22-7 再び集うための協奏曲~Konzert~




 場所を変え、話は少しだけ遡《さかのぼ》る。


 柘榴《ざくろ》と合流したアンリとエリックは、彼《柘榴》が言うままに元来た道を戻っていた。
 目の前でルチナリスを攫《さら》われた。其処《そこ》で待っていても紅竜が彼女を返しに来る可能性は限りなく低く、それどころか連れて行った目的を果たした後には命の保証もない。となれば、突っ立っているわけにはいかない。
 アンリとしてはこの戦いはあまりにも犠牲が多く、撤退が最善だと思っていた。だからルチナリスとエリックを城の外――魔界の外《人間界》――に逃がすつもりだった。
 ルチナリスが連れて行かれた今、エリックだけを先に逃がす選択肢もあったのだが、当の彼はルチナリスを探しに行く気満々で、帰れと言っても帰りそうにない。
 其処《そこ》へ来て柘榴《ざくろ》が紅竜の居所に心当たりがあると言い出したのだから、行く方向は決まったも同然! と言う空気になってしまった。この状態で自分《アンリ》が何を言ったところで、誰も首を縦には振らないだろう。

 まぁ、逃げるとしても此処《ここ》と母屋とを繋《つな》ぐ渡り廊下は崩落してしまって使えない。1階まで下りて屋外に出るしか方法は残っていないが、その1階は長老衆の遺骸が絡まった黒い蔓で埋め尽くされていて足の踏み場もない。
 アンリはグラウスと再会した1階の部屋を思い浮かべる。

 紅竜は長老衆まで手にかけてしまった。
 彼らは当主のお目付け役、相談役と言われてはいるが、実際のところは口やかましい年寄りでしかないと紅竜の目には映っていたことだろう。実際、一族を率いる重責《じゅうせき》も矢面《やおもて》に立つ辛《つら》さも、彼らは知らない。
 責任を当主ひとりに背負わせるかわりに、当主は絶対的な決定権と権力を持つ。
 逆に言えば当主になることができなければ、血を継いでいようとも、使用人や兵士と大差ない扱いに甘んじなければならない。その立場にいるしかない者が当主の辛さに共感することができないように、幼い頃から次期当主としての道を歩んで来た紅竜にも彼らの鬱屈《うっくつ》した思いはわからない。
 前当主の片腕としてその両方を見てきたからこそ、紅竜ひとりを責めるわけにはいかない。けれど彼がしたことは見逃せることではないし、闇に呑まれての行動だとすれば尚更、「この城の者」に止める責任がある、とも思う。

 この城の者。そう名乗るのはおこがましいだろうか。
 追放されたのだから関係ないと見ないふりをしてもよかった。なのにこうして動いているのはこの家で得た肩書きに今だもって未練があるようで見苦しい、と思う。自分でもそう思うのだから他人もそう見ているだろう。紅竜も犀《さい》も、顔を覚えていない兵士たちも。
 これで利を得ようなどとは一切思っていない、とわかってもらったとしても、犀《さい》のことだ。

「実直と言えば良く聞こえますが、関係のない、自分の利益にもならないことのために動くのは愚かなことですよ。これだから脳筋は」

 と嗤《わら》いそうだが。
 その光景が目に浮かぶようだ。


 何にせよ1階は足の踏み場もない。
 外に出るには来た時同様、壁伝いに降りるしかない。
 降りている間は両手両足が使えない状況だから襲われたら一巻《いっかん》の終わり。そうしている間にもルチナリスは利用価値を終えるかもしれない。処分されるかもしれない。

 逃げる際に遭遇するであろう危険《リスク》を取るか、向かった先に待ち構えている危機を受け入れるか。
 上か、下か、どちらへ進むか。
 きっとどちらに進んでも正解で、不正解なのだろう。


 エリックと柘榴《ざくろ》、そして柘榴《ざくろ》が連れてきたアイリスも、本物だと言う証拠は何処《どこ》にもないが、こうも立て続けに事が起きると、疑うことすら馬鹿々々《ばかばか》しくなってきた。
 害がないのならこのままでいい、という気になって来る。これも犀《さい》が知ったら……いや、何かにつけて犀《さい》の反応を考えるのはやめよう。脳筋だというのに短時間に脳を酷使しすぎた。要領超過《キャパオーバー》だ。
 アンリは首を横に振る。
 


「でもアイリス嬢は何処《どこ》かに置いてきたほうがいいんじゃないのか?」

 意識のない令嬢を背負い直し、アンリは先に行く柘榴《ざくろ》に呼びかける。
 闇に関してはミルがどうにかしてくれたと思うしかないし、意識がなければ襲って来ることもない。ウサギ《柘榴 》が引き摺《ず》るよりは、と預かったものの、この先に待ち構えているのは紅竜だ。
 戦闘になれば、意識の有無に関わらず邪魔になる。ヴァンパイアとしての彼女の戦闘力は不明だが庇《かば》い切ることはできそうにない。|柘榴《ざくろ》なら最優先でアイリスの安全を考えると思うのだが。

「意識のないお嬢様をひとり置いていくよりは、連れて行ったほうが安全なんです」

 しかし柘榴《ざくろ》は躊躇《ためら》いもなく進みながら、そう返事を返してきた。
 紅竜にしてみればアイリスはヴァンパイアの家と繋《つな》がるために必要だっただけで、婚儀が公《おおやけ》に周知された今、その役目ももう果たしたと言っていい。ヴァンパイアとしての力もロンダヴェルグを襲った吸血鳩が完成した今、使い終わったと言える。他の種類を作ろうと思えば、鳩に突《つつ》かせればいい。
 さらにアイリスは自分《アンリ》たちを止められなかった。負けてなお生き永《なが》らえることを紅竜は良しとしないだろうし、それでももし再び戦いに投じるつもりがあるとすれば、その時は本当に自我を奪われるかもしれない。だから目を離したくないのだと言う。

 まるでグラウスを見るようだ。
 アンリは廊下の先に目を向ける。
 同じように紅竜に目を付けられた青藍の隣で、彼《グラウス》はずっと青藍に紅竜の影を見ていた。


 そう言えば彼《グラウス》はどうしているだろう。
 彼はこの先の部屋に置いて来た。まだいるだろうか。ルチナリスを救いに紅竜のところへ向かうと言ってもあの場を離れるとは思えないが、戦力が少しでも欲しいのは確かなこと。青藍を失って意気消沈している男をさらに戦わせようとするのは鬼畜《きちく》の所業《しょぎょう》だろうが……。
 足が重い。
 鎧が重い。
 背負っているアイリスが重い……と言うのは彼女に失礼だが、立ち止まったら最後、動けなくなりそうだ。
 今まで全身を覆う鎧で身を包んだことも、そのなりで戦場を走ったこともあった。その当時よりもずっと軽装であるにもかかわらず、全身に圧《の》し掛かる重みは倍以上に感じる。


