20-6 誰が為に鳥は歌う




「お嬢様。鳩はロンダヴェルグに投入されたそうですよ。成果も上々だったそうです。よかったですね、ヴァンパイアの面目躍如といったところでしょうか」

 陸戦部隊第7兵団の団長から聞き出した情報を持ち、嬉々としてアイリスの部屋を訪れた柘榴《ざくろ》に、その部屋の主はだるそうな目を向けた。
 其処《そこ》を定位置に定めてしまったのか、相変《あいか》わらず長椅子《ソファ》の上にいる。色とりどりのマニキュアの小瓶がテーブルに並び、いくつかは蓋が開いたままになっている。
 だからだろうか。充満したシンナー臭さに柘榴《ざくろ》は顔をしかめた。

「お嬢様、いくら寒くても換気はされませんと」
「私が綺麗になるのに文句があるの? 柘榴《ざくろ》」

 文句を言いながらも窓に直行する柘榴《ざくろ》の背にアイリスの声が投げつけられる。

「そうは言っていませんが」

 機嫌が悪そうだ。こういう時は話題を替えたほうがいい。
 硬い鍵を全体重をかけてこじ開け、柘榴《ざくろ》は軋《きし》む窓を開ける。

 以前アイリスはこの窓を見て鳥籠のようだと言っていたけれど、こうも硬ければ彼女の力では開けることなど叶わないだろう。ウサギ姿の自分も1枚開けるので精一杯と言う塩梅《あんばい》だ。
 まさに文字通り鳥籠の鳥。これでは気も塞《ふさ》ぐ。


「ほらそれより鳩ですよ、鳩! ロンダヴェルグっていう人間たちの間で聖都と呼ばれている街があるんですがご存じですか? そこの連中をヴァンパイア化して争わせたんだそうです。犀《さい》様が仰っていたとおり、本当に鳩って警戒されないんですね。面白いくらいトントン拍子に進んだって」
「ふぅん」

 兵団長を真似るように大袈裟に身振りを交え、わざと明るく言ってみる。が、アイリスは全く興味がないのか、爪を塗る作業を止めない。

「嫌ですねぇ。流血沙汰とか野蛮ですよ。でもおかげで司教を倒して結界を解除したんだそうです。あの街は難攻不落って言われていましたもんね。今頃、泡吹いてますよ」


 実験は成功した。
 兵団長が極秘裏にと言っていたあたりから察するに、今回の実験はまだ実験段階を抜けてはいないのか、それとも公《おおやけ》に新たな戦力を開発した、と知らしめるつもりがないのかは不明だが、とにかく成功した。

 だがその事実はこちらには教えられていない。
 兵団長は当主の正妻になるアイリスの実家がよもや敵になると思ってはいないから教えてくれたのだろうが、この家の誰もがそう考えているわけではない、と言うことだ。
 現に犀《さい》は最後まで実験の内容について教えてくれなかったし、成功した後でさえ何も言っては来ない。

 それは裏返せば、緊急にヴァンパイアの家に伝えなければならない事項、ということになる。姻戚関係になるヴァンパイアが真っ先に標的になるとは思えないが、キャメリア失踪以降の冷え切った関係を思えば、早めに知らせておいて損はない。
 遅かれ早かれ、自分《ざくろ》がこの情報を得たことは紅竜や犀《さい》の耳にも届くだろう。だからと言ってすぐに身の危険が迫るわけではないが、この情報をひとりで抱えたまま万が一の事態に陥《おちい》ることがあっては元も子もない。
 魔族にとっても鳩は危険視する鳥ではないし、普通に飛んでやって来るのだ。

 だが手紙は使えない。
 自分が伝えに戻ればいいのだろうが、彼《か》の家が付けた使用人を全員門前払いにしたこの家のこと。再び敷居を跨《また》げる保証はない。無事に婚儀が終わるまでは精神的に弱っているアイリスをひとりにもしたくない。

 この家の者になるのだから、今後、彼女を守るのは紅竜や犀《さい》であり、彼らに委《ゆだ》ねるべきなのはわかっている。自分がいるから、アイリスが何時《いつ》までも子供の考えから抜け出すことができないでいるのもわかっている。
 そして、アイリスのためにと言う言葉で隠して、きっと自分のほうが「アイリス離れ」できないでいるのだろうということも。
 
