21-2 闇に潜むは




 一方その頃。
 ルチナリスたちは城の内部へと続く地下水路への侵入を試みようとしていた。

 このあたり、かつての陸戦部隊長は頼りになる。余所《よそ》者は見つかり次第通報されるという城下町を人目を盗んで通り抜け、城の前にあった湖の、これまたわかりにくく隠してあった入口を潜《くぐ》ったら城へと続く水路に繋《つな》がっていました、なんて、前準備なしに来ようと思ったら3日はかかるだろう。


「来客に混ざって侵入するのかと思いました」

 ルチナリスは水滴が滴《したた》り落ちる前髪を上げながら、上を見上げる。

 森から見えた町は紅竜の婚儀に出席するために来た人々の馬車が列をなしていた。その列はこの上を通っているのか、馬のいななきや車輪の軋《きし》む音が聞こえる。
 招待客は貴族。爵位を持たない者がいるとしても、金と権力は持っている者だろう。徒歩&動きやすさ重視の私服なルチナリスたちでは浮くどころの話ではないが、何も招待客に擬態せずともその付き人や商品を運んできた商人など、その他大勢の人々も多くいる。そこに混じるのだとばかり思っていた。当初の予定ではそうだったはずだ。

 城下町はそんな人々でごったがえしていて、「友達1000人でおしくらまんじゅうできるかな!?」という企画でもやっているのかと思うほどで。だから急きょ予定を変更したのかもしれないが……「余所《よそ》者は見つけ次第通報」の目から逃れられたのは、そうしてやって来ていた「余所《よそ》者」が大勢いてくれたおかげ、でもある。


「この服でか?」

 水に腰まで浸《つか》かったまま師匠《アンリ》は苦笑いを浮かべる。
 水浸《みずびた》しなのを除いても、着飾っているとは言い難《がた》い。このメンバーの中で上の人々に混ざっても辛《かろ》うじて違和感がない……かもしれない……と言えそうなのは騎士服のミルくらいだろう。礼装ではないから会場入りはできないだろうけれど。
 

 何故《なぜ》自分《ルチナリス》たちが水浸しでいるのかと言えばひとえに侵入ルートを変えたせいなのだが、その新ルートは湖の隠し通路から此処《ここ》までオール水路。しかも、あまりにも見通しが良すぎて、しばしば水の中に隠れなければいけない、という理由もある。
 それほどまでに見通しが良すぎるのなら、こんな頭上に大勢が行き交う場所にいないでさっさと先に行けばいいのに、と思われるかもしれない。指摘されるまでもなく自分たちもこんなところにいたくはない。
 しかし目の前には鉄格子が立ち塞がっている。
 師匠《アンリ》がこの城にいた頃からあったそうなのでいわば想定内のブツではあるけれど、ここまで補強されて外すことができないのは想定内ではなかったようだ。

 用水路に半分浸かった状態の鉄格子を開けるのは容易《たやす》い作業ではない。「完全に水中」に比べれば息ができるだけましとは言えるが、水中作業がないわけではないし、極力、音も立てられない。
 地下水路の入口ということで城側でも「侵入されるなら此処《ここ》」と認識しているのか、定期的に巡回の兵士がやって来ては鉄格子周辺を照らしていく。念入りに調べずに去っていくのは毎日の巡回で「どうせ何もいない」と思い込んでしまっているのか、鉄格子に厚い信頼を寄せているのか。10秒ほど水の中で息を止めていればやり過ごせることだけが救いだ。

 が。

「……無理ですね。枠が固定されてしまっています」

 そんな攻防を続けること数十分。同じように水に浸かって鉄格子を調べていた執事《グラウス》が、残念そうに呟いた。
 師匠《アンリ》がこの城を出てから10年以上経《た》つし、彼《アンリ》が城を出たのは義兄《あに》を連れ出そうとして失敗したからだし。
 この熊をも素手で倒してしまいそうな筋肉親父が義兄《あに》を再び攫《さら》いに戻って来るかもしれない。侵入するなら|此処《ここ》かもしれない。となれば、誰だって補強する。
 警備がやけに緩《ゆる》いのは、師匠《アンリ》クラスの猛者ですら「此処《ここ》から侵入できるはずがない」くらい頑丈に固めてある証拠。何と言っても警備の兵士は師匠《アンリ》の元部下。実力は知り尽くしている。


「格子の鉄棒がグラグラしていますから、これを外せれば、」

 そう言いながら執事《グラウス》は棒を引っ張る。
 と、ガゴン! と大きな音がして1本外れた。

 外れたぜラッキー☆彡 なんて言っている場合ではない。
 ガゴン! ガゴン! ガゴン! と、その音が水路の中を跳ね回る。次いで聞こえた足音に慌てて息を潜《ひそ》めたが、その足音はそのまま取り過ぎていった。


「ルチナリスくらいなら3本も外せば入れるでしょう。此処《ここ》を開ける鍵を取って来てもらっては?」
「3本でも外す前に見つかるぞ。こんな馬鹿でかい音が出るんじゃ」
「その前に鍵の場所なんか知りませんよ!」

 そして息を潜めている間にも、怪しい計画は着々と進んでいる。
 マズい。変なコスプレで蛾《が》の幼虫を呼ぶイベント再び、みたいなことになりそうだ。何故《なぜ》こいつらはこうもあたしを使って何かしようと思うのだろう。
 細さだけならミルも似たようなものだし、鍵を見つけるなら中を知っている師匠《アンリ》のほうが適任だろうに。

「重要な鍵は厨房の壁に掛かっているものではないのですか?」
「そんなのはノイシュタインだけだから! ガーゴイルさんたちがつまみ食いするから、食糧庫の鍵も、酒蔵の鍵も、倉庫の鍵も天敵《マーシャさん》の傍《そば》に置いてあっただけ!!!!」

 前途多難。
 イベントも始まっていない出だしで躓《つまず》くとは、まさか思ってもみなかった。



 時間だけが過ぎていく。
 ああ、この沈黙をどうにかしてください。この、あたしが首を縦に振らないといけない雰囲気が嫌。

「こっ、こういう時に便利な魔法ってないんですか? 小さくなる魔法とか!!」

 以前、他人《ひと》を魅了するような魔法はないのか、と聞いたらあっさりとチャームをかけて来た義兄《あに》を思い出しながら、ルチナリスは問う。

 大きさを変える魔法なんて魔法系ファンタジーの定番。
 何処《どこ》ぞの青いタヌキ顔ロボットも、よく大きくなったり小さくなったりする灯りを出して……いや、あれは魔法ではなくて未来の便利な家電製品だったからファンタジーではなくてSFとかいう部類に入るのか? でも体が子供になる薬とか飴とか、他にもいろいろあるじゃない。と、思ったのだが。

「ないです」

 執事《グラウス》はあっさりと否定した。

「我々は自分の属性の魔法しか使えないのが普通です。むしろ人間の魔法使いのほうがバリエーションには富んでいますよ」

 と。
 言われて見れば義兄《あに》は炎しか操っていないし、この男も氷しか出したことがないから嘘を言っていると思えない。しかしこのままでは鍵を探して三千年な旅に送り出されてしまう。

「師匠は? 属性」
「水だ。こんな時にはあまり役に立たねぇな」

 未練がましく鉄格子の枠に剣を突き立てながら、師匠《アンリ》はこちらを見るでもなく答える。
 世の魔族にどれだけの属性があるのかは知らないが、どうにも自然界にある属性と言うか、四行だか五行だかというあたりのものしかなさそうな雰囲気だ。大きさを変えるなんてできそうにない……って、あれ?

