21-3 寒椿




 気がつくと、とある部屋にいた。
 壁に取り付けられた燭台《しょくだい》の火屋《ほや》の上が黒く煤《すす》けているのは、その燭台が何百年も其処《そこ》にあった証だろう。
 アイボリーの壁は元からその色なのか古びているからなのか、ぱっと見ではわからないが、何処《どこ》となく懐かしさを感じる色合いだ。飴色の長椅子《ソファ》や同じ色の箪笥《たんす》など、全体的にセピア調でまとめられているからかもしれない。


「やだぁん、びしょ濡れじゃないのぉ! 水も滴《したた》るイイ女はまた今度にしなさいな」

 そしてあたし《ルチナリス》たちを取り囲んでいるのは女言葉を喋《しゃべ》るガーゴイル。
 吊り上がった目と耳まで裂けた口と蝙蝠《こうもり》の羽根を持つ、この10年ほど散々視界に入って来た連中が揃《そろ》いも揃って襟に紅《あか》いリボンの付いた例のメイド服を着用し、甲斐甲斐しく世話を焼いて来ることに、夢かとも思ったのだが……どうも夢ではないらしい。
 しかし何故《なぜ》。
 あたしたちは厨房にいたはずなのに。
 その前は水路にいたのに。
 なのに今や足下は石畳ではなくフカフカの絨毯《じゅうたん》。人目を気にしなければ、いや、他人の目があろうとも横になったら秒で眠れそうだ。って寝るんじゃないわよルチナリス!
 と自分で自分を叱責しつつ、部屋を見回す。

 自分《ルチナリス》とミルと柘榴《ざくろ》と、そしてガーゴイルが4匹。1箇所に留まってくれないから大量にいるように錯覚するけれども、頑張って数えた範囲では4匹。此処《ここ》に来る前、背後から聞こえた声の主らしき人物の姿はない。
 そう、少なくともこいつら《ガーゴイルたち》の声ではなかった。
 それに、ノイシュタイン城の封鎖と共に眠りについたはずのこいつらが何故《なぜ》此処《ここ》に。


「あの」
「きゃー、どうしたのこのウサちゃん! 温《あった》かくしなきゃ!」
「ちょっ、」

 これはどういう状況だ、と聞く前に柘榴《ざくろ》を取り上げられる。
 長椅子《ソファ》の上に漫画のようにヒラヒラと何重にも布が敷かれ、ふわりと寝かされ、頭には氷嚢《ひょうのう》まで乗る仕事の早さは感心するけれども、今はそれを称賛している場合ではない。ないけれども、称賛する隙もツッコむ隙も与えてもらえない。

 いけない。このまま連中のペースでことが運んだら取り返しのつかないことになる。何時《いつ》の間にか義兄《あに》に「お帰りなさいのちゅー」をすることになっていたあの時のように!
 ええい! 貴様《キサマ》のターンは終わったのだ! 次はあたしのターン!
 
「あの」
「はい、こっちはるぅチャンの分ね!」

 と思ったのもつかの間、押し付けられたのは奴《やつ》らとお揃《そろ》いのメイド服。つまり、あたしがノイシュタイン城で着ていたものの色違い。

「冷えは女の敵よ!」

 違うんだ。あたしが言いたいのは着替えではなくて。

 いや。
 ……その前に。こいつら今「るぅチャン」と言った。


 と言うことはやはりノイシュタイン城にいた奴《やつ》らなのか? 義兄《あに》と一緒に連れて来られたのか? やたらとオプションがついているのは無理やり着せられて……いや、それはない。この絶対に似合わないメイド服は彼らの趣味だ。
 以前、フリフリエプロンで視界の暴力に訴えて来た前科は忘れようったって忘れられない。たとえ魔族と言えど《種族が違えど》、あれを見たい奴《やつ》がいるはずがない。使用人の人数が多い城ならメイド服の在庫も大量にあるだろうから、勝手に拝借したに違いない。

 そしてこれも。
 あたしは受け取ったメイド服を目の前に吊り下げる。


 生乾きとは言え、湿っぽい服は正直、気持ち悪いわけで。冷えが女の敵かどうかは置いといて、このままでは風邪をひくのは確実で。
 それに何より。この服を着れば「この城のメイド」に偽装できる。招待客にはとても見えない平民の服で歩き回るよりは目立たない。
 これで渡してきたのが見知らぬ他人なら「何を考えているのか」と疑うところだけれども、ガーゴイルだもの、信用できる。多分。きっと。


「……見るんじゃないわよ」
「そんな洗濯板見たって面白くもな、ぐはっ!」

 阿吽《あうん》の呼吸で失礼なことを言って来たガーゴイルに右アッパーをお見舞いして、ルチナリスは長椅子の背に隠れた。素早く、と言うには濡れて貼りついた服では難しいけれど何とか脱ぎ、新たな服に袖を通す。
 ああ、着慣れたこの感じ。リボンの色こそ違うけれど、ノイシュタインにいた10年間、あたしが着ていた服にとても着心地が似ている。当たり前よね、デザインは同じなんだもの。


「私も着なければいけないのか?」

 さて次は、とばかりにガーゴイルたちは今度はミルを囲んでいる。

「お姉様は素材がいいから良く似合ってよ! あたしが保証するわぁん♡」
「いや……に保証されても」

 ウニャムニャ、と曖昧《あいまい》に口を濁したが「人外に保証されても」とか「似合わない奴《やつ》に保証されても」とかそのあたりだろう。
 フレンドリーさと甲斐甲斐しい世話っぷりを前面に出してはいるが見た目は悪魔そのものだし、ガーゴイルと面識のないミルにしてみれば切りかからないだけ譲歩していると言える。
 切りかからないのは、きっとあたしの知り合いだと思っているのだろう。確かに知り合いに間違いはないが、「悪魔が知り合い」と言うのはちょっと都合が悪いと言うか……今更ではあるけれど、彼女に「悪魔の知り合いがいる」とは言っていなかったりするわけで、騙して連れて来てしまったようで居心地が悪い。


「絶対に似合うわ! こういうヒラヒラしたのが似合いそうな顔だもの!」
「そうよ! メイド服は着る者を選ぶのよ! この白いフリルに選ばれし限られた人間! それがあたしたち!」

 人間でもなければメイド服に選ばれたようにも見えない奴《やつ》が何を言う。
 ツッコミたい。ツッコミたいが、今のあたしにお笑いに逃げる資格はない。

「あの!」
「「「「「何かしら!!!!」」」」

 ルチナリスの声に、周囲でわあわあ騒ぎ立てていた女装悪魔どもが揃《そろ》って振り返った。
 やめろ、心臓に悪い。
 悪いけれども、それがとても懐かしく思えて来るから困る。思えば彼らとも別れの挨拶すらできないうちに離れてしまったのだ。ノイシュタイン城が封鎖されたあの日、向こうは好き勝手にいろいろ言って来たけれど、あたしは状況がわからずじまいで何も言うことができなかった。もう会えなくなるとわかっていたらあたしだって言いたいことは幾つもあった。
 今だって……ルチナリスは1度だけミルを窺《うかが》い見る。
 彼女《ミル》がいなければ抱きついて大泣きして再会を喜びたい。今まで化け物とか不気味とか酷い感想しか持ってこなかったけれど、でも彼らはあたしの大事な家族だったのだから。

「……あのね、」

 改めてガーゴイルに向き直す。
 今更、他人面しても無駄だ。ミルには後で弁明しよう。

「じ、状況を説明してもらえない? ガーゴイルさんたちはノイシュタイン城で眠っているんじゃなかったの? どうして此処《ここ》にいるの? それにこの部屋は何処《どこ》? あたしたち、青藍様を探してるんだけど何処《どこ》にいるか知らない?」


 奴《やつ》らと話をしているといつも面白おかしいほうへ話が脱線していってしまうので、聞きたいことを一気に言い放つ。
 ガーゴイルたちはピタリと動きを止めた。
 お互いに顔を見合わせ、それから1匹が口を開いた。




「あたしたちはこの城のガーゴイル。ノイシュタインの彼らとは型番が同じと言うか作者が同じと言うか、まぁ、兄弟みたいなものよ」
「はい?」

 流石《さすが》石像。型番と来たか! ではない。
 要するに10年もの間あたしの周囲にいた連中ではない、とそういうこと?
 なのにどうしてあたしを「るぅチャン」と?

「知ってるでしょ? あたしたちは意識を共有してるからるぅチャンのパンツの色だって1匹が見たら瞬時に全員が知ることになるの。つまり、ノイシュタイン城以外にいるすべてのガーゴイルが、」
「ちょ、ちょちょちょっ、と待て!!」

 いや、情報を共有しているのは知っていたけれど、城の外の連中まで!?
 それじゃ今しがた「あらるぅチャン♡」と親しげに寄って来たこいつらは、本当に面識も何もない赤の他人ってこと!? 
 待って、あたしの再会の涙を返して。

「そんな水臭《みずくさ》いこと言わないの。あたしたちはるぅチャンとは一緒に過ごしていないかもしれないけれど、でもこぉぉんな小《ち》っちゃい時から知ってるの! それは! つまり! 直接子育てには参加しないけれども生温かく見守り続けるご近所のオバチャンと同じよ!」

 1匹の主張に3匹が力強く頷《うなず》く。
 言っていることは田舎あるあるな「地域一丸となって子供を育てる」心温まるエピソードっぽいけれども、あたしが問題にしているのはそこではない。ついでに言えば「生」は付けなくていい。
 と言うか! あたしのパンツの色が! あたしが知りもしない連中にまで筒抜けになってるってぇぇええ!!!!

