~11月~




 僕とノクトはバスに揺られている。
 もう10駅は過ぎただろうか。もとから半分以下だった乗車率は、今では貸し切り状態にまで下がってしまった。比例するように見慣れた景色も遠ざかり、何時《いつ》しかやたらと枝が張り出した街路樹に遮《さえぎ》られて何も見えなくなった。
 視界を覆《おお》うのはハラハラと散る黄色い落ち葉。このペースなら数日のうちに全ての葉が落ちてしまうだろう。自動運転だからどれだけ視界を塞《ふさ》がれようとも支障はないとは言え、落ち葉が空気の導入口に入り込んだり、車輪を滑らせたりはしないのかと心配になる。

 ノクトは窓枠に肘《ひじ》をついて外を眺めている。
 見えるのは落ち葉だけなのに、何が面白いのかずっと窓の外に顔を向けている。

「……珍しい?」
「別に」

 返事はいつも素《そ》っ気《け》ない。
 この光景を見たこともないほど能登大地のいた世界は自然の少ない世界だったのか、それとも懐かしいのかを判断することはできそうにないけれど、話を弾ませる気にもなれないので僕はそれ以上追及するのはやめて目を閉じる。



 校外学習のあったあの日、チャルマは入院した。そして経《た》つこと数週間。至って元気だと言うわりに未《いま》だ戻って来ない。
 病院はバスで10数駅行った先にあり、寮や学校といった僕たちの生活圏からは遠い。放課後にちょっと見舞いに行くことなんてとてもできない位置にある。
 10数駅。
 そう、僕たちは今、チャルマの病院に向かっている。



「抜けたぞ」

 ノクトの声に目を開けると、あたりは見渡す限りの更地になっていた。先ほどまでの街路樹のトンネルと、そして僕たちが住んでいる町までもが夢だったかのように何もない。

 人類が突然変異を起こす前――所謂《いわゆる》前文明では此処《ここ》まで人が住んでいたらしい。この広大な地を埋め尽くしていた建物群は使われるあてもないまま経年劣化で安全性が下がり、全て取り壊された。
 当初の予定ではもっと早くに人口が戻る予定だったそうだから、本来ならこのあたりにも学校を中心としたコミュニティができるはずだったのだろう。
 出生率などレトの采配《さいはい》でいくらでも増減できる。なのに増えないのは、きっと此処《ラ・エリツィーノ》以外の町との兼ね合いなど、そう簡単にいかない事情があるに違いない。出て行った分だけ入って来る|此処《ここ》と違って、ファータ・モンドのような受け入れる側の人口は医療が発達したこともあって増える一方だろうし。


 雑草だらけの何もない更地《さらち》の向こうに学校に似た白い建物が見える。
 バスは引き寄せられるように其処《そこ》に向かう。
 



「ノクト! と、マーレも。久しぶりぃ」

 ベッドで上体を起こして本を読んでいたチャルマは、僕たちの顔を見て破顔《はがん》した。
 読んでいるのはノクトの蔵書だ。元気なら入院生活は退屈だろうと貸したのだけれども、そのせいでもうひとつの病《厨二病》は順調に悪化している。
 そのうち「この病《やまい》は太古の王族の末裔《まつえい》のみがかかる。この試練を乗り越えた時、私は世界を救う勇者として神の力を手に入れるのだ!」などと意味不明なことを口走って精神に疾患があるなどと診断されやしないだろうか……と心配になってくるほどに。

「調子はどう?」
「全然大丈夫だよ。ねぇノクト、あれから何か進展あった?」
「ねぇよ」

 チャルマとしては未《いま》だ石板とノクトの記憶が気になるようだ。
 が、その石板は今や部屋の隅で壁の一部と化している。
 チャルマが入院していなければ毎日見張られながら石板を擦《こす》らされていたかもしれないが、結局あれ以降何もしていないのだから進展も何もあったものではない。

「ああ、そうだ。調べたんだけどね、定礎《ていそ》ってタイムカプセルなんだって。あの板の後ろにね、その建物を建てた頃のものを隠して、その後、あの板で蓋《ふた》をするそうだよ」

 しかしそんなノクトの塩対応に凹《へこ》むこともなくチャルマはタブレット端末を起動させ、保存しておいたのであろう様々な画像を見せて来る。
 おかげで定礎《ていそ》なるものがどんなものかは何となくわかってきたけれど……。

「そのタイムカプセルが見つかれば、ノクトのいた世界がどれくらい前なのかもわかるのにねぇ」
「あー……そう、だね」
「無理だろ。あれだけ粉々にぶっ壊してんだし」
「ノクト、」

 建物自体が粉砕されている今、タイムカプセルが無事でいられるはずがない。隠したものが当時の新聞や写真など、石以上に形を留めておけないものなら尚更だ。
 そのあたりをぼかして曖昧《あいまい》に頷《うなず》く僕の横で、ノクトは情け容赦ない。

「そうだよねぇ」

 なのにチャルマは機嫌を損《そこ》ねた様子もなく笑っている。相手がノクトだからか、それともさして親しくもない学生らに囲まれることもなくなってストレスが減ったからだろうか。
 顔色もよく、以前よりずっと健康そうに見えるから複雑だ。

