21-13 それぞれの戦い




 それからどれほどの時間が過ぎたことだろう。
 建物の隙間を縫う風はビョウビョウと唸《うな》り、ルチナリスの髪やメイド服の裾を翻《ひるがえ》す。その度《たび》に体ごと持って行かれそうになる。

 いっそのこと持って行ってくれればいいのに。

 吹き飛ばされて地べたに叩きつけられれば、この高さからなら確実に死ぬ。
 以前聞いた話だが、飛び降り自殺は飛び降りてから地面に着くまでに3秒ほどあるそうだ。短いと思うが堕ちている側からすれば結構な長さがあるそうで、その間に何故《なぜ》こんなことをしてしまったのだろう、と後悔してしまうのだとか。
 もし本当に風に吹き飛ばされたとして――それは自殺ではないけれど精神的には自殺に近い――やはり落ちる最中に後悔するのだろうか。


「るぅチャン、風が冷たくなってきたわよぉん」

 ガーゴイルの声が聞こえる。あたし《ルチナリス》が諦めて戻って来るのを待っている。いや、妙な気を起こして飛び降りないように見張っている、のほうが近い。

「そろそろ行きましょ」

 襟首を掴んで強制的に引き摺り戻すことだってできるだろうにそれをしないのは、万が一あたしが抵抗した場合に落下する恐れがあると、もし落ちたら今のガーゴイルの位置からでは助けられないと踏んでいるからだろうか。
 そこまで推測したものの違和感を感じる。
 彼らはあたしのことを「ご近所のオバチャン」目線で見守っているのだと言った。だから渡り廊下が崩れ落ちる際に巻き込まれないよう、守ってくれた。そこには何も矛盾はない。
 でもそれはあたしとガーゴイルの関係だけを見た話。あたしが「ご近所のお子さん」であるように「自分の家の子供」に値する者もあの場にはいた。だが彼らはその子は守ろうとしなかった。その子は――義兄《あに》は、崩壊に巻き込まれて只今絶賛行方不明中だ。
 義兄《あに》は現当主の弟。前当主の息子。何処《どこ》の馬の骨ともつかない娘の安否よりも優先すべき相手だろうに。


 ルチナリスは肩越しに背後を窺《うかが》う。
 ガーゴイルの数は2匹。犀《さい》と会った時に比べると2匹足りないが、そもそも当時と同じ個体だとは限らないから同一個体かどうかは問題視する必要はない。それより問題にすべきは、彼らは目に見える2匹だけではないかもしれない、ということだろう。彼らは気配どころか姿そのものを消す能力を持っている。あたしが何か行動《アクション》を起こそうものなら、数十匹が阻《はば》みに来る可能性も、ないわけではない。


「るぅチャン」

 義兄《あに》も執事《グラウス》も師匠《アンリ》も、崩壊に巻き込まれたとは言え、死体が上がったわけではない。むしろ彼らがこの程度の高さから落ちたくらいでどうにかなるほうがおかしい。
 執事《グラウス》が義兄《あに》を取り戻していたのなら、あたしは再び義兄《あに》をこの家に取り返すための人質として使える。貴重な人肉としての価値もある。

 犀《さい》はあたしを聖女と呼んだ。
 未だ候補者のひとりに過ぎないし、個人的には辞退もしたけれど、ミルがあたしに期待していると言っていたことを聞いて曲解したのなら、あたしが次代の聖女だと思うかもしれない。
 だとすると。
 ガーゴイルたちがあたしを守ろうとしているのは「ご近所のオバチャン’s」だからというばかりではなく、犀《さい》に、もしくは紅竜なり他の誰かに「生きたまま連れてこい」と命令されたから……という推測は間違っているだろうか。
 前当主が第二夫人を魔界に連れてきたように人間の手から聖女を取り上げれば人間狩りはし放題。
 退魔の武器があると言っても数も使い手も少なく、聖女ほどの脅威にはなり得ない。
 そして犀《さい》はあたしが力が出せないことを知らない。


「ねぇ、ガーゴイルさんたち」
「「何かしら!」」

 ルチナリスはゆらりと立ち上がると、ガーゴイルたちを振り返った。
 彼らの背後は真っ暗だ。しかし自分たちが通って来た時は、薄暗かったとは言え目を凝らせばいろいろなものが見えていたから道順は何となくわかる。

「行くって、何処《どこ》へ?」


『――そろそろ行きましょ』
 

 他意はないのかもしれない。何時《いつ》までも現場を離れようとしないあたしに、その場から去れという意味で言っただけかもしれない。
 人間界に帰れと。この城内にいるくらいなら出て行けと。
 でも、もしそうではなかったら。
 





「どぅぇああああああああっ!!」

 その時だった。ガーゴイルたちの背後に広がる暗闇から、奇声と共に勇者《エリック》が飛び出してきたのは。
 今まで背負い続けていた剣を両手で持ち、無茶苦茶に振り回す様《さま》は、お世辞にも〇〇流などとは呼べない。だからこそ次の一手が予測できない。

「こっち!」

 そうこうしている間にも勇者《エリック》はルチナリスのもとに辿り着く。
 手首を掴むと即座に踵《きびす》を返す。
 剣を振り回して周囲を牽制《けんせい》しつつ、彼《勇者》は先ほど出て来た暗闇に再び飛び込んだ。
 今度はルチナリスを連れて。




 暗闇に見えたのは目の錯覚だったのだろうか。勇者《エリック》に手を引かれて走る廊下は来た時と同じ薄暗さで、漆黒にはほど遠い。
 外の光が入り込んでいたせいで、あの場所が他よりも明るかったからかもしれない。あれだって明るいとはとても言えないレベルだけれども。

「……ミルさんは?」

 彼《勇者》は十数分前、置き忘れてきてしまった柘榴《ざくろ》を探すと言って立ち去った。それが単なる建前で、本当のところは同じ場にいるミルの助太刀に行ったであろうことは、あたし《ルチナリス》を始め、あの場の誰もが察していたことだ。

 あの場所《渡り廊下前》からミルのいる場所までは、間に階段を挟んでいるとは言え、戻れない距離ではない。戻れなくはないが、往復して帰って来るには早すぎる。
 既《すで》に決着がついてしまっていたのだとして、アイリスが勝っていたのなら、新たに現れた勇者《エリック》をも攻撃してくるだろうからこんなに早く戻ることは不可能だ。しかしこの男の纏《まと》う空気はミルが勝ったようには感じられない。
 ミルが勝っていたのなら、意気揚々と「勝ったよ、流石《さすが》はイチゴちゃんだね!」と、まるで自分の手柄のように言うに決まっている。

「……ミルさんは?」

 ルチナリスは再び問う。
 しかし勇者《エリック》は前を向いたまま足を止めない。


 もしかしたらこれは勇者《エリック》に化けた別人ではないのだろうか。
 そんな考えがよぎった。なんせ此処《ここ》は魔界。魔族しかいない。姿を変える魔法というものがあるかどうかは知らないが、幻術で勇者《エリック》のように見せかけることは可能だろう。
 だとすれば連れて行こうとしている先もミルがいたあの場所とは限らない。
 何処《どこ》も彼処《かしこ》も同じ意匠《デザイン》なのだから、何時《いつ》の間にか全然違う場所につれて行かれていた、ということだって十分にあり得る。

「勇者様、よね?」

 掴《つか》まれた箇所がビリビリと痺《しび》れる。手甲で覆われているせいもあって、まるで機械に挟まれているようだ。
 これは本当に勇者《エリック》か?
 このままついていくのは危険ではなかろうか。

「その通りよ!」

 その時、ルチナリスの考えを肯定するかのような声が響いた。
 響いたと同時に目の前に爆発音と共に白煙が立ち上り、立ち塞がるようにガーゴイルが2匹現れる。
 相変わらずメイドコス《コスチューム》に女言葉ではあるけれど、これは先ほどの2匹と同じ個体か否《いな》か……いや、もう考えるまい。考えたところで真実は見えない。