 い、いや。中身が同じで記憶も同じなら、こいつらはあのガーゴイルたちと同一だと思ってもいいはずだ。
 ほら、SF物でよくあるじゃない? 脳を他の体に移植された子供が紆余曲折《うよきょくせつ》の果てに母親から子供認定される感動秘話みたいな。あんなようなものだと思えばいいのよ。
 こいつらも! (初対面だけど)あたしの家族!
 って、これじゃ妹を量産する義兄《あに》を笑えない。


「……そうね。あんたたちもあたしが知ってるガーゴイルさんたちなのよね」

 はっきり言えば、ノイシュタインにいた300余匹のガーゴイルだって個別に識別できていたわけではない。それを思えば今更4匹増えたところでたいした問題じゃないわ。
 そう無理やり納得しようとした矢先。

「そうそう! パンツの色だけど、ノイシュタイン城の様子はどうですか、って犀《さい》様が毎日聞きに来るから、毎日教えてあげたわ!」
「やめろぉぉぉぉおおおおおお!!」
「パンツの色だって立派なノイシュタインの様子のひとつよね! 春はイチゴ、冬は毛糸。侘《わ》び寂《さ》びの心を醸《かも》し出すのにこんなにいい題材ってないと思わない?
 犀《さい》様も最初のうちは全然興味なかったみたいだったけど、1年もしたらパンツの枚数が少ないんじゃないですか、って心配されるようになってね! 支給品が増えてたらあたしたちのおかげよ!」


 やめろ。やめてくれ!
 犀《さい》と言えばこの城の執事長で、義兄《あに》の教育係で、義兄《あに》を連れて行った人で、師匠《アンリ》と一緒になって義兄《あに》をこの家の当主にすべく動いているとか言う、ひとりで物語の根幹を全部握ってる人じゃない!
 義兄《あに》が魔王役として赴任している間のノイシュタイン城の人事も彼《犀》が仕切っていて、つまり1度も会ったことはないけれどあたし《ルチナリス》や執事《グラウス》の直属の上司に当たる……そんな人が、あたしの毎日のパンツの色と枚数を把握して足りない分を送って来るなんて、もう絶対顔を合わせられない。


「……ではノイシュタイン城とやらの状況はこの城に筒抜けだったということだな?」

 頭を抱えるあたし《ルチナリス》の横で、ミルがメイド服を手にしたまま静かに問いかける。

「え?」
「今言っていただろう。犀《さい》とやらが毎日聞いてきた、と」

 冷ややかにすら感じる問いかけに、ガーゴイルたちが小さく頷《うなず》く。
 何かマズいことを口にしてしまったのではないか、と恐れているようにも見える。

「ミルさん、それって?」
「お前たちのことは全て知られていたと言うことだ。お前の義兄《あに》が記憶を失っていく様《さま》も、お前たちが此処《ここ》に来ようとしていたことも。グラウスが言っていたが、お前の義兄《あに》が記憶をなくしていったのは、この城に来て黒い蔓に捕らえられてから、らしいな」
「そ、れは」

 義兄《あに》が魔王就任中にこの城に戻ったのは、第二夫人の葬儀の時だけだ。
 右腕を骨折して帰って来た執事《グラウス》にばかり目が行ってしまったが、あの時、義兄《あに》も全身に細かい擦り傷を負っていた。回復力の高い人だし、実際、すぐに傷など消えてしまっていたし、何より本人も執事《グラウス》も何も言わなかったから大したことではないと忘れてしまっていたけれど……ただの眠り病だと思っていたあの不調は、黒い蔓に捕らわれてから。記憶が抜け落ちて行ったのも、その時から。
 そしてそうなるように仕向けた《黒い蔓を放った》のは多分、紅竜という人で、犀《さい》もきっとそれを知っていて。毎日義兄《あに》の様子をガーゴイルから聞き出しながら、記憶が全部抜け落ちたのを見計らって連れて行った――。


「そうなの!?」
「いやん、あたしたちそんなこと何も」
「そうよ、犀《さい》様ってば冷血鉄仮面だけどやっぱり坊《ぼん》のことは気になるのね、って微笑《ほほえ》ましく思ってたのにー!」
「本当にそうか?」

 ざわつくガーゴイルたちを制し、ミルは周囲を見回す。部屋の中にはあたし《ルチナリス》とミルとガーゴイルが4匹。他にはいない。

「我々を此処《ここ》に呼び寄せた奴《やつ》がいるだろう? お前たちは知っていて、それを言おうとはしない」
「――おや、お気に召しませんでしたか?」


 いない、はずだったのに。

 そんな声と共にガーゴイルの姿が揺らいだ。
 いや、ガーゴイルが揺らいだのではない。彼らの前にある空気がねじれたせいでその背景までもがねじれて見えるような、そんな感じ。
 そしてそのねじれは徐々に黒く染まっていき……黒衣の人の姿に変わった。


 


 これも執事服と言うのだろうか。着丈の長い黒の上下に身を包んだ彼は、ミルを見て、貼り付けていた胡散《うさん》臭い笑みを歪ませた。

「やはりメイド服はお気に召しませんでしたか。私としても使用人の服はどうかと思ったのですが、今すぐにご用意できる女性ものの服がこれしかありませんでしたので」
「気にするな。敵地で着替える趣味がないだけだ」
「案外お似合いかとも思ったのですけれどねぇ」


 ミルのぞんざいな言い方に腹を立てるでもなく、男はミルの手からメイド服を取り上げる。
 あれだけ騒がしかったガーゴイルたちが一斉に口を噤《つぐ》んで男の後に控える様《さま》に、ああ、紅《あか》いリボンは紅竜配下の印だった、と今更ながらに思い出す。

 紅竜配下、つまり、敵。

 あたしの家族でもなければ味方でもない。そう考えるとこうして着替えを用意してくれたのも別の意図があるような気がして来る。それにホイホイ乗ってしまったあたしって馬鹿? と思うものの、濡れた服は彼らが洗濯と称して何処《どこ》かへ持って行ってしまったから脱ぐこともできない。

 そんなルチナリスに、男はミルに向けていた視線を移した。

「ごきげんよう。新たなる聖女様」

 笑顔のまま軽く会釈をしてみせる。


「……あなたは?」

 このどう見ても敵の幹部クラスみたいな男の目にとめてもらえたのは「モブなのに認識してもらえた!」と喜ぶべきなのだろうか。だがこの視線に晒《さら》されるくらいならOUT OF 眼中でよかった。糸目のくせにこの眼力は何だ。
 ミルの後ろに隠れてしまいたい衝動を抑えながら、ルチナリスは突然現れた男を見返す。

 この城にいると言うことは魔族だろう。
 魔族の男が何故《なぜ》、聖女のことを知っているのだろう。ガーゴイルを通じて聞き知っていたとは言え、あたしが聖女かもしれないと悩んでいたことはガーゴイルたちには教えていない。城に来ていた勇者とソロネに相談はしたが、その後すぐに城を追い出されてしまったし、その後のことはそれこそ知りようもないと思うのだが。


「私の名は犀《さい》。当家の執事長を務めさせて頂いております」

 犀《さい》と名乗った男はそう言いながら、手にしていたメイド服をガーゴイルらに手渡した。
 彼らは機械のようにそれを受け取ると、逃げるように姿を消してしまう。その背に、仲間が自分を見捨てて去っていくような悲しみを覚えたのは……錯覚だ。錯覚に違いない。
 義兄《あに》の居所とかまだ答えてくれていなかったけれど、敵ならどうせ教えてはくれない。嘘を教えられなかっただけよかったと思うしかない。

 それよりも。

 犀《さい》。この人が。
 ルチナリスは改めて男を見上げた。相手が何処《どこ》の誰だかわかれば糸目の眼力も我慢できる。

 この人が義兄《あに》を連れて行ったのだ。
 執事《グラウス》を血みどろにして。
 あたしの家族を、日常を壊した。この人が。


「怖い顔をなさいますな」
「……青藍様を返して下さい」

 この人は義兄《あに》の居場所を知っている。
 義兄《あに》が変わってしまった原因も、きっと知っている。

「残念ですが」
「返して!」

 あたしにお兄ちゃんを返して。
 優しかった青藍様を、返して。
 記憶がなくなってしまったならそれでもいい。もう1度あの人に会わせて。

「坊ちゃんはもう、外へは出られないのです」

 犀《さい》は眉を曇らせた。
 出られないんじゃなくて出さないんでしょ? ルチナリスにはそんな姿すら空々《そらぞら》しく見える。




 この部屋の扉は犀《さい》の背後にある。先ほどガーゴイルたちが出て行った扉だ。この部屋に扉はそれひとつしかない。
 窓は古城らしい小さなものが4つ。はめ込まれている硝子《ガラス》戸は鍵で開閉できるようだが、開けたところで外に出られる率は限りなく低い。
 逃げる前に捕まることを心配しているのではない。窓から見える景色が限りなく空ばかりだということが、この部屋の地面からの距離を如実《にょじつ》に物語っている。
 言い換えれば、窓から脱出したところで着地できる地面は遥か下、ということ。羽根が生えていたり、壁を走れるような身体能力の持ち主なら何とかなるかもしれないが、あたし《ルチナリス》ではあっという間に落下して、ベシャリ、と潰れるのがオチだ。

 大地の加護で何とかならないだろうか。
 ルチナリスは後頭部に注意を向ける。
 メイシア様《タラコ唇の人形》は空を飛んでいた。加護を授かったくせに何の力も出せなかったのは、あたしが望んだ方面で使える力ではなかったからなのかもしれない。執事《グラウス》が氷しか出せないとか、義兄《あに》が炎魔法しか使わないとか(義兄《あに》の場合、それ以外にも使っていた気がするが)、例えば砂糖で塩辛い味付けができないように、ものにはそれぞれ向き不向きがあるのだ。
 大地なら、重力を自由にできる能力とか、何処《どこ》でも地面にできる能力とか、きっとそういう能力……だったらいいけれども実践で確認するには命が足りない。


 そうだ。力と言えば、犀《さい》は何故《なぜ》自分たちをこの部屋に連れて来たのか。
 それはあたしが聖女だから、魔を滅すると言われているあの力を恐れてのことではないのだろうか。
 勇者《エリック》やソロネに「聖女かもしれない」と相談したところまでガーゴイル経由で知っているとしても、ロンダヴェルグまで行って何の力も得られなかったことまではいくら犀《さい》でも知りようがない。
 「聖女かもしれないが、力が出せない」あたしがロンダヴェルグに入り、その後「何の成果もなければ置いて行く」と言った|師匠《アンリ》たちと合流して魔界に向かう。これだけ見ればあたしが「聖女としての力を得た」と思われたとしてもおかしくはないし、現にあたしのことを「新たな聖女」と呼んでいる。

 だとすれば?


