14-10 09:00 a.m 廊下 三度




 今日も変化なし。

 ルチナリスはベッドの上から鏡を凝視した。
 最初の頃は目が覚めたら元に戻っているかもしれない、と淡い期待を胸に眠りについたものだが、次の朝、戻っていなくてもそれが当たり前になってきている。順応力が高すぎるのも問題だ。

 ベッドを降り、ハンガーにかけてあるシャツに袖を通す。

 寝間着は? と疑問に思ったそこのあなた、正解よ。
 そんなツッコミ不在の誰宛てでもない返答が頭に浮かぶ。

 寝間着は男化した当初、唯一着ることができた服だった。だが「着ることができる」というだけで窮屈なことは変わらないし、間違っても快眠はもたらさない。
 どうせ寝る時はひとりだし、夏だから多少薄着でも風邪はひかないだろうし、男性用の寝間着は持っていないし、その前に男だし。そんな理由で着るのをやめた。
 これがセクシーなおネェさんなら「寝る時はシャ〇ルの5番だけよ」なんて言うところなのだろうが、ガタイのいい男ではただの不気味なオカマにしか見えないから言わない。
 言わないけれど、裸で起きてスッとシャツを着るのはちょっとハードボイルドっぽい、と思っていたりもする。

 前向きでいいじゃない、と自画自賛する一方、間違ってもそんなことを考えているなんてガーゴイルたちに知られるわけにはいかない。
 「ハードボイルドwwww」と永遠にネタにされる。


 それに、慣れてくるとこの体はメイド仕事をこなすのに便利なのだ。
 ルチナリスは颯爽《さっそう》と部屋を出る。
 倉庫に向かい、箒《ほうき》とバケツと雑巾etc.のお掃除セットを取り出す。16歳の非力な乙女は「うんとこせっとぉ!」というちょっと微妙な掛け声と共に持ち上げるのが基本だったが、今の体は片手で持てるのだ。

 そう。
 体力が増した分、掃除も洗濯も疲れにくくなった。
 背が高くなった分、稼働効率も良くなった。
 床を磨くにしても、たわしひと擦《こす》りで汚れが落ちるし、手の届く範囲が広がったからチマチマ移動しなくてもいいし。倉庫の上の段にある備品の箱なんて、以前なら執事に頼んで取ってもらうしかなかったのに、なんと! 自力で取ることができる!


 ただ気になるのは義兄《あに》のこと。
 男化してから未《いま》だに義兄《あに》には会えていない。
 その前から体調は悪かったし、1週間くらい顔を合わせないこともざらだったから、「弟になってしまった義妹《いもうと》を嫌って近寄らない」とは思わないけれど、この恰好《かっこう》を見てどんな反応を返してくるかは気になって仕方がない。

 あの後も何着か服が届けられたから、あたしが男になっているのはガーゴイルを通じて知っているはずだ。
 笑うだろうか。引くだろうか。
 「恰好《カッコ》よくなったね」と笑顔で言ってくれる程度の紳士度は持ち合わせていると思うけれど。

 でも、自分《あたし》から会いに行くのは二の足を踏んでしまう。
 心の|何処《どこ》かで、この姿を見た義兄《あに》が引くところを見たくないと思っているのは確かだし……そんな気まずさと、男であることの便利さが、もう少し後でもいいかなー、なんて気持ちに拍車をかける。


「……俺、」

 小さく呟いてみるが、慣れていないから違和感が半端ない。
 ガーゴイルに指摘されたせいもあるけれど、「あたし」って言わないように習慣付けておかなくては。
 「あたし」を連呼する男なんて普通はお近付きになりたくないものよ? 義兄《あに》はそういうところを隠すのが上手《うま》い人だけれども、だからこそ内心でそう思われるのは嫌。

 だから!
 男言葉が普通に喋れるようになったら会いに行こう!
 問題解決を先延ばしにしているだけ、ってことは重々承知。
 だけど! まずは仕事よ!

 ルチナリスは箒《ほうき》を握る。
 引き籠《こも》っていた間はガーゴイルが仕事を代わってくれていたけれど、元々はあたしの仕事。ピッカピカに磨き上げた城内を見れば、義兄《あに》もあたしが男になってよかったと少しは思ってくれるだろう。
 ふふふ。熟練度の違いを見せつけてやるわ!

