7-3 飲食とセクシャリズムの関連性




 あたしは毒物なんか入れてないわよ! と怒鳴りつけたいのをルチナリスは堪《こら》える。
 ああ、この数時間でどれだけ耐えたことだろう。我《われ》ながらここまで忍耐力があるとは思わなかった。罵詈雑言《ばりぞうごん》ONLYの我慢大会があったら確実に優勝できる。

  これもかわいい主人公(♀)の宿命なのだろうか。
 白雪姫もシンデレラも序盤は虐《しいた》げられていたけれど最後にハッピーエンドなどんでん返しがあったし……そう! これはヒロインならば9割が通る道! 見返りがあるとわかっているならこの理不尽な境遇も耐えられるってなもんよ!

 そしてそしてそしてっっ! そんな定番エンドのお相手としては、

 1:いつも見守ってくれていた王子様(本命)。
 2:薄幸《はっこう》の美少女の噂《うわさ》を聞きつけてやって来たイケメン(対抗)。
 3:虐《しいた》げていたのはツンデレの裏返し(大穴)。

 さあどれだ!
 って絶対に3だけは嫌だ。あたしが拒否したせいで1と3がくっつくのはもっと嫌だ。そのフラグが立とうものなら全力でへし折ってみせるわ!
 ルチナリスはため息混じりにポットを取り上げている執事の背中を睨みつける。
 心血注いで淹れたお茶(n回目)を捨てる気満々のその背中を。

「……何か言いたいことでも?」
「ええ、」

 その時。

「調子どう?」

 なぁんてタイミングの良さだろう! 見計らったかのようにコンコン、とノックの音がした。
 書庫にでも行っていたのだろうか。小脇に本を数冊抱えた義兄《あに》が入口から顔を出している。

「いい匂いがする……ね……?」

 部屋にたちこめる紅茶の匂いに一瞬、顔をほころばせかけた彼は、義妹《いもうと》と執事との間に漂っている不穏な空気を感じ取ったのか声を失った。

「ど、どうかした!?」
「いいえ、なんでも」
「なんでもないですよー」

 紅茶を淹れる練習をしていたにしてはやけに険悪な雰囲気が漂う中、同時に振り返ってにこやかに笑みを向ける執事と|義妹《いもうと》。|何故《なぜ》だろう、顔は笑っているのに彼らの背後に何かが見える。
 ハブとマングースか犬と猿か、はたまた竜と虎かもしれないそんな何か。




「……………………………………………………1杯貰ってもいい?」

 何も見なかったかのような笑顔で義兄は椅子を引っ張って来ると、ルチナリスの隣に腰掛ける。不自然すぎるくらい笑っている。
 少しでも笑みを消したら最後、背後のハブとマングースが実体化するかもしれない、なんてぶっ飛んだ考えには至っていないと思うのだが、あの何も考えてなさそうな義兄に気をつかわせているのは確か。そうでなくとも彼の眼前で|喧嘩《けんか》などできない。

 グラウスとルチナリスは顔を見合わせ、ひとまず対決姿勢を解いた。
 



「どう? 上達した?」

 腰をおろした義兄は、笑顔のまま形だけ飾ってあるような焼き菓子に手を伸ばす。
 ほら、よく紅茶の演出で一緒に映っていそうな、もしくは普通のお料理教室で「それでは上手に淹れられるようになったからティータイムにしましょう」と上達していようがしていまいが後半の試食タイムに先生が出してくるレッスンメニューには入っていないアレ。
 だが執事がそんな台詞《セリフ》を言うはずもない。
 ルチナリスとしても執事とふたりっきりでのお茶など御免蒙《ごめんこうむ》りたい。
 小腹が空いた時用かもしれないが、とても途中で菓子が摘まめるような雰囲気ではなかったし。というわけで、何のために置いてあったのかは不明だ。もしかしたら義兄が顔を出すことを見越していたのかもしれない。
 かわいい義妹が部屋にこもって執事のしごきに堪《た》えているのだから見に来ないわけがない。
 おのれ執事。この知能犯め!(n回目)。