「それじゃ、青藍様が使ってたチャームは?」
「チャーム?」

 指を銃の形にして「ばきゅーん」と一言。
 あんなふざけた呪文で、しかし通りすがりの数十人が一斉に振り返って迫って来たあの恐怖は忘れようとしても忘れられるものではない。


「そんな魔法は聞いたこともありませんが」

 執事《グラウス》は宙に視線を彷徨《さまよ》わせる。



 空は元から暗かったが、それでも人が活動するピークは抜けたのだろうか。上の喧噪《けんそう》が小さくなってきた。
 静かになればその分、こちらで立てている音が目立つ。今までは力任せにガゴガゴ動かしていても気にならなかったが、これからはそうもいかない。それなのに未《いま》だ入れるだけの隙間は空《あ》かない。

 未練がましく他の棒を揺すっていた師匠《アンリ》もついに諦めたのか、その手を止めた。そしてあたし《ルチナリス》たちを見上げる。

「おおかた魔眼でも使ったんだろう」
「魔眼?」
「知らんのか? 10年も一緒にいたのに」


 魔族の中でもごく少数にしか現れない瞳。それは他人を魅了するだけでなく、意のままに操ることも可能なのだと言う。
 天然すっとぼけな義兄《あに》に不釣り合いな「メフィストフェレスの魔性」などという怪しさ満点な二つ名を事あるごとに聞かされたのは、どうやらそのせいもあるようだ。

「それじゃ、クレイがいきなりお父さんに噛みついたのも」

 執事《グラウス》の実家で、自分《ルチナリス》を捕まえていたクレイ《執事の弟》が突然反旗を翻したかのように父親に襲いかかったあの時。義兄《あに》に向かって父親は「その目」と言った。いつもは蒼いはずの義兄《あに》の目が、あの時は紅《あか》みの混じった紫に染まっていた。
 それだけではない。
 フロストドラゴンが襲来した時にあたしを見た時。
 海の魔女事件の際、勇者に依頼していた時。
 終わってから町長に勇者の世話を押し付けていた時。
 チャームという魔法だと思っていたオルファーナでのあれも、思い出してみれば義兄《あに》の目は蒼かっただろうか。

 あたしは義兄《あに》を止めなければいけなかったのに、気が付いたら壁まで後退《あとずさ》っていた。
 ただ普通に歩いていただけの人々が、義兄《あに》の言葉を証明するように迫って来た。
 町長と勇者は元々ああいう行動をとるであろう人だから魔眼とやらが効いていたのかどうかは怪しいけれど、他にも、思い返せばそれらしいことは幾《いく》つも出て来る。

 領地を治めるために何処《どこ》か遠くに住んでいる名も定かではない貴族様が単身赴任で領主をしに来るなんて設定を誰ひとりとして疑わないことも。
 魔王制度は何代も続いているから義兄《あに》ひとりの仕業《しわざ》ではないけれど、それでも歴代の魔王はボロが出ないように城に閉じこもり、極力領内の住民と接触しないようにして生きて来た。頻繁に出歩いていたのは義兄《あに》だけで……当然面《めん》も割れているし、やって来た勇者に魔王として対峙《たいじ》する前に見られることもある。
 昔ならともかく交通や情報共有が発達して来た今の時代、それでやって来られたのは、やはり「何かが」作用していたと考えるほうが納得できる。

「あ! もしかしてグラウス様が青藍様のこと好きだとか言っちゃってるのも、」

 ルチナリスは声を上げた。
 漫画的に言うなら頭の上で電球が光ったと言う感じ。
 そうよ。おかしいと思ってたんだから。男同士でそういう感情って普通は起きないわよ。いくら初対面で女装されていたとしても!
 ほら、いい加減目を覚ましなさいよ。馬鹿執事!


「それは、」

 執事《グラウス》は気まずそうに目を逸《そ》らした。

「そんなことは……」
「あー。とにかく今は魔眼より此処《ここ》を抜けるほうが先決だ」

 妙な空気になってしまったのを払拭《ふっしょく》するように師匠《アンリ》が話題を変える。
 「何だとテメェ! うちの青藍に何考えてやがる!」と暴力に訴えてこないのは既《すで》に一波乱あった後なのかもしれない。否定しないのは公認の仲になっているから……だとすると怖いのだが、師匠《アンリ》が言うように今はそれについて深く掘り下げている暇はない。


「やっぱ、さっきの1本だけみたいだな、動くのは」

 師匠《アンリ》は水から上がると大雑把に全身の水気を拭きとり、脱ぎ捨てていた甲冑をつけ直す。拭いたとは言え濡れた服の上からそんなものを付けたら気持ち悪くないのだろうか、とも思ったが乾くまで甲羅干しをしているわけにもいかないのだろう。
 力仕事には向かないから、と早々に水から上げられてしまっていた自分《ルチナリス》の服は生乾き。布が貼りつく気持ち悪さは脱している。

「他の水路も似たようなもんだろうしな。他の方法……っつうと上の連中に混じって入るしかないが、あれだけの人数だ。後で合流できるかが不安だな」

 その前に師匠《アンリ》と執事はこの城の者に顔が知られているし、無駄に縦横が長いから紛《まぎ》れ込むのは至難の業《わざ》だろう。しかしあたし《ルチナリス》とミルのふたりだけでは、人間だということでも、戦力的な意味でも、不安が大きい。
 どうすれば。


「……なぁ、あの壁に付いているスイッチのようなものは何だ?」

 そんな時。ミルの声にあたしたちは顔を上げた。
 彼女は鉄格子のさらに先を指さしている。目を凝らして見れば、赤と緑の丸いボタンのようなものがふたつ、薄汚れた石壁の中で輝いている。

「あんなもん、あったか?」

 怪訝《けげん》そうに師匠《アンリ》が呟いたが同感だ。あれだけ光り輝いている物体が、明りのほとんど射し込まない水路の壁にあれば、目に入らないほうがおかしい。
 今の今まで光っていなかっただけなのか、壁の中から出て来たのか。もしかしたら時間が来ると自動的に点灯する仕組みなのかもしれないが、それにしたって胡散《うさん》臭い。

 が、あれを押したら開きそうだ。とはこの場の全員が思ったようで。

「犀《さい》の奴《やつ》……っ! 何でこんなどうでもいいところを作り変えてんだよ!!」

 しかもそういうことをしそうな人に心当たりまであるようで。


 師匠《アンリ》はギリギリと歯ぎしりをするとあたし《ルチナリス》を振り返った。

「ちょっと行って押して来い」
「……後《あと》2本外してもらえなきゃ無理ですって」

 有無を言わさぬ口調にはもう慣れた。
 だがしかし。歴《れっき》とした脊椎《せきつい》動物のあたしに10cmの隙間を通れとか、そういう人間離れした技を要求しないでほしい。酢を飲めば体が柔らかくなるとかそういう問題ではないし、あたしは酢を常飲していない。

「使えねぇなぁ」

 いや、「こんなこともあろうかと!」と期待に応えて来るのはあなたのお弟子さん《勇者》だけだから! 何年師弟関係にあったか知らないけれど、一般人をあのレベルと同様に見てもらっては困る!

 苦情が喉から飛び出しそうになる。
 しかし飛び出す前に、師匠《アンリ》は思いついた、とばかりにパン! と手を叩いた。
 パン! パン! パン! ……とやっぱり音が水路に響き、周囲のジト目が中年親父《アンリ》に集中する。

「あ、いや。ほら、トトならいけると」
「「ああ!」」

 忘れていた。そう言えばそんなのがいたじゃないか!
 師匠《アンリ》に向いていた視線が、今度は一斉に執事《グラウス》に向いた。




 執事《グラウス》は上着の内ポケットから短剣を探り出す。ひったくるように奪った師匠《アンリ》はそれを水の中に突っ込んだ。
 1。2。3。……5秒。
 ボコボコと水面に泡が立ち、続けて慌てふためいた様子のトトが顔を出した。
 口から噴水のように水を吐くのはコメディもののお約束。師匠《アンリ》の起こし方にも、トトの噴水にもツッコミを入れる者はいない。

「またテメェらかぁぁぁぁあああ!」
「テメェらも何も、他にいたら盗まれたか売られたかってことだぞ? そっちのほうが状況としてはマズいだろう絶滅危惧種」
「絶滅危惧種ってわかってんならもうちょっと敬《うやま》え! 起こす時は普通に起こしやがれっ!!」
「ちゅー《・・・》で起こせってか?」
「オッサンのちゅー《・・・》はいらねぇ!!!!」

 そして自然な流れで勃発《ぼっぱつ》する喧嘩にも。
 と言いたいところだが、あまり大声で叫ばれると警備兵が戻って来るので自粛してもらわねば。それもやはり誰もが同意見だったようで……。

「トト、早速ですがあのボタンを押してきて貰えませんか?」

 執事《グラウス》は喚《わめ》く精霊の顔面を掴み《口を塞ぎ》、鉄格子の向こう側で挑発するように光り輝いているボタンを指さした。さしたところで顔面を掴《つか》まれていれば見えないのではないだろうかとは思ったけれど、脊髄《せきずい》反射でツッコんでどうなるかはいい加減学習しているのでツッコまない。

「んだとぉ!? それが他人《ひと》にものを頼む態度、」
「押してきてくれないか? トト」
「え、あ、まぁ……してやらねぇわけでもなくもないっつーか」

 だが。
 次《つ》いで頼んで来たミルに、トトはあからさまに態度を急変させた。これがツインテールの女の子だったらツンデレとか言うところなんだろうけれど、ってくらい。

 何故《なぜ》だ。
 口調だけ取ってみれば執事《グラウス》のほうが他人《ひと》にものを頼む態度だろうに。
 女だからか? まさかこっそりひっそり魔法少女イチゴちゃんのファンだったりするのだろうか。あんな鎖国《さこく》政策を取っているエルフガーデンにまで影響力があるなんて、魔法少女恐るべし。


