~2月~




 冬期休暇が終わり、新学期が始まった。

 感謝祭とクリスマスの時に成立したのであろうカップルが目に付くけれど、それは今のうちだけ。
 この先は卒業を迎えるまで大きなイベントがないからこれ以上増えることはないし、それどころか性格の不一致などで別れるばかりだし、性徴《せいちょう》が現れた日には早々にファータ・モンド送りになるからそれこそ存在すらしなくなる。

 そもそも、駆け込み的に相手を選んだところでいいことなどあるのだろうか。
 性徴《せいちょう》が現れれば見てくれが変わってしまうのに。
 レトに選んでもらえば性格の不一致も起きないのに。
 たかが15年生きた程度の子供に、その後数十年共に過ごす相手をまともに選べるとは思えない。一時《いっとき》の享楽に溺れて人生を捨てるなんて愚かすぎる。

 そう思う時、真っ先に浮かぶのは担架で運ばれるヴィードの姿だ。
 僕もヴィヴィもノクトも喋っていないのに、ヴィードが意識不明のまま転院してしまったことは何時《いつ》の間にやら誰もが知るところとなっていた。心ない者が転院先で死んだとまで言っているけれど、真偽のほどは定かではない。
 ただ、怪我ではなく命を落としたとなるとより一層第2のヴィードになることを警戒してしまうのか、ヴィヴィの取り巻き連中は距離をおくばかり。そのせいでヴィヴィはいつもひとりでいる。
 こういう時にこそ寄り添ってやれば評価も爆上がりだろうのに。


「ヴィヴィ、行こう」

 放課後、僕は今日もヴィヴィを誘う。
 揃って乗客のいないバスに乗る。
 クラスの連中は僕とヴィヴィが付き合っている、ヴィヴィは”レトの学徒”を片っ端から狙っている、と噂しているけれど、陰口を叩きたければ叩けばいい。
 此処《ここ》の連中は揃《そろ》いも揃《そろ》って保身にしか能のない馬鹿ばかりだ。


「ノクトは今日も行かないって?」
「そうじゃない? サーッと姿を消しちゃうってことは行かないってことだと思うよ」

 乗車口のリーダーにセルエタをかざし、僕らはめいめい席に着く。
 相変わらずの貸し切りだから何処《どこ》に座ってもいいのだけれど、何となくいつも隣同士で座っている。


 僕よりもノクトが行ったほうがチャルマだって喜ぶだろうのに、あれ以来ノクトは見舞いについて来ない。妹に似ているヴィヴィが一緒なのがネックなのか、病人にくってかかった僕とは行きたくないのか。
 まさか僕とヴィヴィとの仲を取り持つために遠慮しているのでは!? と心配になって聞いてみれば「この世界で生きていくには色々と知っておいたほうがいいから、その色々を覚えるので忙しい」と言う。

 口から出任《でまか》せを言っているだけかもしれない。
 けれど何時《いつ》までも”能登大地”を引き摺《ず》っていた彼が此処《ここ》で生きる覚悟を決めたであろうことは評価できる。
 転生だか転移だかは知らないが、向こうの世界に戻る術《すべ》はない。
 戻ったところで無駄死にするだけ。
 それなら此処《ここ》で第2の人生を送ればいいし、そうなると、この世界に来て1年にも満たない初心者が数ヵ月後には大人として生きなければならない現実が待っているのだから、覚えることも多いだろう。

 そんな彼に見舞いの時間くらい取ってくれても、と思うのは偽善の押し付けでしかない。
 チャルマ本人がノクトに見舞いに来てほしいと言ったわけでもなし、ノクトが将来に抱く不安を考えれば片道10駅以上ある病院に通えとは言えない。
 それにチャルマは未《いま》だもって何ごともなく無事でいる。
 相変わらず退院できないし痣《あざ》の原因も掴《つか》めないけれど、ノクトはメールでもチャルマとやりとりしているから、下手をすれば日参している僕やヴィヴィよりもチャルマの容態には詳しい。

 チャルマが案じていた”痣《あざ》持ちを狙う敵”は案の定現れない。さすが病院のセキュリティは強固……いや、イグニの嘘《うそ》が証明されただけのこと。
 本当に、「レトには言わないほうがいい」というノクトの言《げん》に従っておいてよかった。
 もしレトに伝えてしまっていたら、今頃僕たちには”虚言癖《きょげんへき》がある”なんてレッテルが貼られているところだ。





 バスは滑るように走っていく。
 更地は雪で真っ白に塗り替えられ、一面、フカフカの綿のようだ。寝転んだらどんなに気持ちいいだろう。

「覚えてる? 小さい頃、雪合戦したよね」
「そうだね」

 子供の頃は空からしんしんと降りしきる白い真綿を本物の雪だと思っていた。
 空は何処《どこ》までも広くて、本に描かれているとおり宇宙にまで続いていると思っていた。
 この町自体が透明な屋根に|覆《おお》われて外部と遮断されているなんて、雲はその屋根に映した映像でしかなくて、雨と雪は屋根に取り付けられた散水弁から降って来るなんて思ってもみなかった。

