22-18 月を想う~Ballata Popolare~




 ああ。この夢を見るのは何度目だろう。
 真っ暗な空を仰《あお》いでグラウスは思った。
 夢なのか現実なのかわからないこの闇の中でだけ、あの人に会うことができる。触れることはできないけれど、でも、私が知っているあの人が此処《ここ》にはいる。


『あなたが見てきたノイシュタインでの坊ちゃんは、私が植え付けた別の人格なんですよ』


 犀《さい》は言った。
 「あの人」は青藍ではないのだと。いずれ消え去ることが決まっていたのだと。


『戻ってほしいのはどっちの坊《ぼん》? 鬼畜魔王様か、お姫様か』


 ガーゴイルは言った。馬鹿な質問だと思った。どちらも青藍だろうに、何故《なぜ》どちらかを選択しなければならないのか、と。
 だが犀《さい》が真実を語っているのなら、ガーゴイルの言葉も俄然《がぜん》真実味を帯びて来る。魔王として10年間私の傍《かたわ》らにいたあの人は青藍ではない。このまま時間《とき》が経《た》ったところで――紅竜が弟にしたようにどれだけ虐《しいた》げ、苛《さいな》めたとしても――あの人にはならない。


「……私は、」

 何を間違えた?
 どうすればいい?
 私が想っていたのは姫だった。いや、実際にあの時に出会った姫は青藍で間違いない。だがその後ずっと私が青藍だと思っていた人は青藍ではなくて。でも私の中では青藍で。今更違うと言われて、何も解決させないままこうして夢に逃げ込んで。夢の中にしかいないあの人の影を追って。

「私は、」


『ま、これはこれでいいんじゃない? 素直でかわいいお姫様がお好みでしょ?』


 このままいけば姫の面影の残る青藍にはなるだろう。おとなしくて従順で、抗《あらが》いたくても抗《あらが》えず、赤の他人の人生に無理やり自分の希望を見出そうとするような、そんな人に。
 私はそんな人を守りたかったのではなかったか? ひとりにしたくなかったのではないか? なのに。

 ポケットを探り、半分欠けた耳飾り《イヤリング》を取り出す。
 この耳飾り《イヤリング》は姫から貰ったものだ。そして私と青藍を繋《つな》いできた。繋《つな》がっていると思っていた。
 魔界本庁で、ノイシュタイン城で。
 私と青藍を。私と「姫」ではなく。




 遠くで水の音がする。その音に導かれる。
 あの水の、あの噴水の向こうにいるはずだ。たったひとりで月を見上げて、小さな声で歌を歌っている。声を掛ければ逃げてしまうから、私は隠れてその姿を目に焼き付ける。夢が終わるまで、ずっと。
 今日もいる。きっといる。
 あの向こうに……。


「――やりたいことは終わったの?」

 幼い、それでいて妙に凛《りん》とした少女の声に、グラウスは顔を上げた。
 今までこの世界に、自分と青藍以外の第三者が現れることなどなかった。

 誰だ?
 誰が入り込んでいる? この世界に。

 弧を描く水飛沫《しぶき》の向こう側に、青藍ともうひとり――淡いクリーム色の髪をした少女が見えた。水玉のひとつひとつがふたりの姿を映し出している。
 あれは、何時《いつ》かの少女だろうか。月下美人の香るベランダで姿を消した、あの。


「帰りましょう。私たちは此処《ここ》にいてはいけない」


 彼女は、あの日の夜と同じように巨大な月を背に受けて。
 あの日の夜と同じように、青藍に手を差し出している。


 そう言えば、ルチナリスが奇妙なことを言っていた。
 光の柱から救い出した青藍が目を覚ます時に白昼夢を見たと。その中にあの少女がいたと。
 魔力がなくなれば連れて行けると、そう言ったと。


「聖女も魔王もいらない新しい世界が始まろうとしている。強い力をひとりで持つ時代は終わったわ。もうあなたはこの世界には必要ない。そうでしょう?」


 何を言っている?
 紅竜と闇が消え、全てが終わった後、ルチナリスが聖女の力を発現することはなかった。とは言え、メイシアから貰《もら》った大地の加護にしても彼女は1度も使ってみせたことはなかったし、元々彼女が本当に何かしらの力を持っていたかどうかも怪しいのだが。
 そして力を移したと言われている青藍もその後、聖女の力と呼べそうな魔力を発動させることはできなかった。ルチナリスと青藍のふたりが揃った時にはまた違う結果が出せるかもしれないが、今となっては彼らが揃うことはない。
 ロンダヴェルグで新たに聖女として祀《まつ》り上げられた娘はただの治癒魔法使いで、聖女の力は持っていないと聞いている。選ばれなかった娘たちもそうだ。
 つまり、この世界から聖女としてその力を操る者はいなくなってしまったということだ。
 魔王――勇者の相手をする役割としてではなく、真の魔族の王は元々いない。聖女の光魔法に相対した闇の力を操れる者もいない。

 しかし光も闇も消え去ったわけではない。生きとし生ける人々の中に、それは小さな種として埋もれている。黒い心と白い心が誰の中にもあるように。

 何時《いつ》かまた、人々の中から闇を引っ張り出して集めようなどと愚かなことを思いつく者がいるかもしれないが、推測の域を出ない話に目くじら立ててそうなりそうな者を探し回るのも愚かしい。
 その時はその時。
 人々の中に光の種が残っていればどうとでも対処できるし、そこまで我々がお膳立ててやらねばならない義務もない。

 だから、兄《紅竜》が解放した闇を封じるためだけに生を受けた青藍の役割は終わった。これからは……人並みと言うにはほど遠いけれど、家を背負《せお》って当主として暮らしていくのだ。
 隔《へだ》ての森を閉めることで貴族たちからの敵意の矢面に立たなければならないし、人間界に関われなくなったことで貴族社会の勢力図も変わる。
 紅竜の名も何時《いつ》まで使えるか。
 当人が出て来なければかつての恐怖政治を盾にしたところで、その盾が薄氷でしかないとすぐに見破られてしまう。
 それなのに。


「やりたいことは、あなたの役目はもう終わったんでしょう?」


 必要ない?


「さぁ」

 差し伸べた少女の手に、青藍が手を伸ばすのが見えた。

 何故《なぜ》だ。まだすることは山のようにある。あなた自身の幸せもこれから掴《つか》もうって時に、何故《なぜ》その手が取れる?

 足が石畳を蹴る。
 
 駄目。
 駄目だ。
 その手を取っては駄目だ。

 私から……その人を奪うな!!

 もつれ込むようにしてふたりの間に割り込んだグラウスは、宙に浮いたままのその手を掴《つか》んだ。




「……グラウス、さん?」

 不思議そうな声に、グラウスは顔を上げた。
 「さん」?
 と言うことは、この青藍は夢の中で会う彼《青藍》ではないのか? これは夢ではなくて現実なのか?
 それとも思い出の中の――夢の世界の彼すらも、今の彼に上書きされようとしているのか?