「……それで、義兄《あに》を返す気がないあなたがあたしたちに何の御用かしら」

 ルチナリスはあえて冷淡に犀《さい》を見上げる。
 予想が間違っていなければ、犀《さい》は何かを交渉するつもりで此処《ここ》に連れ込んだはずだ。
 ただ単に聖女を倒すためだけなら、着替えを提供し、怪我人を保護する必要などない。厨房で背後を取ったあの時にも手を下すことはできたはずだし、この部屋に来てからもいくらでもその機会はあった。

 もちろん、その時に自分が返り討ちにあうことを警戒したのかもしれない。
 城にいる人々――来客や、もしかすると義兄《あに》や紅竜まで――にまで効果が及んで浄化されてしまうことを避けたのかもしれない。
 あたしだって聖女の力は魔族を滅する、とはソロネからのまた聞きだ。1度発動した力の効果範囲など知らない。
 しかし犀《さい》は魔族。何百年も生きているだろうから、先代、先々代の聖女と対峙《たいじ》して知っているのかもしれないし、だとすれば警戒のほども窺《うかが》える。自分《ルチナリス》たちを害するつもりはない、と思うのは尚早《しょうそう》だろう。
 
  

 長椅子《ソファ》の上では柘榴《ざくろ》が寝かされたままでいる。
 動かすのは心配だが逃げるなら彼も連れて行かなければ。アイリスの執事という身分は犀《さい》も知っているとは思うが、だからこそ置いてはいけない。
 執事《グラウス》が言っていたように、この婚儀は打算でできている。紅竜が必要とするのは「アイリス」で、付き人《柘榴》ではない。むしろ今まで険悪な仲だった家から送り込まれた使用人など邪魔なだけだ。
 柘榴《ざくろ》が水路を流れていた原因がこの男にはないと、関わっていないとは言えない。


 ルチナリスは距離を測る。
 柘榴《ざくろ》までは5歩。そこから犀《さい》を越えて扉までは10歩程度。
 海の魔女事件の時に、執事が人形に魂を封じられたあたしとあたしの体とを片手で掴《つか》んで走るという芸当を披露したけれど、子ウサギ1羽掴《つか》んで走るくらいならあたしにもできる。
 あの要領で行くのよ。イメージトレーニングは万全よ!

「こんなところに呼んで、いったい、」
「駆け引きは不要です。そんなことより本題に入りましょう。お嬢さん、聖女の力が出せなくて困っているのではないですか?」
「え?」

 何故《なぜ》それを。
 ルチナリスは思わず髪飾りに手をやりかけて、止まった。

 横の髪は落ちてはいない。と言うことは天使の涙《髪留め》もまだ頭に付いている。
 自分の得た大地の力は=《イコール》聖女の力ではないし、どれだけの効果かも不明だが、どんな力であれ、天使の涙がその力を増幅することだけは間違いない。下手に触って、それが重要なものだとこの男に察せられることは避けたい。

 それに。
 この男、あたしが聖女の力が出せないことを知っている。


 ロンダヴェルグの中も魔族の手の者がいたのだろうか。
 あの街の結界は魔族を排するものではあるけれど、純血の執事《グラウス》には効果があったが、師匠《アンリ》は爪先で触れることはできた。血が薄ければ入り込むことは可能だった。
 義兄《あに》が結晶の部屋にいたのは結界が壊れた後かもしれないが、その義兄《あに》も魔族の血は半分しか流れていない。もっと血の薄い……何代も前に魔族がいた程度の血の者とか、人間でも金を積めば魔族の手先として動く者もいるだろう。

 いや。今は誰が犀《さい》に教えたかは問題ではない。
 聖女の力が出せないことを知っているということは、犀《さい》が自分たちを此処《ここ》に連れて来た理由は他にあるということだ。
 

「何故《なぜ》、」
「ロンダヴェルグには大きな結晶があったでしょう? あの中には大地の精霊メイシアの力を核に、歴代の聖女の力が蓄えてありましてね。それでもってあの街は結界を張っているのです」

 ルチナリスの問いには答えず、犀《さい》は言葉を続ける。
 ラスト15分前に崖の上で、犯人が動機から犯行の詳細までをペラペラ喋り始めるミステリーものに似ている気がするが、まだ義兄《あに》にすら会えていない時点でその場面を展開されても困るし、きっとそれとは違うだろう。


「新たな聖女が誕生するとその力を引き継ぐことになっているのですが……壊させて頂きましたが、あの時点で力はほぼ枯渇してしまっていました。酷《ひど》い話ですね、骨折り損とはこのことです」

 しかし話が見えない。
 何故《なぜ》、魔族である犀《さい》があの結晶のことまで知っているのだ。司教《ティルファ》から教えられることもなかった、それを。

 犀《さい》はルチナリスを見てクスリと笑う。
 ああ、あたしは今どんな顔をしているのだろう。交渉どころかテーブルに着く前にひっくり返されて、呆然としているのだろうか。だから犀《さい》はあんなに勝ち誇った顔をしているのだろうか。


「正式に聖女になる前に教えてくれてありがとう、と感謝するところですよ? あのまま何も知らずに聖女になっていたら、あなたの”ほとんどない力”を……せっかくメイシアから貰った大地の力を、あの街に搾《しぼ》り取られていたでしょうから」


 この人は何者?
 何故《なぜ》、敵であろうこの人が此処《ここ》まで詳しくロンダヴェルグのことを、そして聖女のことを知っているのだろう。




「骨折り損、と言うことは、あの結晶に用があったの?」

 問いを口にしながら、ルチナリスの脳裏にはあの結晶の部屋の光景が浮かんでいる。
 何本もの黒い管《チューブ》に繋がれていた。病人が何本もの点滴に繋《つな》がれているような、いや、あの管に縛りつけられている印象すら受けた。もし犀《さい》が言うように結晶の中に封じてあった力を吸い出すためのものだとしたら、後者の印象は気のせいと言うばかりではなかったことになる。

「そうですねぇ。わざわざ壊しに行く必要がなかったわけですから」

 犀《さい》は目を細める。
 質問が来ることを楽しんでいるようにも見えるが、はぐらかしているようにも見える。


 この余裕はいったい何なのだろう。
 こちが側に聖女の力がないことを知っているからこその「何時《いつ》でも捻り潰すことができる」という余裕だろうか。
 ルチナリスは横にいるはずのミルを窺《うかが》う。
 彼女《ミル》は剣を持っている。この目の前にいる男の実力は不明だが、部屋から逃げ出すくらいならどうにかできるだろう。できるだろうが、それにはミルと自分《ルチナリス》の意識が合っていなければいけない。「逃げるわよ!」と叫んで動くのが最も早い意思疎通だが、これでは犀《さい》にも伝わってしまう。


「放っておいてもロンダヴェルグの結界はじきに消えていた、と、そう言いたいのね」

 いくら司教《ティルファ》の力が強くとも、あの大きな街を囲うほどの結界を張り続けることは困難だろう。
 そう言えばロンダヴェルグの中央図書館で読んだ本の中に、魔力は魂そのものだという説を見た。根拠も何もない説ではあったが、以前、ガーゴイルが、


『坊《ぼん》は炎の魔法を使うでしょ? 魔法ってのは本人の性格に結構影響するもんなんすよ』


 と言っていたことに似ていると思った。

 魂に直結しているのなら、長命な魔族が強力な魔法を放てることも納得がいく。
 そして司教《ティルファ》の年齢がどうにも人間の寿命を越えているのではないかと思ったことも……結晶に保存してあった他人の魔力《魂》を取り込んで使っていたのだとすれば、理解できないことではない。倫理観や、医学的に可能なのかというところは置いといて。


 だが、そうして使っていけば結晶の魔力は枯渇《こかつ》する。あたしの髪留めに封じてあった義兄《あに》の魔力が、炎の竜を出して壊れたように。

 この1年ほどの間に聖女候補の娘が見つかるようになったのは、「見つかるようになった」のではなく、「見つけ出さなければならなくなった」からだとしたら。
 聖女の力とは呼べない、通常魔法の使い手ばかりが集まっていたのは、候補を探す際に魔法が使える娘に目が行ったからではなく、魔力補充要員としてとにかく魔力が集まればよかったから、だとしたら。
 力のないあたしに司教《ティルファ》が期待したのは……。


「彼自身、体も魂も限界を超えていましたからね。代わりが欲しかったのでしょう。ああ、もしかしたら彼自身の依《よ》り代《しろ》にするために最適だったのかもしれませんね。何と言っても集まった聖女候補の中では最年少、この先最も長く生きる可能性のある個体です」
「依《よ》り代《しろ》、」


 ぞわり、と背筋を寒気が駆け上がって行く。
 ただの温厚なお爺さんにしか見えなかった司教《ティルファ》が急に不気味なものに思えて来る。

 そうよ、おかしいと思ったもの。
 ただ単にミバ村出身だというだけで力も何もないのに、それなのに期待されるなんて。治癒魔法を繰り出すジェシカたちのような他の優秀な聖女候補を出し抜いたみたいで内心鼻が高かったけれど、これも司教《ティルファ》の策かもしれない。落ちこぼれて帰ると言い出さないための。 


「耳を貸すなルチナリス」

 犀《さい》を凝視したままのあたし《ルチナリス》の肩を、ミルが後ろから掴《つか》む。
 掴《つか》んだものの……振り返ったあたしの顔に、ギョッとしたように手を緩《ゆる》めた。



 ――騙シテ イタノヨ。


 声が聞こえる。
 そうだ。この人《ミル》も味方とは限らない。
 初対面の時から司教《ティルファ》のことを呼び捨てていたんだもの、地位の違いを越えた仲間だったのかもしれない。
 だからあたしの護衛兼世話役としてずっと貼りついていた。
 あたしが逃げ出さないように。司教《ティルファ》の新たな器となるあたしが野垂れ死んだりしないように魔界まで、ずっと。
 そう考えれば辻褄《つじつま》が合う。
 何故《なぜ》ミルはずっとあたしについて来るのか。それは親切でも、あたしが放っておけないからでもない。生き別れの妹の姿を映しているからでもない。


 ――ミィンナ 騙シテタノ。
  みる ダケジャナイ。司教モ 勇者モ そろねモ……師匠モ 執事モ ミィンナ……


 体の奥で黒いものが蠢《うごめ》く。
 馬鹿正直に懐いていたあたしを嘲笑《あざわら》っている。
 わかる。これは闇。誰の心の中にもある、闇。
 闇だって、わかっているのに。


『――笑え』

 
 笑えない。
 だって、笑えって言った人があたしを騙していたんだもの。信じようと思った言葉が、それを吐いた人が、あたしにはもう信じることができない。


 ――オ馬鹿サン。オ馬鹿サン ナ るちなりす。


 この人は誰。
 あたしの敵?
 あたしは誰を、何を信じたらいいの?
 この人は義兄《あに》を信じろと言ったけれど、それは信じていいことなの? 回り回って司教《ティルファ》のためになるだけじゃないの?