「……偽物なのに、雪なんて降らせて何の意味があるんだろう」

 窓の外をぼんやりと眺めながらヴィヴィは言う。
 
 子供の頃は雪が降る度《たび》に喜々として雪玉をこしらえては投げつけて来たヴィヴィがそんなことを言うとは。
 登校するなり顔面に雪玉を食らい、転倒した拍子《ひょうし》に背後の校門で頭を打ち、そのまま病院送りになったことは今でもしっかりと僕の記憶に刻み込まれている。そのせいで楽しみにしていた社会科見学を欠席する羽目になったことも。
 「凶器を量産するためじゃないの」と余程《よほど》言いたかったけれど、その言葉は舌先で煮込んで溶かして、別の言葉に組み直して。

「……この世界に季節があったってことを忘れるなってことじゃないの?」

 と言い直した僕は、少しは大人になれているのだろうか。

 
 レトは”海”と同様、雪も人類が忘れてはいけないものだと思っているに違いない。
 春になれば花が咲き、夏にはギラギラと太陽が照りつけ、秋に赤や黄色の葉が散り、冬はそれらを雪が全て覆い尽くす。この世界がとうの昔に忘れてしまったそんな季節の移《うつ》ろいを、今はこの小さなドームの中の”偽物”で再現するしかない。

 けれど、多くの人々が知恵を寄せ合えば何時《いつ》か、砂嵐の代わりに雪を降らせることもできるようになる。
 海が復活すれば雲ができる。
 雲ができれば雨も雪も降る。
 フローロを始めとする多くの人々が、そのためにファータ・モンドで頑張っている。

「マーレもフローロみたいに研究者になるの?」
「どうだろう。何も思いつかないんだ」
「”レトの学徒”なのに?」

 今、隣にフローロがいたら、彼が描く夢はもっとはっきりと見えたのかもしれない。
 でも僕がフローロの夢を聞いたのは彼がいなくなってからで、夢を追いかける彼の隣はイグニに取られてしまっていて。
 「追いかけて来て」と言われたけれど、ただフローロへの憧れだけでその道に進んでいいのかも今の僕にはわからない。能登大地やらチャルマの入院やらに時間を取られたふりをして、将来を考えることから逃げてしまっている。

 ずっと子供のままでいられたらいいのに。
 ずっと、ネバーランド《永遠の子供の国》で何も考えずに遊んでいられたらいいのに。


「でも僕もそうだよ。15歳で将来決めろなんて無理」

 ヴィヴィは自身のセルエタをクルクルと弄《いじ》っている。
 空色から青へと続くグラデーションの中に蝶が描かれているそれは、空をギュっと固めたようにも見える。自由奔放なヴィヴィらしい色だ。

「ヴィードとは本気だったんじゃないの?」
「まさか。彼はね、ボランティアみたいなもの」
「ボランティア?」
「そう。ずっと”レトの学徒”を目指して勉強しかしてこなかったけど、学生生活も終わるって思ったら1度も遊びらしい遊びもしないで大人になる自分がとんでもなく人生損した気になったんだって。だから青春の思い出の1ページを提供してあげたわけ。……でもそれが結果として意識不明で転院だもんね。悪いことしたな」

 ずっと勉強しかしてこなかった彼《ヴィード》が1度くらい遊んでみたいと思った気持ちは痛いほどわかる。”レトの学徒”に選ばれると言う目的を達成してしまったからこそ「皆が学生生活を満喫しているのに僕は」と勉強しかして来なかった自分がまわりより劣っているような焦りを抱いたのだということも。
 勉強することは悪いことじゃない。
 遊んでばかりいる奴《やつ》より劣るはずもない。
 レトはきっと評価してくれる。意識が戻った時に、ヴィードが「1度でいいから遊びたい」と思った過去の自分を悔《く》いることにでもなったら気の毒が過ぎる。
 けれど。

「…………うん、まぁ……あれは運が悪かったけど、でもボランティアって……ねぇ」

 本気じゃなかった、と聞いて安心していいものやら。

「夢を売る仕事だよ?」
「いや、その表現はちょっと妖《あや》しいお仕事を連想するからやめて」
「マーレにも売ってあげようか? 友達割引するよ」
「間に合ってます」

 ヴィードの気持ちはわかる。僕だって”レトの学徒”だから羽目を外せない、と何度思ったか知れない。
 でも僕はヴィードにはならない。ヴィヴィとは友達でしかない。

 ……雪玉のことを根に持っているわけではないけれど。




 バスが貸し切りだっただけあって病院も閑散としていた。
 と言うより人影は全くない。病棟のほうも他に入院患者はいないのかと思うほど静かだけれど、こうして病院全体が静まり返っていると場所が場所だけに生きて出られないような錯覚を覚える。

「こういうのホラーゲームであるよね。で次に通る時にあの辺の壁に赤く手の跡が」
「……そういうこと言うのなし」
「安心しなって! お化けとか僕全然大丈夫だから!」
「あーそうだね、ヴィヴィなら勝てるね」
 
 ヴィヴィがどう幽霊に強いのかは知らないけれど、陽キャラに近付く幽霊なんていないだろう。そう言う意味では今現在最良のパートナーかもしれない。
 と言っても、此処《ここ》はホラーゲームの中でもお化け屋敷でもないけれど。

