22-11 反撃の交響曲~Sinfonia~




 紅竜は椅子に深く腰掛けると、背凭《せもた》れに身を預けた。
 目の前には跪《ひざまず》く大勢の家臣。そして貴族たち。彼らを見下ろす立場にいる自分は、今や魔界の王と呼ぶに相応《ふさわ》しい。


 思い出すのは数十年も昔。
 かつて馴染みだった姫《キャメリア》に「魔王になりたいのか?」と問われたこと。
 「魔王役《・》」ではなく「魔王」。魔界の人々を統《す》べる王になることを意識したのはあの日からだっただろうか。

 魔族には王がいない。王という存在は昔からいなかった。
 それは魔族が実力を重んじる証《あかし》でもある。

 世襲によって愚者が人々の上に立つことほど不幸なことはない。人間界は世襲で王政が続く国がいくつもあるが、愚鈍な主《あるじ》を頂く羽目になった民衆が度々《たびたび》反旗を翻したと聞いている。だから魔族に王がいないのはむしろ誇ることだと思っていた。

 しかし自分の進む道の先を見据えた時、「そんな考えはただの甘っちょろい建前だ」とばかりに嘲笑《あざわら》う存在が立ち塞がった。
 「家の格」だ。
 「力こそ全て」「実力主義」と口で言いながら、当然のように受けていた恩恵――先代がその力でもって得ていた権威――を己《おのれ》の代で失墜することを嫌った連中が、制約でもってその権威にしがみついた結果、魔界貴族はその矜持《きょうじ》を失った。
 その最もたるものがキャメリアの家《ヴァンパイアの一族》だろう。魔力も弱く、跡を継ぐ男子にも恵まれず、そのくせ何千年も昔から魔族と言えば自分たちだ、とばかりの顔で出しゃばって来る様《さま》は反吐《へど》が出る、なんて生温《なまぬる》い言葉では言い表《あらわ》せまい。
 家長から執事に至るまでが他家を見下してくる厚顔無恥《こうがんむち》な連中だったが、彼《か》の家唯一の姫を従わせることで、やっと足下に這《は》いつくばらせることができた。それでも連中は当家と対等、もしくは当家を利用しているつもりなのだから片腹痛い。

 だが、対抗馬の筆頭を潰してしまえば後は烏合《うごう》の衆。陰《かげ》で文句を言うことしかできない無能どもは、今や、掌《てのひら》を返すようにしてヴァンパイアを悪《あ》しざまに罵《ののし》っている。
 そいつらに比べれば、同じ無能ながら必死に食い下がって来た気概《きがい》だけは褒める価値があるだろう。
 

 紅竜はゆっくりと見回し、それから口を開いた。

「犀《さい》は何処《どこ》へ行った? あと、奥方は」

 その問いに対する返答は返ってこない。
 人々は深く項垂《うなだ》れたまま、ひとりとして顔を上げる者はいない。

 執事長は裏方の長。この場にいなくても不思議なことではない。
 だが彼は今回の婚儀を機に家令に昇進することになっていた。此処《ここ》にいる面々を自分《紅竜》に成り代わって指示することも出て来るかもしれないのだから、顔を見せておくものだろう。先代から仕えているせいで、犀《さい》の顔を知らない奴《やつ》のほうがこの界隈《かいわい》ではモグリと言われるほどではあるが、儀礼的なものを疎《おろそ》かにするようではいけない。

 そしてアイリス。
 婚礼の儀で顔を見せればいいという意見もあるだろうが、今の彼女はヴァンパイア当主の名代《みょうだい》としての役割もある。新たに臣下に下った家のひとりとしてこの場にいなければ、他の家に示しがつかない。
 城内に張り巡らせた蔓から彼女が城内を移動していることは伝わっているが、こちらに向かっているわけではない。侵入者を排除すべく動いているというわけでもない。
 幼い頃から姉についてこの城に出入りしていた彼女のこと、未《いま》だに子供気分で探検でもしているのだろう。こんなことなら女であることをその身に教え込んでおくべきだったのかもしれないが、今となっては後の祭り。ふたりとも後で厳しくしつけ直す必要があるが、今はどうしようもない。


『――あなたは認められたいのよ』


 ふいに声が聞こえた。
 これはキャメリアの声。昔、魔王について話をした時の彼女の声だ。

 窓に目を向ければこちらを振り返る彼女の幻が見え、そしてあっという間に霧散した。
 夕陽に染まり、夕陽よりも紅い瞳で自分を見た彼女はもういない。戻ってくるのを待っていたが……いや、本当に戻って来るなどと思っていただろうか。端《はな》から戻らないものと思っていたからこそ、あの最期に何も感じるものがなかったのではないだろうか。

 紅竜はサイドテーブルの上に抜き身で置かれている剣に視線を移す。
 だから、私が消した。彼女の存在を。
 彼女だけではない。元からこの城にいた人々も、やって来た人々も、全てこの手で葬った。これまでも、これからも、この手で。
 紅竜は両手を広げる。
 自分自身が直接手を下したことは1度もないが、それでもこの手は「血で染まっている」と呼ばれるのだろう。


 この手で。
 全て。


 全、て?


 引っ掛かりを覚えて、紅竜は今しがた頭の中を流れて行った考えを引き戻す。
 私は彼女を消した。彼女だけでなく、この城にいた人々も、この城にやって来た人々も……全て。全て? いや。それならば今目の前にいるのは、

 紅竜は顔を上げた。

 誰もいない。
 キラキラと光を弾く硝子《ガラス》製のシャンデリアも、深い藍色のカーテンも、今では黒一色に覆われている。人々が傅《かしず》いていた場所も瓦礫《がれき》が散らばり、蔓《つる》で覆ってようやく見られるようになった、と言ったほうが良いような有様《ありさま》だ。

「何処《どこ》に、行った?」

 いや。何処《どこ》にも行かない。
 最初から此処《ここ》には誰もいなかった。人々が跪《ひざま》いていると思ったことが錯覚だった。

 王になった。
 王に準ずる者になった。
 人々は確かに目の前に傅《かしず》いた。

 では、これは?
 人が住まなくなった家屋敷は長年風雨にさらされて壁や屋根が落ち、周囲の植物に呑まれていくが、此処《ここ》も何時《いつ》かはこの黒い蔓に覆われ、そう遠くない未来、主役を取って代わられて――


「いや。そんなことはない」

 無意識に口から漏れた言葉が、耳を通して戻ってくる。
 戻って来た言葉を頭の中で反芻《はんすう》し、それから紅竜は再度、周囲を見回す。
 が、何度見たところで其処《そこ》には人ひとりいない。


 ――ソレ デ イイ。


 それでいいのだ。
 魔界貴族どもの陰湿なマウント合戦には飽きた。
 あれだって個々に差があるから起きることで、皆が同じ位置にいるのなら起きることのない争い。if《もし》でしかない未来を好き勝手に想像し、仮想敵を作り上げて憎むなど余程の暇人か愚の骨頂。所詮《しょせん》同じ穴の狢《むじな》。どんぐりの背比べ。
 だから消した。
 消えてしまえば差が生まれることもない。
 無は全。
 全は無。
 そして、

 頭の中で途切れ途切れの思考が渦巻く。考えをまとめようにもあっという間に手から離れていってしまう。

 これで良かったのか?
 ならば、何故《なぜ》私はたったひとりで此処《ここ》にいるのだ?
 誰からも称賛されず。誰からも見向きもされず。人々も犀《さい》もアイリスもいない。たったひとり。ひとりで薄暗い部屋で、それで、いいのか?