 そんな「義妹が心配で見に来てしまった(ルチナリス目線)」義兄は菓子を口に入れようとしたところで執事を見上げた。
 ポットを持ったまま、黙って自分を見ている執事を。

「なに?」
「あ、いえ」

 ぼんやりと見つめていた執事は、主人の声に少し慌てると取り繕《つくろ》ったような笑顔を浮かべる。

「美味《おい》しそうだなと思って」
「悪い。食べたかったやつ?」

 まだ口に入れてないから、と差し出した焼き菓子の手を執事はそっと押し戻す。

「お構いなく。どうぞそのまま」
「そう?」

 義兄は焼き菓子と執事を不思議そうに見比べた後、菓子を口に放り込んだ。
 それをやっぱり執事は手を止めたまま眺めている。飲みこむところまで見届けると、やっと思いだしたかのように新しいティーカップを取り出した。


 ……何だ今の間は。
 菓子には何も盛ってないわよ? と言うか、あれを用意したのはあんたでしょ? ルチナリスは執事に胡乱《うろん》な目を向ける。
 いや! 奴が用意したからこそ危ない。ご主人様との仲を邪魔するウザい義妹を亡き者にしようと一服盛っていたかもしれない。もしくは義兄が遊びに来て食べることまで見越して惚《ほ》れ薬か媚薬《びやく》を……待って。それは犯罪だから。いくらなんでもそれはない。
 それじゃ?
 よもやと思うがアレは執事の手作りで。

「美味しいよ、グラウス」
「あなたのために作ったんです」
「うん。愛が感じられるよ」

 とか……! ない! それは絶対にない!!

 とにかくっ! 薬を盛ったかどうかは置いといて!
 そんなやりとりの一部始終を目の当たりにさせられているあたしのこと、絶対忘れてるわよねふたりとも!

 どうにかしてふたりの間に割り込みたいルチナリスだったが、上手《うま》い切り返しが思いつかない。
 普通にクッキー食べようとしただけよそうなのよ。なのに、何? この醸《かも》し出される不健全な空気。義兄と執事の間だけ背景がピンクがかって見えるじゃないの!!
 そう。この異様な空気は確実に執事のせい。
 惚気《ノロケ》させすぎたからだろうか。未《いま》だ妄想と現実がごっちゃになっているのではないだろうか。
 でもね。過去に何があったか知らないけれど、お兄ちゃんをアブノーマルな道に引きずり込もうとしやがったらただじゃおかないわよ!



「ルチナリスの最新です」

 そんなマングース状態で牙を剥くルチナリスなど完全に視界の外に放置したまま、執事は何食わぬ顔で紅茶を注ぐと義兄の前に出す。
 おいそれは捨てようとしていたやつじゃないのか、というツッコミを、いや、ツッコミたいのはそこじゃない。
 何故《なぜ》貴様が出す、執事! それはあたしの仕事だろうが!
 あんたは全く機会の来ないお守り業務をやっていればいいのよ!
 それは邪魔しないから、だからあたしの邪魔もするな! と言うか、奪うな!!

 ああ本当なら、

「お兄様、お茶が入りましたわ」
「これは|美味《おい》しいね。るぅが淹れたの?」
「ええ。グラウス様のレッスンの賜物《たまもの》ですわ。おほほほほ」
「いや、るぅには才能があるんだよ。いいお嫁さんになれるね」
「そんなァ♡」

 ってことになっているはずだったのに!

「変わってないね」

 一口飲んで義兄は苦笑する。
 嘘よ! ちょっとぐらいは上達したはずだわ。それじゃお亡くなりになったカップ様もお高いお紅茶様×3も浮かばれない!