「あ、本気にしてない」
「してるよ。ヴィヴィ、こう見えて結構男らしいとこあるもん。何かあったらよろしく」

 そう言うとヴィヴィは複雑そうな顔をした。常日頃、女性のような恰好《かっこう》をしているヴィヴィに”男らしい”は禁句だっただろうか。

 けれどチャルマを庇《かば》う気質といい、判断の早さといい、ヴィヴィに何処《どこ》となく”男らしい”頼もしさを感じているのは確かだ。頼もしさや頼り甲斐は男だけのものではないと言われるかもしれないけれど、何と言えばいいのだろう。古き良き少年漫画の主人公のような。
 しかしそれはあくまで僕の主観であって、ヴィヴィがどう思うかは別なわけで。つい幼馴染みの無遠慮で思ったままに言ってしまったけれど……。

 微妙な顔をしたまま黙り込んだヴィヴィをおそるおそる窺《うかが》う。
 と、ヴィヴィは大きく頷《うなず》いた。

「だよねー! やっぱり僕って男になるよね!」
「え、あ?」
「皆、僕が女になるの期待してるし、女になったほうがこの先有利なのはわかってるんだけどさ。僕は男になる気がするんだよ」
「……そうなの?」

 自分で言ったことだけれども意外だ。
 と言うことは、男になる気でいるのに女の恰好《かっこう》をしている、と言うことになる。
 まぁヴィヴィは海水浴の時にも「かわいい時にかわいい服を着て何が悪い」と豪語《ごうご》していたくらいだから、将来男になったらまず確実に着られなくなる女性ものを今のうちに着るつもりでいるのかもしれないけれど。

「でもマーレは女の子になるかも」
「何で!?」
「何となく。もし男でも受けというか右側と言うか」
「受け?」
「あーーーー!! あーあーあー”レトの学徒様”は知らなくていい低俗なことです! うん、気にしないで!」

 ヴィヴィは突然大声を出して話を遮《さえぎ》った。あはははは、と引きつった笑い声を立て、さっさと先に行ってしまう。
 怪しすぎる。後で調べる必要がありそうだ。
 僕はその後ろ姿に不審なものを覚えながらも後を追う。



 くだらない雑談のおかげでホラーゲームからすっかり意識が離れたまま、僕らはチャルマの病室に着いた。
 このあたりもやはり薄暗いけれど電気代だって馬鹿にならないし、入院患者はそれこそ部屋から出て来ないから廊下がどれだけ暗かろうとあまり関係ないだろう。

 だが。

「……チャルマがいない」

 病室はもぬけの殻だった。
 ベッドは掛布団を剥《は》がして整えられ、カーテンは端に揃えてまとめられ、掃除も既《すで》に終わっている。どう見ても出て行ってから数時間は経《た》っている。

「え? 何? 退院?」

 僕とヴィヴィは顔を見合わせる。
 昨日までは確かにチャルマがいた。退院するとも部屋を変わるとも言っていなかったし、「また明日」という僕らに「またね」と返していた。
 急に容態が悪化したのだろうか。それとも、あれだけ元気だったのだ。退院が突然決まって、僕らとは行き違ってしまっただけだろうか。

「――チャルマさんは転院されました」
「え?」

 急に背後から声をかけられ、僕らは振り返った。
 何時《いつ》部屋に入って来たのだろう。入口を塞《ふさ》ぐようにして看護アンドロイドが立っている。フランのような若い女性型だが、銀色の髪と目と、何より表情のない顔が無機質さを感じさせる。

「転院って|何処《どこ》へ!?」
「ファータ・モンドへ。性徴《せいちょう》が現れましたのでこの町にはいられなくなりました」
「それにしたって、」

 唐突だ。
 学校でも性徴《せいちょう》を理由に姿を消す学生は日を追うごとに増えてきているが、昨日の今日で追い立てられることはない。ファータ・モンドに行くにはバスを出さなければならないから、ある程度の人数を集めて出立させるのが常だ。旅立ちの日に比べれば人数が少ないからひっそり感はあるけれど、ひとりで行くことはまずない。
 そしてバスは一昨日出たばかり。昨日今日と新たに欠席した学生もいない今、チャルマのためだけにバスを出したとは思えない。
 しかもチャルマは長期入院していた。何処《どこ》が病気なのかわからないほど元気だったけれども、退院許可が出たことはなかった。
 そんな患者を性徴《せいちょう》が現れたからと言って追い出すだろうか。
 バスの長旅に耐えられるのだろうか。


「こちらはお返しします」

 アンドロイドは重そうな紙袋を僕に押し付ける。
 ノクトの本が無造作に詰め込まれている。ざっと上から見ただけでも表紙が折れ曲がっていたり、外された帯が隙間に押し込まれたりと、かなり雑な詰め込み方をしたことが見て取れる。

 チャルマはこれらの本を「暗唱できるくらい読んだ」と言っていた。
 リップサービスがかなり入っていて本当はそれほど興味のない内容だったかもしれない。転院が急に決まって時間がなかったのかもしれない。
 けれど、あのチャルマがノクトの本をこんな酷《ひどい》い状態で返すなんてあり得ない。


「用がなければお帰り下さい」
「用ならあるよ! ファータ・モンドの何て病院に行ったのさ! 結局何の病気だったの!?」
「答える義務はありません」
「名前くらい教えてくれたっていいじゃない! 何も此処《ここ》を脱走して会いに行くなんて思わないよ! あと半年もすれば僕らだってファータ・モンドに行くんだし!」
「お帰り下さい」

