~8月~




 いったい何を言っているのだろう。
 今回はあまりにも目に余る。

 寮の談話室の一角。僕はドリンクのストローを齧《かじ》りながら、ここ数日のノクトの様子を思い返していた。
 

『俺は能登《のと》大地《だいち》。ノクトなんて名前じゃない』

 あの時そう言い放ったノクトは、寮に戻ってからこちら、ずっとベッドに潜《もぐ》り込んだまま出て来ない。
 空腹になれば出て来るかとも思ったが考えが甘かった。籠城してもう何日経《た》つだろう。
 夏季休暇中でよかったと言うべきか、授業をボイコットして罰を受けるほうがお灸を据える点としては良いだろうから休暇であることを残念に思うべきか。
 そんな考えがぐるぐると回る。

 ノクトの妄想癖にはずっと我慢させられてきたけれど、そろそろ限界だ。
 あの日も何を言っているのだと呆れる僕に対し、ノクトは「俺の髪は黒かったんだ」「俺は今年で30になる」「俺は家で自作ゲームを作っていた」などとまくし立てた。

 埒《らち》が明かないので妄想転生ものの冒頭よろしく、此処《ここ》が学園都市ラ・エリツィーノであること、自分の名はマーレで彼はノクトだということを教え、何とか寮まで連れ帰った。
 期待していたであろう特殊能力を授けるだの、冒険資金を渡すだの、まして勇者と崇《あが》めるだの、そんなところまでは付き合えないので端折《はしょ》ったが。
 その対応が不満だったのか、寮で待ち構えていたヴィヴィとチャルマに対してもノクトは「お前は誰だ」「俺はノクトじゃない」を繰り返し。
 そして誰も自分の話に乗って来ない察するや、引き籠《こも》ってしまったというわけだ。

「……どう見たってノクト以外の誰だって言うのさ」

 背の高さも猫背なところも。
 当人が違うと言い張る髪の色だって6歳の頃からその色だ。
 と言うより、人類の髪の色は毛染めでもしない限り緑だろうに。

 延々《えんえん》と閉じ籠《こも》って学生生活最後の夏季休暇を棒に振るのは勝手だが、時間が経《た》てば経《た》つほど現実に戻って来《き》づらくなる。
 後々困るのは自分自身だと言うことを、彼はきっとわかっていない。


 ズズ、とストローが音を立てた。
 考えごとをしているうちにあらかた飲み干してしまったらしい。
 全く味を感じなかった。これもノクトのせいだ。

 空《から》になったカップを握り潰そうとして止める。
 陽《ひ》が高くなってきたから此処《談話室》もそろそろ混んで来るだろう。
 カーテン越しの白味がかった新緑の陽射しで満ちた室内を見渡し、僕は少しへこんでしまったカップを取り上げると、さも飲んでいますとばかりの顔でストローに口をつけた。

 席は半分ほど埋まっている。
 中でも此処《ここ》はちょうどよく日陰で且《か》つ外が見える良席だ。
 飲み干していることが知られれば席を譲れと言われることは間違いない。

 けれど、だからと言って行く当てがない。
 薄荷《ハッカ》とオレンジが混じった空気を口に含み、さてどうするか、と思案する。

 部屋に戻ったところでベッドのふくらみを見れば腹が立つだけだから、図書館にでも行こうか。
 フローロが言い残したことも気になる……けれどこの精神状態で、さして親しくもない司書と話すのは苦痛だし、何を言われても頭に入って来る気がしない。
 日光浴がてら外をぶらつくにしても、この季節では5分ともたない。

 ああそうだ。
 ノクトのセルエタもストラップを新調しないと使い勝手が悪いだろう。
 買い物に誘ったら付いて来るだろうか。

 いや。

 首を振る。
 ノクトの世話など金輪際《こんりんざい》したくない。
 ストラップなんて荷造りの紐で代用すればいい。



「なに? ノクトはまだ引き籠《こも》ってんの?」

 そんなことをつらつらと考えていると、同じようにドリンクを持ったヴィヴィがやって来た。
 いつものようにチャルマも一緒だ。
 ふたりしてショップのロゴ入り紙袋を下げている。
 朝から買い物にでも出かけていたらしい。


 寮で同室の僕とノクトが行動を共にすることが多いように、ヴィヴィとチャルマも大抵は一緒にいる。
 何処《どこ》となく”親分と子分”感が拭《ぬぐ》えないのは女王様気質のヴィヴィとおとなしいチャルマだから自然とそういう立ち位置になってしまっただけで、ヴィヴィがチャルマを下に扱っているわけではない。

 それどころか”チャルマに何かしようものならヴィヴィにボコボコにされる”という格言《警告》は学校中で知らない者はいないほど。
 おとなしいというだけで攻撃対象にされかねない子供社会でヴィヴィはチャルマの盾を買って出ているとも言えるわけだし、当のチャルマが立ち位置を気にしていないのなら部外者がとやかく言うことでもない。