「だがな。この先に進めば命の危険は避けられんが、此処《ここ》ならまだ蔓の浸食も受けていないから隠れていられるだろう?」

 黒い蔓に目がある、なんて不気味な想像をしているわけではないが、紅竜が自分たちの動向を把握していることに蔓の存在が関係していないないとは思わない。そして、母屋《おもや》も他の部屋も蔓に浸食されている城だが、まんべんなく蔓延《はびこ》っているわけではない。
 隠れていても時間の問題でしかもしれないが、もしその間に自分たちが紅竜をどうにかすることができれば、アイリスの身に危険が迫ることもなくエンドロールを迎えられる。
 なのにこうしてついて来ようとするのは、戦闘力を持たない柘榴《ざくろ》がひとりでアイリスの盾となって、何時《いつ》終わるとも知れない時を待つのが不安だからだろう。わからないわけでもないが。

「此処《ここ》に来るまでに兵士も客人もあらかた片付けて来た。母屋《おもや》から増援が来るとしても渡り廊下はぶっ壊れてっし、入ったところで蔓だらけで足の踏み場もねぇし。俺らが迫ってるとなりゃあ、紅竜も犀《さい》も隠れてるお前さんたちのことは後回しにするだろうから、」
「そうじゃないんです」

 ああいう連中は逃げれば弄《もてあそ》ぶように追って来るが、歯向かえば本気で反撃してくる。だからそんな気を起こさないように徹底的に潰《つぶ》すことで敵を排除する。そうしないと安心できない。
 青藍を奪われるかもしれないという想像だけでグラウスとその家族を追い詰め、また、他の魔界貴族を掌中に収めて行った過去と照らし合わせてみても、紅竜が取るであろう行動は明白だ。

 しかし柘榴《ざくろ》はアンリの提案を退《しりぞ》けた。

「この先に、うちの城と繋《つな》げたゲートがあるんです」




 うちの城?
 アンリは目を瞬《またた》かせ、それから慌てて周囲を見回した。
 このあたりに黒い蔓は見当たらない。だから何を言ったところで紅竜に届くことはない……と、根拠としてはそうなのだが、その根拠は推測の域を越えていない。何と言っても此処《ここ》は紅竜が生まれ育った城。蔓以外にも侵入者の行動を探る手段を持っているかもしれない。
 つまり、壁に耳あり障子《しょうじ》にメアリーどころか、天井にも床にも窓枠にもメアリーが一族総出で住み着いていたって不思議ではない。
 そんな環境で、こともあろうに他家とゲートが繋《つな》がっている、だと!?


 二の句が継げないアンリをどう思ったのか、柘榴《ざくろ》は説明を続ける。
 自分たち以外の第三者が耳を澄ませているなど、微塵《みじん》も思っていない顔で。

「お客様は母屋《おもや》の客室にお通しすることになっていますし、紅竜様も生活圏は向こう《母屋》ですし。此処《離れ》は実質使われていないも同然なので、空き部屋のひとつをお借りしています。
 其処《そこ》からお嬢様を逃がします。あなた方も通常ルートで城外に出るのは困難でしょうし、ゲートのほうが近いですから、決着がついたら来てください。それまでは繋《つな》いでおくよう、お願いしておきます」
「や、それは有難《ありがて》ぇお申し出だけどよ。でも、ええ?」

 この異常な状況下で逃走ルートが確保できるのは本気で助かる。しかし納得しきれない自分がいる。

 ゲートは城同士を結ぶ扉。
 魔法を操ると偉そうにしているくせに移動手段は人間が発明した馬車と列車で、空間転移魔法なんてものは使えない魔族の、唯一の発明品だ。発動方法などの詳しい説明は省《はぶ》くが隔《へだ》ての森と仕組みは似たようなものだと思ってほしい。
 建物同士でなければ繋《つな》ぐことができないだの、その建物の持ち主の許可がなければ使えないだのという、扱いが面倒な道具であるの上に希少で入手が(金銭的に)難しく、しかも直接屋内に入り込んでしまうために余程《よほど》信用できる相手としか繋《つな》ぐことができない。表立っては友好的に振る舞いながらも水面下ではどう対立しているかわかったものではない貴族の家同士で繋《つな》がることはほぼ「ない」と言っていい。

 そんな冷戦状態の魔界貴族の中でも、メフィストフェレスとヴァンパイアは仲が良いほうと言えた。キャメリアやアイリスが我が物顔で出入りできていたほどには。
 だがその当時でもゲートを繋《つな》ぐことはなかったし、キャメリアと婚約が解消されて以降の険悪な仲となっては繋《つな》ぐことなどできるわけもない。
 なのに今、繋《つな》がっていると柘榴《ざくろ》は言う。


「……どうやって」

 思いつく理由と言えば、アイリスを娶《めと》ることで晴れて姻戚関係を結んだから、というあたりだろうか。嫁入り道具も、衣装も、使用人も、万が一足りなかった時に馬車で何時間もかけて運ぶよりはゲートを介したほうが便利がいい。
 だがそんな友好的な理由ばかりではないだろう。
 繋《つな》いだことを幸いに、と兵を送り込むこともできる。むしろそちらが本命。
 ゲートの先は、ぶ厚い門扉も大砲も門兵をも飛び越した、無防備な城内。城主を始めとする主要な者を極秘裏に侵入して殺害し、家を内側から破壊するのにこれほど便利な道具もない。

 だが同じように「ヴァンパイア側から刺客を送り込まれる」ことがあることも忘れてはいけない。彼らは他の魔族と違い、相手の血を吸うことで従わせる能力を持っている。その危険を考えれば――

「紅竜が許可を出すはずがねぇ」

 あまりにも危険すぎる。
 婚儀に浮かれて許可を出したのだろう、なんてことはない。紅竜をその辺の新婚バカップルと同様に見てはいけない。第一、婚儀に浮かれるような男は新婚幼な妻をたったひとりで敵に突撃させたりはしない。

「許可を出されたのは前当主と聞いています」
「お館様《やかたさま》が?」

 どういうことだ。
 前当主は存命なのか? だが、存命ならこの非常時に何故《なぜ》出てこない?



