~帳~




「チェックメイト」
「あ――っ!」

 駒を置くと目の前の人は今日に入って4回目の悲鳴を上げた。
 敵陣に誇らしげに立つビショップを恨めしそうに見ている。




 此処《ここ》は城主の執務室。
 そしてデスクワークの気分転換に1回だけ、とチェスの相手をさせられて……何故《なぜ》かもう4回戦目。いくらなんでも満足しただろう、と盤上の駒を集めていると「もう1回!」と人差し指を鼻先に突きつけられた。

「仕事が残っていますからまた後で」

 私の仕事だけではなく、あなたの仕事も。
 グラウスは笑いながらその指をやんわりと捕らえ、鼻先から避《よ》ける。ご主人様の相手は飽きることがないが、如何《いかん》せんお互いに執務の途中だ。やり残したままになっている仕事は片付けておきたい。

 だが、ご主人様は見かけによらず負けず嫌いだったりする。

「勝ち逃げなんて卑怯!」
「卑怯って」

 そんな本気で怒らないで下さい。
 気持ちはわかる。4戦が4戦とも負ければ腹も立つというもの。人は勝負に負けたとき、腹を立てて止《や》めてしまうか、再戦に賭けるかの2種類の行動パターンに分かれるが、負けが続けば割合は高確率で前者に傾く。だからこそ、なお勝ちを望み、挑戦し続ける姿には好感を抱《いだ》かずにはいられない。
 だが。
 世の中には時と場合というものがあるのです。

 ぷーっと頬を膨らませる様子は子供のようで微笑《ほほえ》ましくもあるのだが。
 しかし甘い顔をしてはいけない。

「駄目! 今!」

 ほら。
 そんな顔をするから、声高に食い下がられてしまう。

 何てわがままな。
 これも今まで散々わがままを聞いてきたツケが回ってきたのだろうか。強く押せば聞いてもらえると思っているのだろうか。
 そうでなくともこの人は、手を変え品を変え攻めてくるから厄介すぎる。
 今回も、

「ねぇお願い~グラウスぅ」

 両手を組んで涙目で訴えてくる。


 あなたには男としてのプライドはないんですか?
 あぁかわいい、かわいすぎる! それが演技だとわかってはいるものの! そんな顔で甘えれば落ちると思って……実際、何度その誘惑に負けたか知れない。
 そう思いながらチラッと横目で見ると、尚一層ウルウルと見つめてくる始末。

 ……駄目だ。

「……あと1回だけですよ」

 自分で言うのも何だが甘すぎる。


 案の定、彼は目を輝かせてウキウキと駒を並べ始めた。
 今の今まで泣きそうだったのに、この知能犯め。そんな考えがモニョリ、と首をもたげる。もたげると、ちょっと意地の悪いことも思いつく。

「その代わり、勝負なんだから何か賭けましょう」

 こんなふうに。
 なのに、

「いいよー」

 そんな簡単に!

「私が勝ったらなんでも言うことひとつ聞いて下さいね」
「いいよー」

 お願いです。もう少し警戒心を持って下さい。普通は自分が勝った時の条件も付けるものでしょう?
 それにあなたは今日1回も勝ってないじゃないですか。どう考えたって言うことを聞かされるのが確定なのに!
 自分で言いだしたこととは言え、あまりに無防備過ぎて不安になってくる。
 なのに、執事の心、主《あるじ》知らず。

「負けないから!」

 人の話なんて聞いちゃいない。




「はい、チェック」
「あ――っ!!」

 最速7分24秒。
 申し訳ありません、本気を出させて頂きました。
 クイーンの前に立つポーンを凝視するご主人様を尻目にグラウスは自軍の駒を引き上げ、相手の駒も回収する。

「約束ですよ。言うこと聞いて下さいね」

 そんな恨めしそうな顔しないで下さい。
 毎回、毎回、同じ手に引っかかるあなたも悪いんです。真っ直ぐ突っ込んでくると言うか、策略を見抜けないと言うか。これであの腹黒い貴族社会をどう生き抜いてきたのか、過去に|遡《さかのぼ》れるものなら|遡《さかのぼ》って見てみたい。
 が、まぁ、遡《さかのぼ》るのは後にして。

 グラウスは目を細めると身を屈《かが》め、ぶすくれているご主人様の耳元で囁いた。

「……今夜一晩、お相手をして頂きます」
「一晩!?」

 ご主人様は素っ頓狂な声を上げる。

「ひ、一晩……って、」
「お迎えに伺《うかが》いますから待っていて下さいね」

 話をよく聞きもしないでホイホイと賭けに乗る方が悪いんですよ。

 我ながら意地が悪かったかなと思いつつ。
 ショックだったのは負けたことに対してだろうか。それとも「一晩」についてだろうか。
 申し訳ないと思いつつもやり残した仕事を完遂すべく、グラウスは執務室を後にした。