「るぅチャンは!」

 横並びに立ったガーゴイルは片手を腰に、そしてもう片手でダブルピースをしてみせる。横並びで左右対称だから戦隊もののキメポーズかアイドルデュオのようだ。

「あたしたちが頂くわ☆彡」
「や、無理」

 そして相変わらず、台詞《セリフ》には何の脈絡も見えない。
 この勇者《エリック》が偽物だと言いたいのか、自分《ガーゴイル》たちもあたし《ルチナリス》を捕える命令を受けているから横取りするなという意味なのか。
 まぁ、脊髄反射で「無理」と返してしまったけれど、彼らは何も考えずに喋ることのほうが多いし大勢《たいせい》に影響はないだろう。それどころかわざわざ追いかけてくるあたり、「生かしたまま連れてこい」説が一気に濃厚になったことも否《いな》めない。

 勇者《エリック》は魔界に何の目的もない。しいて上げれば、あたし《ルチナリス》や他のメンバーの望みを手伝うという程度の思い入れしかない。
 何もない空間に向かって義兄《あに》と執事《グラウス》の名を叫ぶあたしを見れば、そのふたりがどうにかなってしまったらしいと察するのは普通だし、彼らほどの者でもどうにかなってしまうくらいなら早々に退散したほうがいい、という考えに方向転換するであろうことも、容易に想像できる。
 そう。
 ガーゴイルたちの「そろそろ行きましょ」があの場所から離れろという意味か、人間界に帰れという意味だったのなら、追いかけて来なくても勇者は彼ら《ガーゴイルら》の思惑どおりに動くはずなのだ。

 なら、ガーゴイルらは何故《なぜ》追って来たのだろう。


「そう言わないで! その男は危険よ! 顔が悪いわ!」

 人相が悪いと言いたいのだろうか。昔からあるベタなネタだ。笑えない。
 第一、人間の顔すらしていないくせに何を言う。勇者《エリック》は一応は人間に見える分、あんたたちに悪いと言われる筋合いはないわよ!
 ルチナリスは黙ったままガーゴイルたちを見据えている勇者《エリック》の陰に身を潜めた。嗚呼《ああ》! この男に頼り甲斐を見出す日が来るとは!


「……あたし、あんたたちとは一緒に行けない」

 ルチナリス口を開いた途端、起動スイッチが押されたかのように勇者《エリック》が動いた。
 ルチナリスから手を離し、抜いたままになっていた剣を両手で握り直し。ガーゴイルたちに一気に駈け寄ったかと思えば、眼前30センチほどのところで急停止し、身を沈める。沈めた体勢のまま剣を薙《な》ぎ払い、さらに手首を返すと、今度は袈裟斬りに振り下ろした。

 確か師匠《アンリ》は勇者《エリック》のことを素質がなかったと言っていたが……剣士の腕前としては十分すぎるのではないか?
 この男《勇者》がまともに剣を振り回しているところなど見たことがなかったから師匠《アンリ》の言葉を鵜呑みにしていたけれど、今の動きはミルの動きを彷彿《ほうふつ》とさせる。言い換えれば「ロンダヴェルグ聖騎士団団長と互角の腕前」に引けをとらない。

 よく考えればこの男、悪魔化した人々が何処《どこ》から飛び出してくるかもしれない騒乱の中を抜け出し、人間狩り被害にあったばかりのノイシュタインに辿《たど》り着き、そして五体満足のまま戻って来ている。そこだけ取ってもかなりのハイスペックだった、と今更思うのは遅すぎるのだろうけれども。


 切られたガーゴイルの輪郭が、切り口からザザッ、と音を立てて崩れる。
 勇者《エリック》のあの剣は聖都ロンダヴェルグで買ったもの。名称がそのものズバリな聖剣なんだから、退魔の能力くらい付いていたかもしれない。
 崩れていく中、ガーゴイルたちは腕を上げ、親指を突き立てた。

「あいるびーばぁぁぁぁぁっく!!!!」

 その台詞《セリフ》は言いたかっただけだろう!? いったい何をしにきたんだお前らは!
 ルチナリスの頭の中でツッコミの嵐が吹き荒れる《暴風警報発令中》。ノイシュタインで散々世話になった連中と同じ顔をした奴《やつ》が崩れて消える悲しみよりも、ツッコミのほうが勝《まさ》るとは。




 ガーゴイルたちが消え失せ、あたりは静寂が戻って来た。
 勇者《エリック》はとあるひとつの扉の前で止まると、おもむろにそのノブを回す。

「待って。何処《どこ》へ行こうっていうの!?」

 義兄《あに》も執事《グラウス》もいなくなった。個人的に未練は残るが、彼《勇者》は人間界に帰るつもりだと思っていた。
 なのに。
 もしかしたら当初に思い浮かべた疑惑のとおり、この勇者は偽物で……?

「……この部屋、見覚えはない?」

 勇者《エリック》はルチナリスの躊躇《ためら》いなど無視したままズンズン進み、最奥の壁に据えられた本棚と暖炉を指し示した。

「この部屋、椿さんに会った後で急に場面転換して放り込まれた部屋と同じなんだよ」
「椿、さん」


『――竹の花が咲く頃戻ると伝えておいて下さぁぁい』


 椿とは、以前、アイリスたちと彷徨《さまよ》った世界で柘榴《ざくろ》の叔父と共にいたウサギの名だ。
 意味不明な置き台詞《ゼリフ》を残して消えたあのウサギのことを柘榴《ざくろ》は知らなかったし、彼の一族にも存在しないと言っていた。
 その椿なるウサギを追って放り込まれた別世界に、確かにこの部屋は似ている。特に勇者《エリック》が指し示した本棚と暖炉は、隠し通路という細工《ギミック》が仕掛けてあったせいもあってよく覚えている。
 そうだ。同じだ。本棚の上に置かれているあの燭台《しょくだい》を手前に傾けると隠し通路が開く仕組みだった。


「この先に行かなくちゃいけなかったんだ。イチゴちゃんはもう行ってしまったよ」
「ミルさん、生きてるの!?」

 師匠《アンリ》の言ったことは間違っていたのだろうか。
 だとしてもこれは良い間違いだ。

「でも、この先に何が、」

 勇者はこの先に何があるのかを知っているのだろうか。
 ミルは何故《なぜ》、先に行ってしまったのだろうか。

 勇者《エリック》は燭台を掴んでいる。聞くまでもなく倒すつもりだろう。


「ルチナリスさんは椿とキャメリアが同じ花を指すって知ってる?」
「……え」

 唐突な問いかけにルチナリスは首を傾げる。
 柘榴《ざくろ》の叔父は千日紅。アイリスとキャメリアの執事をしていた男だ。そして千日紅と共にいた「椿」はキャメリアの別の呼び方だと言う。
 60年から120年周期で花を咲かせる竹と、100年前に失踪したキャメリアと、その100年後に現れたミル。
 そしてキャメリアは、


『千日紅《せんにちこう》よりも?』
『だが否定する者もいる。千日紅がいい例だ。蘇芳《すおう》も、きっと犀《さい》も」


 あの時部屋に入って来て秘密の通路の先に消えた少年少女。
 少女は「千日紅」と口にし、少年は「犀《さい》」の名を出した。
 もしかして彼らはとある日の紅竜とキャメリアの姿だったのではないだろうか。だからミルはこの先に何があるのかを知っていて、それで先に行ったのではないだろうか。