 でも鳩のことと言い、姿を見せない紅竜のことと言い、また今までの関係を鑑《かんが》みても彼らと自分たちの間には溝がある。見えない壁がある。
 彼らは手を伸ばしてアイリスだけを連れて行こうとしている。それが胡散《うさん》臭く――信用しきれない、アイリスを任せられない、と思うのかもしれない。きっと思い過ごしだろうのに、そう思うことができない。



 風が吹き抜ける。
 身を乗り出して窓の下を見れば、下の階の窓の庇《ひさし》が崖を上る際に手足を掛ける突起のように規則正しく並んでいる。そのさらに下、植え込みの少ない庭を獣人兵が歩いている。
 彼らならば庇《ひさし》を伝って此処《ここ》まで上ることも、逆に下りることもできるだろうか。でもウサギの身では飛び降りることすら自殺行為。こっそりと抜け出すとしたら、洗濯室や穀物庫の仕事を手伝う隙に出るしかなさそうだ。窓から華麗に飛び降りる真似など――。
 
 そう言えば以前、アイリスが言っていた。
 アーデルハイム侯爵に付いて人間界に行った彼女は其処《そこ》で久しぶりに青藍に再会したのだと。その時、彼を背に乗せて窓から飛び下りた狼がいたが、あれはきっと「執事さん」だったのだろう、と。
 きっと彼女の「執事さん」熱はその頃から燻《くすぶ》りだしたのかもしれない。世の女性が全てそのようなシチュエーションに夢を持っているかは知らないが、アイリスの趣味からいって1度くらいは自分を連れて窓から飛び降りる誰かを想像したに違いない。

 ああ、そうだ。青藍はこの城に戻って来ていたはずだ。
 此処《母屋》にいては会えずじまいだが、離れに行けば会うことはできる。
 彼は紅竜の実弟だけれども長く人間界にいたし、その間には人間の娘を食べもせずに育てていた変わり種だと言うし、何よりアイリスとも親しい。そして「執事さん」が忠誠を誓うほどの人物だ。相談するなら彼だろう。


 吹き抜ける風が冷たくなってきた。シンナー臭さも薄まっただろうか。
 再び開ける時の労力を思えば閉めるのが惜しいが、そういうわけにもいかない。柘榴《ざくろ》は惜しみつつ窓を閉め、自分には見向きもしないまま爪を磨いているであろうアイリスを振り返った。

「ですからね、お嬢様」
「……もういいわ。紅竜様のされることに間違いなどないもの」

 だが。
 アイリスは興味なさそうにそう呟くと、ふうっ、と爪に息を吹きかけるだけだった。




 お嬢様は変わられた。

 追い出されるようにアイリスの部屋を辞した柘榴《ざくろ》は、ひとり、廊下を歩きながら考え込んでいた。

 婚礼の儀まであと僅《わず》か、彼女についてこの城に来てから3ヵ月目に入ろうとしている。
 その家特有のしきたりに慣れる必要がある、と言っても、家ごとにそう大きな違いがあるわけもなく、それどころかアイリスは格下であるこの家から馬鹿にされることなどないように、と作法も振る舞いも、人生初であるはずの婚儀の手順に至るまでを叩き込まれて此処《ここ》に来た。
 既《すで》に社交界デビューを果たして数十年、この家にも幼い頃から足繁《あししげ》く通っていた彼女にとって新たに覚えるものなど分家筋の親族の顔くらいだろう。
 それなのに早くからこの家《メフィストフェレス》に入ったのは「どうせ住むのですから早くから慣れておいてもいいでしょう」と請《こ》われたことと、かねてより悪い噂しか聞かないこの家の実態を中から探るためだ。
 何をしても紅竜ひとりが成功を収めるなんて疑わしい、と言ったところで、ただの僻《ひが》みと嗤《わら》われるのがオチ。しかし、そう声高に言っていた人々がひとりふたりと姿を消し、またある日突然、掌《てのひら》を返したように紅竜を褒めちぎり始める様《さま》を幾度となく見せられれば、裏で何か起きているのではないか、と思わないほうがおめでたい。

 そして、何十年と冷え切った関係を続けて来たヴァンパイアの中にまでそう言う人々が現れ始めたのが数ヵ月前。
 アイリスの両親を筆頭に叔父や叔母、最後には「メフィストフェレスとは関係を持たない」と公言して憚《はばか》らなかった長《アイリスの祖母》までもがその言を|覆《くつがえ》した。