 と、勇んでみたはいいけれど。







 ……完璧だ。

 城内は手を出すまでもなく、ピカピカに磨き上げられていた。
 塵《ちり》ひとつ落ちていない廊下。燭台《しょくだい》のほやも磨き上げられている。
 窓は硝子《ガラス》生成時の|歪《ゆが》みまでもが矯正されたかの如《ごと》く外がくっきりと透けて見え、当然のことながら、レールの端《はし》に汚れが溜《た》まっていることもない。


「あらぁ、お掃除はもう終わっちゃったわぁん♡ ゴ・メ・ン・ネ♡」

 フリフリエプロンに身を包んだガーゴイルが、絶対に謝るつもりなどない、それどころか「今日もいい仕事をしたぜ!」みたいな笑顔を向けてくる。

 この化け物にこんなスキルがあったとは!
 あたしがいなくても全然困っていなかったってことーー!?
 それはそれでショックが大きいが、さらに追い打ちをかけるショックがもうひとつ。

 そのエプロンは何だ。
 昨日まで白かったエプロンが今日は黒い。しかも裾《すそ》に黒のレースと十字架の刺繍がついたゴスロリ仕様。さらに黒のヘッドドレスを装着している。
 あたしが義兄《あに》の古着だと言うのに、いつものメイド服だって10年間ほとんどデザインの変更などなかったのに、何故《なぜ》こいつらはこうも頻繁《ひんぱん》に衣装チェンジしているのだろう。
 これも執事が着ろと言ったのか?
 こんなところに回す予算はあるのか?
 そしてもっと気になるのは眼帯で覆《おお》われた片目。

「……怪我?」
「やだぁ♡ これはオ・シャ・レ・よぉ~」

 怪我のはずがないとは思ったけれど、案の定そうだった。
 何を参考にしたんだ? と聞いてみたいが、それで参考文献のタイトルなどを出して来られても、きっとあたしは知らない。


「それよりぃ。これ、どうかしらぁ♡」

 ガーゴイルはそう言いながら黒い鞭《むち》を取り出した。
 今のゴスロリ調の衣装となら似合わないこともない。どちらかと言うとゴスロリが持つのは黒い日傘のイメージだけれども。

「あ、ああ……似合うんじゃない?」
「でっしょお♡」

 でも迎合《げいごう》してしまう。
 別にゴスロリが鞭《むち》を持ったっていいじゃない。あたしに振るうつもりなら全力で否定するけれど。
 ガーゴイルはうんうん、と頷《うなず》くと両手で鞭《むち》を持ち、左右に引く。
 パァン! と小気味良い音が廊下に響いた。

「いいわぁ、やっぱり鞭《むち》は本革に限ると思わない? このしなやかさ、しなり具合」
「そ、そうね」

 ここは迎合《げいごう》すべきではないかもしれないけれど。でも本人が気に入っているのならいいじゃない。
 それに他人の趣味を否定できるほど、あたし自身、自慢できる趣味を持っているわけでもない。

 が。

「お姉様にはやっぱり鞭《むち》よねぇ。 ね、るぅチャンも入らない? ”お姉様に鞭《むち》でシバかれ隊” は新規隊員を絶賛募集中よ♡」

 ちょっと待て!
 やっぱり鞭《むち》を振るわれるのか!? あたしはそんな趣味はない! ……ってその前に。

 お姉様って誰だ?
 あたしが知っている範囲ではソロネしかいないけれど。
 確かにあの人は鞭《むち》が似合いそうではあるけれど!
 でも! ついこの間、仲間を消された相手に鞭《むち》でシバかれたいって、おかしくない!? Mにも限度ってものがあるわよ!


 このまま入隊させられて新たな性癖に目覚めるわけにはいかない。
 ルチナリスはガーゴイルからゆっくりと距離をおく。その耳に、近付いて来る足音が聞こえた。

 お姉様に鞭《むち》でシバかれ隊の援軍か?
 拘束されて契約書にサインさせられるのか?
 またゴスロリなのか!?

