2-6 翡翠色の嫉妬




 アーデルハイム侯爵の城からは見ることのできなかった月が、夜空を明るく照らしている。
 その明かりを受けたみすぼらしい低木がぽつりぽつりと浮かび上がる道を、人影がふたつ、歩いている。
 靴底で砂利がこすれ合う音に、ネズミだろうか、小動物が草の間を逃げていく。


「この先に人里がありますから、そこで辻馬車でも拾いましょう」

 さすがに帰りの馬車は用意してもらえそうにありませんからね、と、振り向きもしないで一歩先を歩いて行く執事の黒い背中に、青藍は不満の声をぶつけた。

「お前さあ、もう少しやり方なかった?」
「なにがです?」
「時間厳守はいいんだけどさ。窓突き破って来るとか、俺、そこまでドラマチックな演出は求めてなかったつもりだったんだけど」

 グラウスは足を止めると、ちらりと青藍に視線を向けた。咎めるような目だが、口元はかすかに笑っている。

「結婚式の最中に奪い去られる花嫁みたいで楽しかったでしょう?」
「はいはい、とっても貴重な経験をありがとね」

 例えの意図がわからない。
 軽く馬鹿にされているようにも聞こえて、それが青藍の態度を頑《かたく》なにさせる。

「どういたしまして」

 ぞんざいな返答に緑の瞳が細められる。
 なにか言いたげな視線に、青藍は肩をすくめてみせた。

「……でもね。3階から飛び降りるとか、死ぬかと思った」
「時間がございませんでしたので。そう仰るなら黙っていなくなるのはおやめ下さい。どれだけ探したと思うんです?」

 執事の、狼の毛並みと同じ白銀の髪が月明かりを弾く。

「あんな娘にほいほいついて行った挙句に言いたい放題言われて。あなたならさっさと倒して戻って来られるでしょう?」
「倒して、って。女の子に手は上げません」
「ふーん」

 機嫌が悪い。
 一言も言わずに行方をくらましてしまったことを暗に咎《とが》めているのだろう。



 帰り時刻を指定し、時計まで預けてきた上で行方不明。
 しかもその時刻を過ぎれば帰れない、なんて情報まで入れられて。
 そのことでこの執事に精神的な負担を強いてしまったことは認める。しかし保護者でもあるまいし、とも思ってしまったのは、さっきから彼が投げてくる言葉がいちいち棘を含んでいるから以外のなにものでもない。

「ルチナリスを家畜呼ばわりされても、そうやってへらへら笑っていられるとは思いませんでしたよ」


 ……るぅが何を言われたって気にしたこともないくせに。

 たとえ嫌味でも素直に拝聴しておいたほうが彼も早く気が済む、ということは長年の付き合いでわかってはいる。が、この執事の今までの義妹への態度を思い浮かべると「その口でそれを言う?」とばかりに反抗的な言葉が口をついて出てしまう。

「あれは、まわりの大人がそう言っているから刷り込まれているだけだと思うよ? るぅに会えばきっと間違っていたことに気がつくさ。アイリス嬢は聡明な子だからね」
「そうですか」

 突き刺さる視線が冷たい。
 わかる。絶対信じていない。信じようという努力すらしていない。
 ルチナリスがなにを言われても、アイリスがどんな娘だとしても全く興味がない、という態度がありありと見える。


 その「信じようという努力すらしていない」執事はあからさまに不機嫌な顔のままで問う。

「ずっと思っていたのですが、あの娘はあなたのなんです? 随分と親しいようですが」

 交友関係まで追及してくるとか、お前は俺の親か!?
 そうツッコミを入れたくなるのを、青藍はぐっと我慢した。

「ええと、……妹みたいなもの、かな。あの子が小さい頃から知っているからね」

 無視してもよかったのだが、そんなことをして道中の数時間を気まずい沈黙で過ごすのは嫌だ。それに無視しようものならその後どれだけ食いついてくるかもわからない。
 真面目さ故なのか、疑問が浮かぶと納得がいくまで調べなければ気が済まない性質《たち》であることは10年の付き合いで身に染みている。どうしてもわからなければ勝手に脳内補填してでも結論づけようとする。だったら正直に答えたほうが今後のためだ。
 幼少時からの仲だと聞けば、まず間違いなく邪推してくるだろう。それは避けたい。


