~5月~




 僕はドーム型の天井が付いた円形の部屋にいる。
 壁も天井も白いその部屋はプールのように薬液で満たされ、そのプールを見下ろす形で、壁に沿って通路が設《しつら》えてある。
 僕が立っているのはその通路。すれ違うのがやっとの幅と腰までの高さしかない柵は、足を滑らせれば容易に転落してしまいそうだ。
 プールの中央に据え置かれた機械は止まっている。左右から伸びたアームのせいで巨大なロボットが胡坐《あぐら》をかいたまま眠っているようにも見える。
 周囲に漂う生臭さは薬液の臭《にお》いだろうか。睡魔を誘う。


「――此処《ここ》は命が生まれる場所。この臭《にお》いは命の臭《にお》いだよ」

 かけられた声に横を見ると、手摺《てす》りに凭《もた》れるようにしてフローロがいる。

「命?」
「そう。母なる海の。母なる体の。命を宿し育むための。此処《ここ》はそういう場所だ」


 そうだ。此処《ここ》は揺りかご《乳幼児保育施設》。僕たちが生まれた場所。
 僕たちは此処《ここ》で生まれ、薬液の中で3年間育てられ、それから幼稚舎に入る。
 その期間の記憶は残っていないけれど、この独特の臭《にお》い――培養液の臭《にお》い――は覚えている。

 でも何故《なぜ》僕はこんなところに。
 この町から出て行ったはずのフローロが何故《なぜ》此処《ここ》に。

「どうして、」
「僕が此処《ここ》にいるのか、って? 夢だからだよマーレ」
「……そんな簡単にカミングアウトしなくても」

 フローロは笑う。
 その笑い声は思い出の中の彼そのものだ。


「マーレって海、って意味なんだってね。素敵な名前だ。命を育む源《みなもと》の名前だよ」

 ああ。
 その言葉は10年前。初等部に入ってフローロに出会って。
 彼の口から最初に出た言葉だった。

「フローロは、どうして海を再生させたいの?」
「そうだね……果てのない青が見たいから、かもしれない」
「果てのない青?」
「そう。水族館の中庭にある水溜りじゃなくってね、ずっと遠くまで広がる本物の海が見たい。知ってる? 命は海から生まれたんだ」

 これは夢。僕の頭が記憶と想像を練り混ぜて作った、都合のいい夢。
 僕が作ったフローロに何を尋ねたところで、僕が知り得る範囲以外を答えることはない。答えてほしいと願う答え以外を口にすることもない。
 けれど。

「ねぇフローロ、」

 僕はフローロに会って、聞かなければいけないことがある。
 あの手紙はどういう意味なのか。
 イグニが言い残したことは真実なのか。
 フローロは何を知って、何をしようとしているのか。
 レトは僕らの味方では――
 

 しかしフローロは首を振った。

「自分で作った都合のいい夢だってことまでわかってて、それを聞こうとするかなぁ」
「そう、なんだけど」

 わかってはいるのだ。このフローロに尋ねたところで答えなど出ないということは。
 俯《うつむ》く僕を、フローロの腕が包む。

「僕は海を再生させたいし、そのためにはきみの力が要《い》ると思ってる。でも、きみ自身はどう? もし僕への義理のためにやりたくもない道に進もうとしているのならそんな義理蹴っ飛ばして、自分の思うほうに進んでいいんだ。これはきみの命で、きみの人生なんだから」


 ゴボリ、とくぐもった音に目を開ければ、あたりは液体で満たされていて。
 僕もフローロもその中で漂っていて。

「力が及ばなかったことを悔やむ必要なんてない。それはきみが成《な》すことではなかったってだけだよ。何時《いつ》か、きみにしかできないことが来る。だから、ほら」

 これはあの薬液だろうか。でも色が違う。
 遥《はる》か頭上で揺蕩《たゆた》うその色は――青。




「行って」

 声がして、背を押された。
 体が浮き上がる。揺蕩《たゆた》う青に引っ張られるように。

「きみがどんな選択をしても、僕は恨んだりしない。だから、」
「フローロ!」

 首を曲げて下を見るも、彼の姿は何処《どこ》にもない。

 でも確かに押された。
 フローロは、いや無意識下の僕は、僕が進むことを望んでいると言うことなのか……?




 ヴィヴィが目の前で燃えた日から1週間、僕は目を覚まさなかったらしい。
 その間にヴィヴィであった木は根こそぎ取り除かれ、寮の部屋に残されていた私物も片付けられ。ヴィヴィとチャルマがいた痕跡は今や何処《どこ》にもない。

 しかしあの事件は炎が高く上がったせいで目撃者も多かった。人の口に戸は立てられず、瞬く間に学校中の学生が知るところとなった。
 人が木に変わったなんて荒唐無稽《こうとうむけい》な話も、実際に目にすれば嘘《うそ》だと嗤《わら》う者もいない。もしかすると自分も木に変わるのではないか、という恐怖が学生たちの間で広がり、特にヴィヴィと接触のあった取り巻き連中は青くなったと聞く。

 その原因のひとつには、レトの「ヴィヴィは特殊な病気だった」と言うアナウンスもあったらしい。
 「特殊な病気だから皆は木にならない。感染もしない。だから安心して」と言いたかったのだろうけれど、それで「はいそうですか」と納得するには絵面《えづら》が厳しすぎた。

 感染していなくとも希望者は入院して検査を受けられる、としたのも、そんな学生たちの不安を払拭《ふっしょく》するためだろう。
 そのせいでただでさえ少ない人数がさらに減り、僕たち最終学年は半数どころか3分の1にまで減ってしまったけれど。


 腕と足を失ったクルーツォは、修理のためにファータ・モンドに移送された。
 この町《ラ・エリツィーノ》にはアンドロイドを修理するための設備がない。手足を丸ごと付け替えるとなるとファータ・モンドに行くしかないそうだ。
 初期型はコストがかかるから新たな腕など作れない、と廃棄処分にされるかもしれなかったことを思えば、2度と会うことが叶わないかもしれなくても良かったと思うべきなのだろう。