 そうルチナリスが絶句している間にも、トトは1本だけ外れた鉄格子の隙間から難なく中に滑り込む。
 フワフワと緊張感のない《精霊らしいメルヘンな》飛び方でボタンまで辿《たど》り着くと、こちらを振り返った。

「どっち押すんだぁ?」
「普通は緑でしょ?」

 赤は止まれ。緑は進め。
 何処《どこ》の標語かは忘れたが、そんな言葉を聞いたことがある。

「しかし犀《さい》だからな。案外、赤かもしれん」

 そこに師匠《アンリ》が異を唱える。
 いったい犀《さい》という人はどれだけひねくれた人なのだろう。その人(と師匠《アンリ》)が義兄《あに》を育てたと……微妙すぎる。

「どっちだよ。早くしてくれよー」
「面倒だから適当に押してくれ」

 悩むアンリとは対照的にミルは明快だ。

「体当たりでも10万ボルトでもアイアンテールでも使ってくれて構わないぞ」
「後ろふたつは無理だろ!!」

 10万ボルトだのアイアンテールだのと言うのはいったいどんな技なのだろう。剣技にそんなネーミングのものがあるのだろうか。
 と、そんなことを言っている場合ではなくて。

「お、おい! こういうものはもっと慎重に、」

 ドン! という音に一同の中で一瞬早く我に返った師匠《アンリ》が声を上げたが遅かった。
 視界には、何も考えずに緑ボタンに体当たりをぶちかましているトトの姿が――。

「「「ああーーーー!!」」」

 ミル以外の3人が悲鳴にも似た声を三者三様に上げる中、鉄格子付近から爆発音がした。
 音だけでなく、水が弾け飛ぶ。一斉にドン! と爆発した後、ババババババババ! と流れるように再度一周、鉄格子の輪郭に沿って爆発が続く。特別な火薬でも仕込んであるのか、赤から黄色、緑、青と色まで変えていく|様《さま》は夏の夜空に上がったら大勢の目を惹《ひ》くだろう。
 いや、冬空でも人の目は惹《ひ》く。空でなくとも、こんな暗いところで突然光ったら。

「「「うわああああああああああ!」」」
 
 水をかけたり服で叩いたりしたが時既《すで》に遅し。
 上のほうが騒がしくなる。光がランダムに投下される。
 そんな中、ガゴン! と音がした。あれだけ厳重に固定され、どうやっても外すことのできなかった鉄格子が枠ごと外れ、そして、そのまま水路の底に沈んで行った。

「あれ、拾わないと駄目!?」
「帰りに時間があったらでいい!」

 それどころではない。警備兵はすぐにでも此処《ここ》に来る。

「畜生ーー! 犀《さい》の◎▲×◇△●〇×◇◆▽〇ーー!!」

 師匠《アンリ》の意味不明な罵詈雑言《ばりぞうごん》が響く中、ルチナリスたちは大きく開いた四角い穴に飛び込み、そのまま一目散に駆けた。
 侵入成功! と喜ぶ間もなく。




 城の中へと続く水路は、鉄格子がなくなったせいで外から差し込む光が増えたからだろうか。灯りがないにしてはぼんやりと明るい。とは言え奥へ進むほど明かりが減るのは確かで、ルチナリスとしては足下《あしもと》が見えるほうがいいのか、闇に紛《まぎ》れて侵入するのがいいのか迷うところだ。
 湖側に流れ出て行く水の勢いが早い。水の流れをせき止めていた鉄格子がなくなったせいだろう。水路の出口で何かがあったことは、きっともう知られている。

 先導する師匠《アンリ》に付いて走ること数十分。やっと足を止めて一息ついたのは、もうどのあたりかもわからない水路の一角だった。
 暗さと湿気がロンダヴェルグの地下水路を思い出す。あの、壁に同化するように立っていた化け物――少女の母の変わり果てた姿――を。
 自分に救う力がなかったとは言え、何もできなかったことが今でも心に引っかかっている。大地の加護を得た今なら少しは違う結果を選べるのだろうか、と、ルチナリスは髪留めに触れる。


 追手の足音は聞こえて来ない。
 水筒の水を口に含み、ゆっくりと飲み込みながら息を整える。可能なら真横でザバザバ音を立てている流れに頭を突っ込んで思う存分飲み干したい。
 その横でトトは、ミルに褒めてもらって嬉しそうにしている。
 魔法少女のファンなのか、大人のお姉さんが好きなのかは未《いま》だにわからない。


「トトってどうしてあんなにミルさんに懐いてるんですかね?」

 ルチナリスは小声で精霊の持ち主であろう男に声をかけた。
 此処《ここ》にもうひとりうら若き乙女がいるのだが、あたしは奴《トト》から暴言を吐かれた記憶しかない。まぁそれは初《しょ》っ端《ぱな》に茂みに投げ込んだあたしのせいでもあるのだけれども。
 でも、それがあそこまでミルに懐く理由にはならない。師匠《アンリ》や執事《グラウス》に対するのと同様の塩対応でもいいはずだ。

「もともとが女性用の短剣だから女性に懐くんじゃないですか?」

 まんざらでもなさそうな顔をしているトトを見やりながら、案の定、執事《グラウス》からは適当な返事が返って来る。この男がトトを必要としたのは魔界に行くための鍵としての役割だから、魔界に来た後は誰に懐こうがどうでもいいと、使える時には使えればいいと、そして暗《あん》にあたしは女性(生物学上ではなく、理想論的な)ではないと思っているであろうことをありありと感じる。

「あたしには懐きません」
「あなたが女を名乗るのはあと100年早いってことでしょう。トトもよくわかっています」

 |解《げ》せぬ。
 あたしだって「女性」なのに、トトにしろ執事《グラウス》にしろこの扱いは何だ。女だとも思ってなさそうなその発言は!
 都合がいい時ばっかり「聖なる乙女」とか何とか言ってもてはやして、それで冬の最中にコスプレまでさせられそうになったあたしの立場は!? と叫べるものなら叫びたい!
 でも叫べない。叫んだら人が来る。


「ほら行くぞー」

 師匠《アンリ》の声に引っ張られるようにして、ルチナリスは渋々《しぶしぶ》と立ち上がった。
 ちやほやしてほしいとは言わないが……違う。トトを起こしたり頼んだりするような「武器の扱いや腕力が関係してこない部分」でさえ何の役にも立っていない自分は、未《いま》だ彼らのお荷物でしかなくて。そんな自分に誰も何も期待していないことが、ただ、悲しい。




 師匠《アンリ》が言うにはこの地下水路の先に地下階があり、さらに其処《そこ》から1階、2階、と城内部に入って行けるらしい。
 先ほどよりも水量が減り、水路自体も細くなっているのは終点が近いのだろう。追手の足音も待ち構えている者の息づかいも聞こえては来ないが、その代わり、グルルル、と獣の唸《うな》り声がする。
 いかにも魔界っぽい、と言うか、城の中に動物? 犬系? と思っていると、

「この先にケルベロスの檻があるからな。気をつけろよ」

 師匠《アンリ》は少し速度を落とし、周囲を見回しながら囁《ささや》いた。

「ケルベロス!?」
「ああ。俺の記憶だともう少し先のはずだが聞こえたろ? 注意するに越したことはない」

 此処《ここ》まで侵入しているのに誰もやって来ない。
 来客が多いからと言っても、警備兵が客の相手をするはずがないから人手を持って行かれている、という理由は成り立たない。
 鉄格子の爆発は確実に気付かれていたのに、この静けさは普通ではない。
 そして獣の声。
 そこから引き出される答えは……ケルベロスを放している。

「……気をつけるってどうやって」

 敵兵が出て来ないのは、誤って襲われる可能性があると言うことだ。

 ルチナリスは後頭部に意識を向ける。其処《そこ》に留められている髪飾りに、先ほどから何となく温かみを感じるのは気のせいだろうか。
 温かみの出所は髪飾りに付いている虹色の石。「天使の涙」と呼ばれる、潜在する力を引き出すけれども、過信すれば身を亡ぼすという厄介な石だ。
 貰ったはいいけれど全くウンともスンとも反応しなかったこの石は、それ以前にあたしに潜在する力がなかったせいであるらしく……この温かみは「使え」と石が訴えているような気がして仕方がない。大地の加護を受けた今なら、と。

 生憎《あいにく》と、と言うか、運のいいことに、と言うか、力を使う場面に遭遇しないまま此処《ここ》まで来てしまった。だが、今度こそ使う場面になりそうだ。
 あたし《ルチナリス》は獣の声に耳を澄ます。