「……行くよね?」

 勇者《エリック》の問いにルチナリスは黙ったまま頷《うなず》く。
 それを確認し、勇者《エリック》は燭台を倒した。




 思った以上に厄介なことになっているようだ。
 見覚えのない若い兵士を殴り倒して、アンリは溜息を吐いた。

 此処《ここ》を追い出されてから数十年。家同士の勢力争いが武力衝突から頭脳戦に移行するようになってきたとは言え、その間、兵士の新規募集が全くなかったわけではない。今殴り倒した兵士も、その前に倒した奴《やつ》も、その前も、その前も……はっきり言えば遭遇した全員が見知らぬ兵士だったが、それについて四の五の言うつもりはない。兵士の数が潤沢なのは自分の後任が真面目に働いてくれていた証拠だ。
 だが。
 敵として侵入する以上、下手に昔の顔なじみと遭遇するくらいなら全く知らない奴《やつ》のほうが何の気兼ねもなく殴れるからその点ではむしろ助かるのだが、それにしたって知り合いが誰も出て来ないというのは逆に気になる。
 此処《ここ》の兵士の中で最も古参が自分。つまり、ほとんどの知り合いが自分より先に引退することはない。戦場に出る機会が減っているのなら尚更だ。なのに、彼らは何処《どこ》へ行ってしまったのだろう。
 後方の安全な場所でふんぞり返っているのだろうか。そんなふうに育てたつもりはないのだが、それでも……生きていてくれるのならまだいい。

 生きていてくれるのなら。
 アンリは通って来た背後を振り返る。兵士が死屍累々《ししるいるい》の体《てい》で転がっているが、どれも息の根を止めてはいないから、じき意識を取り戻すだろう。犀《さい》やグラウスのあたりがこれを見たら「だからあなたは甘いんです」と鼻で笑いそうだが、いないのだから気にすることもない。
 それよりも向こう――アンリは木々の向こうに見える、唯一煌々《こうこう》と光が灯《とも》った部屋に視線を向ける。


 離れへの渡り廊下が崩壊し、それに巻き込まれたのは覚えている。真下ではなく、こんなに離れたところにまで飛ばされるとは思ってもみなかったが、同じ大きさでも多少の重さがあったほうが飛距離が延びるとか、そのあたりの理由なのだろう。
 一緒に巻き込まれたはずのグラウスと青藍の姿が見えないのは……向こうは二人分だから飛距離が違うのだ。そうに決まっている。
 

 アンリが落ちた場所は、位置的にはかなり戻った場所だった。
 地下水路を出た後、廊下の窓から見えた部屋。そう言えばどれだけ戻されたのか大体察しがつくだろう。

 その時に予想したとおり、その部屋では夜会が催《もよお》されていた。
 過去形なのは時間的に終了時刻を過ぎていたから、という意味ではない。
 誰もいなかった。床にはグラスが割れて飛び散り、それらを運ぶのに使っていたと思われるトレイまでもが転がっていたが、人はいない。壁際に点在するテーブルにも客人が取ったのであろう料理の載った皿がそれぞれ置かれ、供《きょう》されたばかりのスープは湯気を立て、鉄板の上では肉が焼けるままになっていると言うのに。
 そう。まるでつい今しがたまで人が其処《そこ》にいた、とばかりになっているのに!

 それでも人の姿がないだけならまだよかった。今の魔界貴族の大半は紅竜の言いなりで、挙式当日より前から押しかけて来ている彼らはその中でも熱心な信者だろうから、彼《紅竜》が一言「別室に余興を用意したから移動しましょう」とでも言えば文句も言わずに従う。
 しかしそうではない。
 人の姿がないかわりに、部屋の中は黒い蔓で覆われていた。

 最初に見た時は黒い蔓に襲われたのかと思った。
 ソロネやエリック、そしてグラウスやルチナリスからも、昨今、あちこちで闇と呼ばれる何かが現れていること、それが黒い蔓の形をしていることを聞いていたし、実際に戦ったのはあのメンバーの中では自分が最も早いだろう。数十年前、この城を追われる際に紅竜が放って来たのもあの黒い蔓だった。
 だから、会場内にいた大勢の人々が為す術《すべ》なく倒されたとしても理解できないことではない。
 だが違った。
 「倒された」わけではなかった。

 いくつかの蔓は服を着ていた。首元や袖口から黒い蔓が生えている様《さま》を見た時は黒い蔓に食べられてしまったのではないかと思ったくらいだが、アイリスのことを考えれば、蔓にやられたのではなく、蔓に変化してしまったのだとわかる。
 そんな蔓に覆われて部屋は足の踏み場もなかった。
 ミルのように退魔系の武器を持っていればどうにかできたかもしれないが、生憎《あいにく》とノーマルな武器と拳《こぶし》しかないアンリは、蔓に気付かれる前にその場を退散するしかなかった。


 そして次に襲って来たのが兵士たち。
 彼らが蔓に変化しないのはまだ闇堕ちしていないからなのか。しかしその目はどれも虚《うつ》ろで光が消え、何を問いかけても返事が返って来ることはなかった。


「気に入らねえ」

 この城では何かが起きている。それももう何十年も前から。
 青藍を連れ戻せば終わり、というわけにはいかなそうだ。

「……っ、気に入らねえ!」

 闇って何だ。
 放置しておいたらどうなるんだ。
 退魔武器以外では手に負えないのか?
 そもそも、あれは何処《どこ》から来た!?
 
 闇とはその危険性から古《いにしえ》の魔族が封印した魔法属性のひとつ。その場所は誰も知らない。
 自分が知っている知識はそれだけだ。
 ただの魔法属性のひとつのくせに、他とは何が違う?
 何故こんなことになっている?
 誰かが封印を解いたのか? 解いたとすれば数十年前に蔓を操っていた紅竜が1番怪しいが、ならば何故《なぜ》奴《やつ》は蔓と同化しない?


 犀《さい》なら何か知っているだろうか。自分が此処《ここ》を去ってからもこの城に残り続けた彼のこと、何も知らないわけはなかろう。第二夫人の正体のように、知っていて自分《アンリ》には教えていないことも多々あるに違いない。
 あとは前当主。紅竜が当主を引き継いで以降、隠居して公の場から姿を消してしまった彼は今どうしているのだろう。彼が自分たちに命じた「紅竜を当主に据えることになっても青藍は外に出すな」という言葉の真意もそのあたりにあるような気がする。

 前当主は隠居して離れに引っ込んでいる。
 青藍も――渡り廊下崩壊以降、グラウスと共に行方不明になっているが――離れにいたと言う。
 夜会の会場に紅竜がいた形跡はなかった。母屋を全部調べたわけではないが彼も離れにいる気がする。

「離れか」

 グラウスは青藍と共にいるのだろうか。
 もしそうなら、彼はもうこの城に用はないから退散するだろう。ルチナリスは位置的に爆発には巻き込まれなかっただろうから合流も容易《たやす》い。エリックも戻る途中で出会うことができるはずだ。
 それでいい。彼らには彼らの未来がある。あの男《グラウス》に青藍を任せるのだけは気にくわないが、この城に残しておくよりは人間界なり何処《どこ》へなりと去ってくれたほうが……


『――私は贅《ぜい》の限りを尽くした生活よりも、食べていけるのがやっと程度でも大事にしてくれる誰かと一緒にいられたほうがずっと幸せなような気がしますよ』


 脳裏に、かつて犀《さい》が呟いた言葉がよみがえる。
 お館様の命《めい》には背《そむ》くことになるその意志は。それでも。

 ……そう。
 きっと青藍のためだ。




「……目を覚ますと〇〇《どこだか》にいた」

 グラウスは視界いっぱいに広がる天井を眺めたまま、そう呟いた。

 渡り廊下が突然崩壊した。獣化していれば3階程度の高さなら何とかなるのだが、咄嗟《とっさ》に目の前にいた青藍を抱え込んだために人の身のまま。どうせ地べたに叩きつけられるのならせめて自分が下になろうと、そんな殊勝なことを考えること数秒の後《のち》。
 叩きつけられることも全身が砕けることもなく、気が付けば見覚えのない部屋に寝転がっていた。