 わからない。
 口を噤《つぐ》んだままじっと執事《自分》の動向をうかがっている彼は、昔の彼のようでもあり今の彼のようでもある。
 でも。

 グラウスは青藍の手を掴《つか》んだまま振り返った。
 彼女はあの日の夜と同じように、月を背にして浮かんでいる。三日月のように弧を描いた口とそれに反して全く笑っていない目は、それ自体が道化師の仮面のようでまるで表情が読めない。
 読めないが感じる。
 悪意を。

「何処《どこ》へ連れて行こうって言うんですか! この人はもう何処《どこ》へも行かせません!」

 それが月の世界でも闇の奥底でも。もう2度と。
 あの日、私は青藍に言った。「手足を折るのはその後でもできる」と。
 たとえ役割が終わろうとも、この世に未練を失くしたとしても、私はあなたを何処《どこ》へもやらない。骨を砕き、絆《きずな》の糸で雁字搦《がんじから》めに縛り上げて、鳥籠の中に閉じ込めて。そのせいであなたに嫌われることになっても厭《いと》わない。


「この子を守ってくれてありがとう。でももうその役割は終わり」

 三日月の口のまま彼女は言う。

 いったい彼女は何なんだ。
 何故《なぜ》連れて行こうとする。

「終わりません。私は、未来永劫この人を守っていくと誓いました。死ぬまで、いえ死んだってこの人は誰にも渡しません」

 渡さない。
 月の使者にも、お偉方《えらがた》が選んだ婚約者にも。

「終わったのなら、もうこの人を解放して下さい」
「解放しようとしています。この世界のしがらみから」
「違う!!」

 役割が終わったからもう必要ない、なんて言わない。
 私には必要なんだから。
 他の誰がいらないと言ったって、私には。私にだけは。


「あなたはいいんですか? このまま消えてしまってもいいんですか!?」

 グラウスは青藍を問い詰める。
 困ったように少女と自分とを見比べる青藍が歯痒《はがゆ》い。
 これは私のあの人ではない。10歳の、私のことも「不特定多数の大人のひとり」としてしか見てくれない青藍でしかない。
 彼にとって自分はただの執事だ。数ヵ月前に専属執事としてやってきたばかりの。連れて行こうとする少女の思惑がわからないのと同様に、私がこうして引きとめようとする理由もわかってはもらえないだろう。
 でも。

「必要ないのなら私に下さい! あなたを、あなたの全てを……っ」

 もう、離れるのは嫌だ。
 あなたを失うのは嫌だ。
 あなたに嫌われても、私はあなたを離さない。

「ずっと待ったんですよ。もう、置いて行かないで下さい……」

 それでも行くと言うのなら、いっそこの場で殺して下さい。
 あなたのいない世界では、私は息をすることすらできないのだから。




「これは異なことを」

 少女の仮面のような顔からくつくつと笑い声が聞こえて来る。口元は弧を描いたままで、目と鼻も微動だにしない。まるでその顔の下に、もうひとつの顔が隠れているようだ。

「其《そ》れはお前が欲する者ではないでしょう?」


 グラウスは少女を睨《にら》みつつ、後ろ手に掴《つか》んだままの手に力を込める。
 宙に浮いているだけなら何とも思わなかった、と言うと何処《どこ》からかツッコミの声が上がる気がするが、これでも魔族だ。空を飛ぶ芸当くらいでは驚かない。
 だがその能面じみた顔で嗤《わら》われているのは、この世に非《あら》ざるモノと対峙《たいじ》させられている薄気味悪さを感じる。

「主《あるじ》を身を挺《てい》して守るのは当然のことです」
「主《あるじ》の意思を尊重するのも従者のつとめではなくて?」
「意思?」

 握っていてもふいにその存在が消えてしまいそうで不安だ。本当は振り返って其処《そこ》に青藍がいるのか、掴《つか》んでいるのがまだ青藍なのかを確かめたい。
 だが振り返った途端、霧のように掻《か》き消えてしまう気がしてならない。もしくは腐肉の塊と化しているか。引き合いに出すのはおこがましいが、冥界にいる妻を迎えに行ったオルフェウスが、振り返るなと言われていたのに振り返ってしまった時のあの惨劇のように。

 なんせ、これが夢なのか現実なのかすら曖昧《あいまい》なのだ。
 夢なら消えたところで目を覚ませば万事おさまる。現実なら実在する人が消えたり腐ったりするはずがない。そうはっきりと言えるのに、曖昧《あいまい》なままではそのどっちつかずの中間――現実のくせに夢ならよかったと思わざるを得ない悲劇が起きる可能性もあり得る。

 それに振り返るということは、少女に背を向けるということ。
 少女を視界から外すということ。
 背を向けている間、少女が邪魔者の自分《グラウス》を排除しようとして来ない保証はない。


 青藍は少女に向かって手を伸ばしていた。掴《つか》もうとしていた。
 それはつまり「帰ろう」という誘いに「帰る」と答えたようなもの。「必要とされていない」という言葉に是《ぜ》で返したということだ。
 なのにこうして間に入り込んで邪魔をするのは、彼女が言う通り主《あるじ》の意思を尊重していないことになるのだろう。さっきからずっと青藍が黙ったままでいることも、邪魔だてする自分《グラウス》に呆れ、失望しているからかもしれない。
 けれど。

「主《あるじ》の間違いを正すのも従者の役目です。
 いいですか、その耳をかっぽじってよくお聞きなさい。この人は何処《どこ》へもやらないし、帰らせもしない。遠い島国の故事の結末がどうであろうと私にも青藍様にも一切関係ありません。帰りたければどうぞおひとりで。貴女《あなた》だけでお帰りなさい」


 今の青藍は存在意義を見出せないでいるだけだ。
 周囲の人々が無意識に比べてしまう「兄」の存在も、犀《さい》曰《いわ》く私《グラウス》が青藍自身に重ねているという「もうひとりの青藍」も知らない。なのに周囲が無意識に見せる反応の積み重ねが、勝手に期待して勝手に失望する様《さま》が、彼に「自分は誰からも必要とされていない」と思い込ませる結果になってしまっている。
 だから差し伸べられた手に縋《すが》ろうとしている。自身の存在意義を見出そうとしている。
 その相手が心の奥底で何を考えているかには目を瞑《つぶ》って。


「主《あるじ》を失えば必然的にあなたは職をも失うことになるのだから、邪魔したくなる気持ちはわからないでもないわ。
 でも周りにもっと目を向けてごらんなさい。ヴァンパイアの姫のようにあなたの執事としての才能を買う者はいくらでもいる。中には忠誠を誓うに相応《ふさわ》しい主人もいるでしょう」
「高く評価して下さるのは光栄ですが、」
「それにあなた自身もそう思っていたのではなくて? ”この子は私の求める青藍ではない”と。このままでは双方とも不幸にしかならないと思わない?」

 続く少女の言葉に、グラウスは言いかけた反論を呑み込んだ。



『姿形は同じ。声も同じ。でも、ノイシュタインでの「彼《青藍》」とは全く違う』
『私が守ると誓った人は、この人であってこの人ではない』


 そう。私は今の青藍と過去の青藍が同一とは思えなかった。
 そこへきて、別の人格を植え付けたという犀《さい》のあの台詞《セリフ》。そのせいで「今の」青藍と「過去の」青藍が別人であると、頭の中で固定されてしまった。


『坊ちゃんは察しのいい子でね。あなたが別の誰かを自分に見ていることくらいわかっていらっしゃいます』


 私がそう思っていることを、青藍は察していた。
 警戒するわけだ。自分を見てくれない執事《グラウス》に心が許せるはずもない。

 残酷なことをしてしまった。
 青藍が悪いわけではないとわかっていたのに。彼は記憶すらなくした被害者だと、それもわかっていたのに。

 
「だから連れて行くの。この残酷な世界から。残酷なあなたから」


 傷つくばかりの記憶など捨てて。
 何処《どこ》か新天地で、自分が「青藍」という個だったことも忘れて。
 そのほうがずっと青藍にとっては幸福……なのか?

「あなたも言っていたでしょう? この子に世界を見せたい、と。
 東洋の国の人々がこの子と同じ黒い髪をしていることを。この子が苦手にしている海がどれだけ広いのかを」
「そ、れは」
「なのに此処《ここ》に留まれと言うの?」

 そうなのか?
 矛盾しているのか?