『まさかこの縁談を受けろとお婆様から言われるとは思わなかったわ』


 と呟いたアイリスの後ろ姿は今でも鮮明に思い出せる。



 暫《しばら》く暮らしてみた限り、アイリスは犀《さい》を始め、城の誰からも大事に扱われている。その付き人でしかない自分も無下《むげ》に扱われることはない。
 敵になるのではないか、と警戒することを申し訳なく思うほど誰もが自分たちに好意的だ。先ほど話題にした兵団長にしても、仕事を教えてくれる先輩執事にしても。
 表だって蔑《ないがし》ろな扱いをされることはないが裏でなら、と陰湿ないじめを想像していなかったと言えば嘘になるが、それも全て杞憂《きゆう》に終わっている。

 それはアイリスもそうだと思いたい。
 気に入らないことがあれば真っ先に自分を文句のはけ口にする彼女からは、此処《ここ》へ来てからもいろんなことを言われた。しかしそのどれもが跡継ぎを期待される重圧や、まだ来ぬ将来への不安ばかりで、この家の人々から何か言われた、された、という台詞《セリフ》は1度も耳にしていない。
 第三者に聞かれることを恐れて黙っていたのかもしれないが、これでも数十年の付き合い。アイリスの言外の思いを察する術《すべ》は祖父よりも長《た》けていると自負している。
 そう思っていたのだが。

 数日間アイリスと別行動をとった後。久しぶりに会ったアイリスは予想以上に変わっていた。
 紅竜の妻にならなければいけないのだから、今までのように娘気分ではいられない。|自分《柘榴》が執事の勉強をするように、彼女も妻として学ぼうとしているだけかもしれない。

 でも。それだけ、とはとても言えない。
 何か憑《と》りつかれでもしたかのような、いや、彼女はあんなにも紅竜に従順だっただろうか。
 以前は紅竜や犀《さい》を完全には信じ切っていないと見受けられる発言が何度もあった。むしろたしなめたのは自分だ。彼らの申し出を聞かなければならなかったことも度々《たびたび》あったが、決して自《みずか》ら進んで、と言うことはなかった。

 もしかしたら自分の知らない間にアイリスの心を掴《つか》むことが紅竜との間であっただけかも知れないし、結婚してから愛情を深めていけばいい、とは、自分が彼女に放った言葉。なのにアイリスが紅竜を信じる様《さま》を邪念混じりの目で見るなんて、あってはならないことだ。今はまだ結婚していない、なんて揚げ足取りでしかない。

 でも気になる。
 長椅子《ソファ》に寝転がっている姿など、いくら自分《柘榴》しかいなくても彼女は見せたことがなかった。四六時中気を張っているのだから無理もない、とは思えない自分の直感が、ギリギリと危険を知らせてくるのだ。





 そんなことをつらつらと考えながら。
 目の前の廊下を横切って行った人影に、柘榴《ざくろ》は足を止めた。

「……青藍様?」

 黒い髪。
 透き通るような肌の色と通った鼻筋。
 服装を変えれば女性と言っても通じそうなその容姿は、アイリスから何度も聞かされた青藍像と合致する。
 彼は離れにいると聞いていた。だが紅竜の弟だし、母屋に来る用事もあるだろう。不思議に思うことは何もない。

 紅竜は昔から彼を大事にしていたとも聞いている。城から出さず、誰にも会わせず。
 かつて彼《紅竜》がこの家の当主に就任することを祝う夜会を催した際には「あわよくば新たな当主と個人的な交際を」と目論《もくろ》む令嬢が列をなしたそうだが、彼《紅竜》は弟《青藍》に女物の服を着せ、既《すで》にそういう女性《ひと》がいると見せかけることで誘いを全て断ったらしい。
 冗談のような話だが……いざ本人を見れば、ありえるのかもしれないと思ってしまった。
 魔王役をしていると言うからどんな大男に育ったかと思えば、とは、実際に青藍に会ったことのある祖父の談。それからしても彼が青藍である可能性は高い。
 