 誰かが転移魔法でも使ったのだろうか。
 とにかく自分は使えないし、脳まで筋肉でできているアンリにも無理だ。だとすると私はまた青藍様に助けられたのだろうか……と思った矢先、自分の腕が何も抱えていないことに気付いた。
 慌てて身を起こし、周囲を見回し。調度品が何ひとつない部屋だから探すまでもないが彼《か》の人はいない。

 いないとわかると、つい今しがた会えたことも、この腕に抱え込んだことも、一気に曖昧《あいまい》になるから不思議だ。あれは夢だったのではないか、会いたいと思いすぎたばかりに幻を見たのではないかという考えに塗り潰されて、もうどれが真実なのかわからなくなってくる。共に巻き込まれたはずのアンリがいないことも、この部屋に全く見覚えがないことも、「夢と幻」説を後押しする。
 もしかしたら青藍を探して魔界にまで来たこと自体が夢だったのではないか?
 青藍が連れ去られたことも夢ではないのか?
 いや、自分は本当に青藍と共にいたのか? 
 彼は自分がどれだけ手を伸ばしたところで届く相手ではないし、「友人」と呼ばれるほど親しくなるどころか本来なら口をきくことも許されないのだ。
 ノイシュタインで過ごした10年は恋焦がれたあまり生み出された壮大な妄想で、実際の自分は何処《どこ》かで不貞寝《ふてね》をしていただけだった、なんて、


「お前なあ! 俺が苦労して助けてやったってのに何わけわかんねぇ世界で黄昏《たそがれ》てんだよ!」

 だがしかし。
 そんな言葉と共に頭を思いっきり叩かれ、頬を引っ張られた。痛いと感じるのは夢ではない証拠、というのは昔からある通説だから、と見れば、緑色の髪をした掌《てのひら》サイズの少年が顔のまわりを飛び回っている。
 叩いたのも引っ張ったのもこいつだろう。日頃の鬱憤《うっぷん》をこれ幸いにと晴らすつもりか? と思いたくなるほど、その攻撃は容赦ない。暫《しばら》くして攻撃の手が止まったと思ったものの……何処《どこ》からか鋭利な棒きれを抱えて突っ込んで来たのを見た時には、流石《さすが》に飛び退《の》いた。

「……トト?」
「そうよ! 俺様のおかげで五体満足なお前がいるんだ、有難《ありがた》く思え!」

 
 よく聞けば、空間転移の魔法を使ったのは彼《トト》であるらしい。
 ライン精霊として自分のいる緯度経度を把握する能力を持つ彼は、落下している間にグラウスの場所を不特定多数の同族に向けて送ったのだと言う。
 近くにライン精霊がいなければ、気が付いてもらえなければ熟れたトマトのようになるのは必至。しかもその間、僅《わず》かに数秒。何処《どこ》の誰に気付いてもらえたかは知らないが、運が良かったとしか言いようがない。


 しかし、ライン精霊にそんな才能があったとは。
 仕組みなど何も考えずに使っていたが、隔《へだ》ての森を通る時の鍵として精霊が必要だというのは、もしかしたらこの能力を必要としているのかもしれない。そう言えば後から合流した勇者《エリック》はメイシアによって魔界に投げ込まれたらしいし。

「おうよ。メイシア様あたりになってくるとひとりで吹っ飛ばせるんだけどな。俺はチビだから姉ちゃんたちの力を借りて人ひとりをやっとだぜ」


 ライン精霊は高級品で、持つことができるのは金持ち――大半が魔界貴族――に限られる。
 折よくこの城には婚礼の儀に出席するために大勢の貴族が集まってきているから、彼らの家に従事する精霊も付いて来ていたのだろう。と、それはともかくとして。

「人、ひとり?」

 どういうことだ? 

「青藍様は!?」

 自分だけ助けられたのか? あの人は移動させられることなく、そのまま落ちたと言うのか!?

 全身から血の気が引くのがわかる。
 倒れそうになるのを気合いだけで踏ん張り、グラウスはフヨフヨと視界を漂うトトを掴《つか》んだ。

 いや。
 だって私は確かにあの人を腕《かいな》に抱いて――

「最初っからひとりだったぜ?」
「そんなはずがありません! 青藍様は、確かに、」
「だってよ。お前が急に叫んで走り出したからそのセーランサマって奴《やつ》のご尊顔でも拝見しよう、って見たんだけどさ。お前が走っていく先には誰もいねぇし」
「そんなはずは、」

 私は幻を見たと言うのか?
 最初から渡り廊下を落とすつもりで私たちを誘い出そうとしたと……そうなのか?

「そんな」

 腕の中の感触は既《すで》に曖昧《あいまい》で、本当に抱いていたのかも定かではない。
 それでも、あの青藍が幻だったのなら地べたに叩きつけられてはいないということだ。彼は何処《どこ》かで元気でいてくれる。それだけが救いだ。


「ってことでよ、俺ぁ疲れたから寝るわ。当分起きねぇから呼ぶなよ」

 考え込むグラウスの手の中で、ふいにトトが呟いた。
 見ればかなり疲弊している。「姉ちゃんたち」の力を借りたとは言え、この小さな体では使える魔力も少なかろう。此処《ここ》まで運び込み、暴れ回って起こしたところで力尽きたのかもしれない。

「人生分の魔力、使い果たしちまったぜ」

 人生分と言うのは大袈裟だとは思うが、そう言い残すや否《いな》やトトは淡く光り……鞘《さや》に装飾の入った小さな短剣に姿を変えてしまった。



「……ありがとう」

 グラウスは短剣を押し頂くようにして上着の内ポケットにしまい込むと、改めて部屋を見回した。
 天井や壁がところどころ茶褐色に染まっているのは経年劣化による汚れだろう。元は白か、それに準じた色だったと思われる。使われていない部屋なのか調度品の類《たぐい》は何ひとつなく、あるのは扉がひとつのみ。廊下に続いているのか、隣室があるのかは開けてみないことにはわからない。


 ミルを置き去り、勇者《エリック》が去り、ルチナリスとアンリとはぐれ、今こうしてトトが眠りについた。物語でいくと、主人公を先に行かせるために仲間がひとりずつ盾となって脱落していく終盤戦の様相だ。自分が主人公だと思ったことは1度もないが、こうして残った以上、先に進むしかない。
 この部屋に見覚えはないが、トトの話から推測するに此処《ここ》はメフィストフェレスの城の何処《どこ》か。彼らの能力からいくと緯度経度のわからない場所に飛ばすことはできないだろうから、力を貸してくれた「姉ちゃんたち」の誰かが近くにいると思われる。
 この部屋にはいないようだから隣室だろうか。新たな追加戦士を期待するわけではないが、もし会えるのなら礼くらいは――。

 グラウスはこの部屋唯一の扉に歩み寄り、そのノブを回した。




 だがしかし。
 その僅《わず》か数秒後。グラウスは目の前の光景に落胆する自分を感じる羽目になっていた。
 先ほどの部屋の扉の先は、予想どおり別の部屋に繋《つな》がっていた。それについて文句はない。違っていたのは其処《そこ》で待ち構えているであろう人物《追加戦士》だ。
 想定では、

 1:トトの「お姉ちゃん」の誰か。順繰りから言ってスノウ=ベル。
 2:スノウ=ベル以外の「お姉ちゃん」。
 3:青藍。
 4:アンリ。
 5:ルチナリスか勇者《エリック》。もしくはその両方。
 6:敵(犀《さい》と紅竜を含む)。

