22-6 黄昏間奏曲~Interlude~




 見たことのない小さな部屋だった。
 壁一面に作りつけられた棚には本の他、色とりどりの小瓶、人形、花etc.と少女趣味な雑貨が詰め込まれている。他の壁のうち2面は広く取られた窓が天井まで続き、窓だけを見ているとまるで部屋ごと空に放り出されたような錯覚を覚える。
 部屋の中は夕暮れに似た、少し翳《かげ》った橙色《オレンジ》。だが、窓の外は真っ暗だ。

 闇ルチナリスの世界だろうか、と思ったが、自分と同じ顔をした彼女はいない。
 記憶の最後にある、蔓《つる》に覆われた部屋とも違う。蔓が吹き飛ぶミラクルが起きたとしてもこの部屋にだけはきっとならない。そう思えてしまうほどに此処《ここ》は造形が、そして雰囲気が違う。

 誰もいない、見知らぬ部屋。
 そこでたったひとり、ルチナリスはテーブルについている。


 義兄《あに》はどうなったのだろう。
 紅竜は、執事《グラウス》は、勇者《エリック》は、師匠《アンリ》は。気になることはいくらでもある。こんなところに座り込んでいる暇はない。
 闇ルチナリスの部屋に迷い込んだ時のように窓硝子《ガラス》を叩き割って飛び出せば、あの蔓の部屋に戻れるだろうか。紅竜がいるであろうことがネックだが、義兄《あに》が目覚めてくれたのなら逃げるチャンスはある。
 義兄《あに》を連れて、執事《グラウス》たちも城内の何処《どこ》かにいることは確かなのだから合流を果たして。
 人間界に帰ることを義兄《あに》が望むかはわからないけれど、彼の意思を聞く時間くらいはある。あたし《ルチナリス》の目的は、それで一応は達成したことになる。

「……」

 チクリ、と胸を刺す痛みはこの目的が建前でしかないことを自身がわかっている証拠。
 本音を言えば共に帰りたい。共に歩んで来た10年を、この先も歩いて行きたい。そんな我が儘《まま》を言って許してもらいたい。
 でもきっと言えない。建前でしかない目的が達成できたことを上っ面で喜んで、それで人間界に帰って、ただの人間の娘として一生を終えて、死ぬ間際になって「あの時、一緒にいたいって言えば良かった」と悔やむところまで想定済で……そこまでわかっているのに実行には移せないであろう自分自身に嫌気がさして、ルチナリスはひとつ、溜息を吐《つ》く。



 そんな彼女の目の前に、カチャ、と軽い音と共に小花模様のカップが置かれた。中では薔薇色の――紅茶だろうか――が湯気を立てている。添えられた砂糖まで薔薇の形。
 害意は感じないが、今の今まで誰もいなかったのに一体誰が……?
 ルチナリスは顔を上げ、左右を見回す。
 だが誰もいない。こんな芸当ができるのはガーゴイルくらいしか思い当たらないが、

「少しミントを混ぜてみたの。目が覚めるわよ?」

 続いて聞こえた声は女性のもので、間違ってもガーゴイルとは違う。


 知らない人から出されたものを口にしてはいけない。とは義兄《あに》から学んだ。
 義兄《あに》曰《いわ》く暗殺のおそれがあるからだそうだが、モブな自分《ルチナリス》には一生関係のない警告だと思っていた。
 が、つい最近、胡散《うさん》臭い劇場主の家で出された茶を「飲むな」と言われ、精霊の国で出されたものをついうっかり口にしたせいで幻覚を見せられ。そんなことがあった後で出されたお茶など、躊躇《ちゅうちょ》しないほうがおかしい。


「ふふ、そうね。でも飲まないと私たちには会えないのよねぇ」

 女性の声は朗《ほが》らかに笑う。
 頭の中で考えていたことに返事が来るとは、どうやら彼女もただの人間ではないらしい。こんな場所にいる時点でただの人間であるはずがないが……。

 飲まずにいたって元の世界に戻れるわけじゃない。

 ルチナリスは意を決し、カップを手に取る。
 スッとする香りが鼻腔《びくう》をくすぐった。その香りに、ミルに飲まされていた薬草茶が重なった。

 言われるままに一口飲むと、ふわりと視界が開けた。
 先ほどまでの夕暮れのような暗さからもう少しだけ明るく。
 そして、テーブルを挟んで数名の人影が浮かび上がった。