 あたしは力を欲しているから天使の涙に呑まれやすく見えるらしい。勇者とミルが揃ってそう言った。「力を欲しているように見えるから心配だ」と。
 心配してくれるのは有難いが、せっかく力があるのなら使ってみたいのは人心。義兄《あに》や執事《グラウス》のように派手な魔法攻撃まではいかなくとも、同じ聖女候補だったジェシカのようにその力で人々を癒せるようになりたいな、とか思うじゃない?
 わかる。
 これは自己顕示欲。認めてほしい、頼りにしてほしい、感謝されたい、とそう思っているからだ。力のなかったあたしは特に、その力に憧れているからだ。
 もし力を使ったところで誰からも無反応だったら、きっと次回から使おうとは思わなくなる。それもわかる。

 そう言う、いわば「必殺技を持っている」のは気持ちが高揚《こうよう》するもので。
 しかもすぐ近くにはケルベロスがいるわけで。
 地獄の番犬として物語の中で見かけたことのある名前の化け物が襲ってきて、皆が絶体絶命のピンチに陥《おちい》る中、颯爽《さっそう》と現れたあたしが一瞬で薙《な》ぎ倒す……なんて想像するわけがないと言ったら嘘になる。
 そんな華々しい活躍がしてみたいという願望と、呑み込まれてメグのようになるのは嫌だという葛藤が、あたしの中でせめぎ合っている。

 ああ、そうだ。もしケルベロスと対峙《たいじ》することになったら、ミルはまだあたしのことを守ろうとするのだろうか。今までもあたしの出番がなかったのは彼女がいたせいでもあるし。
 いや、邪魔だと言っているわけではないのだけれど。
 そんな気持ちでちらりと隣を見る。
 と。

「何だ?」

 目が合った。

「あ、ええと、」

 つい今しがたの妄想を見透かされてしまったよう。
 何度も言いたくはないが目が合ったからと言ってフラグは立たない。乙女脳な恋愛小説にどれだけ主人公補正がかかっていたかを、あたしはこの1年ほどで嫌と言うほど実感している。

 まぁ、それはともかく。
 ミルが本当に自分《ルチナリス》を守るというだけの理由で魔界くんだりまで来たとは思えないが、他の理由はないのか、と聞くのも善意を踏みにじっているようで気が引ける。
 しかし本当に護衛だけが理由だとしても、頼り過ぎてはミルの負担になる。
 此処《ここ》は魔界。自分もミルも人間で、魔族から見れば食料が自ら歩いて来たようなもの。此処《ここ》では彼女はあたしの身と共に己《おのれ》の身も守らねばならない。

 師匠《アンリ》や執事《グラウス》には頼れない。ロンダヴェルグで言われた、

『もしお前に何かあっても、俺もポチもお前まで助ける余裕なんかねぇ』

 という言葉は決して予防線などではない。



 あたし《ルチナリス》が口籠《くちごも》ったのをどう感じ取ったのか、ミルは腰に下げた剣を軽く揺すった。

「安心しろ。剣のキャパシティはまだだいぶ残っている。ケルベロスを切るくらいはできるぞ」
「キャパシティ?」

 聞き慣れない単語だ。首を傾げるあたしに、ミルは剣をすらりと抜き、柄頭《ポンメル》から鍔《ガード》まで指を滑らせた。勇者《エリック》のそれよりもかなり細身の剣で、鍔《ガード》の中央に深紅の石が埋められている。握り《グリップ》や鍔《ガード》にも装飾が施《ほどこ》され、小さな石が無数に煌《きら》めいている様《さま》は、とても実戦用には見えない。

「この剣は退魔の呪符を埋めてある。使える残量が今100ちょっと。つまり後《あと》100体は切れるということだ」


 ミル|曰《いわ》く、その無数の石は「退魔の呪符」というものであるらしい。

 悪魔《魔族》は普通の剣では致命傷を与えることはできない。
 唯一できるのは銀製のものだが、純銀は柔らかすぎて武器には不向きだ。金や銅を混ぜて合金にすることで強度を得ることはできるが、そうしてできたものは今度は退魔には向かない。
 なので、呪符という魔法を封じ込めた符を刻んだ石を剣に埋めることで、対悪魔用の武器に仕立て上げるのだそうだ。

 しかしそうしてできた退魔の剣には欠点がある。埋めた石の数だけ重くなってしまうので、ミルのように敏捷《びんしょう》さを売りにした剣士には、重すぎる剣ではせっかくの特性を活かすことができない。
 呪符の効力を考えて石をギリギリまで小さくし、機動力と殺傷力とを天秤にかけた結果。それが「後《あと》100ちょっと」。

 敵地とは言え、此処《ここ》にいる全員が敵にはならない。師匠《アンリ》や執事《グラウス》のように味方になってくれる者も、あたしのように戦闘力のない者もいるだろう。
 しかし警備兵を始めとする兵士は確実に当てはまらない。さらに集まっている多くの魔族はほぼ全員が魔法を使えると言っても過言ではなく……それだけで100人は軽く超える。しかもその上に、ひとりで何人分の働きをするかも不明な義兄《あに》がいるのだ。絶対に足りない。


「呪符がなくなっても切るだけならできるし、別に魔族を抹殺するために来ているわけでもないからな。何とかなるだろう」

 彼女は安心させるためにそう言っているのだろう。けれど。ルチナリスはミルを見上げる。
 あたしを守りながら、というのはふたり分の敵を相手にしなければならないということだ。ガーゴイルのように数百匹単位で襲いかかって来る敵に遭遇したら、100ちょっとの呪符など一瞬で使い切ってしまう。

 そうしたらどうなるのだろう。
 考えないようにしている最悪の結末がちょっとしたはずみで浮かんでくる。
 あたしは人間。
 魔族にとっての餌。
 瞬殺なら痛くはないだろうけれど、もしかしたら生きたまま貪《むさぼ》り食われることがないとは言えない。
 そんな想像は、消しても消しても決して消えることはない。

「うん」

 だから、と言うわけではないが。
 やはり天使の涙を使うことになるのかもしれない。
 しっかりしないと。ルチナリスは髪留めを軽く叩いた。




 そうしてルチナリスとミルが肩を並べて話しているのを聞きながら、グラウスは通路の先に目を向けた。
 ケルベロスの檻があるということは、この先で自分はルアンの策に落ち、アイリスに助けられたと言うこと。その恩人は今、紅竜との婚礼を控えてこの城の何処《どこ》かにいる。
 第二夫人の葬儀でこの城に滞在していた時、何度か話をした。自分と彼女に面識があることは紅竜も知っているだろう。今回の挙式は家の格や影響力を鑑《かんが》みて幼い彼女に白羽の矢が立っただけだとは思うが、紅竜のことだ。自分《グラウス》の味方になり得る彼女に何かするために囲い込んだ、と言うのが考えすぎならいいのだが。

 そして。
 青藍は今、何処《どこ》にいるのだろう。

 ルチナリスがロンダヴェルグで出会った彼は、今までの彼とはまるで違っていたらしい。
 記憶を失くして、紅竜の言うままに動いているのだろうか。
 幽閉されていた時のように――彼は外に出られなかっただけだと言ったが、そうでなかったことはアンリから聞いている――酷《ひど》い目にあってはいないだろうか。

 気が付けば無意識にポケットを探っている。
 耳飾り《イヤリング》の欠片《かけら》を指先で確かめて、グラウスは溜息をついた。





「また何か考えてやがるな」

 アンリに指摘されて、グラウスはポケットを探る手を止めた。
 この男との共闘は青藍を取り戻すまで。紅竜が当主に相応《ふさわ》しいかどうかを見極め、もし相応しくなければ青藍を据えるのが目的だと言っていた。
 紅竜はいわばラスボスのようなものだから、青藍よりも先に出て来ることはない。だから彼が紅竜と対峙《たいじ》して見極めている間に、自分は青藍を連れて逃げてしまうことも可能だろう。卑怯だ何だと罵《ののし》られようと、自分はこの家がどうなろうと知ったことではない。

「……いいえ何も」
「嘘つけ。お前が青藍のことを考えてるのは顔に出るんだよ」
「そうですか。私はケルベロスのことを考えていただけなんですが」
「へー。犬は犬なりに、犬が気になるってか?」

 ケルベロスのことなど考えるつもりもなかったが、難癖を付けて絡んで来られるのは面倒だ。グラウスは青藍のことを頭の引き出しにしまい込み、転がしてあったケルベロスの件を拾い上げる。

「この城にケルベロスは何匹いるんです?」
「俺がいた時で8匹だな。老衰で死んだり子が増えたりはわからん」

 ケルベロスは人に飼われる性質ではない。前回、3匹を倒しているから、補充されていない限り5匹いることになる。今回、戦力がアンリ、ミル、自分《グラウス》の3人分あるから5匹なら余裕だろう。過信は禁物だがひとりで3匹倒したことに比べれば決して無理な数字ではない。
 だからこそケルベロスだけ差し向けると言う戦法は解《げ》せない。ケルベロスほどの戦力を捨て駒にし多少なりとも負傷させたところで、兵を投入して叩く……といったあたりだろう。