 食ってかかっているうちに何時《いつ》の間にか看護アンドロイドの数が増えている。しかし数が増えても誰ひとりとして僕らの問いに答える者はいない。
 それどころか、最初のアンドロイドの腕に縋《すが》りつくようにして問うヴィヴィを引き剥《は》がそうと手を伸ばしてくる。

「待って! チャルマは、」

 抵抗も空《むな》しく、僕らは病院から追い出された。




 病院の正門前にあるバス停のベンチに腰掛けて、僕らはかなり長い時間無言だった。
 目の前を3台のバスがやって来て、去って行った。
 雪景色をオレンジ色に染めていた夕陽が建物の陰《かげ》に消え、正面玄関のシャッターが下り、急患用入口の赤い看板以外の電気が消されてもまだ座り込んでいた。


『僕は……退院できるかわからないから』

 先月、チャルマがそう言ったことを思い出す。
 あれはどういう意味だったのだろう。てっきりイグニの嘘《うそ》に感化されて薄幸のヒロインと化しているだけだと思っていた。未知の病が進行して、ならともかく、まさか性徴《せいちょう》が現れたなんて理由でいなくなるとは思ってもみなかった。

 考えれば考えるほどおかしいことだらけだ。
 ヴィヴィ曰《いわ》く、チャルマは平均より身長が低いことを悩んでいた。確かにおせじにも体格がいいとは言えない。
 育ちの悪い草は花が遅い。実の成りも悪い。
 そんな体の小さいチャルマが、僕らより先に性徴《せいちょう》が来ることなどあるだろうか。

 それに。
 前述したように、昨日はファータ・モンド行きのバスは出ていない。突然体調が悪化しての転院ならともかく、性徴《せいちょう》程度でチャルマひとりのために車を出すことはない。

 院内は何処《どこ》も監視されている。不審者が入り込む隙などない。
 警備を兼ねている看護アンドロイドたちの力も、追い出された僕たちが誰よりもよく知っている。
 連れ去られたり、襲われて命を落としたのなら、僕たちがあんなにあっさりと現場に入れるはずもない。
 彼女らが「ファータ・モンドに行った」などと偽りを口にする理由もない。
 看護アンドロイドたちは町のアンドロイドと同様、レトに紐付いている。レトが指示したのならともかく――。


 ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
 まさか。
 もしフローロの”やりたいこと”がレトに反旗を翻《ひるがえ》すことだったら。
 ノクトが読み漁《あさ》っていた厨二SFみたいに、レトこそが敵だったら。

「……まさか」

 違う。そんなはずはない。
 僕たちが生まれるずっと前からレトは人類のために世界を守ってきた。
 フローロがレトに敵対する理由もない。レトは「フローロは世界のために尽力している」と言った。敵対していたらそんな言葉は出て来ない。


 ああそうだ。あんな本を繰り返し読んでいるから、危険思想の持主だと思われてしまったのかもしれない。
 ノクトは紙本なら繰り返し読もうが積読《つんどく》にしようがレトにはわからないと言っていたけれど、病室は1日中モニタリングされている。ずっとAIと戦う話なんか読みふけっているから、精神鑑定を受けるために連れて行かれたのかもしれない。
 鑑定でもし本当に危険だと判断されてしまえば、戻ってくることはない。だからファータ・モンドの何処《どこ》に行ったかまで教えてくれなかったのかもしれない。

 ただ救いと言えるのは、チャルマはあれらの本を読んで日が浅いこと。それに何より、レトに反旗を翻《ひるがえ》そうなんて思っていない。レトもきっとわかってくれる。

「……何か……思いついた?」

 打ちひしがれた顔でヴィヴィが僕を見る。
 「”レトの学徒”なんだから何かいい方法を思いついてよ」と顔に書いてある。

「いや」

 言えない。もしそうならレトは僕とヴィヴィも監視しているだろう。チャルマが何も問題ないことがわかって開放されるまで、レトを疑うようなことは言えないし、考えてもいけない。
 説明も何もなくチャルマを連れて行かれた分だけ、ヴィヴィはレトに反発しやすくなっているだろうから尚更だ。

「それより今は帰ることを考えよう」

 町に戻るバスは|既《すで》にない。歩いて帰れる距離ではないから、タクシーを呼ぶしかないだろう。ふたりで割れば払えない額ではない。

「帰るの!?」
「此処《ここ》にいたって凍死するだけだよ」

 チャルマのことがはっきりするまで梃子《てこ》でも動かない、とばかりのヴィヴィを他所《よそ》に、僕はセルエタを起動させる。
 僕だってこのまま帰ったのでは負けを認めたみたいで悔しいけれど、だからといって此処《ここ》に座り込んでいたところで悪いようにしかならない。

「そんな、僕は、」
「――其処《そこ》で何をしている」

 ヴィヴィの反論に、第三者の声が被《かぶ》った。
 見れば、急患用入口から出て来たらしい少年が無表情のまま僕たちを見ていた。赤錆《あかさび》色のマントが、急患用の看板に照らされて深紅に染まっていた。