 言い淀《よど》んだグラウスに勝ちを確信したのか、少女は能面を崩して笑みを浮かべた。

「長く待たされたけれど、やはりあの時に連れて行けばよかったのよ。そうすれば他人の闇を取り込むなんて馬鹿げたこともしなくて済んだ。そのせいで記憶を失うこともなかった。
 あなたみたいな獣《ケダモノ》も、闇の王も、この子を手に入れるには分不相応《ぶんふそうおう》。地を這《は》う者が天に座《ざ》す月を欲するのは自然の摂理だとしても」


 闇の王というのは封印されていたあの闇のことだろうか。
 それとも紅竜のことを指しているのか。
 紅竜は最後まで青藍を手放そうとはしなかったが……もしかして彼《紅竜》が急に生きることを諦めたように見えたのも、この少女の意思が介在しているのではあるまいな?
 グラウスは目の前の少女を探る。
 思えば彼女は存在自体が普通ではなかった。成長度合いも、能力も、やってきた意図も。敵か味方かも。ただわかるのは青藍を何処《どこ》かへ連れて行こうとすること、当時、敵として認識していた闇とは違うものだということだけだ。

 少女は朗々と話し続ける。

「あなたが魔眼に魅了されたのはお気の毒としか言いようがないわ。でも、今となってはこうしてあなたが愛だの恋だのと勘違いしてる気持ちが偽物だってわかったんだから良かった、と言えるのではなくて?」


『――魔眼。知らんのか?』


 青藍の目には魔が宿っている。
 私のこの想いも所詮《しょせん》、青藍に植え付けられた偽《いつわ》りでしかない。


『偽りの愛じゃ空《むな》しくなるだけよ?』


 私では青藍を幸せにすることはできないのか? 不幸にしかならないのか?
 偽物だから無理なのか?
 私の中から芽吹いた感情ではなく植え付けられた感情だから、それにいくら価値を見出そうとしたところで無駄でしかないのか?


『俺が消える時は傍《そば》にいてくれる――?』


 植え……付け、られた?
 誰に?
 青藍に?

 何のために?





 グラウスは笑い声を立てた。

「何が可笑《おか》しいの」
「失礼。異なことを、と思ったまででして」

 少女の訝《いぶか》しげな問いに、グラウスはただ鼻で嗤《わら》うだけで返し、あえて彼女が吐いた台詞《セリフ》をそっくりそのまま投げつけた。
 意気消沈していた執事の突然の変化に少女は眉をひそめている。

「私は25年もの間、青藍様ひとりを見てきました。どうやったら彼に好かれるか、彼の特別になれるか、彼の傍《そば》にいることができるか。分不相応《ぶんふそうおう》な望みですが、そればかりを考えていましたよ。
 でも私がそうやって苦労する原因は、元はと言えば青藍様が魔眼を使って私を魅了したからなんですよね? あなたもそう仰いましたし、アンリからもそう聞きました。
 そして魔眼を使ったということは、言い換えれば青藍様は私を手放したくなかった。私の傍《そば》にいたかった、ということですよ。傍《そば》にいてくれなんて告白そのものの台詞《セリフ》まで吐かれて。どうして今まで気付かなかったのか、過去の自分の鈍《にぶ》さを呪いたいくらいです」
「何いきなりおめでたいことを言っているの?」


 見方を変えればいい。
 私にとっては偽りの想いかもしれないが、青藍からすればどうだ。何のために魅了した。
 幼い頃から魔眼を操る訓練までさせられていたと言う彼だ。魔眼で魅了させればどうなるか、そのあたりも知らないわけはあるまい。そして私と青藍が出会ったあの夜は、魅了させなければ危険が及ぶので仕方なく、というシチュエーションではなかった。
 では何故《なぜ》魅了させる必要があった?
 答えは簡単だ。小難しく理由を捻《ひね》くり回すより、純粋に考えればいいだけのことだった。


 もしかするとあの夜、青藍は魔眼など使わなかったのかもしれない。
 私が勝手に一目惚れしただけなのかもしれない。
 それならそれでいい。私のこの想いが偽りでないのなら、それこそ悩む必要もない。


「そしてあなたは仰いました。長く待たされたけれど、やはりあの時に連れて行けばよかった、と。そうすれば他人の闇を取り込むなんて馬鹿げたこともしなくて済んだ。そのせいで記憶を失うこともなかった、と。
 それはつまり、今のこの青藍様とノイシュタインにいた青藍様は同じだと、あなた自身が認めたのようなものですよね?」


 犀《さい》が植え付けた人格だとしても、それが青藍であったことには変わりない。人格を形成するのは記憶と過去の積み重ねだ。
 甘いものが苦手にしたいなら、そう仕向ければいい。
 尋ねる時に「どうかした?」と小首を傾げてみせてほしいなら、そう育てればいい。
 ガーゴイルを踏みつける性格も、耳飾り《イヤリング》がひとりでは付けられないくらい不器用なところも。
 そうだ、それでも炎の竜だけは狼にデザインを変えてもらおう。それだって今からなら間に合う。
 いいじゃないか。聞けば私好みの主《あるじ》になれるよう、本人も努力を重ねている、と言うのだから。ああ。それだって一種の告白だ。あなた色に染まりますなんて、何処《どこ》まで私のことが好きなんですか青藍様。

 私が最後まで隣にいることを望んだのは、あなただ。
 私はそれだけを信じれば良かった。第三者がどう邪推して来ようとも関係ない。


「屁理屈で言い負かそうったって、」
「屁理屈はあなたのほうでしょう? 私は確かに青藍様にはもっと世界を見てほしいと思いました。そう言いました。でもね、それには案内をする”私”が必要なんです。
 そしてあなたが連れて行こうとしている場所は”世界”ではない。そんなところを見て回ったところで青藍様の糧《かて》にはなりません」

 そうだ。さも私の言い分が矛盾しているように言っているが、そもそも連れて行く場所が違う。
 この娘が連れて行こうとしている場所は東洋でもなければ海の向こうでもない。下手をすると世界ですらない。

「ああ、あなたがご存じかどうかはわかりませんからついでに教えて差し上げましょう。
 青藍様は私から闇に染まった魂を引き抜き、代わりに自《みずか》らの魂を私に下さったことがありましてね。まぁ、言い換えれば青藍様と私は互いに魂を半量、交換した仲なんですよ。
 つまり私と青藍様の魂は同じ。魂が同じなら一心同体も同じ。そして私はまだこの世ですることがあります」

 こんな言い分こそ第三者からすれば屁理屈なのかもしれない。第一、魂が混ざったかどうかなんて証明するものもない。都合のいい妄想でしかない。
 何処《どこ》へ連れて行けば青藍が幸せになれるかなんてことも、他人が決めることではない。
 だが。

「青藍様には私の隣で私と幸せになって頂きます。偽りから派生したものであるならなおのこと、私の25年を費《ついや》した責任は負って頂かなければ」

 青藍が私に|傍《そば》にいてほしいと願ったことだけは嘘偽りのない事実。私は執事として、従者として、友として、全身全霊でそれに応えればいい。それだけだ。
 問題はその言葉に乗った感情が友情か愛情かの違いだが、この少女の前で指摘するつもりはない。
 駆け引きとは5割、あるいは9割の考えを隠して相手側に勝手に想像させること。それが交渉を優位に持っていく秘訣だ。


「と、言うわけであなたの出る幕はありません。お帰り下さい。
 そう言えば以前、魔力がなくなれば連れて行けるとかうちのルチナリス相手にほざいたらしいですけれど、あなたにそんなことを決める権利はありませんよ。死ねば連れて行けるという発想も論外です。魂が同じということは、死した後もずっと青藍様は私のものですから」
「そんなことが許されると思うの!? この子は、」
「わ・た・し・の、青藍様です。25年前から私のものです。数ヵ月前にポッとでてきたあなたにも、10年程度で所有権を主張する小娘にも渡すつもりはありません。
 それにいったい誰の許しが必要なんです? 強《し》いて上げれば青藍様本人ですかね?」
「獣《ケダモノ》の分際で! その子は、私たちは、お前たちとは」
「この人は私のものです。何故《なぜ》そこまで上から目線で語れるのかは存じませんが、そちらこそ私のものに手を出さないで頂きたい」