 「叶わないかもしれない」という曖昧《あいまい》な言い方をしたのは、アポティの、

『向こうで会えるんじゃないのかい?』

 と言う台詞《セリフ》のせいだ。
 クルーツォを運んで行く時、ノクトにそう言い残したらしい。

 そこから察するにクルーツォの修理には2ヵ月以上かかる。
 2ヵ月後には僕たちは卒業してしまうから、行き違いになることはなさそうだけれども……しかしもし向こう《ファータ・モンド》で会えたとしても、性徴《せいちょう》が現れた後の僕をクルーツォは僕だと認識してくれるだろうか。人間同士ですらセルエタを頼らなければ互いに見つけ合うことができないと言うのに。


 余談だが、薬師《くすし》が不在になったことで、この町で使う薬は全てファータ・モンドから取り寄せることになったそうだ。
 以前クルーツォも言っていたが、向こうではカプセルに凝縮する技術が発達している。嵩《かさ》も重さも瓶入りの薬剤より小さく、軽くなるから運びやすいそうだが……クルーツォの不在が歓迎されているようで腑《ふ》に落ちない。


 そしてカプセルと言えば。

『――レトの学徒に預けた栄養剤は飲んだか?』

 あの栄養剤はファータ・モンドから届けられたもの。成分表示上は今までのものと同じだとクルーツォは言っていたけれど、実際には違っていた。
 生命《いのち》の花の分量が多いという、とるに足らないどころか、希少な成分が多めに入っているなんてラッキー、と思ってしまいそうなことだけれども……その表示ミスはわざとか? 本当に「ラッキー」で済むことだったのか?
 
 もしあの痣《あざ》が栄養剤の、生命《いのち》の花の過剰摂取のせいなら。
 ヴィヴィの変化もそれが原因だとしたら。



「木化に巻き込まれたあなたは誰よりも精神に傷を負《お》っています。自分では大丈夫なつもりでも、見えない傷は徐々にあなたを蝕《むしば》み、そうなると回復に更なる時間がかかるでしょう」

 僕が目を覚ました日、フランはそう言った。
 彼女は僕が眠っている間もずっと傍《そば》についていたらしい。寮の仕事もあるだろうのに僕ひとりを構っていてもいいのだろうかと思ったが、それだけ目を離すと危ない状況だったのかもしれない。


「入院したほうがいいってこと?」
「いえ。そこまでの必要はない、とレトは考えます」

 チャルマやヴィードの対応からして、何かあれば即ファータ・モンドに送られると思っていたから、目が覚めた時にまだこの部屋にいることが意外だった。
 しかもレトは彼《か》の地に行く必要はないと判断している。

 そう言うものだろうか。
 意識のない間に見知らぬ地に送られなかったのは僕的には幸いだけれども、1週間も意識のない僕を看病するためにフランが付きっきりになるのなら入院させるのが得策ではないのだろうか。
 この1週間、僕ひとりのためにフランの業務が滞《とどこお》っていると言うことは、言い換えれば寮生全員に何かしらの迷惑をかけているということ。
 それでも僕にはファータ・モンドに行く資格がないのだろうか。



 部屋にノクトはいない。
 フランが此処《ここ》にいるなら、と一時的に空き部屋のひとつに移動したらしい。
 彼が部屋替えを希望した表向きの理由は「ひとつの部屋に3人もいられない」だそうだが、その3人のうちの1人はレトの目の代わり。同室でいる限り言動を監視されることは間違いない。
 だから何よりも”フランから離れること”を選んだに違いない。

 彼もヴィヴィの惨事を目の当たりにしたわけだし、しかもヴィヴィは彼の妹に激似だと言うし、”精神に傷を負う”のなら彼のほうが余程《よほど》そうだろうと思うのだが、彼はカウンセリングも入院治療も不要だと撥《は》ね退《の》けたそうだ。
 ひとりで大丈夫だろうか。
 レトのカウンセリングなど受けたくないのはわかるけれど。



「怖い夢を見ていたでしょう? うなされていました」

 目を覚ましてからもずっと考え込んでいる僕に、フランは甲斐甲斐しく世話を焼く。
 柔らかい笑顔は幼い頃から接して来た彼女で。それが彼女の内なる感情から来たものではないとわかっていても、本当に僕のことを心配して、目を覚ましたことを喜んでくれているように見える。

「怖くなんかなかったよ。ずっと夢の中にいたかったくらい」

 怖くなんかなかった。
 あのフローロが本当に僕が作った幻想でしかなくても、それでもよかった。
 フローロが無事でいるのか、それすらわからない現実よりも、隣で笑っていてくれる夢のほうが余程《よほど》。


「……ヴィヴィがあんなことになったのですものね」

 フランは同情するように目を伏せる。
 彼女は僕が夢のほうがいいと思う理由を、あの惨劇のせいだと……精神に傷を負《お》ったからだと思っている。


 ヴィヴィが木化したあの日。
 彼《ヴィヴィ》がずっと僕の腕を掴《つか》んで離さなかったのは、一緒に木化すればいいと思ったからだろうか。
 ひとりで得体の知れないモノに変わるのが怖かったからだろうか。

 そんな彼《ヴィヴィ》は結局、クルーツォを道連れに選んで逝《い》ってしまった。
 フローロは「力が及ばなかったのは僕がすることではなかったからだ」と言ったけれど、僕は、ヴィヴィやクルーツォを助け出す力が欲しかった。
 



「レトに聞きたいことがあるんだけど」

 僕はフランの目を見る。
 以前、フランが僕に接触して来た時、彼女の中にはレトがいた。
 今もレトはフランを介《かい》して僕を見ているだろう。僕が隠していることを――あの時はノクトの邪魔が入って喋らずに済んだけれど、その後もレトの影はずっと僕に付きまとって――探っていた。
 今もそれは同じ。
 意識のない1週間、フランが寮の仕事を放棄して付きっきりで看病してくれた不自然さが全てを物語っている。”看病”だけではないだろう。僕の深層意識に入り込んで……寝静まった家に入り込んで家探《やさが》しするような真似をしていなかったとは言えない。

