3-8 忌まわしき記憶




 廊下の窓から光が差し込んでいる。
 斜めに、それでも歪むことなく真っ直ぐ下りてくる金色の帯が。


『あれはね、天使の梯子《はしご》って言うんだよ』


 重そうな雲の切れ間から同じように現れたそれをそう呼ぶのだと、青藍は教えてくれた。目の前に差し込んでいるものはそれよりずっと小さいけれど、やはり|梯子《はしご》なのだろう。

 変な声がする変なお城だけれど、天使様は下りて来てくれるのだろうか。
 ルチナリスは光の中に目を凝らす。




「る~う~チャン」

 そんなルチナリスの耳に声が聞こえた。
 主《あるじ》でもある青藍の声ではない。しかし、ざらざらした石肌の洞窟に風が吹き抜けた時のような声は、天使の声と言うにはダミ声すぎる。

 わかる。わかります。
 ルチナリスは箒《ほうき》を握りしめる。

 おばけだ。





「るぅチャンお掃除頑張ってるっすねー」
「ね、ね、 坊《ぼん》の妹ってホント?」
「妹なのになんでメイドさんみたいなことやってんの?」

 いい加減慣れた、と言ってもいいかもしれない。
 かもしれないが、だからと言って何とも思わなくなったわけではない。多少、恐怖は薄れたけれど。

「……坊《ぼん》って誰?」

 ルチナリスは誰もいない廊下に呼びかけた。
 踊り場から下りて来る階段の、その一段目があるあたり。

「坊《ぼん》は坊《ぼん》でしょ? 青藍様だったっけ。あははははは、俺あの人のこと様付けて呼んだの初めてかもしんない。ねぇねぇねぇ、これって初体験ってやつ?」
「あー、そんな呼び名だったっけ? なんかさ、小《ち》っさい時から坊《ぼん》だったから坊《ぼん》だと思ってたわ」
「昔はかわいかったのにあんな鬼畜に育つとか、文句言っていいレベルっすよね」

 話しかけてきたくせに自分たちだけで盛り上がっているようにも聞こえる。
 その声にルチナリスは耳を傾けた。早口だから聞き取りにくいが、どうにも青藍を昔から知っているように聞こえる。

 そりゃそうだ。いくら貴族様だと言ったって、赤の他人の城に引っ越しては来ない。
 きっと本宅はうんと遠いところにあって、家族はそちらで暮らしていて。
 ここは田舎で貴族様が住むにはいろいろと不便だから、領主をする人だけが来て、ひとりで住んでいるのだろう。
 小さい頃に、彼は此処《ここ》に来たことがあるのかも知れない。
 だからこの声は青藍様のことを知っているのよ。きっと。


「妹がいるとは知らなかったっすねぇ」
「でもさぁ。その妹がなんで召使いみたいなことしてるわけよ? ね、坊《ぼん》は妹だって言うけどホント?」
「でもさ、上級貴族様なんでしょ? そんな毎日掃除しちゃってさ。家事覚える必要あんの?」
「もしかして没落しかかってたりするっすか?」

 上級が「もっと上」と言う意味だというのはわかる。
 でも、上級? 貴族様の階級については詳しくも何も知らないけれど、そんな分け方あったかしら。侯爵、とか伯爵、とかとは別に?
 それとも貴族以上の別のもの?

 聞かれたところでルチナリスには想像もつかない。


「……じょうきゅう、きぞく?」
「あれ? 知らないっすか?」 
「青藍様はそんなに偉い人なの?」
「偉いもなんもメフィストフェレスって言えば新進気鋭《しんしんきえい》の、」
「めふぃ、す?」

 声がピタッと止んだ。
 暫《しば》しの沈黙の後、「やべぇ」、「馬鹿、喋るな」といった声がひそひそと聞こえてくる。


 この声はあたしをあの人《青藍》の「本当の妹」だと思っていたのだろうか。
 家名を知らないことで、それが嘘だと察したのだろうか。
 あの人《青藍》が貴族よりもっと上の人だとか、めふぃナントカって家柄だってことは「赤の他人」には話してはいけないことなのだろうか。

 それより。
 めふぃナントカって何処《どこ》かで聞いた名前だ。
 何処《どこ》だっただろう。


「あなたは、どなた、ですか?」

 ルチナリスは天使どころか何もいるようには見えない空間を睨みつけた。

 やはり少しは慣れたのかもしれない。
 前はすぐに逃げ出していたのに、ほら、こうして我慢できる。こちらから話しかけることも……違う。これは我慢じゃない。

 我慢しなくていいって、あの人《青藍》は言った。
 これは我慢じゃない。ちょっと勇気を出しているだけ。頑張っているだけ。
 この先も此処にいるつもりなら、逃げ回ってばかりしてはいられない。