「いらっしゃい、るぅちゃん」
「……第二夫人!?」

 隣の席でカップと同じ小花柄のティーポットを抱えているのは、義兄《あに》によく似た黒髪の女性。記憶に間違いがなければ、これは義兄《あに》の母、第二夫人だ。
 人間狩りの獲物として魔界に連れて行かれた自分《ルチナリス》を救ってくれた(正確に言えば、義兄《あに》に救うよう指示した)彼女とはそれから10年も経《た》ってから再会したが、当時も一方的な「お久しぶり」攻撃に引いた。けれど、今回の一方的な「るうちゃん」呼びにも引いてしまう。
 待って。あたしはそんな愛称で呼ばれるほどの仲だったでしょうか奥様。
 義兄《あに》が「るぅ」と呼び、ガーゴイルが「るぅチャン」と呼んでいるのだから真似して呼ぶことは想像できるけれど、でもその再会から今まで会っていないわけで。つまりは人生16年のうちに3回しか会っていないわけで!

 しかも彼女は亡くなったのではなかったか?
 義兄《あに》と執事《グラウス》が揃《そろ》って葬儀に参列するために出かけて行ったのは今から半年ほど前。義兄《あに》の体調が悪化の一途《いっと》を辿《たど》り始めたのはあれからだ。

 その「死んだはず」の人がいる。
 第二夫人がいると言うことは、此処《ここ》は死後の世界なのだろうか。殺された記憶はないけれど……いや。
 飲んでしまってから言うことではないけれど、何だかとっても嫌な予感がする。
 冥界に連れて行かれたペルセポネは、そこの食べ物(柘榴《ざくろ》)を口にしたせいで、1年のうちの3ヶ月を冥界で暮らさざるを得なくなったと言う。飲まずにいても元の世界に戻れるわけではないけれど、飲んだら確実に元の世界には戻れなくなりました、なんてことにはならないわよね!? 仮死状態にトドメをさしたのはア・タ・シ♡なんて冗談で済まないんですけれどっっ!!


 また早まってしまったのだろうか。
 ルチナリスが戦々恐々《せんせんきょきょう》としていると、

「彼女が青藍の妹か」

 第二夫人のさらに向こう側から聞き慣れない男性の声がした。
 凝視していると、ぼんやりとした明るさが固まって人らしき姿を取り始める。
 大柄だ。金と言うには暗い色の髪は短く整えられている。紅竜にも似た「いかにも金を持っていそう」な衣装に身を包んではいるが、纏《まと》う雰囲気は師匠《アンリ》に近い。体形が似ているからそう思うわけではなく、戦いに身を投じてきた人の持つ威圧感のようなものを感じる。


 「どちらさまですか?」と尋ねたいが、確か魔界貴族の間では目下から声をかけることは禁じられていたはずだ。人間だからその制約は関係ない、と言って許されるのは義兄《あに》や執事《グラウス》くらい長い付き合いの末の間柄。初対面で、しかも義兄《あに》を呼び捨てるレベルのオッサンを前にして、そんな死と隣り合わせの台詞《セリフ》は吐けない。

 誰? と思わず目で訴えたルチナリスに、第二夫人は笑みを浮かべた。

「紹介するわね。こちらはメフィストフェレス前当主。簡単に言ってしまえば青藍の父親よ」


<br />

<br />

 父親!? って、あの大悪魔とか呼ばれていて、最近じゃ全然表舞台に出て来ないレアキャラ化してるっていう、あの!?<br />

 口をポカンと開けた馬鹿面で絶句しているであろうあたし《ルチナリス》に、前当主は目を細めて微笑《ほほえ》んで見せる。<br />

 とは言え、漂う戦人《いくさびと》の雰囲気のせいで「隙があればお前を取って食う」と暗に言っているように見えなくもなく……何処《どこ》となく愛らしい小動物を見る目線で、いや、牧場の「コブタの競争」でブヒブヒ言いながら団子と化して走るコブタの群れを見る時の、かわいい3割・面白い5割・美味《おい》しそう2割の目線を感じる。<br />

<br />

 そんな目のままで、<br />

<br />

「シェリーが言っていたとおりの娘だな」<br />

<br />

 と一言。<br />

 怖い。怖すぎる。何を言ったんですか第二夫人! 「息子が女の子を拾って義妹《いもうと》として育てているという美談」でも「息子が女の子を拾って義妹《いもうと》として育てているけれどそのまま放置しておいても大丈夫だろうか、性犯罪に走ったりしないだろうかという不安」でもなく、「息子が拾った女の子がそろそろ食べ頃」で伝わっているようにしか見えないのですが!!!<br />

