20-5 精霊の国 再び




 その頃。
 ルチナリスたちの目の前には牧歌的な光景が広がっていた。
 つい今しがたまでいた暗い森とは真逆の明るい場所。高い木々に囲まれてはいるが、その牧歌の中に影を落とすことはない。
 広場のようなその場所に丸い扉が付いた切り株や岩が点在している。
 腰丈ほどの低木が扉と扉の空間を埋めるように生えている。
 そして自分たちが立っているのはその広場の入口。両側には門柱のように太い木があり、「エルフガーデン」と書かれた小さな板切れが――。

「ちょっと待て」

 立ち止まった師匠《アンリ》がさも頭が痛いと言いたげに髪を掻きむしった。

「どうかしたんですか?」
「どうもこうもあるか!」

 師匠《アンリ》は執事《グラウス》の上着の襟を掴《つか》んだ。

 執事《グラウス》を殴るつもりか!? と思いきや、彼はその懐から半分寝ぼけまなこの精霊を掴み出した。
 執事の危機は脱したものの、その握り潰しそうな形相に今度はトトをどうする気だ!? とルチナリスの心に動揺が走る。警戒と緊張が張りつめる中、師匠《アンリ》は掴んだまま、トトを口元に近付けていく。




 食べるつもりか!?
 いやまさか、ちゅーするつもりよ! でもなんでちゅー!? オッサンからちゅーとかイヤァァァァァアアア! ……と……支離滅裂な感情が吹き荒れる。
 そんな中、師匠《アンリ》は、

「起きやがれ!」

 とその耳元で怒鳴り声を張り上げた。



 ……なんだ、普通すぎてつまんない。
 じゃない! 例に漏れずトトも精霊っぽい長い耳の持ち主だからきっと鼓膜が破れそうなほど響いたに違いない。いや、外側が長いだけで鼓膜は同じだろうか。でもあの声を耳元で出されたら。


「~~~~~~っ! 何しやがんだァクソゴリラぁぁぁぁあああ!!」
「うるせえ! テメェのせいでこんなところに飛ばされたんじゃねぇか!!」


 そんなことを考えている間にも、トトと師匠《アンリ》の口論は続いている。
 幸か不幸か、ちゅーするかもしれない、という予想はトトの脳内にはなかったようだ。
 この不仲状態でそんなことを思ったら口論でなど済まない。人類か精霊かのどちらかの種族が丸ごと消失する事態に発展しかねない。


「ああ!? 俺のせいだってのか!?」
「お前以外の誰のせいだ!」


 気持ちよく寝ていたところを叩き起こされた精霊といかつい中年男の間で勃発《ぼっぱつ》した口論に口を挟むことができない。「どうしてトトのせいなの?♡」なんて聞いた日には無言で殴り飛ばされそうだ。

「え、ええと」

 しかしずっと見ているだけでは埒《らち》が明かない。
 喧嘩も止めたい。
 が、自分が間に入るのは嫌だ。何か良い策はありませんか執事さん、と同じように目の前のヒートアップを見守っている執事《グラウス》にルチナリスは救いを求める目を向ける。


「……精霊そのものを鍵にする時は、精霊が目的地を思い描いていなければ、とんでもないところに繋《つな》がる、と教えましたね。それが起きてしまったようです」


『――どうも精霊そのものを鍵にする時は、精霊が起きてしっかりと目的地を思い描いていなければ、とんでもないところに繋《つな》がってしまうらしいんです。夢で見ていた場所、とか』


 喧嘩を止めたい、という思念《テレパシー》は相変わらず伝わらなかったようだが、第二希望の「どうしてトトのせいなの?♡」は伝わったようだ。
 執事《グラウス》の説明に思い出したことがある。
 精霊の力があればいいのだから寝ていてもいいのでは? との問いに対して、トトを起こそうとしていた執事《グラウス》はそう言っていた。
 あたし《ルチナリス》が放り投げたことで(幸いにも)トトを目覚めさせることには成功したが、その後、悪魔と鉢合わせして慌てて扉《小屋》に飛び込んで……そう言えば、トトに「魔界に行きたい」と教えてはいなかったような。


「それで此処《ここ》は?」
「エルフガーデンです」

 すぐさま返事が返ってくるあたり、執事《グラウス》にとっては馴染みのある場所なのだろう。
 そう言えばエルフガーデンと言えば、あたしがロンダヴェルグにいる間、執事《グラウス》たちがトトを受け取りに行った場所ではなかっただろうか。確か……別名、精霊の……

「……精霊の……国?」
「ええ」

 そう言われて改めて目の前の光景を眺めて見れば、確かに「いかにも精霊の国!」と主張している。
 点在している扉は遠近法の関係で小さく見えるのではなく、実際、かなり小さいようだ。それこそトト《精霊》サイズ。