 少女が怒りに肩を震わせている。もし紅竜を心変わりさせたことや闇を打ち消したこと、その他諸々に彼女が関わっているのだとしたら、今度こそ攻撃されるだろう。
 だが、連れて行くということは利用価値を見出しているということ。魂を同じくすると自称する自分《グラウス》に危害を加えることで万が一青藍に飛び火することがあれば、という考えが彼女の中にあれば、行動を縛りつけることができる。

「それに、先に私を選んだのは青藍様だ」

 グラウスは肩越しに後ろを見た。どうやら無事に地上まで来ていたらしい。視界に映るのは25年間恋焦がれた人で、腐肉ではない。
 安堵にひとつ息を吐き、改めて身を返す。

「……そうでしょう?」
「そ、れは、」
「思い出してください。私はあなたのもので、あなたは、私のものだ、と」

 想い人の両肩を掴《つか》み、正面から人生史上初の「いい笑顔」を向ける。
 そうだ。私はいつも正面からこの人に向かわなかった。後ろから見ていたって気付かれない。心の中で訴えても伝わらない。そうしている間に他の連中が手を出そうとする。


『――生憎《あいにく》と所有物に記名する習慣はないのでね』


 紅竜はそう言った。
 名前がないから奪い取れるなんて暴論がまかり通るのなら、記名しておけばいい。


「だから、結婚してしまいましょう」




 青藍は目を見張った。
 ああ、この顔。25年前に好きだと言った時とまるで同じだ。
 あの時は「ありがとう」と言われた直後に逃げられた。自分に関わると命が危ないから、と、当時の自分《グラウス》には理解できなかった口実で。
 でも今はもう逃げる口実はない。
 あなたに、「兄」はいない。

「責任、取って下さいますね?」
「でも。僕は」


 僕、か。目の前にいる青藍はやはり自分《グラウス》との記憶を一切持たない青藍でしかないのか。
 どちらの青藍も同じだと認識したばかりだというのに胸が痛む。この世界に――夢と現《うつつ》の境目にいる時のあなたはいつも「俺」だったのに。


「……男なんです」
「…………………………知っています。ついでに言えばあなたを女性扱いしているわけでもありませんよ」


 このやりとりも何度繰り返したことだろう。
 彼が中性的な容姿にコンプレックスを持っていることは知っている。そう言ったところで世の女性陣&心は女性な男性陣から嫉妬の火炎放射を浴びせられるだけなのだが、当の本人は本気で気にしていた。
 同性愛嗜好があるわけでもないから、下手に好きだと言えばコンプレックスに塩と辛子《からし》を擦《なす》り付けるだけ。必要以上に嫌悪の目で見られて避けられることは間違いない。
 だからこちらも真っ向から好きだとは言わないようにしていたのに、暗に示唆《しさ》したくらいでは気付いてもくれないなんて酷《ひど》いじゃありませんか。


「ただ残念なことに狼は1度伴侶と決めた相手を違《たが》えることはできないんです。25年前、私の胸に大型弩砲《バリスタ》を撃ち込んだ責任は取って頂きます」
「大型弩砲《バリスタ》!?」
「黙りなさい!」

 そこへ少女の声が割って入った。
 ずっと背後で浮かびながら事の次第を眺めていたのだろうか。他人の恋路、それも告白にまつわるあたりの展開は壁になってでも見守りたいと豪語する者もいるそうだが、彼女に限っては違うだろう。
 
「その子はただの子ではないの。強すぎる力は世界の均衡を崩してしまう。あなたがどれだけ庇《かば》おうとも、その子を道具として見、道具として扱おうとする者は現れるでしょう。だから、」
「……やれやれ」

 背後にいるからどんな顔をしているかはわからないけれど、世界平和などという漠然としたものを謳《うた》う者は大抵胡散臭《うさんくさ》いものであるらしい。
 ルチナリスはその言葉を勇者《エリック》から聞いたと言っていた。あれだけ大法螺《おおぼら》が吹ける勇者《エリック》が言うのだから、言葉の真実味も増すと言うもの。グラウスはまとわりつく少女の声を振り払うように首を振る。
 そして、その声を無視するように、あえて青藍にだけ目を向けた。

「本当に。あなたは昔から変なものにばかり好かれる性質《たち》で困りますね」


 小娘やご婦人方ならかわいいほうだ。フロストドラゴンに始まり、紅竜だのルアンだの町長だのと……犀《さい》が「虫がつかないようにその手の感情を外した」のは自分《グラウス》対策と言うばかりではなく、彼らを遠ざける意図もあったのではないか、いや絶対に自分《グラウス》よりも連中対策だったはずだ。と考えたくなってしまうほど。
 そして、その大半が青藍の身分や魔力を欲してのことだったから少女の言い分もわからなくはない。現に自分も犀《さい》に向かって「再び道具として扱うつもりではないのか」と問うたことがある。
 だが。

「先ほども言いましたが、私と青藍様は魂を共有しているんです。青藍様がどれだけハイスペックだろうとも、地を這《は》うしか能のない凡庸《ぼんよう》な獣《ケダモノ》と足《た》してしまえばプラスマイナス0《ゼロ》ですよ。ご心配には及びません」
「ふざけるな!」


 金切り声と共に、視界が黒に染まった。
 背後から生温い風が吹く。と思いきや、強風が背に叩きつけられる。
 前のめりに倒れかけ、グラウスはそのまま目の前の青藍にしがみついた。


「お前たちが行く道は茨《いばら》の道だ。何も好き好《この》んで他人から後ろ指をさされに行くことなどないだろうに」
「勝手に不幸だと決めつけないで頂きたいものですね。闇の蔓《つる》に全身巻き付かれ、首を絞められ、それでも私たちはこうして生きているんです。茨《いばら》程度の障害など、大《たい》した部類にも入りませんよ」

 反論している間にも風は吹く。足首に絡みつき、浮かせようとする。


「その子はお前の手には負えるまい」
「手に負えなくてもいいんです。私は青藍様を鳥籠に閉じ込めたいわけでも、保護者として守り続けていきたいのでもありません。障害は全て、ふたりで越えます!」


 抱きつく切欠《きっかけ》を作ってくれてありがとう! どころではない。風に押され、とうとう足が浮いた。そのまま横っ飛びに吹っ飛ばされる。
 咄嗟《とっさ》に青藍の頭を片手で抱え込み、もう片方の手を背に回し、グラウスは衝撃に備えた。
 青藍を下敷きにしないよう体を捻《ひね》って受け身を取ったが、捻《ひね》りきれなかったらしい。2人分の体重の一極集中を受けた左肘《ひじ》が悲鳴を上げる。次《つ》いで尻から後頭部にかけての広範囲が地べたに叩きつけられ、飛ばされた勢いのまま数メートル。大きなやすり金《がね》で削られたような痛みが走った。

「痛《つ》……っ!」

 思わず呻《うめ》く。
 と、額に冷たいものが触れた。
 薄目を開けると腕の中に抱え込んでいた人が身を乗り出すようにして自分を見ている。左手を伸ばしている。その手は――。


「姫」

 彼女だ。25年も恋焦がれた、青藍と同じ顔をした人が其処《そこ》にいる。
 しかし何故《なぜ》。私が抱えていたのは青藍であって彼女ではない。
 今|流行《はや》りの「イセカイテンセイ」とやらの亜流で、命を落とさなかったから過去に戻される程度で終わった、なんて事態になったのだろうか。いや、それなら本家で散々死にかけた時に何もなかったことをどう説明したらいい?
 しかし目の前にいるのは確かに彼女。吹っ飛ばされた数分で襟足までの短髪が腰まで伸びるはずがないし、ドレスに着替えられるはずもない。
 だが。


