prologue





「る~う~~」
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」

 ノイシュタイン城の朝はメイド《ルチナリス》の悲鳴で始まる。


 犠牲者の後ろから羽交い締めさながらに抱きついているのはこの城の主《あるじ》。兼、義兄《あに》。

「ななな、何ですか?」

 ぎこちなく振り返れば、広がっているのは春の陽光のような笑顔。ではあるけれど。
 いかんせん登場の仕方が悪い!
 何故《なぜ》に気配を消す必要がある! 何故《なぜ》抱きついてくる必要がある!! 
 せめて! せめて抱きついて来るなら気配を出して! ああ、それだけだと痴漢と間違えるかもしれないから……そうだ! 「お兄ちゃんだよー」って告知して!
 間違っても、

「え? るぅがいたから」

 なんて、それが当然みたいな顔しないで!
 あたしの心臓のことを思って!
 世のお兄ちゃんは気配を消して妹に抱きついてきたりはしない!




 ……開始早々失礼しました。

 あたしはルチナリス=フェーリス。15歳。このお城でメイドをしている。
 後ろに貼りついているのはあたしの雇い主にして城主。過去のちょっとした誤解と惰性から兄と妹を名乗ってはいるけれど、養子縁組したわけでも兄弟姉妹の結婚相手とかそういう本来の意味での「義理の兄」でもない。


「昔は青藍様~って抱きついて来てくれたのになぁ」

 その雇い主兼義兄《あに》はあたしの頭の上に顎《あご》を乗せたまま不満げに仰る。喋るたびにポコポコと振動が伝わって来てくすぐったい、と言うか……赤の他人であることを認識していないといけない身の心臓には大変よろしくない。

「いーっつの間にかよそよそしくなっちゃって」

 大型犬が甘えて来る感じに似ているけれど、犬なら癒《いや》されるのに何故《なぜ》義兄《あに》だとこうも心臓に悪いのか。
 もっと犬っぽい人がいるからだろうか。
 いや。奴《やつ》で癒される人の顔が見てみたいわ。あんなネチネチ上から目線で小言言ってく……待てあたし。話が脱線する。

「よ、よそよそしいのは当然です。何と言ってもあたしはメイドで、」
「妹で」
「いや、妹なんだけど、でもですね」

 あたしばっかりドキドキしなきゃいけないなんてズルい。
 義兄《あに》が犬ではなくて人なのが悪い。
 あたしが恋に恋する彼氏絶賛募集中の15歳だということを義兄《あに》は全く理解していない!
 例えばの事例がまさに今のこの状況。

「昔みたいに抱きついてくれていいのにさぁ。ほら、この間みたいに、」
「この間!? 何時《いつ》!!??」

 勝手に既成事実を作るな!
 さっきから心臓が喉から飛び出しそうな音を立てている。それを必死に抑えて平静を保つのも限界だ。保たないと精神がもたないというのに!

 こういうことが日常茶飯事。兄妹仲が悪いよりずっといいじゃない。と言われるかもしれないが、限度を越えれば薬だって毒になるように「良い」は「悪い」に変化するものだ。
 今でさえ腕の中で義妹《いもうと》が瀕死になっていると言うのに、義兄《あに》はと言えば、さら腕に力を込め、髪に頬まで寄せてくる。知らない人が見たら兄妹よりも恋人同士に見えるだろう。けれど。

「んー、10年前?」
「10年前はこの間とは言わねぇ! 違う、言わない!!」

 そう。一応ふたりの関係はご主人様としがないメイド。義兄《あに》と義妹《いもうと》は世を忍ぶ仮の姿……じゃなかった、別の言い方 。
 そりゃあ、その関係で恋人同士ってシチュエーションも世の中にはあるかもしれないが、残念ながらまだその域には達していない。達していればあたしだってそんなに発狂しないわよ。「お兄様♡」って抱きつき返すわよ。
 でも! その域には! 達していない!!
 物語が進むうちにおいおい距離が近付いていって、そしてラストでゴールイン! という、年頃の娘が主人公で、血の繋《つな》がらない兄がいて、お互いに好意を持っていて、背景が城……なんて設定の物語では鉄板のシチュエーションだけれども。
 今は序破急《じょはきゅう》の序《じょ》。起承転結の起の部分。
 まだ! その域には(以下略)! 