「お前は今会ったばかりのこの男の言うことを信じられるのか? この男は敵だろう? お前の義兄《あに》を連れて行った張本人だろう?」


 いつもの自分ならそんな言葉もスッと入って来たかもしれない。
 でも今は反発しか起きない。疑いを晴らすために敵視する目線を犀《さい》に向けさせようとしている風にしか聞こえない。

 ぐるぐると頭が回る。
 足元がぐらつく。靴底が何を踏んでいるのかわからなくなってくる。


 チリチリと焼ける痛みを後頭部で感じる。

 何よ。何が言いたいのよ。
 闇に耳を貸すなって言いたいの? それともこのどうしようもない感情のまま爆発してしまえって言うの? 天使の涙だか何だか知らないけど、今まで何も助けてくれなかったくせに。
 大地の加護だって授けたとか何とか偉そうに言われたけれど、何も……何も変わらない。


 ――騙シテタノヨ。ミンナ。


 誰を信じればいいの?
 信じたかった義兄《あに》はあたしを殺そうとしてきた。
 誰を。
 
 誰、を。



 その時だった。

「……今は聖女と話をしているのです。邪魔をしないで頂けますか、キャメリア様」


 ……キャメリア?
 思いもよらない名前にルチナリスの思考が止まった。次々に首をもたげ始めていた疑いの萌芽《ほうが》も、全て。




 キャメリア。
 それはアイリスの姉の名だ。執事と共に100年前に姿を消したと言われている、紅竜の幼馴染みにして許嫁《いいなずけ》の名だ。


『それって私じゃなくてもいいと思わない?』


 ゲートを通って行った世界で、千日紅《せんにちこう》という名のウサギと共にいた、淡い金髪の少女。ミルよりもずっと幼く、アイリスによく似た、それでもミルと同じ紅《・》い瞳をした彼女を、アイリスは「お姉様」と呼んだ。

 彼女は、あの世界の彼女が現実の彼女と同じなら、「自分にしかできないこと」を求めて姿を消したことになる。
 自分にしかできないこと。
 それは、剣士になること、なの?
 ルチナリスの視界の中で、犀《さい》に対峙《たいじ》しているミルの背はいつもより小さく見える。


『私は私の命をくれた人のために生きる』


 面倒な家同士のしがらみを捨てて、好きなことをして生きるという意味だったの?
 そのために悲しむ人《紅竜》がいても、人生を曲げられた人《アイリス》がいても、それでもいいの?
 ミルさんはそんな、自分がよければいいなんて考え方をしない人だと、そう言う考え方は切り捨てる人だと思ったのに。


 ――騙シテ イタノヨ。


 声が聞こえる。
 闇の囁きが。あたしの心が。

 ミルがキャメリアなら、魔界に行くことに動じなかったことも頷《うなず》ける。
 だって故郷《ホーム》だもの。人間界にいるよりずっと長い間過ごしてきた場所だもの。勇者《エリック》は瘴気《しょうき》が漂っている場所かも知れないなんて言っていたけれど、そうじゃないことも知っていたのなら、心配する必要もない。

 そうだ。剣士亭で依頼書を見ていた時、ミルは「魔族は嫌いだ」と言った。
 あの時に何故《なぜ》気づかなかったのだろう。人間は「悪魔」と呼ぶことに。
 「魔族」と呼ぶのは「魔族」だけだと言うことに。

 魔族は嫌い。
 魔族の、家に縛られるしかない生き方が嫌い。
 そう生きなければいけない「キャメリア」が嫌い。
 だから。
 


「……何を言っている」

 ミルは怪訝《けげん》な目を犀《さい》に向ける。
 隠していることを暴露されて動揺しているようには見えない、けれど。

「私はミル。ミル=ストロベリーフィールドだ。キャメリアなどという名では」
「ストロベリーフィールドというのは千日紅《せんにちこう》という草の品種のひとつですね」

 犀《さい》は扉の脇に飾られていた象牙色の花瓶から、1本の細い茎を抜く。すっと伸びた茎の先に、イチゴのような紅《あか》い塊の付いたそれが千日紅であり、ストロベリーフィールドという名を持つ草であるらしい。

 連れて来られたこの部屋にその草があるのは偶然なのか、連れてくることを見越して用意しておいたのか。この男なら後者だろう。
 千日紅というのはキャメリアと共に消えた執事の名。
 その名を、ミルが。


「何をわけのわからないことを、」
「おや、キャメリア様も記憶を失われているのですか? 最近は記憶喪失が流行《はや》りなんですかねぇ」

 何もかもを知っていると言いたげな顔で、犀《さい》はルチナリスたちを見回す。
 この男は義兄《あに》の父――先代の片腕。義兄《あに》が生まれる前から、いや、紅竜やその許嫁《キャメリア》よりも前からこの城にいたのだ。
 遠く離れたノイシュタインの状況も手に取るように把握していた彼のこと、執事の家やオルファーナでの義兄《あに》の様子も、義兄《あに》を手中に収めた今、取り返しに来るあたしたちの動きをも把握していないはずがない。
 そしてキャメリアの顔を知っているこの男が、ミルを見つけたら。

 だが。


「あなたが逃げ出したりするからアイリス様はあんなふうになってしまわれたんですよ?」
「何のことだ」

 本当にミルはキャメリアなのだろうか。
 記憶は義兄《あに》やメグのような前例があるから、どれだけ吹っ飛ばしてくれていても容認するだけの余裕はある。しかし、彼女とキャメリアが同一人物かと言われれば疑わずにはいられない。
 もしミルが魔族だと言うのなら、どうしてロンダヴェルグにいたのだ。執事《グラウス》や師匠《アンリ》が入れなかったあの街に。

 アイリスの姉ということは血筋ははっきりしている。
 魔界貴族は血の濃さを貴《とうと》んでいると聞いたことがあるから、義兄《あに》のような混血は少ないはずだ。
 きっと純血。
 ならば、結界が施されたロンダヴェルグに入れるわけがない。


「そう言えば最初に闇に堕ちたのはキャメリア様でしたね。坊ちゃんが半年で10年の記憶を失くしたことを思えば、魔界の記憶など1ミリも残っていなくて当然でした」


 今になって魔界に戻ることに異を唱えなかったのは、魔族としての記憶を失っていたから?
 だから、あたしを見張る役目を優先させて此処《ここ》まで来てしまった、と?


 指先で茎をポキリ、と折る犀《さい》に対し、ミルは剣の柄に手をかける。

「剣を向ける相手が違うのではありませんか? ああ、それとも何人もの同胞《はらから》を消滅させてきたその剣だからこそ、私にも向けるおつもりですか?」


 だが、この男とて何度も確かめたはずだ。
 本来ならロンダヴェルグにいる時点で魔族が――それも魔界貴族の純血な魔族が――いるはずがないのだから。
 そして、確かめた上でミルをキャメリアだと言っている。


 ミルはキャメリアで、魔族で。
 しかも闇に呑まれていて。


 ――騙サレタノヨ。


「騙してた、の……?」

 口をついて出た言葉は、遥か昔、義兄《あに》に叩きつけた言葉と同じものだった。
 あの時、あたしはどうやって義兄《あに》を信じようと思い直したんだったっ、け? 確か、あたしが掴《つか》んでいた鋏《ハサミ》を、

「ルチナリス」
「無駄ですよ。その娘はもう闇に呑み込まれています。私たちの、仲間です」

 
 あたしも闇に呑まれている?
 そうなの? 全然自覚なかったけれど……もう、

 後頭部がチリチリと痛む。
 これは天使の涙が闇に呼応しているから、だったのか。
 すぐ近くにいる《ある》「あたし《闇》」に。


「ルチナリス、その男の言うことを聞いては」
「無駄ですよ。それとも浄化なさいますか? あなたのその剣を、その娘に突き立てて」


 闇に呑まれるってどうなるんだろう。
 義兄《あに》のように記憶をなくしてしまうのだろうか。


「キャメリア様に再びお会いすることができるとは。紅竜様もさぞお喜びになることでしょう」

 視界が暗くなる中で犀《さい》の声が聞こえる。
 針の穴のような小さな光の向こうで喋っている。その光も、ゆっくりと黒に吸い込まれるように消えていく。
 
 記憶。
 ミバ村での、孤児だからって哀《あわ》れまれた記憶。
 ノイシュタインでの、ずっと一緒にいるつもりだった義兄《あに》に遠ざけられた記憶。メグに裏切られた記憶。
 ロンダヴェルグでの、並み居る聖女候補と比べられ、劣等感にさいなまれた記憶。
 そんな記憶、


 ――捨テチャイナヨ。


 捨て、ちゃえ。




 ルチナリスはそのまま仰向けに倒れた。

「ルチナリス!?」

 突然のことに慌ててミルが駆け寄る。
 その一連に、犀《さい》は侮蔑《ぶべつ》ともとれる視線を向けた。

「最後まで何の役にも立たない小娘でしたね。まぁ、マスコットキャラというものは得てしてそんな存在ですが。ともかく我々には不要なものです。さ、そんなものは捨てて」

 そして歩み寄ると、片膝をつき、頭《こうべ》を垂れる。その姿は自分より身分の高い者、というよりも主人に対する姿にすら見える。

「……何のつもりだ」
「何と申されましても。キャメリア様は我が主の婚約者ではありませんか」
「私はキャメリアではないし、キャメリアだとしても、紅竜とやらの今の婚約者はアイリスという娘だろう?」
「それはそうなのですが、キャメリア様がお隠れになってからの紅竜様の荒れようは酷《ひど》いものでしたからね。私としては今でもキャメリア様のほうが相応《ふさわ》しいと思っておりますし。それに、元の鞘《さや》に戻るおつもりがないのだとしても、1度くらいは顔を見せて頂けないものかと」

 慇懃《いんぎん》に述べる犀《さい》の背後に、何時《いつ》の間にやらメイドが並んでいる。
 左右に5人ずつ、10人。
 メイドというだけあって非力そうな女性ばかりだが、そのどれもが能面のような無表情でいるのが気になる。何か仕掛けようものなら想定外の力で立ちはだかってくるような、そんな得体の知れなさを感じる。

 ミルは片手でルチナリスを支えたまま、もう片手を剣の柄にやる。
 どちらにせよルチナリスを抱えたままでは剣は抜けない。しかし置いて剣を抜いたところで、その隙をついて目の前の敵に掻《か》っ攫《さら》われるだろう。
 不要なものと犀《さい》は言ったが、彼女《ルチナリス》の身柄と引き換えに自身を従わせようとすることは、ないとは言えない。
 しかし。