 前当主と会ったのは10歳の青藍を託された時が最後だった。
 その後、自分《アンリ》は越境警備に回され、数ヵ月後には追放され、あとは縁を切るようにして各地を点々としていたから、この城がどうなっていたかは知らない。
 もし自分が紅竜に大人げない態度を取らず、この城に居続けられる道を選んでいたとしたら、少なくとも青藍が幽閉されることは防げたかもしれない。紅竜の当主就任の日に此処《ここ》にいることだってできたろう。

 自分が追放された日、紅竜は既《すで》に闇を操っていた。
 前当主はそれを知っていたのか。
 知っていて次期当主に据《す》えたのか。
 闇を祓《はら》う方法を知っているのか。
 もしそれを事前に聞いていれば、全ての対処が後手に回って取り返しのつかなことになってしまっている今も、もう少し違ったものになっていた。
 そして青藍を預かる時に言われた「紅竜が当主の椅子に座ることになっても青藍は外に出すな」の意味も……。

 いや。


「なあ」

 アンリは殿《しんがり》を務めているエリックを肩越しに振り返った。

「俺、やっぱり、」

 まだ間に合うかもしれない。
 前当主は亡くなっているかもしれない、という説が濃厚だが、生きている可能性も0ではない。青藍のように何処《どこ》かに閉じ込められているかもしれない。青藍の魔力を求めた紅竜が、稀代の大悪魔と呼ばれた父を利用することなく殺すとは思えない。
 だから、

「何?」
「…………………………………………いや、何でもない」


 だが。
 言いかけた言葉を呑み込み、アンリはアイリスを背負《せお》い直した。
 今は言えない。前当主を探すためにここで脱落したい、とは。

 前当主は闇について知っている。長老衆亡き今、前回の闇騒ぎの時のことを覚えているのは前当主だけだ。それでも話を聞くことができれば、有効な手立てを思いつくことができるかもしれない。
 しかしそれは全て仮定の話。皆黙っているが、もう数十年も姿を見せない前当主は既《すで》に死んでいるのではないか、というのが大勢《たいせい》の見解だし、だとすれば脱落して探し回ったところで無駄足にしかならない。
 それにエリックひとりでルチナリスを救出させるのは荷が重かろう。せめてもうひとり、この先にいるはずのグラウスが再び同行してくれればまだしも。




 と、思ったものの。

「ポチ!?」

 グラウスを残して行った部屋に立ち寄ったアンリたちは、数時間前の自分たちの判断を悔やむことになっていた。

 何があったというのだろう。
 部屋中に鬱蒼《うっそう》と茂っていた竹はすっかり消え失せ、ガランとした室内にグラウスがうつ伏せに倒れている。背の黒い染みと床に広がる紅はどう考えても刺されたようにしか見えない。

「一体何が、」

 あの竹が刺さったのだろうか。あの黒い竹をグラウスは青藍だと言っていたが、自分には黒い蔓の変種にしか見えなかった。真っ直ぐ上に向かって伸びているように見えながら、背を向けた途端にぐにゃりと曲がって襲い掛かってくるような得体の知れなさを感じた。


「……大丈夫です、とは言えませんが、息はまだあります」

 横で脈を測っていた柘榴《ざくろ》が冷静に下した判断に、アンリは詰めていた息を吐く。

 やはりあの竹は罠だったのだろうか。
 それなのに、

「後生大事に握り締めやがって」

 意識どころか息があるかも怪しい状態にもかかわらずしっかりと握り締められたままの蒼いリボンに、アンリは苦笑しかかり、慌てて顔を引き締めた。


「でも不思議ですね」
「何が」

 ふいに口を開いた柘榴《ざくろ》にアンリは再び目を落とした。
 執事見習いと自称していただけのことがあると言うべきか、見習いにしては手際が良いと褒めるべきか、彼《柘榴》は自分の十数倍の大きさがあるグラウスの上着を脱がし、傷の具合を見ている。
 血は既《すで》に止まっている。自然に傷口の血が固まって止まったのだとしたら、刺されたのは自分《アンリ》たちが此処《ここ》を去ってすぐ。
 真後ろで人が刺されているのに気付かないで去ってしまうなんて、武人としてかなり衰えている証拠じゃないか。

「止血した痕《あと》があるんですよ。回復魔法の痕が」
「それって、」

 回復魔法は光の魔法。炎、水、風、大地の4属性しか操れない魔族には持ちえない属性の魔法だ。
 光魔法の使い手として真っ先に思いつくのは聖女だが、ルチナリスにその力はなく、前《さき》の聖女と言われている第二夫人は亡くなっている。
 他に誰かがいたのか?
 魔族にはいないが、人間の中には回復魔法の使い手が存在する。ロンダヴェルグの聖女候補として集められた娘たちはほぼ全員が使えると聞いている。しかし彼女らが此処《魔界》にいるはずがない。




「でも来ることは可能だよ。僕みたいにね!」

 突然、声が響き渡った。
 何ごとかと振り返れば、今の今まで存在を消し去っていたエリックが鼻息荒く、そして爛々《らんらん》と目を輝かせている。

「前例があると言うことは、後に幾《いく》らでも続くってことだよ。ドラゴンの背から突き落とされれば魔界に来れるんだし、きっと短い間だったけれども共に学んだ学友のピンチに、聖女候補のお嬢さん方が立ち上がったんだ!」


 聖女候補?
 アンリは突如《とつじょ》はじまった勇者の語りに、ただ、首を傾げる。
 魔界の侵入手段はドラゴンから飛び降りればいいわけではないし、聖女候補の彼女らが自《みずか》らの命を顧《かえり》みずにやって来るほど、ルチナリスと親しかったなんて初耳だ。

 それより突然どうした。勇者だから天啓《てんけい》でも閃《ひらめ》いたのか?

 急に生き生きと語り出した弟子《エリック》に、何が起きたのかと心当たりを考えてみる。けれど、どうにも思いつかない。少し前に「魔族だから倒す」と切りかかって来た彼も普通ではなかったが、今の彼も普通では……いや、ルチナリスに付いてロンダヴェルグに行ったあたりから妙に真面目になってはいたが、その前はおっ〇い教の信徒だった。それを思えば昔の彼に戻っただけだと言える。

「思い浮かぶようだよ。ジェシカちゃん、ヴァネッサちゃん、ジョアンナちゃん、キャミ―ちゃん、アンジェラちゃん……その他大勢のお嬢さんたちが一斉に空に舞うんだ。それでスカートがぶわぁっとめくれ上がっちゃったりして、いやぁん♡ でも勇者様のためだもん頑張るぅ♡ とか言っちゃってさ。ああ、清楚な白にブルーのストライプ、ちょっとセクシーな紫の総レース、シルクの紐パンは黒……けしからん! けしからんぞ! 聖なる乙女がそんなエッチなパンツを、」
「ぱ、ぱんつ!?」
「……………………聞くな。ちょっといつもの持病が出ただけだ」


 今までシリアス続きだったから、スイッチがガバガバになっていたのかもしれない。エリックはエリックなりに疲れているのだろう。

 唖然としている柘榴《ざくろ》の肩を「同情するぜ」とひとつ叩く。エリックが壊れるのは今に限ったことではないし、むしろこれが素だと言いたいところだが、初めて見る側から「ヤバい人に会ってしまった」と引かれても文句は言えない。
 そして自分も「これは場を和ませるためのジョークなんだよ、ははははは」なんて空々《そらぞら》しい嘘を言える気力はとうにない。スカートが翻《ひるがえ》った以降の惨事《妄想》はノーコメントとしたい。