 ……と、これ以上は脳の血管が切れそうだ。

 そもそも義兄《あに》側に恋愛感情は微塵《みじん》もない。
 よく要人同士の会見でオジサマ同士で抱き合って肩を叩いたりするアレと同じで、挨拶程度の意味しかないのだろう。義兄《あに》の態度は血が繋がった妹相手でも犯罪スレスレな気がするけれど、貴族様の間ではきっとこれが普通なのよそうなのよ。
 あたしは庶民だから、ひとりで過剰反応しているだけで。だから原因はあたしの心の持ちようひとつにあるわけで。理性ではそう納得したいのに、感情はそうもいかなくて。


 そんな義妹《いもうと》の態度に義兄《あに》はふっと顔を曇らせた。

「……るぅちゃんはお兄ちゃんのことが嫌いなんだ」
「うっ」

 何故《なぜ》そうなる!

 何の運命の悪戯《いたずら》か。そんな庶民には理解できない世界から来た義兄《あに》と、たったひとりきりの兄と妹を演じ続けて早《はや》10年。
 この「お兄ちゃん」にかわいがられてきた義妹《いもうと》としては、全く悪気がないのがわかっているだけに今更邪険にも扱えないのも確かなことで。

「俺のこと嫌い?」

 それを義兄《あに》が知っているのも確かなことで!

「うう」
「……ねぇ」

 扱えないが扱いたい。
 扱いたい。
 扱い……だから! 耳元で囁《ささや》くんじゃねぇ!
 この人絶対、面白がってやってるわよ! きっとそうよ!

 傍《はた》から見れば羨ましいと思われるかもしれないが当事者はそうではない。
 だってあたしは義妹《いもうと》。義妹《いもうと》なのよお兄ちゃん! 血すら繋《つな》がってないのにこれは問題大ありだってことを理解して!
 箒《ほうき》を握り締めるとミシッ、と何かが割れる音がした。聞かなかったことにしておこう。




 この義兄《あに》は少し変わっている。
 変人、と言う意味ではない。まぁ多少、いや多大に人格的にも変わってはいるが……ってそう言うのを変人って言うのよ的なツッコミは置いといて。

 1番変なのは外見だろう。
 さらさらの黒髪と蒼い瞳。男性相手に「美貌《びぼう》を誇る」という表現は下手《へた》すると貶《おとし》めているように聞こえてしまうかもしれないが、その辺の女どもが霞《かす》んで見えるのは決して贔屓目《ひいきめ》で言っているのではない。
 小さい頃はドレスを着せても似合ったはずだ。実家に行けば女装の姿絵の1枚や2枚や10枚や100枚はきっとある。そう思わせてしまう義兄《あに》は、そしてまた何故《なぜ》だか10年前から全く見た目が変わらなかったりする。
 見た感じは10代後半~20代。普通に考えればまだまだ成長できると言うか、する。言い切れる。子供の記憶は曖昧《あいまい》だと言うけれど、城下町の奥様方までもが口を揃えて「何時《いつ》までも若い」と言うのだから間違いない。
 おかげで出会った頃は年の離れたお兄ちゃん(もしかしたらとっても若いお父さんでもいけるかもしれない)だったのに、今では5歳くらいしか差がないように見えてしまう。

 子供の10年と大人の10年では成長度合いはかなり違う。大人なら10年前の服でも着られるし、顔立ちだってそれほど変わりはしない。でも、それを見越しても義兄《あに》の容貌は変わらなさすぎた。
 あれか?
 美魔女とかそういう系統か?
 見た目が年齢を超越しちゃう人ってたまに聞くけれど。