「ホント迷惑だよね」

 ヴィヴィはそう言いながら勝手に空いた席に座ると、チャルマにも、もうひとつの空席に座るよう促《うなが》す。
 さすがに3人で座っていれば席を退《ど》けと言われることはない。

「……他に席空いてるけど?」

 けれど僕は”お友達と楽しく談笑”したい気分ではない。
 しかもヴィヴィとだなんて。陽属性のリーダー気質は頼もしく感じる反面、塞《ふさ》いでいる時は何よりも鬱陶《うっとう》しい。 
 ノクトを引っ張り出す算段が尽きた今、彼らの知恵も借りたいのはやまやまだけれども、僕自身の感情に蓋《ふた》をしてまであのノクトのためにそこまでする必要があるのか? とも思ってしまう。
 
「僕が何処《どこ》に座ろうが僕の勝手」

 矛盾した僕の心境を察してくれたわけではないだろうけれど、移動する気はないらしい。
 煩《わずら》わしそうに横の毛を後ろに流し、ヴィヴィは頬杖をついた。

「で? あの馬鹿はまだ引き籠《こも》ってるわけ?」
「うん」
「よく我慢していられるよね。ちょっと殴ってこようか? 痛い目に遭《あ》わなきゃ気がつかないタイプだよあれは」
「……ありがたい申し出だけどやめておく」 

 本音を言えばヴィヴィに頼まずとも自分が殴りたい。
 他人に任せてはここ数日の鬱憤《うっぷん》が晴れない。
 でも学友に暴力を振るったことがレトに知られれば減点されるかもしれない。

 子供ばかりの世界だし、初等部の頃から喧嘩や小競《こぜ》り合《あ》いは日常的にあった。
 だからレトだって多少の諍《いさか》いごときで減点などしないだろうし、実際、小競《こぜ》り合《あ》い程度でレトが出てくること自体が怪しい。
 でも知られていない、減点されないという根拠もない。

「”俺は能登大地だ”ねぇ。異世界転生したいお年頃なんだろうね」
「僕らも同じ歳なんだけど」
「それじゃマーレできるんじゃない? 転生。実際やってみたら気持ちがわかるかもよ?」
「冗談」

 ノクトの蔵書を参考にすれば、突然勇者が降臨した時は崇《あが》めて尊敬し、尋ねられもしないうちから世界の仕組みや召喚した理由を語るのが現場に居合わせた現地民の役目であるらしい。
 けれど現地民からすれば、6歳の頃からの付き合いで脇の下にほくろがあることまで知っている間柄のノクトをなぜ崇《あが》めて尊敬しなければならないんだ、という気持ちのほうが勝《まさ》る。
 秀《ひい》でた才能のひとつでも開花させているのならまだしも、見る限り彼《ノクト》はベッドで丸まって1週間も動かないこと以外、何も変わっていない。

「人間はそう簡単に転生も転移もしません」

 この世界は勇者を呼ぶほど困っているわけでもない。
 魔王が復活したわけでもない。
 その前に転生なんてファンタジーな事象は起こり得ない。



 ヴィヴィは宥《なだ》めるように僕の肩を叩いた。

「チャルマ先生が言うにはね。転生するとこっちの世界での記憶……生まれてから今までのをすっかり忘れちゃうらしいよ」
「はあ?」
「転生者って前世の記憶はしっかり覚えてるくせに、直近までのこっちの世界での記憶は全然残ってないんだってさ。
 大抵の本はみんなそう。”あの偉そうなのは誰だ”とか、”どうして女尊男卑なんだ”とか、その世界での一般常識? まぁ10数年生きていれば嫌でも知ってるだろうって知識を尋ねるシーンが絶対あるんだよ。ね?」

 最後の「ね?」はチャルマに向けてのものだ。
 突然の振りに小さい体を余計に縮《ちぢ》こませてチャルマは何度も頷《うなず》く。

 でも、それは創作上での話だろう。
 ”転生した”ってところを前面に出したいから、そして世界観をさりげなく読者に教えたいから、そうやって尋ねるシーンが入るだけ。
 説明するべき読者のいないこの世界で同じことをされても、聞かれた側は「何言ってんだこいつ」としか思わないか、精神異常だと通報するだけだ。

「前世の自分って言ったってその辺の引き籠《こも》りや学生でしかないのにさ。どれだけ濃いんだよ、って笑っちゃうけど」
「笑ってる場合じゃないって」

 冗談ではない。
 そんなネタは楽しめる関係同士でやってほしい。

「だからさ、”前世はそうだったかもしれないが、今のキミはノクトだ!” って設定でいこう!」

 例えばこのヴィヴィとか。
 間違っても僕に振って来るな。巻き込むな。

「設定って何」
「だから転生ネタで行こうって話。それなら見た目がノクトのままでも何とかなるし。
 まぁ、転移でも次元を超えた影響で見た目が現地民ぽく変わっちゃうのもあるらしいけど、そのあたりはイレギュラーだから置いといていいと思う」
「……どれだけご都合主義なんだよ」

 確かに僕がノクトの妄言を妄言としてしか認識できないのは彼の見た目が原因ではあるけれど。
 「髪は黒だ」と言うけれど緑だし「30歳だ」と言うけれどどう見ても同い年。
 と言うか何処《どこ》からどう見てもノクトでしかない。

 なのにノクトではなくて”転生者・能登大地”として扱え、と?