「あ、あ。そうだ。私にはすることがあった」

 辛《かろ》うじて捕まえた考えを掌《てのひら》に握り込み、紅竜は慌ただしく椅子から立ち上がった。

「青藍、青藍。こちらにおいで。今こそお前の力を私のために使う時だ」




 蔓《つる》に抱え込まれるように身を預けていた弟《青藍》が、紅竜の声に目を開けた。
 薬指に|嵌《は》めたままの指輪が目覚めた弟の意識を制するように、その光を強くする。


 ――ソノ者 ハ 危険。


 弟のものでも自分のものでもない声が聞こえる。
 闇の声だろう。
 昔からこの声は弟を危険視していた。魔力が桁《けた》違いに高いのだから敵に回せば厄介なことこの上ないのは重々《じゅうじゅう》承知。だが、その力も覇道の礎《いしずえ》に必要なものだとして見れば、これ以上に最適な者もいない。

 ――ソノ者ハ

「黙れ」

 ――オ前ガ 無理ヲ 強《シ》イタセイデ 魂ヲ抜イテデモ 逃ゲ出シタト言ウノニ

「だがこうして戻ってきた! 青藍はいつでも私が、」

 ――心ノ中 デハ ドウ思ッ

「黙れ!」

 紅竜は一喝した。
 そんなことはない。あれの魂が抜けたのは私のせいではない。それにこうして戻ってきたじゃないか。本当に嫌だったのならそのまま冥府への道を駈けて行っていたはずだ。だから、

「さ、さあおいで。……私の可愛《かわい》い小鳥」

 歩み寄った紅竜の前で、蔓の戒《いまし》めを解かれた青藍の体がゆらりと前方に崩れた。
 それを抱き支えるようにして蔓から引き出した紅竜だったが、何ひとつ伝わってこない感触に思わず両膝をついた。抱えきれずに落とすことを懸念《けねん》した結果ではあるが、改めて見れば、確かに腕の中には弟がいて。

 なのに。

 いるのに、抱えている気がしない。温もりも、重みも感じないのは……いや、単に気のせいだ。抱《いだ》いた疑問を練り混ぜているうちに腕には弟の重みが戻っている。感触もある。

 気のせいか?
 弟は昔から食が細かったから予想していた重みより軽かった。掌《てのひら》の上に乗るほどの小箱が予想に反して重かった時にその本来の重量以上の重さを感じるように、弟の重さを見誤った。それだけのことだ。


「……グ、ラ、」
「ああ、その名はもう呼ばなくていい。今からは”兄上”とだけ口にしなさい。お前には私しかいないのだから」


『ソノ者ハ』

 ほら、今だって私だけを見ている。


 弟の口から漏《も》れた名を紅竜は失笑混じりに否定する。
 犀《さい》からの報告によれば、飼い犬《グラウス》は名を呼ばれたことで主人《青藍》の記憶が戻ったのではないかと期待しているらしい。大喜びで駆け寄り、まんまと罠《渡り廊下爆破》にかかったのは滑稽だが……それだけを口にするように指示したことすら忘れていたが、改めて聞くと自分を飼い犬《グラウス》と錯覚しているようで腹立たしくもある。

 だが、そんな苛立ちも耳にしなければ気にならない。
 気を良くしたあの犬は今もこちらに向かっているようだが、時間切れ《タイムアップ》だ。此処《ここ》に辿り着いた時にはもう、愛しの姫はこの世にはいない。


 いない。

 いない、のか?
 いなくなるのか?

 紅竜の中でまた新たな疑問がせめぎ合う。

 いや、生贄《いけにえ》にするのだから当然の結果だろう。これは数十年以上前、書庫で初めて出会った時から決めていたことだ。同じだけの魔力を集めようとすれば何人集める必要がある? しかもその全てに高い知能と無垢な精神が必要となると、それはもう不可能に近い。
 これひとりを世俗から切り離すのにどれだけの労力が要《い》ったことか。ジャン《庭師の息子》もメリサ《メイド》もアンリも犀《さい》も、自分の価値観を押し付けてくる。
 城の外を知らないのは不幸だと?
 市井《しせい》に出したほうが幸福ではないか、だと?
 そんなもの贄《にえ》の身には、いや、もし次期当主の椅子に座らせるつもりだとしても不要だ。

 知恵の回る当主を誰も望んでいないことなど、私にはわかっている。
 ご意見番が御《ぎょ》しやすい傀儡《かいらい》。彼らが望むのはそんな当主で、だからこそ自分が受け入れられることはないのだということを。


「……滑稽《こっけい》なのは私のほうかもしれないな」

 紅竜は独《ひと》りごちる。
 誰からも好かれるとは思っていない。他の家を蹴落とし、傘下に下《くだ》してきたのだからむしろ怨まれているだろう。傘下に下った者たちですら、隙あらば寝首を掻かんとばかりに狙って来る。
 繁栄の恩恵を受けているこの家の者ですら、私に感謝の念を抱く者はいない。そればかりか処分されると避けるばかりだ。どいつもこいつも己《おのれ》の無能さを棚に上げて。
 そして私はそんな連中のためにこの家を維持し続けている。自分を殺して。

 そう考えてみれば当主も贄《にえ》もよく似ている。

「兄弟ならば似て当然なのかもしれないが……お前はどう思う?」

 父も第二夫人も、私を排除する目的でこの弟を生み出したのだろうが、まさか生贄《いけにえ》に使われるとは思ってもみなかっただろう。


 ――寄越セ。
 ――ソレ ハ 我々 ノ、


 そんな紅竜などお構いなし、と言った風で、声が高らかに鳴き始めた。青藍を取られたことに抗議しているのだろう。魔力が吸えない、と。
 まるで乳を取り上げられた赤子だ。

「現金なものだな」

 危険、と言った口の根も乾かぬうちに寄越せとは。まるで敵対心を剥《む》き出しにした翌日に尻尾を振って擦り寄って来る貴族どもを見るようで胸糞《むなくそ》悪い。
 あれか? 死なせかけたから預けてはおけないと?
 それこそ間違いだ。これは元々私のものなのだから。私が貴様らに貸し与えているだけなのだから。


 ――オ前ノ 望ミ ハ 叶エタ。


「私の、望み?」

 不満げな色で返された抗議に、紅竜は首を傾げた。

 望みとは何だ。私は何を望んだ?

 幼いあの日、この闇は大人が後生大事に隠している宝だった。見つけることができれば願いを叶えてくれるのだと……誰からその話を聞いたのかは未《いま》だに思い出せないが、その話を鵜呑みにした私は確かに封印を解いた。解いて、「何か」を手に入れた。
 だが、何を望んだのだろう。
 王になることか?
 人々の上に立つことか?
 争いのない、全てが均一の世界を作ることか?


 ――ソウ。ソノタメニ 弟ガ 必要ダ。ダカラ、


 そうだ。弟だ。
 キャメリアは捕まえることができなかったが、弟は逃げる前に隷属するよう呪いを刻み込んである。たったひとりでも認めてくれれば、それは自分《紅竜》が存在した証になる。

 閉じ込めてしまえばいい。
 そうすれば私のものになる。
 弟も、この世界も。手に入らないと思っていた全てが。

 どう足掻《あが》こうと、何処《どこ》まで救いの手が伸ばされようと、弟は私のもとに戻って来る。戻って来て、


 ――弟ノ 魔力ヲ 我ニ 捧《ササ》ゲヨ。
   ソレデ 貴様ノ 望ミハ 叶ウ。



 そして、失う。

 紅竜は抱え込んだ弟を見下ろした。




 何かがおかしい。
 紅竜の脳裏をそんな言葉がよぎる。
 何もかもが上手くいっている。思い通りにことは進んでいる。なのに、その傍《かたわ》らで反発する自分がいる。

 弟を差し出せば、私の望みは完了する。
 だが私を肯定する弟を失うと言うことは、私の存在が否定されることではないのか?


 ――違ウ。モット 大勢ガ オ前ヲ 認メル。


 声が聞こえる。


 ――オ前ハ ソレヲ 望ンダ。


 望んだのか、この私が。
 弟を失って得られる「大勢」を。顔もはっきりとしない「傅《かしず》く者」に囲まれて、偽物の玉座に座ることを。
 何処《どこ》かの姫が「民もいないのに王だけいるなんて滑稽《こっけい》だ」と言ったそうだが、今の自分にも同じことが言えるのではないのか?

 いや、民はいる。
 家臣もいる。
 あの姫が皮肉った王と私は違う。だが。





 考え込む兄を見上げるように、弟は顔を上げた。
 薬漬けにしていた今までは意識が何処《どこ》にあるのかもわからない顔をしていたが、連れ回しているうちに香《こう》も抜けたのだろう。兄と認識《にんしき》したのか、また飼い犬《グラウス》と見間違えているのかはわからないが、確かに其処《そこ》に相手がいる顔でふわりと微笑《ほほえ》む。

 紅竜は息を呑んだ。
 この弟に微笑《ほほえ》まれたことなどなかった。彼が笑顔を向けるのは戦術師範だったアンリと、ノイシュタインに行ってから終始貼り付いている糞忌々《くそいまいま》しい犬と、影の薄い人間の小娘だけで、実の兄で保護者でもある自分《紅竜》に向けられるのは笑っているようで全く笑っていない作りものの顔ばかり。
 それが。

「……どういう心境の変化だ?」

 聞いたところで「兄上」とだけ口にするように指示したばかりの口から、その理由が語られることはない。指示を解けばいいのだろうが、この笑みで心にもないことを並べられるくらいなら今のままでいい。

 あの日もこうだった。紅竜は青藍を見下ろしながら昔を思い出す。
 あの日。飼い犬《グラウス》の命をちらつかせて弟に忠誠を誓わせたあの夜、それでも自分のものにはできなかった。手に入れたはずの小鳥は隙《すき》を見てあっという間に逃げ出してしまった。逃げたところで戻ってくるとは言え、それは体だけ。私の傍《かたわ》らにありながら、心が私に寄り添うことはない。
 今だって同じではないのか? 力でもって逃げ出すことができないから、私を騙そうとしているのではないのか? なんせ私は一度はお前を……。