「しっかし1日中本読んでいられるなんて極楽だな」
「羨ましいでしょ」
「全くだ。煩《うるさ》い同室もいないし」
「あははは。ヴィヴィも同《おんな》じこと言ってた。僕が煩《うるさ》く言わないから遅くまで遊び歩いてるんだ、って」

 僕たちだけではなく、ヴィヴィも何度か見舞いに訪れているらしい。
 けれど今まで1度も院内で遭遇したことはない。
 チャルマ曰《いわ》く、いつも取り巻きが何人か付いて来るらしく、来ても早々に帰ってしまうのだとか。ずっと廊下で待っている彼らのことを思えば長居はできないのだろうけれど、少し薄情ではないだろうか。

「ヴィヴィ寂しいんだよ。マーレ、忙しいだろうけど今度遊んであげて」
「僕じゃ退屈でしょ」
「そんなことないよぅ。あ、そう言えばマーレは”レトの学徒”になったんだってね。おめでとう」

 ヴィヴィは此処《ここ》で僕の話をしているのだろうか。
 ”レトの学徒”は成績だけでなれるものではない。その成績以外の諸々《もろもろ》を加味すれば僕よりもヴィヴィのほうが適任なのに、とヴィヴィを1番身近で見ているチャルマなら思いそうなもの。なのに、そうではない純粋な賛辞が苦しい。
  
「これでフローロと一緒だね」
「フローロにはほど遠いけど」
「そんなことないよ。マーレ頑張ってたし」

 ”レトの学徒”になったからと言って超人的な力に目覚めるわけでもないし、医学に詳しくなるわけでもないのだから仕方のないことだけれども、チャルマを前にして無力さを感じる。
 1日中趣味に埋没していられたとしても、たったひとりで隔離されたような生活が楽しいはずがない。楽しかったら僕たちの顔を見てあんなに喜色を浮かべるはずもない。

 フローロの後を追うのではなく、医学の道を歩んだほうがいいのではないか、なんてことを思う。
 僕の一生を捧げたところで”海”は再生できそうにない。けれど、もしかしたらチャルマを治すことはできるかもしれない。



「ねぇマーレ」

 ふいにチャルマは真顔になった。
 けれど呼びかけておきながら、視線は僕に向いていない。宙を漂っているというか、目を合わさないようにしていると言うか、こんな態度は大抵、良くないことを言う前フリだと思っておけばいい。

「なに?」
「イグニのこと、きっとマーレは誤解してると思うんだけど」

 案の定。何故《なぜ》この期《ご》に及んでその名が出て来る?
 予想どおり、いや、予想の数倍最悪な結果に、あからさまに嫌そうな顔をしてしまったのだろう。自分から振った話題なんだからこういう顔をされるのも予測していただろうのに、チャルマはおどおどと僕を窺《うかが》う。

「あ、あのね。イグニとフローロはそういうのじゃないから」
「はあ?」

 そういうの? と聞き返そうとしてやめた。聞き返すまでもない。彼らはセルエタを交換する仲ではない、と言いたいのだろう。
 フローロ本人もイグニとはそんな仲じゃないと言っていた。
 しかし実際にイグニはフローロのセルエタを持っていたわけで、言い換えればフローロが誰よりも再会したい相手はイグニだと言うわけで。

 険《けわ》しい顔をしているであろう僕に、チャルマは中途半端に視線を逸《そ》らしながらも訴えて来る。

「イグニはね、フローロの力になりたいんだ。フローロがファータ・モンドに行ってからやりたい夢の手助けがしたいんだ」


『――それにイグニも協力してくれるからセルエタを預けてあるだけ』


 チャルマがの訴えはフローロが言い残した言葉と同じ。

「でも向こうに行ってから再会できるかどうかはわからないでしょ? 見た目も変わっちゃうし、他の学校から来た子や元からファータ・モンドにいる人たちの中に混ざっちゃったら何百人の中からひとりを探すことになる。だからフローロのセルエタを貰っただけなんだ。フローロを探すために」
「……知ってるよ」

 知っている。そんなことは。
 だって僕はフローロ本人から聞いた。
 けれどそんなの嘘《うそ》に決まっている。フローロの夢は”海”を再生すること。多くの先人が挑んでいるけれども未《いま》だに成功しない望み。
 イグニでは力不足だ。ろくに勉強もしないで遊び歩いていたくせに、何を協力できるって?


「信じてはもらえないだろうけど」

 信じろと言うほうが無理だ。100歩譲ったとしても、研究者として立身出世するであろうフローロに付きまとって甘い汁を吸いたいから、という理由しか思いつかない。
 それに、

「……どうしてチャルマはイグニなんかの肩を持つのさ」

 イグニは下級生にやたらと人気があったけれど、チャルマは違った。傾倒《けいとう》などしていなかった。なのに何故《なぜ》今になってイグニを庇《かば》う?