 だがこれでわかった。このエリックは本物だ。
 本物だが、聖女候補たちがグラウスを止血したとは考えにくい。この城には魔族以外に精霊も多くいるから、きっと彼らが気まぐれに回復していったのだろう。
 彼らにしてみれば、自分の職場に自分たちが数十人集まらなければ動かすこともできない死体が転がっていては困るどころではない。その死体予備軍が自力で歩いて出て行ってくれるのなら、止血くらいする。自分《アンリ》ならそうする。

 だがとりあえずはエリックの誤解を解こう。
 最初は出まかせだったかもしれないが、あまりにもっともらしい理屈に自分でそうだと思い込んでしまうのがエリックの困ったところ。パンツ娘たちが此処《ここ》にいると本気で思い始められると後々面倒だ。

「いいか、魔界に来る手段はドラゴンから飛び降りることじゃない。メイシア……ルチナリスに似た人形をカリンが持ってたって言ったろう? そいつが犯人だ。
 で、そいつは本来なら今は休眠期らしいし、力の元になってる結晶をぶっ壊されてる。
 そしてロンダヴェルグの姉ちゃんたちも復興のほうが優先事項だから来ない。
 ルチナリスとは学友というよりもたったひとつの聖女の椅子を巡って戦う敵同士なんだから、お前の好きな”主人公の危機に現れる追加戦士”的な展開を期待しても無駄だ」

 ロンダヴェルグの結界を張るのに使われていた結晶は、眠りについているメイシアの代わりとしてその力を封じてあった。その結晶を壊されてすぐに旅立ってしまったからその後の仔細《しさい》は不明だが、以前と同じ強度の結界は張れていないと風の噂で聞いている。
 結界を張る術者《司教》が本調子ではないから、という理由もあるだろうが、結晶に封じてあった力が霧散してしまったことのほうが大きい、と考えるべきだろう。

 そう言えばルチナリスはあの結晶が縛りつけられているようだと言っていた。
 壊された以降のメイシアは解放されたようだとも言っていた。
 奴《やつ》の性格からすると、解放された喜び《 ノリ 》で聖女候補のお姉ちゃん'sを宙に飛ばすくらいのことはやりかねないが……やらない程度の良識は持ち合わせている、と思いたい。


 助太刀は欲しい。しかし聖女候補の娘たちには来てほしくない。というのは矛盾しているだろうか。
 だが彼女らは魔界にも魔族にも関わりがない。それどころか親しい人を魔族に奪われていれば、わざわざ助けに来ようなどと思うはずもない。
 第一、此処《ここ》は回復魔法程度しか使えない小娘が来て、生きて帰れる場所ではない。


「それよりソロネだろう。あいつなら白魔術が使えるし」

 彼女の白魔術は魔族を浄化する《消滅させる》。
 同胞《はらから》が消されることを望むなんて人でなしの所業《しょぎょう》だ、と心の中でもうひとりの自分が嘲笑《あざわら》う。だが、その同胞《はらから》が敵として立ち塞《ふさ》がって来るのだから仕方がない。

 しかし聖女候補の娘たちよりは、という意味合いで言ったものの、ソロネとて魔界に来るにはそれなりの媒体は必要だ。それに、ジルフェたち精霊が表立って助太刀できないのと同様、背中に羽根の生えた奴《やつ》が魔界で大暴れしたら後々《あとあと》とんでもないところで問題になるに決まっている。
 チャラチャラしているが彼女の本質はジルフェに近い。
 合流できずにいることを気にしていたルチナリスには悪いが、ロンダヴェルグでもそれ以降でもずっと会えずじまいなのは、彼女《ソロネ》がわざと自分たちとは距離を置いているからではないか、とすら思う。


「とにかくゲートまで行きましょう」

 そんなアンリを尻目に柘榴《ざくろ》は立ち上がった。
 彼にしてみればエリックが列挙した聖女候補の娘たちもソロネも面識がないのだから、有難みがわからないのは仕方がない。しかし。

「此処《ここ》でパンツの話を延々《えんえん》としていても何も起きません」
「してねぇだろ、パンツの話は!」

 こっちはこっちで何を聞いていたらそうなるんだ!?
 つい声を荒げてしまったアンリだったが、柘榴《ざくろ》はそんな彼に何か言いたげに目を向けた。

「な、何だ?」

 何だこの心を見透かしそうな目は。
 俺は誓ってパンツのことなど考えていない! 宙を舞う色とりどりのパンツの光景を想像したりも……していない! 絶対にだ! 
 それとも何か? 師匠なんだから弟子の言動に責任を持て、と言いたいのか!?
 三つ子の魂100まで、と言うだろう!? こいつが俺のところに来た時にはもう性癖は固定されてた。俺が矯正できるレベルじゃなかった。だから、

「執事さんも連れて行けませんか?」
「……へ? え? いや、む、無茶言うな!」


 自分《アンリ》を咎《とが》めているわけではなかった。よかった♡ ではなくてぇ!!
 「アンリ、あなた疲れているのよ」とセクシーボイスで脳内に再生されたが、それが何のネタなのか考える余裕もないくらいに疲れているのは間違いない。

 アンリは柘榴《ざくろ》を見、それから倒れているグラウスを見下ろした。
 いくら止血が終わっていると言っても、此処《ここ》に置いて行けば紅竜の手の者に見つかるのは時間の問題。そうなったら動けないグラウスなどめった刺しにされて終わるだろう。
 息があるのなら助けたい、とは思うけれども、今の自分たちには助ける方法が「連れて歩く」以外にない。そして意識のない図体《ずうたい》を連れて歩くのは不可能だ。
 止血してくれた誰かがいてくれれば安心して置いていけるのだが、その誰かも味方とは限らないわけで。


 だいたい、ゲートがこの部屋にあるならともかく、190cm近い男をどうやって運べというのだ。俺はお前のお嬢様も背負《せお》っているんだぞ!?
 アンリは心の中で悪態をつく。
 口に出せば、アイリスを運ぶ役は柘榴《ざくろ》が率先して名乗り出るだろう。代償として移動速度が五分の一以下に落ちるからとても言えないけれど。
 

「そのゲートは此処《こっ》から近《ちけ》ぇのか?」

 それに、この柘榴《ざくろ》というウサギは何処《どこ》まで信じていいものやら。
 傷の具合を調べる様《さま》には目を見張るものがあったが、それだけで彼《柘榴》が信じるに値する人物だとは言い切れない。執事教育を受けていれば、それっぽいことはできる。


 ゲートを繋《つな》いであると言うのも、それを許可したのが前当主だと言うことも、証明できる者は誰もいない。自分《アンリ》は役職上、この離れにも何度か訪れていたが、ゲートの存在に気付いたことなどなかった。
 もしかするとゲートの存在自体が大嘘で、闇に染まったままのアイリスと結託し、罠まで連れて行くつもりでいるのかもしれない。