 紅竜は弟を支えていないほうの手で、その左手を――魔力封じの指輪を嵌《は》めた左手を――持ち上げる。




 ――早ク。
 ――早ク。

 闇の声がやかましく催促を繰り返す中、紅竜は弟を抱えたまま考え込んでいる。
 この笑みには意図があるのか、赤子のようにただの表情筋の弛緩《しかん》によるものか。ただ確かにその目は自分に向いていて、だからこそ全てを――過去も、これからさせようとしていることさえも――許してくれているような錯覚に陥《おちい》りそうになる。

「この期《ご》に及《およ》んで命乞《ご》い……をお前がするとは思えないが」

 意図があるとすれば?
 弟《青藍》は城内で犬《グラウス》に会った。あの犬《グラウス》とどんな関わりがあったかは綺麗さっぱりと忘れてしまっているはずだが、それはあくまで第三者の見解に過ぎない。もしかすると朧《おぼろ》げに覚えているかもしれないし、あれだけ嬉しそうに駆け寄ってくる相手なら、何か思うところがあっても不思議ではない。
 何か。
 例えば、もう1度会いたい、とか。

 過去に何を望んだかを思い出せずにいる自分《紅竜》のわだかまりと同じものを、記憶を失っている青藍が抱いていないとは言えない。
 どう見ても自分《青藍》を知っていそうに見える男なら、教えてくれるかもしれない。そのためには再び会う必要があり、今、死ぬわけにはいかないと……薬漬けの意識下でそこまで考えたとは思えないが。


『――あなたは認められたいのよ』


 再び聞こえたキャメリアの声に、紅竜は窓辺を振り返った。
 だが今度は幻すら見えない。見えないのに声は鮮明に聞こえた。

「……お前か?」

 紅竜は弟《青藍》を見下ろした。

「お前の中にキャメリアがいるのか?」


 以前、キャメリアはアイリスの体を借りて剣を向けてきた。それを思えば、弟の身に入り込んでいることもないとは言えない。一度は死した弟の代わりにキャメリアが。弟の魂の代わりにキャメリアが。
 いや。そんなはずはない。だが。

 まだ今生《こんじょう》に未練があるのか?
 そうまでして私に怨みを抱いているのか?
 妹《アイリス》を娶《めと》ったことか?
 彼《か》の家を支持する大部分の貴族をこちらに取り込み、孤立させたことか?


「……何が言いたい」

 苛立《いらだ》ちが、握ったままの弟の手に集中する。
 ギリギリと握り込んでも弟の笑みが消えることはない。

 怨《うら》むのならお門違《かどちが》いもいいところだ。彼《か》の家が置かれている立場は彼らの努力が足りないせいに他ならず、むしろ衰退の一途《いっと》を辿《たど》る一方の「器だけが立派な旧家」を昔のよしみで拾ってやったことに感謝するところだろうに。

 弟に向けていた視線を、紅竜は再び巡らせる。
 キャメリアの剣は此処《ここ》にはない。
 弟自身も魔力を封じられているから、攻撃魔法を放つことはできない。魔法に依《よ》らない攻撃を仕掛けてくることは可能だが、この細腕で繰り出す拳《こぶし》など、たかが知れている。キャメリアも晩年は騎士団などという組織にいたようだが、それは剣の腕を買われてのこと。格闘術には長《た》けていないだろう。


「確かに認められたいとは思ったが、」

 思えば、キャメリアが騎士団に入り平民どもに混じって暮らしをしていたのも、認められたかったからなのかもしれない。
 剣技の才があったのは初耳だが、貴族令嬢には不必要な才能。おしとやかに、上品に、と型にはめたような令嬢像を押し付けられ、そうふるまうしかなかったこの世界はさぞ窮屈だったに違いない。
 ただそれだって、この家に来れば多少の自由は与えてやれた。私は彼女を幼い頃から知っているのだから。

「……他者の称賛など結果を積み重ねればおのずと集まって来るものだ。そして今の私がある」

 誰かに認められたいと、「この私が」闇にそう願ったというのか?

 いや。
 つい先ほどまで望みは何だったか、と考えていたのは確かだが、たったひとつしか叶えられない、と思っていた願いを「誰かに認められること」にしたとは思えない。
 いくら子供の頃とは言え……いや、子供の頃だからこそ私は認められていた。私の将来を見越した大人どもは寄ってたかって媚《こ》びへつらい、争うように美点を拾い上げて(あるいは捏造《ねつぞう》してでも)称賛してきた。

 むしろ認められていないと感じるのは今のほうだ。
 当主として第一に考えねばならないことは家の存続と繁栄。見返りを求めて勝手におだてて来る連中の期待どおりに動いては、この家は食い尽くされてしまう。保身に走るのは勝手だが、事実を捻じ曲げて自身の正当性を叫んだところで、それを擁護する義理はない。

 そんな奴《やつ》らはいらない。魔界貴族の癌《がん》など、排除したほうが魔界のためだ。
 絶対的な王がいないから、そうした「権力に実力が見合わないクズども」を片付ける術《すべ》がない。だから私が汚れ役をしているのだ。

 私の行動を認めない者は後ろ暗いことがあるからだ。
 己《おのれ》の実力が権力に釣り合っていないことを知った上で、その権力にしがみつくことしか思いつかない無能ども。そんな無能どもを排除してしまえば、残るのは優秀な者に限られる。
 彼らは私の働きに心から賛辞を贈るはずだし、そうなって初めて、真の意味で認められたと言えるだろう。


 ――ソウダ。オ前ヲ 認メナイ 輩《ヤカラ》 ナド 消シテ シマエ。


 闇の声が聞こえる。


 ――己《オノレ》ダケガ 大事ナ 貴族ドモ ヲ。
 ――年功ト 権力ヲ 笠《カサ》ニ オ前ヲ 従ワセヨウ ト スル 親族 ヲ。
 ――勝手ニ 動キ回ル 家臣 ヲ。


 畳み掛けるように怨みを積み上げていく。

 そうだ。だから皆いなくなってしまえばいい。
 私にはそれができる。全てをリセットして、新たな魔界を作っていける。


 ――破戒ヲ。


 そして創造を。





 ……そう言えば。
 耳元でがなり立てる闇の声を聞きながら、紅竜はふと違和感を覚えた。
 城内が静かだ。
 よもや今しがたの「皆いなくなってしまえ」が本当になったわけではあるまい。
 昔、物語の中で、我が儘《わがまま》な主人公を懲《こ》らしめるために魔法の道具を使って誰もいなくなったように見せかけ、世界にたったひとり取り残された不安から自分の過去の行いを改心させる、という話を読んだことがあるが、もしそれをなぞらえているのだとすれば心外だ。

 だが、そんな子供向け創作話は置いておくとしても、城内のあちこちの様子が手に取るように頭の中に流れ込んでいたのに、今は何も見えないし聞こえてこない。
 犀《さい》の音信が途絶えていることに関係があるのだろうか。確か前当主の部屋付近にいたと思ったが……。


『何も。私は仕える家が滅びないようにするまでのことでございます』
『そのためなら当主をも欺《あざむ》くか?』
『|滅相《めっそう》もない』


 以前、当人に同じことを聞いた時には、曖昧《あいまい》に誤魔化《ごまか》された。
 あの男《犀》にとっての主《あるじ》はあくまで父《前当主》。百歩譲ってその奥方。
 彼らが当主の座を|自分《紅竜》から取り上げるつもりで青藍を生んだのだとすれば、犀《さい》も当然そのつもりで動く。現に犀《さい》とアンリという父にとっての両腕を、父は弟の養育に就《つ》けている。
 執事長の位にありながらフラフラと出歩いていたのも、父の意向が入っているらしいと聞いた。
 本人《犀》に聞いてもノラリクラリとかわすばかりで一向に埒《らち》が明かないし、犀《さい》以上の働きができる執事に恵まれなかったせいで大目に見てきたが……。

「……………………やはり騙したのか? 私を」

 奴《やつ》め。父《前当主》と共謀して何を仕組んだ!?



 今の静けさは普通ではない。
 そう思えば、闇が妙に焦っているようにも感じる。


 ――早ク。
 ――早ク。


 紅竜は握っていた弟の手を放し、誰もいない壁に向かって閃《ひらめ》かせた。
 床を這《は》っていた蔓《つる》が首をもたげ、次の瞬間には壁に突き刺さる。

 だが違う。
 反応が鈍い。以前はもっと素早く動いたはずだ。


「何があった」


 ――弟ヲ 寄越セ。ソレデ 全テ 解決スル。
 

 問い質《ただ》しても、闇からの返事は的を得ない。


 ――ダカラ 弟ヲ。
 ――儀式 ヲ。


 それが余計に切羽詰まっている感を覚える。



 何があったのかはわからない。だがこの城には確かに自分に反する者がいる。犀《さい》然《しか》り、犬《グラウス》が引き連れて来た連中然《しか》り。そしてその内のひとりは勇者で、もうひとりは聖女。どちらも才能があるようには見えない、冴えない顔をしていたが、だからこそ自分の想像し得ないことをしでかしたのかもしれない。


 ――誰モ 彼モ。
   オ前ヲ 捨テタ きゃめりあヲ 消シタヨウニ、消シテシマエ!