「執事っつーのは考え方が似て来るのか? 犀《さい》みてぇなことを……って、何だありゃ」

 褒めているのか呆れているのか微妙なことを口にしかけたアンリは、ふと前方に目を向け指をさした。

 同じように見れば、水路の縁《ふち》に引っ掛かるようにして灰色の塊が浮いている。ケルベロスが潜んでいるのかとも思ったが、それにしては小さく、犬種に比べればずっと柔らかそうにも見える。
 一見すれば両手で抱えられる程度のぬいぐるみ。そんなものを持っているのは幼子だろう。が、だとするとケルベロスに襲われたのか? 水路に沈んでいたりしないだろうか、と慌てて駆け寄って見たものの、子供らしき影は見えない。

 罠か?
 この城に幼子はいない。来客の子供という線も考えられるが、紅竜にしろ、そして多分犀《さい》にしろ、良心を突いてくる罠は彼らの十八番《おはこ》だ。

「どうかしたんですか?」

 ルチナリスとミルが何ごとかと寄って来る。
 この一瞬の隙にケルベロスが襲い掛かってきたら、と慌てて周囲を探るも、他に動きは見えない。


 そのぬいぐるみのようなものは水路の端々《はしばし》に引っかかりながらも、揺れる水面に合わせて漂っている。浮き沈みする鼻と口のあたりから僅《わず》かに気泡が漏れるのが見えた。
 生きている。
 と言うことは、生き物?

「柘榴《ざくろ》さん!?」

 その横でルチナリスは悲鳴を上げた。何ごとかと問う間もなく屈《かが》み込み、塊に手を伸ばす。
 彼女が必死にそのぬいぐるみを取ろうとするにはわけがあるのだろう。一同が口と手を出しかねて見守る中、何度も指先が掠《かす》り、波にさらわれ、そうしてプカリ、とそのぬいぐるみが反転した。
 長い耳が見える。
 ウサギだ。灰色の。

「やっぱり! 柘榴《ざくろ》さん!!」
「ザクロサン?」
「アイリス様の執事をやってたウサギさんです!」


 その声にグラウスは改めてザクロサンと呼ばれたぬいぐるみ、もとい、ウサギを見下ろす。
 ウサギが執事? とは思わない。以前に会った時、アイリスには蘇芳《すおう》と呼ばれる老齢のウサギが付いていた。彼もアイリスの家の執事だと名乗った。
 だとすればこのザクロサンというウサギがただのウサギではなく蘇芳《すおう》の血縁であることは十分に考えられるし、ルチナリスの言《げん》が嘘だとも言えない。
 が。

「食糧庫から逃げ出しただけじゃねぇのか?」

 顎《あご》に手をかけてアンリが呟く。
 意識のないウサギは、それがただのウサギなのか、獣化している魔族なのか区別がつかない。目を覚ましてくれれば確認できるのだが。
 だが、此処《ここ》はケルベロスの檻の近く。もし本当にルチナリスの言うザクロサンだと言うなら置いて行くわけにもいかない。アイリスの執事である彼がこのような姿になっていると言うことは、アイリスも……グラウスの脳裏に先ほどまで頭の中に陣取っていた懸念《けねん》が再び首をもたげる。

 ルチナリスの手は何度も空《くう》を切る。
 見かねたミルが鞘《さや》ごと剣を出して手繰《たぐ》り寄せ、やっと手が届いた、と思ったその時。

 獣の声が聞こえた。




「ケルベロスだ!」

 やはりと言うか、予想どおりと言うか。三ツ首の獣が奥の通路から現れた。奥だけではない。自分たちがやってきた水路の出口側からも。
 全部で5匹。こちらも予想どおりの頭数だ。増えていないだけましだと言えるが、決して歓迎できる数ではない。

 ミルとルチナリスはまだウサギにかかりきりになっている。先ほど手が届いたものの、ケルベロスに気を取られた隙に離れてしまったようで未《いま》だ救出には至っていない。動いて、攻撃をも仕掛けて来る自分《グラウス》とアンリよりも、動けない彼女らを狙って来るのは必至だ。

 牙を剥《む》き、よだれを垂らしながら、獣はジリジリと間合いを詰めてくる。
 その目は確実に女性陣を捕らえている。




 どうしよう。
 ルチナリスは一瞬にして変わった空気に焦り始めていた。
 柘榴《ざくろ》に手を伸ばしながらも、今はこんなことをしている場合じゃない、という声が聞こえている。でも今拾い上げなければ柘榴《ざくろ》はずっと下流に、もしかすると湖にまで流れ出てしまうかもしれない。その前に沈んでしまったら取り返しがつかない。
 早く。
 早く。
 でないと……!


 ――皆ノ 邪魔 バカリ ネ。


 嘲笑《あざわら》う声が聞こえる。


 ――イツモ ソウ。
   アンタ ガ イナキャ モット早クニ 魔界入リ デキタノヨ?
   モット早ク 此処《ココ》ニ 来ラレタ ノヨ?


「わかっ……てるわよ、そんなこと」


 ――アンタハ 死ニカケタ うさぎヲ 拾イニ 来タノ?


「わかってるわよ!」


 あたしが此処《ここ》に来たのは義兄《あに》に会うため。
 執事も師匠も、理由はそれぞれ違うけれど目的は同じだ。
 会ってどうなるわけじゃない。記憶が戻るミラクルなんて期待していない。会ったところで攻撃されるだけだってことはロンダヴェルグで確証してしまったし、だったらこのまま会わずに「優しい思い出」にしてしまったほうがずっと楽だってこともわかっている。
 でも。

「でも柘榴《ざくろ》さんを見殺しには、」


 ――ソノタメ ナラ 皆ニ 迷惑ヲ カケテモ 許サレル ッテ?
   アンタノ善意ハ 他人ノ犠牲ノ 上ニ アルノネ? 聖ナル乙女?

「それは、」
「誰も迷惑だとは思っていない。お前の心に巣食う闇の声に負けるな」

 ふいに声が降って来た。
 誰だ、と確認するまでもない、ミルだろう。どうして心の声が聞こえたのかとか、何の目的で魔界に付いて来たのかとか、この人も謎が多すぎるけれど――。

「……闇?」

 心の中に闇が巣食っていると、ミルはそう言った。
 あたしの中に闇がある?
 メグが変化したあの黒い蔓が? それとも、義兄《あに》の記憶を奪ったあの闇が?

「あたしの、中、に?」

 ルチナリスは思わず聞き返した。
 嘘でしょ?
 だってあたしは聖女候補だったのよ? 闇を払う存在になるかもしれなかったのよ? それなのに、

「闇というのは誰の心の中にもある。自分を卑下したり、他人を羨《うらや》んだり。勝ちたい、負けたくない、自分だけのものにしておきたい。そういうあらゆる感情の元になるものだ。それを妬《ねた》み、恨みといった負にするのも自分、何ができるかを考え、実行するのも自分だ。褒められたいから動いたっていいじゃないか、それで助かる人がいるのなら」

 言葉は淡々と紡《つむ》がれる。
 闇を肯定している。

「お前がことあるごとに考え込むのは、その度《たび》にお前の中にある闇に向き合っているからだろう。向き合うのは悪いことではないが、呑まれるな。闇に」


 本当に、この人は何者なのだろう。
 ソロネは以前、執事《グラウス》に「闇はいずれ世界を覆うかもしれないから浄化しなければいけない」と言ったそうだ。
 司教《ティルファ》は闇は聖女の力《光》の|対《つい》になるものだと言っていた。
 義兄《あに》は執事《グラウス》の中から闇《黒い蔓》を引っ張り出した。自分と引き換えにしてでも抜き取る必要があった、と考えていたであろうことはわかる。
 誰も闇との共存を言いはしなかった。闇は消すものだった。
 それが本当に誰の心の中にあるものなのだとしても、ミルのように真正面から受け入れることはなかった。この人はいったいどうやって此処《ここ》まで達観した考え方をするように……いや、今は柘榴《ざくろ》救出に専念しなくては。


 ――偽善者。


 偽善だっていいじゃない。それで柘榴《ざくろ》が助かるのなら。
 あたしにできることは、とっとと柘榴《ざくろ》を拾い上げること。そうすればミルはケルベロス戦に加われる。あたしもできるだけ標的にはならないように、

「5匹か。ひとり1匹だな」

 心の闇に言い聞かせるように奮い立たせた意識は、だがしかし、割って入って来た師匠《アンリ》の声に遮《さえぎ》られた。
 師匠《アンリ》はあたし《ルチナリス》たちに背を向け、剣の柄に手をやりながら身構えている。さらにその先にはケルベロスがいる。
 そこまではいい。状況としては全然よくないけれど、とりあえずいいことにする。
 だが。