 アイリスの様子が変だと言っても、犀《さい》は婚礼前にはよくあることだと言って取り合わない。紅竜に取り次いでもらうことすら叶わない。
 でも青藍からなら、紅竜も話を聞いてくれる。
 青藍も――あの「執事さん」の主で、アイリスとも親しい彼なら――自分の話も、きっと聞いてくれる。
 


「あの、青藍様」

 追いかけ、離れへと続く渡り廊下を行こうとする彼を背後から呼び止めると、彼はゆらりと緩慢な動作で振り返った。ぞっとするような怜悧《れいり》な美貌は、青白い月明りの中だからこそ映えるのだろうか。柘榴《ざくろ》は思わず息を呑んだ。

 彼が、青藍様。
 噂通り、と言えるだろうか。見知らぬ幼子を育てていたという優しさや親しみは欠片《かけら》も感じない。そればかりか、感情のない、まるで機械で動く人形のような――。

「お呼び立てしてしまって申し訳ありません。私はアイリス様の執事をしている柘榴《ざくろ》と申します。実はお嬢様のことで折り入ってご相談したいことが」

 青藍は黙って柘榴《ざくろ》を見ている。
 怒っているのかもしれない。身分の低い者から上の者に声をかけることは禁忌。その禁を破れば、待っているのは死。
 でも。
 もし僕が命を落とすとしても、それでもお嬢様の話だけは聞いてもらわなくては。お嬢様にはこの先もずっと、此処《ここ》で幸せになっていってもらいたいから。

「奇矯な話に聞こえるやもしれませんが、お嬢様は此処《ここ》に来て変わられました。悪いほうに。それは決してメフィストフェレス様がたに非があると申し上げているわけではないのです。環境とか精神的なものとか、その、」

 犀《さい》や紅竜にはわからない程度の変化なのかもしれない。でも何十年も彼女の傍《そば》にいた自分にはわかる。今のアイリスは何処《どこ》かおかしい。
 マリッジブルーに含まれるのかもしれない。自分が大袈裟に感じ取っているだけなのかもしれない。おかしいなどと言ってしまっては、最悪の場合、婚約を破棄されるかもしれない。

 そうだ。これもきっと、あの鳥籠のような部屋のせいだ。
 窓も開けられない部屋に閉じこもっているからだ。
 空の中にいるようと言ったって、風を感じることもできないのなら、ただ青く塗りたくった巨大なキャンバスでしかない。
 外に出ればきっと治る。ゴテゴテした服も止めて、ヴァンパイアの城にいた時のように庭を駆け回って。
 挙式を控えて日焼けを気にしているかもしれないけれど、このまま病んでしまうよりはいい。

 そう思いながらこの城に来てからのことを遡《さかのぼ》る。
 彼女から快活さが失われていったのは何時《いつ》の頃からだったろう。こんな短い間に、何があったと言うのだろう。
 彼女の変化は本当に悩みからだけだったのだろうか。薬を飲まされたり、暗示をかけられたりするようなことは無かっただろうか。彼女の両親や親族や祖母が、紅竜とこの家への評価を180度変えたように。

「紅竜様、に、」

 柘榴《ざくろ》を見つめている深い蒼ににグニャリ、と紅が混ざっていく。




 鳥の羽音がして、柘榴《ざくろ》は青藍に向けていた目を移した。
 真っ白な鳩が数羽、闇の中を飛んでくる。アイリスが噛んだのは1羽だけだったはずだが……他の鳥は違うのだろうか。それとも勝手に突《つつ》き合って増えたのだろうか。
 だとしたら野放しにするのは危険だ。ヴァンパイア化は他の家が思うほど御《ぎょ》しやすいものではない。意思の疎通ができなければ、いや、疎通ができたとしても狂暴化した精神がそれを簡単に上回る。
 窓の下を歩いていた獣人兵よりももっと下層の、我《が》を抑えられないような悪魔も此処《ここ》には兵《戦力》として大勢採用されている。下手《へた》をすればロンダヴェルグの二の舞になりかねない。
 それなのに。


 青藍は左手を空に向けて伸ばした。その手に鳩がとまる。鳩を手にとまらせたまま、彼はゆっくりと柘榴《ざくろ》に視線を戻した。
 瞳の色が変わる。蒼を取り込んだ紅が、再び蒼に溶けるように紫に。

「あの、」

 柘榴《ざくろ》の声に鳩が飛び立った。
 目の前を、白い羽根が舞った。