「妄想に付き合いたくないのはわかるって。でもとにかく今は外に引っ張り出して、転生勇者サマには現世を楽しんで頂いて。そうしてるうちにシレッと元のノクトに戻るよ」 
「そう……かなぁ……」
「そう。ってことでノクトさんは前世の記憶がよみがえっちゃいました! OK?」
「全然OKじゃない」

 ヴィヴィの提案には思わず溜息が出る。


 あの日、嫌だと言うノクトを無理やり引っ張って連れて行かなければ、今こうしてノクトが引き籠《こも》ることも、茶番に強制参加させられることもなかったのだろうか。
 そう考えると、そもそもの原因は自分になってしまう。ノクトのために良かれと思ってとった行動なのに。




「と、難題が片付いたところで」

 ドリンクのカップを音高く置いて、ヴィヴィは身を乗り出した。

「明日は”海”に行こう!」
「……………………そんな気分じゃない」

 何を言い出すのかと思ったら。自分が遊びに行きたいだけじゃないか。

「ノクトも”海”に行こうって誘えば出て来るって」
「来ないよ」
「来る。秘策がある」

 あからさまな失望を顔に出した僕に、ヴィヴィは不敵な笑みを浮かべた。


 ”海”とは水族館の敷地内にある巨大な水場のことだ。
 今は使われていない古びた建物ごと水に沈めて作られているそれは”海”と言うよりも古代遺跡にしか見えない|代物《しろもの》で、通常は水生生物の繁殖と飼育に使われている。
 壁や床の凹凸具合が住み着くのに適しているらしい。

 学生たちに開放されるのはその”海”のごく一部。
 一般開放エリアだとは言うけれど、飼育に使われている場所と繋《つな》がっているのにバシャバシャ入り込んで水質が変わったりしないのだろうか。
 妙な菌を伝染《うつ》されたりはしないのだろうか。
 とは毎年思う。




 何百年か昔には、この”海”と同名ながら似ても似つかぬ存在が世界の7割を占めていたらしい。
 地表が3割しかないなんて不便だとかそういう意見は置いておくとして、見渡す限り青い水しかない世界というのは圧巻だろう。想像もできない。

 けれど。
 いや、だから。
 ”海”を知らない僕らは、想像すらできないそれに憧憬《どうけい》を抱くことなどできない。
 むしろ砂嵐が吹き荒れる荒野のほうが思い入れがあるかもしれない。

 なのにレトはこの時期になると”海”を提供してくる。
 意図はともかく、この暑い最中《さなか》に水遊びができることだけは素直に賛成するし、大半の学生も同じ意見だろう。
 そして昨年までのノクトも。


「月の後半になるとクラゲが出てくるから嫌なんだよね。
 ほら、ノクト去年クラゲに刺されたじゃない。誘うなら絶対に今のうちだよ。後になったらクラゲが出るから行かない、って言うよ」
「そう簡単にいくかなぁ」

 外に引っ張り出す、という点からすれば良案ではある。
 少なくとも昨年まで(クラゲに刺されるまで)のノクトは”海”を楽しんでいた。

 ファータ・モンドにも”海”はあるかもしれないけれど、ラ・エリツィーノでの”海”は今年が最後。僕たちが共にいられるのも最後。
 そう考えればベッドに根を張ってしまった重い腰を上げるかもしれない。


 しかし今のノクトは昨年までの彼とは違う。
 いつもならホラ話が受けなかったと知るや、その時点で止めるのに、今回は何をこだわっているのか何時《いつ》までも”自分は能登大地だ”という主張を曲げない。

 僕らが”前世は能登大地説”に乗ればいいだけの話なんだろうけれど、何故《なぜ》毎回、毎回、こちらが折れなければならないのだ。
 個人的に言えば、ノクトの機嫌をとるために”海”に誘うことすらしたくない。
 勝手に引き籠《こも》ってろ馬鹿! と言いたい。


「いくさ! 僕らの水着姿が拝《おが》めるんだよ? 絶対に来る!」
「その自信は何処《どこ》から来るんだよ」

 売り言葉に買い言葉的にツッコんではみたものの、そんなこと聞くまでもない。
 ヴィヴィは外見だけなら女の子にしか見えない。
 本人もそれを理解していて、髪型や服装も女性を意識している。
 チャルマはヴィヴィほど気をつかっているようには見えないけれど、おとなしい性格のせいで女の子であることを暗に期待されている。
 そして此処《ラ・エリツィーノ》では女性的な見た目の学生のほうが尊重される。


 前述したけれども、性徴《せいちょう》が来て僕らは初めて男性、女性に分かれる。
 けれども噂ではその比率にかなりの差があるらしく……どうも男性のほうが多くなるらしい。
 何が言いたいかと言うと、ファータ・モンド《大人の町》でレトによって伴侶の割り振りがされる際、男性に変化した者は相手が見つからない事態に陥《おちい》る可能性がある、ということだ。

