小さく呟いて閉め、隣に移る様《さま》は淡々としている。
 もし遭遇したらどうするつもりだろうと心配になる大雑把さだ。何か意図があるのか――意見が違うあたしたちなど見つかってしまえばいいと思うが故《ゆえ》の行動にも見える。

「アイリス嬢が何だって?」
「僕たちと別れて、アーデルハイム侯爵を連れて行っちゃったんだ。柘榴《ざくろ》さんが言うには家に帰るだけに侯爵を連れて行くはずがないから、何かするつもりなんじゃないか、って」


 ああ、そうだ。忘れていたが、アイリスが外側から闇を封じる手助けをした可能性も無きにしも非《あら》ず。
 彼女《アイリス》は、千日紅が入り込んだことでその考えの一端を持つに至った柘榴《ざくろ》と同様、ミル《キャメリア》が抱いていた目的を知ったと思われる。

 あたし《ルチナリス》が第二夫人と会った夢の中にはミルもいた。
 第二夫人の策を知っているようだった。
 あれがただの夢でないのなら、ミルを受け継いだアイリスの取る行動は第二夫人の策を補助することに他ならないし、その過程で働いた「闇を弱める作用」が、師匠《アンリ》が言うところの「過去の闇の封印」にも影響したと考えるのは、決して突飛《とっぴ》な考えではない。
 

 外堀はどんどんと埋められている。
 過去の闇が外に出て来られないと言うことは、紅竜が使える闇にも影響が出ると言うこと。
 遅かれ早かれ、自分たちの行動は紅竜の知ることとなる。そうなれば彼は生贄《いけにえ》の儀式に着手せざるを得なくなる。
 そしてそれは――。


「勇者様、今までありがとうね」

 ルチナリスは独り言のように呟いた。
 音量は呟き程度ではあるけれど、自分たちしかいない深夜の廊下で声が届かないほうがおかしい。名指しされた勇者《エリック》以外の面々も、怪訝《けげん》そうに眉をひそめてルチナリスを見た。

「……何か企《たくら》んでる?」

 怪訝な眉の会代表《勇者》の問いに、ルチナリスは首を振る。

「何も」

 嘘だ。
 でもこれは親切な嘘。

「でもやっぱり思ったの。
 勇者様は此処《ここ》で帰ったほうがいいわ。メグを守らないといけないし」


 帰るには隔《へだ》ての森を通らなければならず、通るには精霊の力がいる。
 ただ運のいいことにスノウ=ベルはガーゴイルが、トトは執事《グラウス》が持っている。そのどちらかを連れていれば勇者《エリック》は隔《へだ》ての森を通れる。
 道中で魔族と出くわすかもしれないが、彼らは魔界の「村人A」。出くわしたところで向かって来るとは限らない。阿鼻叫喚地獄のロンダヴェルグからですら無事に抜け出した経歴があるのだから、隔《へだ》ての森にも辿り着けるはずだ。

 そして何より、彼を遠ざける本当の理由。
 今の勇者《エリック》は義兄《あに》を前にした時に、自分たちが望む結果――義兄《あに》を捕まえること――を出すとは限らない。義兄《あに》が命を賭《と》して闇を封じようとしていたら、そのまま見逃すか、最悪、それを止めようとするあたしたちを妨害してくる。
 それだけは避けたい。


「……その、勇者様って考えることも言うことも変だけど、でも勇者様がいなかったらあたし、此処《ここ》まで来ようって思わなかった。お兄ちゃんに捨てられた、またひとりぼっちなんだってウジウジするだけで終わってた。
 聖女のことだってそう。あたしひとりだったら、ソロネさんに言われるままに祭り上げられてた。
 海でソロネさんが”聖女やらない?”って言った時に勇者様は”やめたら?”って言ったでしょ。普通はやれって言うところだと思うの。
 でも、だからあたしも自分でいろいろ考える時間ができた。考えて考えて、その結果が今のあたし」

 ルチナリスは口を挟む暇も与えないほど一気に言い募《つの》る。

 勇者《エリック》には感謝している。それは本当。
 でも、だからこそ邪魔してほしくない。

 いや、違う。
 あたしが、勇者《エリック》から意見を違える「敵」として認識されたくないのだ、きっと。


「青藍様を取り返してから先のことは何にも考えてないけど、もうノイシュタイン城にあたしたちの居場所がないのは確かだし、だからあの町に戻ることはないの。これが終わったら勇者様ともお別れだわ」
「ノイシュタインに戻らなくて何処《どこ》に行くつもりさ」
「わからないけど、同じ空の下の何処《どこ》かにはいる」
「何それ」


 会えなくても同じ空の下にいると思うことができる、と言ったのは義兄《あに》だった。

 この先なんて知らない。返り討ちに遭《あ》って果てるかもしれない。
 紅竜を倒して、闇を封じて、義兄《あに》が生き残った道を選ぶことができたとしても、その先にあるのは義兄《あに》をこの家に縛りつけようとする師匠《アンリ》たちから逃げる未来だ。ノイシュタインに定住することなど叶わない。


「どうして、」

 勇者《エリック》が口を開く。

「領主様は悪魔だよ? 親切にしてくれた、育ててくれたと言っても、目の前で魔法を繰り出して、冒険者を薙《な》ぎ倒してるところも見てるでしょ?
 悪魔なんだよ? 人間を狩る、僕たちの敵なんだよ? ロンダヴェルグでは殺されそうになったんだよ? なのに悪魔の兄のほうが僕よりも信じるに値する存在なの?」
「そうよ」
「世界よりも大事なの?」
「勇者様は言ったわ。世界平和なんて漠然としたものよりも、身近な人の幸せを考えろって。あたしは世界よりも青藍様が大事。あの人を犠牲にして手にする未来ならいらない」
「自分が死ぬかもしれないんだよ? 死ぬと言うか、消えると言うか。闇に呑まれて、黒い蔓になって、それで何もかも無になっちゃうかもしれないんだ。それでも、」
「それでも」
「…………………………そう、なんだ」


 勇者《エリック》は何か言いたげに口を開いたが、そのまま何も言わずに閉じた。
 そして拗《す》ねたように踵《きびす》を返す。


「じゃあ僕は帰るよ」

 いや。本当に拗《す》ねたのかもしれない。
 呆《あき》れたのかもしれない。

 突然の急展開にどうしたものかとあたしたちを見比べるだけしかできない師匠《アンリ》の横をすり抜け、勇者《エリック》はメイドコスのガーゴイルの腕を掴《つか》むと、引き摺《ず》るように去って行った。



「喧嘩でもしたのか?」

 少し遅れてやっと状況をやっと把握したらしい師匠《アンリ》が「捕まえて来るか?」と目で訴えて来る。が、ルチナリスはそっぽを向いた。
 戦力が減るのだ。いいはずがない。「紅竜を倒すまではいろいろと言いたいことは黙ったまま共闘」するほうがずっと賢い。
 早まったと後から後悔する可能性大。でもあたしたちは同じ目的で動いているわけじゃない。何時《いつ》牙を剥くかもしれない可能性を抱えた男を横に置いて歩けるほど、あたしは人間ができていないし度胸《どきょう》もない。


「あたしたちはあたしたちの道を進まなくっちゃ。ほら、あの扉が怪しい!」

 ルチナリスはひとつだけ周囲と微妙に色が違う(ように見える)扉を指さした。

 わざとらしい。
 選び取った選択肢が悉《ことごと》く不利な状況に向かうあたしが、今に限って好機を掴むとは思えないけれど、こうする以外の方法がわからない。