「お待たせしました」

 夜9時。
 城内の見回りを終えて執務室に戻って来たグラウスの視界に、これ見よがしに机に向かう主《あるじ》が映った。いつもなら面倒くさい、と放り出す書類の山に、黙々と目を通している。
 集中しているのか、執事《自分》が入って来たことにも気付いていないようだ。

 が。

「はい、終わり」

 書類を脇に除《よ》け、手からペンを取り上ようとすると握りしめて離さない。

「青藍様?」
「……待ってない」

 そんな嫌そうな顔をしなくても。
 まぁその顔を見れば、「一晩」から何を想像したのかは推測もつ……かなくもないが、しかしこの主《あるじ》に限ってソレを思いつくだろうか。
 そんなことを考えながら、指を1本ずつ外し、ペンを取り上げる。
 そして。

「や、く、そ、く」

 手を差し伸べると、案の定怯《おび》えた目で見上げられた。
 それでも笑顔でしぶとく待つこと5分。観念したかのようにおそるおそる重ねてきた手を握って、椅子から引っ張り上げる。

 困ったな。これは本当に苛《いじ》めたくなってきた。
 と言うか、期待されているならその路線に変更することも辞しませんよ? 私は。

「さて、何処《どこ》に行きましょうか。……青藍様の寝室が一番近いですが」
「っ!」

 意地悪く囁くと、肩を竦《すく》めて目をぎゅっと瞑《つぶ》ってくれちゃって。
 反応が初々しい。
 これは夢だろうか。嫌がっているのに逃げないのは少しは期待している、と受け取ってしまいそうだ。

「大丈夫。トロトロに蕩《と》けさせて差し上げます」

 囁きながら耳たぶを甘く噛む。
 何処《どこ》の18禁だかと失笑する自分がいる一方で、そこまでされても逃げないなんて、ホントどうしよう、を次手をこまねく自分もいる。
 賭けの約束が効いているのだろうけれど、あんな一方的な賭け、普通は破棄して当然だろうに。真面目なんだか馬鹿正直なんだか。予定を変更して本当に頂いてしまいましょうか? ご期待通りに。
 なんて悪魔の囁きすら聞こえて来……いやお前が悪魔《魔族》だろうが。そんなセルフツッコミが心の中で吹き荒れる。でも逃げない。

 どういう育てられ方をしたらこうなるのだろう。
 これで本当に今まで無事だったのだろうか。
 初めて出会った時も無邪気というか純真というか、全く他人を疑わなすぎて心配になるレベルだったが……いや無事でいられるはずがない。だってここまでされて逃げないんだもの。


「そんなに硬くならないで。さ、行きましょう」

 これ以上苛《いじ》めると本当に襲ってしまいそうで、グラウスはひとつ息を吐き、手を取り直す。
 我ながら紳士だ。ありがたく思いなさい。





「何処《どこ》、行くの?」
「着いてからのお楽しみです」

 廊下を通り、庭を抜ける。
 それがなければ全く気がつかないような、裏山へと続く庭木戸を開けて。
 藪《やぶ》を掻《か》き分け、一斉に芽を出した少し湿った柔らかい草の上を歩いて行く。

「……まさか……青姦……」
「(ぶはっ)」

 聞こえてます。聞こえてますよ。何てこと言うんですか。
 顔から火を噴きそうになって、捕《つか》まえていた手を強く握ってしまった。そんなことを言われたら後ろなんてとても見られない。

 よもやとは思いますが、本・当・に・期待されているわけじゃないです、よ、ね?
 もし期待されていたらどうしよう。
 初夜が屋外とかやっぱり犬、なんて思われていたりし……いや、初夜って何だよ。いくらなんでも真面目な執事を演じて10年、そんなことをする男には見られていないはずだ。と言うか、普通そういうものは男女ですることであって、同性に一晩付き合えと言われたところでせいぜい飲み明かそうぜ! というのが関の山だろうに。
 あれか? やはりこの顔だから男に言い寄られる率が高すぎたのか? 同性でもそういうシチュエーションになってしまうのか?
 って、何時《いつ》!? 何処《どこ》で!? まさかと思うが経験済みだったり!? いや! いやいやいや、私の姫に限ってそんなはずは。でも誰にでもホイホイ付いて行くような警戒心の薄い人だし、騙されてヤられちゃったりしていないとどうして言えよう。
 いや、そんなはずは。
 この人の背後にはあのおっかない兄《紅竜》がいるのだ。手を出したら殺される。一族郎党全滅の憂き目に遭《あ》わされる。
 ああ、もしかしたらアレか? 寝室だなんて言ったからか?
 外に連れ出されたから青姦になったのか?
 何も知らなさそうな顔をしているけれど年齢からすればエロ系のアレとかソレとかも知っていて当然だし、私の言い方もエロかったし……と言うことはやはり……。

 頭の中でそんなとめどない想像と妄想が渦巻く。