「遠くはありませんが」
「近くでもねぇんだな」


 アンリはアイリスを背から下ろすと、そのままエリックの背に乗せた。

「ちょっ、師匠!」
「俺にふたり背負《せお》えってぇ《言う》のか?」

 だが、際限なく疑っていても進まない。
 害がなければいい、と少し前に思ったばかりじゃないか。


「お前の好きなおっ〇いのほうを譲ってやるんだから文句言うな」
「アイリス様はおっ〇いじゃないよ。こういうのは小《ち》〇ぱいって言うんだ」 
「お前……アイリス嬢が起きたら面と向かってそれ言えよ」

 嗚呼《ああ》! この期に及んでおっ〇いなどという単語を口から吐く羽目になるとは、どんな罰ゲームだ! 俺は前世で悪行三昧《ざんまい》だったりしたのか!?
 前世の自分と現世の弟子を恨みつつ、アンリは再度グラウスの傍《かたわ》らに|屈《かが》み込む。そして、両肩を掴《つか》んで上体を起こそうとした、まさにその時。


「青藍様!!」
「うわっ!」

 意識不明だったはずのグラウスが、ガバッ! と跳ね起きた。




 爪の先で引っ掻いたような細い月が、雲の隙間から見え隠れしている。
 月が隠れる度《たび》に視界が闇に染まる。雲から出てくれば闇も晴れるのだが、覆われる前に比べて確実に暗い。

 水の音に足元を見れば、足首まで水に浸かっている。あたり一面の水に海かとも思ったが、潮《しお》の匂いはしない。
 ちゃぷ、ちゃぷ、と小さく打ち寄せる波が足に当たる。白い泡を残して引いていく。

 久しぶりに此処《ここ》に来た。グラウスは月を見上げる。
 これはノイシュタインで何度も見た白昼夢だろう。ただ、いつもとはかなり様相が違う。空を覆うほどの存在感を見せていた月も、暗い水底にただ落ちて行くしかなかった海も、今は小さく、遠く、存在を失くしかけている。

 初めて出会った時、青藍の背後に月が浮かんでいたからというだけで、その後ずっと月を彼《か》の人の象徴として見ていた。実際、本人が兄を太陽と、そして自分を月となぞらえていたから間違ってはいない。
 だからこそ気になる。
 何故《なぜ》あんなに遠くにあるのか。何故《なぜ》あんなに弱々しいのか。
 あれでは――。

 月に向かって手を伸ばし、掴《つか》もうと広げると、

「っ!?」

 ぱらりと視界を蒼《あお》が横切った。
 目で追い、落ちたところを掬《すく》い上げれば、縁《ふち》がほつれかけている細身のリボン。彼《青藍》の髪を結っていたものだろうか。
 似合ってはいるけれどもルチナリスの所有だという印にも見えて……物にまで嫉妬する自分の心の狭さが嫌になったものだ。

 グラウスはリボンを凝視する。
 何処《どこ》かで自分は同じようにこれを握り締めていた。何処《どこ》だっただろう。


『――もう必要ない』


 考え込むグラウスの耳に声が聞こえた。
 顔を上げても誰もいない。だが間違えるはずがない。あれは青藍の声だった。
 しかし「必要ない」とはどういう意味だ? どうにも彼の言葉を斜め下に解釈する癖がついてしまっているせいか、悪い結果しか浮かんでこない。
 そう。まるで自分《グラウス》のことを彼はもう必要としていないと、そう言われているような。

 まさか。

 自嘲混じりに笑い、吹っ切るように周囲を見回す。
 この白昼夢に彼は出て来ない。最初の頃は海中に沈んでいく彼の手を見ることができたが、海から上がった以降は1度も。だから、

 否《いや》。いた。
 遥か彼方を、月の浮かぶ方角に向かって歩いていく後ろ姿が。間違いない。あれは――



「青藍様!」

 グラウスはそう叫ぶと跳ね起きた。
 人が飛び退《の》く気配に誰だ? と顔を上げかけ……背と胸を刺し貫いた痛みに、そのまま苦悶の声を上げてうずくまる。


「動かないで下さい。傷が開きます」

 そう叱責された声には聞き覚えがなく、また、支えてきた手は小動物のもの。しかしそれを指摘する余裕など何処《どこ》にもない。ただ自分の右手が何かを握っていることを、それが蒼いリボンであることを視認し、気の遠くなりそうな痛みの中で安堵《あんど》の息を漏らす。

 ひとつ息を吐くと、痛みも少し引いた気がする。
 ただ、痛みが減った分だけ、胸の奥で何かがぽっかりと抜けてしまった喪失感をも感じる。
 体を風が通り抜けていく感覚はまさか物理的に穴があいているのでは……と、あらぬ懸念《けねん》にグラウスは手を持ち上げ、押さえるようにして胸に当てた。


 竹の中から出て来た光の玉はこの胸に溶け込んで消えた。
 その時に温かいと思った温度を、今はまるで感じない。日頃の生活で腕や頭の重みを感じることがないように、異物ではなくなっ《自分の魂と混ざっ》たから感じなくなってしまったのだろうか。
 いや。


『――こいつの中に青藍の魂が入り込んでいるのなら引っ張り出せばいい。こうやって!』



 私は、またしてもあの男に奪われてしまったのだ。
 あの人を。



「青藍がどうした。何があった」

 先ほど飛び退《の》いたのはアンリだったらしい。険《けわ》しい顔のまま再び座り込んだアンリの隣で目を丸くしているのは柘榴《ざくろ》。一時、行方不明になって勇者《エリック》が探しに行ったが無事再会できたのだろう。少し離れたところにその勇者《エリック》と、アイリスもいる。
 が、ルチナリスがいない。

「ルチナリスは、」
「紅竜が連れて行った。俺らは取り返すために戻って来たところだ」
「……やはり」

 紅竜に刺された時に聞こえた声は、やはりルチナリスのものだったようだ。
 何故《なぜ》、と思うけれどもそれ以上に青藍のことが気にかかる。

「青藍様の……魂が」
「は?」

 紅竜が手にしていたのはミルの剣だった。
 彼が何故《なぜ》あの剣を持っていたのか、その理由は考えたくない。アイリスが此処《ここ》にいること、剣が紅竜の手に渡っていることから考えるとミルがどうなったのかは容易に推測がつくが、アンリらに聞くのは躊躇《ためら》われた。
 それよりも。

 そうか。
 刺された時に何かが引っ張り出されるような感じがしたのは、青藍の魂が引き抜かれたからだったのか。
 自分の中に溶け込んですぐだったから、青藍だけを吸い込むことも可能だったのかもしれない。、完全に自分の魂と混ざっていたら共に吸い出され、今頃自分は此処《ここ》で生きてはいないだろう。