「肩を持ってるわけじゃないよ。でも、」

 ずっと言いたくても言えなかった。退院の目処《めど》も立たない今、これだけは言っておこうと思った。なんて理由での大告白大会なのかもしれないが、だからと言って僕が賛同しなければならない義務もない。




「2度と会えない先輩方がどう誤解されていようとチャルマには関係ない話だしさ。アレはやっぱ、お前の誤解を解きたいって気持ちで言ったんじゃね?」

 コトコトと車輪から生じる振動がバスを揺らす。ノクトは相変わらず窓枠に肘《ひじ》を乗せて視線を外に向けている。

「その理屈なら解いても解かなくてもチャルマには関係ないと思うけど?」
「だからさ。お前が未《いま》だに大好きな先輩のことで気を病《や》んでるのが見ていて痛々しいから誤解を解きたいんだろう。お前のために」
「……意味わかんない」

 
 夕暮れの中にポツンと浮かび上がった病院が遠ざかっていく。
 それはまるで、病院にひとり残していくチャルマそのもののようだった。




 図書館棟の壁に蔦《つた》が|這《は》っている。
 つい先日まで青々と茂っていたそれらも、今は全体的に彩度が落ちている。葉の数も減っている。

 教室の窓からそれが見える。葉の数を数えるのは病床の少女であって僕ではないのに、こうして数えているのは”友人がいなくなって悲しみに暮れる可哀想な自分”でも望んでいるのだろうか。
 どうせなら新たに葉を描き足すくらいの甲斐性があればいいものを。

「もっと小さい教室はないのかねぇ。スカスカして見るからに寒い」
 
 ノクトの声に、僕は外に向けていた目を室内に戻した。
 3人掛けの机が横に3つ、縦に7つ。満席になれば63人が入れる教室だがそれだけの人数はいないし、そのほとんどが窓際に集まっている。だからスカスカしているように見えるだけだ、と言ってもいいのだけれど、実際、9月に比べて人数が減っていることには違いない。
 とは言え、いなくなった学生が全てチャルマのように入院しているわけではない。

「窓閉める?」
「……俺がそういう意味で言ってないことくらいわかってるよな監督生」

 室内に射し込む陽射しは日に日に弱まっている。
 もうじき冬が来る。
 ずっと日の当たる窓際にいないと命にかかわる、ということはないけれど、光合成で命を繋《つな》ぐ身としては陽が射し込む席のほうがいい。陽射しが弱ければ尚更だ。けれど窓際は案外に風が入るので陽射しの温かさと|相殺《そうさい》……どころかマイナスが勝つ。
 ただそれはノクトが言う「スカスカして見るからに寒い」とは意味合いが違う。

「知ってんだろ? 教えろよ」

 最近はこの世界の仕組みについて聞かれることも減ったけれど、能登大地にとっては初めての秋で初めての冬で初めての最終学年。最終学年に関しては僕も同じではあるけれど、ずっと先輩たちを見て来た僕はこの現象の理由を知っている。
 学生が減っている理由。それは。

「……性徴《せいちょう》が来たんだ」
「あ?」
「生育には個人差があるから。最終学年にもなると卒業を待つことなくファータ・モンド送りになる学生が増えて来るんだよ」


 僕たちは本来ならファータ・モンドに行ってから性徴《せいちょう》を迎える。そうなるべく、全員が7月末に誕生日が来るよう調整されている。
 けれど予定は予定。遅れる分にはいいのだろうけれど性徴《せいちょう》が早く来てしまった時は、6月の卒業を待たずに此処《ここ》を立たねばならない。
 大人になったらネバーランドにいられないように。

 ノクトは腑《ふ》に落ちないという顔をする。

「別にいたっていいんじゃないのか? 卒業くらいさせてやれよ。お前ら全員、兄弟みたいに顔突き合わせて来たんだし、見た目が変わった程度で疎遠《そえん》になるような間柄でもないだろ」
「だから問題なんじゃない。ノクトだって胸がないのに欲情するなんておかしいとか言ってたでしょ」
「胸に欲情する奴《やつ》が出てきて風紀が乱れるってことか? だったらアンドロイドは何だよ、フランなんて思いっきり女じゃねぇか」
「……無知っていいねぇ」
「おい」
「1回絞《シ》めて貰ったら彼女に力でなんか太刀打ちできないってよくわかると思うよ」

 第一、アンドロイドに性別があると言ったところで顔だけだ。服を剥《は》がしてしまえば、そこにあるのは人間とは似ても似つかない冷たい機械の塊でしかない。
 けれどいつも隣にいた同級生が男の体、女の体になったとなれば話は別。いずれ自分たちが通る道でもあるわけだし、興味を示さないわけがない。
 そして兄弟みたいに親しければ親しいだけ遠慮がなくなる。それこそ性的に何かされることだってあるかもしれない。
 子供の興味は時には残酷だ。余計な嵐が起きる前にファータ・モンドに送ったほうが、本人にも周囲にもいいに決まっている。

「それにしたって急に減り過ぎじゃね?」
「そうかな。よくわからないな」

 全員が7月末に誕生日が来る、とは、全員が7月末に生まれたということ。性徴《せいちょう》が来る時期を揃えるのが目的なら、早めに現れるにしてもある程度は揃うだろう? とノクトは言う。
 それなら急に減ったことだって”早めに揃った”結果かもしれないわけで。
 ともかく、此処《ここ》でああだこうだと議論したって始まらない。 

「とりあえず僕もきみも、卒業を待たずに此処《ここ》から出ていく可能性があるってことだけ留意しておくといいよ」
「ふーん。せっかく監督生になっても意味がないかもしれないのか。残念だなマーレ」
「ご心配ありがとう。でも僕は卒業までにできることをするだけだから」