「へえぇぇぇぇええ」

 思いもかけず精霊の国に来てしまった。
 ルチナリスは物珍しげに周囲を見回す。そう言えば以前、勇者《エリック》がノイシュタイン城で道に迷った時に槍を持った精霊に追いかけられたとかナントカ言っていたけれど、よもや自分がこの地に足を踏み入れることになるとは。ちょっと、いや、かなり感動する。

 だが、そんな前向きでいるのは自分だけのようだ。
 そうだろう。いざ魔界へ! というところまで来て、いきなり別の場所に飛ばされたのだから。
 精霊と魔族は付き合いが長いらしいし、だったら此処《ここ》から魔界に行くことも可能ではないかというのはきっと素人《しろうと》考え。そんな簡単にどうにかなるなら師匠《アンリ》もあれほど怒るまい。
 と言うことは?

 もしかして此処《ここ》から魔界ってもの凄く遠い?
 それか行くまでに難関がいくつもある、とか?


 勇者がノイシュタイン城から精霊がいる地に迷い込んだ時は、何の問題もなく帰って来た。
 そう、帰って来たのだ。それから考えれば、此処《ここ》の何処《どこ》かにノイシュタイン城に続く抜け穴はある。あるだろうけれど、それが何処《どこ》にあるかはわからない。
 それっぽい穴を見つけたとしてもノイシュタイン城に繋《つな》がっているとは限らないし、第一、奴《勇者》の強運は普通ではない。


「あ、でもグラウス様たちは此処《ここ》から戻ってきたんだから帰り道わかりますよね?」

 ルチナリスは執事《グラウス》に期待に満ちた目を向ける。
 執事《グラウス》たちはトトを手に入れてロンダヴェルグに戻って来た。だったら、あの森に、とは言わないがロンダヴェルグに戻る道《ルート》はわかっているはずだ。

 カリンとウィンデルダがいない今、空路一直線のウィンデルダと違い、徒歩と馬車とであの森にまで辿り着くには日数も倍以上かかるだろう。婚礼の儀には間に合わないに違いない。
 でも魔界入りが遅れるということは、言い換えれば戻って来た勇者やソロネが合流できるかもしれない、ということだ。それに、運よくまたカリンたちに会うことができれば――ウィンデルダに頑張ってもらえれば――(勇者たちと合流は無理でも)婚礼の儀には間に合うかもしれない。


「あの時はジルフェにウィンデルダ山脈に飛ばされましたから、此処《ここ》を出る方法はわからないんですよねぇ」
「ジルフェ?」
「四大精霊のひとり、風のジルフェです。上から目線で性格の悪いお姉様ですよ。でも、悪口を言っていても姿を見せないあたり、今日は此処《ここ》にはいないようですね」


 そしてさりげなく此処《ここ》から出る方法はわからないらしい。
 師匠《アンリ》がトトを怒鳴りつけたくなるのもわかる。わかるけれどもこの場合、タイミングが悪かったと言うか不幸に不幸が重なったと言うか、とにかくトトに非があるとは言えない。


「どうすれば、」
「まぁ此処《ここ》で突っ立っていても怒鳴り合っていても何も解決しないな。むしろ精霊《仲間》に危害が加えられている様を見せつけられて、此処《ここ》の連中からの心証はかなり悪くなっているおそれもある」

 ルチナリスの呟きに今の今まで黙っていたミルが口を挟んだ。
 どうにもいい方向には向かっていないようだ。

「え? ってことはどうすれば!?」

 もしかして、あたしたち詰んだ?
 ミルの推測にルチナリスは唖然と集落に目を向けた。先ほどは全く気が付かなかったが、そう思われていると指摘されると何となく空気に敵意を感じる。




「そうでなくとも最近は精霊の密猟が横行しているそうです。なのでエルフガーデンは全ての繋《つな》がる道を閉じてしまったと聞きました」
「え゛っ」

 精霊たちから歓迎されていない空気にさらされる中、さらに執事《グラウス》が追い打ちをかける。
 何よそれ。だとするといきなり現れたあたしたちって「ただの不審者」ではなくて「危害を加えに来た不審者」にしか見られてないってことになるんじゃないの!?