 違う。
 頭の中で響いた自分の声に、グラウスは息を呑んだ。
 彼女は青藍で、青藍は彼女のはずだ。証拠となるべき当時のドレスも本家にある彼のクローゼットで見つけたし、

『名前も知らない1度会ったきりの男の命を救うために、自分を犠牲にすることを厭《いと》わないような子ですよ?』

 あの夜に自分が出会った姫は青藍に間違いないと、犀《さい》も証言している。
 なのに。
 いや。

 この「違う」は……抱きかかえていたはずの彼が彼女と入れ替わっていることへのものだ。そして、

 青藍は何処《どこ》にいった。
 私の、青藍は。

 ふたりは同じ人だとわかっているのに、「青藍」でなければ、と思う自分がいる。


「……月は、太陽がなければ輝けない」

 私の額に手を伸ばしたまま、彼女は呟く。

「だから」
「だから逝《い》くのですか? あの娘の手を取るのですか? 紅竜が消えたから」

 あの兄がどれだけあなたの心に居付いているのかは知らない。
 でもあの兄はもういないのだ。それを言うのなら「彼女」も既《すで》にいないと言えるのだけれども。
 
「25年前の約束、私は果たしましたよ。あなたと出会ってもこうして生き続けています。なのにあなたはまだ運命に縛られるおつもりですか?」

 彼女は淡い笑みを浮かべる。

「私は、」
「……また何時《いつ》か、月の下で、あなたの話を聞かせて。……待ってる」
「それって、」
  
 どういう? と聞く前に視界が揺らいだ。
 咄嗟《とっさ》に手首を捕まえ――


「怪我、した?」 
「…………………………大丈夫ですよ」

 その手首の主は、つい先ほどまで私が抱えていた青藍に変わっていた。

 夢だったのだろうか。
 グラウスは手首を掴んでいた手を離し、相手の首筋に――襟足で切られた髪に触れる。
 短髪《ショートカット》の女性は庶民でもあまり見かけないが、こと貴族社会に至ってはほぼ見ることが出来ない。今の青藍ならドレスを着せても女と見間違える者はいない。

 シチュエーションだけなら25年前の夜を再現しているのだが。
 同じ人物が揃ったところで無意識に再現される確率など、天文学的な数値で言い表せそうなほどありはしない……いや、それなら先ほどの彼女は? 吹き飛ばされた衝撃で錯視したのか? シチュエーションが同じなだけに、思わず妄想世界にダイブしてしまっただけなのか?

 光の柱の中で負《お》った怪我は双方ともかなり癒《い》え、火傷《やけど》の痕《あと》もほとんどわからなくなった。
 しかし青藍の髪がかつての長さまで伸びるには、まだまだ時間が必要で。これだけ取ってみても、今しがたの彼女は現実の人ではなかったとわかるわけで。

 
「それよりも、先ほどの返事を聞かせて下さい」

 そして彼が彼であるのなら。
 私には聞かねばならないことがある。

「先ほどの?」

 はっきりとわかった。私に必要なのは彼女ではなくて彼だということが。
 先ほどの「違う」という言葉に凝縮されていたのは、再び彼女に出会えた喜びではなく、彼をまた失うかもしれないという悲しみだった。

「25年間の……えっと、責任を……」

 2度も言わせるなよこん畜生!! と本人に面と向かって言うつもりはないけれど、青藍のことだ。有耶無耶《うやむや》に流して「なかったこと」にしてしまいそうで怖い。
 ガーゴイルに冷やかされたり、犀《さい》に笑顔で否定されて断る側に傾くよりも早く、返事だけは貰っておかねば。

「……私のために、生きて下さい」


 また何時《いつ》か、という言葉が、耳の奥に溶けていく。
 あれは。


「……Do……,ve……te……」

 何処《どこ》からともなく、歌が聞こえてくる。

「……Sen…… un……Pien」

 何度も見続けた夢の中で青藍が歌っていた歌だ。
 月を見上げながらポツンとひとり、噴水の縁《へり》に腰掛けて。近付けば逃げてしまうから、と、私はそれをずっと隠れて見ているばかりだった。
 その歌が聞こえる。
 青藍ではない。心配そうに歪《ゆが》む口元は歌を歌っているようには見えない。他にこの場にいるのは少女だけだが、彼女とは声質がまるで違う。

 繰り返し、繰り返し、何度も流れるそのメロディは既《すで》に耳に刻み込まれてしまっているもの。風が鼓膜を揺らしただけでも、私にはきっと歌に聞こえる。

 そう言えば第二夫人の葬儀から帰る馬車の中で、転寝《うたたね》をしていた時に見た夢の中でもこの歌が流れていた。紅竜が見せた闇の中からも聞こえた。
 確か有名なオペラの一節で……。

「Cogitatio qu、」

 耳につくその歌の続きをハミングで誤魔化しながらなぞってみる。

『――今の青藍はノイシュタインにいた青藍ではない。別人だ』

 そう思っていた今までは、夢の中でも物陰に潜んで彼の姿を眺めているだけだった。
 彼が望んでいたのは隣に座って、こうして同じ歌を歌ってくれる私だったかもしれないのに。
 そうすれば夢の中だけでもあんな悲しい顔をさせずに済んだかもしれないのに。

 今こうして歌ってみたところであの時の青藍に寄り添うことはできない。
 けれど、でも、
 
「”Cogitatio quae est in pectore”だよ」

 うろ覚えで止まった口に、ひそりと声がした。

「え、あ……どうも、歌は苦手で」

 前もそうだった。
 眠っているとばかり思っていたのに、青藍はちゃんと聞いていて訂正を入れてくるのだ。また、今も………………………………?


 グラウスは自分の上に乗っている人を見上げた。

「青藍、様?」

 この歌は、月の夜に彼《青藍》が歌っていた歌だ。
 第二夫人が亡くなった後のあの日に、この場所で。
 人間界にいた頃は歌姫だったと言う第二夫人の歌声を聞いたことは1度もなかったが、きっと第二夫人が歌えばこうなるのだろうと、そう思った。

 彼が身を起こしたせいで中途半端に腰に回ったままになっている掌《てのひら》が汗ばむのを感じる。喉も急速に干乾びていく。

 少し前まで青藍は、私を知らない10歳のあの人だった。
 彼は生まれて間もなく第二夫人から離され、乳母と離れで暮らしていて。10歳を機に本家に連れて来られて。
 その歌は、母《第二夫人》が住む北の塔に立ち入ることを許されず、ただ下から見上げているうちに覚えたのだと、そう、言っていた。

 つまり、彼が歌を覚えたのは本家に連れて来られた以降のこと。

「……覚えているんですか? この歌を」

 10歳より後のこと。


 グラウスは確かめるように一言一言を吟味しながら舌に乗せる。
 言い間違えたりしないように。
 聞き間違えられたりしないように。

「覚えて、いるんですか?」

 私は今、どんな顔をしているのだろう。
 青藍は怪訝《けげん》そうに眉をひそめると、少しだけ首を傾げて見せる。

「……変なことを言う。母上に散々聞かされたんだよ、そう簡単に忘れな、」


 自分の吐く息が聞こえる。
 かなり荒いな。これじゃまるで不審者のようだ。ほら、現に彼《青藍》もそんな目で見ている。

「思い出したんですか……!?」


 彼《青藍》は答えない。
 具合が悪そうだけど大丈夫? と目が語っているが、其処《そこ》はあえてスルーさせて頂く。其《そ》れに答えたたら最後、別の話題に脱線して行くのは目に見えている。