 僕がアポティやクルーツォに喋ったことを繋《つな》ぎ合わせれば、旅立ちの日以降、本物のノクトが行方不明になっていることもわかるだろうし、実際、知られていると思っていた。
 でもクルーツォはアーカイブを残していない。
 だから、レトはまだ全てを知ってはいない。

 わざわざ名指しで呼び出して尋ねれば、答える代わりに隠していることを教えろ、と言って来るかもしれない。
 けれど、そう思っているならなおのこと、僕の誘いに乗るはずだ。



 フランの目を見つめること数分。

「――何でしょう?」

 彼女の瞳孔《どうこう》がキュッと縮まった。チカリ、チカリ、と虹色の光が瞬く。
 レトが出て来た。ここから先は意識をしっかり持たなければ、レトに持って行かれる。
 僕は汗ばんだ両手を握り締める。

「……ヴィヴィは特殊な病気だと言ったでしょう? その病気に痣《あざ》は関係ある? 花みたいな形の痣《あざ》なんだけど」

 クルーツォは性徴《せいちょう》と痣《あざ》は関係ないと言った。
 ヴィヴィは木に変わる前、痣《あざ》が出たと見せてくれた。
 チャルマは痣《あざ》が現れた以降、突然ファータ・モンドの病院に転院すると称して姿を消してしまった。

 そして。

『どうも表示されていた成分より生命《いのち》の花が多く使われて――』

 クルーツォは例の栄養剤の成分がいつもと違うと言っていた。
 そのせいでヴィヴィに痣《あざ》が現れたかのような言い方だった。

 栄養剤は僕らが冬を越すためのもの。
 光合成では足りない栄養分を補うためのもの。
 僕らの生育に必要なもの。

『身長が平均より低かったのを気にして』

 チャルマは僕らよりも生育が悪かった。
 もし入院がてら生育を促進させるために、過剰に栄養剤を摂取させられたとしたら。
 いや。
 成長を促進させるために入院させたのだとしたら。

 行方をくらます前のチャルマは何処《どこ》となく大人びて見えた。
 その時は長い入院生活でやつれたか、顔の輪郭が髪で隠れているからそう見えるだけだと思ったけれど……子供から大人へと。数週間会わなかっただけでその違いからくる違和感に気付いてしまうほど、急激な成長だったのではないか?


「知っていたのですね、痣《あざ》のことを」
 
 フラン《レト》はじっと僕を見つめる。僕が鎌をかけているかどうか、他に知っていることがないかを見極めようとしている風にも見える。

「……痣《あざ》を持つ者は、いわばどちらに傾いてもおかしくない不安定な天秤のようなもの。悪いほうに傾けば不幸なことになりますが、良いほうに傾けば世界を守っていくための優秀な担い手として才能を開花させる。その発端《ほったん》として現れるのが痣《あざ》なのです」

 はぐらかされているようにも聞こえるけれど、でもそれは「痣《あざ》は栄養剤のせいではないのか?」とダイレクトに聞かなかった僕のせい。
 栄養剤のことを言えば、生命《いのち》の花にも言及しなければいけない。
 知るはずのない生命《いのち》の花を知っているとレトに言ってもいいものか。否《いな》。クルーツォが黙っていたくらいなのだから言わないほうがいいに決まっている。
 では。
 生命《いのち》の花と栄養剤のことを隠して、どうやってレトに問えばいい?


「優秀な担い手」
「そうです」

 チリチリと感じる違和感。
 今までなら”優秀な担い手”と期待されるのは”レトの学徒”だけだった。
 もしあの痣《あざ》が栄養剤のせいだとすれば、要は成長の過程で誰にでも出るもの、ということになる。その過程で木化するか、木化せずに生き残るかが”優秀な担い手”となるか否《いな》かの分かれ目だと言うのなら、”レトの学徒”は何のために必要だと言うのか。

 痣《あざ》が出ない僕は”優秀な担い手”として期待されていないのか?
 だから「ファータ・モンドに行く必要はない」のか?
 検査を希望した学徒でもない同級生たちの全てが彼《か》の地に行くことを許されたのに、僕にその資格がないのは痣《あざ》がないから以外に……違う。今は僕のことよりも真実を引っ張り出さなければ。

「……チャルマと……チャルマとフローロも痣《あざ》があったんだけど」

 イグニの戯言《ざれごと》とフローロの手紙のことを混ぜるとややこしくなるから、それは置いておくとして。 
 レトの言うことだけで推測するのなら、痣《あざ》を持ちながらも卒業まで此処《ラ・エリツィーノ》にいたフローロは天秤が良いほうに傾いた結果で、だから”優秀な担い手”として「今でもファータ・モンドで元気で」いる。
 だがチャルマは?
 突然姿を消したのは手を尽くした甲斐なく天秤が悪いほうに傾いてしまったからではないのか?

 誰もいないガランとした病室を思い出す。
 あの日どの病院に転院したのかアンドロイドたちに追及したけれど、彼らは教えるどころか病院から追い出した。それは。

「チャルマは、」
「察しのとおり、チャルマは木化しました。黙っていたのはあなたたちを傷つけないためです」

 僕は拳《こぶし》を握り締める。
 やはりチャルマが転院したなんて嘘だった。
 僕たちが帰った後、たったひとりで彼は発症したのだろう。誰にも救いを求めることができず、それどころか救ってくれるはずの看護アンドロイドたちの手によって寄ってたかって切り倒されたのだとしたら……どんなに辛《つら》くて恐ろしかったことか!