 嫌な想像を巡らせつつ、ルチナリスは振り返った。




 振り返ったルチナリスの視線の先、城内を勝手知ったる他人の家状態でやって来たのは「いかにもお姫様!」な女の子だった。
 ガーゴイルのエプロンなどとは比べようもないたっぷりのフリルとレース。ヒラヒラしていてゆめかわいい♡ かもしれないけれど、布地だけでもかなり重いだろう。
 以前やってきたアイリスという娘は魔界貴族のご令嬢らしいが、踝《くるぶし》丈のワンピース&編み上げブーツなどという恰好のせいで、良いところのお嬢さんには見えたがお姫様ではなかった。
 だがこれは姫だ。
 紛《まぎ》れもなく姫だ。
 しかしこの城に姫はいない。陰《かげ》で呼ばれている人はいるけれど、でもいない。


 観光客向けにコスプレ撮影会でも始めたのだろうか。
 一応は城だし、衣装の貸し出しなんか始めたら結構な需要が見込めそうだ。動き難《にく》いし汚れるから、余計なところをあちこち歩き回られることもない。うん、銭《ぜに》の匂いがしてきたのぉ……じゃなくって。

 あまりにも真っ直ぐ来すぎる。
 普通、観光客というものは扉は片端から開けていくし、天井や窓でも感嘆の声を上げて見入ったりするものだ。
 それがない。
 もしかしたら重度のリピーターなのかもしれないが、この城の一般開放を始めたのはつい最近。そこまで知り尽くした民間人はまだいないだろう。


 もしかして、あたしが引き籠《こも》っている間に新しい妹を作ったのだろうか。
 最初の頃に思った予想のひとつが浮かぶ。
 「弟ならいらないなんて思ったわけじゃないわよ」と納得づけたはずなのに、義兄《あに》ならやりかねないという考えは消えてくれない。
 それに城の営業時間は(観光客にしても勇者にしても)まだ1時間も先で、そして此処は居住区域。一般客は立ち位置禁止。
 と、言うことは侵入者。なん、だ、けど……。


 かわいい。
 人はやっかみ半分に自分より優れている人を悪く言いたくなるものだけれど、あたしが同じ服を着ても絶対に勝てる気がしないけれど、でも悪いことはしないはず! と思ってしまうこの根拠は何処《どこ》から来るのだろう。
 そう思わせるところが既《すで》に悪女なのかもしれないが。

 かわいくて、小さくて。
 細くて。
 胸が大きく……て?
 ちょっ、許せん! 何故《なぜ》この細さで乳《ちち》にこんなに栄養が行くのよ!!



「あれ?」

 そして、そんなふうに正面に突っ立って凝視していれば、いやでも気が付くというもの。彼女は1メートルほど距離を開けたところで立ち止まり、まじまじとルチナリスを見上げて来た。
 顔に向いていた視線がそのまま下に降りていき、爪先でUターンして戻って来る。
 かっきり1往復。
 何? 値踏み? 今、値踏みしましたかお嬢さん。

 だがお嬢さんは何も言わない。
 これはどういう意味だろう。「通行の邪魔だ! どけ!」ですか?
 万が一にも一目惚れなんてことはあり得ない。世の中には「目が合ったから彼女は僕に惚れている」なんてミラクル前向き思考の方がいるけれど、大抵玉砕するのよ。知ってるんだから。
 それにあたしはいつかは女に戻る身。
 ふっ、俺に惚《ほ》れると火傷《やけど》するぜぇ、お嬢さん。
 (訳:戻った後がややこしいから、万が一、そういうつもりなら近寄らないで)


 背後でガーゴイルが「ハードボイルドwwww」と呟いた気がするが、聞かなかったことにしよう。
 彼女にガーゴイルは見えない。声も聞こえない。だからあたしがガーゴイルに向かって何かしようものなら「誰もいないのにひとりで喋る危ない人」に見えてしまう。
 あたしだって見栄があるのよ! かわいい女の子に「ちょっといっちゃってる危ない人」なんて思われたくないのよ!


「……俺に惚れると火傷《やけど》するぜェ」

 ガーゴイルのせせら笑いが聞こえる。
 言うな! 恥ずかしいじゃないの!

「火傷《やけど》するんだ、るぅ」
「違っ! あれは言葉の綾《あや》と言うか何と言うか、って。あれ?」


 あたし、何も言ってないわよね?
 言ったのはガーゴイルだけよね?
 どうして聞こえるの? もしかして心の声が聞こえる人だったりする? いやん、そんな恥ずかしい。

 動揺するルチナリスに、彼女は微笑む。
 知っている。あたしはその笑みを知っている。あたしをそう呼ぶ人が、この城にはひとりしかいないのも知っている。

「え、えっと?」

 そう思ってしまうと、何処《どこ》となく面影があるような。
 でも。

「……青藍、様?」

 でも!
 だったらその乳《ちち》はどうしたのですか?
 通信販売で買ったのですか?
 怪しい薬でも飲んだのですか?
 もしかしてもしかすると、あたしが男になったように、あなたは女になったと? そういうことですか!?