 キャメリアとは、誰だ?
 記憶がないと犀《さい》は言ったが、自分自身、「父」と呼んでいた男と旅をしている以前の記憶がないのだから、間違っていると撥《は》ね|退《の》けることもできない。
 「父」から聞いた「行き別れの妹がいる」という事実がアイリスという妹を持つキャメリアと合致していることも、撥《は》ね退《の》けられない理由のひとつとして絡みついて来る。
 そして合致する部分がひとつでもある以上、他人の空似だと指摘したところで犀《さい》が聞く耳を持つとは思えない。
 しかし、キャメリアの振りをしたところで別人だと知れば、それはそれで問題が起きるだろう。紅竜という男がその娘を失ったことで荒れた、と言うならなおのこと。
 

「お前は……何故《なぜ》私をキャメリアだと? その根拠は何だ」

 まずは自分のことをキャメリアだと思っているこの男をどうにかしなくては。
 ミルはそう問いながら左右に居並ぶメイドたちを見回す。隙なく横一列に並んでいる様《さま》はまるで壁だ。

「知れたこと」




 犀《さい》は片膝をついたまま、つい、とミルの目を指さした。

「お忘れになっていらっしゃるでしょうから説明申し上げますが、魔族にはごく稀《まれ》に魔眼という特殊な目を持って生まれる者がおります。他人を魅了し、意のままに動かすことができる能力です。
 特徴としましては発動時に瞳が紅く染まることですが……本来、魔眼ではないと言われて来た”ただの紅目”にもその力が多少含まれるらしいということがわかって参りまして。
 で、魔法少女、でしたでしょうか。随分と人気を博していらっしゃいましたね。騎士団に入って間もないあなたが司教を呼び捨てても許されるほどに」
「あれはキャラ作りのためだと頼まれたから仕方なく呼んでいただけだ。それだけで私をキャメリア、と?」
「他にもないわけではありませんが」


 自分の目が?
 そう言われたところで、自分の目にそんな能力があるように感じたことなど1度もない。犀《さい》が言うところの魔法少女とて、あの舞台が流行《はや》ったから主人公に似ている自分が注目されただけのことだ。だがそれでは納得などしてはもらえない。

 いっそのことキャメリアの振りをすればこの男は従うのではないか、ルチナリスと柘榴《ざくろ》だけでも安全なところへ逃がすことができるのではないか、とも思ったが……



 その時だった。
 爆発音と共に床が弾け飛んだ。犀《さい》の背後、壁になっていた10人の足元で。



 もうもうと立つ砂煙は、床が崩れたせいだろうか。
 視界が徐々に明けて来るにつれ、絨毯《じゅうたん》が裂けてめくれあがり、酷《ひど》いことになっているのがわかる。そして、その中央に何かが座りこんでいるのが見えた。
 紅《あか》い、羽根飾りが。




「ふっふっふ、真の勇者はピンチの時に現れるものなのさ!」
「エリック!?」

 へたり込んでいるところが勇者らしい、とルチナリスが正気なら言ったことだろう。いや、自分《ミル》も思ったし、似たような台詞《セリフ》なら魔法少女リリカル☆ストロベリィでも聞いた。自分に似た衣装の役者が勇者だの正義だのと言うのには閉口してしまったが。
 つまり、そんな歯の浮きそうな――間違っても自分は口にしそうにない台詞《セリフ》。それを平然と言う時点で間違いなく勇者《エリック》本人だろう。

 だが、どうやって此処《ここ》に。魔界に来るには精霊が必要だったはずだ。だから自分たちはトトを連れていた。
 まさかとは思うが、上流から流れて来る怪しげな桃を拾ったら、中から精霊でも出て来たのだろうか。
 それとも亀に拉致《らち》られた海の底にいたのだろうか。

 なんせ一応は勇者の肩書きを持つ男。その肩書きは武器屋が20%OFFで売っていた聖剣を買った際についてきたという偽物との差がつかないものだが、名称が勇者なのは間違いない。
 そして勇者と言えば、納屋《なや》に入れば金品が入った宝箱が鍵もかけずに置いてあったりする……「勇者にしか訪れない幸運、RPG七不思議」が日常的に発動すると言われている強運の持ち主。現にこの偽物と紙一重の男も運だけはいい。勇者の手にかかれば精霊を手に入れることなど造作もないのかもしれない。
 しかし、今はそんなことを追求している場合ではない。

「エリック! そこのウサギをを頼む!」
「え? ウサギ? え、あ? 柘榴《ざくろ》さん!? ええ?」

 登場してすぐに飛んできた指示に勇者《エリック》は慌てて左右を見回し、長椅子《ソファ》の上の柘榴《ざくろ》を抱き上げた。
 それを横目で見つつ、ミルはルチナリスの身を脇に退《の》ける。
 抜刀すると同時に剣圧を放つ。

 目の前の壁3人がよろけて体勢を崩す中、ミルは再びルチナリスを|抱《かか》え上げ、一足飛びにメイドたちを飛び越えた。その後を勇者《エリック》が続いた。




 何処《どこ》まで行っても同じ光景が続く廊下をふたりは走る。
 並んだ窓から入り込む月明かりが廊下に落ちている。明と暗が交互に繰り返される中を進んでいると、線路の上を走る汽車になった気分になる。


「もう、追って来ないみたいだよー」

 どれだけ走ったことだろう。そんな勇者の声が追い縋《すが》ってきて、ミルはやっと足を止めた。
 立ち止まり、振り返り。周囲の気配を探ってみても自分たち以外に誰かが潜んでいる気配はない。ないが、空気が混ざるようにして姿を現した犀《さい》のこと、油断はできない。
 だが自分の体力も限界だ。
 ミルはルチナリスを壁際に下ろす。背は低いが年齢的には自分とそう変わりない娘を抱えてよく走れたものだ。火事場の馬鹿力に似たものが発揮されたのかもしれない。下ろすと同時に両膝が崩れた。

「ねぇ、何があったのさ」

 柘榴《ざくろ》を抱えたまま、エリック《勇者》がルチナリスを覗き込んでいる。走る際の衝撃をかなり受けているはずなのに全く目を覚まさないのは、それが眠っているからではないことを表している。

 何があったか、なんてこっちが聞きたい。
 |犀《さい》と名乗る男が現れて、自分《ミル》のことを魔族だと言って。ルチナリスから「騙していたのか」となじられて。そして彼女はいきなり昏倒した。
 エリック《勇者》やティルファ《司教》、そして旅の道中にグラウスから聞いたルチナリスの幼少期からの境遇を考えれば隣に魔族がいたと言うのはショックだったと思うが……それでも当の本人《自分》の受けた衝撃に比べれば昏倒するほどのものではないと思うのだが。少し前までどう見ても人間には見えない化け物とも普通に喋っていたし。


『――無駄ですよ。その娘はもう闇に呑み込まれています。私たちの、仲間です』


 そうだ。何があったか。それは犀《さい》が言っていた。
 言っていたけれど、

「闇に……呑み込まれた、らしい」

 それは真実だろうか。
 犀《さい》のことだ。嘘を言っているのかもしれない。しかし他に理由が思い当たらない。

 闇の存在は知っている。各地から上がって来る事件の報告書で此処《ここ》数年よく見かける単語だ。得体の知れないもの、犯人が見つからなかったものを全て「闇」なる名称で片付けている印象を受けた。
 けれど、得体が知れないからこそ余計に恐ろしく感じるのも確かで。
 ロンダヴェルグ内では未《いま》だ闇の存在は確認されていなかったけれど、何か起きる度《たび》に「闇のせい」と言われるようになったのも本当で。
 少し前に流行《はや》った「何でも妖怪のせいにすること」のように、「得体の知れないもの」に形を当てはめて恐怖を軽減しようとすることと同じなのだろうと思ってはいたけれど。

 しかし、闇関連の報告書に記載されている症例は、どれもが「狂暴になる」「姿を変える」「人間ではなくなる」といった類《たぐい》。今のルチナリスとは違う。
 彼女《ルチナリス》の義兄《あに》が「眠り続ける」という症状を出していたが、しいて上げればそれが1番近いだろうか。


「それじゃあ今は心の中で戦ってるんだね」

 勇者はルチナリスの隣に腰を下ろした。彼女を真ん中に挟んで3人横並びに座っていることになる。

 心の中で戦っている。
 彼女はロンダヴェルグでも旅の道中でもずっと自問自答していた。今も闇に向き合っているのかもしれない。もしそれで闇に負けたら、報告書にあった変化が起きるのかもしれない。

「そうなのか? 治る見込みはあるのか?」


 エリックの妹も闇に呑まれた。彼女《妹》が豹変していく様《さま》を間近で見ていた彼なら、今のルチナリスの状態も「1度は見たことがあるもの」なのかもしれない。

 変化が起きれば、ルチナリスは自分たちを攻撃してくる。
 彼女が闇に打ち勝つことを祈るしかないが、このまま連れて歩くのは時限爆弾を抱えていることと同じだ。
 どうしたらいい?
 目を覚ましてくれなければこれ以上は進めない。望み通り義兄《あに》に会わせてやりたいが、今のままではどうしようもない。もし会う機会があったとしても、何の思い入れもない自分《ミル》が会ったところで何の意味があろう。

 あと、ケルベロスの前に置いて来てしまったアンリとグラウスのことも。
 今、自分たちがいる場所は窓の外の景色からして2階以上。彼らがいるはずの地下水路はその名のとおり地下にあるだろうから下に下りればいいのだろうが、下りたところで合流できる可能性は低い。長期戦になるのは避けたい。

「さあ。こればっかりは聡明な僕の頭脳をもってしても」

 本来ならこんなところで座り込んでいる場合ではないけれども足が動かない。
 魔界に来てから体が重くなったように感じるのは、同じに見えて人体に悪影響を及ぼす物質が空気中に混じっているのではないかと、そんな邪推もしたくなる。それに。
 
「それでお前はどうやって此処《ここ》に来た」
「……今、華麗にスルーしたよね僕の言ったこと」


 エリックが文句を言っているが、ミルの耳には届いて来ない。
 それ以上に考えなければいけないことが、彼の声を遮っている。


『――闇に呑み込まれています。私たちの、仲間です』
 

 犀《さい》が言った「私たち」には自分《ミル》も含まれているのだろうか。
 自分も闇に呑まれているのだろうか。
 会いに行こうとしているルチナリスの義兄《あに》は闇に呑まれて記憶を失ったと聞くが、自分の記憶がないのも同じことなのだろうか。