 結局、僕たちはクルーツォの車で寮まで送ってもらうことになった。
 彼があの場に居合わせたのは薬の納品に来た帰りだったらしいが、何故《なぜ》こうも都合よく現れるのか、フランやアポティがレトの傀儡《かいらい》だと認識させられ、チャルマが理由もわからないまま転院させられた後では何もかもが疑わしく思える。|薬師《くすし》なのだから病院にいたところで何もおかしくはないのだけれど。

 それにしても。
 僕は隣でハンドルを握るクルーツォの横顔を窺《うかが》い見る。
 帰りあぐねた僕らにとって、寮まで送ってくれると言う彼の申し出は有難《ありがた》すぎるほどに有難《ありがた》いのだけれども、それ以上にツッコミどころが満載すぎて困る。
 まず第1に、砂漠の旅人の如《ごと》き恰好《かっこう》で車を運転する違和感がとんでもない。
 この衣装なら馬かラクダに乗って欲しいと言うのは自分勝手な先入観だし、馬もラクダも滅んで久しいけれど、そう思ってしまう。
 第2にその運転が手慣れ過ぎている。
 自動運転が主流になっている今、運転技術はほとんど使わない技術と言ってもいい。現に町中《まちなか》でバス以外の車を見ることはほとんどなく、店にいる”大人の顔をした”アンドロイドが車を使っているところも見たことがない。
 なのに……見た目は僕たちとほとんど変わらないのに、と言ったところで相手はアンドロイドなんだから、で終わってしまうツッコミだけれども、何だかいろいろ反則すぎてズルい。


「俺は初期型だからな」

 前方に顔を向けたまま、クルーツォは呟く。

「こう見えても俺はアポティより古い」
「ええ!?」

 本当だろうか。店でのやりとりを思い返しても、アポティのほうが年長者らしく振る舞っていた気がするのだが。
 それにもし上下関係があるのだとしても、一介の薬局店員と薬師《くすし》とでは薬師《くすし》のほうが技術職の分、軍配が上がりそうなのだけれども。

「アポティのあれは性格だ。子供相手の商売だから大人でいる必要がある」
「じゃあクルーツォが無愛想なのは、」
「俺が何だって?」
「いえ」

 クルーツォが言うには、黎明期《れいめいき》は様々《さまざま》な年代に応じて様々《さまざま》な姿のアンドロイドが生み出されたそうだ。同年代のほうが心を開きやすいのではとか、年配者に見えるアンドロイドから指示されたほうが受け入れやすいとか、そんな理由で。
 ただ、その”個性”はコスト高に繋《つな》がる。なんせ1体として同じものがいないのだから。
 そのため、今ではフランやアポティのような後期量産型――ウィッグ《髪》やコンタクト《瞳の色》で違いが出せる程度――に取って代わられたらしい。

 後期量産型は可もなく不可もなくオールマイティに何でもこなし、且《か》つフォーマットが画一なのでレトが管理しやすいと言う美点もある。
 が、その分打たれ弱い。可もなく不可もなくということは取り立てて苦手にするものがない代わりに突出した能力もない。環境の整った町中《まちなか》で働くことを基準にしているので、灼熱と砂嵐の中では温度や異物混入で故障しやすい。
 なので初期型は彼らには任せられない職を請《う》け負《お》うことが多いのだとか。

「薬師《くすし》も?」
「そうだ。薬の材料は全て町の外にあるから」

 薬なんて塵《ちり》ひとつない無菌室のようなところで作られている筆頭のような気がするのだが、材料の調達から全て、となると初期型に任せるしかないらしい。
 分担するという発想はないのだろうか。
 人手が足りないのだろうか。
 もしかするとこんななりの時しか見ていないから旅人だのと言った偏見に満ちた目で見てしまうだけであって、クルーツォもラボ《研究室》に戻れば白衣なのかもしれない。使う薬草もメインは水耕栽培や試験管で培養したもので、無重力状態の中で材料を混ぜて……いやいやいや。クルーツォなら得体の知れない物体Xをすり鉢でゴリゴリ混ぜ合わせていそうだ。
 無菌室に白衣なんて、最初にインプットされたイメージが濃すぎて全く想像できない。

 激しく頭《かぶり》を振って妖しいイメージを振り払う僕を、クルーツォは冷ややかな目で一瞥《いちべつ》する。よもやその想像は伝わってはいないだろうけれど……。

「で、でも外で何が採《と》れ……」

 僕は慌てて話題を振る。
 想像の中では物体Xとしてモザイクがかかっていた”外の世界で採《と》れる材料”。さてそれは?
 カリカリに乾いた草?
 砂の中で一生を終える虫や小動物?
 しかしあれらは砂地でしか生きられないわけではない。むしろ気候の整った町の中のほうが育つし増える。
 なら、何だ? 彼《か》の地に行かなければ手に入らないもの、とは。

「……砂?」

 おそるおそる尋ねた僕をクルーツォは無言で見返して来た。
 呆れているようにも見えるが、兎《と》も角《かく》、不正解なのは間違いない。

 対向車がいない直線道路だとは言え脇見運転はやめてください。と言いたいけれど、その原因を作ったのは他でもない僕だ。注意なんかできない。
 と言うか、直視すぎて居たたまれない。