「うわー久しぶりぃ♡」

 義兄《あに》らしきお姫様は、義兄《あに》と同じ笑みを浮かべて、義兄《あに》と同じように無邪気に抱きついてくる。
 納得できなくはないけれど、ちょっと思考が追いつかない。
 追いつかないのに頭に血が上《のぼ》る。頭の中でグルングルンと回る。
 ああ……乳《ちち》が当たる。このまま昇天してしまいそうな柔らかさ……。


「るぅ!?」

 ルチナリスは鼻血を出してぶっ倒れた。
 どぉん、と鈍い音が城内に響いた。




「だからね、性別が入れ換わっちゃったってわけ」


 あたしはあり得ない状況の説明を、あり得ない姿をした人から聞いている。
 壁にもたれるようにして喋っているのは、数日前まであたしのお兄ちゃんだった人。あたしの背が伸びたせいなのか、彼《彼女》が小さくなったからなのか、かなり小さく感じる。
 それなのに乳《ちち》は大きい。
 無意識にその巨大なものに目が行きそうになるのを、ルチナリスは気合いで押し止《とど》める。
 そこに目が行くのは男になっているからだろうか。
 いや、違う。きっと女でも見てしまう。


 しかし、この現象がまさかあたしだけに起きたことではなかったとは。
 義兄《あに》の口ぶりからいって他にも変化した者がいるのだろう。執事も変わっているのだろうか。ガーゴイルたちは……見た目は何も変わっていないけれど、きっと変わっているのだろう。

「大丈夫だよ。今ね、原因究明中だから」
「はぁ」

 究明中と言うことは、元に戻る方法はまだ見つかっていないと言うこと。だから全然大丈夫ではないはずなのに、安心感が心の中に広がっていく。
 義兄《あに》が笑っているからだろうか。
 自分だけではなかったからだろうか。
 男の便利さを知ってしまった手前、別に戻れないなら戻れなくてもいいや、と、肝《きも》が据《す》わってしまったのかもしれない。


「でも元気そうでよかった。風邪はもういいの?」
「え、ええまぁ」

 彼女《義兄》の問いにルチナリスは目を逸《そ》らすと口籠《くちごも》った。

 風邪じゃないし。
 嘘をついて引き籠《こも》っていたこととか、男になったから見舞いにも来ないのだろうと思ったこととか。義兄《あに》が素直に心配していたと言うのにあたしって奴《やつ》は! ……と申し訳なさが半端ない。

「……服、貸してもらえなかったらまだ部屋から出られなかったかも」
「うん、グラウスがね、もしかしたらるぅも変わってるんじゃないか、って言うから」

 暗《あん》に風邪じゃないんです。とカミングアウトしてみたものの、通じた様子はない。
 彼女はあたしの視線に顔を上げ、ニコッ、と笑う。
 うう……こんな風に下から見上げられることなんてないから堪《たま》らない。これは執事じゃなくても放っておかない。
 と言うか、奴《やつ》はいつもこの目線から見上げられていたわけか。
 くそう、羨まし……じゃなかった、それは危険だ。危険すぎる。最近、親友だ何だと主張してくるのはこのせいかも知れない。許せん。
 じゃなくてぇ!


「こ、これって、何時《いつ》までこうなってるんでしょうね」

 義兄《あに》相手に変な思考になりそうで、ルチナリスはさりげなく話題を無難なものにすり替える。

「さあ? でもたまには趣向が変わっていいよね」
「……趣向」

 なのに。
 いや! 「趣向」自体は全く普通の単語なんだけれども! エロ方面に持って行こうとするあたしの脳が駄目なだけなんだけれども!!




「趣向、と言うと」

 いや、義兄《あに》が「趣向が変わっていいよね」と言えば、まず魔王様のことだろう。いつもなら炎の雨を降らせて薙《な》ぎ倒しているあの魔王様も、今はコレ。だとすると、このヒラヒラドレスで殴ったり蹴ったりしているのだろうか。
 ルチナリスは笑顔で自分を見上げている彼女《義兄》をちらり、と見る。
 スカートの中なんか見えたら勇者にとってはご褒美と言うか、でも彼女は義兄《あに》なわけで、今はこんなふうだけれども男なわけで。男のスカートの中身なんか見たって嬉しくな……でも今は女の子なんだし、勇者は魔王が|義兄《あに》だとは知らないし、男だってことも知らないし、それならやっぱり嬉しいだろうからそれが新しい趣向だと……ええと?