 猶予《ゆうよ》はない。
 紅竜は奥歯を噛み締めた。
 のんびりと構えているうちに、何時《いつ》の間にか逆転されていたとでも言うのか?
 私が負けると言うのか?


 ――弟ヲ、


 だがこちらにはまだ切り札がある。
 反応が鈍くなったとは言え、声はまだ私に応《こた》えるし、力も与えてくれる。封印はまだ解かれている。
 生贄《いけにえ》の魔力を捧げれば、いくらでも挽回《ばんかい》は可能だ。過去の連中は「ひとりが強大な力を持つこと」を懸念してこの力を封じたらしいが、そんな「お手手繋《つな》いでみんな同じ」なんて生温《なまぬる》い考えが今の腐った魔界を作ったのだと何故《なぜ》わからない!
 今のままでは無能の台頭を許すばかり。
 無能はいらない。才能こそ全て。それが、本来の魔族の考え方だったろう?


「青藍」

 紅竜は自分をずっと見上げている弟を見下ろす。
 そこにキャメリアの面影はない。彼女が乗り移っていたと思ったことも錯覚だったのかもしれない。
 いや、乗り移っていても構わない。弟の中にある魔力までは、死者とてどうすることもできないのだから。

「私のために、死んでくれるな?」




「……兄上」

 弟《青藍》が口を開く。
 
「兄上はそれで宜《よろ》しいのですか?」


 流石《さすが》に回復するには十分な時間が経《た》っているらしい。見れば、意識もはっきりとしているような顔をしている。
 辛《かろ》うじて目元に笑みは残っているけれども、何処《どこ》か案じているように見えるのは、つい今しがた口にした問いのせいだろう。前述したが、弟の魔力を封じている指輪はその力を外に出せなくするのみ。自身の体力や疲労を回復させ、毒《薬》を抜き、完全な状態に近付ける「回復力」には影響しない。

「何が言いたい」

 やはり命乞《ご》いか?
 たったひとりの弟を闇の餌にすることに良心が痛まないのか? と聞きたいのか?
 だが、どう問われようとも今更私は意思を違《たが》えることはできない。


 弟を犠牲にしなければならない状況を前に大抵の兄は痛むと答えるのだろう。
 しかし弟が生まれ落ちた時、私は既《すで》に成人していて「共に育った」とは言い難《がた》かった。感覚としては年の離れた弟と言うよりも遠い親戚の子供、いや、近くに住んでいてよく顔を見るだけの赤の他人、と言ったほうが近い。しかも次期当主の座をかけて競《せ》っていたのだから、抱《いだ》く感情も非好意的になると言うもの。
 弟の気性ならば私を蹴落として当主に上り詰めるつもりなどなかっただろうが、犀《さい》やアンリを始めとする周囲の者がそれを許さなければ同じことだ。

 確かに弟は犀《さい》から私以上の知識を授かり、アンリから私以上の戦術を学んだ。
 虫も殺しそうにない顔の裏で謀略を練り、たったひとりで行動し、敵を壊滅させることも、与えられた知識と彼自身の持つ魔力があれば可能。記憶を失くしたことで甘い考えをしなくなった弟ならば、なおのこと片腕として役立ってくれることだろう。


 だが、私はそんな弟でも切り捨てることができる。

 予想外の笑みに絆《ほだ》されて延命を選びそうになった過去の自分に「ほらみたことか」と嘲笑《ちょうしょう》を向け、それすら顔には出さずに紅竜は弟を見下ろした。

 弟はただ犠牲になるわけではない。私が進む道を盤石《ばんじゃく》なものにするための礎《いしずえ》となるのだ。
 そして礎《いしずえ》となった後《のち》は闇と同化する。
 父や第二夫人、キャメリア、ジャンにメリサの後を追え。いずれそう遠くないうちにアイリスや犀《さい》、アンリ、そして義妹《ルチナリス》や飼い犬《グラウス》も送ってやろう。


 ――ソウダ。全テハ 無ニ 還《カエ》ル。

 
 他者と争うこともない。
 他者と比べられることもない。
 少なくともあのモブ娘《義妹》は喜ぶだろう。生まれ落ちた時から散々他者と比べられ、その度《たび》に自分の不幸を実感してきたのだから。
 比べられることがないと言えば、今の腐った貴族どもの考え方にも通じる。可もなく不可もなく、無能も有能もなく、皆で仲良く混ざり合ってしまえばいい。



「兄上、」

 ああ、その目。
 10年以上前、あの犬を庇《かば》って私の前に立った時の目とそっくり同じじゃないか。
 お前でも私の意思を完全に汲《く》むことはできないのか?
 私がなし得ようとする未来は、決して私ひとりが益《えき》を得《う》るためのものではない。むしろ魔界全土に等しく幸福をもたらすであろうこと。そしていずれは人間界にもその余波を届けることができるであろうと言うのに!

「義妹《いもうと》と犬は見逃せ、と? お前に会いたいばかりにこんなところまでやって来るのだからむしろ望んでいるのではないのかい?」

 そう、義妹《いもうと》だけではなくあの犬も。
 生きているうちはどうしたところで手に入らない天上の鳥を欲した獣だ。分不相応な望みを叶えてもらえて有難《ありがた》いと涙を流して感謝こそすれ、歯向かうなどお門違《かどちが》いも甚《はなはだ》だしい。
 だがそれも許そう。愚かな獣の知恵など私の考えになど及びもしないから、目先のことに囚《とら》われて青藍を奪い返すことしか思いつかないのだ。
 奪い返して何になる。追われ続け、陽の下を歩くことも、定職について賃金を得ることもできず、疲弊と貧困で体力と精神力を削られた挙句《あげく》に野垂《のた》れ死ぬだけ。
 その過程で奴《やつ》は必ず青藍を手に入れたことを後悔する。日陰《ひかげ》者になる原因となった青藍を逆恨《さかうら》みし、呪いの言葉を吐くようになる。
 そんな不幸な未来を選ぶくらいなら、


 ――ヒトツ ニ ナッテ シマエバ 手ニ 入ル。


 そうだ。身の丈をわきまえずに抱《いだ》いた手が届くはずのない願いが、私なら与えてやれる。ひとつになってしまえば伸ばした手の先にある距離を感じずに済む。
 いわばこれは救済だ。
 かの聖女にすらなし得なかったことだ。


「だから、」
「兄上がそれで宜《よろ》しいのなら」

 弟は再び笑みを浮かべた。

「私は兄上のために生まれ、兄上のために生き、兄上のために死ぬ運命《さだめ》と心得ております」
「……そうか」

 あっけない肯定には少々、いや、かなり拍子抜けした、と言っても過言ではない。
 幼い頃から反抗の芽を摘んでおいた甲斐があったというべきか、隷属する呪いが未《いま》だに解けていないだけかはわからないが、弟自身は私《兄》のためにその身を差し出すことには何の抵抗もないように見える。
 だが、義妹《いもうと》と飼い犬に対しても、それが彼らにとっての最良だとわかってくれているのだろうか。「私は」という台詞《セリフ》からして彼らが巻き込まれることは別と思っている節がないわけではないが……何にせよ、抵抗もしないというのならこちらが気に病むことなど何もない。妙なところで正気に返って死に物狂いで抵抗される前に、また絆《ほだ》されそうになる前に、ケリを付けてしまえばいい。


 ふたりの周囲を蔓が取り囲む。
 輪を狭《せば》めて来る。
 指示すればすぐにでも弟に絡みつき、その魔力を搾《しぼ》り取るのだろう。むしろ今まで遠慮したことなどないのに、今回に限って遠慮しているように見えるのが可笑《おか》しい。生きて話ができる最後だから、と気を使ってくれているのか……植物まがいの見てくれの奴《やつ》にそのような配慮ができるとは思ってもみなかったが。


「兄上がお望みなら」

 蒼い瞳が紫がかった紅《あか》に染まっていく。

「いいのか? あの犬が泣くかもしれないぞ?」
「犬、とは?」
「………………いい。知る必要のないことだ」


 ついそんなことを口にしたのは、犬《グラウス》に対する対抗心か。決して弟が自分を拒絶するはずがない、最後には犬《グラウス》よりも実の兄を選んでくれるに違いない、という願望からか。
 だが懸念《けねん》は懸念《けねん》でしかなかった。
 弟の中にはもう「義妹《いもうと》」も「飼い犬《グラウス》」もいない。だから彼らの名を出したところで何の反応もなかったのだろう。
 まぁ、そんな些末《さまつ》はどちらでもいい。ただ、私を選んだことだけが間違いない事実として此処《ここ》にあればそれでいい。