 そのことを僕たちが知れば、今の僕や学生たちのように動揺する。心に傷を受ける。そう判断して隠すことにしたのだろう。クルーツォが「守秘義務がある」と言ったのはきっとそれだ。


 が、問題にしたいのはそこではない。

 痣《あざ》が性徴《せいちょう》の証ではなく、ただ単に育った結果として現れるものだと言うのなら。
 あの栄養剤はほぼ全員が飲んだと言っていい。
 成長が促進されれば痣《あざ》も早く現れる。普通に生きていても何時《いつ》かは現れるであろう痣《あざ》の発現を早めたことに理由はあるのか?
 ただ単に容量を間違えただけか?
 予想に反した影響が出てしまっただけか?


 僕が黙っているのはショックを受けているからだと判断したのか、フラン《レト》は僕に手を伸ばす。宥《なだ》めるように頭を撫でる。

「安心なさい。この病気は感染しません」

 しないだろう。ただの成長なのだから。

「ヴィヴィやチャルマの悲劇はもう決して起こさせません。私たちはあの病気が安全に発症するよう、全力で薬の開発に取り組んでいるのです」

 きっと学期の途中で姿を消した同級生たちの中にも、性徴《せいちょう》ではなく痣《あざ》の発現が本当の理由だった者もいたかもしれない。
 しかし。

「……木化は特殊な病気じゃない」
「マーレ?」
「ヴィヴィは特殊な病気だけど感染しないから安心しろ、ってレトは言ったけど、本当は違うでしょう? 安全に発症するための薬を開発するってことは、僕たち全員が発症する可能性があるわけだ。それは”特殊”じゃない」


 数百年前、人類は突然変異した。新たな進化を遂《と》げた者だけが生き延びた。
 しかしその進化によって、疫病に打ち勝つ代わりに木化するかもしれない、と言う負の部分をも持ってしまったのだとしたら。


「ねぇレト。普通は病気は発症しないように抑えるものだよ? どうしてその方向に薬を開発しないの? どうして”安全に発症”するほうに行くの? 僕にはレトが発症することを望んでいるように見える。ただでさえ少ない僕たちが2分の1の確率で減る可能性を放置するどころか、促しているように見える」


『栄養剤ねぇ。本格的に植物になってきたな』

 ノクトは僕らをそう称したけれど、本当にそうなのかもしれない。

 

「かわいそうなマーレ」

 フラン《レト》は頭を撫でていた手をさらに伸ばし、僕を抱きしめた。
 アンドロイドの体は硬くて、服越しでも冷たくて。彼女が表したいであろう意図とは逆に、拘束されているように感じてしまう。
 と同時に、クルーツォの時は、と考えると……彼もアンドロイドだし、クリスマスの時にしろ商店街を連行される時にしろその腕の力は振り払えないほど強かったけれど、それでも拘束されているとは思わなかった。
 この違いは何だろう。信頼と言うのなら付き合いの長いフランやレトのほうが上だろうのに。


「あなたは心に深い傷を負ってしまっているようです。だから私を疑う。痣《あざ》の前に心を治さなければ。心の治療は時間がかかりますが大丈夫。私に委《ゆだ》ねれば全てが解決します」

 レトは痣《あざ》よりも心の傷を心配している。
 痣《あざ》による木化は、レトにとっては重要視するものではないのだろうか。”安全な発症”はもう実用段階に入っているのだろうか。

「そうすればフローロにも会えます」
「フローロ、に」


『きみがどんな選択をしても、僕は恨んだりしない』

 夢の中でフローロはそう言った。
 自分の後を追う必要はない、と、そう言いたげだった。
 あれは僕の潜在意識がフローロの後を追って研究職に進むことを拒否してることの表れなのか、それとも”夢のお告げ”のようにフローロの意思なのか。

「フローロはまだ元気でいるの!? 世界のために尽くしてくれてるの!?」

 彼はまだ木化していない。でもだからといって安心はできない。
 イグニの戯言《ざれごと》のように、危険に晒されているのか。あの手紙にあるように、いずれやって来る僕たちを保護しようと動いているのか。

 前に尋ねた時もレトは「フローロは元気にしている。世界のために尽くしてくれている」と言っていた。自分に敵対する者に対する評価ではない。
 イグニとレトと、どちらが真実を言っているのか。手紙の内容はイグニに軍配《ぐんばい》が上がるが、もしそうなら彼に危険をもたらすのは……レト、ではないのか?

 唾《つば》を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
 フラン《レト》の耳にも届いたかもしれない。


「……もちろんです。彼のおかげで飛躍的に向上しました」

 この言葉は嘘《うそ》か。真実か。
 機械は嘘《うそ》を吐《つ》くことができない。それはレトだって同じだ。もしレトが私利のために平気で嘘《うそ》を吐《つ》くようになったら世界は、人類は終わる。レトを作った先人がそんなことを許すはずがない。


「あなたにも期待しているのですよ。あなたは”レトの学徒”なのですから」
 
 信じられない。
 ”レトの学徒”になって約半年、仕事と言えば雑用ばかり。ヴィードが抜けても後継が選ばれることもなく、今度は学徒でもない痣《あざ》持ちに”優秀な担い手”となることを期待していると言い出した。
彼女《レト》が期待する理由の中に”レトの学徒”であることは含まれていない。




 ノクトが顔を見せたのは、僕が目を覚ましてからさらに1週間ほど経《た》った後だった。
 さすがにそのあたりまで来ると僕も平常運転に戻って登校もしていたのだけれども、ノクトの姿は何処《どこ》にもなく。引っ越し先とされる寮の部屋もずっと留守だったから、最初は拒否したものの気が変わって検査に行ったのだろうと思っていた。

「元気そうだな」

 ノクトは目を細めて僕の頭をワシャワシャと搔《か》き乱す。あれだけ鬱陶《うっとう》しかったその行為に安心感すら抱いてしまうなんて、僕も随分と絆《ほだ》されたものだ。