「そ、それじゃ妹がいたのは覚えていますか?」
「るぅのこと? お前に妹がいるなら知らないけど」
「魔王をしていたのは覚えていますか?」
「ノイシュタインの魔王役のこと? そう言えば何時《いつ》の間にか本家にいるけど、俺、何時《いつ》来たんだっけ」
「私の名前は!?」
「どうかした? さっきから変だよ?
 ……ええと、グラウス=カッツェ。実家での名前はシュネー。それでいい、うわ!!!!」

 最後まで言わせなかった。
 言う必要もない。
 手を伸ばし、両腕を掴《つか》んで引き寄せる。掻《か》き|抱《いだ》いた腕に力を込める。


 戻ってきた。
 戻ってきて、くれた。




「……グラウス?」

 どうしていきなり抱きつかれているのだろう、と言わんばかりの顔で、青藍が腕の隙間から見上げて来る。身動きの取れない体勢に不満を抱いているようにも見える。
 その目ごと、グラウスは青藍の頭を自分の胸に押し付けた。

「お帰り……なさい」
「うん?」

 こんなことしか言えないけれど。
 嬉しいとか、会いたかったとか、言いたかったけれど。

「青藍様」

 語彙力なんて何処《どこ》かへ行ってしまった。

「うん」
「青藍様」
「うん」
「青藍様、」
「うん、だから何?」

 こんなに言いたいことが溢《あふ》れかえっていると言うのに、あなたはどうしてそうも平常運転なんですか?
 こんなに。
 こんなに、あなたは。あなたって人は!

「……怒ってるんですよ私は!」

 いきなり大声を出した自分《グラウス》に青藍は目を点にした。

「なん、」
「あの時! あなた、私よりも紅竜様を選ぼうとしたでしょう!?」


 光の柱に飛び込んだ後。
 大声で名を呼ぶ自分に、青藍の意識は一瞬だけ戻ったのだ。だが、ちらりと視線をくれただけで、こともあろうに彼は紅竜に身を寄せ、再び意識を失くしたのだ。 
 あの時の紅竜が浮かべた嘲笑は今でも忘れることができない。あの、勝ったと言わんばかりのいけ好かない顔を!


「そ、れは」


 闇を消すよう課せられた己《おのれ》の使命のため。それはわかる。
 しかし差し出した手を青藍はとうとう取ってはくれなかったわけで。
 己《おのれ》の消滅さえも覚悟しているその時、それが今生《こんじょう》で会える最期《さいご》かもしれないのに、青藍の行動は紅竜を選んだようにしか見えなくて。
 わかってはいるけれど、それに傷ついたのも確かなことで。

「ずっと待とうと思ったんですよ!? あなたが! いっ、いい加減私のだって気が付くまで! なのに酷《ひど》いじゃないですか、私と言う者がありながら何人誑《たぶら》かせば気が済むんです! ああ、あなた自身そのつもりはなかったのかもしれませんが結果が同じなら同じなんですよ。少しはわかって下さい!」


 あの時わかったのだ。
 青藍はひとりで放り出したら駄目な人だと言うことを。
 すぐに他の誰かに所有権を主張されてしまう星の下に生まれた、とてつもなく厄介な人なんだと言うことを。


「痛いよ」
「気が付くまで離しません。いいですか青藍様、私はね、」


 離したら駄目だったんだ。
 比喩ではなくて、本当に、離しては駄目だったんだ。




 何時《いつ》の間にか、少女の姿は消えていた。
 月下美人の香るベランダで青藍を連れて行こうとしていた彼女が、何時《いつ》の間にか消えていたように。一晩で咲き、一晩で萎《しぼ》んだその花のように。

 彼女が何者だったのかは最後までわからずじまいだったけれども、今こうして姿を消したことが=《イコール》諦めてくれたのだ、とは思わない。
 けれど、何度来ようとも私が譲ることはない。



「あなたは! 私の、」
「……それじゃあ、一生気が付かないでおく」
「はい?」

 私の言葉を遮《さえぎ》って、その人は不敵に笑う。見上げてきた目に真紅が揺らめく。


 



 嗚呼《ああ》、その目。
 私を魅了した、魔王の瞳。




 翌日夕刻。
 グラウスは犀《さい》の執務室に呼び出されていた。

 この家の連絡網の仕様を考えれば、昨夜のことは既《すで》に犀《さい》の耳に入っているはずだ。なのに10時間近くも放置されていたのは自分《グラウス》の処分について検討されていたのか、こうして呼ばれたのは決まったのか。朝には呼び出されると思っていた身としては、この10時間は針の筵《むしろ》でしかなかったから、ここまで待たされるとむしろ「やっと呼ばれたか」なんて心境になっていたりする。
 だがしかし。それも扉を開けるまで。
 執務机の前に立たされるどころか部屋の片隅にある応接セットに通され、座るよう促《うなが》され。初めての「お客様扱い」に、これは予想以上にマズい事態かも知れないという不安が首をもたげる。

 しかも向かいには犀《さい》がぶ厚い封筒を持って座る、ときた。
 あの封筒の中身は何だろう。退職手続きに関するあれこれだろうか。犀《さい》のことだから、役所に提出する関連書類もご丁寧に《嫌味として》用意しているかもしれない。
 書類だけならまだいい。「失業したあなたへ~再就職の手引き~」なんて表題の、失業者を集めて行われるセミナー第1回目で配られるであろう小冊子まで入っている可能性も微《微粒子》レ《レベルで》存《存在する》。

 悪く想像しすぎ? だが犀《さい》に限って「此処《ここ》までするはずがない」という甘い考えは通じない。彼は青藍を魔界に連れて行く際、|自分《グラウス》を瀕死スレスレにまで叩き潰したのだ。
 そして此処《ここ》に青藍がいることも「あの件」について問い|質《ただ》されると決定づける証拠だろう。当主と言えどもこの部屋《家令の執務室》では客人《ゲスト》扱いされるのか、一介の執事である自分の隣――机を挟んで犀《さい》の真向いに並ばされる形で――腰を下ろしている。所謂《いわゆる》カップル座りだが全く喜べない。



「実はですね」
「はい」

 さあショーの開幕だ。
 心の中でそんなナレーションが響く中、グラウスは居住《いず》まいを正す。
 そんな自分をどう思ったか――きっと何も思っていないだろうが――かなりの枚数が入っていると推測できる厚みの封筒から数枚を取り出し、犀《さい》は口を開いた。

「坊ちゃんの記憶についてなんですが」
「はぇ?」

 あれ?
 絶対に昨夜の告白についてネチネチと問われると思っていたのに、振られたのは全く違う話題で、思わず間の抜けた声を上げてしまった。
 自分としても何故《なぜ》急に記憶が戻ったのかは気になるところだったから理由がわかるに越したことはないけれど、拍子抜けした感は否《いな》めない。


「完全に回復したわけではないようですね。抜け落ちたままになっている記憶もあります。が、それについて少し気になることがありまして」

 だが、今最も重要なことは記憶がどうとかよりも昨夜のアレではないのか?
 まだ伝わっていないのか。
 それとも取るに足《た》らないと捨て置かれたのだろうか。
 まさか黙認?
 いや、昨日青藍が持って来た見合い写真のお嬢様がたは皆、姻戚《いんせき》になるに相応《ふさわ》しい身分やら財産やらを持っていた。彼女らを差し置いて、一介の執事に過ぎない自分が当主の相手として許されるとは思えない。
 あの少女に向かっては「誰に許しが必要か」と言ったし、個人的な感情に誰かの許しがいるなんてナンセンスだとは今も思っているけれど、それが通用しないのが貴族社会。
 「婚姻とは即《すなわ》ち家同士の結びつき。当人の感情など二の次」と平然と言ってのける人々に自分の主張は通じない。
 そういった人々の手に引き離される事態になるくらいなら「青藍を連れて遠い何処《どこ》かへランデブー」も辞さないつもりで……針の筵《むしろ》に座っている間こっそりと荷物をまとめていたことは、未《いま》だ胸の内にしまってあるけれど。