「ひとり1匹!?」

 ちょっと待て。あたしも戦力に入ってるわけ!? と続くはずだった台詞《セリフ》は、だが代弁者によって口から飛び出さずに終わった。

「ちょっと待て! 俺にまで1匹当てるな!」

 トトだ。
 起きていたのか珍しい、という感想が先に来るのもアレだけれども……なんだか、抗議し損《そこ》なった。


「喜べ。今日からお前も一人前ってことだ」
「こんな時ばっかり一人前扱いするなぁぁぁぁああああ!!」


 緊迫しないといけない場面なのに何だろう、この漫才のような光景は。

 いや、それより先に柘榴《ざくろ》。
 ルチナリスは思い直すと、再びウサギに手を伸ばす。
 そして。



「捕まえた!」

 手が届いた。と思ったのも束《つか》の間、ルチナリスの視界が反転した。

 ボチャーン! と大きな水音と、一瞬にして水泡だらけになる視界。ゆらゆらと揺れる水面越しに師匠《アンリ》と執事《グラウス》が振り返ったのが見えた。
 そんなふたりにケルベロスが飛びかかる。


 ――ソノタメ ナラ 皆ニ 迷惑ヲ カケテモ 許サレル ッテ?


 声が聞こえる。

 迷惑、だった。よね、やっぱり。
 腕の中には小さなウサギ。このまま一緒に沈んでしまったら本末転倒どころじゃない。以前、人形に魂を封じられたあたしだけを海の外に投げた義兄《あに》のように、柘榴《ざくろ》だけでも助けるべきなのだろう。
 投げたら、誰か受け止めてくれるだろうか。
 柘榴《ざくろ》を片手で掴み、投げるモーションを取ってみる。だが、水の抵抗が邪魔をする。
  
「ルチナリス!」

 ミルの声が聞こえたような気がした。




 気がつくと通路の端にいた。
 足下、というか座り込んでいるから尻の下といったほうが正しい其処《そこ》は今までの湿気を帯びた石畳ではなく、隣を流れていた水路も見当たらない。
 目の前には木箱や麻袋が無造作に積み上げられている。料理に使う野菜や穀類が入っているらしい。時折、人が来ては1箱、1袋と持って行く。今のうちはまだ身を隠していられるが見つかるのも時間の問題だろう。
 人がやって来るほうは別世界のように明るく、鍋を振るう料理人の姿が見える。
 厨房だろうか。襟元を紅《あか》いリボンで飾ったメイドが料理の皿を持って姿を消す傍《かたわ》ら、入れ替わるように新たなメイドがやって来る。
 燭台《しょくだい》は赤々と燃え、壁にメイドたちの影を映し出す。ゆらり、ゆらり、と永遠に終わらないダンスを踊っているようにも見える。

 通路の反対側は暗い。きっとこちら側が先ほどの水路に繋《つな》がっているのだろう。
 彼らに気付かれたらこちら側に逃げるしかなさそうだが、ケルベロスはまだいるのだろうか。そう言えば……他の皆は、


「気がついたか」

 小さくかけられた声に、ルチナリスは我に返った。
 見ればすぐ隣にミルが同じように座り込んでいる。胸で抱えた帽子の中に灰色の塊が見える。

「あ、柘榴《ざくろ》さん」
「……生きてはいる」

 子ウサギは固く目を閉じ、息づかいもほとんど聞こえない。長く水に浸かっていたせいで低体温症になっているのか、それ以外なのかは医学の心得のないルチナリスには知りようもないが、放置しておける状況でもなさそうだ。
 しかし彼の身に何があったのだろう。ウサギと間違えられて狩られそうになったのか、ケルベロスと鉢合わせしたのか。彼単独で襲われたのか、アイリスも共にいたのか。気になることは幾つもある。
 それに。

「師匠とグラウス様は、」
「わからん。お前が水に落ちたのを拾おうとしているうちに引き離された」

 自分《ルチナリス》が柘榴《ざくろ》を拾い上げようとして水に落ちたところまでは覚えている。その後、あたしをミルが引き上げてくれたそうなのだが……何とか水から上がった時にはもうケルベロスも師匠《アンリ》たちも見えなくなっていたのだそうだ。
 
 ケルベロスが現れたあの場所は、水量こそまだ多かったものの流れは緩《ゆる》やかになっていた。
 柘榴《ざくろ》のように軽ければともかく、あたし《ルチナリス》とミルでは水に落ちたからと言って元いた場所を見失うほど流されることはないはずだった。それなのに。

 とてつもなく作為《さくい》的なものを感じる。
 彼らを見失ったのは、其処《そこ》に魔法的な妨害が入ったからではないのだろうか。何と言っても此処《ここ》は魔界。魔族の城。そして敵地。自分《ルチナリス》の戦力も向こう《敵サイド》からしてみればわからないし、ミルの戦力は言わずもがな。だったら4人揃っているよりも2対2、果てはひとりずつ、と分散させるに越したことはない。あたしなら……そういう機会があるのなら迷うことなくそうする。 

 そして、自分たちが離されたことで5匹のケルベロスは必然的に師匠《アンリ》と執事《グラウス》が相手をするしかなくなった。
 三ツ首が5匹。と言うことは牙を剥《む》く獣の頭部が15。
 あのふたりならば、まさか食べられてしまうことはないとは思うが、相手はケルベロスだ。怪我もなく無事でいられる保証もない。


「罠に落ちてしまった感は否《いな》めないな。アンリ先生ともポチともはぐれてしまったし柘榴《ざくろ》もいる。先を急ぎたいだろうが、闇雲に進むのはやめたほうがいい」

 ミルは使用人たちの影を警戒するように、視線を向けたままで言う。


 とは言うけれど。
 ルチナリスはミルに倣《なら》って光の当たる場所に目を向ける。
 いくら小声で喋っているからと言っても、いくら向こうが忙しいのだとしても、何時《いつ》までもこうしているわけにはいかない。

 此処《ここ》でじっとしていたところで事態は好転しない。むしろ悪化する。
 自分たちが隠れている木箱はいつかなくなってしまう。
 鉄格子を吹き飛ばしたことからも、侵入者がいることは知られてしまっている。ケルベロスをけしかけられたことからも確定だろう。
 師匠《アンリ》が陸戦部隊長なんて肩書きを持っていたところから言っても、この城には多くの兵がいる。部隊を組むくらいに。それをまとめてさし向けられたら、たった4人(トトは頭数に入れていない)の侵入者などひとたまりもない。
 義兄《あに》に会えたら、義兄《あに》に会ったら、と考えていたけれど、会うことすら叶わない結果になるかもしれないと……敵を甘く見ていたと、今更ながらに思う。 


「ミルさんも、とんだ貧乏くじ引いちゃいましたね」

 思わず漏らした言葉に、メイド集団を見ていたミルが不思議そうに振り返った。
 何故《なぜ》? と言いたげな顔に無性に腹が立つ。どうしてそんなにあたしを信用できるのよ、という怒りが。
 聖女候補として連れて来られたけれど、魔法のひとつも使えない。
 勇者《エリック》の知り合いだと思っていたら、知らない男《アンリとグラウス》が何時《いつ》の間にか増えている。しかもこのふたり、魔界への道順だの魔族の城への侵入経路だのにやたらと詳《くわ》しい。
 さらには魔界に義兄《あに》がいると言う。
 ここまで揃っていてカタギ《ただの人間》だと思うほうがおめでたい。


「騎士団を辞めてまで付いて来ることなかったんじゃないですか?」

 あたしは司教《ティルファ》を襲った悪魔の妹。
 ロンダヴェルグが悪魔に襲われたあの日、司教《ティルファ》を見舞ったミルからあたしは聖女失格だと言い渡された。
 それなのに彼女はこんなところにまで付いて来ている。
 司教《ティルファ》からの「あたし《聖女候補》を守れ」という依頼を受けたからだとしても、普通は魔界にまでは来ないだろう。いてくれれば心強いことこの上ないが、何故《なぜ》そこまで、という疑問も付いて回る。
 少しイっちゃった剣士にありがちな、「誰でもいいから切り捨てたい」と言う欲求に突き動かされている、という理由のほうが余程納得できるくらいだ。
 なのに。


「前に言わなかったか? 私は、私に命をくれた者のために生きる」

 ミルはルチナリスの隣に座ったまま、壁に背を預け、柘榴《ざくろ》を抱え直す。

「私が私らしく生きることを、あの人は望んだ。誰かに従い続けるのではなく私の意思で生きることを。そのために命を落とすのなら、それはそれで本望だろう」
「あ、あたしはあたしのためにミルさんに死なれたりしたら困ります!」


 まさかとは思うが、死に場所を求めて付いてきたわけじゃないでしょうね!?
 もしそうなら、と後悔が怒涛《どとう》の勢いで押し寄せる。

 そうだ。いくら司教《ティルファ》直々の依頼だからと言っても、その効力はロンダヴェルグ内だけ。人間を食べる魔族がウヨウヨいる魔界にまで付いて来るのは、他に目的があるに決まっている。
 ああ。師匠《アンリ》も執事《グラウス》もいるんだから、戦力的には(不十分だけど)十分です、と、丁寧にお断りするべきだった。自分のために誰か死ぬなんて冗談ではない。
 あたしだって、此処《ここ》に来るべきだったのか未《いま》だもって迷ってるくらいなのに……!