「紅竜が来たのか」
「それで!? 何処《どこ》へ行ったの?」

 呻くアンリを他所《よそ》に、勇者《エリック》が割り込むように首を突っ込んでくる。
 だが。

「わかりません」

 意識がなくなる寸前、紅竜とルチナリスが砂煙に巻かれるように消えていくのが見えた。
 そして彼らの行った先には……犀《さい》が漏らした、「青藍の体」がある。紅竜は魂を彼の体に戻すつもりであることは間違いない。
 何故《なぜ》魂が抜けたのかはわからないし、戻して何をさせるつもりかもわからない。それにどうルチナリスが関わって来るのかも。


「ま、安心しろ、とは言えねぇが、紅竜のいそうな場所に心当たりはある。これから其処《そこ》へ行くんだが、」

 アンリは言いにくそうに視線を彷徨《さまよ》わせ、それから改めてグラウスに向いた。

「怪我してんのに何だが、来るよな?」
「……もちろんです」

 何故《なぜ》逡巡したのかは不明だが、其処《そこ》に青藍がいるのなら行くしかない。
 この命尽きようとも、もう2度とあの人を紅竜の好き勝手にはさせない。
 グラウスは握り締めていた蒼いリボンをクルクルと丸め、ポケットに忍ばせる。半分に割れた耳飾り《イヤリング》と一緒に。


「んじゃ、行くか」

 よいせ、と声をかけてアンリが立ち上がる。
 差し出された手に、グラウスが応じかけたその時。

 扉の向こうで、けたたましい足音が聞こえてきた。




 敵の増援だろうか。
 一気に緊迫した空気が走る。
 聖女候補'sが救援に駆けつけた、なんておめでたい想像はできない。むしろ城内に残っている敵――まだ倒していない魔族――が蔓を乗り越えて此処《ここ》まで辿り着いたと考えるほうがそれらしい。
 兵士や使用人は言わずもがな、今までに倒した客人を思い返してみても、彼らが何かに操られているのは確かだし、何かとは何だと言えば闇であり紅竜であることも9割の確率で間違ってはいない。
 特に着飾った客人が襲い掛かって来る様《さま》はどう考えても個々の意思で動いているようには見えなかった。


 アンリは扉の横の壁に貼り付き、息を潜《ひそ》ませる。
 他の面々も壁に沿って貼り付いた。部屋の真ん中に突っ立っていれば扉を開けた時に丸見えだが、壁に沿っていれば一瞬だとしても見つかるまでにタイムラグができる。
 

 傀儡《かいらい》とは、目的達成のためならたとえその身が砕けることになろうとも手段を厭《いと》いはしない。
 だから気になる。
 彼らは望んで傀儡《かいらい》になったのか、ただ単に紅竜が目先の敵を排除するためだけに集まっていた人々を利用したのか、未来永劫《えいごう》、誰もが自分に従う世界で王になりたかったのか。
 夜会が催されていたであろう会場で蔓と化した人々を見た。闇に呑まれた者の末路があの蔓なら、いずれ魔界に「人」はいなくなる。紅竜はそれでもよかったのか? そうなることは考えにないのか? 誰も彼も……「無に化」すことを望んでいるのか?

「(……みんな違うからいいのにな)」
「(そうだよ。おっ〇いだって掌《てのひら》サイズには小さいなりの奥ゆかしさが、顔をうずめたいくらいのナイスバストには昇天しそうな癒《いや》しがあるのさ。ああ、やっと師匠にも良さがわかったのかぁ)」

 廊下にいる誰かには聞こえないくらいの配慮をしつつ、思わず口をついて出た言葉に、背後から思いがけず賛同の声が上がった。
 言うまでもなく声の主はエリックだ。此処《ここ》で乳の良さについて語るつもりはないし、乳の話はしていないのだが、自分が考えていたことに比べれば馬鹿馬鹿しい分、気が紛《まぎ》れる。
 そして馬鹿馬鹿しいエロ妄想の体《てい》を成《な》しているが、高らかに歌い出さないだけ彼《エリック》の中には理性が残っている。ずっと続いている重苦しい空気を、彼なりに軽くしようとしているのだろう。

「(あー……そうだなぁ……)」

 成長したじゃねぇか。と、普通の師弟ならもう少し違うところで感じるであろう感想を感慨深げに抱きつつ、アンリは改めてエリックたちに向き直った。

「(なあ。こんな時に何だが、仲間だって印付けとかねぇ?)」


 渡り廊下で青藍の幻に会った。
 その時取り残されたルチナリスの前に現れたのはエリックの姿をした誰かで、途中で入れ替わったという紅竜はそれをミルだと言ったらしい。
 自分《アンリ》も此処《ここ》の1階で、グラウスと共にいる自分《アンリ》に会った。彼は長老衆の生き残りに切りかかり、スノウ=ベルの時計を持って消えた。
 そして少し前。青藍に化けた紅竜によってルチナリスを連れ去られた。


「(正直、俺はお前らが本物かどうかわからなくなってるし、お前らもそうだろう。だからせめて、今いる面子《メンツ》だってだけでもわかるように、)」
「(この中に偽物がいたとすれば、その印もコピーするでしょうから意味がないのでは?)」

 そう返してきたのはグラウスだ。以前、小刀《ナイフ》を取り出して、腕に印を刻もうと提案したことを根に持っているのかもしれない。

 仲間だとわかるように印をつける、という方法を知ったのは本だっただろうか。その時は墨のようなもので書き込んでいた。しかし今此処《ここ》に都合よく筆記具はない。
 だとすれば服を切ったり縛ったりして同じ形を作るか、印を描くか。墨がないから指先を切って血文字で、という見た目はオカルトなこと……が手っ取り早いが、服を着ていない《ウサギの》柘榴《ざくろ》が混ざっていては、その方法で共通する印を付けるのは難しい。


 思案するアンリの横で、

「(あ、僕いいもの持ってるよ)」

 と、エリックは得意げに懐から蛍光色の粘土を取り出した。
 カペレガムだ。カリンが何色か持っていたものだろう。貼って、剥《は》がして、また貼れるのが売りなんだとか。
 彼《エリック》は|此処《ここ》に来る前まで彼女《カリン》と一緒だったから、戦力の足しにしてくれと預かったのか、売りつけられたのか……彼女のことだ、後者だろう。


「(これをー、4つにわけてぇ。腕に巻けば腕輪《ブレスレット》になるし、ペタッと貼れば鎧のオシャレな飾りにもなるし、傷口を塞《ふさ》ぐ役割にも、)」

 パァン! と背を押されて、グラウスが一瞬、苦悶の表情を浮かべる。だが、

「(……痛く、ない?)」

 傷口を覆う包帯の代わりにはなるようだ。いや、程よい弾力と密着性のおかげでただの包帯よりもいいかもしれない。
 エリックはシャツの上から貼ってみせたが、シャツの下に《肌に直接》張ったほうが効果はより高いだろう。衛生面から見れば傷口に貼ってもいいものかは疑う余地があるけれど、自然治癒に任せた薄いかさぶたのままよりは、動き回っても傷口が開くおそれは格段に減る。それに服の下なら偽物に見つかる――コピーされる率も低い。
 何より、市場に出回っていない品だから、カペレガム自体をコピーすることは不可能だ。