 そう言ったものの、監督生に求められていることなんて他の学生の規範になることくらいだ。
 ”優秀な学生はレトの冠を付けて呼ばれる”、”レトの学徒専用のベストを着ることができる”というのは一種のわかりやすいステイタスだから目指す学生が多いだけで、この肩書きが実際、人生でどれだけ役に立ってくれるのかは定かではない。



 教室の一角に人だかりができている。
 スカスカしているように見えるのは、あの一角に人が集まり過ぎているからではないのか? とチラリと思う。
 中心にいるのはヴィヴィだろう。今月の感謝祭、来月のクリスマスと年末はイベントが目白押しだからいろいろと誘われているに違いない。

 規範を求められる”レトの学徒”はああした疑似的な色恋沙汰を楽しむこともできない。
 したいかと問われれば、不特定多数からまつり上げられるのは落ち着かないから「したくない」と答えてしまうのだろうけれど、規範、規範と自《みずか》ら|枷《かせ》を嵌《は》めている僕は他の誰よりもつまらない人生を歩んでいるように思えて、それだけで気が塞《ふさ》ぐのも確かなこと。
 自《みずか》ら望んで得た学徒の称号なのに、こんな感情を向けるのは間違っている。
 そんな罪悪感が余計に気を重くする。

 ぼんやりと人だかりを眺める僕と彼らを見比べ、何を思ったのやらノクトは肩を竦《すく》めた。

「ま、あいつらよりはお前のほうがいい奴《やつ》だと思うぞ」
「……どういう意味かな?」
「ヴィヴィに気があるんだろ?」
「ないよ!!!!」

 思わず大声を上げてしまって、慌てて口を塞《ふさ》ぐ。
 一瞬にして集まった視線は再び緩《ゆる》やかに散らばっていく。
 頬杖をついたままニヤニヤと含み笑いをしているノクトの足を蹴飛ばして、僕はいささか乱暴に腰を下ろした。

 よりにもよって何を勘違いしたのやら。
 海水浴での絡みからそう思われたのかもしれないけれど、僕もヴィヴィにもそんな感情は一切ない。兄目線で「お前になら妹をくれてやってもいい」なんて思われたのなら迷惑だ。


「僕は此処《ここ》で相手を見つけるつもりなんてないし、ヴィヴィだってそうだよ」
「真面目だな監督生」
「監督生じゃなくたってそうなの!」

 けれど当人の思いとは別に周囲は動く。特に卒業までに相手を見つけたい最終学年にとってはこの2ヵ月が勝負月。あの手この手で口説きに来る。それがあの人だかりだ。
 ヴィヴィにその気はないとは言ったけれど、途中で考えが変わらないとは限らない。フローロのように絆《ほだ》されてしまうかもしれない。
 本当にヴィヴィが妹のように見えているのなら、僕をからかうよりもヴィヴィの隣で目を光らせていたほうがずっといいだろうに。

 僕は息をひとつ吐《は》き、視線を窓の外に向ける。
 蔦《つた》の葉が1枚、抵抗も空《むな》しく舞い落ちるのが見えた。


 その時、突然セルエタが鳴った。
 クラス全員ではなく、僕ひとりのようだ。

「何だって?」

 眉をひそめたノクトが身を寄せて僕のセルエタを覗《のぞ》き込む。またレトが仕掛けて来たのかと警戒しているのだろう。
 でもこれは違う。

「大したことじゃないよ。放課後に薬局に寄ってくれって」
「……薬局?」
「栄養剤を代表で取りに来いって意味だと思う。レトの呼び出しじゃないから心配しなくていい」
「学徒様に雑用をやらせるのか此処《ここ》は」
「監督生って言っても特に役割があるわけじゃないし。それにこうして他の学生のために動くのも規範のひとつだよ」

 突然降ってきた”レトの学徒”の役割に、ノクトは納得できないといわんばかりの顔をする。
 彼のことだ。学園を牛耳《ぎゅうじ》る権力者を想像していたかもしれない。

「雑用係になるためにあれだけ試験勉強するのか……俺には理解できねぇ」
「”他の学生のためになる仕事”」
「恰好《カッコ》よく言ったって雑用係だろうが」


 ともかく、そんな”雑用係”初の仕事は栄養剤の受け取り。
 冬になると陽射しが弱くなる。気温も下がる。
 生命維持の大半を光合成に頼っている僕らが弱らないよう、この時期になるとひとり1本、栄養剤が配布されるのだ。
 光合成に栄養剤とくると本気で鉢植えの草花になった気分になるのだが、前文明で行われていた予防接種と意図する効果は同じ。腕に針を突き刺すか口から薬を入れるかの違いだけ。


「栄養剤ねぇ。本格的に植物になってきたな。そのうち肥料も配られるんじゃね?」
「何とでも言って」

 退屈そうに大欠伸《おおあくび》をしたノクトは自《みずか》らのセルエタを起動させる。
 ゲームでも始めるのかと思いきや、開けたのはメールフォームだ。

「何?」
「いや、チャルマからメール来てたの返事してなかったな、と思って」
「元気そう?」
「ああ。相変わらず病名はわからないって言ってるけど、あれだけ元気なら感謝祭やクリスマスには戻って来れるんじゃね?」
「病名がわからないのに?」

 ノクトは楽観視しているけれどもそうだろうか。
 病名が付かない=《イコール》治療法がわからないお手上げ状態と言うことだろう。もしかすると前文明を滅ぼしかけた疫病のような未知の病気で、だから何時《いつ》まで経《た》ってもめぼしい成果が上げられないのではないのか? 