「えっと、その」

 穴が空くほどと言う表現がしっくりくるほど見られている。薬局で出会った時の、目もまともに合わせてくれないよそよそしさが嘘《うそ》のようだ。
 ああ、余程《よほど》変なことを言ってしまったのだろうか。いや、まぁ、自分でも砂が薬の材料になるなんて小指の先くらいしか思っていないけれど。


「……砂のわけがないだろう。さすが”レトの学徒”だ。変わった発想をするんだな」

 褒めてない。
 絶対に褒めてない。
 この足下の鉄板に穴を開けられるものなら、開けて入りたい。入ったところで車外に放り出されるだけなのはわかっているけれど。


 クルーツォは片手でハンドルを持ったまま、もう片手で僕の前にあるダッシュボードを器用に開け、皮袋を取り出した。それを「ほら」とばかりに差し出す。
 開けてみろ、ということなのだろうか。
 僕はクルーツォと皮袋を交互に見比べ、それから口を結んだ紐を解く。蝋引《ろうび》きされた紙を開けると、薄桃色をした花弁《はなびら》らしきものが現れた。
 乾きかけた花弁《はなびら》はくるんと反り返った形を描《えが》いて固まっている。ちょっと引っ張っただけでも|千切《ちぎ》れてしまいそうだ。
 乾き具合からして、採集してから何時間かは経《た》っていると推定される。




「これは?」
「生命《いのち》の花だ。此処《ここ》の薬は全てそれから作られる」
「生命《いのち》の、」

 凄いネーミングだ。
 だが、だからこそ”全て”の薬がこの花からできるという言葉にも信憑性《しんぴょうせい》があるような気がしてくるのは、他でもない、砂漠の旅人《違う世界の人》然とした彼の言葉だからかもしれない。

「栄養剤も風邪薬も、捻挫《ねんざ》や裂傷《れっしょう》にも。材料はこれだ」
「ホントに全部これなんだ」

 前文明では人間は他の動植物を食べることでしか生き永《なが》らえることができなかった。
 言い換えれば、他の生物の命を取り込むことで自《みずか》らを生かしていた。
 今は水と光さえあれば生きることができるけれど、それでも冬期は栄養剤のように補助する薬が必要になる。それをこの花から作るのは、”他の生物の命”が”花の命”に変わっただけのことだ。

 でもこんな花が何処《どこ》で咲くのだろう。
 僕は花弁《はなびら》を1枚摘《つ》まみ出す。
 全長が親指ほどの長さ。これからいくと花の大きさはセルエタをひとまわり小さくしたくらいだけれども、そんなものがあの砂の世界にあっただろうか。
 旅立ちの日に開かれる門《ゲート》の向こうや、星詠《よ》みの灯台から見える外の世界には木も草もなかった。見渡す限りの砂と、遥か彼方に霞《かす》むファータ・モンドの塔だけで。


「今はまだ花の時期じゃないから少ないが、来月になったらファータ・モンドのほうを気を付けて見てみるといい。花霞で色が変わっている場所がある」
「ファータ・モンドに咲いてるの?」
「ファータ・モンドのほう、だ。あの町の手前に生命《いのち》の花の林がある。年々本数を増やしているが今年は特に花付きがいいから此処《ここ》からでも見えるだろう」

 ファータ・モンドの手前と言うと結構な距離があるはずだが、クルーツォの言うとおり、余程《よほど》の群生になっているのだろう。
 クリスマスの頃、ピンクのイルミネーションに飾られた街路樹を指してノクトが「桜に似ている」と言ったけれど、満開の生命《いのち》の花もそう見えるのかもしれない。

 僕は花弁《はなびら》を皮袋にしまい直す。
 卒業してファータ・モンドに行けば、本物を見る機会もあるだろうか。だとしたら是非《ぜひ》、ノクトにも見せてやりたいものだ。



 そうだ。ノクトと言えば。

「あ、あのね。前にも聞いたことだけど……最近、外の世界で学生を見なかった?」

 以前、薬局で尋ねかけたことを僕は再び口にした。
 脱走者の捜索は、そもそも行方不明者が出たと判明するのが大前提だから、ノクトのように誰にも知られていない場合は捜索すらされない。
 でもクルーツォなら捜索とは関係なく外に出る。だから、その時に見かけることがあるかもしれない。

「遺体でもいいんだ」

 もちろん生きて戻って来てくれるのが1番だが、日が経《た》ちすぎている。
 兎《と》も角《かく》、能登大地だと名乗るあのノクトが本物なのか、顔が似ているだけの赤の他人なのかだけでも知りたい。


 クルーツォは黙っていた。
 今度は顔すら向けない。行方不明になっているであろう知り合いの学生に対して「死んでいてもいい」と言う僕を軽蔑しているのかもしれない。

 が。


「……………………人間の形をしたものは見てないな」

 10分ほどして、かなり躊躇《ためら》ったような返事が返ってきた。酷《ひど》く遠回しな返事は僕を気遣《きづか》ってのことだろうか。

 人間の形をしていない。
 それはつまり遺体の中でもかなり損傷が激しいと……カリカリに乾いて腕や足が折れてしまった状態なら見たことがあるという意味なのか?
 それとも文字通り(生死を問わず)人間は見ていないのか。