 あと数年してあたしのほうが追い越してしまったら、いや、あたしがおばさんやお婆さんになっても変わっていなかったらどうしよう。
 普通の人が聞いたら荒唐無稽《こうとうむけい》な冗談にしか聞こえないこの悩みを、あたしは結構本気で悩んでいる。





 ホールド中の義妹《いもうと》に日々そんなことを思われているとは露知らず、義兄《あに》は無邪気な笑みを浮かべた。

「今、何処《どこ》に行こうとしていたのかな?」

 話題転換か?
 足止めか?
 でもそれを抱きつく理由にしていいってことはないわよお兄ちゃん。

 笑顔だけ見れば和《なご》む人もいるかもしれないが行動が全く伴《ともな》っていない。何故《なぜ》ここまで羽交い絞めにされないといけないのだろう。形としては同じなのに、恋人同士の抱擁みたいな色気は全く感じない。

「掃除してただけです」

 この腕がもう少し上に、そう、首のあたりにあったら確実に窒息する。
 あたしはあなたと死闘を繰り広げているわけではないのですが。

「玄関ホールは行ったら駄目って言ったよね?」
「行きませんって! 絶対!!」

 玄関ホールは目と鼻の先。
 廊下の突き当りの、扉で仕切られた、その先。行こうと思えば行けるけれど、この10年、何度も繰り返された警告は身に沁《し》みついてしまっている。



 この城にはあたしが立ち入ってはいけない場所がいくつかある。
 玄関ホールもそのひとつ。
 滅多に来客のある城ではないが、顔である玄関ホールくらい綺麗にしておくのが普通だ。と一介のメイドは思うのだが、しかし、その城唯一のメイドは一度も彼《か》の場所に入らせてもらえない。それどころか、近付こうものなら監視でもしているのかと疑いたくなるほどに、何時《いつ》の間にか背後に回り込まれている。
 その度《たび》に気配まで消してくるのだから、性質《たち》が悪いったらありゃしない! と思う反面。本当に妹だったら入っても許されるのだろうか、なんてことも思う。
 でも違う。あたしはメイド。追い出されたら行く当てなんてありゃしない。
 だから、義兄《ご主人様》の言いつけには従わなければ。どれだけ馬鹿をやっても、規則だけは守らなければ、あたしの居場所はなくなってしまう。


「行っちゃ駄目だよ。お化けが出るからね」

 これも常套句。
 お化けが出ると言われて止まるのは子供くらいよお兄ちゃん。と思いつつ、そういう脅しを思いつくのはこの城が「悪魔の城」と呼ばれているせいもあるのだろう。
 その不名誉な呼称は古城あるあるなお化け屋敷然とした外観と、悪趣味な石像だらけの前庭に起因するものではあるけれど、この分だと玄関ホールもかなり凄いことになっているのかもしれない。義兄《あに》が頑《かたく》なに近付けさせようとしないのは、きっと女子供にはショックが強いものが置いてあるからだ。
 古いお城によくあるわよね? 棺桶の中に無数の太い針が付いていたりするアレとか。扉を開けたら真正面にアレが口を開いて待っていたりしたら怖すぎる。血糊《ちのり》がこびり付いていたりしたら……いや、今まさに何か挟まっていました、とばかりに赤い液体が滴《したた》っていたりしたら冗談では済まされない。




 そんな怖い想像の世界から現実に帰って来てみると。

「あー! なにこの袖ーーっ!!」

 視界に入ったのは義兄《あに》のシャツの袖にバッサリと付いた切り裂き痕《あと》。さらにはところどころ汚れているし、焼け焦げたような染みまで見つけてしまった。
 怪我はしていないようだが日常生活で付くものではない。

 冗談ではない。誰が洗濯していると思っているのよ! あたしはアイロンがけだって苦手なのに!! 
 と言うより、このシャツは既《すで》に洗濯で再生できる域を超えている。