 だって現実問題としているんだもの。
 見えなくても、この声の「誰か」だって一緒に暮らしているのと同じなんだもの。




「い、いやぁ。ただの通りすがりっすからー」

 ルチナリスの態度に声が怯《ひる》む。

「顔が見えないのって怖いんですけど!」
「見えても怖いと思、」

 間髪入れずにボコッ! と殴打する音がした。
 空中に薄く人影が見えた気がしたが、目を凝らしたところで、やはり見えはしない。

「声だけで姿を見せないのは卑怯です!」

 でも知っているもの。
 このおばけは口ばっかりで、あたしに悪いことはしてこない。だから、大丈夫。



「るぅチャン難しい言葉知ってるなぁ……」

 声はそれだけ言うと黙り込んだ。
 相談しあっているような囁きが聞こえるが、聞き取ることはできない。

 何だろう。やっぱり食べちゃおうとかそんなことを言っていたらどうしよう。
 でも逃げるわけにはいかない。クマに遭っても背中を向けてはいけないって言うし。おばけに背中を向けたらどうなるかわからない。

「顔見せなさいよ!」

 クマだったらずっと目をそらさないまま後ずさるんだって、そう聞いた。
 攻撃的な態度を取ってクマを刺激しないように。そーっと、そーっと、クマの視界からいなくなるんだって。
 それから考えたら大声を出すのは間違っているけれど。

「いや、それは」
「青藍様に言いつけるわよ!!」

 でもクマじゃないし。
 現に怒鳴りつけるのは効いているみたいだし。





 長い沈黙。





「……どうする?」

 声のひとつがそんな言葉を吐いた。

「出て来るな、って言ったのは坊《ぼん》だぞ」
「でも言いつけるって、」
「ちょっかい出してたのバレちまうっすね」

 全部同じ声なのに話し合っているのって変。お話を読んでいるみたい。
 ルチナリスはミバ村にいた頃を思い出す。
 昔と言ってもまだ1年も経《た》っていない、それなのに遥か遠くなってしまった過去。

「でもさ、全然見たことないわけじゃないんだし」


 あれは春だったかな。旅の一座が村に立ち寄った時のことだった。
 村はずれの空地に赤と青のストライプが眩しいテントが張られて、ピエロがビラを撒いて。
 その一座のお姉さんが、村の子供たちを集めて朗読会を開いてくれた。
 ミバ村のあたりでは珍しい淡い金髪に白い肌。オーロラを思わせる薄衣の衣装がとっても綺麗だったっけ。


「だよな。俺ら、あっちこっちにいるもんな」


 大きい子たちが「踊り子だ」って囁いていた。
 朗読を終えたお姉さんは「そのお話をやるから見に来てね」って言っていた。
 行った子もたくさんいたけれど、あたしは行けなかった。孤児なんだからそれが普通だと思っていた。


「来た時だって並んで出迎えてるのを見てるわけだしさぁ。耐性あるんじゃね?」


 たった1日だけの興行で、次の日の朝にはテントも荷馬車もなくなっていた。
 まるで一夜限りの夢。元に戻っただけのはずの空き地が酷く荒れ果てて見えた。
 客が期待できない小さな村だからな、って誰かが言っていた。

 お姉さん、綺麗な声してたな。間違ってもこんなダミ声じゃない。
 ……って、今は昔の思い出に浸っている場合ではない。ルチナリスは、はた、と我に返った。
 目の前なのか横なのか後ろなのかはわからないが、とにかく自分の近くではダミ声が相談し続けている。

「だよなだよな。俺らこう見えて結構他の奴らよりキュートだもんな。目もデカいし」

 そんな声がして。

 相談が終わったのか、いきなり全ての音が消えた。
 声も、気配も。
 でもそれは、嵐の前の静けさにも似て――。



 観念したかのようにパッ! と出て来た化け物の姿に、ルチナリスは目の前が真っ白になった。
 目の大きい、羽根の生えた、真っ黒い影が……3つ。

「い……やあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」

 絶叫が城中に響いた。




 化け物。

 悪魔。

 村を襲った異形の影。

 燃える家。

 逃げ惑う人。

 あたしに向かって伸びる禍々《まがまが》しい手。


 魔女が煮立てる大釜から紫がかった何かが吹きこぼれるように。鍵までかけて封じた記憶が噴き出してくる。


『逃げなさい』


 そう言って集落の方へ走っていった神父の後ろ姿が。


『かわいこチャン見~っけ』


 そう言って笑った化け物の牙の隙間から見えた紅が。
 自分に向かって伸ばされた爪が。

 ああ、その顔は。
 どう見ても人間のものではなくて。

 ……それが今、目の前に……!!


 ぐるぐるぐると視界が回る。
 踏みしめているはずの床がぐにゃりと歪む。
 後ずさろうにも足はどうにも動かず。
 視界は黒だか赤だか、チカチカと明滅を繰り返す。
 天使の|梯子《はしご》は痕跡すら消え失せ――

「るぅチャン」

 だから、目の前のこれは。

 これは。
 天使、じゃ、ない。

「ルゥ、チャン」
「来ないでぇぇぇっ!」


 助けて。

 助けて。


 青藍様――――――!!