「治療法のない新種の病気なら面会謝絶になってるだろうよ」
「……そうだね」

 面会できる。会う前に防護服に着替えたり全身を消毒したりすることもなく。
 それはチャルマの病気が僕たちに伝染《うつ》るものではない、と言うことだ。退院できないながらも元気でいるのは”ある程度は”薬が効いている、とも考えられる。
 「不治の病かもしれない」なんて深刻に考えては、チャルマに余計な不安を与えてしまう。

「感謝祭に戻って来られるなら、その時はエスコートしてあげるといいよ」
「俺が?」
「楽しかったでしょ? 遊園地」

 ノクトは複雑そうな顔をしたものの、何も言い返さずにメールフォームに戻っていった。引き籠《こも》りの30歳に華々しいイベントは荷が重いのかもしれない。
 けれど今は”ノクト”だ。此処《ここ》にいる間くらい過去の自分をなぞって生きることもない。
 



 図書館でいつものように本を引き出す。
 フローロのリストも、もう7冊目に突入した。よく見れば途中途中、海に関係のないタイトルが挟まっているけれど、これは息抜きに読んだものだろうと見なして除外する。花に関する本なんていかにもフローロという感じだ。余裕があれば読んでみたい。
 それにしても此処《ラ・エリツィーノ》では専門分野は学べないと思ってたけれど、どうして結構な冊数がある。専門と呼ぶのもおこがましい子供向けなのかもしれないが、それでも知らなかった知識の多いこと。

 持ち帰る本を選び終えたら後は帰るだけだけれども、ふと思いついて医療・薬学ジャンルを開けてみた。
 言うまでもなく調べたいのはチャルマの病気について。医者にわからないと言う病気が、これらの本を読んだ程度の素人にわかるはずがないのは承知だけれども……と思って開けてみて。チャルマが症状らしい症状のひとつも見せていないことに思い当たった。それが「元気なのに退院できないなんて」に繋《つな》がるのだけれども、言い換えれば症状がわからなければ調べようもないわけで。

 体の奥底で痛みも何もなく浸食していくタイプの病気なのだろうか。
 以前から兆候らしきものはあったのだろうか。
 僕は気付かなかったけれど、同室のヴィヴィも何も気付いていないのだろうか。

 そんなことを考えつつ、遠くで聞こえたチャイムに僕はリストを閉じる。
 今日は薬局に行かなければいけないから長居はできない。
 カウンターの向こうでクレアが僕になど目もくれずに作業しているのを横目で見つつ、僕は図書館を後にした。




 薬局に行くと見覚えのない少年がいた。
 他の学校の学生だろうかとも思ったが、どうにも学生の恰好《かっこう》ではない。しかし薬局関係者かと言われるとそれも違う気がする。
 砂嵐を何時間も煮詰めたような赤錆色《あかさびいろ》のマントは何処《どこ》となく埃っぽいと言うか薄汚いと言うか。外の世界を旅してやっと此処《ここ》に辿《たど》り着いた旅人、なんて表現が頭に浮かんだ。

 何処《どこ》も彼処《かしこ》も白い中で、カウンターの後ろにある薬棚には蛍光色の瓶がずらりと並んでいる。その極彩色の瓶を背景に、少年はカウンターに備え付けられた高台の椅子に腰かけ、頬杖をつきながら冊子に目を落としている。
 処方箋《しょほうせん》薬局を兼ねている此処《ここ》は待合用に雑誌も置いてあるから、その本も此処《ここ》のものだろう。そう思いつつチラリと見えたページは論文の|如《ごと》き文字でびっしりと埋め尽くされていて……失礼ながら意外すぎて怯《ひる》んでしまった。

 いつもいる白衣の男はいない。
 しかしこの少年が代わりの店員だとは思えない。もし店員のつもりで話しかけて違っていた日には、この硬い床に穴を掘って入ることになりそうだ。
 が。

「……アポティは出かけているから後にしてくれないか?」

 僕が口を開くより前に少年は僕に視線を投げかけ、気《け》だるそうにそう告げた。
 アポティ、とは白衣の男のことだろうか。

 振り返った際に目深《まぶか》にかぶったフードから髪がこぼれる。
 銀髪。ついでに言えば肌も浅黒い。髪色からしてアンドロイドだとは思うが、しかし随分と不愛想なアンドロイドもいたものだ。僕が知る範囲のアンドロイドは皆、初対面でもフレンドリーに接してくる者がほとんどだったから、人間を忌避《きひ》しているかのような言動はむしろ珍しくて興味をそそる。
 でも少年の態度は「何も聞くな」と目の前でピシャリとシャッターを閉じているようなものだから、あれこれ聞いたところで相手をしてくれるとは思えない。