 3から5は期待値の高さでの順になるが、そのあたり。多分、他の誰が予想したところで上位は同じだろう。
 個人的には当然3番が来てほしい。
 あの時、彼は何故《なぜ》私の名を呼んだのか。もしかしたら断片でも記憶が戻っているのかもしれない。と言うか、普通のストーリーならとうの昔に再会して今頃は幸福な未来絵図(1枚絵)と共にエンドロールが流れている頃じゃないのか? 勿体《もったい》つけるにもほどがある。
 彼ならば敵として現れたとしても――記憶をなくし、何もわからないまま紅竜に従っているのだろうから「私が」保護しなくては。
 と、そんな意気込みで扉を開けたのに。




 予想は大幅に外れた。
 目の前に広がっていたのは黒い蔓に絡みつかれたまま干乾びている爺さん's。
 ビジュアル的には貧相この上ない、いや、侘《わ》び寂《さ》びの極致。これを見て感動できる人は玄人《くろうと》だろう。自分にはできない。


 縦横無尽に蔓延《はびこ》る蔓に気を配りながら、グラウスは老人に近付く。
 10人ほどいるだろうか。そのどれもが水分を吸い尽くされ、触っただけでポッキリいきそうだ。既《すで》にこと切れているとはいえ夢見が悪くなることは間違いないので、触れないように見て回る。
 衣服からしてこの老人らも貴族だろう。揃いの上掛け《マント》を羽織っているところは貴族というよりも宗教のようだが、この背に記された紋章は……いや、本当に見知らぬ老人だろうか。

 その紋章は「私の記憶が確かならば」と言うまでもなく見覚えがありすぎる。
 鳥が羽根を広げたような形。これはメフィストフェレスのものだ。


 思い起こせば、紅竜の当主就任を祝う夜会で此処《ここ》に来た日にそれらしき人々を見た気がする。人いきれが辛《つら》くて逃げるようにホールを出たあの時。廊下の反対側を紅竜と連れ立って去る人々の背に同じ紋章があったような――。

 紋章を頂いているとすると、この老人らはメフィストフェレスの重鎮かもしれない。
 以前、青藍から長老衆と呼ばれるご意見番がいると聞いたことがある。歴代の当主になりそこなった人々――当主の兄弟や分家などの生き残り――が当代当主のサポートをしているのだと。
 何故《なぜ》当主経験者が含まれていないかと言えば、この城の当主は戦で陣頭指揮を執ることが多いために「当主交代」は「前当主死亡」を指すくらい戦死率が高いと言う笑えない理由があるらしい。前当主《青藍の父》が隠居でその椅子を退いたのはイレギュラーもイレギュラーなことになるのだが、とりあえずそれは置いておく。

 長老衆に関しては青藍も「兄《紅竜》から”昔の武勇伝ばかり聞かされる”と散々愚痴を聞かされた」と言っていたほどだが、聞けば彼《紅竜》の心情もわからなくはない。当主より後方にいた奴《やつ》の武勇伝など勇者《エリック》のホラ話と同じ。事実に沿っていたとしても自慢話など鬱陶《うっとう》しいだけなのに、真実かどうかも怪しいとなれば聞かされるほうはうんざりするだろう。
 ああ。もしかしたらとうとう紅竜の我慢の限界をこえてしまったのかもしれない。
 当主就任以降何度も紅竜に自慢話を聞かせて、今の今まで無事でいられたほうが奇跡だ。一族の長老だから、と、彼《紅竜》は彼《紅竜》なりに譲歩していただろうのに、配慮される側は気付きもしないでその線を踏み越えたのだろう。

 老人らの衣服に劣化はほとんど見られない。蔓に襲われたのはつい最近のようだ。干乾びた彼らとは逆に、絡んでいる蔓が瑞々《みずみず》しいのがおぞましい。
 もしかしなくてもこの蔓は生きている。しかしアイリスや紅竜のように蔓を操る者の意思がなければ、ただの蔓でしかないのか、自分《グラウス》を襲う動きは見えない。見えないが油断はできない。


 干乾びてしまった老人に青藍の居場所は聞けない。
 特殊なアイテムでも持っているかと懐を探ってみたが、それらしいものも持っていない。
 トトを呼び寄せた「お姉ちゃん」もいないようだし長居は無用だろう。

 グラウスは周囲を見回す。
 先ほどの扉以外に出入り口はない。正確には掃き出し窓があるのだが蔓で覆われている。無理やりこじ開けて自分の存在を蔓の持ち主に知らせるのはナンセンスだが、この窓が開けられない以上、自分は開《あ》かずの部屋に閉じ込められているも同じだ。
 勇者《エリック》的思考で考えればこういう時は扉と窓以外の抜け道――隠し通路のようなものが用意されているのだが、何かないだろうか。例えば暖炉の上の燭台を捻《ひね》ると通路が現れるとか。
 そう思いながら燭台を動かしては見たが、何も起きな……



 ……起きた。
 ガタン、と大きな音がして、反対側の壁に設置してあった柱時計の蓋が開いた。そして、

「誰か! ああ、ちょっと、そこのきみ! 何ボーっとしておるのじゃ、出るのを手伝わんか!」

 蓋の隙間からこれまた干乾びた腕が出て来て手招きを始めたではないか!

 何だこれは。
 何処《どこ》かの童話で、柱時計に隠れて難を逃れた子山羊《ヤギ》の話があったが、そんなメルヘンなものではない。どちらかと言えば子山羊《ヤギ》を食おうとした狼が隠れていると言ったほうがしっくりくるほどの胡散《うさん》臭さ。いや、狼は自分なんだけれども。
 それに手伝えって、手伝っても大丈夫だろうか。幽霊だの妖怪だのとは思わないが、妙に偉そうなのが引っ掛かる。1度手を貸したら最後、半永久的に手助けさせられ続けるような……世の中で1番怖いのは幽霊でも妖怪でもなく人だと聞いたことがあるし、手を出したのなら最後まで責任をもって世話をしろ、自己責任だと責められる事案も昨今では頻繁に起きると言うし。
 追加戦士ならWelcome《ウェルカム》だが、足枷《あしかせ》はいらない。何よりこの忙しい時に、見知らぬ干乾びた手の手伝いをする暇などない。

 グラウスはそっと後退《あとずさ》る。
 その時だった。
 こじ開けようと思っていた掃き出し窓の向こうに人影らしきものが見えたのは。




 その人影は室内にいる自分《グラウス》に気付いたようだった。
 明かりのない屋内で、しかも黒い蔓が蔓延《はびこ》る中。はっきり言って月明かりのある屋外よりも暗いだろう。それで自分《グラウス》を見つけるのだから余程《よほど》目がいいのか、それとも自分《グラウス》を探していたのか。
 後者だとすると……味方ならともかく、敵なら厄介だ。
 こうして分断されたのも犀《さい》か紅竜あたりの策略だろうし、分断されている間に各個撃破するのは戦略の基本。自分は犀《さい》とも紅竜ともやりあったことがあるから、確実に潰せる戦力を送り込んで来る。

 そう考えている間にも、人影は掃き出し窓を叩きだした。入って来る気満々と言うか、そんな大きな音を立てたら蔓の持ち主に気付かれるじゃないか、とそちらのほうが気が気でない。
 柱時計から出ている手も同じことを思ったらしく、

「これは何の音だね!? ほらきみ、早くこの蓋を閉めたまえ!」

 と、先ほどと真逆なことを叫びだす始末で……あまりの身勝手さに放置したくなる。
 いや、放置してしまおうか。
 遅かれ早かれあの人影は入って来る。そして自分《グラウス》(中にいたであろう人物)を探すだろう。柱時計から手が出ていれば目に付かないはずがない。
 最初は偉そうな物言いに「言われたとおり蓋を閉めて、ついでに鍵を潰して2度と出て来られないようにしてやろうか」とも思ったが、放置してこのふたりが共倒れてくれたほうが精神的に平穏が訪れてくれるだろう。