「るぅ!!」

 大声で呼ばれてルチナリスは目を開けた。心配そうな顔が見えた。
 自分の身を抱きかかえているのはずっと助けを求め続けたあの人。ふわりと香ったのは、以前、馬車の中でかけられていた上着と同じ匂い。

「悲鳴なんかあげて」
「青藍様! 悪魔が! 悪魔が出たの!! 悪魔が、」
「落ち着いて」

 青藍はルチナリスを抱き寄せたまま、背中をとんとん、と優しく叩く。ルチナリスはその腕をぎゅっと掴む。

「怖くない。怖いことないから、大丈夫」

 あやすように繰り返される彼の声を聞きながら、その腕越しにあたりを見回す。
 いない。
 さっき見たはずの異形の化け物など、何処《どこ》にも。





 日が傾いたのだろう。窓の外は闇色に塗りたくられている。
 階段も廊下も暗い。が、そこに何かが潜んでいるようには感じない。

 でも。

 怖い。
 このお城には悪魔がいたのよ? あたしの村を襲ったのと同じ顔をした悪魔が。
 ずっと話しかけていたのはその悪魔なの。あたしのそばに、ずっと悪魔がいるの。
 どうしよう。
 あたし、食べられちゃう。


 青藍は黙ったままルチナリスを|抱《かか》えていたが、しばらくしてぽつりと呟いた。

「……もしかしたらお前が見たのは悪い奴じゃないのかもしれない、とは思わない?」
「青藍、様?」

 何を、言っているの?

「何も怖がることなんてないんだ。お前が何を見たんだとしても……此処にはお前を怖がらせる奴も、お前を食べる奴もいない」

 それじゃ、さっき見たのは悪くない悪魔なの?
 そんなのっているの?

「大丈夫、だから」

 ああ、でも。
 もしかしたら顔が怖いだけなのかもしれない。ほら、よく家のことを手伝ってくれるっていうホブゴブリンだって、リアルに書かれた本の挿絵は結構怖かったじゃない。それに古いお城には精霊が居着いているって、その本に書いてあったっけ。
 見た目はあたしの村に来た悪魔と似ているけれど、全然違うのかもしれない。

「……怖く、ない?」

 そう言えば、彼らはこの人のことも小さい頃から知っているって言っていた。
 でも、この人は生きている。
 食べられもしないで、ずっと今まで。大人になるまで。

 町長さんが来た時にいろいろ教えてくれたのも、この人を探すあたしに居場所を知らせてくれたのもあの声だった。
 さっきも手を伸ばせば簡単に捕まえられる距離にいたのに、彼らは手を出しては来なかった。
 見た目はあんなだけれども、その声の主を、この人は悪い奴ではない、と言う。

 それなら。
 あれは、本当は……怖くない、の、かも。

「怖くない?」
「怖くない」

 彼はそう言うと、口を|噤《つぐ》んだ。
 ただ、蒼い目の中で1度だけ紅っぽい色が見えた。

 何だろう。
 夕陽の色でも反射したのだろうか。
 なんだか、とっても……

「……おやすみ」

 どうして? あたし、眠くな、い……よ……?


 それを最後に、ルチナリスはガクリ、と意識を手放した。
 小さく漏れる寝息を確認してその体を抱え上げた青藍に、こそりと背後から声がかけられる。

「坊《ぼん》、」
「他人《ひと》の話が聞けないのか? 出て来るなって言っただろう。これは特に悪魔を恐れているんだから」
「だけどさぁ、」
「俺は、出、て、来、る、な、と言ったよな?」

 かなり遠くで小さくなっている3匹のガーゴイルのほうなど向きもしないで、青藍はただ冷たく言い放つ。

「必要以上に怖がらせる権利などお前らにはない。俺たちはこれとは違うものだと……怖がらせるだけでしかないということを忘れるな」
「へい」
「親切心からだろうと無闇に声をかけるのも禁止だ」
「……へぃ」

 不承不承《ふしょうぶしょう》返事をするガーゴイルたちに、青藍はやっと目を向けた。

「明日起きた時にはこれも夢だと思うだろう。……この城で俺たちといたことは全て、いつかは夢でしかなくなるのだから」
「坊《ぼん》、」

 酷い悪夢を見たと言ってまた泣きついてくるだろうか。
 それでも、先ほど見たことを真実として憶えていられるよりはいい。




「……すっかりパパの顔っすね」

 それからかなりの間を空けて、ガーゴイルの1匹が遠慮がちに呟いた。

「そういやさっき、るぅ、って呼んでたっすよね? いいでしょ? アレだのコレだのって言うより」
「ひょっとしてこっそり呼んでました?」

 遠慮というものを知らないのか、ただ単に学習能力が欠如しているのか。
 つい今しがた怒られたばかりだと言うのに、1匹が口火を切ったことからガーゴイルたちはてんでに口を開き始める。

「すっかり信頼されちゃってるみたいだし、自分好みに育てる準備は万全ってやつっすね」
「俺らが脅したおかげで坊の株が上がったようなもんっすよねー」
「感謝して欲、」

 ガーゴイルは、その主《あるじ》の目に言いかけた言葉を飲み込んだ。
 その色は真紅。魔王の色。


「……俺がいつまでも甘いと思ったら大間違いだからな」

 ざわついていた風が、しん、と静まり返った。