「まあ、これがるぅの味だから」

 義兄はそう言うと、手を伸ばしてルチナリスの頭をくしゃり、と撫でた。
 嬉《うれ》しいけど、ものすごく複雑。あたしのこの数時間の苦労はなんだったの? そんな文句が喉元まででかかったけれど、この10年ずっと変わらない笑みと手のひらの温かさはそれをどうでもよくしてしまうから困りもの。
 そしてこうして撫でてもらえただけでも、この数時間に堪《た》えた甲斐があったというものだわ。

 ルチナリスは義兄の手の下から10年来の宿敵を見上げる。
 いいでしょ。1点リードよ、あたし。

「私はあなたが味覚音痴になってしまいそうで心配ですよ」

 しかしリードされてしまったはずの執事はと言えば目を細めて義兄を見ている。本当にルチナリスなどどうでもいい、という感じがありありと顔にでている。
 それでもついさっきまで漂っていた妖しい空気は紅茶の香りに一掃されてしまったのだろうか。もう感じることはできない。

「大袈裟な」

 そんな執事に何を思ったのか、義兄は少しだけ肩を竦《すく》めて見せた。




 壁際に据え置かれた柱時計が時を告げる。
 執事が自分の時計をちらりと見る。

「もう3時ですね。少し休憩しましょう」

 やっぱりあるのか、魔のティータイムーー! それで今度はテーブルマナーをクドクドクドクドと……っ!
 先ほど義兄がつまんだ焼き菓子の皿を引き寄せる執事にルチナリスは青ざめる。

 だが。

「いいねぇ、3人でお茶会」

 頬づえをついたまま嬉しそうに見上げた義兄に執事はその手を止めた。一瞬考えるそぶりをみせた後、しょうがないな、と言いたげに目尻を下げる。

「今日は特別ですよ。あなたは本当はこんなところでお茶なんか飲んでいい方じゃないんですから」
「え? 何? 俺だけ飲んじゃ駄目?」
「配膳室《パントリー》は城主がお茶をするような場所ではない、と申し上げているんです。裏方ですよ? ここは」

 そう言いながら執事は後ろの棚の扉を開ける。
 いつもの口調、少し不愉快気味。声だけ聞けばそうなのに、焼き菓子の他にもスコーンやら何やらが次々と現れてくる様《さま》は歓迎しているようにしか見えない。
 もともとこれは義兄用に用意してあったものなのだろう。出来の悪い教え子とふたりで休憩だったら絶対こんなには出て来ない。
 そして、いくら義兄用だとしても、絶対に1回分の量じゃない。


「俺にひとりで飲めって? 酷《ひど》いなぁ」
「そうですよね、昔っから青藍様は、あ、た、し、と、お茶してましたもんね」

 執事の物言いに口を尖らせている義兄には、執事の本心は伝わっていないのかもしれない。
 でもあたしにはわかる。このひねくれた男の考えていることがありありと。

 知ってるのよ?
 さっきお兄ちゃんがここでお茶をするって言った時、本当は嬉しかったんでしょ?
 そうでもしなきゃ一緒にお茶なんてできないんだもの。ねぇ?





 窓の外は青い空。
 ヒツジみたいな雲が今度は3つ、のんびりと漂っている。
 少しオレンジ色がかった陽射《ひざ》しがアイボリー調の壁をより暖かい色に染めている。
 ほんわりと紅茶の香りが漂う此処《ここ》は、今だけは本当に和める空間。そう、今だけは。

「はい、グラウス」

 義兄はやっぱり何も考えてなさそうなほわわんとした笑顔のまま、さっき口にしたものと同じ焼き菓子を執事に差し出す。

「これ凄く甘かったよ。お前、甘いの好きなんだな」
「……ええ」

 執事は何処《どこ》か含みを持ったような目でルチナリスを一瞥する。

「甘いのは好きですよ?」

 受け取った菓子を宝物のように眺め、そして――。


 何だろう。
 あの今までに見せたこともないような極上の笑みは。


 ――……大事そうに噛み砕いたのだった。