「何で破れてるの!? ここも、ここもこんなに汚して!」
「あ、いや、ええと」

 義兄《あに》の腕を両手で掴み、引っ張るようにして勢いよく振り返る。もうちょっと腕力があれば背負い投げもできるかもしれないが、そこまでは求めていない。
 求めてはいないが効果は十分だ。振り返った義妹《いもうと》の形相《ぎょうそう》に義兄《あに》が怯《ひる》む。怯《ひる》んで緩《ゆる》んだ腕から、あたしは身を引き抜いた。

 首尾よく逃れた今度はあたしのターン。今の今までベッタリと張り付いていた人を上から下まで見直してみれば、破れているのは袖だけだけど、全体的に埃っぽい。

「なん、で……っ」

 衝撃の事実! と言うのは大袈裟だけれども、ショックは否めない。
 これでも自慢の義兄《あに》だ。お貴族様だ。この素材を前にして、美しく(と言うか、夢を壊すなと言うか)いてほしいと思うのは決してあたしだけではないはずだ!

「何で!? 髪も梳《と》かしたばっかりなのにクチャクチャじゃないですか! いったい何やったらこんなことになるんです!? また地下室でネズミでも追いかけてたんですか!?」

 せっかくの見た目が台無しじゃない!
 いい歳した大人が、しかもそれなりの地位にいる人がどうして朝から埃まみれになっているのよ!!
 前に似たようなことがあった時はネズミを追いかけていたなどというふざけた答えが返ってきて、呆気にとられた間に逃げられたが……2度目は通じないわよお兄ちゃん!

 何故《なぜ》だ。デスクワークが主な成人男性が、何をどうするとこんなに汚れると言うのだ。
 まさか掃除の邪魔をするためにわざと埃を撒き散らしにきたわけではあるまい。
 そんなことを企んでいると言うのならあたしにだって考えが――。




 だがしかし。あたしのターンは強制的に終わりを告げた。

「……いい加減にしなさい、ルチナリス」

 なおも義兄《あに》に突っかかるあたし《ルチナリス》を制する冷やかな声。
 見れば、執事がこの世のものとは思えないほど冷たい目で見下ろしている。

 これが先ほどの「もっと犬っぽい人」。
 城唯一の執事で、名をグラウスと言う。
 義兄《あに》には劣るがやはり顔立ちは整っているほうで、それで執事。女性向け恋愛小説でよく主人公の不器用なメイドと恋仲になるのはこういう奴《やつ》が多い。ツンデレと言うか恋に不器用と言うか、そんなメンドくさいところが萌えるらしい。
 現実でもたまに城下町の奥様方に付き合っているのか、などと聞かれることがある。
 け・れ・ど!
 何処《どこ》をどう見ると付き合っているように見えるのだか!
 こいつと恋仲になるなど天地がひっくり返ってもない! と先に断言しておこう。何かにつけてネチネチネチネチと……わかる、あれはツンデレの裏返しなんかじゃない!!

 ……っと。話を戻すとして。
 そんな陰湿な執事だけれども、執事としては優秀であるらしい。例えば背の高さひとつ取ったとしてもこの執事は及第点だ。高ければ高いほどいいのだったら満点が取れるに違いない。
 つまりそれくらい高い。あたしとは30cm以上の身長差。だから余計に見下ろされているように感じる。
 義兄《あに》の背丈からなら10cmちょっとの差だが、それでもやはり見下ろされているように感じるらしい。今だって上目遣いで、それでいて目を合わせようとしない。

 あぁ、そんな悪戯《いたずら》がバレた子供が親を見るような目をしなくても。
 弱みでも握られているのだろうか。
 10年も傍《そば》に居座られていれば、強請《ゆす》りに使えそうな失敗を見られることだってあるだろう。そう邪推してしまいそうになるほど、義兄《あに》は執事に弱い。

 まぁ、あたしもこの男は苦手だ。
 弱みは握られていないつもりだけれども。



「……グラウス様。何時《いつ》から此処《ここ》に?」

 義兄《あに》といい執事といい、気配を消してくるのはやめてもらえないだろうか。心臓に悪過ぎる。
 心の中でならいくらでも強がれる。散々苦情を言ったところで彼らに伝わるはずもないから、ここぞとばかりに言い放題……