<br />

<br />

 なのに<br />

<br />

「でしょ? この子をあの青藍がかわいがってるのよ、信じられるー!?」<br />

<br />

 第二夫人にあたし《ルチナリス》の懸念《けねん》は全く伝わっていない。<br />

<br />

<br />

<br />

 しかし、だ。<br />

 彼ら(主に前当主)があたしのことをどういう目で見ているかはこの際置いといて。<br />

 前当主ということはこのオッサン、いや、オジサマは生粋の魔族なわけで。で、第二夫人は(執事《グラウス》曰《いわ》く)人間で。<br />

 魔族が人間の女を、それも聖女を魔界に連れて行ったなんて、いくら妻に迎えたのだとしても絶対に思惑がある。例えば聖女の力欲しさに無理やり手籠《てご》めにしたのではないか? と、そんなことも考えていたけれど、こうしてみると普通の男女として恋仲になったようにしか思えないのは、ただのあたしの欲目だろうか。<br />

 偏《ひとえ》に前当主の容貌が(怖そうだけれども)人間にしか見えないせいで、角が生えていたり顔が牛だったりしたら絶対に違う感想を抱くけれども……って脱線した。このご夫婦の仲が良すぎるから、余計にあることが引っ掛かる。<br />

<br />

 彼らは仮にもこの城の当主とその夫人だ。夫人のほうは純血の魔族ではないから発言権は弱いと推測するが、当主のほうは黒かったものも一言言えば白にできるだけの権力があるはずだ。<br />

 なのに義兄《あに》は人間の血が混じっているとか、突然変異で魔力が高いんだとか、母親似だから男にモテそうだとか散々言われて……目の前の仲の良い夫婦仲を見るにつけ、そこまで仲がいいならあなた方の愛の結晶にも少しは注意を払いなさいよ! と他所《よそ》のご家庭のことながら理不尽さを感じずにはいられない。<br />

 何というか、第二夫人の義兄《あに》に対するノリは「手元にある間はそれなりにかわいがるけれど、捨てろと言われてたら捨てられる」みたいな、何処《どこ》か突き放した感じがする。<br />

 あたしが孤児だから母親は絶対に子供を捨てない! みたいな血の絆《きずな》的な理想を見ているだけかもしれないけれど。<br />

 だから。<br />

<br />

 このふたりは重要なことを隠している。<br />

 あたしを此処《ここ》に呼んだのも善意ではなくて、考えがあってのこと。赤の他人のあたしなんて義兄《あに》以上に捨てやすいもの。<br />

 何の根拠もないまま、そんなことを思う。<br />

<br />

<br />

「あの。あたしはどうして此処《ここ》に? 此処《ここ》は何処《どこ》なんです?」<br />

「お茶会に理由が必要?」<br />

「ええっと」<br />

<br />

 第二夫人から感じるのは限りない善意。疑ってごめんなさいと土下座したくなるほど神々しい。<br />

 でもそれに騙されてはいけない。多分。<br />

<br />

 あたしは何故《なぜ》此処《ここ》に同席しているのだろう。<br />

 あたし自身、死んだ覚えはないけれど……でももしあたしの想像が全っ然見当外れだったのなら、何かのはずみでついうっかり死んでしまったあたしを、最後にお茶くらい飲んでから逝《い》きなさいよ、と……いや、ちょっと待て! 第二夫人性善説を取るとそれしか思いつかないけれど、ちょっと待て!<br />

<br />

「あたし、やっぱり死んじゃってます!?」<br />

<br />

 思わず叫んだルチナリスに、目の前の夫婦は吹き出した。第二夫人なんか手を叩いて笑っている。<br />

<br />

「なかなかに面白い」<br />

「でしょでしょー!」<br />

<br />

 待てよこら。こっちは笑っている場合じゃないんですけれど!<br />

 しかし義兄《あに》のご両親とあっては怒鳴りつけるわけにもいかない。<br />

 何だろう。味方なのに腹の内が読めない胡散《うさん》臭さと言うか、彼らが隠している思惑や諸々を想像するにつけ、どうにも信用する気メーターの針が下がっていく。<br />

<br />

 この人たちは、<br />

 あたしを、<br />

 どうするつもり?<br />

<br />

<br />

 ――ワカッテル クセニ。<br />

<br />

 耳の奥でもうひとりのあたしが嗤《わら》っている。<br />

<br />

<br />

<br />

 そんなあたしを無視してひとしきり笑ってから、第二夫人はやっとこちらを見た。目尻に溜《た》まった涙を拭《ぬぐ》いながら。<br />

<br />

「まだ完全には死んじゃいないから安心して」<br />

<br />

 完全に、って何だよ!!!!<br />

 義兄《あに》にのらりくらりと話の焦点をずらされていく時のような、はっきりとしない気持ち悪さが背筋を這《は》い回る。それでも義兄《あに》ならば長い付き合いから、あたしに害になることはしない、と思うことができた。でもこのふたりは違う。<br />