 それにしても前文明では何かにつけて他人の髪を掻き乱すものなのか?
 ヴィヴィは髪をサラサラ艶々《つやつや》に保つことに異常な執念を抱いていたけれど、ノクトの妹が本当にヴィヴィに似ているのなら嫌がられるどころか顔面グーパンチは必至。他人ごと、しかも数百年前のことながら彼の兄妹仲が心配になる。

「ちゃんと栄養とって、ちゃんと寝てる?」
「ああ」
「変な本読んだり、変なこと検索したりしてない?」
「……お前は俺を何だと思ってるんだ」

 フランも通常業務に戻り、別室にいる理由もなくなった。
 けれど彼《ノクト》は戻って来ない。来月には卒業だし、今更引っ越し直すのも手間だと言う。
 2人部屋はプライバシーなどないも同然だし、自称・引き籠《こも》りの身には僕が想像する以上のストレスが溜まっていたのかもしれない。
 まして気心が知れていると思っているのは僕だけで、彼からすれば僕は幼馴染みでも何でもない、数ヵ月前に出会ったばかりの他人。それも入れ違いに行方不明になった幼馴染みの件を隠すために利用しようとする、敵か味方かと問われれば”何時《いつ》敵に寝返ってもおかしくない、味方面《づら》した第三者”でしかないのだから。


「ごめんな」

 髪をぐっちゃぐちゃに混ぜて満足したのか、ノクトはそう言うと頭を下げた。
 
「何が?」

 僕の頭をこんなにしたことか?
 部屋に戻って来ないことをか?
 それとも自分が部屋を移動すれば僕がフラン《レト》とふたりきりになると知った上で、移動を優先したことか?

「何って、ヴィヴィがあんなことになって」

 しかしそのどちらでもなかった。
 僕は小さく溜息を吐《つ》く。ノクトにとっての僕はあくまでレト側の人間な《味方ではない》のだから、部屋を移動したことで罪悪感を持つはずがない。

「ノクトのせいじゃないでしょ」
「いや、ええと……俺、見てるだけでお前のこと助けられなかったし」

 見ているだけと言うけれど、いきなり人間が木になって枝を伸ばして来たら、恐怖で動けなくなるのが普通だ。
 自分《ノクト》が動けなかった時に、助けに入った者がいて。
 自分《ノクト》が五体満足なのに、助けに入った者は腕と足を失って。
 我が身かわいさに何もしなかった卑怯者、と思われているであろうことへの弁明のつもりかもしれないが……運動神経がいいわけでもないノクトには最初から期待などしていない。
 それに。
 僕のためにノクトが怪我されても困る。クルーツォみたいに手足を失うことになったり、まして命を落としでもしたらなおのこと。


「ワクチンの件は考え直しだね」

 これ以上しなくてもいい反省を並べられても困るので、僕は話題を変える。

 頼みの綱だったクルーツォがいなくなったことで計画は白紙に戻ってしまった。
 「0《ゼロ》番花なら効果があるかもしれない」という言葉だけが残っているが、運よくそれを手に入れたところで僕たちではワクチンを作ることなどできない。
 もともと能登大地が元の世界に戻ること前提の計画だから、その前提が確立されていない時点で白紙も何もないのだけれど。

「俺はこの世界で生きて行くって決めたんだ。それでいい」

 ノクトは最初から乗り気ではなかったから、これ幸いと思っているだろう。
 ”引き籠《こも》りの30歳”と自称する時点で、向こうの世界であまりいい思いをしてこなかったのが垣間見れるし、もしそうなら「皆のためにワクチンを持って戻ろう!」なんて提案は大きなお世話以外の何ものでもない。

「本当に?」
「そう言っただろ? それに、前の世界でも聖人の生まれ変わりだとか、前世の記憶がある子供とかいたけど、誰ひとり前世に干渉なんてできなかったんだ、俺にできるはずがない」

 ワクチンを持って帰らないことで人類が死滅してしまったらこの世界も消える、と思っていたけれど、クルーツォが言っていたようにそれは他人の役目なのかもしれなくて。
 初めて見る”転生者”に勇者だの救世主だのと言った厨二《ちゅうに)設定を期待していたのは僕のほうだったのかもしれない。



「ま、その話は置いといて。動けるならちょっと出かけないか?」
「何処《どこ》へ」
「ほら、夏に行った……」
「……水族館?」
「そう。今、無料開放してるんだってさ」

 僕らがノクトを引っ張り出すために海水浴に誘ったように、外出すれば僕の気が晴れると思ったのだろうか。
 けれど「無料だから行こう」なんて誘い方、相手によってはその程度の価値しかないのかと気を悪くするものだし、そうでなくともオフシーズンの水族館なんて閑古鳥の巣窟《そうくつ》。
 「疫病が流行《はや》った時に水生生物の多くが死滅してしまった。あの場所にいるのは似せて作られた偽物だ」、「生き残った生物の細胞を培養技術で増やしたクローンしかいない」なんて噂がまことしやかに流れる中で行きたいと思う学生などいやしない。

 僕たちが水族館に求めるのは海水浴ができる場所のみ。
 ノクトはそれを知らない。海水浴の時は展示館内には入らなかったし、彼が知る前文明の水族館はもっと楽しいものだったのかもしれない。

「そうだね」

 でも彼といられるのもあと2ヵ月。水族館には申し訳ないが、数少ない思い出のひとつになってやるのも僕の役割かもしれない。
 ファータ・モンドに行ってしまえば、ルームメイトとして共に暮らすことはきっとない。




 夏が近付いてきているせいか、空は少しだけピンクがかった色をしている。
 前文明の頃の空は青かったと聞いているが、その時も季節によって空の色は違っていたらしい。
 冬は薄く溶かしたような青。
 夏ははっきりと彩度の高い青。
 そう考えると、彩度の高い青と町の外を覆っている薄茶《砂嵐》をパレットの上で混ぜ合わせれば今日の空みたいな色ができる気がする。

 そのピンクがかった空を、何かが通り過ぎた。

「……あれ?」

 遠いからはっきりしなかったが、片手で持てるほどの大きさだったように思える。

「鳥じゃねぇのか?」
「鳥?」

 僕の視線にノクトが同じように空を見上げる。
 あっさり「鳥」と言い当てたのは彼の記憶によるものなのだろう。この世界に鳥はいない。

 いないのだ。
 では、あれは……?