「……勝手に殺すな。皆で生きて帰る。それでいいだろう」

 あたしの後ろ向きな考え方は聞き飽きたのか、やや面倒くさそうに言うミルの腕の中で、柘榴《ざくろ》は小さく丸まっている。
 彼女は小さい頃にウサギを飼ったことがあるのだろうか。随分と抱き慣れている。




「だって」

 そうは言うけれど。
 あたしだって何度も何度もウザいって思うけれど。けれどこの想いは、誰かを犠牲にしてまで叶えなければいけない願望にしてはいけない。


 最初はもっと簡単だと思っていた。魔界に行くことも義兄《あに》に会うことも、連れ帰ってまた一緒に暮らすことも。
 あたしが義兄《あに》に連れられてノイシュタインに来る時も、義兄《あに》が魔界に行く時も普通に馬車だったし、魔界に行くのに制約があることも知らなかった。行くのにこんなに苦労するとも思わなかった。
 義兄《あに》の記憶が抜け落ちてるとしても、それでもせいぜい領主様の顔では応対してくれて、話せばあたしが義妹《いもうと》だってこともわかってくれて。人間界に戻って来るか、魔界に残るかは義兄《あに》の意思に任せるとしても……そのまま別れることになったとしても、自分なりのけじめをつけることはできると、そう思っていた。

 でも違った。
 執事《グラウス》だけではなく勇者《エリック》や師匠《アンリ》、そして新たにミルまでも巻き込んで。彼らを危険に晒《さら》して。
 自分ひとりなら殺されたって自己責任。でも、他人の命まで天秤にかけるほどのことなのか、と思わなかったことはない。


「勘違いするな。私もアンリ先生も自分から行くと言ったことだ。お前に責任を感じてもらうつもりなど毛頭ない」

 ミルは皆で生きて帰ると言うけれど、それが難しいことだとわかってしまった。既《すで》に執事《グラウス》とも師匠《アンリ》ともはぐれ、ミルの剣の退魔効果も有限。これで自分に力があれば、少しは余裕のある発想もできただろう。しかし自分は守られているだけ。
 本当は自分にはこんなところにまで来る資格などなかったのではないか。義兄《あに》が言伝《ことづて》で言い残して行ったように、忘れて、普通の村人Aとして人生を全《まっと》うするべきだったのではないのか。
 苦難や危険に遭う度《たび》に、後悔ばかりが増えていく。


「悪い状況にいる時ほど前向きに考えていないと、状況に呑みこまれてしまうぞ。無理をしてでも笑え」
「笑えませんよ」


 どうやって笑えと言うのだ。こんな状況で。後悔ばかりの中で。

 抱える膝に顔を埋めるあたしの頭に、ミルは、ポス、と手を置く。
 心の温かい人は手が冷たいというけれど、それだろうか。それとも長く水に濡れたからだろうか。彼女が濡れたのだって元を正せばあたしのせい。そう思うとやはり後悔しか湧いてこない。


「お前は親とも養父ともはぐれ、悪魔に攫《さら》われ、見ず知らずの男に知らない町に連れて来られて、其処《そこ》で10年も過ごしてきたんだろう。その男が人間ではないと――悪魔だと知っても、それでも信じ続けたのだろう。
 普通の精神ではできないことだ。お前は私よりずっと強い。アンリ先生やポチよりも、ずっと」


 そうだろうか。
 そんなことはない。これはあたしを励まそうとして言っているだけのこと。
 あたしは弱い。剣も拳も魔法も使えない。そんなあたしがどうして強いと言えるだろう。
 精神的に? 精神が強くたって此処《ここ》では何の役にも立たない。
 どんな環境にも耐える心よりも、今要るのは敵をひとりでも倒せる強さだ。

「あたし、強くなりたい……」

 ロンダヴェルグに行っても何も身に付かなかった。
 大地の加護を受けても何も変わらなかった。
 天使の涙を貰ったけれど、使う勇気を持てなかった。

「強いよ」
「自分のことは自分が一番よくわかってるもの。あたしは、」
「強い」

 ミルは微笑む。
 その笑みが、何故《なぜ》だかとても悲しそうに見えて、あたしは口を噤《つぐ》んだ。


 これ、義兄《あに》の笑みと同じだ。
 流れ星の降る夜に「誰かを信じても痛い目に遭うだけだ」と語ったあの時の。
 誕生日の日、あたしに別れると告げた、あの時の。


『――どっちにしろ俺たちはずっと一緒にはいられない』


 あの夜、義兄《あに》はそう言った。
 思えばあの時に義兄《あに》の心は決まっていたのだろう。執事とばかり一緒にいるようになったのも、「いつか別れるあたしと徐々に距離を置くため」で、あたしを悪魔の妹ではなく「人間」に戻すためで。
 それなのにこうして此処《ここ》にいるのは……何時《いつ》までも義兄《あに》を頼ろうとするあたしの弱さの表れでしかない。義兄《あに》の想いを踏みにじっていることにしかならない。
 強くなんかない。


 ミルは首を振った。
 義兄《あに》と同じ笑みのまま、宙に視線を向ける。

「お前の強さは、きっと何時《いつ》か義兄《あに》に届く。私は途中で諦めたから」
「ミルさんが、諦めた?」

 視線は空中、もしくは壁上部から天井にかけて。しかし其処《そこ》を見ているのではないことはわかる。
 もっと上。もしかしたら諦めたことで誰かを失ってしまったのではないかと、そう思ってしまう。
 だから、

「だから私はお前に期待しているのかもしれない。ティルファが力のないお前に期待したのもきっと同じだ」
「そんな期待を押し付けられても、困ります」
「そうだな」

 あたしが諦めることで義兄《あに》を永遠に失うのを見たくないのかもしれない。
 諦めなかった先が見たいのかもしれない。




 箱は少しずつ減っていく。
 こんなところに誰かが隠れていると思っていないからか、目を向けもしない。厨房を飛び交う怒号《どごう》や指示の声に集中していて、自分《ルチナリス》たちの潜ませた声が届く余裕などないのかもしれない。
 大きな城というのはこうも違うのか。
 ノイシュタイン城の厨房担当だったマーシャさんはガーゴイルたちから恐れられていたし、食べる時は奪い合いだったけれど、それでも此処《ここ》に比べれば漂う空気は穏やかだった。同じメイドでも、あたしはきっと此処《ここ》では落ちこぼれどころか「仕事にならない」とクビになること間違いない。

 しかしまだ婚礼の日ではないのに。
 第二夫人の葬儀の時も1週間ほどの期間があって、その間に入れ代わり立ち代わりで来客があったと聞いている。魔界全土から、そして人間界に居《きょ》を構えている人でも別れを告げに来ることができるように、という配慮からきているらしい。
 しかし予定を立てることのできない葬儀とは違い、挙式は何ヵ月も前から予定を組むことができる。実際、招待状も1ヵ月以上前には届く。だったら1日限りで(遠方の客人は前泊してもいいけれど)執り行えばいいと思うのだが……この城は客を泊めるのが好きなのだろうか。それとも慶事・弔事にかかわらず、イベントものの長期滞在は魔界では普通なのだろうか。
 いつものことではないだろうとは言え、過労死しそうな忙しさだ。だからこそこうして潜んでいられるのだが。


 ミルは動かない。
 彼女の力ならこの人数を突破することはできるだろう。
 しかし騒ぎを起こせばその先で捕まる。厨房に自《みずか》らやって来るとは心掛けのいい食糧だ、とばかりに、そのまま食卓に並べられることになりかねない。
 ケルベロスを倒した執事《グラウス》たちと合流するまで潜んでいるつもりなのか、柘榴《ざくろ》の意識が戻るのを待っているのか。座っているからわからなかったけれど、もしかすると足をくじいていて動けないとか……?


「ミルさん、」
「とにかく私たちがお前に期待していることは確かだ」

 何時《いつ》までこうしているんですか? という問いは、ミルの言葉に遮《さえぎ》られた。
 それよりも。

「私、たち?」

 ミルが発した新たな言葉が引っ掛かった。
 誰だ? ミルに命を与えた、という誰かか?