 それはマズい。心証マイナススタートで、しかも来るなり精霊を捕まえて怒鳴り合っている様《さま》を見せつけて、これで「あたしたちは味方よ♡」なんて言ったところで誰が信じると言うのだろう。
 少なくともこの入口から1歩でも足を踏み入れたら駄目だ。踵《きびす》を返して去ったほうが無難だ。
 ルチナリスは背後を振り返る。

「……」

 が、考えが甘かった。
 振り返った先には道はおろか何もない。ただ真っ白い雲のようなものが広がっている。その雲は地平線の彼方まで続き、真っ白い空(と思われる)空間に溶け込んでいる。
 此処《ここ》をどう歩いたら、いやその前に歩けるのだろうか。
 ズボッ! と突き抜けてそのまま真っ逆さまに落ちていってしまいそうだと思うのは雲のような見た目のせいだろうけれど、妄想で済む保証はない。

「どうしましょう……」

 前にも後にも進めない。
 一か八かで雲の上を行くか、エルフガーデンの何処《どこ》かにあるはずの「封じられている道」を探すか。前者は下手をすると命にかかわるし、後者も場合によっては命にかかわる。
 だが。

「なに、簡単だ。このままエルフガーデンに入ればいい」
「はいぃぃい?」

 何を困る必要がある、とばかりにあっさりと言い放ったミルをルチナリスは思わず凝視した。

 何か秘策があるのですかお姉様。と言うか彼女の場合、何でも剣で解決しそうで逆に怖い。武力で脅すつもり、いや、その前に精霊をせん滅してしまいそうだ。自分たちに悪い心証を抱いている精霊と和解の道を探ろうと言うのではなく……。

「そこまで外部との接触を避けて暮らしているのなら、此処《ここ》に入ろうとした段階で中の連中は我々を排除しに来る。とは言え彼らは非力だ。武力ではかなわないだろうから、何処《どこ》か別の場所へ飛ばそうとしてくるだろう。閉鎖しているとは言え、此処《ここ》には魔界にも人間界にも繋がる道がいくつもあるから、そのどれかに誘導しようとするはずだ。
 我々は騙されたふりをしつつ、其処《そこ》から出て行けばいい。今までの理論から考えるに、トトが行き先を魔界と認識してくれればおのずと魔界に辿り着けるはずだ」
「それもそうですね」

 そんな簡単にいったら警察なんていらないわよ! と呆れかけたルチナリスだが、精霊せん滅作戦よりはましかもしれない。
 何より執事《グラウス》が賛同した。アドレイやスノウ=ベルといった精霊たちと長い付き合いがあるし、ジルフェという偉い精霊とも一悶着あったようだし、トトも彼が連れて来たわけだから、その仲間相手に敵対したくはないのだろう。

 ルチナリスはトトと師匠《アンリ》の口論を穏やかに眺めている執事《グラウス》を見上げる。
 穏やかに。
 そう。穏やか過ぎる。義兄《あに》を連れていかれて一番荒れていたのはこの男だったのに。
 町長宅では師匠《アンリ》とあわやの殴り合いになりそうだったし、精霊の鍵を求めて実家に行った時も、目的のためには実の家族をも抹殺しそうな殺気を感じた。それなのに自分《ルチナリス》と合流してからの道中、彼が感情を露《あら》わにしたところを見たことがない。

 闇に染まっている義兄《あに》に対し、それでも本質は変わらないと彼は言った。
 どれだけ葛藤の末に此処《ここ》まで動じなくなったのか、それともただ押し殺しているだけで、今でも予定が遅れていくことに腹の底では苛立っているのか。
 あたしは今まで自分のことでいっぱいいっぱいだったけれど、辛《つら》いのは……きっと執事《グラウス》のほうが辛《つら》い。だからこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。


「決まったようだな」

 ミルがあたしと執事《グラウス》の顔をを交互に見比べる。

「ではまずはあのふたりを止めよう。トトにも今度こそ魔界に行くのだと認識しておいてもらわねば」


 どうするのだろう、とミルの動向を見守るあたし《ルチナリス》の横で執事《グラウス》が荷物を背負い直す。この先、精霊たちに追われて、何処《どこ》かの穴から魔界に向かうのだ。走るだろうし、はぐれるわけにもいかない。


 ミルは口論を続けるふたりに歩み寄る。そして。

「喧嘩はそれくらいにしないか?」

 ふたりがミルに気が付いた、と思う間もなく、剣を抜き、師匠《アンリ》とトトの間に突きつけた。




 ミルさぁぁぁぁぁあああん!!!!
 やっぱり武力行使なのか? 剣でどうにかするタイプなのか!?
 ツッコみそうになったあたしの口は、しかし執事《グラウス》の手で塞《ふさ》がれる。口だけではなく鼻も目も……要するに顔を掴《つか》まれたわけだ。いつものように。