「鳥ぃ!?」
「どうした!?」

 いきなり声を上げた僕に、ノクトが怯《ひる》む。

「だって鳥って。もうずっと前に絶滅したんじゃなかったの!?」
「そうなのか?」
「そうだよ!」

 能登大地にとっては見慣れ過ぎて何も感じないのだろうけれど、これって歴史に残る発見だったりしないのか!? 
 何故《なぜ》鳥が。
 何処《どこ》かで生きていたのだろうか。
 早くレトに知らせないと……! 

 僕はセルエタの撮影機能を呼び出し、空に向ける。
 が、その頃にはもう鳥影は何処《どこ》にもなかった。

「……いない」
「また見られるだろ」
「そんな簡単に言うけどね、今まで鳥も魚も、」
「水族館みたいにどっか《何処か》の町で培養だか繁殖だかしてるのかもしれねぇだろ? 海もないのに魚作ることに比べれば、鳥も動物も陸生だから生活環境はあるわけだし、そっちのほうが楽かもしれん」

 そう説くノクトにも一理ある。
 海はないけれど、空と陸はある。もし魚の復活に成功したところで彼らは狭い水槽で生きるしかないけれど、鳥は空を舞えるし、動物は陸を駆けることができる。
 ただあの環境《灼熱と砂嵐》がネックだけれども……実際に飛んでいる姿を見れば、それすら乗り越えた種が現れたのだと信じても罰は当たらない。


「ノクトは本物の魚も見たことがあるんだよね?」

 興奮冷めやらぬままに尋ねてしまって、はた、と我に返る。
 本物のノクトなら僕と同じ生粋《きっすい》のピーポ《レトの子供》だから、本物の魚を見たことなどあるはずがない。
 僕は彼をノクトではない――転生者・能登大地であることを前提にして喋っている。本人は”ノクト”になろうとしているのに、僕がその足を引っ張っている。
 鳥ではないかと予想するのはその形を本で見たからだという逃げ道があるけれど、「本物の魚を見たことがあるんだよね?」は完全にこの世界の住人に向けての質問ではない。
 ノクトもそれをわかっているのか、返事をしない。

 ああ、まただ。
 たまに親しく寄って来るから錯覚してしまうけれど、ノクトにとっての僕は決して味方ではない。
 こうして誘い出したのも、フランからどんな接触があったかを聞きだすためでしかない。


「……魚、好き?」

 気を取り直して僕は問いを変える。今度は無難だ。この世界でも通用する。

 無料開放しているとは言え、興味がなければ見に行こうとは思わない。
 ヴィヴィなんて海水浴にはあんなに乗り気のくせに、水族館そのものは「水が腐った臭《にお》いがする」と嫌悪を隠しもしなかった。
 それに比べれば無料とは言えわざわざ足を運ぶのだから、嫌いではないだろう。この世界の水族館に失望しなければいいのだが。
 

「そうだな。刺身は好きだな」
「サシミ?」
「生魚の切り身だ。トロっていうマグロが脂《あぶら》が乗って美味《うま》い」
「美味《うま》い、」

 だがしかし、予想外の返答に面食《めんく》らう。
 能登大地は前文明の人だから魚と言えば食べる物という認識のはずだし、そう考えればおかしくはないのだが、「ノクトとして生きて行く」と言った手前、その返事はどうなの? と思わなくもない。他の生き物の肉を食べたことのない僕には「美味《うま》い」と言われてもまるで想像できない。

 そう言えば以前、彼は「夏は焼肉をする」と言っていた。
 彼の思い出にはいつも肉類を口にする光景があった。


「魚が食べられないと寂しい?」
「んー、そうでもないな。なんせ食べなくても良くなったから食欲が湧《わ》かない」
「そう言うもの?」

 食べ物を、固形物を口にしてみれば僕もノクトの気持ちがわかるのだろうか。
 僕は舌で歯の裏側から歯列をなぞってみる。飲み込んだら胃を壊すかもしれないけれど、味を感じるくらいなら僕にもまだ残っているはず……そう思いかけて、止まる。
 生き物の肉なんて食べられるわけがない。だって僕は。

「……何時《いつ》か、僕にも食べる機会があるかな」
「ああ、食おうな。焼肉も刺身も」

 絶対に叶うことのない望みと、絶対に果たされることのない約束。
 それをさも実現可能な体《てい》で交わすのは、上《うわ》っ面《つら》の友情ごっこに慣れた僕たちには似合いの会話だ。
 そんなことを考えてしまうのは、僕も何時《いつ》木化するかわからない――ノクトの目から見た僕は”植物の化け物《人間ではないもの》”でしかないのだと、そう思うからだろう。


 生き物の肉なんて食べられるわけがない。
 だって僕は、植物な《人間じゃない》んだから。



「本物見たら、どっか行った食欲も帰って来るだろうしな」
 
 ノクトは鳥のいた空を見上げて呟く。
 此処《ここ》で生きて行かなければいけないから。戻れないから。と腹を括《くく》ったらしき台詞《セリフ》は吐《は》いたけれど、戻れるものなら戻りたいに違いない。
 此処《ここ》では何も食べられないし、”人間”もいない。




 案の定、無料に釣られる学生など僕たち以外にはいなかったようで、水族館に僕たち以外の人影はまるで見当たらない。出入口近くに設《もう》けられているお土産売り場にすら誰もいないところから察するに、もう夕刻だから、という言い訳は通用しなさそうだ。
 入場ゲートを彩《いろど》る魚の寒々《さむざむ》しい笑顔に、この先待ち受ける閑散とした光景を想像しつつ、僕はノクトに続いてゲートをくぐる。