「お前は本当に私のものになるのだな。その身も、決して従わなかったその心までも」


 見てごらん、キャメリア。やはり私は正しかった。
 他に誰もいない世界なら、この弟ですら私を見る。微笑《ほほえ》んでくれる。




 弟《青藍》は身を起こすと兄《紅竜》に手を差し伸べる。
 兄はその手を取り、そして取り直す。先ほどまで自身が座っていた玉座の対局の壁にある巨大な鳥籠に――否《いな》、鳥籠のように見える蔓の檻《おり》に導く。

 この下に闇の封印があった。何百年もの昔、声に導かれるまま床に描かれた魔法陣の輪を切った。
 子供の手で簡単に切れる程度の魔法陣が長老衆が何度も繰り返し聞かせてきた件《くだん》の「闇の封印」だとは思えない。きっとあの声は「何でも願いを叶えてくれる」というあの稚拙《ちせつ》な誘い文句で何人もを呼び寄せては、少しずつ封印を解かせていたのだろう。たまたま私の順番が回って来た時に解けたのだろう、とそう思っている。
 あの日、途端に噴き上がった黒い霧が瞬く間に固まって椅子と鳥籠を形作った。椅子に座れば闇が知る全てを知ることができ、世界中に散った蔓があらゆる情報を教えて来た。

 そしてもう片方の鳥籠――これは以前、弟を幽閉していた時にも使っていたもの。闇は弟の魔力を糧《かて》に力を付け、その力で私はさらに強くなった。
 あの女狐《第二夫人》の策にはまって弟を魔王役などのために奪われることがなければ、もっと早くに全てが終わっていた。
 

「兄上、」

 鳥籠の手前で弟が手を引く。振り返れば、妖艶《ようえん》な笑みを浮かべている。
 折《おり》しも瞳の色は紫。「私の小鳥」の色だ。弟の中にいる、闇の寵愛を受けたもうひとりの色だ。

「兄上」

 弟はわたしの手を離し、かわりに首に両腕を巻きつけて来る。
 物欲しそうな目で私を見上げる。とうに抜けているはずの香《こう》が、微《かす》かに匂った気がした。


 表の顔の弟は、ずっと私と共にいながら、私を視界には入れていなかった。
 初めて出会った5歳の頃はあからさまに目を逸《そ》らされていたほどだ。後ほど、それは未熟な魔眼の誤発動を防ぐため――つまりは私を魅了させないため――だと説明を受けたが、何十年も経《た》ち、自らの魔力を制御《コントロール》できるようになっても弟は決して私を正面から見ようとはしなかった。
 横や背後から視線を感じても、見返せばさりげなく逸《そ》らされる。正面に立っていても弟の目線は私のタイより上に行くことはない。
 1度だけ。そう、1度だけだ。あの犬《グラウス》の処分をほのめかした時に必死に食いついて来た。あの時だけは私を直視してきた。無論、目の色が変わるわけもなく、魔眼をつかって私を操ろうなどという姑息《こそく》な策を頼ってのことでないことは推測できた。できたけれども、たった数時間話をしただけのあの犬《グラウス》がそんなに大事か、と……そう思ったことも確かで。
 だからあの日、怒りのままに組み伏せて、弟の中に闇を注ぎ込んだ。
 私の小鳥はあの夜に生まれたのだ。
 私のために。私のためだけに。


「……お前が本当の青藍ならよかったのかもしれないな」

 紅竜は腕を外すこともなく、その頬に自身の手を滑らせる。
 わかっている。
 今目の前にいる紫の目をした弟は偽りの姿。私のために生まれて、私のために生きる……まるで先ほどの弟の台詞《セリフ》のようだ。そう思えばこそ、あの台詞《セリフ》は「小鳥」が弟の口を借りて言わしめたのではないかとすら思う。
 しかし表の顔の弟を生贄《いけにえ》に捧げると言うことは、「小鳥」も捧げるということ。こればかりは仕方がない。きっと「小鳥」も最期《さいご》だということがわかっているのだろう。名残を惜しんでいるのだとすれば、かわいい所もあるじゃないか。

 贄《にえ》にすることが決まっていたから性的な意味でその身を穢《けが》したことは1度もないが、何と言っても傾国《けいこく》の美女と揶揄《やゆ》された第二夫人の血を引き、男身ながらその容姿をも引き継いでいる。そして「小鳥」は誰よりも私だけを想ってくれている。
 それを思えば、手を出さなかったのはお互いに勿体《もったい》ないことをしたのかもしれない。生まれが違えば結ばれる未来もあったのかもしれない。と、まるで地鎮《じちん》のために恋人を生贄に差し出さざるを得ない状況に置かれたような、そんな悔《くや》しさすら湧いてくる。
 不思議だ。
 私には物心ついた頃から許婚《キャメリア》がいたというのに、彼女に対して「惜《お》しい」という気持ちを抱いたことはなかった。彼女が失踪した時でさえ。
 

 きっとキャメリアとは近すぎたのだろう。
 恋人よりも前に私たちは兄妹だった。子を生《な》せないと言われていた彼女をそれでも娶《めと》ろうと思ったのは彼女の幸福を願ったからだが、その幸福は「女として」ではなく「人として」のものだった。子を生《な》せないことで浴びせられるであろう心ない中傷から彼女を守りたかった。
 だが小鳥は違う。
 確かに私は「青藍」の幼い頃も知っているが、あれは私を避ける「弟」で「小鳥」ではない。だから私と小鳥は兄弟ではない……などと言うのは、屁理屈でしかないのかもしれないが。


「しばらくの辛抱だ。いずれは私ともひとつになれる」

 闇が全てを覆い尽くせば。
 全てを無に帰《き》してしまえば。
 その時は私も闇のひとつとなる。先に処分した長老衆や貴族ども、使用人などとも混ざらざるを得ないことだけが不満だが、小鳥とも今度こそは――。

「お傍《そば》におります。永遠に」
「そうだな」

 今になって思えば、私は既《すで》に何処《どこ》かでこの弟に魅了されていたのだろう。 
 あの小娘《義妹》も同様なのに犬《グラウス》ばかりを目の敵にしていたのは、私が叶わなかった「ずっと弟の隣で守り続ける役割」を当然のように享受していたからなのだろう。




 ――待テ!

 その時、ずっと偉そうに語りかけてきていた声が悲鳴に似た声を上げた。
 重いぬかるみの中にいるようだった空気が一瞬で凍りつき、音を立てて砕け散ったような、そんな緊張が部屋全体に走る。

 今度は何だ。
 いいところなのに水を差すな、と言うリア充じみた考えがよぎり、その不愉快さのまま紅竜は周囲に目を向ける。
 弟に絡みつかんと取り巻いていた蔓が身を縮《ちぢ》めて動きを止めているのは別にいい。闇にくれてやる時間が向こう《闇》の都合で遅れる分には一向に構わない。

 他には……特に変わったところはない。こちらに向かっている犬どもが乱入してきたわけでもなく、足音が近付いているわけでもなく。
 犀《さい》やアイリスの動向は情報が入って来ないから、もしかするとそちら側で何か起きたのかもしれないが、隣町で家の柱を食い散らかしている白蟻《しろあり》被害が此処《ここ》まで届くことなどないように、この部屋に何もないのなら騒ぎ立てるのも馬鹿らしい。

 紅竜は首に巻きついている弟の腕に手をかけ、ゆっくりと解《ほど》く。
 こちらの工程は弟の身を鳥籠の中に放り込むことを残すのみ。止めればその分、邪魔が入ってくる率も上がる。さっさと、と言うのは実に惜しいが、叫んで儀式を止めるよりも弟を食らって完全体になるほうが早いだろうに何故《なぜ》止める?

 だが。

 ふと感じた違和感に紅竜は自身の手を見た。
 弟の腕を掴《つか》んでいる感触はある。だが自身の手、そのものがない。手首から先が溶けたように消えてしまっている。
 そして異変は手だけではなかった。足も膝から下が黒に覆《おお》われてしまっている。
 だがこちらは手のように消えてしまったわけではない。膝までの黒い水に浸《つ》かっているように、黒い霧状のものが足下に溢れているせいで見えなくなっているのだ。

 霧がその濃度を増していく。
 海面から水蒸気が立ち上るように、空気中にもその色を撒き散らしていく。
 
 これも犬たちの仕業《しわざ》なのか?
 それとも闇が弟を欲しているだけなのか?
 ならば何故《なぜ》私の手にまで影響が出ているのだ?