 不審な目を向けていると第二夫人はテーブルの上で握りしめていたあたしの拳《こぶし》を指差した。<br />

<br />

「特別な薬草を飲んでいたでしょう? ご覧なさい、あなたの周りだけ闇が近付けないでいる」<br />

<br />

<br />

 指差されるままに自分の手を見れば、確かにうっすらと、ほとんどそれとわからないくらいに薄くではあるけれど、白っぽい膜に覆われている。時折《ときおり》差し込む影が、パチリと小さな火花を散らしては消える。<br />

<br />

 何だこれは。<br />

<br />

 そっと第二夫人を盗み見て見れば、彼女の影はかなり暗い。前当主も同じく。彼らから比べると自分だけ色が薄いと言うか明るいと言うか、明度と彩度が高い。<br />

 窓の外は真っ暗で、部屋の中の明かりは何処《どこ》も同じ色で。<br />

 そんな中にいてあたしだけ色が違うのは、やはりあたしだけが違っていると――まだ死んではいないと――そう期待するしかない。<br />

<br />

 ヒカゲノカズラとハナハッカ。<br />

 あの草は一般的には邪気を祓う効果が、呪術としては死者の魂をこの世に繋ぐために使われる、と師匠《アンリ》は言っていた。<br />

 ミルに付き合って飲んでいた薬草茶の効能が、こんなところに出ているのかもしれない。<br />

<br />

<br />

<br />

「それでも闇に呑み込まれていることには違いない。此処《ここ》はそういう場所だ」<br />

<br />

 会話を黙って聞いていた前当主が居住まいを正す。椅子が壊れそうな悲鳴を上げる。<br />

<br />

<br />

 闇。<br />

 どうりで窓の外が真っ暗なはずだ。<br />

 ルチナリスは改めて窓の外に目を向けた。通常サイズよりも遥《はる》かに広く取られた窓は、眺めていると空の中に部屋ごと浮かんでいるように思えた。しかしその窓の外が闇だと聞かされた後では、たったひとつ取り残されたシェルターの中で身を潜めているような、あの薄い硝子《ガラス》板1枚が割れたら終わりなんだと、そんな終末的な考えに陥《おちい》りそうになる。<br />

<br />

<br />

 で、そんな状況下でこのふたりはお茶会をしている、と。<br />

 何? この空気読んで感。でもそれは言えない。言っちゃいけない。<br />

<br />

<br />

<br />

「ごめんなさいね、あなたまで巻き込んでしまって」<br />

<br />

 第二夫人は困ったように笑った。<br />

 闇の中でのお茶会に強制的に呼んだことを言っているのだろうか。それともやっぱりあたしを利用するつもりだろうか。<br />

<br />

「……何のことでしょう」<br />

<br />

<br />

『まだ死んでないけれど、その命、我々のために使わせて頂くぜ!』<br />

『仮死状態は死んだようなもんだしいいよね?』<br />

<br />

 あたしの脳内で第二夫人と前当主がそう言っている。<br />

 いや、これは想像! 本人が言ってるわけじゃない! そう必死に修正をはかるが上手く行かない。<br />

<br />

<br />

 お茶会の招待以外に夫人の謝罪を受けるいわれはない。<br />

 魔界にまで来たのはあたしの意思だ。志半《こころざしなか》ばで果てようとも、それは自己責任だ。<br />

 聖女候補になったのも自分で決めたこと。嫌なら断ってもいいんだよ? と勇者《エリック》はしきりに言っていたし、強制されたわけじゃない。<br />

<br />

 第二夫人が前《さき》の聖女だったとして、彼女の死をもって次代の聖女を決めなければならないことになったとして、それで苦労したのはソロネや勇者《エリック》のような「聖女候補を探し隊」のメンバーと司教《ティルファ》やロンダヴェルグ聖教会のあたりの人々だ。むしろあたしは至れり尽くせりの厚遇で、たまたまミバ村出身というだけでこんなにしてもらってもいいのだろうかと罪悪感を抱いたほど。<br />