 ”淡水に生息する虫と魚”と書かれた展示パネルの下、数百年前には生きていたであろうそれらの”絵”が延々と続き、やがて順路は闇に呑み込まれた。
 通路の両側に沿って画用紙大の水槽が並ぶ。
 蒼白い光に照らされて揺れるイソギンチャク。砂に混ざり込んで動かない虫。硝子《ガラス》面に貼りつく小さな巻貝……と、子供心にまるで響いてこない生き物が、名前もないまま展示されている。自力で動こうとしないそれらは死骸の群れ――ホルマリン漬けの標本が並んでいるようだ。

 足音を吸い込んでしまう青カビ色のカーペットと耳鳴りのように聞こえる空調の音は、初等部の学校行事で何度か連れて来られた時の記憶のまま。
 水族館側のスタンスは”水生生物に親しんでもらおう”ではなく”我々の長年の培養の成果を見るがいい”ではないのかと疑ってしまうほど、そこに歓迎ムードはない。
 子供心にも楽しい場所ではなかったが、何年か経《た》った今でもやはり気が滅入るばかりだ。

「暗いところは怖いのか?」
「ち、違うよ!」

 黙ったまま後に続く僕をノクトは別の意味に解釈したらしい。
 子供でもあるまいし、と続けそうになった脳裏に、その初等部の行事で此処《ここ》に来た時のことが浮かんだ。

 初めての寮生活。
 有無を言わさず組み分けられた同室の同級生。
 人見知りで馴染めなかった僕と「同室だから」と言うだけでセット扱いされたノクトは、その時もやはり僕の隣にいて、

『暗いところが怖いんだ?』

 と意地悪く言いながらも手を繋《つな》いでくれた。


 どうして今になってそんなことを思い出したのだろう。このノクトはあのノクトとは違うのに。
 汗ばんだ掌《てのひら》を上着の裾《すそ》で拭《ぬぐ》い、僕はそのままポケットに突っ込む。


「此処《ここ》の水槽は小さいな」

 僕の反論など意に介した様子もなく、ノクトはもう水槽に興味を向けている。彼の中にはあのノクトの記憶などないのが見て取れる。

「俺の世界の水族館はさ。教室くらいのデカい水槽がこう、ドーン! ドーン! って置かれてて」

 あるのは過去《能登大地》の記憶だけ。
 
 教室大の水槽なんてものは想像もつかないので、僕は見るともなしに貧相な水槽に目を向ける。
 両手で抱えれば持ち上げられそうなほどの大きさしかない水槽群は、大きさの代わりに数で勝負をかけようと言う苦肉の策だろうか。
 が、仮に教室大の水槽があったところで、展示物がこれでは水しかないと苦情が来るだけだろうから、ここは小さな水槽で良かったと言うべきかもしれない。
 

「それにしても、魚らしい魚って全然いないな」
「そう?」
「最初っからイソギンチャクだったろ。こう、泳ぐ魚はいないのか?」
「ノクトが見たい魚ってのがどんなものかわからないけど、多分絶滅したんじゃないかな」
「そっか……人間以外はこんなのしか残ってないんだな」 


 その人間も残ってないんだよ。
 口から出てきそうになったその言葉を飲み込む。


 水生生物の多くが死滅したこの世界では大きな水槽など必要としない。
 育て、繁殖させるのは建物の外にある”海”で、水槽に入っているのは専《もっぱ》ら”見せるため”のものだから。
 その説明でずっと納得していたけれど、考えれば展示されていない生物は”海”にもいないだろう。本当にかなりの数が死滅してしまったのだと改めて思う。

 だからだろうか。
 青白い光の中で漂《ただよ》う生き物はどれも生気《せいき》に乏《とぼ》しく、針で刺されたまま朽ちた昆虫標本や、理科室の棚の最上段に並んでいる瓶詰と同じ属性の臭《にお》いがする。


「魚だけじゃない。虫も動物もいないよな」
「外の世界にはいるんじゃない? あとはファータ・モンド」


 生物は多くが死滅して、今残っているものも数を極端にまで減らしている。
 多分、人間だけではない全ての命が管理され、これ以上数を減らさないようにしているのが現状だろう。

 この町は子供を育てることに特化した町だから、希少な生き物を置いたところで見せる以外の意味を持たない。置くとすればそれ専用の施設や世話役――要するに”子供を育てること”とは無縁のもの――を増やさねばならなくなるし、”見せ物にされる”のは案外にストレスが溜まるもの。
 本物と触れ合うのは教育上で大事なことかもしれないが、子供が興味本位で触れば死なせるリスクも上がる。だからこの町にはそのような生き物はいないのだ。
 でも。

 来る途中で見た鳥影を思い出す。
 世界は少しずつ元の姿を取り戻そうとしている。多くの先人が少しずつ積み重ねた結果が少しずつ現れてきている。

「……またファータ・モンドか」

 しかしノクトは聞き飽きた、とばかりに口元を歪《ゆが》ませた。

「俺がいた世界の諺《ことわざ》で”井の中の蛙《かわず》大海を知らず”って言葉があるんだけど、それだな。この水槽が町。中にいるのがお前ら。外に世界があることも飼われてることも知らないで、波風も何も立たない世界で平穏に暮らして平穏に死んでいくんだ」
「外に世界があることくらい知ってるよ」
「ファータ・モンドだろう? 此処《ここ》と、あんな目と鼻の先にあるような町だけが世界だとはまさか思ってないだろうな?」
「他にもあるよ。ただ……知らないだけで」

 ファータ・モンド以外の町が何処《どこ》にあるのかも、どうやって行くのかも此処《ここ》では教えてもらえない。
 ファータ・モンドですら辿《たど》り着けない可能性があるのに、此処《ここ》から見ることもできない町に行こうなんて愚かな考えをしないよう、その場所は隠されている。
 何時《いつ》かは知る。でも、今は知る必要がない。