 アンドロイドではあるけれど、接客を生業《なりわい》にしていないのかもしれない。それならその手の言動がインプットされていなくても頷ける。
 例えば門《ゲート》の警備兵。人間に対して愛想を振りまく必要がないばかりか場合によっては威圧的な態度を取らなければならないから、その手のプログラムを全て外してしまっている。
 少年の恰好《かっこう》は警備兵とも違うけれど、僕の知り得ないところで働くアンドロイドはいくらでもいる。衣類や学用品などを作る者、町のメンテナンスをする者。町を覆《おお》うドーム屋根の補修人なんて、多分、一生会うことはない。そしてそんな人間と関わらない彼らは愛想とは無縁に違いない……と思うのは偏見だろうか。
 町の外に出た学生を探しに行く捜索隊もそうだ。他の町は知らないが、この町の人間は子供だけなのだから、それもアンドロイドの仕事だろう。
 そう考えれば薄汚れた赤錆色《あかさびいろ》のマントも不愛想なところも、まさに彼《少年》の職業そのものを表しているように思えて来るから不思議だ。小綺麗な町中《まちなか》ではなく、砂嵐が吹き荒れる外の世界を具現化したような――。

 だとしたら。
 唐突に首をもたげた考えに、僕は掌《てのひら》が汗ばむのを感じた。


 もし彼が外の世界に精通しているのなら、ノクトが外に出たかどうかも知っているかもしれない。



 5ヵ月前。能登大地と入れ替わるようにしてノクトは消えた。
 僕たちは”前世の記憶を思い出した”設定で今のノクトに接しているが、体ごと能登大地《異世界転移》なのか、記憶だけ能登大地《異世界転生》なのかは|未《いま》だにはっきりしていない。
 ノクトが真相を明かさないせいもあるけれど、あれだけ何度聞いても答えないのはそのあたりの記憶が吹っ飛んでいるのかもしれない。15年間の”ノクト”の記憶がないのだから他だって忘れていても当然だ、と最近は思っていたのだが……転移ならそもそもノクトの記憶などあるはずがない。

 彼が転移でこの世界に来たのだとすれば、この世界には彼とは別に”本物のノクト”が存在することになる。
 けれど町中《まちなか》では全く目撃情報がない。
 探りを入れて来たレトは何か知っているのでは、とも思ったが、問い質《ただ》すにはノクトのことを洗いざらい喋る必要がある。
 僕がノクト失踪の連絡をしなかったことを。
 部外者かもしれない能登大地をノクトとして生かしていることを。
 そのせいでもしかしたら生きて見つけられたかもしれないノクトを、見殺しにした可能性があることを。
 
 だがもし外でノクトを見た者がいるのなら。
 本物のノクトの生死が明らかになれば状況は変わって来る。


「……きみは、」
「クルーツォ」

 問おうとして先に答えられた。
 それが少年の名前らしい。が、知りたいのは名前ではない。
 最も知りたいのはノクトの生死だが、その前にこの少年《クルーツォ》は予想どおり外の世界に関係があるのか。そのことを置いていきなりノクトについて聞いたところで、下手をすれば水族館でセルエタの装飾を頼むようなトンチンカンなことになってしまう。
 本人のことは本人に尋ねるのが1番早い。
 けれど喋るだろうか。僕だって初対面の何処《どこ》の誰かも知らない奴《やつ》に自分のことをペラペラと喋りはしない。

「クルーツォ……は薬局の人?」

 だからこんな外堀を埋めるような質問しかできない。
 以前、ヴィヴィに会話を続けるコツはキャッチボールだと教えてもらったことがある。質問し、相手が提示した答えの中から次の質問を出す、とやっていけば自《おの》ずと盛り上がるらしい。

「違う」

 だが、「違う」からどうしろと。


 ああ。もしかするとこの少年《クルーツォ》は配達に来ただけで薬局とは関係ないのかもしれない。
 先ほどは陰《かげ》に隠れて見えなかったが、冊子の脇に10cm四方程度の箱が置いてある。この箱を届けに来たものの店主が留守で、受け取り待ちをしているとも考えられる。
 宅配業者ならこの恰好《かっこう》でもおかしくはない。多分。

「そ……れじゃあ、どうして此処《ここ》にいるの、かな?」
「それをお前に話す義務があるのか?」
 
 駄目だ! 全く会話にならない! 
 それどころか好感度自体がダダ下がり!!
 ヴィヴィ曰《いわ》く、ブツ切りの一問一答では盛り上がらないどころか、相手は問い詰められているように感じて不快になるらしい。今のクルーツォはまさにそれ。こうなってしまっては彼の素性や外の世界については諦めて、此処《ここ》へ来た本来の目的を果たして帰ろう。そうしよう。

「あー困ったなァ。僕、学校から栄養剤を取りに行くように言われたんだけど」

 白々しくそう尋ねてみる。
 彼が薬局と関係があるのかどうかすらわからないままそんなことを言うのもどうかと思ったが、なんせ宅配業者だの砂漠の旅人だのは一方的な推測で、本当はやはり薬局の店員だったという可能性も0《ゼロ》ではないのだ。
 学校からは今日中に受け取るように指示されている。そうでなくとも栄養剤はとかく鮮度が落ちやすいから今日中には配りたい。

 案の定、クルーツォは怪訝《けげん》そうに眉をひそめた。
 「そんなことを言われても」と思ったのか、それとも「困ったなァ」があまりにも嘘《うそ》臭く聞こえてしまったのか。
 そう思うと途端に恥ずかしくなって来る。