 「鎧のオシャレな飾り」は正直どうかと思うが。
 アンリは胸にはりつけられた蛍光ピンクのハートを一瞥《いちべつ》し、それからおもむろに引っ張って剥がすと適当に丸めて裏側に貼り直した。中年男にピンクのハートは痛すぎる。


 そうしている間にも、ガチャ、ガチャ、と扉をひとつずつ開けていく音が聞こえる。
 何かを探しているようだ。とすれば、まず間違いなく自分たち《侵入者》だろう。


「(俺らが連中を引きつけるから、柘榴《ざくろ》はアイリス嬢を連れてゲートから逃げろ)」
「(でも)」
「(これはこの家の問題だ。お前さんも大事なお嬢様をこんな家にやり《嫁に出し》たくはねぇだろう)」

 婚礼の儀に新婦がいないとなれば、彼《か》の家も何を言われることか。姉姫《キャメリア》が執事《千日紅》と共に行方をくらませた前歴があるから、血は争えないなどとあらぬ噂が立つであろうことは用意に想像がつく。
 実家に逃げ込むのなら人の目もあるしそんな噂も立たないのでは、と思うかもしれない。しかし彼《か》の家は今まで不仲だったにも関わらず、ある日、掌《てのひら》を返すようにしてアイリスへの申し出を受け入れたのだと言う。
 だとすれば実家に逃げたところですぐに戻されるのがオチ。柘榴《ざくろ》ひとりに罪を負わせて追放する未来までが見えるようだ。

 此処《ここ》にいれば紅竜の道具で終わる。
 そして事実を知った柘榴《ざくろ》はまず間違いなく消される。
 だが、実家に戻っても似たような未来が待っている。
 となれば、彼らはゲート経由でその外に――辺境なり、人間界なりに逃げるしかない。勿論、そうなった時は全力でサポートしてやりたいが、生きて帰れるかもわからない自分たちにそれは確約できない。

 何より、はっきりと口に出しては言わないが、このまま柘榴《ざくろ》とアイリスに付いて来られても、足枷《あしかせ》にしかならない。

 
「(それはそうですが)」

 柘榴《ざくろ》はエリックが背負っているアイリスを見上げる。
 エリックが下ろそうとすると、黙って首を振った。

「(でも僕は紅竜様がいるであろう部屋まで案内する義務があります。ゲートのある部屋は通り道ですから、其処《そこ》からお嬢様だけ逃がして、僕はお付き合いします。邪魔になりそうなら捨てて行って頂いて構いませんから)」
「(捨てて、って)」
「(僕はお嬢様の執事ですからお嬢様を守るのが仕事です。執事さんの持っていたトレイより役に立つつもりです)」
「(何だよトレイって)」

 途中から意味がわからなくなってきたが、どうやら柘榴《ざくろ》には柘榴《ざくろ》なりの決意があるらしい。だからアイリスに付いて此処《ここ》まで来たのかもしれない。
 が。

「(そんなに重く考えなくていいから)」

 簡単に命を賭けてほしくない、と思うのは間違ってはいないはずだ。
 アイリスだって目が覚めた時に柘榴《ざくろ》が死んでいたら、この城に彼を連れて来た過去の自分を恨むだろう。

「(場所教えてくれりゃあ、俺らだけでも行ける。何てったって俺は元々此処《ここ》にいたんだし)」
「それは無理ね」

 会話に混じった女言葉に、アンリは思わず身を乗り出して柘榴《ざくろ》を見下ろした。
 エリックとアイリスの陰になっているウサギは違うとばかりに頭《かぶり》を振ると、アンリに指を突きつける。いや、指は短くてわからないから前足ごと突き出している。
 何だ?
 柘榴《ざくろ》が言ったのではないのか?

「(し、師匠)」

 見ればエリックもあんぐりと口を開けている。グラウスも目を丸くしている。
 自分以外の面々の顔つきに、アンリはおそるおそる後ろを振り返った。

「うわぁぁぁぁぁっ!」

 何時《いつ》の間に入り込んでいたのだろう。
 其処《そこ》にいたのはメイド服に身を包んだガーゴイルだった。胸のリボンは紅《あか》。母屋《おもや》で何度か見かけた、この城に仕えているガーゴイルだろう。何度も見ているが、鼻を突き合わせるほど近くその顔面があれば、いくら勇猛《ゆうもう》さを売りにした元陸戦部隊長様でも悲鳴を上げると言うものだ。


「アンリ、あなた疲れているのよ」

 やれやれ、と言いたげに首を振り、ガーゴイルはアンリの肩をポン、と叩く。

「お前に言われたかねぇ!」

 その手を振り払い、アンリは数歩後ずさった。
 何時《いつ》入ってきた? 扉の開閉する音は聞こえなかったし、自分が聞きそびれたとしてもこちら《アンリ側》を向いているエリックたちには見えたはずだ。なのに、此処《ここ》にいる全員の目を盗んで背後を取るとは……この人外、只者ではない。
 ついでに言えば、少し前に脳内で再生されたネタ元のわからないセクシーボイスも、この顔で再生されたくない。




「黙って」

 そんなアンリの口をガーゴイルは片手で塞《ふさ》ぐと、肩越しに扉のほうを窺《うかが》う。
 見越していたかのように扉の外を足音が遠ざかって行く。あの足音がガーゴイルのものだと思っていたが、どうやらそれとは別の第三者がいるようだ。
 口を塞《ふさ》がれたまま息を詰め、動きを止めてやり過ごすこと数分。

「……行ったわね」

 そう漏《も》らし、ガーゴイルはやっと手を退《ど》けた。
 畜生! 何かちょっとハードボイルドっぽいじゃねーか! と思ってしまったのは秘密だ。だが、ときめいてはいない。決して! ときめいてはいない!!
 アンリは2、3度咳払いをする。

「それより何の用だ」

 扉の向こう側にいるのは正真正銘の敵なのか。このガーゴイルは敵ではないのか。
 問うたところで「敵だ」と言うはずがないことくらいわかってはいるけれど、仲間だと思いたい背後の面子《メンツ》ですら本物か、偽物か、とやっている最中《さなか》にこれ以上増えてほしくない。

「ああ、この子を預かって来たのよぉん」

 塩対応にめげることもなく、ガーゴイルはエプロンのポケットから懐中時計を取り出した。
 使い古されてやや黒ずんだ時計だ。蓋《ふた》の部分にはこの城の印でもある鳥の紋章が刻まれている。