<br />

 義兄《あに》の義妹として10年過ごしたことだって、もし助けてもらっていなければあたしはとうに死んでいた。<br />

 義兄《あに》も執事《グラウス》も城のみんなも、魔族だけれども人間以上に親身になってくれて、学のない孤児なのに衣食住と城主の義妹の地位まで貰って……「悪魔《魔族》は敵だ」と頭ごなしに拒否るなんて罰《ばち》が当たると思ってしまうくらいで。<br />

 巻き込まれた、と言えば普通の女の子以上に波乱万丈な人生を送っている自負はあるけれど、それで第二夫人に謝られる理由は何ひとつ思いつかない。<br />

<br />

 やはり「まだ死んでいない」に関してのあたりだろうか。<br />

 下界を眺めていたらあたしを見つけて、「ちょっとお喋りしてみたいわぁ♡」なんて安易な理由で此処《ここ》に無理やり引っ張り込んだら体から魂が抜けてしまったとか、そのせいで本体が死ぬのも時間の問題だとか、そんな危機的状況に……。<br />

<br />

<br />

『仮死状態は死んだようなもんだしいいよね?』<br />

<br />

<br />

 いやよくないから!<br />

 どうしよう、辻褄《つじつま》が合いすぎて怖い。<br />

<br />

<br />

「あ、あたし、生きてるうちに帰りたいんですけどっ!」<br />

<br />

 あたしが此処《ここ》にいる原因がこのふたりなんだとしたら、という一縷《いちる》の望みを抱《いだ》いてルチナリスは訴える。このまま時間切れ《タイムアップ》は避けたい。<br />

<br />

<br />

 



 このふたりは何故《なぜ》あたしを此処《ここ》に呼んだ?

 今すぐに席を立って部屋から出て行きたい衝動に駆られたが、此処《ここ》に呼び寄せたのが彼らなら迂闊《うかつ》な行動は取っても無駄だ。ルチナリスは身をできるだけ引いて彼らと距離を取りつつ、再度、部屋を見回す。
 1面は作り付けの棚、2面は窓。最後に残った1面には火の入っていない暖炉。
 そう。扉がない。
 あの暖炉が秘密の通路ならいいのだが、「この状況なら暖炉しか出入口はないじゃない!」と思い込むのは危険すぎる。暖炉に突撃したものの奥は壁で、あたしは暖炉から尻だけ突き出してあたふた、なんて無様《ぶざま》な真似はしたくない。
 「面白い」と言いながら降り注がれる冷めた視線……嗚呼《ああ》、穴があったら入りたい! って穴《暖炉》に入ったからそんな恥ずかしい目に遭《あ》うわけなんだけど。


「ええ、ちょっと待っていて頂戴《ちょうだい》な」

 そしてあたし《ルチナリス》の脳内ボケツッコミなどまるで気にする様子もなく、第二夫人はのんびりと当主のカップに茶を注いでいる。

 いや。待てと言われても。

 聞いたことがある。幽体離脱などで一時的に体から魂が出てしまった時って、時間内に戻れなかったら体に戻れなくなるんだって。此処《ここ》に来てからそれほど長い時間は経《た》っていないと思うけれど、だからと言って猶予《ゆうよ》があるとは限らない。


『仮死状態は死んだようなもんだしいいよね?』

 よーくーなーいー!!
 向こうの世界にあたしの体が残っているのだとしたら、どうなっていることやら。何と言っても目と鼻の先に紅竜がいるのだ。聖女は覇業の邪魔になる、と処分するか、弟を誑《たぶら》かした人間の小娘など見たくもない、と処分するか、どう転んでも処分される未来しか想像できない。逃げない輩《やから》など面白くもない、と弄《もてあそ》ぶこともなくサクッと一撃で……

「いやああああああああああ!!」
「面白い娘だな」
「でしょでしょー♡」

 面白くないです! そりゃああなたがたはもうお亡くなりになっちゃってるんだもの、急ぐ必要なんてないんだろうけど、あたしはそうもいかないのよ! 体が肉片にされる前に帰らなくては!!

「……悪趣味だな」

 そうよ悪趣味よ! このふたり、あたしで遊んでる! っ、て? え?
 ふいに聞こえた第三者の声に、ルチナリスは止まった。慌てて声のしたほうを凝視すれば、前当主の向かいの席に新たな人影が浮かび上がるのが見えた。その人影は、