「やっぱ、」

 「いいです、気にしないで」と続く予定の台詞《セリフ》を置き土産にして踵《きびす》を返しかけた僕に、だが、クルーツォは黙ったまま手元の箱を押して寄越《よこ》した。
 思わず受け取ってしまったものの、僕はその箱とクルーツォとを見比べる。
 これをどうしろと言うのだろう。「もう帰るから代わりにこの箱をアポティに渡して」だったらちょっと、いやかなり困る。
 なんせ僕はアポティが何時《いつ》帰って来るのかを知らない。栄養剤が受け取れないのも困るが、門限を過ぎてまで見ず知らずの少年の代わりに人を待つ義理はない。




 困惑する僕に説明が要ると思ったのか、クルーツォはだるそうに、

「……栄養剤」

 と呟いた。

 これが? 僕は思わず箱を見直す。
 これが栄養剤? 僕が知っているものとはかなり違うのだが。


 昨年までの栄養剤は瓶入りで、言うなればカウンターの後ろに飾られている蛍光色のアレ程度の大きさがあった。それがひとり1本ずつ配られた。
 寮生全員分ともなれば、両手で抱えないと到底持てないほどの大きさの箱で4つ。あまりの重さに昨年は寮まで車で運んでもらっていた。運転手の顔は見なかったけれど「フローロが男と車で帰ってきた!」と軽く騒ぎになったことを覚えている。

 そう言えばあの時、誰よりも立腹していたのはイグニだった。
 「こんなに重いものをひとりで運ばせるなんて」と言っていたけれども本音はそこじゃないだろう。自分のことを差し置いて他人の交際に口を挟む権利などない。
 そもそも本人が交際ではないと否定しているのに何を言っているのやら、とも思ったが、今になって考えればあれもフローロの気を引こうと思っての発言だったに違いない。思い出しても腹が立つ。

 が、今問題にすべきは栄養剤。
 この箱はあまりにも小さい。そして軽い。せいぜい1本入っていればいいところ。
 「僕の分だけじゃないんだけど」と脊髄《せきずい》反射的に口から飛び出しそうになった文句を飲み込み、僕は確認のために箱を開けた。

 入っていたのは濃いピンク色のカプセル。
 数からすれば寮生全員の分がありそうだし、これならひとりでも余裕で運べるけれども、今年からカプセルになったとは聞いていない。これは本当に栄養剤……クルーツォがそう言っているのなら栄養剤なんだろうけれど、本当に”学校指定の”栄養剤なのだろうか。

「僕が知ってるのとかなり違うんですけど」
「今年からこうなった」
「ホントに?」

 昨年フローロが苦労したことで形状を変えたのだろうか。
 瓶入り栄養剤は重い、と他の学校からも苦情が入ったのだろうか。

「成分表示上は俺が作ってる栄養剤と同じだ。問題はないと思われる」
「作った!? きみが!?」
「それは作ってない」

 口をきくのも嫌そうなのに、口を開けば衝撃の事実。このなりでまさかの薬師《くすし》ときた。しかも昨年までの栄養剤は彼が作っていたらしい。
 爆弾発言をすることがわかっているから喋りたくなかったわけではないだろうが、何処《どこ》まで信じていいのだろう。栄養剤にしろカプセルにしろ、彼が作っている姿は全く想像できないのだが。

 どうすることもできなくて僕はつやつやと光るカプセルを凝視する。
 嘘《うそ》を吐《つ》いたところでクルーツォには何の得もない。オレンジジュースやココアがオレンジ果汁やカカオの色をしているように、このカプセルのピンクは昨年の栄養剤と同じ材料だと思われる。
 けれどこの箱はアポティへの届け物ではないのか?
 それをポッとやって来た僕に与えてしまってもいいのか!?

 薬師《くすし》と言うのが真実なら、栄養剤の鮮度が落ちやすいことも知っているだろう。アポティは仲介でしかないのだから直接渡したところで問題ない。と……そんな善意で渡してくれたのだと信じたいけれども、どう見ても砂漠の旅人にしか見えないそのなりが、僕の判断を鈍らせる。
 せめてアポティのように白衣を着こんでいてくれれば手放しで信用したものを。って、その考えも本当なら危険なんだけど。


 初等部の頃、社会科見学でドリンクの工場を見に行ったことがある。
 工場の中では大勢のアンドロイドが働いていた。髪は必要ないからと最初からウイッグを外し、全身に消毒薬を散布してから作業を開始する徹底ぶりだった。
 ただのドリンクですらそうなのに、薬を作る人が土埃《つちぼこり》を振りまいて歩くはずがない。


 セルエタで時間を確認する。
 16時40分。そろそろ帰らなければ門限が怪しい。
 しかしこれを持って帰って皆に飲ませていいものか。
 不在にしているアポティも僕が取りに来ることを知っているだろうに、何故《なぜ》何時《いつ》までも帰って来ないのか。


「持って行かないのなら、」
「あ、持っ……っていくけど、でももうちょっと待って。ちゃんと受け取ったって証明もしてないし、もし僕が嘘《うそ》を言って取りに来たんだとしたらきみだって困るでしょ?」
「嘘《うそ》なのか?」
「嘘《うそ》じゃないけど」
「なら何が問題だ」