「それは……!」

 グラウスが目を見張った。
 今更説明するまでもない。これはスノウ=ベルの時計だ。隠れていた長老衆が持っていたが、偽アンリによって何処《どこ》かへ持ち去られた。それが何故《なぜ》此処《ここ》に。

「何故《なぜ》って言われてもわかんないんだけどぉ。犀《さい》様が持って行けって言うから」
「犀《さい》が?」

 青藍が魔界に連れて行かれた時、この時計は犀《さい》が持っていた。
 と言うことは、ずっと犀《さい》か紅竜の手元にあったと考えるべきだろう。だとすれば長老衆から取り返したのも彼らか、彼らの息がかかった者である可能性が高い。そしてわざわざ取り返して行ったと言うことは、彼らにとってスノウ=ベルか、この時計かのいずれかに利用価値があると言うことだ。
 時計自体は魔王役就任記念の品のようなものだから、この場合は必要とされているのはスノウ=ベルのほうだろう。
 精霊自体は魔界にも大勢いる。この城にもいる。ただ、その多くは竈《かまど》に火を点けたり、花を咲かせたりという使用人を補助する役割だ。その中でスノウ=ベルを選ぶには何か理由があるに違いない。

 だが、そうまでして取り返した時計《スノウ=ベル》を自分たちに預ける意図が不明だ。
 罠か? 中身は空なのか? 「ガーゴイルに預けた」だけで、自分たちの手にわたるところまでは想定していなかったのか? それとも、

「それ、俺らに預けるって意味に取っていいのか?」
 
 まさか「見せるだけ♡」ではないと思いたいが、日頃から面白いことを基準にして生きている奴《やつ》ならありえないことではない。

「犀《さい》様はそう言ったわ。スノウ=ベルを逃がしてくれって。自分は何時《いつ》変わるかわからないから、って」
「変わる?」

 変わる、とは気が変わるという意味だろうか。
 元より気まぐれな性質《たち》ではあったが……いや。

「……それで、犀《さい》は今何処《どこ》にいる?」
「お館様《やかたさま》の部屋のほうに向かったけど、そっちにいるとは、ちょっ! 何処《どこ》行こうってのよ!」

 突然扉に向かったアンリにガーゴイルのタックルが炸裂《さくれつ》した。情け容赦のない攻撃にこのままでいけば顔面を床に叩きつけるだろうと思われたが、そこは歴戦の猛者《もさ》、背でガーゴイルを跳ね返す。

「凄いや、師匠が人間に見えない」

 攻撃をもろに食らってもものともしない頑丈さに、エリックが感嘆の声を漏らす。
 それをグラウスが

「あの人は元々人間じゃないでしょう」

 と訂正した。それを聞き、エリックも

「あ、ゴリラだった」

 言い直す。

 が。


「違《ちげ》ぇよ!」

 問題にするべきところは其処《そこ》じゃねえ!
 扉の向こうにいる誰かに聞こえるかもしれない、なんて配慮を忘れ、アンリは声を荒げた。
 自分は魔族だから「人間ではない」と訂正するのはわかる。だがその後の展開は何だ。どうしてこいつらは揃いも揃って自分をゴリラ、ゴリラと呼ぶのだ! 確かにクォーターだから魔族以外の血も混じってはいるが、そこにゴリラは存在しない。ゴリラ化する獣人も入っていない!

「ちょっと急用ができた。俺は此処《ここ》で別れるわ」
「「は?」」

 そそくさと立ち去ろうとするアンリの足に、エリックとグラウスの怪訝《けげん》な声が絡みつく。

「急用って何です」
「説明してから行ってくれない? 気になるから」
「あー……えっと、だな」

 今までの自分なら「うるせえ! 俺の勝手だ!」と一喝して立ち去ったかもしれない。
 仲間ごっこを続けていたせいで絆《ほだ》されたのか、歳を取って丸くなったのか。喧嘩別れのように別れては後で再会した時に気まずいと思ったのか。アンリは突き刺さる両名の視線から目を逸《そ》らす。そして。

「……お館様《やかたさま》に会ってくる。本当はもうだいぶ前から言おうと思ってたんだが言いそびれてな」

 と呟いた。


 お館様《やかたさま》こと前当主のことはこの城に来る前から気になっていた。
 紅竜に家督《かとく》を渡す以前から早々に隠居してしまったことも、公に全く姿を見せなくなってしまったことも。
 いくら現当主絶対主義を敷いている家だとしても、前当主の言葉には影響力がある。後継者が道を踏み外せば忠告し、正すのも前任者の努めだし、彼《前当主》はそれをする人物のはずだった。だから自分はずっと彼に付いて来た。
 なのに紅竜が青藍を幽閉しても、使用人を片端から処分し始めても何も言わない。貴族社会を牛耳《ぎゅうじ》り始めても出て来ない。そのせいでもう死んでいるのではないかと噂されているのに、それでも現れない。
 第二夫人の葬儀ですらあれだけ大々的に行ったのだ、前当主が亡くなっていれば放置などできない。
 前当主隠居後、ずっと別荘地に行っている第一夫人、第三夫人とて、よもや自分の夫の生死を知らないでいるとは思えないし、何より犀《さい》が気付かないはずがない。
 もしかしたら紅竜が何かしたのではないか。命を奪ったか、闇に呑み込ませて傀儡《かいらい》に仕立て上げたか。だとすれば紅竜の手前で自分たちの前に立ち塞がって来るのではないか、と冗談まじりに想像もした。

 その前当主のところに犀《さい》が行っていると言う。
 紅竜の傍《そば》にいて闇に染まらずにいられるはずもないが、犀《さい》は水晶の精霊で、水晶は浄化の石。紅竜に従うふりをしながら、彼を止める機会を狙っているかもしれない。
 そしてスノウ=ベルを寄越して来たことも気になる。利用するはずの彼女を預けてきたのは、もう利用し終わったのか、それとも使う必要がなくなったのか。いや、それよりも……まるで救命ボートの足りない船で「子供だけでも逃がしてくれ」と託す親のように感じたのは自分だけだろうか。
 

「有用な情報が手に入るかもしれねぇ。犀《さい》も行ってるんなら、あいつの説得もできるかもしれねぇ……って、そこはあまり期待してほしくねぇんだけどよ。ま、間違ってもお前らの敵になって再登場はしねぇから安心しろ」
「脳が筋肉でできている人を洗脳するなど無理でしょうから、そこは心配していませんが」

 グラウスの毒舌にエリックも黙って頷いている。
 柘榴《ざくろ》は己に口を挟む権利はないと思っているのか、黙って成り行きを見ている。
 懐中時計を手の中でこねくり回しているガーゴイルに「預けるのはそいつらに頼むわ」と一声、声をかけ、

「あー……ってことで、」

 途中で止められたことで別れのシーンがグダグダになってしまったが、反対されなかっただけよかったと考えておこう。アンリは改めて踵《きびす》を返し、ドアノブに手を掛けた。