 が、しかし。

 この手の枯れ具合と周囲の爺さん'sから考えるに、この柱時計の主も長老衆のひとりである可能性が高い。そして蔓を放ったのが紅竜か、彼《紅竜》の息がかかった者であろうことも間違いない。
 窓の外の人物が紅竜の手の者だとすれば、柱時計の主にとっても敵。この干乾びた手と結託する気も従う気もないが、みすみす見殺しにするのは気分が悪い。

 グラウスは蓋を開け放った。
 案の定と言うか、どうやって入った? と首をかしげたくなると言うか、振り子の隙間に無理やりに詰め込まれた様相《ようそう》でひとりの老人が挟まっている。自分で入ったのだろうか。首を90度に傾け、右手を胸に、左手を枠の外に出し、片足立ちの体勢。ここまで容赦のない詰め込み方は本人ではなかなか難しいものだが、人間、切羽詰まれば何でもするという見本にも見える。

「何をしているのだ! 早く閉めたまえ!」
「出たほうがいいと思いますよ? ずっとこうしているおつもりですか?」

 威張りくさったところで威厳も何もないのだが、そうも言ってはいられない。この体勢で隠れているには限度というものがあるし、飲まず食わずでは尚更だ。
 自分《グラウス》が引っ張り出さなければ、次に彼を見つけるのは窓の外にいる人影だろうけれど、その人物が味方である保証は何処《どこ》にもない。

 グラウスは外に出ている手を掴むと思いきり引っ張る。
 老人が悲鳴を上げる中、その懐から何かが転がり落ちた。

「これは、」

 拾い上げて、思わず見入る。その僅《わず》かな隙に背後の掃き出し窓が吹き飛んだ。
 そして。

「おう、やっぱりお前だったか」

 蔓を押し退けながら顔を出したのはアンリだった。




 ほんの数十分前に別れた男がもう戻ってきた。
 分断されて各個撃破を懸念していた身からすればアンリの合流は喜ばしいものであるのだが、素直に喜べない。
 ロンダヴェルグ以降やたらとこの親父とセットにされているが、別に好きでも何でもないし、それどころか暑苦しいし、青藍絡みだとやけに張り合ってくるしで、この親父とセットにされるくらいならひとりのほうが精神が安定する。何故《なぜ》戻ってきた!? という問いを押さえ込むのに一苦労するほどだ。
 ちなみに先ほどの順位でアンリのほうがルチナリスらよりも上位にいるのは好きだからではなく、アンリなら自分の身は自分で守れるだけ楽だ、というそれだけの理由による。
 決して!! 好きだからではない!!!!
 
 だが……戻ってきてしまったものは仕方ない。
 捨てた飼い犬が戻ってきたことを微妙に思う飼い主のような複雑な心境を振り払い、グラウスは柱時計から引っ張り出した老人に向いた。

「それで、何故《なぜ》これをあなたが持っているんです?」

 老人の懐から転がり落ちたのは懐中時計は、またしても「私の記憶が確かならば」とやる必要もないほどに見覚えがある。蓋に例の紋章が刻み込まれたこれは、青藍が魔王役を拝命した時に受け取った――中にスノウ=ベルを宿す時計だ。青藍を魔界に連れ去る時に犀《さい》が持っていたのも見た。それが何故《なぜ》こんな老人の懐に。
 この老人が長老衆のひとりだということは本人とアンリから確認したが、だからと言って時計を持っている理由にはならない。


「何も不思議なことはあるまい。新たな魔王役が決まっていない以上、魔王役はまだ青藍だ。ならばこの時計も当家で保管しておくのが筋というもの。そうだろう?」

 老人は偉そうにそう言うが説明になっていない。保管というのは老人の懐に入れておくことではないし、もし他の老人'sと同じように蔓に捕まって干乾びてしまえば、誰も時計の行方を知らない事態になってしまう。
 死んだ場所がスラム街などであれば装飾品から金歯に至るまで綺麗さっぱり回収してもらえるだろうが、此処《ここ》ではケルベロスの腹の中か、下手をするとまとめて燃えるゴミにされて終わりだ。
 この老人が持っていることを犀《さい》なり紅竜なりは知っているのか?
 それに何より、老人の懐の中なんてスノウ=ベルが黙っていないだろうに。


 ああ。もしかしてトトを此処《ここ》に呼んだ「お姉ちゃん」はスノウ=ベルだったのだろうか。
 ただの姦《かしま》しい小娘にしか見えないが、あのアドレイの妹だし、魔王専属の精霊という役割をも長年こなして来たのだからそれなりにスペックは高いはずだ。
 でも、もしそうならトト以上に


『あたしのおかげで五体満足でいられるんでしょ!? 感謝しなさいよね! あ、心ばかりの感謝とかいらないから。……魚心あれば水心……わかってるでしょ? グラウス様』


 なんて強請《ゆす》って来るに決まっている。
 彼女は何故《なぜ》黙っているのだろう。




 沈黙に、自分の発言を目の前の男が信用していないらしい、と判断したのか、老人は泡を吹いて吠えだした。こちらはスノウ=ベルのことを考えていたわけで、片足半分棺桶に突っ込んでいるような老人など半ば忘れかけていたのだが、この手の輩《やから》は何時《いつ》どんな時でも「自分が」注目されるに値すると思い込んでいるらしい。

「紅竜が言ったのだ! 魔王役などお前たちで適当な者を見繕《みつくろ》えば、いや、お前たちがやればいい、とな! だからこの時計が此処《ここ》にあるのだ! 何も問題はなかろう!」

 本当にどうでもいい。
 地位に見合った威厳を醸し出してくれればそれなりに尊敬もできるのに、この老人は何故《なぜ》自分で自分の評価を下げることばかりするのだろう。
 あれか?

『ククク、あの者は我々四天王の中でも最弱』
『長老衆の面汚《つらよご》しよ……』

 などと日々過小評価されている反動で自分に自信がないのか? ついでに言えば四天王って10人以上いたでしょうが。と自分で自分にボケツッコミ。
 と、まぁそれはともかく、だから言い訳がましくなるのか?
 この爺さんを相手にしていると、紅竜が「やれるもんならやってみろ」と言いたくなるのもわかる気がする。

 長老衆らはきっと、紅竜が青藍を勝手に連れ戻したことで魔王役が不在になった、と文句を言いに来たのだろう。
 青藍が連れ去られてから1ヵ月。その間、魔王役は不在となる。自薦、他薦の期間を経《へ》て選出されるまで数週間。1ヵ月程度の不在ならば目くじらを立てるほどでもないが、その間、別の人材を探すでもなく放置していたのであれば「どうするつもりだ」と言いたくなる気持ちもわからなくはないし、きっとそれ以上に、お目付け役として偉振《えらぶ》れる機会がきた、と意気込んで押しかけたに決まっている。
 だが相手は、当主就任以降何十年もことあるごとに自慢話を聞かせ続けた紅竜だ。
 歴代当主の陰に隠れて生き延びた爺《じじい》、と言うだけで紅竜にしてみれば卑怯者のレッテルを貼って歩いているに等しいのに、その自分《紅竜》を盾にして偉そうにふんぞり返っている爺《じじい》が、その盾に盾突くとは何様だ、と堪忍袋の緒が切れたに違いない。


「あの青二才、偉そうに見下しおってからに。自分だって弟に魔王役を押し付けて、親の威光をかさに着ているだけのくせして。ジルガディカ戦役の知将と謳《うた》われた儂《わし》の前にはあんな小童《こわっぱ》、」
「と言うことは、次の魔王役はあなたなのですね」
「え、いや、これは」

 鬱陶《うっとう》しい物言いに半《なか》ば嫌味を込めて確認すると、老人は急に狼狽《うろた》えた。
 自分が魔王役をするつもりなど1ミリもないのだ。他の貴族たちのように、青藍が10年も魔王役を引き受け、かつ不敗でいることを歓迎していたクチなのだろう。「長老衆など当主の後方にいたくせに」という愚痴は案外、真実を当てていたのかもしれない。