 ――待テ。ソイツハ。


 声が聞こえる。
 霧は今や部屋全体を覆ってしまった。すぐ先にある鳥籠の入口すら見えない。


「兄上」

 弟の声がする。自分にしがみつく感触に、紅竜も見えないままその身を抱き返した。
 もしこの霧が犬どもの仕業《しわざ》なら、これに乗じて弟を奪われるかもしれない。部屋に入って来る気配など感じなかったが、蔓《つる》の感覚を共有できない今、見逃した可能性も高い。
 「入って来たぜ!」とばかりの激しい自己主張と共に飛び込んで来る侵入者など、そもそもいるわけがない。いくらあの連中が愚かでも。


 ――ソイツ、ハ……!


 叫び続けていた声が途切れた。

 そいつ、とは誰だ。
 この部屋に、私たち以外に誰がいると言うのだ。



 そんな中で、周囲を覆う霧に、ぽつんとひとつ、光が灯《とも》った。
 自分たちのいる場所から2メートルほど離れた場所。黒い霧のせいで床も壁も曖昧に混ざり合った状態だからか、それが床なのか壁なのか、それとも空中なのかも定かではないが、確かに光として其処《そこ》にある。
 暗闇に差し込む光に救いを感じるのは、闇に染まった身でも同じらしい。今の意味不明な状況を打開してくれるような――。

 実際、その光は打開してくれた。
 徐々《じょじょ》にその強さを増し、周囲の霧を打ち消していく。
 打ち消されれば部屋の中が見えて来る。
 人影はない。部屋の中にあるのは無数に這《は》い回る黒い蔓《つる》だけだ。その蔓が、光に接するや否《いな》や、引き千切《ちぎ》られるように粉々に崩れていく。
 光の出所はまだわからない。いや、部屋全体に広がってしまった今、出所に何の意味があるだろう。
 

 視界を覆い尽くしていた光はやがて溶けるように収束した。今は雪蛍《ゆきほたる》程度の明るさで室内を照らしている。
 蔓《つる》も壁に沿って残る程度。流石《さすが》に鳥籠や椅子のような塊は残っているが、先ほどまで青藍に絡みつこうとしていた蔓は一口大に引き千切《ちぎ》られ、散らばっている。
 塞《ふさ》がれていた窓から差し込む月明かりと、なお残る光のせいで、少し前とはまるで光景が違う。
 黒から白へ。
 闇から光へ。
 晴れ晴れと……と言うのも不思議な感じがするが、ここ数年ついぞ感じたことのなかった爽快感まで感じるのは、馴れたとは言えあのグチュグチュと鳴る蔓に未《いま》だ嫌悪を抱いていた証拠だろうか。
 だが、これは一体、


 ――ソイツハ……敵ダァァァァァァアアアアア!!


 紅竜の思考はそこで止まった。
 闇の上げる金切り声を掻き消すように、紅竜の足下に魔法陣が現れる。
 闇を封印していたあの陣に似ているようで微妙に違うその魔法陣の外周に沿《そ》って、先ほどとは比べ物にならないほどの白い光が迸《ほとばし》った。




 この魔法陣は何だ? その問いに闇の知識が回答を示す。
 この魔法陣は消滅の陣。闇を消滅させるためのもの。聖女の持つ光魔法に四大元素を組み合わせて初めて発動できる――。

「聖女だと?」

 聖女と聞いて思いつくのは弟の義妹《いもうと》を自称していたメイド服のモブ娘だが、あの娘がしでかしたと言うのか?
 だが見回しても聖女はいない。先ほどの光であらかたの蔓《つる》はなくなってしまったし、その後に残された瓦礫《がれき》に人が隠れられるほどの大きさはない。この部屋の調度品は全て壁に取り付けられているものばかりだから、やはり隠れられない。
 階下で陣を描いたのだろうか。
 いや、階を跨《また》いだ魔法陣など聞いたこともない。そんなことが可能なら、勇者どもはこぞって雑魚《ざこ》しかいない低階層でラスボスを倒す魔法陣を描くはずだ。


 魔法陣から際限なく生み出される光の奔流《ほんりゅう》は、今や光の柱となって天井にまで達しようとしている。床に残っていた細切れの蔓も、光に包み込まれるやフライパンの上で跳ねる肉片のように飛び回り、あっという間に消滅した。
 無論、自分たちも例外ではない。光は稲妻と化して体の表面を走り回っている。針で刺すような痛みと、小さく弾ける火花の群れ。このままこの中にいれば蔓の二の舞になることは間違いない。
 この光は「闇を消滅させる魔法陣」が生み出した光。闇の力を得た者の身も標的になる。


『――ソイツ ハ』
『敵』


 紅竜は抱き寄せたままの弟を見下ろす。
 ソイツと言うのは、敵と指したのは、弟のことを言っているのか? この魔法陣は弟が発動させたのか?
 だが人間と魔族の混血で、しかも男身でしかない弟が、どうして聖女の力を操れよう。加えて、弟の魔法属性は炎だ。水と風と大地は何処《どこ》から持って来た?

 風のジルフェは犀《さい》と懇意にしている。
 奴《犀》が頼めば風の加護を重ね付けするくらいはするかもしれない。今回の件に犀《さい》が噛んでいればの話だが……前当主の部屋での不審な動きから言っても、第二夫人と本家との取り次ぎの一切《いっさい》を犀《さい》ひとりでしていたあたりからしても、噛んでいないはずがない。
 水の精霊・ウォーティスは加護をバラ撒くのが趣味だ。魔族にやたらと水属性が多いのは、赤子が生まれるや否《いな》やあの精霊が加護を置いて行くせいで他の属性に入り込む隙がないのが要因だと言う。
 青藍が生まれる時は、事前にサージェルド《炎の精霊》に加護を授けてもらえるよう話をつけていた(そんなことが可能なのかは知らないが)と聞いているが……その前にウォーティスが黙って加護を置いていったかもしれない。いや、置いていくことまで見越して、その上で、炎の加護を授けさせたに違いない。
 サージェルドがグルだったか、犀《さい》にいいように言い含められたかは知らないが、同じ精霊種からの頼みだ。断りはしない。

 大地は?
 メイシアは四大精霊の規則に従って眠りについていた。火急の用が起きた事態に備えて力を蓄えた結晶を残してあったが、その結晶は先日、ロンダヴェルグ襲撃の際に破壊した。襲撃の首謀者はこの弟だったからその時に吸い取ったのだろうか。
 しかしそれでは大地だけ計画性がない。
 私が襲撃命令を下そうが下すまいが、弟(と弟を操る父の息のかかった者)はあの結晶を破壊するつもりでいたのかもしれない。たまたま重なっただけのことで。

 だが光。
 しかもただの回復魔法ではなく聖女の力だ。どうやって弟が、


「……全ては私が生まれる前から決まっていたのです、兄上」

 顔を上げないまま弟が呟く。

「な、んだと?」
「聖女の力は母上から、大地の力はルチナリスから預かりました。それだけの力を蓄えられるよう、桁外れの魔力を持たせたのは父上です。流石《さすが》に全部預かるのは荷が重すぎたようですが」

 苦しそうなのは自分の許容量《キャパシティ》を越えた魔力を使っているせいなのか。
 私と共にこの場に留まっているせいで弟も光の攻撃を受けている。その痛みに耐えているからなのか。

 そう言えばあのモブ娘《ルチナリス》が大地の加護を受けたと伝え聞いていた。首を絞めて命が危険に晒《さら》された時でさえその力が発現することはなかったから放置していたが、もしかすると大地だけは後から受け取る予定だったのかもしれない。
 そう考えればキャメリアがロンダヴェルグにいたのも、ただの偶然ではないように思える。
 私に剣を向けてきたことと言い、彼女は私を消すことには賛同している。何処《どこ》かでこの計画を聞き、加担したとも考えられる。あの失踪もそれが理由か……今となっては確認のしようもないけれど。
 キャメリアがロンダヴェルグを拠点に選んだのは、メイシアの膝元で大地の加護を受けた誰かを探し出し、青藍の元に連れて行くためで。あの娘《ルチナリス》が誰の加護をも受けていないことを知り、メイシアに加護を与えるよう仕向けたのかもしれない。
 メイシアはグラストニアであの娘《ルチナリス》を守ったと聞く。気に入った相手なら加護を授けようという気にもなる。

 そして聖女の力は。

「母……第二夫人か!?」

 やはり父が顔だけの女を選ぶはずがなかった。きっと父は、あの女狐が聖女であることを知った上で迎え入れたに違いない。
 前《さき》の聖女は別の生業《なりわい》を続けるために正体を隠していたと言う。司教をはじめとする数人しか知らなかったらしい。聖女だと知られていてはできない生業《なりわい》――第二夫人はグラストニアで歌を歌っていたことを考えれば合点《がてん》がいく。
 そして外見で判別できなかったとしても、聖女の力は魔族をも滅する力。そんな危険が城内にいて誰ひとり気付かなかったのか、と思うところだが、感じ取らせないよう細心の注意が払われていたのだろう。今になって思い当たる部分はいくつもある。