 レトは当然、優秀な学生の遺伝子を先んじて残そうとするだろう。
 噂だから真偽のほどは確かではない。
 けれど、火のないところに煙が立つことはない。
 だからこそ卒業が近付くにつれ、女性になる可能性がありそうな学生に粉をかけてくる学生が増える。
 イグニがフローロに近付いたのもきっとそれが理由だ。

 でも。

「あのノクトだよ? こう言っちゃあ悪いけど、今までだってヴィヴィに全然興味持ってる感じしなかったじゃない」
「ふふふ、人間は成長するんだよ」
「それでもし本当に興味持っちゃったらどうすんのさ」
「もちろん盛大にフッてやるとも! 苦い経験はさらなる成長の糧《かて》となるであろう!」
「それじゃあまた引き籠《こも》っちゃうよ!」

 けれども全員が目の色を変えて”女の子っぽい学生”を奪い合うわけではない。
 性徴《せいちょう》後に姿が変わることは周知の事実。
 今此処《ここ》で相手を選んだところでその相手が女性になるのも、自分が男性になるのも確定事項ではない。

 さらには狭い社会《コミュニティ》でのこと。
 口説いて玉砕すれば瞬く間に広がり、陰《かげ》で笑われることも知っている。

「却下、却下。無理」
「行動を起こす前に諦めるのは負け犬だよマーレ」
「どうせ行動するなら成功率の高いものにしよう、って言ってるの」

 僕は頭を抱える。
 ヴィヴィは同室じゃないから、ことの深刻さがわかっていないに違いない。

 話しかけても返事も返さず、それでいて陰鬱《いんうつ》な空気を撒き散らす。
 気が滅入《めい》るどころの話じゃないのだこっちは。


「あ、あのね、ノクトがこの間から使ってる”俺”って、”僕”と同じで昔は男の人が使ってたんだって。きっと前世は男の人だったんだと思うんだ」
「…………はい?」

 だが。
 唐突に追加されたチャルマの一言に、僕はヴィヴィへのツッコミも忘れて思わず彼《チャルマ》を凝視してしまった。

「男?」
「だ、だからね? もともと自分が男だって認識でいるんだったら、同性愛主義者でもなければ女の子に目が行くものでしょ? ヴィヴィは女の子っぽいし、水着も効果あるかなぁって」
「そう! どうよ、この完璧な作戦!」

 ふたりはふたりでノクトのことを考えていたのだろうか。
 確かに旅立ちの日以降のノクトはやけに口調も荒かった。
 けれどそれは彼が”能登大地という男”を演じているからだと思っていた。

 でももし本当に転生していた《前世の記憶がある》としたら。
 ”能登大地”になら女の子(っぽいもの)の水着姿は効果があるかもしれない。

「念には念を入れてチャルマも水着を新調してるから」
「ヴィヴィ! それは言わなくていいよぅ」
「だって能登大地の好みのタイプって知らないし。もしかしたらおっとりおとなしめ系が好きかもしれないじゃない?」

 得意げに暴露するヴィヴィの声に、僕はまたしてもチャルマを凝視してしまう。

 ……その紙袋は水着か。
 能登大地を誘惑するためにというのは建前で、ただ単に水着を新調したかっただけだとは思うけれど、この分から行くと今年はチャルマもヒラヒラした水着を着せられるらしい。
 彼《チャルマ》なら似合わなくはないとは思うけれども、気の毒に、という感想しか出て来ない。

「何その顔は」
「いえ何でも」
「言っておくけどね。せっかくかわいく生まれたんだからかわいい服を着なくてどうするの! イグニみたいにやたらとゴツくなっちゃって、着たくても着れない奴《やつ》も大勢いるんだよ?」
「やめて想像させないで」

 ヒラヒラした水着に身を包むイグニを想像してしまって胃が痛い。
 と同時に同情する。
 そうだ、彼は好きであんな顔と体形になってしまったわけではない。
 できることならフローロになりたかったに違いない。

 ああ、願わくば彼はファータ・モンドで女性になれますように。
 そして今まで着れなかった分、水着でも何でもかわいい服が着られますように。

 ついでに言えばフローロも女の子になって、それで関係も破綻《はたん》してしまえ!
 

 ヴィヴィは値踏みするような目で僕を見る。
 
「僕としてはマーレも似合うと思うんだよねぇ。買いに行く? 選んだげるよ」
「なんの拷問だよ」

 だがしかし。僕には振るな。
 冗談ではない。
 その結果、ノクトに意識されるようになったらどうしてくれる。
 男のつもりでいる同室の相方に異性として見られるなんて、おちおち寝てもいられない。

 思わず身震いした僕とは逆に、ヴィヴィは頬杖をついたまま、楽しげに人差し指で僕の鼻を突《つつ》いた。
 小悪魔的な視線に「ああ、こうやって幼気《いたいけ》な青少年を手玉に取って来たのか」なんてしみじみと実感してしまう。