 目の前に剣の切っ先を突きつけられて、師匠《アンリ》とトトの口が止まる。

「我々は魔界に行かなければいけないのだろう?」

 やけに魔界を強調して言った。
 もしかしたらズルズルと予定が遅れて行くことに最も腸《はらわた》が煮えくり返っていたのは、執事《グラウス》ではなくミルだったのだろうか。
 マズい、ひとつ間違えたらああして剣を突きつけられていたのはあたしだ。


「え、あ、す、すまんな。ちょっと頭に血ィ上《のぼ》ってよ」

 気圧《けお》されたのか、師匠《アンリ》が弁解するように口籠る。
 背を向けているのでミルの表情を見ることはできないが、どんな顔をしているのだろう。あの師匠《アンリ》が怯《おび》えている。

 でも喧嘩も止まったことだし、プランB《集落に入り込む》に移行するんですよね? とルチナリスがミルを追うように集落へ足を向けたその時。


「メイシア様だ!」


 何だか、もの凄く嫌な物体を連想させる単語が聞こえた。気のせいなどではなく。




 メイシア様、とは今更説明するまでもない大地の精霊メイシア様のことだろう。
 「闇を葬り去るビーム」などというチート技を持っているにもかかわらず、加護を授けたあたし《ルチナリス》を見捨て、あっさりとロンダヴェルグに去っ《運ばれ》ていったのは数時間前。シチューならまだ温め直さずに食べられるくらいの時間しか経《た》っていない。
 それでも、ああ! やっぱり来てくれたのねメイシア様! あたしが心配で戻って来てくれたのね!
 ……と…………………………素直に喜べないのは何故《なぜ》だ。


 顔か?




 あの見ているだけで呪われそうな顔のせいか?



「メイシア様!」

 声は増々大きくなる。見れば、集落に点在している丸い扉が次々に開いて、「いかにも精霊!」な人々が顔を出している。
 老いも若きも男も女も巨大な帽子を被《かぶ》っているのはきっと宗教上の理由とかそう言う奴《やつ》だ。たいして面白くもない返答どころか、侮辱したとか何とか厄介ごとしか連れて来ないからツッコまないほうが無難なアレだ。

 だとすると此処《ここ》の皆さんは揃いも揃ってライン精霊なのだろうか。あの帽子の中に皿みたいなアンテナが仕込んであ……いや、気にしたら駄目。見なかったことにするのよルチナリス!


 帽子の中にアンテナを仕込んでいるかもしれない人々は、ルチナリスがそんなひとりボケツッコミをしている間にもそろそろと距離を詰め始めた。
 至近距離から一気に仕掛けるつもりだろうか。先ほどミルが師匠《アンリ》とトトの口論を止めた時に剣を抜いたけれど、向こうの目にはそれがトトに切りかかったように見えたのかもしれない。
 武器を持っている様子はないが、目からビームを出す物体X《メイシア様》の例もある。彼らは人間ではないのだ。目からビームは標準装備かもしれない。

 だがしかし。

「メイシア様! メイシア様が戻られた!」

 人々は口々に「メイシア様」を連呼する。
 「メイシア様が戻られた」が「12〇〇《イチニィマルマル》、侵入者抹殺計画ヲ開始スル」とかの暗号でないのなら……そのメイシア様はあたしたちのほうにいるみたいなんですけど。
 まさか。振り返ったらあのタラコ唇がドーン! とアップでいるんじゃ……!

 その様《さま》をついうっかり想像してしまって、ルチナリスは慌てて頭を振って打ち消した。
 やめてそんな怖すぎる。呪いの人形に背後を取られているなんて。

 しかし気になる。振り返りたくないが、振り返らずに済ませるわけにはいかない。だって後ろにはアレが――。

 ルチナリスはスカートの裾で掌《てのひら》を拭い、ギュっ、と握る。
 そして。
 ひとつ息を吐き、意を決して勢いよく振り返った。





 が。





 誰もいない。


「あれ?」

 いや! まだ油断はできない。奴《やつ》はビームを出す時に宙に浮かんでいたではないか! きっと今回も宙に浮かんだままあたしの背後にいるのよ。あたしの動きを予測して音速で移動しているのよ。

 さっ。
 右から振り返る。

 さっ。
 今度は左から。

 さっ。
 上体をのけ反って後ろを見ぃぃぃぃるぅぅぅぅぅうううううう!