「ミル、さん……」
「元気そうだな」

 アイリスのところにひとり置き去りにして以来消息不明になっている、ミルその人だった。





 此処《ここ》にいると言うことは彼女はやはり死んでしまったのだろうか。
 ルチナリスはミルを窺《うかが》う。
 夫人からカップを渡され、不愛想に謝辞を述べるあたりもかつての彼女そのままだ。もし彼女《ミル》がキャメリアなら家柄では彼女のほうが上になるはずだけれども、息子《紅竜》の許婚だったということは義理の娘になる予定でもあったというわけで、そうなると彼女《ミル》には一応親として夫人を敬う義務があると言うか魔界貴族ってそういうあたり厳しいんでしょ? と言うか、とにかくその応対はどうなのよ。
 口調がミルのままということは、キャメリアとして記憶が戻っていないだけなのかもしれないけれど。


「無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す」
「え?」
「死した後に貴賤《きせん》も上下もない。魔界貴族を縛る制約も我々には効かない」

 ミルはそう言うと穏やかに笑みを浮かべた。
 見れば第二夫人も前当主も同じ笑みを浮かべている。
 と言うと何だ? 例の上下関係の制約は此処《ここ》では関係ないから無礼講でもOK! と、そう言いたいわけ? 第二夫人もそれでい……いと言うか気にしてもいないわよね、この人の場合。


「ミルさん、あたし、ミルさんに聞きたいことが、」

 ルチナリスは身を乗り出した。
 彼女に再会したら聞きたい、と思っていたことは山のようにある。
 彼女《ミル》は|何故《なぜ》、自分について魔界に来たのか。あたし《ルチナリス》と義兄《あに》に任せると言ったのは何のことなのか。ミル本人の生死はどうなっているのか。アイリスはどうしたのか。何故《なぜ》魔界を出たのか――。
 

「私が悪いのよ。私があなたを此処《ここ》まで連れて来てくれって頼んだの」

 しかしミルが答えるよりも先に、第二夫人が話に割って入って来た。

「え?」
「あなたに会った10年と少し前のことだわ。私は、」
 
 だが。
 その夫人の声がふいに途切れた。見上げれば笑顔のまま時が止まったように固まっている。

「第二夫人!?」
「案じなくていい。我々はもう闇に呑まれて長いのでね。こうして同化しかかってしまっているだけなのだよ」

 前当主がさも何でもなさそうにフォローを入れる。だがこれを案じなくてもいいと言うのは無理な話ではないのだろうか。
 だって、こともあろうに闇と同化!?
 アイリスが、

「何もかもどろどろに混ざり合って、世界はたったひとつの無に帰る」

 と言っていたけれど、よもや第二夫人までメグやアイリスのように黒い蔓《つる》と化すのか!? 罠なのか?
 色を失い、影の陰影で辛《かろ》うじて形がわかるような状態になってしまっている第二夫人を見つめたまま、ルチナリスは呻《うめ》く。
 どうしよう。闇は窓の外にあるのではなくて、何食わぬ顔であたしの隣にいる。彼らがどんな目的を持っていたか、その目的にあたしをどう絡めているのかは知らないが、あたしまで闇に同化させるつもりだったりしないだろうか。 

「恐ろしいかな?」

 前当主はカップを口にする。
 小花柄のカップはあまりにもこの男には似つかわしくなくて、それが余計にうすら寒く感じる。

「しかし、闇とはそういうものだ」

 何もかもを呑み込んでしまう性質《たち》。それにはいいも悪いもない。
 そう、前当主は言う。

「ブラックホールというものを聞いたことがあるかね? 星を食らう闇の名だ。生み出すものがあれば、消すものもある。星を食らう闇には何も意思はない。ただ、呑み込むだけ」

 前当主は手を差し出した。掌《てのひら》の上で小さな星が回っている。黄色い星を中心にクルクルと奇跡を描いている。
 何かの魔法だろうか、と見つめているうちにその黄色い星は膨張し始め、やがて黒ずんで弾けた。弾けた黒は周囲に広がって、奇跡を描いていた小さな星を次々に呑み込んでいく。
 やがて、全ての星を呑み込んだ黒が空気に溶けるようにして消えると、前当主は再び口を開いた。

「きみは完全に闇のない世界というものは素晴らしいと思うかい?」
「闇のない、世界?」

 鸚鵡《オウム》返しのように繰り返してはみたものの、前当主はそれ以上何も説明してはくれない。
 先ほどの星と関係があるのだろうか。
 何もかもを呑み込んで、そこには善も悪もなくて。


『無は全。全は無。全てのものは無に帰《き》す』
『貴賤《きせん》も上下もない。魔界貴族を縛る制約も我々には効かない』


 あれだけ鬱陶《うっとう》しかった制約もがない。誰も彼もが平等。
 そんな世界なら魔族も人間も対等でいられる。身分の差もなくなる。あたしや執事《グラウス》が思い描いていた世界に、コンセプトは似ている。
 でも。

 嫉妬《しっと》や僻《ひが》みや独占欲。メグやアイリスから感じた負の感情は、ひっくり返せば向上心に繋《つな》げることもできるものだ。全てが無になるというのも極端すぎるけれど、むしろそれがなければやる気も何も起きなくなって、人生がつまらないのではないだろうか。
 そんな考えがよぎった。
 他人より上に立ちたい? いいじゃないの。「無理、無理」って言うだけで何もしない人より、ずっと好感が持てるわ。

 好感?
 他人より上に立ちたいって、紅竜のことじゃない。あなたは彼を認めるの?