「と言うことで明日は10時に玄関に集合! わかった?」
「はいはい」

 ”遊びに行こう”なんて空気を読まない提案に、ましてヴィヴィの水着が拝めるなんて理由で籠城《ろうじょう》を解くとは思えないけれど、”人間は成長するもの”だし、もしかしてもしかするとな一発逆転イベントが起きないとは限らない。
 僕はカップを握り潰すと席を立った。




 空は相変わらずのサンドベージュ。町の外を吹き荒れる砂嵐の色。
 何百年前だかの本物の”海”が存在していた頃の空は青くて、空と海の青が繋《つな》がって見えることもあったそうだ。
 もし砂嵐が止むことがあれば、この空はかつての青を取り戻すのだろうか、なんてことを思う。

 レトが毎年こうして”海”に僕らを呼ぶのは、かつてこの世界に普通にあったはずのふたつの青を忘れないように、という先人たちの思いを込めているのかもしれない。




 ”海”初日だからか、多くの学生が戯《たわむ》れている。
 鮮やかなピンクの水着はヴィヴィだ。腰までの長い髪をツインテールにし、ヘソを露出したなりでは人目を引かないはずがない。
 街灯に群がる羽虫のように数多《あまた》の学生が取り囲んでいる。
 そしてヴィヴィが女性”性”をアピールすればするほど、同行者である僕たちに刺さる敵意が痛い。

 だが、ヴィヴィが取り囲む学生らの中から将来の相手を選ぶつもりでいるかは別。
 いや、どちらかと言えばそんな気はさらさらないだろう。
 『かわいい時にかわいい服を着る』も本音だろうけれど、中でも本心は女性の姿で得られる特権を享受するため、のように思う。

「チャルマは泳ぎにいかなくていいの?」
「いい」

 常日頃ヴィヴィと行動を共にしているチャルマは僕の隣で膝を抱えて座り込んでいる。
 水色タータンチェックの水着はヴィヴィの色違い。髪型も――きっとヴィヴィの手によるものだろう――側頭部でふたつに結わえられ、水着と同じ水色のゴムで結ばれている。
 ミドルショートの髪ではツインテールにできなかったらしく、ちょこんと結ばれているのが何とも幼げでかわいらしくはあるのだが、本人はそうでもないらしい。
 見せつけて歩けば媚《こ》びを売って来る学生もいるだろうのに、こうして小さくなっているのは見知らぬ学生に取り囲まれるのが嫌だから、だそうだ。
 まぁ、あんな下心丸出しの連中に取り囲まれるなんて、ヴィヴィほど神経が鋼鉄で出来ていない限り嫌だろう。僕だって嫌だ。

「でも」

 チャルマは僕の耳元で声を落とした。

「ノクトが出て来てくれてよかったね」
「え、まぁ……」 
 
 僕はチャルマの向こう、人ひとり分の間隔を空けて座り込んでいるノクトを見やる。
 まさか本当に出て来るとは思わなかったけれど、きっと彼も引き籠《こも》りをやめるきっかけが欲しかったのだろう。
 とは言え気まずいのか、僕たちの会話に混ざるでもなく、ぼんやりと目の前の景色を眺めている。

「ノクト、荷物は僕らで見てるから行ってきていいよ」

 腹の虫はおさまらないけれど、せっかくヴィヴィとチャルマが捨て身で引っ張り出してくれたのだから無駄にはできない。
 どうにか今日のうちにもとのノクトに……は無理かもしれないけれど、機嫌くらいは直させなくては。
 僕はノクトに声をかける。
 ノクトの我が儘《まま》は、いつもこうしてなあなあ《・・・・》に終わる。
 1ヵ月後には転生ごっこで周囲を振り回したことすら忘れているに違いない。
 でも彼に振り回されるのも後1年だと思えば、多少なりとも寛大になれるものだ。


「……なあ」

 一旦は腰を浮かせかけたもののノクトは思い直したように座り直した。
 僕たちふたりと駆け回る他の学生らを見比べ、眉間に皺《しわ》を寄せる。

「何でお前ら全員、頭、緑なんだ?」
「は?」

 てっきり水着のことを言われるのかと思っていたのに。
 予想外の唐突な質問に、思わず僕はチャルマと顔を見合わせてしまった。
 髪がどうして緑か、なんて初等部のチビどもだって知っている。
 いくら授業をサボりがちだったとしても、それは一般常識の範囲だ。

『――転生すると、こっちの世界で生まれてから今までの記憶をすっかり忘れちゃうらしいよ』

 ヴィヴィの提案に沿って、僕らは今”ノクトは前世の記憶を取り戻した”設定で話を進めている。
 髪が黒いのも、30歳なのも、ゲームを作っていたのも前世の記憶。
 たまに一般常識を真顔で尋ねて来るのは、濃い《・・》前世の記憶が入り込んだせいで現世の記憶が吹っ飛んだから……と、どこまで中二病に優しい設定だと呆れて物も言えないが、今しがたの質問もそれで理由はつく。
 つくけれど、なぜこんな茶番に付き合わないといけないんだと思わずにはいられない。