「……くそう……何て動きだ……」
「さっきから何をしているのです? ルチナリス」

 そんなあたし《ルチナリス》を執事《グラウス》が不思議そうに見|下《おろ》す。
 いけない。「急に怪しい踊りを踊りだす変人」だなんて認識させるようなことをしてしまった。これでまた「青藍様に近付かないで下さい。変人の菌が伝染《うつ》ります」とか言われた日には心が荒《すさ》む。

 しかし気になる。
 どうやって……そうだ。あたしが直《じか》に見ずとも見てもらえばいい。いくら奴《メイシア様》とて第三者からの目は防げまい。


「あ、あの、グラウス様。あたしの後ろに何か付いてるか浮いてるかしていませんか?」
「後ろ? いえ、」
「メイシア様!」

 執事《グラウス》の声を掻き消すようにさらに声が上がった。呪いの人形《メイシア様》に気を取られていた間に巨大帽子の集団が自分《ルチナリス》たちを取り囲んでいる。

 しまった!
 精霊は飛べるってことを忘れていた!

 つい今しがたの奇怪な行動が、呪いの人形《メイシア様》が自分の背後で飛んでいるかもしれないと思ったから……にもかかわらず精霊が飛ぶことを失念するのは、我ながら矛盾しているとしか言いようがないがもう遅い。後悔が雪崩《なだれ》のようにルチナリスを襲う。

 だが疑問もひとつ。
 何故《なぜ》彼らはあたしたちを取り囲んでいるのだろう。メイシア様はいない、と執事《グラウス》は言いかけた(だろう)のに。
 もしかして奴《メイシア様》は姿を消しているのか? 精霊にだけは見えるのか?
 ちょっと待って! それって凄く嫌!!



「ああメイシア様、よくぞご無事で」

 精霊集団の先頭にいる村の長老ポジションにいそうな老人(でも帽子は大きい)が涙を流している。
 感涙だろう。間違っても「クソ人形め、また現れやがった! この村はもう終わりだ!」的な涙ではない。
 が。

 と言うことはやっぱり奴《メイシア様》はいるわけで。
 でもあたしには見えなくて。
 それで、

「メイシア様!」
「メイシア様!」

 見えぬ恐怖におののくルチナリス隙をつくように、その手に精霊の老人が貼りついた。
 人間サイズだったらガシッ! と手を握ったのだろうけれど、なんせ身の丈掌《てのひら》サイズ。こうするしか仕方ないのだろう、けれど!

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」

 ルチナリスは思わず悲鳴を上げた。
 だってそうでしょ!? 掌《てのひら》サイズとは言え、見ず知らずの爺さんに抱きつかれて悲鳴を上げなきゃ乙女じゃない!

 その声に呼応するように風が唸《うな》った。
 ルチナリスは手に貼りついた爺さん&取り囲む大勢の精霊と共に、その風のうねりに吹き飛ばされた。




「いや、申し訳ない」

 ルチナリスたちは集落の中央にぽっかりと開いた広場に輪になって座っている。
 目の前には好々爺《こうこうや》然とした先ほどの爺さん。半透明の液体が入った、フキの葉を曲げて作ったカップと、同じくフキの葉の上に木の実を磨り潰して焼いたらしい物体が、ルチナリスたちの前にそれぞれ並んでいる。

「まさかそっくりさんだったとは。いや、本当にメイシア様が目覚められたのかと思ったら舞い上がってしまって」
「……気にしないで下サイ……」

 いきなり抱きついて来たのには驚いたが、その後、ルチナリスもろとも精霊たちを吹き飛ばしたのはミルの剣圧だから相殺《そうさい》だろう。あたしひとりがW《ダブル》被害者なわけだけれども、爺さんも悪気があったわけではないし、ミルもあたしを守ろうとしただけだし、文句を言ってはいけない。

「しかし本当によく似ておる。眠りについておられたメイシア様が何時《いつ》の間にやらお隠れになって、我々としても手を尽くしたのじゃが見つからず……それがまさか人間に転生して戻って来てくださったとは! と勘違いしたのですじゃ。ほんに失礼したのですじゃ」


 語尾に「じゃ」を付けるお年寄りって物語では定番だけど、本物をみたのは初めてだわ。なんてことを思いつつ、


『――どう見ても、るぅ、でしょ?』


 似ている似ていると連呼されると思い出してしまう。海であの人形に魂を封じられた時、義兄《あに》が言い放った台詞《セリフ》を。
 本当に似ているのか? アレに。考えないようにしていたけれど、乙女心がちょっと、いや、かなり傷付く。

 その場にいて、茶羽根のイニシャルGな虫を見るような目を向けてくれたもうひとり《執事》は否定する気などさらさらないのだろう。無言でフキカップの液体を口にしている。

 ルチナリスは未《いま》だにバクバクと鳴りやまない心臓を鎮《しず》めるために、同じようにフキのカップに手を伸ばす。
 執事《グラウス》が無事だから飲んでも安心、というわけではない。だって殺人事件なら大抵、カップのほうに毒が塗ってあるんだもの……ではなくて。