 いや。もしかしたら伝わったのかもしれない。
 執事の射るような視線があたしに突き刺さった。視線に毒でも仕込んでいるのだろうか。心の声が、心の舌の根が痺《しび》れて動かなくなる。

 そんなあたしに執事はと言えば。

「青藍様があなたに抱きついている時からずっとです。いいですかルチナリス、長い付き合いかもしれませんが主人が大目に見ているからと言ってもあなたは使用人。自分の立場はわきまえなければいけません」

 反論できないのをいいことにチクチクと嫌味を投げつける。

 ちょっと待て!
 もとはと言えば抱きついてきたのはそっちであたしは被害者。なんであたしが怒られるの!?
 そう言い返したいが、言えない。言い返したところで、さらに正論で武装した嫌味が降って来るのは確実なわけで。

 この男は苦手だ(2回目)!
 何処《どこ》にでもいそうなあたしの茶髪と違って羨ましいくらい綺麗な銀髪だし、平均より低いあたしと違って長身だし、顔もそこそこだし。さらにナントカという学校を首席で卒業した秀才なのだ、と義兄《あに》から紹介された覚えもあるけれど!
 この若さで主《あるじ》から城の全てを任されている、という点からしても、それをソツなくこなしている点からしても、優秀なのは確かなんだろうけれど!!
 あたしが苦手だと思うのは劣等意識の表れ……なだけかもしれないけれどー!!!!。

 でも!

 目が怖い。
 言い方が怖い。
 存在が怖い。
 怖いし、冷たいし、言いたいことを言う。
 他にメイドがいないからだろうか。仕事以外にも立ち居振る舞いからテーブルマナーに至るまで、この執事から小言を受けなかった日はなかったくらいだ。
 赴任してきて以降、義兄《あに》ですら頭が上がらないくらいだから、実質この城のNo.1は彼だと言っても過言ではない。
 この城に悪魔がいるのだとしたら、まず間違いなくこの人だ。



「グ、グラウス様もネズミ追いかけてたんですか?」

 しかし悪魔の如《ごと》き鬼畜であろうとも歩み寄りは大切だ。ひとつ屋根の下で10年暮らせば、それはもう家族のようなもの。苦手だ、苦手だ、と避けていてはお兄ちゃんだって悲しむわ。
 向こうにその気がないのならまずあたしから。

 執事の上着の袖にかすかに汚れが見て取れる。
 例えばこれを話のきっかけにして――。

 が。

「そんなわけないでしょう」

 当の執事はにべもない。

 ルチナリスの仲良し大作戦! ~完~
 ……って終わっちゃ駄目でしょうが! 自分で自分にツッコミを入れ、ついでに気合いも入れ直す。


 気になる。
 一蹴《いっしゅう》されると余計に気になる。
 ふたりで何をやっていたのだろう。やっていないと口では言っていても、この執事の場合、ご主人様について地下室でも天井裏でも付いていくのは間違いない。
 口調がきついわりに性格が完全に犬(但しご主人様限定)なのだ。義兄《あに》のいるところには大抵奴《やつ》もいる。そんな彼だからこそ、生真面目な分、義兄《あに》より熱中して追いかけていたり……と言っても推測の域を出ないけれど。


 じっと袖口を見つめながらそんなことを考えていると、執事がひとつ咳ばらいをした。
 ヤバい。後で何を言われるかわかったものではない。
 慌てて目を逸《そ》らしても、後頭部に視線を感じる。


 あたしはこの執事に嫌われているに違いない。
 そういう態度が端々《はしばし》に見える。例えば、義兄《あに》があたしにくっついてくる度《たび》に冷やかな視線が飛んで来る、とか。
 それも視線だけで済んでいるのは最近で、最初は子供心に殺気《さっき》まで感じた。この兄妹《きょうだい》プレイのどこまでが彼《執事》の許容範囲なのかはわからないが、万が一にも一線を越える事態――血の繋《つな》がらない兄妹の恋愛フラグなど、立とうものならへし折りに来るに決まっている。
 そしてあたしは義兄《あに》をキズものにしたと言ういわれのないレッテルを貼られて追い出されるのだ。実際にキズものになったのはあたしのほうだとしても。