 第二夫人は離れの一室ではなく西の塔を与えられていた。
 弟を産んで以降、体を壊したからだとも、人間である彼女が城の魔族に襲われないように、とも、人間に好き勝手に城内を歩き回られないように、とも言われていた。その中のひとつ、体を壊したという理由から、魔族の気に当てられないよう西の塔には結界が張られていたが、それこそが彼女が聖女であることを城の者に――正確には私に――悟《さと》らせないためだったのではないだろうか。
 知っていたのはせいぜい犀《さい》くらいだろう。アンリも、長老衆も、親族も、今こうして打ち明けている弟ですら当時知っていたかは疑わしい。

 何と言う長い計画だ。
 私を消すためにそこまでするのか、あの父は。


「兄上は闇に深く取り込まれてしまっていたそうです。私は闇を祓《はら》うため……兄上もろとも、闇を消し去るだけのために生を受けました」


 何時《いつ》かは解き放たれてしまうであろう闇《爆弾》を完全に消すために、魔族が決して手に入れることのできない闇を打ち消す唯一の力――聖女の力を手に入れ、そして。
 闇と接触した息子《私》諸共《もろとも》消す。

 あまりの非情さに紅竜は奥歯を噛み締めた。
 私は最初から父から見放されていたということか? 確かに闇にそそのかされ、近寄ったのは私だが、父はそんな息子をあっさり切り捨てることにしたのか?
 だから弟の教育に犀《さい》とアンリを付けたのか? 私を消した後、後釜に据《す》えるために。



 ……許さない。


 ――ソウダ! 許スナ!
   オ前ヲ 見放シタ 父ヲ! 義母《ハハ》ヲ!
   オ前ヒトリヲ 犠牲ニシテ 安穏《アンノン》ト 暮ラシテイクツモリノ 魔族ドモヲ!


 闇の声がする。
 許すなと言っても既《すで》に父と第二夫人《義母》は闇の餌にしてしまっている。思いがけず復讐は終わっていたわけだが、真相を知った今となっては、もっと無残な死を与えてやればよかったと後悔ばかりが湧いて来る。


「お前も……そうなのか?」

 紅竜は腕の中の弟を見下ろす。
 過去はともかく、今、弟は両親《父と第二夫人》の策に沿って動いている。父と第二夫人に向けたかった敵意を、父と第二夫人に与《くみ》している弟で晴らすことはまだ可能だ。
 第二夫人のように生きたまま四肢《しし》を引きちぎらせることも、父のように生きたまま蔓に呑み込ませることもできる。それより残酷な方法だって思いつける。
 所詮《しょせん》、闇に食わせる命。全く、小鳥の顔で懐きながら私を謀《たばか》る隙を窺《うかが》っていたとは……あの女狐《第二夫人》の血を引いているだけのことはある。


「私は、」

 弟は顔を上げた。
 目の色は紅にも蒼にも紫にも見える。

「私は兄上のお考えが悪なのかはわかりません。兄上は確かに皆のことを考えて動いていらっしゃったし、全てが等しい世界になれば争いもなくなるというお考えもわかります。父と母が間違っているのかもしれません」
「では何故《なぜ》奴《やつ》らに従う?」

 もう死してしまった奴《やつ》らに。
 彼らの命令を完遂したところで褒美が貰えるわけでもない。
 それどころか――


 ――騙されていたのよ。従順な顔に。


 声がする。
 腕の表面で小さな稲妻が跳ねまわっている。
 布地を裂き、焦がし、刻んだ傷からさらに奥へ入り込もうとしている。


 ――|己《おのれ》の命すら危《あや》ういと言うのに。


 このまま此処《ここ》にいれば、この身は蔓《つる》同様、粉々に散るだろう。
 弟がずっと私から離れようとしないのは、私を此処《ここ》から出さないためだろう。


 ――あんなことをしたお前を、許すと思う?
 ――死ぬほど嫌だったお前を。


『いずれは私ともひとつになれる』


 違う。
 少し前に己《おのれ》の口から吐き出した言葉を紅竜は否定する。
 その「いずれ」は闇によって全てを消し去った時だ。今ではない。
 「ひとつになれる」はよく心中前の男女が「死後の世界では一緒」的なニュアンスで言いそうな台詞《セリフ》だが、実際問題、「共に滅する」ことを「ひとつになる」とは言わない。

 こうまでして、弟までもが自分《紅竜》の死を望むのか。
 少し前まで許婚《いいなずけ》以上に想いを通じ合わせる相手だと思っていた自分が悔しいやら情けないやら。紅竜は苛立《いらだた》たしげに背に回った腕を外そうと試みるが、手首から先が消えた手は既《すで》に感覚もない。

 ならば枷《弟》ごと出て行けばいい。
 紅竜は魔法陣の外に足を向ける。陣の外へは十数歩の距離だ。
 魔法陣は通常の攻撃魔法以上の損傷《ダメージ》を相手に与えることができるのが利点だが、一旦発動してしまえばその場から移動させられないのが欠点。こちらには足があるのだから陣の範囲から出て行けばいいだけのこと。
 だがそれを阻止するかのように光の稲妻が足に纏《まと》わりついた。纏《まと》わりつき、絡みつき、鎖となって紅竜の足を縛りつける。


「……私は……貴族社会をどうしようというために、こうしているわけではないのです。ただ、」


 ただ、何だ?
 いや、そんなことはどうでもいい。弟の言葉に耳を貸している暇などない。手同様、いずれは足も感覚がなくなるだろう。そうなる前に陣の外に出なくては。


「ただ、」


 何を言ったところで私を否定するのだろう?
 お前はそういう奴《やつ》だ。

 ――そうよ。

 何処《どこ》かから肯定の声がする。
 紅竜は陣の外を見る。椅子も鳥籠も魔法陣にかかった部分が消えているが、消滅したわけではない。外に出て、闇に弟を食わせれば闇は完全体になる。聖女の力に拮抗《きっこう》する力が手に入ればこんな魔法陣など……!


「……お慕いしております、兄上……ずっ……」

 弟の体から力が抜けた。
 膨大過ぎる魔力処理に意識が飛んだのかもしれない。崩れかかった弟を抱き支え、紅竜は片膝をついた。

 意識が飛んでも魔法陣は消えない。
 それより何と言った? まだ私を謀《たばか》るつもりなのか?



『ひとつになってしまえば手に入る』


 何も手に入らなかった。
 欲しいと思ったものは何も。
 自分を心から望んでくれる相手も、自分だけを見てくれる誰かも。
 魔族の王になっても、誰もが私の前に跪《ひざまず》いても、空虚さは埋められない。だがひとつになってしまえばそんな思いをすることもない。

 羨ましかったのか?
 青藍が。
 キャメリアが。
 私にないものを持っている彼らが。



「青藍。お前は、」

 母の道具としてではなく、「私と」逝《い》くつもりなのか?
 私だけのものに、なってくれるのか?




 ――騙《ダマ》サレルナ!

 声が聞こえた。
 先ほどまでよりも遠くから呼びかけられているように聞こえるのは魔法陣に遮《さえぎ》られているせいか、それともこの光によって自分の中にある闇が減っているからか。


 ――ソイツハ 敵。我々ノ 敵ダ!


 敵だろう、闇にとっては。
 紅竜は意識のない弟の身を抱え直した。

 この身を捨て置けば、自分だけならまだ逃げられる。
 だいたい魔法陣自体、弟が発動させたものだろうし、死をも覚悟しているのだろうし、だったらこのまま置いて行ったっていいじゃないか。同情で心中するつもりか? お前にはまだすることがあるだろう?
 そう囁《ささや》いて来るもうひとりの自分の声に耳を傾けていると、こうしているのが馬鹿らしくも思えて来る。
 だが見下ろせば、力を失い、しがみつくことのできなくなった手が、それでも自分《紅竜》の上着を握った形のまま其処《そこ》にあって。それが必死に縋《すが》っているようで、尚且《なおか》つ「慕っている」と言った最後の台詞《セリフ》と重なって放り出すことができないままでいる。

 弟は我々の敵。
 しかし考え方を変えれば兄《自分》と闇とを葬り去るためだけに生を受け、そのためだけに魔力を持たされ、その膨大な魔力のせいで悪しき者から狙われ続け、今こうして兄《自分》と闇を葬るために命を賭けさせられるのだから、父らの犠牲者だとも言える。
 それに弟は自分《紅竜》を認めていた。
 自分《紅竜》の考えにも理解を示していた。小鳥の時ではなく、蒼い目の――良い印象は抱《いだ》かれていないだろうと思っていた表の人格の――弟がそう言ったのだ。
 もしこの陣の発動を止めさせることができればふたりとも助かる。父たちに従って今の腐った魔界を温存することが如何《いか》に無意味か、弟ならば話せばきっとわかってくれる。そうすれば自分は最大の理解者と片腕を得ることになる。


 そしてもし、このままふたりで滅するとしたら。

 紅竜は口を引き結ぶ。
 弟だけは私のものになる。奪われることも、去られることも永遠にない。


 父も、母も、家臣も、擦り寄って来る取り巻きにも心を許せる者などいなかった。
 婚約者からは裏切られて、何時《いつ》か、許すことをやめた。弟もそんなひとりだと思っていた。
 だが、


 ――殺セ!