「と、仰《おっしゃ》いますと?」

 グラウスは犀《さい》を窺《うかが》う。
 この話題は言葉どおりに受け取ってもいいものだろうか。
 暗に別の意図を混ぜてはいないだろうか。
 表面的な話題だけを聞いて受け答えをしていたら何時《いつ》の間にか思ってもいない内容を承諾させられていたとか、目の前の男は平気でそんな罠を仕掛けてくる男だ。
 だが、犀《さい》は尻尾を掴《つか》ませない。


「午前中ずっと坊ちゃんに聞き取りをさせて頂いていたのですが、戻った記憶に、とある共通点があるんですよ」
「と……仰《おっしゃ》いますと……」

 マズい。
 この遠回しな言い方、絶対に裏がある。

 が。


「戻ったのはあなたがいた時の記憶だけなんですよね」
「へ?」

 私といた時、だけ?
 思わず隣を見たが、青藍はこちらを見もしない。そのよそよそしい態度に、またしても不安が蠢《うごめ》く。ラインダンスを踊り出す。

 何があった?
 朝はこんなによそよそしくはなかった。
 流石《さすが》に昨日の今日で親密度が格段に上がったりはしないけれど、それでも記憶がなかった頃に比べれば月とスッポン。「何故《なぜ》かうちの執事が妙に馴れ馴れしい」と「グラウスは友達」では、くれる視線の温度すら違う。
 なのに。
 未《いま》だに友達と思われているのも困るのだけれども、この塩対応は何だ。こちらが針の筵《むしろ》に座らされている10時間の間、犀《さい》や長老衆から寄ってたかって責められたのだろうか。
 「雰囲気に流されては駄目」とか、「気の迷いだから、もう少し冷静になって考えなさい」とか。



 犀《さい》が言うには、青藍は記憶を取り戻したが、かなり偏《かたよ》りがあるらしい。
 まず10歳以降~魔王に就任して1年ほどの間の記憶は、ふたつを残して一切ない。
 そのひとつは魔王就任の儀式で魔界本庁に行った時のこと。しかも紅竜に連れられて会場入りする廊下を歩いていると言う、何故《なぜ》そんなところを、と言いたげなワンシーン。
 もうひとつは夜会で自分《グラウス》に会ったところから見送ったところまで。
 だが魔王に就任して1年後からは、数ヶ所を除《のぞ》いてほぼ戻っている。
 その数ヶ所とはフロストドラゴン討伐に城下町に行った時と、遠方の領地で行われた式典の記憶。後者は城を出た時から帰ってきた時まで全てが抜けている。
 あとは細かい部分が点々と。
 何故《なぜ》遠く離れた魔界にいる犀《さい》がこと細かく比較できるのかと言えば、自分《グラウス》が送っていた報告書によるのだろうけれど、あまりに詳しすぎて逆に怖い。


「これから推測するに、どうも坊ちゃんが取り戻した記憶というのは、あなたの記憶ではないかと思うのですが如何《いかが》でしょう」
「如何《いかが》と言われても、」

 一般常識を超えた推測を提示して、どう思う? と聞かれても返答に困る。
 それに何故《なぜ》、自分《グラウス》の記憶なのだ。そりゃあ青藍に何度も過去を語って聞かせたことがあるけれど、それは25年前に出会ったあの夜のこと。フロストドラゴンだの田舎町の式典だの、自分が付いて行かなかったことに関しては語るものなど何もない。
 知らないのだから。
 見ていないのだか……ら……?

「え、っと?」

 つまり。
 私が知らない記憶は青藍も思い出していない。
 私が知っている記憶は思い出している。
 それが「如何《いかが》?」に繋《つな》がる、と?

 返事に窮《きゅう》するグラウスを尻目に犀《さい》は淡々と続ける。

「これは推測の域を出ないのですけれどね。ほらあなたが昨晩も得意げに言っていらした”魂を半分交換した”というアレが関係しているのではないか、と言うのが医師団と我々の結論です」

 医師団って何だ!? 我々、とは!?
 その言葉にグラウスの中で嵐が巻き起こった。
 「うちの執事のひとりが当主と魂を交換した、なんて厨二《ちゅうに》まっしぐらな考えで、ホント困りますよ。ははははは」なんて恥ずかしい情報が、まさか赤の他人(複数)と共有されてしまっているわけですか!?

 そして、さらりと聞き逃しかけたけれど「昨晩」と言った。
 やはり昨夜の件は伝わっている。


「ノイシュタインで坊ちゃんはあなたから闇に染まった魂を取り込みました。そして此処《本家》で、坊ちゃんの魂は一時《いっとき》あなたの中に入り込みました。あの後すぐに紅竜様が引っ張り出しましたが、どうにもその過程で混ざったようなんですよね。
 紅竜様が坊ちゃんの中から自身に関わる分を抜いていったかどうかは、今となっては証明する術《すべ》など何処《どこ》にもありませんが、とにかく、10歳までの分とあなたの魂に記憶されてた”あなた視点”の記憶。坊ちゃんが覚えているのはそれだけです」

 そして犀《さい》は相変わらず淡々と話を進めていく。
 聞いているほうが理解しているかにはまるで考慮していない。否《いな》、「執事たるもの1度聞けば内容は理解して当然です」と思っているのかもしれない。
 そして自分《グラウス》なら理解できる、と思われているのか。天下の家令殿にそう思われているのは光栄なことかもしれないが……待ってくれ。理解できないことはないけれど、そんなことが可能なのか?
 しかし。
 可能不可能を越えて、現に記憶が戻った青藍がいるわけで。
 

「手塩にかけて育てた私やアンリとの日々を一切覚えていて下さらないなんて酷《ひど》いとお思いになりませんか? アンリなんてショックのあまり人間界に行ったきり帰ってきやしない。
 悲しいので私も後で魂を削って坊ちゃんの中に入れてみましょうかね」
「えっと……何かすみません」

 そうか。此処《ここ》に来てからずっと犀《さい》の言葉に棘《とげ》を感じると思っていたが、それは嫉妬からくるものだったのか。
 長年世話をして来た自分たちではなくポッと出の執事のことばかり覚えているのが気にくわないのだろう。
 アンリも青藍の指導をすると言っていたくせにずっと姿を見ていないなと思っていたけれど、って待て! 青藍が記憶を取り戻したのは昨夜だが、アンリが姿を消したのは昨日今日の話ではない。

「あの?」
「ふ、本気にするなんてまだまだ子供ですねぇ。嘘ですよ。魂を抜くだの入れるだの、そんな厨二じみた考えは”良識のあるいい大人”にはできません」

 待てよこら!!!!!
 嘘なのか? 何処《どこ》から嘘なんだ? わざわざ呼び出して、嘘を言って揶揄《からか》うほど家令というのは暇なのか!?
 自分としても魂の抜き差しができると思っていたわけではないし、むしろそんな想像ができるほうが”いい大人”足り得ないのではないかと思うけれど! でも嘘って!? ねえ!!
 だが、面と向かってそれは言えない。



「ま、わからないことを推測だけで論争するのは不毛ですね。この話はやめておきましょう」

 あれだけ推測をブチかましておいて、犀《さい》は話を打ち切った。診断書を封筒にしまい直し、別の紙を1枚取り出す。

「ああ、私としたことが。お茶も出していませんでしたね」

 そんなことを呟きながらおもむろに立ち上がり、傍《かたわ》らのワゴンからポットを取る。
 丸い硝子《ガラス》ポットに湯を注ぐと、器の中で葉が踊った。
 部屋の中に紅茶の香りが満ちていく。
 流石《さすが》は家令、香りに雑味が感じられない。そんな感想をついうっかり心の中で思ってしまった間に、彼は最後の一滴を注いだカップを青藍の前に置いた。
 そして。