 妄想のごっこ遊びに周りを巻き込むな。
 前世の記憶自体、大嘘《おおうそ》のくせに。
 そう罵倒《ばとう》してやりたいと思う僕は心が狭いのだろうか。
 苛立《いらだ》ちを隠して目を逸《そ》らし、僕はドリンクに口をつける。


「……光合成するためだよ」

 そんな僕を見かねたのか、チャルマが解説を買って出た。
 ノクトが演じる”能登大地”を誘い出すために水着を新調するくらいなのだから、もしかすると僕が思っている以上に前世の記憶説を信じているのかもしれない。
 能登大地も前世の記憶も転生も嘘《うそ》! と思っているのは僕だけで。

「生き残るために僕らは進化したんだ。でも何百年か前までは人間は光合成なんてできなかったそうだよ。だから能登大地って人はその頃の人かもしれないね」


 そう。
 何百年か前、人類は滅亡に瀕《ひん》するほどの危機に襲われた。正体不明のウイルス性疾患が蔓延《まんえん》したのだ。
 ワクチンもなく、症状を抑える薬も少なく、疫病に罹患《りかん》したかどうかを調べる検査薬まで足りず。
 ほんの数ヵ月の間に大勢が亡くなった。

 実際には滅亡しかけたのは人類だけでなく、他の動物――哺乳類も鳥類も魚類も――も含まれる。
 残った数少ない水生生物を増やすために存在している|此処《水族館》のように、何処《どこ》かの町の施設にはいるだろうけれど、野生で見ることはない。

 多くの者が死を受け入れるしかなかった中で、それでも人々は様々な分野から危機を乗り越えようと模索した。
 その中で、突然変異のように水と太陽光があれば生きていける体質を手に入れた者が現れた。
 疫病も何故《なぜ》か彼らにだけは伝染《うつ》らず……今残っている人類は全てがその子孫と言うわけだ。

 髪が緑なのはその証。
 ただ、何故《なぜ》光合成できることが疫病に打ち勝つことになったのか、残念ながらこの町では知る術《すべ》はない。
 歴史や生物の授業でも習わない。
 全てはファータ・モンドで知ることができる。そう言われている。

 光合成が出来ずに滅んだ前文明の人々の髪は、黒だの金だの茶だのと多岐《たき》にわたっていたらしい。
 「俺の髪は黒い」と言う”能登大地”もそこに含まれるのだろう。 
 だが、今、その色の髪を持つ者はアンドロイドに限られる。
 言い換えれば、この世界は髪の色で人間かそうでないかを見分けることができる。


「光合成!?」

 案の定、ノクトは素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
 しかしそれも束《つか》の間、納得したように頷《うなず》く。

「そうか。だから引き籠《こも》ってても全然腹が減らなかったのか。まさか生まれ変わったら植物だったとは」
「……人間だよ」

 納得できるものなのだろうか。
 僕らにとって光合成は物心つく前からの常識だったから不思議にも思わないけれど、例えば逆に『これからは他の動植物を食べないと生きていけない』なんてことになったら納得するまで何日も、下手をすると何年もかかるだろう。

 物わかりが良すぎて胡散臭《うさんくさ》い。
 やはり僕らが妥協して合わせてくるのをいいことに、”前世の記憶がよみがえった設定”を演じているだけだ。そうに違いない。


「光合成できるけど人間なんだよノクト。地上に上がった魚が肺呼吸を覚えたように、水を掻《か》い潜《くぐ》る獣の指に水掻《か》きができたように。この髪は人類が生き残るための進化なんだ」
「でも植物と動物じゃ細胞のつくりからして違うだろう?」
「植物じゃない。ただ、葉緑素を持ってるだけ。詳《くわ》しいことはファータ・モンドに行ってからしか学べないから今は答えられないけど」

 わざとらしい、と嫌味を奥歯で噛《か》み砕く僕とは違って、チャルマは親切に教えている。
 いつもはヴィヴィの影に隠れていてわからなかったけれど、こう見えて面倒見がいいのかもしれない。




「……何でみんなして壁に貼りついてるのさ」

 暫《しばら》くしてヴィヴィが帰ってきた。
 結構な時間が経《た》っているけれど1度も水には入っていないのか、髪も水着も崩れた様子はない。

「ああ、つっっっかれたぁ! マーレ、サンオイル塗ってよ」
「何で僕が」
「背中に手が届かないからに決まってるでしょ」

 そう言いながらもヴィヴィは僕の手からドリンクを取り上げ、勝手に口をつける。

「……それ僕の」
「知ってるー」

 そんなやりとりに、しぶとく後をついてきた数人の学生がわざとらしく舌打ちをして去って行く。

 おおかた僕とヴィヴィとの仲を誤解したのだろう。
 ヴィヴィもそれを狙ってサンオイルを塗れと言ったりドリンクを奪って飲んだりしたのだろうから、まんまと騙《だま》せた、と言ったところだろうか。