『やだよねぇ。何かあったら俺の前で死ぬんだよ、あいつ』


 その耳に、再び義兄《あに》の声が聞こえた。
 義兄《あに》と出かけた先で、執事《グラウス》は毒見役を買って出ていたと聞いた。きっとこの場に義兄《あに》がいたら、この男はそのカップを取り上げて飲むのだろう。
 あ、だからといって執事に毒味役をさせたわけではなくて。

「……メイシア様はロンダヴェルグに戻りましたから安心してください」
 
 どうしても思い出してしまう義兄《あに》を頭の片隅に追いやって、ルチナリスは老人に向き直す。忘れたいわけではないが、自分のことを覚えていてくれる義兄《あに》の姿を思い出すと涙腺が弛《ゆる》みがちになる。


「と、するとメイシア様は目覚められたと!?」
「夢遊病でなければ起きていると思いますが」

 メイシア様の大活躍を聞いて爺さんは再び涙を流している。

 半分眠ったまま攻撃を仕掛けるなんて、何処《どこ》ぞの魔王様くらいなものよ。と悪態をつきたいのは我慢して。ああ、駄目駄目。何を切欠《きっかけ》にしても義兄《あに》との思い出が出て来てしまう。
 ルチナリスはカップを啜《すす》る。


「あれ? 紅茶、じゃない」

 半透明の時点で紅茶ではないとわかりそうなものでしょ、と自分で自分にツッコミを入れつつ、ルチナリスは改めてカップの中を覗き込んだ。葉の緑のせいではっきりとした色はわからないが、紅茶と言うには色が薄い。
 しかし香りは紅茶だ。義兄《あに》が好んで飲んでいた――あたしがお茶を淹れる練習で3缶も無駄にした――あの妖精の絵のラベルが貼られた紅茶の香りだ。

「樹液を薄めたものですじゃ。此処《ここ》の茶の木は樹液も豊富に取れましてな。ほれ、少し甘いでしょう?」
「ええ」
「この甘みが葉のほうにも独特の甘みを加えてくれるのですじゃ」

 老人は得意げに言いながら手を叩く。
 少年と少女が新しいフキカップを持って現れ、空になったルチナリスのカップと交換していく。ポットを持ってこないのは、フキの葉で大容量の液体を入れる器を作るのが難しいからなのかもしれない。


「義兄《あに》も此処《ここ》のお茶が好きでよく飲んでいました」
「おお、それは嬉しいことですじゃ。ささ、こちらの焼き菓子もどうぞ」


 老人は焼き菓子らしきものをルチナリスの前に皿ごと押し出す。どんぐりを潰して焼き固めたものを菓子と呼ぶかは不明だが、当人がそう言うのだから精霊の間ではこれが菓子なのだろう。
 そう言えばスノウ=ベルはよくお菓子を食べていた。義兄《あに》が城下町の奥様がたからやたらと駄菓子爆撃を受けるせい……だと思っていたけれど、彼らの主食は菓子なのかもしれない。そう思うとちょっとメルヘンみが増す。

 だが。

 密猟が相次いで人間《他種族》不審になり、全ての道を塞《ふさ》いでしまった、というわりにやたらとフレンドリーに感じるのは本当に自分がメイシアに似ているから、というだけだろうか。むしろ偽物とわかった時点であたしは「得体のしれない侵入者」にランクダウンしているはずなのだが。
 飲み物に毒は入っていないようだけれども遅効性ということもあるし、毒までいかなくても眠ってしまうくらいはあるかもしれない。そして生きたまま埋められてお茶の木の肥料にされるとか。

 |勧《すす》められるまま菓子を手に取ったものの、これは口にしていいものか?
 劇場主の家で「茶を飲むな」と警告して来たミルは何も言って来ない。言っては来ないが当人は口をつけていないようだ。カップの中身が全く減っていない。
 執事《グラウス》のカップも同様。口をつけたように見えたのはカップのへりに唇をつけただけであるらしい。
 師匠《アンリ》は……既《すで》に何杯ものカップを空にしている。少年少女がおかわりのカップと焼き菓子を抱えて走り回っている。トトは空になったフキの葉の上で大の字になって眠っている。

 いざと言う時にあのふたりは役に立たないかもしれない。トトはそれでも掴《つか》んで持ち運べるが、師匠《アンリ》は置いて行くしかない。

 ルチナリスは再びミルに目を向ける。
 早く魔界入りしたいように見えた彼女は、プランC《何処かの穴から脱出》に移ろうとする様子もない。予測しなかった事態に、どう動くのが最善か量《はか》っているのだろうか。