「あのぅ……もしかしなくても魔王様もその恰好、で?」

 一瞬、闇の淑女オディールの黒革ボンテージのほうがずっと魔王らしいのではないかと思ったが、義兄《あに》だとわかっている娘にその恰好《かっこう》はして欲しくない。それに執事がそんな恰好《かっこう》をさせるはずもない。
 どうせこのドレスも執事の趣味なのだろう。義兄《あに》の性格からすればいつもの服を適当に着て終わらせるはずだ。絶対にドレスなど用意しない。

「うん。グラウスは今回はこれにしましょう、って持って来るんだよね。頭もやってくれてさ。ホント、こういうところ器用だよねぇ」

 彼女《義兄》はおくれ毛をクルクルと弄《もてあそ》ぶ。
 わかる。あれは短いからまとめる時にバラバラになったわけじゃない。わざと残してあるんだ。
 だって直毛《ストレート》の義兄《あに》の毛がああもうねっているはずがない。こて《ヘアアイロン》を使って、あの形になるように作っている。
 執事養成学校はそんなことも教えるのだろうか。
 それとも個人的に使い方をマスターしているのだろうか。
 男なのに……そう考えるとちょっと怖い。

 しかし、そうすると執事はどうしたのだろう。
 あの腰巾着が「理想の彼女」になった義兄《あに》を放置するとは思えないのだが。



 そう。
 執事は義兄《あに》と初めて会った時、女性と見間違えたらしい。
 未《いま》だもって妖《あや》しい感情を抱いているのは、その「姫」に一目惚れした後遺症らしいし、だったらこの姿になった義兄《あに》を見て、かつての感情がよみがえっていることも間違いないし、だったら1秒でも傍《そば》にいようとするはずだ。

 なのにいない。
 もしかして、既《すで》に悩殺されて、鼻血を噴いて、出血多量で昇天してしまっているのだろうか。さすがにそれはないと思いつつも、執事がいないのならあたしが守ってもいいんじゃない? なんて思った……り……?

 そうだ。
 ルチナリスは、はた、と気がついた。
 こうなった原因は究明されていない。もしかすると永遠に究明されないかもしれない。
 あたしはこのまま男として生きて行かなきゃいけないかもしれなくて、反対に義兄《あに》は女の子のままで。
 しかも義兄《あに》は、あたしがオジサンになってもお爺さんになっても、かわいいままだ。何時《いつ》までも若い義兄《あに》の横であたしだけが歳をとっていくのって嫌だと思っていたけれど、あたしが男の側ならそうでもない。むしろかわいい彼女が何時《いつ》までもかわいいなんて、それ何処《どこ》の萌え展開よ? ってくらい嬉しいことじゃない?

 って。


 ……彼女?



 ええー! ちょっと待て!!
 あたし、何考えてる?
 男になったからって考え方まで男性になっちゃった?
 こんな、女の子の青藍様が、ずっとあたしの隣で、ええと。



「どうかした?」

 見上げて来る無邪気な視線にルチナリスは唾を飲み込む。
 いや、駄目よルチナリス。そんなベタなラブコメみたいな台詞《セリフ》、王道な少女漫画の世界ならあり得るけれど、ガーゴイルがフリフリエプロンで踊っているような城じゃ絶対にコケるから! いくら血が繋《つな》がっていないと言ったって、10年も兄妹でやってきたんじゃない!

 理性が必死で自制をかける。だが、口は理性の制御下にはないらしい。

「あ、あの、もし、このまま、だったら……」



 だがしかし。その台詞《セリフ》は最後まで言うことが出来なかった。
 書類綴《バインダー》が思いきりルチナリスの顔面を直撃したからだ。
 めり込んで顔の造形すら変えてくれそうな書類綴《バインダー》を払い除《の》けた視界にあったのは、かわいい彼女をしっかり取り返し、冷徹な視線を向けて来るスーツ姿のお姉様。

 うーん、クールビューティー。
 いや、この冷やかな視線。これもまた凄くよく知っている。


「グラウス!! あれはるぅだって」

 クールビューティーに羽交い絞めにされたまま、彼女《義兄》が抗議の声を上げる。

「あぁそうですか。ルチナリスだかなんだか知りませんが、他の男にあなたを取られるつもりはありませんよ」

 駄目だ。話なんか聞いちゃいねぇ。
 と、その前に! 今、何と言いましたかお嬢さん《お兄様》!?