「イチゴちゃん?」
「あ、ああ、すまない。考えごとをしていた」
「やだなぁ。僕を待たせるのはイチゴちゃんくらいだ☆彡、ぜ☆彡」
「そうか」
「……………………………………………………調子狂うなぁ」

 場を盛り上げようとしてくれたのだろうが……カッコいいポーズ(自称)が不発に終わったエリックは口を尖らせると、思い直したように口を開いた。

「そうそう、どうやって来たか、だったっけ。
 うん。あれは忘れもしない。僕が家族の安否を確認し、ロンダヴェルグに戻ろうとした矢先のことだった。空は1点の曇りもなく澄み渡り、地上の、」
「要点だけ頼む」
「……。
 なんかね竜に乗ったおネェさんが魔界に連れて行ってあげるわ、って。ふっ、僕ほどになってくるとナンパも意表を突かないと相手にしてもらえないとでも思っているのかなぁ、僕はどんなに貧相なおっ〇いでもWelcome《ウェルカム》だって言うのに!」

 エリックの意味不明な自画自賛混じりの話を要約すると、ドラゴンに乗った女性と共にノイシュタインからロンダヴェルグに戻る途中、突如《とつじょ》タラコ唇の不細工な人形が喋り出し、気が付いたらあの場にいたのだとか。
 気が付いたら、の部分が重要なのだが……推測するにメイシアが魔界への道を開いたのだろう。もちろん、ドラゴンに乗った女性というのはカリンのことに違いない。エリックが彼女の胸を指して暗に貧乳だと言っていることは黙っておいたほうがよさそうだ。

「で、その女性と人形はどうした」

 隔《へだ》ての森に入る前にカリンたちとは別れた。
 ウィンデルダを魔界などに連れて行きたくないと言ったことも理由だが、その前に彼女らは単なる運び屋。戦闘が避けられない魔界にまで来てもらういわれはない。

 彼女らはメイシアを届けるためにロンダヴェルグに戻ったはずだ。
 グラウスが脱落するかもしれないルチナリスのことを考えて、一旦は隔《へだ》ての森にまで迎えに来てもらうよう頼んでいたが、ノイシュタインにエリックを迎えに行けとは誰も言っていない。一時《いっとき》、エリックの話題が出た時も、カリンは|人間狩りが起きた場所《ノイシュタイン》になど行きたくない、と言っていたように記憶している。
 気を利かせてくれたのだろうか。
 ロンダヴェルグに行くのを止めたのだろうか。あの森からノイシュタインへ行くにはロンダヴェルグとは逆方向だから、向かう時に偶然出会ったとは考えられない。

「一緒ではないのか?」
「あ、ええっとね。ええっと……ああ、そうだ。暫《しばら》く空を飛んでたんだけど、”ここらへんでいいかな”って声が聞こえたかと思ったらドラゴンから振り落とされて。
  嗚呼《ああ》! やはりこれは罠だった! 彼女は悪いお〇ぱいだったのだ! 勇者の名にかけて悪いおっ〇いは矯正し、」
「そ、れ、で?」
「あ、っと。”それじゃああたしらは帰るね、バハハーイ♡”って」
「……」

 すぐに脱線する話を軌道修正しつつ聞き出したところによると、どうやらカリンたちは魔界にまでは来ていないらしい。鍵と呼ばれていたことから考えるに、道を開けば精霊は魔界まではついて来る必要はないのだろう。帰路のことを考えないのであれば。

 それにしてもメイシアは何を考えてエリックを送りこんだのか。
 彼女(?)もいきなりルチナリスに大地の加護を授けたり、と、何を考えているのかわからない部分が多いが、何か意図を持って動いているのだろうか。
 エルフガーデンで出会った精霊たちからも、アンリから聞いたジルフェという名の精霊が自分たちについて語ったことからも、精霊というのはわりと物ごとに淡泊で執着しない性分らしい。が、十人十色と言う言葉は精霊にも当てはまる。
 ただでさえ精霊のイメージからかけ離れたメイシアのこと、目の前で雄弁に語るこの男《エリック》のように「少しでも物語に関わって自分の出番を増やしたい」だけとも考えられる。




 ところ変わって、ミルが心配していたアンリとグラウスは、と言うと。

 相変わらずケルベロスと対峙《たいじ》していた。
 ルチナリスとミルが水路に落ちたのは見たが、流れも緩《ゆる》やかだしすぐに上がって来られると思った。それよりも彼女たちに気を取られた隙を狙って獣が襲い掛かって来ないとも限らない。だからずっと獣のほうを注視していたのだが。

 何分経《た》っても上がって来る気配がない。
 もしかして最悪の事態になってしまったのでは? と横目で窺《うかが》うと……女性陣ふたりの姿は忽然《こつぜん》と消えてしまっていた。

「ルチナリス!?」

 グラウスが振り返り、水路の下流に目をやりながら叫んだ声を皮切りに、ケルベロスが地を蹴った。
 2匹は頭上から、もう2匹は左右に分かれて、残る1匹は正面から――という、整った連携の布陣に思わずアンリも

「犬にしとくにゃ勿体《もったい》ねぇな」

 と呟いてしまったほどだ。

 だが、感心している場合ではない。
 アンリは抜刀しざまに左から襲い掛かる獣を切り、その勢いのまま正面にも切りつける。
 切りつけたと同時に左足首を捻《ひね》って右に踏み込み、右側の獣にも剣を振るった。
 が、獣のほうが早かった。すんでのところで踏みとどまった獣の鼻先を剣が掠《かす》める。剣を振り切ってがら空きになった身を上から圧《の》し掛かるようにして、頭上の獣が爪の尖った前足を振るう。
 
「やべ、」

 振るわれた前足を左腕の籠手《こて》で食い止めた矢先、その獣は横っ飛びに吹き飛んだ。見れば氷の飛礫《つぶて》を撃ち込まれている。
 飛礫《つぶて》の勢いに押された時に体勢を崩した獣は、正面から向かってきていたもう1匹の顔面にぶち当たり、2匹まとめて壁に叩きつけられた。
 そう言えば右から来ていた奴《やつ》は、と見れば、足を凍らされて身動きが取れないでいる。
 こんな芸当ができる奴《やつ》は――
 
「ポチ!」
「……グラウスです」

 アンリの背後、水路の際から氷を放ったのはグラウスだ。
 さらにその後ろにある水路までもが凍りついている。

「おい、お嬢たちがいたら」
「いないから大丈夫でしょう」

 見れば水路の中で凍りついているのは1匹のケルベロスだけだ。頭上を飛んだ2匹のうちの片方だろう。
 身を屈《かが》めてやり過ごし、水に落ちたところを凍らせた、と見える。

「それよりも、」
「左!」

 指摘するより早く、最初に切りつけられたケルベロスが足を引きながらも再びアンリに襲い掛かる。氷を放って来るグラウスよりは御《ぎょ》しやすいと思ったのか、ただ単に近い位置にいたからなのか。
 そんな獣にアンリは右足を踏み込んだ。剣を上段に構え、まだ何もいない空間に振り下ろす。

 普通に考えれば空振りに終わる。
 今回も予想通り獣に剣は掠《かす》りもしなかった。だが、獣は後方に吹き飛ばされた。

「今のは……剣圧ですか?」
「おう、他人がやってるのを見ただけだが、案外できるもんだな」

 アンリは得意げに口角を上げた。

 簡単に言うが、案外にできる芸当ではない。彼の腕力と背の高さ、腕の長さがあって初めて成せる技だろう。かつての陸戦部隊長の肩書きは伊達《だて》ではないと言えばいいのか。剣の世界に長くいたからこそ可能だったとも言える。


「さて」

 アンリは剣を収めると、成果を確かめるように周囲を見回した。
 壁際と左に倒れているのが2匹と1匹。水路で凍りついているのが1匹。右の奴《やつ》はまだ意識があるが四肢《しし》を床に縫《ぬ》い留められて動くことが出来ないでいる。

「どいつも息の根を止めるにゃ至ってねぇな。1匹ずつ殺《や》ってもいいが」

 断末魔の悲鳴が上がれば、ケルベロスが負けたことを隠れているであろう兵士に教えることになる。そうすれば今度は彼らがやって来る。
 狭い場所とは言え、本気で叩くつもりならばケルベロスだけではなく兵も投入してくるはずだろうのにそれをしないのは、戦力を温存しているのか、殺すつもりがないのか。目的は向こうもわかっているだろうから泳がせるという選択肢はない。
 だが兵士の投入が遅れているのはこちらとしてもありがたい。こんなところで足止めされているわけにはいかないし……10年以上経《た》っていれば見知った兵のほうが少ないだろうが、アンリにとって、かつての部下に間違いはない。
 なのに。

「甘いですね。流石《さすが》は青藍様を教えただけのことはあります」
「ああ?」

 笑い声混じりの台詞《セリフ》に嘲笑を感じとって、アンリは思わず語気を荒げた。

 そりゃあお前にとってはただの兵士かもしれないが、彼らは自分《アンリ》が足で探してスカウトし、剣の握り方から教えた連中。青藍が大事な教え子であるのと同様に、ただの一兵卒も自分にとっては手塩に育てた我が子のようなものだ。殺さずに、否、傷すらできることなら付けたくはない。
 剣士、兵士の命は体で決まる。大したことないと放置した傷が後々古傷となって体の自由を奪い、そこから衰えていく。たとえ魔族が長命と言えども、寿命以前に死ぬのなら人間のような短命種と同じだ。
 自分に人生を預けてくれた部下たちだからこそ、人生の途中で退場させたくはない。その退場劇の幕を引くのが自分だなんて真っ平だ。
 赤の他人にはわからないだろうが!