 空は何処《どこ》までも白い。きっと集落を取り囲んでいた雲が空まで続いているのだろう。もしかしたらこの集落自体が地上ではなく、雲の中にあるのかもしれない。
 太陽が見えないのは雲に隠れてしまっているのか。
 それなのに暗く感じないのは雲のせいなのか。
 ほら、白って光を反射するじゃない? 前後左右&上から反射で照らされるから光源が見えなくても明るいんだわ。ルチナリスは空を見上げる。
 劇場主の家にいた時も思ったが、太陽がないと時間の経過がわからない。こんなところで止まっているわけにはいかないのに。


「甘いものは苦手ですかな?」

 老人はルチナリスが菓子を口にしないことをどう取ったのか、再び手を叩いた。
 新たなフキの葉を捧げ持った少年少女が現れる。

「これは、」
「あの! あたしたちそろそろお暇《いとま》しようと思うのですがっ!」

 老人が菓子の説明をしようとしたのを遮《さえぎ》って、ルチナリスは立ち上がった。
 ミルや執事《グラウス》が動かないからと言って、自分も一緒になって座り込んでいては何も始まらない。自分の顔がメイシアに似ていることで此処《ここ》まで歓待ムードになってくれているのなら、それを断るのもあたしの役目。
 ミルは剣を抜いたことで心証がよくないかもしれないし、前にエルフガーデンに来た時のことを「ジルフェから追い出された」としか言わなかったあたりからして、執事《グラウス》も歓迎されているとは言えない。たまたま「あたしの連れだから同席させてやっている」感をひしひしと感じるのは、自分が特別な存在でいたいという考えから来る錯覚などではない、と信じたい。

「あたしたちは魔界に行かないといけないの。時間がないんです。だから、」
「……魔界など消えてしまえば良い」

 老人はふつり、と笑うと、立ち上がったルチナリスの眼前にまで浮かび上がった。

「魔界は今、闇に呑まれようとしておる。我々を隷属してきた罰《ばち》が当たったのじゃ。どうせお前さんたちも闇を倒すなどという志《こころざし》で此処《ここ》まで来たのじゃろうが、放っておいても奴らは、」
「魔界には精霊も大勢いるんでしょう? 放っておいても、って」


『そんな漠然とした実感の湧わかないものより、自分の身近な人が幸せに暮らせることのほうを考えるんだよ』


 自分が聖女になれば人間狩りに怯える人々にもロンダヴェルグと同じ平和な暮らしを与えてやれるのかもしれない、と思うあたしに、勇者はそう言った。何処《どこ》に住んでいるのかも、名前も知らない人のためではなく、親しい誰かの幸せを思うのだと。

 魔界にいるという大多数の精霊たちをあたしは知らない。
 でもたったひとり、スノウ=ベルだけは知っている。義兄《あに》が魔界に連れ戻された時、スノウ=ベルの宿る時計も持って行かれた。アドレイは消える時に「余裕があればスノウ=ベルも助けてほしい」と執事《グラウス》に言ったそうだ。
 スノウ=ベルはオルファーナで道に迷った時に勇気づけてくれて、チンピラに絡まれた時にも逃げろという声を無視して、あの小さな体で立ち向かっていった。そんな彼女をあたしは見捨てることはできない。
 彼女の身を案じたアドレイを悲しませることもしたくない。

 精霊は通信手段として重宝されている。隔《へだて》ての森を通る鍵としても使われる。
 しかしその存在は魔界貴族がほぼ抱え込んでしまっていて末端には手が届かない。以前スノウ=ベルが精霊の値段を言っていたが、とんでもなく高いという印象だけが残っている。
 それほど重宝されている精霊だ。むざむざ闇に呑ませて減らすくらいなら(たとえ売却目的だったとしても)誰かが回収するだろう。

 アドレイは魔界が闇に呑まれてしまうことを知っていたのだろうか。だから魔界に行ってしまった妹《スノウ=ベル》の身を案じたのだろうか。


「魔界にいる者たちは自己責任で魔族の下に付いたのじゃ。儂らが心を痛める必要はない」
「だったらあたしたちも自己責任で魔界に行きます」
「ならばトトは置いて行くがいい。あれは魔界に行くことなど望んではいまい。前回はジルフェ様が勝手に決めてしまわれたから黙っているしかなかったが」


 ルチナリスと老人が醸《かも》し出す空気を感じたのか、トトが目をこすっている。しかしまだはっきりと目が覚めたわけではないようだ。
 彼はずっと夢の中でエルフガーデンにいたから、森の中の小屋を通り抜けた時に此処《ここ》に来てしまったのだろう。幸せそうな寝顔は此処《ここ》にいることが彼にとって幸福なのだと、そう証明していた。