「そうですか。しかし妹みたいなもの、という程度の娘にあなたが言われ放題でいるなど、想像できません」

 案の定、素直に退いてはくれない。

「侯爵の招待をあっさり受けるとか、いくらルチナリスを庇うためとは言え、今回のあなたは少しおかしいですよ? 他にもなにか、」
「そういう日もあるんだよ」

 間違ったことは言っていない。
 ただ、全部言っているわけでもない。
 アイリスが真似た声の主を思い浮かべながら、青藍は作り笑いを浮かべた。

 そう。言えない。
 アイリスの背後にいた「誰か」のことは。この執事にだけは。


 笑みを浮かべたまま、青藍は自分より頭ひとつ分くらい高い執事を見上げた。夜空を映すような深い蒼の瞳に、ゆるりと紫が混じる。




 遠くの林で、ほう、と梟《ふくろう》が鳴く。
 風がざわりと葉を揺らす。

 お互いに無言のままどれほど経っただろう。
 先に動いたのはグラウスだった。

「あなたは……いったい何人、妹を作っているんです?」

 いかにも呆れた、と言わんばかりの顔で一歩、歩を詰める。

「え? いないよ、もう」
「そう言う趣味はあまり感心しませんね」
「趣味じゃないって! なにその目!」

 その目からは先ほどまでの暗い光は消え失せている。
 彼のことだ。なにかあったことぐらいは察してはいるだろう。けれど、聞いて来なければそれでいい。

 と、思ったけれど。

 グラウスは今までのやりとりを払拭するかように首を振ると、おもむろに青藍の上着に手をかけた。

「なに?」
「脱いで下さい」
「なんで!?」

 焦ったのは青藍のほうだ。唐突さにおいてはアイリスの比、どころではない。

アイリスの言動やそれに対する自分の態度について追及する気が削がれた代わりに、新たな矛先を見つけたのかもしれない。脳内で顛末を予測した結果、ひとりで遥か彼方の結論に達してしまったのかもしれない。
 追及をのらりくらりと受け流して消化不良にさせたのはこちらに否があるけれど、いきなり脱げと言われても。
 せめて会話のキャッチボールなどで前置きしてからにしてもらいたいのだが。


 それにしても、この「脱げ」が指しているものは上着だけでいいのだろうか。
 侯爵からは上下セットで借りているのだが……さすがにそれは聞けないし、こちらから教える気は絶対にない。


「その服は侯爵から借りたものでしょう? 高慢で自己中心的な臭いがします」
「どんな臭いだよ、それ」
「虫唾が走る臭いです。さっきからずっとあなたに盾突いた態度を取ってしまうのは、きっとその臭いのせいです。ええきっとそうに違いありません」


 ……誰かなんとかして下さい。
 青藍は頭を抱えた。




 グラウスの性分なら疑わしいことがあれば黙ってうやむやにするなど耐えられない。それを我慢して感情のやり場に困った挙句よくわからないところに行ってしまった、とでも言えばいいのか、そんな無理矢理感が感じられる。

 心配ばかりかけさせるくせに隠しごとまでする主人の振る舞いも、それに腹を立てる自分も。
 こんな遠方にまで呼びつける侯爵も、馴れ馴れしいアイリスの態度も。
 聞きたいことはいくらでもあるのに、答えてくれそうにない。
 実際に侯爵らや青藍に当たるわけにもいかない。でも当たりたい。
 そのやり場の無い感情の標的が、たまたま目についた「服」だったのだろう。


 青藍が着ているのはアーデルハイム侯爵のものだ。
 夜会用に、とアイリスに無理矢理着せられたその服は黒地のタキシード調で、同じ生地で作られた黒い薔薇の装飾が襟元を飾っている。ボタンも宝石を使ったものなのでちょっと動いただけできらきら光るし、無数の刺繍にも石が埋め込まれるように縫い付けられていたりする。
 加えて香まで焚き込められているその服は、悪く言えば成金的。
 普段嗅ぎ慣れていない臭いというものは総じて不快と感じやすいし、こんなところまで呼びつけた侯爵や散々振り回してくれたアイリスを不愉快な相手、と認識しているとすれば、彼らを連想させる臭い自体が不愉快なものになる。