「それは遺体なら見たって意味に取っていい?」

 外に出た者は、息絶えていた場合はそのまま放置される。
 亡くなったことは僕らには知らされない。
 クルーツォが見たというそれは――。

「……遺体、じゃない」
「遺体じゃない」

 しかし予想は否定された。
 クルーツォが外で見たことがあるものは人間でもなければ遺体でもない。
 つまり、ノクトは見つかっていない。もしくは外に出ていないと言うことになる。




「それより何故《なぜ》あんなところにいたんだ?」

 外にある何かの話を切り上げるように、クルーツォは話を変えた。
 結果としてノクトの手がかりは何も掴《つか》めなかったが、こうも全くノクトの足取りが掴《つか》めないとなるとやはり”今のノクトとは別に本物のノクトが何処《どこ》かにいる(能登大地転移説)”ではなく、”今のノクトが元々のノクトだった(能登大地転生説)”が正解なのだろう。
 僕がひとりで本物のノクトが――この10年間の記憶を持った幼馴染みのノクトが――別にいると思いたかっただけだ。
 
 僕らが彼に「ノクトとして振る舞え」と言ったのは、結果として間違いではなかった。
 もう彼の中には幼い頃の記憶などない。どうせあと半年もすれば顔を合わせることもなくなる。別れが半年早くなっただけだと思っておけばいい。


「門限はとうに過ぎているだろう」
「友達の見舞いに行ったんだ。でも、いなかった」
「|何故《なぜ》」
「ファータ・モンドの病院に転院したんだって。昨日までそんなこと言ってなかったのに」

 そしてチャルマも。
 退院したところで数ヵ月後にはどうせ別れてしまうのだから、下手に死を確定付けられなかっただけ良かったのかもしれない。そのほうが20年くらいして思い返した時に、何処《どこ》かで生きていると思うことができる。


「……ファータ・モンドか」

 クルーツォはふいに言葉を切り、考え込むような仕草を見せた。
 しかしそれ以降、続く言葉は出て来ない。



 座席の後ろでは瓶がカチャカチャと大合唱している。
 薬を卸《おろ》す代わりに空瓶を回収し、この瓶にまた新しい薬を詰めて運ぶのだと、乗り込んだ時に聞いた。
 先日の栄養剤のようにカプセル状にすればもっと運びやすいと思うのだけれども、成分を凝縮する技術はファータ・モンドにしかないらしい。
 そう言えばあのカプセルはクルーツォが作ったのではないと言っていた。アポティが「届いたら持って来るように頼んだ」と言っていたから、あれもファータ・モンドから送られて来たのだろう。
 引き出しにしまい込んだまま今の今まで忘れていたけれど……鮮度は大丈夫だろうか。カビが浮いてたりしたら捨てるしかない。


「ヴィヴィ、煩《うるさ》い?」

 後部座席に乗っているヴィヴィはずっと黙り込んでいる。
 眠っているわけではないけれど、クルーツォとの会話にも入って来ない。”生命《いのち》の花”にしてもノクトの行方にしても、いつものヴィヴィなら絶対に食い付いて来るのに。
 チャルマのことが頭の中を占めていて、僕の声など耳に入って来ないのかもしれない。

 沈黙が流れる。
 待っていてもクルーツォは一向《いっこう》に喋らない。それどころか、つい今しがた会話していたことすら忘れてしまったたような顔で前を見ている。
 その横顔に、いつかのフランが重なった。
 途中からレトと入れ替わった彼女は、僕が立ち去る時には何も覚えていない顔で「いってらっしゃい」と言っ……。

 ……そうだ。クルーツォはアンドロイドだ。

 ふと閃《ひらめ》いたその言葉に、僕の背を冷や汗が流れた。
 彼がアンドロイドなのは知っていた。だからこの容姿で車を運転してもおかしくない、と自分で納得すらしていた。アンドロイドの中でも初期型と呼ばれていて、アポティより古いのだと、それは本人の口から聞いた。
 なのにすっかり忘れていた。
 フランやアポティと同じようにクルーツォの背後にはレトがいる。でも僕はノクトのことを聞いてしまった。
 フランが聞いたこと、アポティとクルーツォが聞いたことはそれぞれ断片だけれども、きっともうレトには何があったか知られてしまっただろう。
 黙り込んでいるのはどう対処するか、レトの試算待ちなのかもしれない。



 窓の外を流れる景色に建物が混じり始める。市街地に入ったのだろう。
 寮の門限が過ぎれば客足が途絶えるから閉店した店が多いのはわかるけれど、街灯まで消してしまうとは。
 光が全く射さない街は廃墟のようだ。
 年明けにノクトと歩いた早朝の街も人類滅亡後の世界のようだったけれど、あの時は空の色がもっと明るかった。これから陽が射す予兆があった。
 でも今は本当に暗くて、もう明るくなることなどないようで。