「まだ話がしたいみたいだったよ?」
「あ、いいのいいの。僕はしたくないから」

 ヴィヴィが女性をアピールするのは気に入られようと媚《こ》びて来る奴《やつ》らをいいように利用したいからだけれども、その一方でああして邪険に扱う相手もいる。
 |曰《いわ》く「ちょっと甘い顔をすると図々しく距離を詰めて来る奴《やつ》とは黙って離れる」のが最適な距離感の付き合いを長続きさせる秘訣なのだそうだ。
 彼らも何処《どこ》かでヴィヴィの引いた一線を踏み越えてしまったのだろう。

 ヴィヴィは特定の相手を作らない。
 性徴《せいちょう》前に相手を選ぶことの迂闊《うかつ》さを知っている側からすれば、決して本気にならないヴィヴィはいい遊び相手になる。
 でもそれは今までの話。
 遊びで付き合うのではなく確保したいと思う者は今後いくらでも増える。
 こんな衆人環視《しゅうじんかんし》のもとなら強硬手段に訴えられることはないだろうけれど、卒業を間近に控えれば何処《どこ》で何をしてくるかわかったものではない。
 しかもそういった手段に出るのはレトの組み合わせにあぶれる可能性がある学生……つまりは平均からそれ以下に属する者で。
 自己主張を知恵や弁舌《べんぜつ》ではなく腕力や暴力で表現しようとすることが多いわけで。

「……あんまり言いたくないけどさぁ、こんなことしてると、」

 何もなければ無事に卒業できるかもしれないところを、なまじ女性をアピールしていたせいで妙な輩《やから》に目を付けられるかもしれない。
 彼らの良識に期待するのは危険すぎる。

「大丈夫だよ。そんな度胸のあるやついないって」

 ドリンクを飲み干したヴィヴィは、ケラケラと笑いながらサンオイルを引っ張り出している。
 少し離れたところでは、先ほどの学生らがまだ僕たちの様子を窺《うかが》っている。

「あ、でもマーレは襲われるかもね。逆恨みで」
「待って」

 何故《なぜ》ヴィヴィのとばっちりを僕が受けなければならないのだ。
 本当に付き合っているのならまだしも、ヴィヴィの僕に対する価値は、様子を窺《うかが》っている彼らとそう変わりない。

 年がら年中一緒にいるチャルマにサンオイルを塗れだのと言わないのは、逆恨みがチャルマに向くのを避けるためだ。
 そんなところでもチャルマを守っているのは好感が持てるけれど、その配慮の100分の1でいいから僕にも気を配ってほしい。

「じゃ、付き合っちゃう?」

 空になったドリンクカップを返されて仏頂面になっている僕に、ヴィヴィはわざとらしく身を寄せる。遠目には甘えているように見えるだろう。

「絶対に嫌!」

 配慮してほしい!!!!



 そんな時だ。
 今まで黙ってやりとりを眺めていたノクトが、蔑《さげす》むように鼻で嗤《わら》ったのは。

「くだらねぇな。そんな真っ平らな胸に何でああも群がるかねぇ」

 その台詞《セリフ》に空気が凍りついた。特に僕の隣は氷点下だ。

 急に何を言い出すのやら。
 せっかく引き籠《こも》りをやめて出て来てやったのに僕ばかりを構う、と切れたのだろうか。

「……あったりまえでしょ性徴《せいちょう》前なんだから」

 そして売られた喧嘩を買わないヴィヴィではない。

「何だよ性徴《せいちょう》って」
「はん、性徴《せいちょう》も知らないの? もしかしてそれも忘れちゃったぁ? それとも今更純真な少年でも演出してるの? キモ」

 ゆらりと立ち上がり仁王立ちでノクトを見下ろすヴィヴィの顔に、つい今しがたまでの陽キャ属性はない。

「知ってるよね30歳なら。で、いっっっっっくら引き籠《こも》もってたとしても着替えたりトイレ行ったりした時に付いてるものが付いてなきゃあ気付くよねぇ。でもね、それが今のあんたなの。能登大地なんかじゃないの。マーレもチャルマも、当然僕だって前世がナントカなんて1ミリも信じちゃいない。大ボラに付き合ってあげてる、だ、け!
 だいたい僕らにどれだけ迷惑かけてるか自覚ないでしょ? フローロの見送りもしないで、セルエタ捨てて行方くらまして、マーレなんか外に出て行ったんじゃないかって真っ青になってたんだよ? それを前世は30歳だった、だ? それがホントだったら僕らの倍生きてるくせにやってることは幼稚園児じゃない。勝手なことして嘘《うそ》ついて、騙せなかったからって閉じ籠《こも》って。
 挙句《あげく》、胸が平らだぁ? 自分の胸を見てから言えよ」
「俺に胸があるわけないだろ」
「そうさ。あるわけがない。僕もノクトもマーレもチャルマも、此処《ここ》にいる全員がね!」


 最初に前世設定を振ったのはヴィヴィなのに、信じていないと言い切ってしまってもいいのだろうか。
 せっかく外に連れ出したのに、また引き籠《こも》ることにならないだろうか。
 が、それと同時に自分の胸の内でずっと燻《くすぶ》っていたノクトへの不満を代弁してもらったようで胸がすくのも確かで。