「ミルさんがたまに口にする”あの人”のことですか?」

 ミルが言う「あの人」がミルに影響を及ぼしているのは間違いない。
 彼女の命の恩人とはどんな人だろう。剣の師匠か? 学校の先生か? あたし《ルチナリス》とそんなに歳も変わらないのに、こんなに達観した考え方ができるのは「あの人」のおかげに違いない。

「そうだ」

 ミルは少しだけ視線を彷徨《さまよ》わせる。 

「……私の持っている一番古い記憶は、ある男と共に旅をしているものだった」





 その男は「父」と名乗った。
 しかしミルに「父」と呼ばれることを好んではいないようだった。
 ひとつの場所に|留《とど》まることなく点々と旅を続ける生活は、毎日が新鮮である反面、何かに常に追い回されているような不安も纏《まと》わりつく。
 「父」はミルに全てを教えた。知識を。世界を。


『――これで、あなたは生きることができます』

 ある日、「父」がそう言って見せたのは2種類の薬草だった。
 町に着くたびに薬屋を訪れ、屋台を見て回り、数日滞在したの後に出立する旅路は、思えばずっとその薬草を探していたように思う。

『これからはあなたひとりで生きて行かなければいけない。でも私はずっとあなたの傍《そば》にいますからね』

 そう言い残して「父」は消えた。
 後に残されていたのは、紅《あか》い石のはまった一振りの剣――ミルが腰に下げているものだけだった。





「病気だったんですか? ミルさん」
「わからない。古い記憶だから」

 それは彼女が何歳の頃のことなのだろう。
 剣を1本残して、その「父」は何処《どこ》へ行ってしまったのだろう。
 ミルが自分《ルチナリス》に親切なのはそのせいなのだろうか。幼くして天涯孤独になった身の上に、自分の過去を重ね合わせているのかもしれない。

 薬草とはミルが好んでいた薬草茶《ハナハッカ》かもしれない。グラストニアでカリンが見つからなかったと言っていたとおり、ロンダヴェルグを出てから彼女はあのお茶を口にしていないが、騎士団に入っているくらいなのだから体はもう治っているのだろう。調子を崩しているようには……ずっと座り込んでるのはまさか薬が切れたからとか……いや、まさか。
 ちょっと怖いことを考えそうになって、ルチナリスは慌てて首を振る。


「父が言うには、私には妹もいたらしい。父が私ひとりを連れて旅をしていたのは、私の病を治すためだったのかもしれないな。不甲斐ない姉のために妹も苦労したことだろう」


 いや、ミルさんが不甲斐なかったらあたしはゴミ屑《くず》以下じゃないですか。
 そんな卑下《ひげ》したことを言いそうになってルチナリスは口を噤《つぐ》む。そんなことを言ったらまた自信を持たないのは悪い癖だとか、過小評価しすぎるなどと言われるし、ミルもそんなことを言われるために過去を語ったわけではない。

 今の話だけではその人がミルにどんな影響を与えたのかはさっぱりだが、大事な人だということは確かだ。
 そして失った。
 ミルが諦めたせいで失ったようには聞こえなかったが、薬を探しながら病人を抱えての長旅は、想像もできない苦労もあっただろう。その人を失ってから、ミルはそのことに気付いたのかもしれない。


 あたしも。
 あたしは義兄《あに》に守られていた。
 妹だから、と当たり前に思っていたことは、本当は全然当たり前なんかじゃなかった。義兄《あに》は人間のあたしを手元に置き続けることで、どんな苦労をしていたのだろう。
 

『どれだけ我々が迷惑を被《こうむ》っているかわかっているんですか――?』


 以前、執事に言われた。
 闇に蝕《むしば》まれていたせいでの暴言ともとれるが、あれは彼の本音だったのではないだろうか。何も言わない義兄《あに》の代わりに、義兄《あに》が黙っていることを代弁したのではないだろうか。


「……だから、お前には後悔してほしくない」
「無理ですよ、そんな」
「お前のしたいようにしたらいい。他人がどう思うか、他人に迷惑がかかるのではないか、などと考えて萎縮するのもお前の意思だから何も言わないが」

 絶対にダメ出ししてきそうな顔でそんなことを言われても。
 目のやり場がなくなって、あたし《ルチナリス》はミルの手元に視線を落とす。柘榴《ざくろ》はまだ眠っている。胸のあたりが浅く上下している。


「殺されてもいいと思うなら殺されてしまえばいい。お前の義兄《あに》がお前を殺すように命じられているのだとすれば、とりあえず義兄《あに》の役に立ったとは言える。
 だが生きたいと少しでも思うなら、そう強く思え。転覆事故に巻き込まれたり地震で下敷きになったりしても生き延びた奴《やつ》は、生きたいと最後まで願った奴《やつ》だ。最後に必要になるのは剣でも拳《こぶし》でも魔法でもない。
 ……お前は、そう願う力がある。だから今まで生き延びて来られたんだろう?」

 わからない。
 あたしは何もしていない。
 あたしを生かしてくれたのは義兄《あに》。
 あたしを殺そうとするのも、義兄《あに》。

「お前の義兄《あに》は闇に呑まれている。お前を殺そうとしたのも本心ではないのかもしれない。
 お前が信じてやらなくてどうするんだ。それとも、そういう奴《やつ》だったのか?」
「違うわ! 青藍様は……!」

 あたしに手を差し伸べてくれた人。
 それだけは、真実。

「なら、それを信じろ」

 信じる?
 あたしが、


『あたし、だから青藍様のことは信じようと思う』


 ああ。
 あたしは……10年も前に義兄《あに》を信じようと決めていたのに。
 何時《いつ》の間にか疑って。
 何時《いつ》の間にか信用できなくなって。


 もしかしたら、これが闇。
 自身の持つ恐怖。それが心を覆《おお》っていく。
 義兄《あに》を信じられなくなっているのも、魔界にまで行く必要があるのかと思うのも、全て恐怖から……あたしの中の闇が影響しているのかもしれない。

 闇の部分も含めて義兄《あに》だ、と執事《グラウス》は言った。
 闇を払う力は誰にでもある、と執事《グラウス》の祖母は言っていた。ただ祓《はら》い方がわからないだけだ、と。
 そう。これが闇。
 闇というものは誰の心の中にもある。あたしの、この胸の中にも。


 両の指で頬を摘み、上に引っ張る。
 ニィィィ、と笑っている形。それを見てミルがくすりと笑う。

 笑え。
 そうよ、笑うのよ。
 馬鹿馬鹿しいと思っても、何もしないで駄目だと言っているよりずっと。

「ありがとう。少し吹っ切れました」
「そうか」


 そうよ。あたしは、それを確かめに来たんじゃない。


『黙っていなくなられちゃずっとモヤモヤしたままだろうから付き合うだけだからね。ちゃんと会って話をして、取り返すかどうかはそれからだから』


 そうよね。勇者様。
 義兄《あに》が本当に連れ去られたのか、自分の意思で去ったのか、それすらあたしは知らない。
 とにかく会おう。会って、


『どうかご自分の信じる道をお進み下さいませ。私のように、後悔だけはなさりませんように』


 眠りにつく直前、アドレイは言った。
 執事《グラウス》が言うには、彼女は義兄《あに》のためにならないと思うなら連れ戻してくれ、とも言ったらしい。


 会って。
 それで此処《ここ》にいるべきじゃないのなら、絶対に取り返してやるんだから!



「やっぱり強いな」
「そんなことないですって。あ、ほら、妹さん、何処《どこ》にいるんですか?」
「さあ。生きてはいると思うが」

 ミルは柘榴《ざくろ》を抱えたまま腰を浮かせた。
 長居しすぎた、と席を立つ旅人のようにも見えるが、とにかく調子を崩していたわけでも足をくじいていたわけでもなさそうで、思わず安堵《あんど》の息を漏らしてしまったのは秘密だ。


「……せめてこのウサギだけでも安全なところに逃がしたいが、どうしたものだろう」

 この先、片手が塞《ふさ》がったままでいるのは厄介だ。
 戦力にならないあたしが抱えていてもいいのだが、できることなら身軽でいたいし、この先に待ち構えている危機を思えば柘榴《ざくろ》を連れて行くのも気が引ける。だが|此処《厨房》に置いておくわけにはいかないし、水路の脇も然《しか》り。
 意識が戻ってくれれば自力でどうにかしてくれるだろうし、この迷路のような城内の道案内も期待できるのだが。


「それではこちらでお待ち頂きましょう」

 メイドたちの動きを探りながら思案していたルチナリスらの背後で声がした。

 背後?
 いや、背後は壁。でしょ? それじゃ、

 振り返るより前に、視界がグラリと揺らいだ。