 だが。

「あの人は来る勇者を1度も殺しはしませんでした。本当に師弟揃って甘い」

 そんなアンリの苛立ちを流して、グラウスは微笑んでいる。
 
 ああ。またその顔だ。少し前も「ケルベロスのことを考えていた」などとはぐらかしたが、誰を考えているのかなど一目瞭然じゃないか。
 愛弟子が、こともあろうに同性《男》から好意を抱かれているというのは愉快なことではないが、長い付き合いからこの男の性格や想いの強さを把握してくると邪険に撥《は》ねつけられなくなってきて困る。
 だから。

「……俺だって切る時は切る」

 顔も見られない。
 アンリは、さもケルベロスたちを見回すかのように、グラウスに背を向けた。


「ええ。でも今はそうじゃない」

 グラウス曰《いわ》く「甘い」考えを何処《どこ》まで読まれているのか、そんな声が聞こえて来る。
 間近の声を聞かないようにして遠くの声に耳を澄ますのは矛盾どころではないが、アンリは耳に集中する。
 新たな足音は聞こえて来ない。
 きっと向こうも耳を澄ませているのだろう。物音が聞こえなくなったら「戦いに決着がついた」とやって来る。今はまだ息のあるケルベロスの唸り声が響いているから来ない。それだけだ。

 凍りついた水路のかなり先のほうにも人間らしいものは浮いていない。
 このあたりは水深もかなり浅くなっているから溺れるはずもない。
 ルチナリスひとりなら足を滑らせて慌てふためいて、足がつくにもかかわらず溺れるような器用な真似もできるだろうが、ミルがついているのにそんなことにはならないだろう。

 だとすると、考えられることはただひとつ。
 敵に連れ去られた、だ。

 自分たちに気付かれることもなくそんなことができる者は限られる。犀《さい》を過大評価するつもりはないが、この城で自分《アンリ》に気付かれないほど気配が消せるのは犀《さい》くらいだろう。
 他の者……例えば、紅竜なら頼まなくても出て来る。
 青藍を奪い返されたあの日のように、周囲を大勢の兵士で取り囲み、明りで煌々《こうこう》と照らしだし、そこで公開処刑のようにケルベロスと黒い蔓をけしかけられた時のことを思えば、女性陣が消えた件に関しては紅竜は噛んでいない。
 そして紅竜が関わっていないからこそ、奪い去られたとしても彼女たちの身は安全だろう、という全く根拠のない信頼を抱いてしまう。犀《さい》が連れ去った、という証拠もないのに。

「ケルベロスの息の根を止めない以上、再び彼らは追いかけて襲って来るでしょう。しかし殺せば次にあなたが会いたくない兵士がやって来るわけです。だから彼ら《ケルベロス》にはできるだけ長く此処《ここ》に、生きたままいてもらわねばなりません」
「何が言いたい」

 振り返ってアンリは息を止めた。
 グラウスは先ほどと同じ笑みを浮かべて立っている。その背後に、氷から削り出したように透き通った竜が、高いとは言えない天井の下で窮屈そうにしている。鱗や羽根が当たった壁や天井が、見る間に凍りついていく。




「お前、何……だ? そりゃあ」

 青藍が炎の竜を繰り出すようになったのは他ならぬ自分《アンリ》が教えたからだ。大きすぎる魔力を操るために、魔力そのものに形を与えることを教えた。
 これは青藍ほどの魔力があればこそできる技。教えたとは言え、自分《アンリ》程度の魔力ではできない。
 それをこの男《犬》が? アーラの町に潜んでいる間、青藍並みにしてやる、と鍛えてはみたが、その時だってこれほどの魔力があるようには感じなかったのに。

「ああ、その前に。4匹請け負って頂いて助かりました。ありがとうございます」
「勝手に俺のほうに……4匹来た、んだ。礼を言……われる、もん、じゃねぇ」

 違う。これは大きさに圧倒されているだけだ。気圧《けお》されたわけじゃねぇ。
 そんなことを頭の中で叫びつつも、目はその竜から離すことができない。

「……で、そんなもん出してどうする気だ」
「ですから。ケルベロスが連携プレイで来たのですから、私たちも連携しましょう、と。ああ、そんな期待に満ちた目をしないで下さい。大した提案ではありませんから」




 それから30分ほどは経《た》っただろうか。
 地下水路を抜け出したふたりは廊下を歩いている。足下《あしもと》は粗削りな石畳から毛足の短い絨毯《じゅうたん》に変わり、そのせいで足音をさほど気にしなくてもよくなった。

 窓の外、中庭を挟んだ向こう側の棟から明かりが漏れている。音楽も聞こえる。この城に侵入する時に見かけた大勢の招待客は彼処《あそこ》にいるのだろう。
 挙式日より前だというのに早々にやって来ている彼らは、まず間違いなく紅竜支持層。少しでも紅竜との接触の機会を増やし、顔を売っておきたい連中だ。そんな彼らが一箇所に集まってくれているのは幸か不幸か。見つかっていない今は幸だろう。
 彼らの大半は貴族。
 血の濃さを重んじるだけあって魔力の高い者が多く、また、剣術や武術も「貴族の嗜《たしな》み」として習得している。習得しているとは言え得手《えて》不得手《ふえて》もあり、また、家同士の抗争が少なって来た昨今ではせっかく習得した技術も錆《さ》びつくばかりだが、全く習いもしない庶民に比べれば戦闘力は高い。
 貴族なんて戦いとは無縁で集まって怖い怖いと言うばかり、だと思っていてはいけない。もし見つかれば、紅竜に恩を売ろうと件《くだん》の技術をここぞとばかりに披露してくることは間違いない。


 煌《きら》びやかな向こう側と、灯りすらないこちら側。
 その差はグラウスに遥か昔となったあの夜を思い出させる。紅竜がこの城の当主になることが決まった――青藍と初めて出会ったあの夜を。 




「いいのか? あの竜」

 その煌《きら》びやかな明かりを横目に迷う素振りも見せず真っ直ぐに進んでいくアンリは、後を追うグラウスに背を向けたまま問う。

 地下水路でのグラウスの提案は酷《ひど》いものだった。 
 彼が連れていた氷の竜で前後の通路を塞《ふさ》ぎ、その空間にアンリが水を注ぐ。ケルベロスの首が辛《かろ》うじて出ている状態で、その水を凍らせる。
 水路に落ちた1匹は他の4匹よりも低い位置にいるので悲しい結果になってしまうが、残る4匹は必死に氷から抜け出そうとするだろう。声も上げるし、音も立てる。遠くから耳を澄ませている程度なら、未《いま》だに戦闘が続いているものと錯覚するだろう――それが笑顔のグラウスから告げられた「連携プレイ」の概要だ。
 ……生きているものを氷漬けとは。
 命を取らないだけましとも言えるが、提案を申し出て来た時の笑顔と|相《あい》まって、この執事がとんでもない男に見えて来る。
 まるで。
 そう、まるで犀《さい》を相手にしている時のような。


 アンリと犀《さい》が前当主の片腕として戦場に立っていた頃、目に感情が一切出て来ない犀《さい》は、いつも淡々と命令をこなしているように見えた。
 何を考えているのかわからない。
 次に繰り出す手が読めない。
 敵に回したくない、とはよく言われたが、実際のところは味方にもいてほしくないタイプと言うか……何時《いつ》の間にやらセット扱いされている自分《アンリ》でも未《いま》だ犀《さい》の本質はわからないでいる。
 ただ、水晶の精霊と言うだけあって濁ったもの、汚れたものは嫌悪している、ということだけはわかった。それは物であったり人間の感情であったりといろいろだが、その性分ならば卑怯な手は使わないだろうという根拠になり、それが何時《いつ》しか信頼になったのは確かだ。
 ルチナリスとミルが消えた件でも「犀《さい》ならば」と思ってしまった理由はそこにある。



「あれは別段、私の魔力を消費しているわけでもないので構いません。それに竜の本体は此処《ここ》にありますから、」

 アンリが見えていないことを承知で、グラウスは自分の胸を指す。

「私と距離が離れれば自然消滅します。あれは切り札ですから私としても戻って来てもらわないと」
「っつーことは、距離が離れない限り、もう1回あの竜を出すことはできないってことだな」


 この男《グラウス》とあの竜との関連はわからないが、青藍のように己《おのれ》の魔力を消費して形作っているものとは根本から違うようだ。

 アンリは足を止め、壁際に身を潜める。
 曲がり角をメイドが横切っていく。
 地下水路を抜け出してから数回、こうして使用人をやり過ごしているが、出くわすのはメイドばかりだ。どの娘も大量のシーツを抱えていたり、ワゴンを押したりしているのは、来客が泊まる部屋の準備でもしているのだろう。

 この城の一族が住まう階《フロア》はさらに上。
 グラウスの言う「竜が消える距離」がどの程度かはわからないが、紅竜たちと対峙《たいじ》する時には戻って来ていることを信じたい。



               



 かなり進んだが見える光景は何も変わらない。
 しいて上げれば先ほどの客人用の階には灯りがあったが、今日は月が明るいので灯りのないこの階でも違いが見いだせない。

「ルチナリスたちが連れて行かれた場所に心当たりはないんですか?」

 それが焦りを生む。
 なじるような色を混ぜた問いを、この場にいるもうひとり《アンリ》に投げつけてしまう。

「あるわきゃねーだろ」

 そして予想どおりの返事しか返って来ないことが、さらなる焦りを増す。


 前回、グラウスがこの城を訪れた時も灯りなどなかった。月明かりだけで第二夫人の部屋がある塔まで歩いていく紅竜と青藍に、「灯りがない」ことがこの城では珍しいことではないのだ、と驚いたものだ。
 2回目にもなると驚きはしないが、灯りがないのは不便でしかない。
 しかし住民も使用人もが暗闇に慣れているこの城で灯りを持って歩くことは「部外者だ」と主張するようなもので……暗闇ではそれ自体が目立つこともあって、点けることができない。

「運のいいことに、嬢ちゃんの目的もお前の目的も青藍だ。だったら青藍を探したほうが早いだろう? 城内をあてどなく探すよりも、嬢ちゃんもそっちに向かっている可能性は高い」

 そして暗闇に慣れている男は背を向け、足を止めることもなくそう呟く。
 彼女らが何処《どこ》へ連れていかれたか定かではないが、余程地下通路から近い場所でない限り、戻るよりも先へ進もうとするだろう。此処《ここ》には敵しかいないし、共にいるであろうミルの剣の退魔効果も有限だと聞いた。敵を倒した分、ボーナスでもつくのなら話は別だが、そうでない限り無駄な遭遇《エンチャント》は避けるはずだ。


「さて。どうだ、賭けをしないか? 先に青藍を見つけたほうが所有権を主張できる」


 相変わらず自分《グラウス》には背を向けたまま呟かれた提案に、グラウスは訝《いぶか》しげな視線を向けた。
 今は共闘の形を取っているが、アンリと自分の目的は違う。それはお互いに知っている。だから紅竜が出て来た時にアンリを出し抜こうと考えたこともあった。アンリの提案はそんな自分の考えを見透かしたかのようだ。