「その時計は魔王役の証。持っているのが何よりの証明ではありませんか。
 無知なものでジルガディカ戦役は存じませんが、そのような勇猛な方なら今後10年、いや100年は楽勝でしょう。頼もしいことです」


 魔王役がいなければ人間たちの攻撃はそれぞれの魔族に向く。
 気が向いた時に人間を襲い、恨みを全て魔王役に肩代わりさせて帰ることができなくなる。
 この10年、魔王役なんて理不尽な仕事だとしか思わなかったが、こうしてその恩恵を当然だと思い込んでいる奴《やつ》を見ると、紅竜でなくとも生気を搾り取ってやりたくなるというものだ。


「違う! この時計はだな、そう! 新たな魔王役が決まるまで預かっているだけで!」
「紅竜様なり犀《さい》様なりが預かっていたほうが安全ではありませんか? 現にあなたがたはこうして襲われてひとりしか残っていない」
「あいつらは! ええい、つべこべ言うな平民の分際で!」
「残念ながら私は貴族です」
「い、言い訳をするな!」


 どうしよう。歳の分くらいは敬《うやま》おうと思ったのに、敬《うやま》える要素が1ミリもない。
 グラウスは息を吐いた。
 こんな老人を相手にするだけ時間の無駄だが、時計を彼《老人》の手に委《ゆだ》ねたまま去るのは気にかかる。魔王役になるつもりもないようだし、あてがあるわけでもなさそうだし、こんな保身一辺倒の老人に紅竜や犀《さい》が大事な時計を預けるとも思えない。
 ならば何故《なぜ》あの時計を持っている? 

「わ、儂《わし》は次の魔王役にこの時計を委ねる役目がある! そうだ! きみ、やってみないか? どうせそのなりなら貴族も言えど下級、金にも不自由しているのではないか? こうして儂《わし》を助けたのも何かの縁《えん》、働き次第では通常報酬に上乗せしてやってもいい。だから、」

 人間界に行くまで護衛しろ。
 そんなところだろう。向こう《人間界》に到着後、スノウ=ベルを抜いた時計を押し付けて消えるところまで目に浮かぶ。


 以前、ジルフェに「スノウ=ベルは余力があれば救い出す」と言ったが、現段階では余力があるとは言い難《がた》い。むしろ足りない。
 他ごとに目を向け過ぎたばかりに本来の目的が達成できなければ本末転倒。青藍を取り戻すことができなければ「それみたことか。たいそうな口をきいていたくせに」と嗤《わら》われることだろう。
 だが。

 精霊は高く売れる、失くしたと世間に知られれば紅竜の立場が悪くなる、なんて発想で持ち出したのなら看過できない。


 ああ、青藍はこんなところにいたのか。
 アンリは紅竜に何かあったら青藍ががこの城を継ぐのだと言っていたが、当主としてこんな自己中心的な連中を日夜相手にしなければならないのだとすれば、魔王役として理不尽に命を危険に晒すこととどちらがましか、と考えさせられてしまう。
 しかしもし紅竜を排すことになれば、青藍は自分《グラウス》の手を取ることはない。他にいないから、と、10年の間、魔王として見ず知らずの勇者を倒し続けたように、表向きは何ともないような顔をして受け入れるのだろう。そう生きるように育てられている。紅竜にしても、物心ついた頃から次期当主と言われ続け、それ以外の選択肢など敗者に等しいと刷り込まれているのだろう。
 辛《つら》い生き方だ。
 そこまでしても家というものは大事なのだろうか。
 紅竜は……そんな生き方を辛《つら》いと思ったことはなかったのだろうか。





 黙り込んだグラウスをどう思ったのか、老人は再び口を開いた。 

「きみも見ただろう!? この家はもう終わりだ。闇に呑まれてしまった。だから、」


 だからどうだと言うのだ。
 それがスノウ=ベルの時計を持ち出すことと関係すると言うのか?


「逃げ出すのですか。ジルガディカ戦役の知将が」
「きみは闇の恐ろしさを知らんからそんなことが言えるのだ! あれは儂《わし》らが、いや、主となったのは当時の当主だが、が、どうしても消すことができずに最後の手段として命と引き換えに封じたもの。今になって、」
「……闇のことまで御存じで」


 精霊の力を使ってこの家から、魔界から逃げ出すつもりで……それで持ち出したのか?
 闇の封印まで自分の手柄にしかけ、慌てて当時の当主がしたことだと訂正する姑息《こそく》さが小物。きっと「闇を封印したかつての勇者ならば今回も封印してください。楽勝でしょう?」などと言われるから、と先手を打ったつもりだろうが裏目にしか出ていない。

 しかしここにきて闇の話が出て来るとは妙な雲行きになってきた。
 自分は青藍さえ取り戻せれば、闇が蔓延《まんえん》しようと、この家が消えようと、果ては魔族や人類が滅亡しようとも構わないのに。このままでは「闇を封印して世界を救おう!」なんて流れになりかねない。


「とにかく! あの忌々しい箱から出してくれたことだけは礼を言おう」

 老人はそう言うなり踵《きびす》を返した。高額報酬をチラつかせても乗ってこないグラウスには何を言っても無駄だと理解したらしい。
 そこに「共に闇を封印しよう」という発想はない。ジルガディカ戦役の知将が聞いて呆れる。

 封印に関しては当時の当主に任せっきりにしていた、と本人もカミングアウトしていたけれど。
 が。
 案の定、時計は握ったままだ。
 庭を突っ切って走っていく老人を追おうとしたグラウスの横で、ずっと気配すら消していたアンリが口を開いた。
 
「……なるほど。そういうことでしたか」 

 この筋肉親父が口走った敬語に、老人を追おうと踏み出しかけた足が止まった。
 追い出されたと言っても彼《アンリ》は元々この城の陸戦部隊長だったわけだし、長老衆は目上だろうから敬語は使って当然だろう。けれども違和感を覚える。
 ふ、とアンリのほうを見ると、彼は今までに見たこともない冷淡な笑みを浮かべて剣を抜くところだった。
 そして。

「生かしておくだけ無駄、とは、このことだ!」

 その図体からは想像もできない飛ぶような足取りで老人を追いかけ、追いつきざま、その背に剣を振るった。


 声を立てる暇もなく、老人の体が干乾びていく。
 手から落ちた時計がカシャン、と音を立てた。
 アンリは剣を掴んだままその時計を拾い上げ、そしてグラウスに振り向いた。剣を握り直す音が小さく聞こえた。


「……あなたは」

 これは本当にアンリか?
 思えば渡り廊下で離されてから再会するのが早すぎる。同じ条件で落ちたのだから離れたと言ってもそう遠くない位置に落ちたはずだけれども、それにしたってピンポイントに自分《グラウス》の居場所を見つけてきたのは不自然だった。
 あれは油断させるためにアンリの姿をとっていたのではないのか? 青藍の姿を見せて、渡り廊下崩落に巻き込んだように。そしてあの老人にしたように切り捨てる隙を狙っていたのではないか? 
 今もなお、隙あらば――


「おあ!? 何でいるんだポチ! 青藍はどうした!?」

 その時。薄笑いを浮かべて立つアンリとは真逆の方向から聞き慣れた声が聞こえた。
 本物が現れたからなのか、老人を切り捨てたほうのアンリは僅《わず》かに口角をつり上げたかと思うと、剣圧を飛ばすように剣を一閃した。
 グラウスとアンリに向かって地面に裂け目が走る。小石や砂が飛び散り、視界を覆う中、グラウスは背後に迫るアンリの巨体を押し出すようにして飛び退《の》いた。
 