 もうひとりのあたしの声がする。
 


 闇の部分も含めて義兄《あに》だ、と執事《グラウス》は言った。
 闇とは共存できるのだとミルは言った。

 ルチナリスはミルを見る。

「……闇は誰の心の中にもあるもの。なくすんじゃなくて、うまく使っていけばいいんだわ」

 闇というものは誰の心の中にもある。あたしの、この胸の中にも。
 執事《グラウス》や師匠《アンリ》とはぐれ、厨房の箱の陰でミルと隠れていた時に話していた光景を思い出しながら、ルチナリスは呟く。


「そう。よく気がついたね」

 そして。
 前当主のその言葉で我に返った。

 マズい。ついうっかり答えてしまったけれど、何この問答。
 闇を封じるなんて無意味なんだ。無駄なことをする必要はないんだ。共存すればいいんだ。このまま此処《ここ》にいたほうが幸せなんだ、なんて結論になったらどうしてくれるのよ過去のあたし!
 今だって、追われて怖い思いをするくらいなら此処《ここ》で何も考えずにお茶しているほうがいい、って思いそうになっているのに!


「しかし、紅竜に取りついている闇は別だ。あれは過去の遺物。私たちが持つ以上の闇。
 本来なら個々で白い心と共に持っていればよかったものを、わざわざ集めて強大な力にしてしまった。あれは聖女ひとりの力ではもう、消すことなど不可能」


 部屋の中は先ほどよりもさらに暗い。
 闇の話をしているからなのか、窓の外の闇がゆっくりと窓をすり抜けて室内に染み込んで来るような、そんな感じがする。
 第二夫人は未《いま》だ影絵状態のまま。
 ミルは離れた席に座ったまま。
 それでも、彼らとて万策《ばんさく》尽きて此処《ここ》で茶を飲んでいるわけではあるまい。そう思いたい。
 そしてあたしも座り込んで前当主との進展のない問答をウダウダとやっているわけにはいかない。彼らが何を考えてあたしを足止めしているかは知らないが、質問させない、しても答えないつもりなら長居する必要はない。


「ああ、来たようだ」

 そんなルチナリスの耳に、前当主の声が聞こえた。

「遅いわよ」

 その声がスイッチになったかのように、今の今まで白黒の背景と化していた第二夫人がまた甲斐甲斐しく動き出す。棚から新しいカップを取り出し、紅茶を注ぎ、それを空いた席に置く。

 今度は誰だ?
 亡くなっている関係者と言えば残っているのは柘榴《ざくろ》の伯父・千日紅《せんにちこう》くらいしか思いつかないが、面識のない彼《千日紅》に出て来られても会話が成り立つ自信がない。ミル以上に今回の件には詳しいだろうけれど。
 

「るぅちゃんも来ているのよ」


 いや、伯父様《オジサマ》にるぅちゃんと言っても、誰のことやらわかりませんって。
 そんなツッコミを心の中で入れつつ……ルチナリスは目を疑った。

 其処《そこ》に現れたのは伯父様《オジサマ》ではなく、義兄《あに》だったからだ。




「久しぶり」

 自分を見て微笑《ほほえ》む義兄《あに》に、ルチナリスは返事を返すこともできなかった。
 これは本物? いきなり黒い霧になったりしない? と言うか、その前に、あなた目を覚ましませんでした? どうしてこんなところにいるの!?
 紅竜が剣を突き立てて起こして見せたあの義兄《あに》が偽物だったのだろうか。
 それとも刺さり具合が悪くて逝《い》ってしまったのだろうか。
 不安と疑問と憶測が頭の中で我先《われさき》にと主張し合って、どうにかなってしまいそうだ。