「……そんなに目くじら立てずに」

 無表情に見下ろしている執事を義兄《あに》が困ったようにとりなしている。矛先があたしに向いた時の緩衝材《かんしょうざい》役を義兄《あに》に押し付けるのは申し訳ないとは思うけれど、この男《執事》は義兄《あに》の言うことしか聞かないのだからどうしようもない。
 今回も――。

 執事は溜息をつくと、つい、と義兄《あに》に視線を移した。

「青藍様。この際だから言っておきますが、あなたがルチナリスを甘やかすから」

 毎度毎度ワンパターンのようにおさめられるのが癪《しゃく》に触ったのだろうか。
 説教の矛先が変わった。義兄《あに》も思わず後ずさる。

 本当に。
 これではどちらが上だかわからない。



 それでも義兄《あに》はまぁまぁ、と執事の肩を叩きつつ、肩に乗せた手を軸にしてクルッと踊るように背に回った。
 背後を取られた執事が肩越しに義兄《あに》を見る。

「話は終わっていませんよ」
「うん、向こうでゆっくり聞いてあげるから。さ、俺たちはるぅちゃんのお仕事の邪魔になるから退散しましょう。ね」

 言いながら、執事の背中を押していく。

「ルチナリスにもまだ言わないといけないことが、」

 口は止まらないがおとなしく押されていくあたり、義兄《あに》は執事の扱いを心得ていると言えるのだろう。暖簾《のれん》に腕を押すように、糠《ぬか》に釘を打つように、のらりくらりとかわしていく。あたしではああも上手《うま》くはいかない。

「あ、るぅちゃん。あとでお茶持って来てねー」
「だいたいあなたは、」
「うんうん、それも後で聞く」
「いつも聞いてないじゃありませんか」
「そだねー」
「そだねー、ではなく。いつも言っていますがあなたは」

 小言が遠ざかっていく。そして。



 何だったんだ? 今のは。
 あたしが我に返った時には、既《すで》に彼らの姿はなかった。




「今日もラブラブっすね~」

 ふたりが去ったと思ったら、今度はどこからともなく冷やかすような声が聞こえてきた。
 このお城の不思議なところもうひとつ。
 誰もいないのに声がする。

「坊《ぼん》に抱きつかれるなんて羨《うらや》ましいっす」

  坊《ぼん》、というのは義兄《あに》のことを指すらしい。この声は10年前から義兄《あに》のことをそう呼んでいる。
 「坊ちゃん」でも「ご主人様」でも「青藍様」でもないこのやけに親しげな呼び方に義兄《あに》の知り合いなのだろうかとも思ったのだが、彼に聞いても首を傾げるばかりで……この声の主はわからないまま今に至るわけだけれども。
 それなのに、その声だけの存在と今では会話が成り立ってしまうのだから、慣れというのは恐ろしい。

 まるで根拠はないけれど、この声の主は悪い人ではない。あたしに危害を加えることはない。
 そんな絶対的な信頼が小さい頃からずっとある。
 義兄《あに》がそう言ったような気もするが、よく覚えていない。
 まぁとにかく、そういう声だ。空耳かと思おうとしたこともあったけれど、こうダイレクトに話しかけてくるのでは思いたくても思えない。
 

「世間には何億も女がいますけどね、坊《ぼん》に抱きつかれるのはるぅチャンだけっすよ」
「そそ、グラウス様なんかあんなにいっつも一緒にいるのに」
「あの人は男じゃないの!」


 慰《なぐさ》めているのかと思えば何処《どこ》へ話を持っていく気ですかあなたがた。
 倒錯《とうさく》した世界を想像させるのはやめろ。たまに町のお姉さん'sから「領主様と執事さんってとっても! 仲がいいわよね♡」と意味深に目を輝かせたお言葉を頂戴することもあるけれど、あたしはまだ腐ってはいない。腐っていないから、