「……結婚しましょう、という言葉の意味は御存じですよね? グラウス=カッツェ」

 空気が凍りついた。
 目が据《す》わっている。殺意を感じる。
 アンリが言うには、昔、犀《さい》は彼と一緒に戦場に立っていたことがあるらしい。当時の仇名・殺戮機械《さつりくきかい》に恥じない、感情に左右されそうにない殺伐とした戦い方だったそうだ。
 その殺戮機械《さつりくきかい》が目の前にいる。

「坊ちゃんはうちの大事な当主ですからね。何処《どこ》ぞの犬如《ごと》きのところへ嫁には出しません」
「で、すが」

 口調は今までの家令なのだが、だからこそ。

 返事も貰った。都合良く解釈できそうな、つまり直接表現ではないけれど、あの場合は告白《プロポーズ》の返事以外にないはずだ。
 それに何度も言うが、未練たらしくても他の誰かに譲るのは嫌だ。
 顔も知らない令嬢にも顔を知っている令嬢にも、顔を知り過ぎて忘れたい庶民派小娘にも。
 

「ですから」

 黙り込んだグラウスの前にもカップが置かれる。
 こんな話をしながら出されたお茶など、恐ろしくて飲めたものではない。青藍に出されたものと同じポットから注がれた茶だが、殺人事件のトリックではカップに細工をするのが定番。現に青藍のものとは色がまるで違う。
 向こうが琥珀色だとすれば、自分のカップに並々と注がれてるのは赤紫の液体。絶対に何かを混入させている。

「あなたが嫁に来るのなら考えてあげてもいいでしょう」
「え?」

 思ってもみなかった言葉にグラウスは思わず顔を上げた。犀《さい》は相変わらず何を考えているのかよくわからない笑みを浮かべている。

 何を企《たくら》んでいる? うちは下級と言えども貴族だが、金に換えられそうなのは山羊《ヤギ》くらい。財産目当てに結婚する価値はない。
 まさか。青藍に「グラウスじゃないと嫌だ」と駄々をこねられて、仕方なく、有利な条件を背負《せお》ってやって来たお嬢様がたとの縁談を全て吹っ飛ばさざるを得ないことに? と横を見ると、あからさまにそっぽを向かれた。

「せ、」

 其処《そこ》は「どんな苦難も一緒に乗り越えよう」ではないのですか青藍様!!
 それとも「一緒にいてね♡」は「執事としてだけ」という注釈が付くのですか!?


「あなたも見方によってはかわいい嫁なんでしょうが、精神論で説かれても世間一般がまず目にするのは外見ですしね。私どもが選びに選んだお嬢様がたよりもこんな大男がいいとか、全く」
「犀《さい》」

 犀《さい》の嫌味満載の台詞《セリフ》は青藍に遮《さえぎ》られた。
 しかし遮《さえぎ》ったものの、彼はそれ以上何も言ってはくれない。

 そして。引っかかったワードがひとつ。

「……嫁?」

 先ほども今も、この男は言わなかったか? 「嫁に来るのなら」と。

「嫁ぇえ!?」

 グラウスは思わず立ち上がった。
 ちょっと待て(n回目)! 
 それは180cm超えのどう見ても男にしか見えない自分を指す単語ではない。
 何かの間違いではないのか? 精神論でかわいいって何だ!? だってほら外見がどうとか言うならどう見たって夫役は私でしょ? ってそうではなくて! でもほら! こんなに大きいし! って、立ち上がったのは大きさアピールのためではないけれど!!!!

「いいじゃありませんか。執事なんて元々、嫁みたいなものでしょう?」

 いや!! そりゃあ執事は主人の陰になり日なたになり寄り添うものだけれども。女性進出の激しい今はともかく、一昔前はそういう「一歩下がった貞淑な妻」というのが良い嫁の証、みたいな見方が主流だったけれども! 
 其処《そこ》は適当に流してはいけない! 絶対に!!


「あなたにもいろいろと仰《おっしゃ》りたいことはあると思いますが、これでも坊ちゃんは当家の当主ですからね。お立場というものがあります」

 立場なんて言い出したら男の嫁よりマズいものなどないだろぉぉぉぉおおお!?
 跡継ぎはどうする!? あれか? 側室を設《もう》ければいいということか? 他の女と青藍を共有、なんてしたくもないのだが、そんなあれやこれやも言ったら最後、

「ではこの話は白紙に」

 と撤回されそうで下手にツッコめなくて、あああああああああああ!!!!


「ご安心なさい。跡取りはいざとなったら一服盛ればいいだけの話です」
「それってどういう意味ですかーー!?」

 そう言えば前《さき》の祭り以降、性転換の薬が非合法に出回っているという噂を聞いた。
 あくまで自分ひとりを嫁認定してくれるつもりなのは有難いのか迷惑なのか。けれどそんなところまで期待されているなんて荷が重いどころの話ではない。


「あなたがいけないんですよ? 坊ちゃんに邪《よこしま》な感情を抱いたりするから。だから坊ちゃんは記憶と一緒にそんなものまで引き継いでしまって」

 邪《よこしま》な記憶。ごと?
 ってもしかして。
 この10年全く暖簾《のれん》に腕押しだった私の気持ちがあっさりすっかり伝わり済み、ということ……で……?

「嫌ならいいんですよ。無理強《じ》いはしません」

 それで、嫁。ってええええええええ!?


 犀《さい》は慈愛ともとれる笑みを浮かべている。
 さも私《グラウス》のためになるよう最善を尽くしました的に言っているけれど、本当にそうだろうか。
 この片眼鏡は嫌がらせのためなら何でもする男。かわいい教え子の記憶から抜け落ちた腹いせに、推薦したお見合い候補を全棄却された腹いせに……思いつかないけれどきっともっといろいろ根に持っているに決まっている。

 わかる。

「坊ちゃんのお嫁さんになる子のかわいいウエディングドレス姿を見るのが夢だったんですよ。ああ、お館様《やかたさま》や第二夫人にも見せてあげたかった!」

 なんて言って着ることを強要した挙句《あげく》、

「あんな嘘が見抜けないなんて馬鹿ですねぇ」

 と嘲笑《あざわら》うところまで容易に想像できる。


 これは嘘なのか。
 罰ゲームか?
 身分不相応なことを言ってしまったことへの制裁か!?
 判断するには材料が足りない。犀《さい》はこれでも家令だ。前々当主の頃からこの家に勤めて来た人望の塊がそんなことをするだろうか。
 いやする。
 こいつは青藍に似て外面《そとづら》がいいから。あ、と言うことは青藍の外面《そとづら》がいいのはこの男の影響なのか? なんせ右も左もわからない幼少期からの教育係。良いところも悪いところも見習ってしまうだろう、って話が脱線した。そうではなくてぇぇえ!


「でもまぁ、長老衆及び有識者32人による50日間の親族会議に出て頂いて、それで了承が出ればの話ですからまだ決まったわけではありませんし、ご本人にその気がないのに無理を言うほど私も鬼畜ではないつもりですし?」

 鬼畜だろうが!
 居並ぶ良家のご令嬢を差し置いて、何処《どこ》ぞの馬の骨。何を言われるか、なんてわからないどころかものすごくわかる。絶対に弄《いじ》られる! 責められる!!

 嗚呼《ああ》!!
 微笑《ほほえ》んでいるはずの家令殿の顔が、新しい奴隷を前にどういたぶってやろうかと舌なめずりをする悪代官に見える。でも!
 縋《すが》る思いでチラリと隣を見る。相変わらず視線すら向けてくれないけれど、困った。そんなところも大好きだ。


「が、頑張ります……」

 蚊の鳴くような声でやっとそれだけ言うと、今までそっぽを向いていたご主人様が、隣でくすりと笑った。