 アンリは青藍の師。ノイシュタインの町長の家に乗り込んで来た時も、アーラの町で思惑を伝えて来た時も、彼が青藍のことを思って動いているのであろうことは見て取れた。前当主の意思に従って青藍を当主に据えることも、彼《青藍》のためになると思っているから動いている。
 これは彼が叩き上げで部隊長にまでのし上がった武人だと言うことや、この城を追放されて以降の苦労から導き出されていることは間違いない。
 自由という名に隠された苦労を背負って生きるよりも、貴族の家を継ぎ、何不自由なく暮らせること。
 以前、青藍から「ルチナリスよりも幼い子供でもその日のパンを得るために身を売ることもある」と言う話を聞いたが、この武人もパンを得るのにも苦労する経験をしたに違いない。

 アンリからしてみれば、青藍を連れて逃げる《貴族の位を捨てる》ことは、その日のパンにも苦労する生活を送ることと同義。貴族の暮らししか知らない愛弟子にそのような暮らしはさせられないと、そう思ったのだろう。

「……何ですかそれは」

 だが。
 勝手に未来を決めないで貰いたい。
 この10年、青藍をこの家からどうやって奪い取るかだけを考えて生きて来たのだ。毎日のパン程度で苦労させるつもりはない。




 それとも、ただの師弟以上の感情でも持っていたと言うのだろうか。
 彼《アンリ》が語った奪還劇は、幼少の頃から面倒を見ていた相手だからこその――義に厚い男だからこそあれだけ動いてしまった――ものだと思っていたのだが、そこに別の感情が入っていたのなら話は別だ。 
 青藍の目には他人を魅了する力が宿っているらしいし、幼少期にはその力が制御できていなかったとも言う。そんな目を見る機会が何度もあったであろうこの男が堕ちていないと何故《なぜ》言えよう。

 この男が動いている表向きの目的は「前当主の意向に従って、青藍を当主に据えるかどうか確かめる」ため。
 しかし独裁であろうと闇堕ちしていようと、今の紅竜は当主に据えておくに十分な手腕を持っている。
 青藍もこの10年、領主としてはよくやってきたほうだが、紅竜と比べれば他人の意見に流されやすい分だけ不向きだろう。ノイシュタインのような田舎町なら通用するだろうが、終始腹を探り合い、言葉の裏を読まなければいけない貴族社会ではそうもいかない。

 遥々魔界まで来たものの、やはり紅竜よりも青藍のほうが向いていない、と判断された時、アンリは「はいそうですか」と引き下がるだろうか。
 家を継ぐ必要がなくなれば自分《グラウス》が出て来るから……自分《グラウス》の描く未来に青藍を預けることはしたくないから、だから、今になって所有権がどうと言って来たのではないだろうか。


「お前のことは綺麗さっぱり忘れちまってるだろうが、俺はあいつとは50年の付き合いだからな。まだ覚えてるだろうしな」

 勝ち誇った顔にはカチンと来るものがある。付き合いが長ければいいというものではない。

「賭けにもなりません。青藍様は、わ、た、し、の、です」
「お、ま、え、の、飼い主、だろう? ただの」

 ただの。
 その言葉に反応するように、グラウスの周囲に白い霧が漂い始めた。

「何が仰《おっしゃ》りたいんです」
「言葉通りだ。弱っちい犬っころに大事な青藍は預けられねぇ、って言ったんだよ」
「弱いかどうか、確かめてみますか?」


 アーラの町に潜んでいる間、鍛えると称して連日殴り合っていたから、自分《グラウス》の実力は把握しているつもりでいるのかもしれない。氷の竜を見て、まだそんな隠し玉がとは思っただろうが、その竜も今此処《ここ》ではまだ出すことができない。……と、そう見越したつもりなのだろう。

 だが。いくらこの男が猛者《もさ》だとしても、あれだけ殴り合えばこちらとて戦い方の癖くらい見抜いている。
 勝敗を決めるのは過信。実力差があろうとも、手の内を知られた上に相手を甘く見ている男に勝てる要素などない。
 グラウスは左足を斜め後ろに引き、身を屈める。


「お前を鍛えたのは俺だぞ? 勝てると思ってるのか?」
「勝ちます」

 その問答の間にもグラウスの周囲は凍りつきはじめている。氷は浸食していくように広がっていく。後数分もすれば氷はアンリの足にまで達するだろう。

「前から気にはなってはいたんです。あなたは本当にただの家庭教師ですか?」
「さあねぇ」

 ピッ! と、瞬時に膝まで氷が走った。

「そういうお前だってただの執事でいるつもりなんざねぇくせに」

 足を固められてもアンリは動じない。妙に真面目くさった顔でグラウスを見据えている。

「だがその感情が魔眼に作られたものだとしたら、お前にこれ以上進む意味はあんのか? おとなしく尻尾巻いて田舎に帰った方がいいんじゃねぇのか?」


 その目は同情すら帯びている。
 何故《なぜ》。
 いや、それも言っている。

 私の、と売り言葉に買い言葉で言い返してしまったが、本当にそうなのだろうか。
 どう足掻いたところで青藍は自分のものにはならない。それどころか魔眼なんてものが出て来たせいで、この感情が本当に自分のものかどうかすら定かではなくなってしまっている。


『――グラウスは、友達』


 そうだ。青藍の目に映る自分は何時《いつ》も「友人」でしかなかった。
 もしくは自分の意を汲《く》んでくれる便利な執事。
 消える時には傍にいてほしいと言われたことだって、自分が死ぬ時まで「執事として」「友人として」サポートしてほしいと、そういう意味でしかなくて。人生を共に歩んでいるかもしれないけれど、彼にとっては言葉通りのの……その言葉に象徴されるほうの意味は入っていないのではないだろうか。

 けれど。

「私が此処《ここ》で帰ったら、それこそあなたの思う壺じゃないですか」
「俺はお館《やかた》様の命《めい》に従っているだけだ。紅竜があれをどうかするつもりなら保護するのも責務のうちだ」
「あの人は私の主人です。保護するなら私が」

 自分は、あの人にとっていったい何だったのだろう。


 執事と呼ぶには近すぎる距離だった。出会った時の彼のポンコツぶりと、自分の世話好きな性分のせいで、否、「執事以上」を望んだせいで。
 この城から出ることも許されず、公に出されることもなく、親しくなった者は次々に姿を消す。そんな青藍にとってこの距離は「友人」の域だったのだろう。

 では、自分は?
 友達?
 ペット?
 使用人?
 どう転んでも望む未来には繋《つな》がりそうにない。いや、望んでいたことも偽りだったのかもしれない。
 この25年。
 25年もずっと。私は。


「それでも……青藍様が笑ってくれるなら」

 紅竜にも他の誰にも渡したくないという感情を抜きにしても、青藍をこの城には置いておけない。
 初めて出会った25年前の夜会の夜も、10年と少し前に魔界本庁で見かけた人形のような彼も、半年前の第二夫人の葬儀の時も。
 あんな顔をさせたくはない。
 少なくともノイシュタインではあんな顔をしたことはなかった。自分の隣にいたあの人は、いつも笑っていた。ずっと、笑っていてほしかった。
 友人でしかなくても……もしも自分の隣にいることを幸せだと思ってくれていたのなら、私の想いは、例えつくりものであったとしても、決して無駄なものではない。
 少なくとも、私は。
 

「……私を取るかあなたを取るかは青藍様に決めて頂きます」
「へえ」


 苦渋を帯びた呟きに、アンリは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
 それが生来の負けず嫌いに火を点けた。グラウスはアンリを睨みつけると、

「50年もの付き合いがあってただの恩師でしかないあなたに勝ち目があるとは思いませんし、青藍様が私を選ぶことはまず間違いないと思われますが、あなたはきちんと負けないことには負けを認められない性分のようですから仕方ありません。
 ああそうだ、聞けば父親代わりのように育てて頂いたそうですから、だから保護者面《づら》でそんなことを仰るんですね。安心してください。あなたの心の息子さんは私が幸せにします」

 と、一息に言い放った。


 仏頂面を貼り付けていたアンリの顔が、グラウスのそんな台詞《セリフ》で崩れた。
 誰かに聞こえたらどうするつもりだ、と心配になるほどゲラゲラとひとしきり笑い、そして。

「くっそつまんねぇな、お前」

 涙まで流して笑っていたくせに「つまらない」とはどう言う意味だか。それでも言葉とは裏腹にどこか満足げな顔をしたアンリは凍りついて動かないはずの足を軽く動かした。
 膝から下を覆《おお》っていた氷の破片が床に打ちつけられる。キラキラと反射するそれをぐしゃり、と踏みつけ、彼は|踵《きびす》を返した。

「ほれ、行くぞ」

 その姿は今までの剣呑な問答などなかったかのようだ。

 何が言いたかったのだろう。
 ただの師弟愛以上の感情でも持っているのかと勘繰《かんぐ》ってしまったが、どうもそうではないようだし。自分の口外しづらい感情を否定しているようでもない。

 溜息交じりに1歩足を踏み出したグラウスは、そこで足を止めた。他の誰にもわからないだろうが自分にはわかる。

 氷の竜が帰って来た。
 それと同時に氷漬けにして置いて来たケルベロスたちと、様子を見に来た兵士たちの様子も映像を見るように頭に流れ込んでくる。
 長く氷漬けになっていたケルベロスたちは呼吸こそできたものの、纏《まと》っていた炎を保つことができずに死滅した。氷を溶かしてケルベロスを救い出そうとしていた兵士たちは、突然竜が消えたせいで溶けかかっていた大量の氷水に落ち、そのまま水路に流された。救い出されたものの心肺停止した者もいるようだ。彼ら《兵士》の安否をも気にしていたアンリには言えないし、言わない。

 グラウスは兵士ではなく、ケルベロスの死骸に自分の姿を重ね合わせる。
 ただの獣でしかない、彼《青藍》とは釣り合わない自分。
 獣が月を乞《こ》うように抱いて来た想いは偽物かもしれなくて、それでもいいと一旦は結論付けたけれど……。



「ポチ! 早くしろ」

 足が止まっていた間に遠ざかってしまっていたアンリが呼んでいる。
 その声にグラウスは頭の中の映像を消した。

「私はポチという名前じゃありませんって何度言えばわかるんですか!」
「うるせえ! 飼い犬の分際で生意気だぞ!」
「あなたに飼われた覚えはありません!」


 ああ言ってしまったが、この想いは本物なのだろうか。この感情の出所も、この先に待ち受けている未来も、考えないようにするのは卑怯だろうか。
 グラウスはアンリの後を追う。