「まぁ、あの人たちの夫婦漫才も面白いけどさぁ」

 誰が夫婦だ!!!!
 叫びたい。叫びたいが、今叫んだらあのふたりが戻って来る可能性が大。そして「夫婦って何が?」という義兄《あに》の純真な問いに返事を窮《きゅう》するところまで予見済。

「坊《ぼん》はグラウス様には抱きつかねぇもんな」
「……いや、だから」

 あたしが慣れたということは向こうも慣れているのだろう。小娘に怒鳴りつけられた程度で噂話は止まらない。
 でもね。こういう腐った話を連日吹き込まれるあたしって不幸すぎない!? おかげで一般人よりはその手の恋愛に耐性が付いちゃったわよ。どうしてくれるのよ!




 話を戻そう(n回目)。
 この城には極端に人が少ない。
 執事が赴任して来るまでは、顔を合わせるのは義兄《あに》ただひとりだけだった。
 それなりの家柄らしいのに使用人がいないということは本当は疑わないといけないところ。でも義兄《あに》に連れられて来た当時のあたしは5歳で、世の中のあらゆることが初見で……簡単に言えば、最初に得た情報を鵜呑みにするお年頃で。誰もいなければいないのが普通だと思っていたから、何故《なぜ》いない? と疑うことなど、思いつきもしなかった。

 隠遁《いんとん》生活をしているわけではなく、城下の人々ともそれなりに交流があるのだから、求人募集でもすれば容易に集まるだろうに。城で働くって何処《どこ》か非日常っぽいし、カフェの女給並みに人気はあると思うのよ?
 なのに、それもしない。
 お伽話《とぎばなし》のお城みたいに大勢の使用人が列をなして料理を運んで……まではいかなくてもいいけれど、この歳になって多少は「お城の生活」の知識が入って来るようになると、執事ひとり、メイドひとり、はおかしいんじゃない? と、いくら無知なあたしでも思うようになるというものだ。

 あ、執事ひとり、メイドひとり、と言うのは正確には違う。
 厨房にいけば賄《まかな》いで雇われている女性もいるし、あんなおどろおどろしい庭にも専属で庭師がいる。掃除も洗濯もあたしがこなす量以上に片付いている時があるし、暖炉《だんろ》に火を入れたり、蝋燭《ろうそく》を灯したり、朝晩のカーテンの開け閉めetc……と、他に人の手があると思わせる事例はいくらでもある。
 でもいない。
 賄《まかな》いのオバチャンも庭師のお爺さんも定時で帰ってしまうから、それ以外の彼らも会えずに終わっているだけなのかもしれないけれど、この10年、まともに顔を合わせているのは義兄《あに》と執事だけだ。


 だがあたしを義妹《いもうと》と呼んで暮らすには、人が多くいなかったことが逆に功を成したと言える。
 10年前、義兄《あに》に拾われたあたしは、当然、彼を兄と呼べるような立場ではなくて。まわりにもっと大勢の人がいたら「|義妹《いもうと》」というポジションにはいなかっただろう。と言うのが今もなお、あたしの見解だ。義兄《あに》がどう言ったって聞かない執事みたいなのに寄ってたかって言い含められて、ただのご主人様とメイドに落ちついてしまうのがオチ。
 だから、義兄《あに》の身分をそれなりに知っているらしい執事があたしに刺すような視線を投げかけるのは、きっとこの微妙な関係が気に入らないからで。
 「あなたはメイドなんですから」と何度も繰り返すのも、それを思えば頷《うなず》ける。


 しかし当時はそうやって言い含める者がいなかった。
 あの小煩《こうるさ》い執事もいなかった。
 幼いあたしは義兄《あに》にベッタリとくっついていることができたし、義兄《あに》があたしを義妹《いもうと》と呼ぶことに異を唱える者もいない。それどころか本当に妹のようにかわいがってくれて、あたしには何時《いつ》の間にか「義妹《いもうと》」の肩書きが貼られていた。