「……トトが望むのなら置いて行くわ。でもあたしたちは魔界に行く。此処《ここ》には魔界に繋《つな》がる道もあるんでしょう? トトを置いて行く代わりに、その道を通して」

 言いながらちらりと執事《グラウス》を見る。
 トトは元々彼の家にいた精霊だし、トトの宿っていた短剣を託され、トト本体をジルフェから譲られた以上、持ち主も彼《執事》になる。それなのにあたしが勝手にトトの進退を決めてしまっていいのだろうか。
 そう、思ったのだが。

「……!」

 時間が止まってしまっているかのように、執事《グラウス》は座ったまま固まっている。執事《グラウス》だけではない。ミルも、そして師匠《アンリ》も身じろぎすらしない。自分が老人と話をしている間、何も口を挟んでこなかったのは、彼らの時が止まってしまっていたからなのだろう。

 何時《いつ》から?

 だが、動けなければ道を通ることもできない。自分《ルチナリス》ひとりで行ったところで何もできないのは悔しいが、此処《ここ》にいる皆がいなければ。 
 なのに、あたしひとりではミルを背負《せお》って運ぶことすら不可能だ。


「あのメイシア様の消息を教えてくれたお返しに、後でお前さんたちは人間界に帰してやろう。
 お帰り。自分が生きるべき世界へ」

 老人の声が聞こえる。

 これは劇場主の時と同じだ。あの時も「足止めはできなかった」と言っていた。
 今回も、あたしの知らない誰かが、あたしたちが魔界に行こうとするのを阻止しようとしている。

 誰が?

 あたしも執事《グラウス》も師匠《アンリ》も、義兄《あに》に会いに――その後の予定として執事《グラウス》は義兄《あに》を連れ戻すつもりだとか、師匠《アンリ》は義兄《あに》を当主に据えるとかあるけれど――行くだけで、魔界の仕組みをどうにかしようとか、魔族を滅ぼそうとか、そういう考えは微塵《みじん》もない。
 彼《か》の地にいる精霊を救おうとか、闇を消そうとか、そんなことも思ってはいない。
 いや、精霊と闇に関しては少しくらいは思いたいけれど、それができるだけの実力が伴っていないことはわかっている。

 メイシアから大地の加護を受けたとは言え、それでもあたしは何の魔力を使うこともできない。
 さらに執事《グラウス》は大地の力が魔族を滅する力になるとは思っていないと言った。大地の魔力が聖女の条件でないことは、メグやジェシカといった他の聖女候補が治癒魔法しか持っていないのに選ばれたことからも窺《うかが》えるし、司教《ティルファ》も「聖女の力は癒し、つまり光だ」と言っていた。

 だからあたしたちを阻止しようとしている「誰か」は「聖女であるあたし」が魔界に行くことを阻止しようとしているわけではない。
 あくまでも、義兄《あに》に会わせないため。
 だとすれば自《おの》ずとその誰かは限られてくる。


「……紅竜……様に頼まれたの? 足止めしろって」

 敵の手はこんなところにまで伸びているのか?
 精霊たちでさえ紅竜に加担するのか?

 老人は答えない。
 あれだけ賑やかに駆け回っていた少年少女たちの姿もない。

 どうすれば。


「さあ、お前さんも眠ってしまいなさい」

 波が打ち寄せるように睡魔がやって来る。
 駄目だ。此処《ここ》で眠ってしまっては。
 人間界に帰してくれると言ったけれど、それでは駄目だ。

「あ、たしは……魔界に、」

 駄目だ。眠い。
 視界がグルグルと回る。白い空も、集落を取り囲む木々も、丸い扉も、目の前の老人も、みんな渦を巻くように混ざっていく。足下が揺れて、立っていられない。

「トト、」

 視界の端にあたりを見回しているトトが映った。何故《なぜ》エルフガーデンにいるのだろう、と言いたげな顔をしている。

「トト」

 呼ぶ声に気付いたのか、トトが顔を上げる。その目がルチナリスを捕らえる。

「ごめん。魔界になんか行きたくないよね? あたしたちが魔界に行くための道具なんかじゃないもんね。
 あなたはこのまま此処《ここ》にいていいよ。此処《ここ》で幸せでいてよ。でも」

 膝から崩れ落ち、それでも這《は》うようにしてルチナリスは進む。

「あたしたちは魔界に行きたいの。行かなければいけないの。会いたい人がいるの!」


 青藍様。
 あたしはやっぱりあなたに会いたい。
 あたしのことを忘れてしまっていても、今までありがとう、って言いたい。


「だから、あたしたちだけ、」

 怪訝《けげん》な顔で自分を見上げているトトに手を伸ばし。そして。

「魔界に送ってぇええ!」

 渾身の力を込めて投げつけた。