「ノクト、忘れてるかもしれないけど、今の僕らに男女の性差はないの。だから乳房が膨らむこともないんだよ」

 そんな中、チャルマだけがある意味冷静に説明を続けている。
 ヴィヴィの怒りに当てられる距離にいながら此処《ここ》まで冷静でいられるのは、やはり耐性がついているからなのだろうか。
 どれだけ怒っていてもヴィヴィなら大丈夫と言う、10年一緒に暮らした者にしかわからない謎の信頼があるからだろうか。

「能登大地のほうが生きてた年数が長いから、能登大地として世界を見ちゃうのは仕方ないよ。でも今のきみはノクトなんだ。能登大地じゃないんだ。それは忘れないで」

 チャルマはノクト転生説を信じているのかもしれない。
 もしくは、ヴィヴィと同じで信じてはいないけれども、孤立しがちなノクトに寄り添ってくれているのかもしれない。


 突然起こった喧嘩に周囲の学生らが足を止める。
 先ほどヴィヴィを取り巻いていた学生もニヤニヤしながら成り行きを見ている。

「でも俺は、本当は」
「ノクトじゃない、って言いたいの? じゃあさ、聞くけどノクトじゃないっていうなら誰だよ能登大地!」

 「誰だ」と問いながら「能登大地」と呼びかけるのは矛盾しているけれど、言いたいことはすごくわかる。僕らにとってノクトはノクトで、能登大地なんて名前じゃない。

 ヒートアップしてきたのか、ヴィヴィの声が徐々に大きく、甲高くなっていく。
 こんな大声で叫んでいたら周囲の学生に筒抜けだ。
 ノクトは昔から中二的なホラ話ばかり口にしていたから『また嘘《うそ》をついたのか』程度で留《とど》めておいてくれるであろうことだけが救いだけれども。

「言っておくけど”能登大地30歳”なんて学生はこの町《ラ・エリツィーノ》には存在しない。存在しないってことは、」
「侵入者だ」

 僕はヴィヴィの声を|遮《さえぎ》った。彼《ヴィヴィ》よりは小声で、ノクトに向き合う。

「レトに見つかったら処分されるだろうね。きみがノクトじゃないと主張する限り、受け入れられることはない。でもノクトとして生きていくなら衣食住と教育は保障されるしファータ・モンドにも行ける」

 もし能登大地の記憶がよみがえったことが真実だとしても、器はノクトだ。
 能登大地でしかなかったら、引き籠《こも》るどころか今頃は殺処分されていただろう。
 ”ノクト”が受けるべき恩恵だけ受けて『ノクトじゃない』と主張するのは虫が良すぎる。

「今のきみの髪は緑で、体も僕たちと同じ無性で、セルエタもきみをノクトだと認めた。ノクトじゃないって否定しているのはきみ《本人》だけなんだよ」

 何故《なぜ》ノクトは何時《いつ》までも妄想語りを続けるのだろう。
 おかげでこっちの意識まで”前世は能登大地説”に上塗りされてしまいそうだ。

「……俺は」
「あんたが何処《どこ》の誰だかは知らないけど、今はノクトなの。ノクトとして振る舞って。それができないならノクトとして死んで。僕たちに迷惑をかけないで」

 それでもなお主張しようとするノクトを、ヴィヴィの声が押さえつける。

「これでもあんたがノクトじゃないって主張するなら、それがレトの耳に入ったら。あんただけじゃなくて|此処《ここ》にいる3人とも罰せられるんだよ。侵入者のあんたをノクトと偽《いつわ》ってかくまった、ってね」

 ノクトははっとしたようにヴィヴィを見上げ、それから僕とチャルマに視線を動かした。
 救いを求めるような色が見えたのは気のせいだろうか。
 しかし確認する間もなく、彼は顔を背《そむ》けると荷物もそのままに出て行ってしまった。


 ……これはどう捉《とら》えればいいのやら。
 妄想を垂れ流し続けることの悪影響をやっと理解してくれたのならいいのだが、また引き籠《こも》り生活に戻っていたらどうしよう。
 そう思うと共に、本当にあのノクトはノクトだろうか、とも思う。
 前世の記憶に乗っ取られているだけならまだしも、もしかしたら能登大地だという主張のほうが正しくて――顔がノクトに瓜ふたつなだけの別人だったとしたら。
 本物は町の外に出てしまっていたとしたら。
 だとしたら当の本人から「ノクトではない」と言われたにもかかわらず彼をノクトだと決めつけたのは、本物を連れ戻す機会を『僕が』放棄したことになる。


 いや、そんなはずはない。
 浸食されかかった思考を、僕は慌てて打ち消す。
 転生なんてあり得ない。
 セルエタが判断を間違うこともない。
 そんな、ノクトが他にいるなんて――。


「……彼は……ノクトで間違いないよね」
「ノクトでしょ。この世界の人間だってことは髪の色が証明してる」

 ぽつりと漏《も》らした呟きに、ヴィヴィとチャルマは、ただ頷いた。