 だが、それでめでたしめでたし、と終わらないのが現実。
 見た目年齢差がなくなって来た昨今、今度はあたしのほうが意識して、義兄《あに》とは距離を置くようになってしまっている。

 だってそうでしょ?
 これでも一応は恋に恋するお年頃。妹か他人かも微妙な宙ぶらりん状態は「もしかしたら将来、嫁に迎えるためのフラグなのかも! だって妹とは結婚できないし♡」と乙女|遊戯《ゲーム》的恋愛脳なら絶対に思うシチュエーションだし、その対象となる「アレ」が見た目も家柄も完璧な王子様系だったら、意識するなってほうが無理な話よ!
 身分が違う、意識しちゃいけない、と頭の中でいくら思っていたとしても!!


 それなのに!
 恐ろしいことに、そんなあたしの言い分を当の義兄《あに》はわかる気などサラサラ持ち合わせてはいなかった。乙女遊戯《ゲーム》的恋愛脳の話なんかとても言えないから、あたしの言い分が伝わることはないだろう。
 と言うわけで……避けられているのは愛情表現が足りないからだ、と言わんばかりの過剰なスキンシップは、その表れであるらしい。




「あんまり邪険に扱うと坊《ぼん》に突撃されるかもっすよ」

 声は冷やかすように言う。
 せせら笑っているようにも聞こえるのは本当に面白がっているからに違いない。

「突撃ってなに!?」
「坊《ぼん》、ああ見えて独占欲強いっすからねぇ。るぅチャンなんかいつか手込めにされると俺らは見てるっす」

 そんな無茶な。
 あたしは荒唐無稽にしか聞こえない声を聞き流す。
 お昼の奥様向け情欲満載のお話じゃあるまいし、10年育ててくれたお兄ちゃんがいきなり変わるわけないじゃない。スキンシップは過剰だけれども、その手の感情が見えたことなんて1度もないのよ?
 朝のアレだって、まるで小さい子が甘えてくるかのようで……そう。まるであたしに女としての魅力がない、って言われているようなもので!

 意識しちゃいけないと思っているのに、全く女扱いされないことにも不満で。
 でも、あたしはこの生ぬるい生活を壊したくはないわけで……。


 だが、そんな乙女心が通じる相手ではなかった。。

「よく今まで手ぇ出さないな~とそっちのほうが不思議」

 心の内を読んでいるのか、声は小馬鹿にしたような笑い声交じりにそんなことを言う。

 こっちはあの義兄《あに》からそんな考えを思いつくほうが不思議だわよ! ルチナリスは心の中で舌を出す。
 それに、あの執事が始終目を光らせている環境でそんな事態はまずあり得ないでしょ? 何を期待しているのか知らないけど、絶っっっっ対! にあり得ない!

 それなのに、声はこうやって毎日のように煽《あお》ってくる。

「坊《ぼん》のこと放ったらかしにしとくとグラウス様に取られちゃうかもっすよ~」
「いや既《すで》に取られかかってる」

 ……こんなふうに。



「だからあの人は男でしょ――!!」

 見た目以上に無鉄砲な義兄《あに》に、執事が手を焼いているのは日常茶飯事のこと。
 冗談抜きにネズミを追いかけて行ってしまいそうだし、素性もわからないあたしを簡単に妹にしてしまうし、義兄《あに》の言動はかなり一般常識からはかけ離れている。
 執事からしてみれば「目を離すと何をしでかすかわからない」から心配で離れられないのではないだろうか。言いかえれば「見張っている」とも言う。

「いやぁ、るぅチャンには大人の事情はまだ早かったっすねー」

 それが声の主には主従関係以上に見えるらしい。
 噂をする分には面白いのかもしれないけれど、本人たちには気の毒でしかない。
 それに関してのみ、あの執事に同情できる。 10年来の宿敵だが。