 立ち込める砂埃が落ち着いた頃には、既《すで》に最初にいたほうのアンリの姿はなかった。
 消えてしまった。スノウ=ベルの時計を持ったままで。




 あのアンリも渡り廊下で見た青藍の幻と同じで、油断したところを倒そうという算段だったのだろうか。
 グラウスは偽アンリが立っていた場所を呆然と見やった。
 切られた老人は無残に干乾びてしまっている。秘密をバラしたから消されたのか、時計を盗んだから処罰を受けたのか、最初から長老衆をひとり残さず殺《や》るつもりだったのかはわからない。
 最初の理由だとすれば、彼が口にしたのは闇がジルガディカ戦役で封印されたと言うことと、封印したのは時の当主だったと言うことくらいだが、口封じをする理由とするには弱い。気に入らないというだけで難癖を付けて処分しようとする紅竜のこと、有力なのは3番目だろう。

 しかし何故《なぜ》アンリの姿を取っていたのか。
 自分《グラウス》を惑わすのなら確実に青藍の姿で来るはずだし、「きっとそうしなければいけない理由があるのだろう」と手前勝手に納得して討たれただろうが、アンリに討たれるつもりはさらさらない。
 渡り廊下爆破で1度失敗しているから大本命《青藍》の姿では逆に警戒されるかもしれない、と、そこまで見越してのアンリだったのか。青藍やルチナリスほど近しい存在では些細《ささい》な仕草の違いで別人とバレるかもしれない、と考えてのことなのか。それとも……

 グラウスは「いってぇなぁ。何だよ、おい」とブツブツ呟きながら身を起こしている鎧姿の中年親父に目を向ける。

 似せられるほど言動を知っている存在がアンリだけだったのか?




「……あなたは本物のアンリ=バートンですよね?」
「あ? そうだと言ったところでお前は信用しないだろう」

 偽アンリがいたことは見ているだろうし、問いに正面切って噛みついて来ないのは向こう《アンリ》も同じように自分《グラウス》を本人だと定め切れないでいるのか。探りを入れるような物言いに脳筋らしからぬ逡巡が見て取れる。
 ただ確かなのは、この先、敵は勇者《エリック》やルチナリスの姿で現れる可能性があるということ。口調も仕草もまるで違う、海の魔女が化けたルチナリスですら見抜けなかった自分《グラウス》は見分けることなどできないだろう。きっとアンリも。

 こんなことなら侵入する前に仲間を表す共通の証でも刻んでおくべきだったか。
 たしか何かの話で読んだことがある。が、今となってはもう遅い。

「本物だって印付けときゃよかったな。今からでも付けるか? 腕出せ、腕」

 その話をアンリも思い出したのだろうか。短剣を取り出して手招く。
 が、手にしているソレは何だ。何をする気だ。


「あー……それよりその方は長老衆の?」

 印と称して腕を削られでもしたらたまったものではない。
 グラウスは本物か偽物かを追求することは避け、かわりに老人の素性を尋ねる。偽アンリはこの老人を長老衆のひとりだと言った。本人も否定しなかった。
 さて、この男はどう出る?

「グラハム候だ。お館様《前当主》の叔父にあたる」

 腕を出さないグラウスを小馬鹿にしたように笑い、アンリは短剣をしまい込んだ。

「ジルガディカ戦役の知将と謳《うた》われたと聞きましたが」
「……知将ねぇ」

 何を思い出したのか、アンリは鼻を鳴らした。
 彼は前当主と共に戦場を駆け巡ったクチだから、長老衆が「当主を盾にして後方でふんぞり返っている」ことには嫌悪を抱いているのかもしれない。少なくとも知将だなどと思っていないことだけは間違いない。本物かどうかはさておき、意見だけは合いそうだ。

「彼が言うにはジルガディカ戦役で当時の当主が命を代償として闇を封じたそうです。それが何故《なぜ》今になって現れたのかはわかりませんが、言い換えれば再び封印することはできるということですね」
「とは言え、紅竜が闇を封じるとは思えんな。それどころか、封印を解いたのはあいつだと俺は思ってる」

 なかなか尻尾は掴めない。
 相手が敵か味方かもわからない状態で話をするのも奇妙なものだ。
 もし敵であるのなら彼《アンリ》は自分《グラウス》を陥《おとしい》れるためか、もしくは紅竜に有利に働くように仕向けて来る。ならば今しがた紅竜を悪く言ったのはどういう意味にとればいいだろう。

「それにだ」

 疑い続けるグラウスに、アンリは意味深な目を向ける。

「お館様《やかたさま》の生存も不明。闇を封じるのにもし当主としての力――いわば直系だな――が必要なのだとしたら、最後の砦は青藍ひとりだ。そうなったらお前はどうする?」
「そんなこと聞くまでもなくご存じですよ。本物のあなたなら」


 闇を封じるということは命を代償にするということ。
 だが、それだけはさせられない。例え本人が望んでも。
 自分たちは勇者ではない、魔族だ。人間たちからアウトロー《ならず者》と思われている種族だ。
 世界平和のために邁進《まいしん》するつもりで此処《ここ》にいるわけではないし、顔も知らない誰かのために何故《なぜ》命を張る必要がある?

 そう思う反面、それでも青藍は違うのだろうとの思いもよぎる。
 10年もの間、不特定多数の魔族に恩恵を与えるためだけに魔王をしていた彼なら、自分ひとりの犠牲で世界が助かるのなら、などと言い出すかもしれない。義妹《ルチナリス》が生きていく世界を守るために。そして自分《グラウス》が生き残るであろう世界を守るために。
 そんなことは考えてほしくないのに、僅《わず》かにでもそうして自分《グラウス》のことを考えてくれたのなら嬉しいと思う自分を打ち消すことができないでいる。

「……仮定の話はよしましょう。無意味です」

 グラウスは首を振った。
 青藍のあの魔族らしからぬ自己犠牲精神が何処《どこ》からくるのか。あれは他人の顔色を窺《うかが》い続けた幼少期が形成したのだと思っていたが、それよりももっと前……第二夫人が持っていたであろう聖女の献身を受け継いでしまっているのかもしれない。

「そうだな」

 アンリもそれ以上言うつもりはないのか、口を噤《つぐ》む。
 沈黙があたりを覆ったその時。


「ああ! 師匠! と、執事さん!」

 声がした。
 見れば勇者《エリック》が駆けて来る。
 彼は柘榴《ざくろ》を探しに戻ったはずだが見つからなかったのだろうか。連れているはずの者《柘榴》がいないというだけで、彼への信憑性《しんぴょうせい》が薄くなっていく。偽物ではないかとの思いが増してくる。

 勇者《エリック》はグラウスらの元に辿り着くと、やっと安堵したように座り込んだ。 

「よかったぁ。このままはぐれちゃったらどうしようかと思っ、」
「ザクロサンはどうした」
「見つからなかったんだよ。イチゴちゃんもアイリスさんもいないし。
 探そうかとも思ったんだけど、もしアイリスさんに会っちゃったら絶体絶命のピンチってやつじゃない? だからひとまず離れようって思って戻ったんだけど、そうしたら渡り廊下がないし、誰もいないし」
「誰もいない?」

 曰《いわ》く、柘榴《ざくろ》はおろかミルもアイリスもいなかったので引き返してきたものの、こちらはこちらで誰もいなかったせいで置いていかれたと思ったらしい。「離れに行く」と言っていたことを思い出して追いかけて来たのだとか。
 だが。

 ルチナリスは何処《どこ》へ行ったのだろう。崩落には巻き込まれなかったものの、あの場で待っていたところで再び橋がかかるわけでもなし、これでは埒《らち》が明かない、と別ルートから離れ《こちら》に向かったのかもしれない。
 が、彼女とは未《いま》だ合流できていない。
 道に迷ったのか。
 それとも、道中の何処《どこ》かで敵の手に堕《お》ちたのだろうか。