 その中を僕たちを乗せた車だけが走る。
 あと十分程度で寮に到着してしまう。


「あ、|痣《あざ》ができる病気って知ってる?」

 問いかけながら僕はクルーツォを窺《うかが》う。
 あと十数分。
 その間に。

「……質問が多いな」

 脱走者やファータ・モンドの話題ではなくなったからだろうか。
 今度は普通に返事が返ってきた。

「うん。あのね、額に花みたいな痣《あざ》ができるんだ。首にできることもあるけど、そっちは形まではわからない」

 時間がないから、考えるのは後にする。

 何処《どこ》からか送られて来た処方箋《しょほうせん》どおりに薬を調合するだけの仕事を薬師《くすし》とは言わない。医者と同様、病気には詳《くわ》しいはずだ。
 同じように|痣《あざ》があったフローロが何もなく卒業したことからしてチャルマの痣《あざ》が病気のせいだとは思えないのだけれど、今回の急な転院は痣《あざ》が現れてからのこと。もしかしたら、と言うこともある。

 何より、病院が僕らの問いに答えるどころか追い出しにかかったことが気になる。
 何故《なぜ》隠す?
 チャルマは本当に病気だったのか?
 病院のシステムはレトが握っている。言い換えれば、チャルマを転院させると決めたのはレトだ。

「病気じゃなくても、例えば性徴《せいちょう》が現れるきっかけとか」
「それはないな」

 あっさり答えてくれる問いもあれば、全く答えてくれない問いもある。
 もしかしたら今も、僕はクルーツォの口を借りたレトと喋っているのかもしれない。
 質問させるに任せて、わずかな餌《えさ》を|撒《ま》いて。僕が何を隠しているのかを確実に引き出そうとしているのかもしれない。

「だが、その友達は原因もわからないまま長期入院していたんだろう? 痣《あざ》の有る無しに関係なく、数時間前まで元気だった患者が容態急変することは別に珍しいことでも何でもない」

 クルーツォの返事は医学に関わっていなくても返せそうな一般的なもの。
 これもレトが介入しているからだろうか。僕らに詳細を告げないようにしているのだろうか。

「それにファータ・モンドは医療も此処《ここ》より進んでいると聞いている。此処《ここ》で対処できない症例の場合は搬送することも考えられなくはない」
「だけど、だったらそう言えばいいじゃない。なのに病院は教える義務はないって」
「指示されていないことは知っていても教えられない。守秘義務という奴《やつ》だ」

 話しているのは病院の対応についてなのに、何処《どこ》か、クルーツォ自身も全てを教えることはできない、と言っているように聞こえる。
 今こうして喋っていることも守秘義務の範囲外――クルーツォの考えではなく”レトから話してもいいと指示されている”からで。
 僕が投げかけた問いは、全てレトに筒抜けになっていると思って間違いない。


 チャルマは何処《どこ》へ行ってしまったのだろう。どうして何も教えてくれないのだろう。
 あの|痣《あざ》は転院と関係あるのか。
 イグニが残した言葉は真実なのか。フローロは今でも本当に元気でいるのか。
 何もわからない。推測するためのヒントすらない。
 卒業してファータ・モンドに行くまでレトの影を気にして、手をこまねいて、虫篭《むしかご》の中でただヒラヒラと舞うだけの蝶でいるなんて僕にはできそうにない。

「知りたいんだクルーツォ。僕はこのままじゃ、」
「着いたぞ」

 寮に着いてしまった。時間切れだ。
 有益な情報は何も引き出せていないけれど、だからといってずっと居座るわけにもいかない。
 自動で開いたドアは「さっさと降りろ」と言っているようだ。

「……………………ありがと」

 ヴィヴィに続いて僕も車から降りる。
 その時だった。

「……いい子でいろよ、”レトの学徒”。お前はお喋りが過ぎる」
「え?」

 聞き返そうと振り返った時にはもうドアは閉められ、車は走り去ってしまった。





「あの人と仲いいんだね」

 遠ざかる車を見送りながら、ヴィヴィがやっと口を開いた。
 その声は淡々としていて何の感情も乗っていない。車内で僕がずっとクルーツォとばかり喋っていたから、いつものヴィヴィ的な発想で”恋愛感情絡みで仲がいい”と思われているかもしれないし、”アンドロイド《レトの下僕》と仲がいい”と思われているのかもしれない。

「仲いいってほどじゃないよ。アンドロイドだから話しかければそれなりに答えてくれるだけ」

 けれど誤解されては困る。アンドロイドが困っている人間に手を差し伸べるのは当然のことだ。この町にいる全てのアンドロイドに同じことを聞いたって、初対面か顔馴染みかの違いなく同じ反応が返って来るだろう。
 クルーツォは相手が僕だからいろいろ喋ってくれたわけじゃない。

「僕でもマーレの時みたいに喋ってくれるのかな」
「喋りたいの?」
「だってクリスマスの時に助けてくれた人でしょ? あの人。お礼もまだ言ってない」
「あ……そうだったね」

 もしかしてヴィヴィはずっと遠慮していたのだろうか。
 助けてもらった礼も言う前から親しげに会話に混じるのは失礼だと。タイミングを見計らって礼を言おうと。
 でも結果として僕ひとりがクルーツォを占有したままで終わってしまった。

「ごめん。気がつかなくて」
「違う。言おうと思えば何時《いつ》でも言えたんだ。マーレが悪いわけじゃないよ。それにほら、あの人薬師《くすし》なんだよね? それなら薬局で会えるかもしれないじゃない。その時に言う」

 ヴィヴィは宣言するようにそれだけ言うと、僕の返事も聞かずに寮に向かう。
 玄関先からフランの咎《とが》める声が聞こえて来て、僕も慌てて後に続いた。