 借りてからかなり経った今、その臭いもかなり薄れてはいるけれど、狼の気質かグラウスは常人より鼻が利く。自分が気にならないからと言って、彼も気にならないとは言えない。

 ……眉間に刻まれた皺が、無駄に深い。




「そんなに言うんじゃ、やっぱり風呂入ったほうがよかったのかも」

 臭う臭うと言われ、思わずそんな言葉が青藍の口をついて出た。
 アイリスに勧められた時もこの執事の反応が気になって断ってしまった。彼女はその程度で気を悪くするような娘ではないが、10年ぶりに再会した妹(のような娘)の申し出を断ることに一抹の罪悪感を抱いたのも嘘ではない。
 それなのにこの男は、ひとの気も知らないで。

 頭ごなしに言いたい放題言われた反発からつい発した言葉だが、執事の神経を逆撫でする誘発剤としては十分だったようだ。

「……今、なんと仰いました?」

 案の定、グラウスの声のトーンが2段階ほど下がる。
 しまった、と思っても後の祭り。

「え? あぁ、アイリス嬢が薔薇の香油を持っているとか言って、」
「そこはどうでもいいです。余所宅で入浴を勧められるとか、あなたはいったいなにをしているんです」
「だって臭いんだろ!?」

 アイリスが指摘する人間の臭い。
 グラウスが言う服の臭い。
 彼の言葉にどこまで本心が含まれていたかはわからないが、今、その臭いのする自分がそばにいることが余計に彼の不快指数を上げていることは間違いない。

「気がつかなかったけど、10年もこっちにいると染みついちゃうのかなぁ。この服を着ていても言われるってことは、」
「そんなもの言葉の綾でしょう?」
「でもお前も臭うって言った」
「私は、服が臭うと言っただけです。……私の見ていない間にいったい……あなたと言う人は、」

 グラウスの目に再び暗い光が揺らめく。
 服も掴まれたままなのでそのまま胸倉を掴んで持ち上げられそうな勢いだが、さすがに主人相手にそこまではしないと思いたい。

「いや、断ったからね!? ちゃんと!」

 青藍は、断った、という事実を強調する。
 そこは言っておかないと、今頃この男の頭の中ではどんなことになっているか知れない。




「……わかりました」

 低いトーンのままグラウスは手を離した。
 どう見てもわかってくれた顔ではないが、そこは執事歴10年、主人の言い分も聞くくらいの寛容性を身につけ……

「最高級の薔薇の香油を取り寄せましょう。余所で入浴を勧められることなどないくらい、きっちりと磨き上げて差し上げます」
「は!?」

 何故そうなる!?

「あなたが気にする人間の臭いも、その服から染みついた臭いも、洗い流してしまいましょう。そうすれば全てが丸くおさまります。そう思いませんか?」
「思いません!」
「問答無用!!」

 青藍の拒否を、グラウスはぴしゃりと否定した。そのまま人差し指を主人の鼻先に突きつけ、きっぱりと言い放つ。

「主人の世話が出来ていないなどと外で言われているようでは、執事としての立場がありません。服ももっと飾りの多いものを手配しましょう。ええ、難癖などつける隙も与えないくらいに!」
「いい! そんなことしなくていいっ!!」

 こんなことなら彼が満足するまで根掘り葉掘り聞かれたほうがよかっただろうか。
 そんなことを思っても、もう、どうしようもない。


「なんですか? アイリス嬢の誘いには乗るくせに私の世話は受けられませんか!?」
「お前のは身の危険を感じるんだよ!!」
「……そんな気の迷いも流してしまいましょう」

 執事の笑みが、ただ怖い。


 部下のしつけ方を間違えたかもしれない。
 遠く、ノイシュタインの城で義妹が同じように思っていたことを、この義兄は知らない。