「きゃああああああ! お姉様ぁぁぁぁぁぁぁあああん♡♡」

 だがしかし!
 野太い絶叫が、疑問も何もかも全てを掻《か》っ攫《さら》って行った。
 見なくてもわかる。クールビューティーの登場に、今の今まで存在を忘れていたガーゴイルが鞭《むち》を握り締めて飛び跳ねている。


 そうか、これが例の「お姉様」か。
 ソロネではなかったのは安心、と言うか、まぁそうよね、と言うか。
 うん、鞭《むち》も似合うわよ。間違ってもシバかれ隊に入るつもりはないけれど。

 ガーゴイルの乱入にそんなことを先に思ってしまったからか、驚くタイミングを失くした。
 ルチナリスは顔面に突き刺さった書類綴《バインダー》をと投げ捨てる。

「前っから思ってたけど、グラウス様って青藍様に執着しすぎじゃないですか?」

 言いながら奪い取られた彼女《義兄》の手を掴《つか》んで引っ張って。
 ドレス着用で完全に女の子にしか見えない義兄《あに》に比べ、目の前のクールビューティーは「いつもの執事」と同じ服装だ。上着のせいで乳《ちち》があるかどうかも定かではないし、相変わらず背も腹立たしいくらいに高いから、顔を隠せば10人が10人とも執事だと思うに違いない。
 まあ、あたしや義兄《あに》が変わったのなら執事だって変わるのが普通だろう。さすがに4人目になってくると驚きも薄れる。


 クールビューティーは、パテン、と間の抜けた音を立てて床に叩きつけられた書類綴《バインダー》の音に1度だけ視線を向け、そして改めてルチナリスを見据える。
 目が完全に殺戮《さつりく》者のそれだ。Sっ気のあるお姉様、なんて甘いことは言っていられない。鞭《むち》なんか持たせたら肉が引きちぎれるほど打ちのめされるのは間違いない。
 だが。それでも。

「命の恩人だか何だか知らないけど、それだったらこっちも同じだし」
「それで?」
「だいたい男同士でベタベタと気持ち悪いっての。それで、今は今で女同士なんでしょ? 自分で変だと思わないの?」

 そう。
 あんたの執着は恩返しのレベルを超えているのよ。ひとりでアブノーマルの沼に沈んでいくのはどうでもいいけれど、青藍様まで道連れにするんじゃない!


「……言いたいことはそれだけですか?」

 対決姿勢をとるルチナリスに対し、クールビューティーの視線はただ冷たい。
 空気がひやりとするのは絶対に気のせいなどではない。
 でも大丈夫!
 |向こう《敵》は女の細腕。対するあたしは男だし、背も高くなった。力に訴えるのならきっとあたしのほうが上!
 腕っぷし対決なら負ける気がしない。
 いっつも言い負かされて溜《た》まりに溜《た》まった鬱屈《うっくつ》パワーを思い知るがいい!

 だが!

「お姉様! 武器です!」

 ガーゴイルが執事の足元に恭《うやうや》しく跪《ひざまず》くと鞭《むち》を差し出す。

 ちょっと待て!
 あなた、対執事戦線の同志じゃなかったの!? 今の今まで一緒に嫌味に耐えてきた仲間じゃない!
 何で奴に加担をぉぉっ!!

「……ご苦労様」

 足下の人外に目を向けることなく、クールビュティーは片手で鞭《むち》を取る。
 口調が女王様になっている気がするが、そんなことを指摘できるゆとりは何処《どこ》にもない。
 敵は武器を装備した!
 対するあたしは丸腰だ!

「ひ、卑怯」
「はい、るうチャンはこれ」

 素手相手に武器を使うなんて! と言う前に箒《ほうき》を持たされた。
 これで対等……のはずがない! 何で向こうは鞭《むち》であたしはボロ箒《ほうき》なの!? おかしくない!?

「ちょっ」
「問答無用!」

 パァン!

 抗議の声は、床で跳ね返った鞭《むち》の乾いた音に掻《か》き消えた。



「ねぇ、ここはやっぱり私のために争わないでーって言うべき?」

 火花が散る真ん中で騒乱の原因がひとりだけ能天気な空気を醸《かも》し出している。

 空気を読んで。青藍様。
 ……と言うか、助けて。