 唐突に考えに割って入って来た叫びに、紅竜は止まった。


 ――殺セ! ソイツヲ 殺セ!
   ソイツガ 死ネバ 魔法陣ハ 消エル! 


 殺す?
 紅竜は緩慢な動きで弟を見下ろす。
 意識がない今なら容易《たやす》い。息を止めれば、抵抗もできないうちに事《こと》は終わる。稀代《きだい》の魔王などと呼ばれていた弟の命を取るのにこちらが無傷でいられるはずがないが、しかし。今なら。
 以前、弟を従わせた時は魔力封じの指輪と結界を重ね掛けした。だが既《すで》に消滅の陣が敷かれている此処《ここ》で他の魔法陣を発動することはできない。

 闇が言うように、魔法陣を消すには《私が生き延びるには》弟の息の根を止めるのが最速なのだろう。
 しかし、生き延びる道を選ばなかったとしたら?
 

 弟を。
 殺す。
 私が。

 片手で弟の鼻と口を覆う。
 簡単なことだ。水の塊を発生させて呼吸を止めてしまえばいい。5分、いや3分もあれば事足りる。
 だが。

 それでいいのか、という疑念が最後の決断を鈍らせる。
 弟を此処《ここ》で殺してしまうということは、生贄《いけにえ》にできなくなるということだ。予定では父《先代》の時のように闇の蔓に呑み込ませるつもりだった。生きたまま食らうことで、その身に宿した魔力を取り込むことができる。
 死体では生贄《いけにえ》にならない。ただの「人間の味がする美味《うま》い肉」でしかない。
 
 それに。
 紅竜は魔法陣の外側から伺《うかが》うように鎌首を持ち上げている蔓《つる》を見回す。

 少し前までこいつらは弟を寄越せと言っていた。
 なのに急に殺せと言い出したのは何故《なぜ》だ。
 生贄《いけにえ》に捧げることも死と同義だが、ただ殺すのとは違って魔力が手に入る。私が此処《ここ》で手を下せば、|奴《やつ》らは弟の魔力を喰うことはできない。喰わなければ復活に必要な魔力も足りない。

 闇にしてみれば「私」を生かすほうが重要だと、そういうことだろうか。ふたり一緒では此処《ここ》からの脱出は困難だから、だから弟は諦める、と……?
 
「青藍は捨てて、新たな生贄《いけにえ》を探せと言うのか?」
 
 弟を捨てて、自分ひとり生き延びる。
 その後に待っているのは新たな生贄《いけにえ》の選定と養育《よういく》だ。
 簡単に言うな。弟《青藍》を無垢なまま育てるのにどれだけの歳月と労力と人命がかかったと思う? 貴様《闇》は餌が投げ込まれるまで口を開けて待っているだけだからわからないのだろうが、と心の中で悪態をつき、紅竜は魔法陣の外にある鳥籠を睨みつけた。
 

 矛盾している。己《紅竜》も闇も。
 端《はな》から殺すつもりでいたのに、今この状態で殺してしまっては意味がない、と救い出す方法を考えて。騙した相手に認められていたと喜んで。心中|紛《まが》いの未来まで|描《えが》く一方で、やはりひとり生き残る道をも視野に入れて。
 生きたまま食らわなければ生贄《いけにえ》にならないのに、殺せと連呼して。
 

 ――ソイツ ハ 生贄《イケニエ》 デハナイ カラ イインダ!


「……どういうことだ」

 闇を完全に復活させるには生贄《いけにえ》が必要だと聞いた。それが無垢で知能の高い少年でなければいけないということも。
 現に蔓は弟の魔力を喜んで吸い取っていたし、吸い取れば吸い取っただけ私に戻ってくる力も強くなった。復活とはそういうことを指すのではないのか?
 散々「弟を寄越せ」と言い続け、「儀式をしろ」と訴えて。なのに弟は生贄《いけにえ》ではない、だと?


 ――生贄《イケニエ》ハ 別ニ イル。ダカラ ソイツハ イラナイ


 他に生贄《いけにえ》がいる?
 何処《どこ》に?
 闇に捧げるのなら城内にいる必要があるが、来客の中に少年は数えるほどしかいなかった。
 しかしその中の誰かと考えたところで、私の機嫌を取っておけばいい、と小狡《こずる》い浅知恵を付けられた子供ばかりだ。生贄《いけにえ》としての価値など皆無に等しい。
 少年と呼ばれる歳を通り過ぎてしまった者には無垢を期待するほうが間違っている。善悪すらわからない幼子にならまだ可能性があるけれども、粗相《そそう》の心配からか、今現在そんな幼子を連れて来ている者はいない。令嬢ではそもそもの条件に合わない。
 かと言って、犬が連れて来た侵入者の中にも該当者はいそうにない。


 ――生贄《イケニエ》ハ イル。ダカラ、


 闇の声は繰り返す。
 だから弟を置いて出てこい、と言う。
 しかしその言葉が余計に不信感を塗り重ねる。

「何処《どこ》に」

 私の他にも闇と取引をしている者がいて、その者が用意した生贄《いけにえ》がいると、そう言うのか?
 もしそうなら……生贄を用意できなかった自分《紅竜》は、闇の力を得る資格がないと切り捨てられるのではないか? 闇に食わせた大勢と同じように、餌として程度の価値に成り下がるのではないか?


 ――此処《ココ》ニ


「……此処《ここ》?」

 埒《らち》が明かない。
 此処《ここ》には弟と私しかいないではないか。ガーゴイルや精霊が姿を隠して潜んでいるのかもしれないが、奴《やつ》らは来客が連れて来た少年よりも生贄《いけにえ》には向かない。
 

 ――ダカラ、出テコイ


 出て行って、どうなる?


 ――糧《カテ》トナル 負《フ》ノ感情ハ 世界中ニ 溢《アフ》レテイル
   

 溢《あふ》れているだろう。妬《ねた》み、嫉《そね》み、恨《うら》み、虚栄心。それらを貴族社会の中にいて感じ取らない日などない。
 貴族に限らず、その感情は生きていれば誰もが持つもの。市井《しせい》にも、人間界や精霊の国にもある。
 「悪魔の城」などその典型。魔王を倒して一旗揚げようと目論《もくろ》む勇者どもの期待と、倒された者の恨みや失望が渦巻いているあの場所には、怨霊と化してもおかしくないほどの感情が取り残されている。
 だがそれらを掻き集めることで事足りるのなら、私は何のために何十年もかけて青藍を育てる必要があったのだ。負の感情は無垢とは縁遠いもの。「無垢で高い知性を持つ少年」というあの面倒な条件は何のために。
 

 ――早ク、


 矛盾を感じる。
 封印されていた年月に比べれば、新たに生贄《いけにえ》を育て直す時間など大した長さではないのかもしれない。が、これだけの素材はそうは見つからない。いや、二度と見つからないと言い切ってもいい。
 前述したように数で揃えるのだとしたら、途中で脱落する者を見越して数百人単位を用意する必要がある。なのに……それは「必要なもの」ではなかったのか? その辺に転がっているどす黒い感情で置き換えられるようなものなのか?

 闇は私に何かを隠している。
 私の知り得ない何かが残っている。


「お前は……何を知っている? 何をさせるつもりでいる?」


 ――完璧ニ 無垢デ 高イ 知性ヲ 持ツ男ノ子ガ
   モットモ 申シ分ノナイ
   最適ナ 生贄《イケニエ》デ アル


「それはわかっている」

 何度も耳にした言葉だ。
 だから青藍を用意した。
 なのに今になって、声は青藍は生贄《いけにえ》ではないと言う。生贄《いけにえ》は他にいると言う。
 それは――
 
「……まさか、」


『騙《ダマ》サレルナ!』

 
「騙していたのか? 貴様も……」

 その時だった。蔓《つる》で塞いでいた扉が撥《は》ね飛んだのは。
 見れば、転がるように室内に入って来た人影が3つ。どれも見知った……見知ってはいるが見たくはない顔ぶれだ。先頭にいる男は轟音を立てている光の柱に声を失い、それでも落ち着かせるように深呼吸を繰り返してから1歩ずつ歩み寄る。


「墓地の時も思ったが、鼻の利《き》く犬だな」

 思わず漏れた呟きは、光の柱に遮《さえぎ》られて向こう側には届かなかったようだ。
 紅竜はくすりと笑うと腕の中の弟に囁く。

「だが、もう遅い」