 今の僕たちは蛙《かわず》かもしれない。
 けれどそれはレトが危険から僕たちを守るための措置。僕たちはあえて蛙《かわず》の位置に甘んじているだけだ。

「きみの世界とこの世界は違う。外の情報を出して煽《あお》って、それでどうなるの? 馬鹿な子供が干乾《ひから》びるだけじゃない」
「だから知る必要がないのか?」
「此処《ここ》では。でもファータ・モンドに行けば変わるよ。大人になれば何処《どこ》へ行こうとも自己責任なんだから」
「レトがそれを許すと思うか?」
「危険な行為なら許さないよ。でも大人になれば、」
「自己責任、か? どうも認識が平行してるな」

 ノクトは僕に背を向けると水槽が居並ぶ中を進んでいく。


 機嫌が悪いのは期待していた水族館と趣《おもむき》が違い過ぎたからだろうか。
 ノクトにしてみれば巨大水槽で悠々と泳ぐ魚――サシミ……マグロと言ったか――が見たかったのだろう。
 そう思うと、この世界側の人間として申し訳なくも思う。

 けれど、それが今の世界。フローロが海の再生を目指しているように、この町を巣立った多くが失ったものを取り戻そうとしている。
 魚も動物も虫も。僕たちの代では本物を見ることはできないかもしれないけれど、何時《いつ》かは。


「――これなんかお前らっぽいな」

 前を歩くノクトは、とあるひとつの水槽を指さした。
 白い網のようなものの中に海老《エビ》の玩具《おもちゃ》が入っている。本物の海老《エビ》は死滅したか、見せられるだけの数がいないのだろう。

「なに?」
「カイロウドウケツだ」

 偕老同穴《カイロウドウケツ》。老いても共に暮らす夫婦の姿をこの海老《エビ》に見立てた先人がそう名付けたらしい。
 しかし。

「共に育ち、共に暮らし、共に死ぬ。この世界から出ようと思った時にはもう手遅れで出ることは叶わない、か。皮肉だな」

 蔑《さげす》んだ声に、『逃げて』と書かれたフローロの手紙を思い出す。
 『もしファータ・モンド行きが決まってしまっているのなら』というあの文が、「手遅れで出ることは叶わない」に重なって聞こえる。


「……さっきから何が言いたいんだよ」
「俺たちは人間だ」
「だから?」
「機械に飼われて、世界も知らないで、それで人間って言えるのか?」
「彼らがいなかったら僕たちは生きていけないって、何度言ったらわかるの?」


 ノクト《能登大地》はレトが嫌いだ。
 彼の世界のAIは”人間に使役されるもの”――”人間に危害を加えず”、”人間に絶対服従”し、暴走すれば人間の手によって終止符が打たれるものでしかない。
 だから僕らがレトの指示に従い、レトやアンドロイドを家族と思うことに共感ができないのだろうけれど……それこそ先入観ではないのか? 此処《ここ》で生きて行くとは、先入観を捨て、この世界を受け入れること。機械と共に生きることだ。

 心配しなくとも、人工知能が暴走したり敵対したり、そんなのは本の中だけ。
 色眼鏡で彼らを見ているのはノクトじゃないか。





 閉館を伝える声が聞こえる。
 此処《ここ》にまで聞こえなければ意味がないのに、その声はやけに遠くて、硝子《ガラス》と水を通した向こう側で言われているようで。
 声を合図に水槽の青い照明が落ちていく。
 この部屋の明かりは全て水槽の照明で賄《まかな》っているから、全てが消えてしまったら真っ暗になってしまうだろう。閉館前にそこまではしないだろうけれど。

 照明のせいか、ノクトが沈痛な顔をしているように見える。
 いや、照明のせいだろうか。彼の意図を汲《く》もうとしない僕に心底愛想を尽かせているだけかもしれない。


「ノクト?」
「……すまない。お前とはここまでだ」
「え?」
「お前が寝てる間、俺もいろいろ考えたんだ。で、することができた」

 ノクトは背を向けた。
 機嫌を損《そこ》ねたのだろうか。頭ごなしに否定したし、そうでなくとも僕は前から敵みたいなものだし、改めて味方にはなり得ないと思われたのかもしれない。
 でも。

「……何それ」

 何を考えた?
 何をするつもりだ?
 ワクチンのことも前世に戻ることもやめて、この世界で2度目の人生を生きて行くだけなのに、どうしてそんな別れの台詞《セリフ》みたいなものを吐《は》かれなきゃいけないんだ?
 ”ノクト”として生きて行くと前から言っているのに僕が何時《いつ》までも”能登大地”のつもりで話しかけるから、ボロが出る前に離れると、そう言うことだろうか。

「一緒にいたくないならそれでいいよ。部屋だって別々で構わない。ノクトはノクトとして生きて行けばいい。そんな宣言しなくたっていい。そうだろ?」

 チャルマが消え。
 ヴィヴィが消え。
 クルーツォが消え。
 今度はノクトがいなくなる。
 でもそれは覚悟していたことだ。ファータ・モンドに行けば離れ離れになって2度と出会うことはないという意味でなら、死別することと何ら変わりない。
 別れが数ヵ月早まっただけ。
 何年か後には、きっとその数ヵ月の差だって忘れてしまう。
 
「”ノクト”の身代わりとして生きろ、ってか?」
「そんなこと言ってない」
「そうだろうな」

 自嘲《じちょう》するように嗤《わら》ったノクトは、おもむろに自身のセルエタを外すと、そのストラップを僕の首に掛ける。

「な、に?」
「それは元々お前のノクトのだ。俺のじゃない」

 相手にセルエタを渡すのは、ファータ・モンドに行ってから再会するための約束の証。
 でもこれは違う。これは――。

「ノクト待っ、」

 僕の制止を振り切って水族館を出て行ったノクトは、そのまま、人混みに紛《まぎ》れるようにして消えてしまった。