 ああ。この融通のきかなさ、数ヵ月前に突然現れた”自宅に籠ってゲームを作っている自称30歳”を見るようだ。僕がこのまま持って帰ってしまったら、後で困るのはクルーツォだろうに。



 そんな不毛なやり取りの最中《さなか》、

「おや?」

 救世主が現れた。
 店に入って来たのはクルーツォがアポティと呼んだ白衣の男。彼は抱えていた荷物をカウンターに置くと僕に目を向けた。

「もしかして栄養剤を取りに来たのかい? クルーツォに持って来てもら……何だ、もう受け渡し済みじゃないか。何か問題でも?」

 アポティは僕が抱えている箱に目を止める。
 どうやらクルーツォが言うとおり、今年から仕様が変わっただけの”学校指定の”栄養剤であるらしい。

「ゴチャゴチャ言って持って行かない」
「だから、それは!」

 クルーツォの言葉を打ち消すように声を張り上げる。
 確かに難癖をつけて持って行かなかったのは僕に非があるけれど、半分くらいは「受け取りのサインも何もなく持って帰ってしまったらクルーツォが困らないか」なんて余計な配慮をしたせいだ、と言いたい。




「すまなかったねぇ。何でも今回からカプセルにするって上からお達しがあってね。届いたら持って来てもらうようにクルーツォに頼んでおいたんだけど、今度は僕が急に出かけなければならなくなってしまって」

 そんなことを言いながら、アポティは店の端末から受取証を引っ張り出す。サインを書き込むと、ほどなくしてセルエタに受け取り完了通知が届いた。
 やりとりを眺めていたクルーツォが「それがいるならそう言えば」と呟いたけれど……学校のおつかいで受け取りに来るのが初めての僕には”それ”がどんな形をしているのかもどんな手続きをするのかもわからないのに、酷《こく》と言うものではありませんか!? とツッコむのは無駄骨にしかならない気がして諦めた。


 アポティが言うには、クルーツォは確かに薬師《くすし》で、栄養剤に限らず、此処《ここ》で処方される薬のほとんどの調合を|担《にな》っているらしい。
 この埃っぽいマント着用で? 薬なんて薬局や病院と同様、塵《ちり》ひとつない真っ白な清潔な環境で作られているイメージだったのに。
 と絶句する僕に、アポティは苦笑する。

「うん。みんなそう言うんだよ。でも材料を取りに行くところから精製するところまで全部彼の仕事さ。3日と置かずに外に行くから小汚くても仕方ないとは言え……此処《ここ》に来る時くらいはもう少し身だしなみに気を遣《つか》ってくれると嬉しいね。こうやって心配する子がいるんだから」
 
 最後はクルーツォに向けたものだろう。アポティも彼の汚さは気になっていたと見える。

「材料は外の世界にあるんですか?」
「そうだよ」

 アポティは明快に答えてはくれるけれども、それが何かは教えてくれない。
 砂しかないのに栄養剤の材料なんてあるのだろうか。
 昔、赤色色素は虫から抽出していたと聞いたことがあるけれど、そう言えばあの栄養剤の色は、と思い出して、思わず身震いしてしまった。
 もし虫が材料なら教えてくれなくて当然だ。むしろ何故《なぜ》想像してしまったんだと自分を責めたい。どれだけ栄養があったとしても虫の絞り汁なんて飲みたくない。


「さあ、暗くなってきた。もうお帰り」

 アポティは席を立つと、門灯を点《つ》けがてらドアを開けた。
 開いたドアから四角に切り取られた町並みが見える。オレンジと群青が混ざり合った世界に、ぽつり、ぽつり、|灯《あか》りが点《とも》り始めている。

「あ、ちょっと待って」

 帰宅を促《うなが》すアポティを遮《さえぎ》って、僕は再びクルーツォに向いた。今を逃したらもう2度と彼には会えないかもしれない。

 クルーツォは3日と置かずに外に出る。
 きっと旅立ちの日の前後も出ている。
 だったら。

 僕の中で先ほどの疑問が、今か今かと出番を待っている。

「あの、5ヵ月くらい前に外の世界で学生を見なかった!?」

 ノクトを外の世界で見かけてはいないだろうか、と――。



 だが。

「……誰かいなくなったのかい?」
 
 食いつくような勢いでクルーツォに迫《せま》っていた僕は、今までにない冷淡なアポティの声で我に返った。
 アポティが僕を見ている。瞳の奥が何時《いつ》かのフランのように瞬《またた》いている。
 レトだ。
 レトが来ている。

 そうだ。アポティもクルーツォもアンドロイド。その背後にはレトがいる。
 そして先ほどの問いは、僕がノクトを「ノクトではない」と証言したようなものだ。
 レトはずっと待っていた。僕がボロを出すのを。黙って、その時を窺《うかが》っていた。

「どうも先ほどから極度の緊張状態にあるように見受けられたけれど、それが原因なのかな? 誰がいなくなったんだい? システム上では誰も減ってはいないはずだけれども」


 前回はフランひとりだったし、途中でノクトが助けてくれた。
 でも今は。
 相手はふたりで、僕はひとりで。そしてアポティはドアノブに手をかけていて、何時《いつ》でも僕を此処《ここ》に閉じ込めることができる。

「な、何でもない!」
 
 これ以上問い詰められる前に。
 僕は箱を抱えると薬局を飛び出した。