 なのに義兄《あに》はその間にもミルに向かって

「お久しゅうございます、姉上」

 なんて挨拶をしている。
 嗚呼《ああ》、あれほど「冗談だよね?」「嘘でしょう?」と物議を醸《かも》しだしていたミル=《イコール》キャメリア説があっさりと立証されてしまった! なんて、本当は薄々察していたから驚くほどの衝撃ではないけれど。
 それどころか彼女《キャメリア》なら実兄《紅竜》の許婚《いいなずけ》なんだから面識があって当然よね、なんて納得してしまっている部分もあるけれど。

「壮健そうで何よりだ」
「姉上も」

 いや、死に限りなく近いこの場所で壮健そうって社交辞令にもほどがあるわよ。
 ルチナリスは心の中でツッコミを入れる。

 騎士服のミルと貴族の坊ちゃん然とした義兄《あに》が姉弟会話をさらりと交わしている事実には違和感しか覚えないが、当人同士はそうでもないらしい。
 彼女《ミル》はキャメリアと呼ばれていた時から男まさりだったのだろうか。貴族だの城だの夜会だのの世界で男装の麗人というのはかなり前衛的な気がするのだが、って、そうじゃない。

 ……本物、か?
 ルチナリスは義兄《あに》の横顔を凝視する。

 義兄《あに》のように見える。いや義兄《あに》にしか見えない。
 しかし渡り廊下で現れた義兄《あに》や、紅竜が化けていた義兄《あに》のように、本物にしか見えない偽物、ということだってあり得……いや。ルチナリスは首を振る。
 それを言ったら第二夫人やミルだって本物だという証拠は何処《どこ》にもない。此処《ここ》は現実世界ではない。紅竜はいない。
 それに本物だとすれば=《イコール》義兄《あに》は死んでしまった、と言うことになってしまう。

 では、あたしのことを「るぅ」と呼ぶこの彼は?


「あ、えっと、」
「ほらぁ、再会の喜びにぎゅーっとかしないのー!?」

 だがしかし!
 義兄《あに》かどうかの確認も、「久しぶり」への返答も、会ったら話そうと思って抱えて来た諸々《もろもろ》も、何も口にする前に第二夫人の浮かれた声が押し流してしまった。

「私たちのことは風景だと思って気にしなくていいのよ?」
「何をです」
「感動の再会♡ るぅちゃんだってしてほしいに決まってるわ。そんな澄ました顔をしてないで」

 息子との再会が嬉しいのか、義妹《いもうと》と義姉《あね》より挨拶諸々を後回しにされたことへの腹いせか、第二夫人はマシンガンのように義兄《あに》に言葉を撃ち込んでいく。

「何を期待されているかは知りませんが、しません」
「嘘ぉ! そんなのつまらないじゃないの! あ、るぅちゃんだからしないの? もしかしてあの執事さんとなら、」
「しません」

 和気あいあいとし過ぎだろう!? とツッコミたくなるやりとりを前に、その輪の中に入れない、ひとりだけ部外者でいるしかない居《い》たたまれなさを感じる。

 どうしよう。挨拶もできない子だって思われなかっただろうか。
 でもタイミングを逃してしまった。第二夫人のせいで義兄《あに》の眼中から既《すで》に外れてしまっているし、輪の外から「久しぶり」と返すのも間が抜けすぎている。
 挨拶以外にも、言いたいことも聞きたいこともいっぱいあった。それなのに顔を見たら何も言えない。動けない。だから離岸流のように、義兄《あに》の関心の範囲からあっという間に遠ざかってしまう。

 駄目よ、駄目、ルチナリス。
 勇気を出すのよ。声を出せば青藍様は気付いてくれる。話を聞いてくれる。

 第二夫人と義兄《あに》の漫才に割り込むことができないまま、ルチナリスはタイミングを見計《はか》らう。
 此処《ここ》にいられる時間はきっと短い。だから、

「あ、あの、」
「それでは、全て予定通りに」

 だがしかし(2回目)!
 勇気を振り絞って口にした言葉は、今度は前当主の声に遮《さえぎ》られた。
 畜生! 夫婦そろって邪魔をするとは! ではなくてぇええ!


 カチャ、とミルがカップを置く。義兄《あに》も、笑っていた第二夫人も、本番のカチンコが鳴った直後の俳優のように表情を改めた。

 何が予定通りなのだろう。
 突然変わった空気にルチナリスは喉元まで出かかっていた疑問を呑み込むことしかできなかった。
 この場にいる誰もがこの先の展開をわかっているのに、あたしひとりだけが教えられていない。それはつまり、あたしを餌代わりにしておびき出そうとか、そういう最も危険な役回りが振られているということの表れではないのだろうか。

 いや、第二夫人と前当主だけならともかく、ミルと義兄《あに》があたしに危険なことをさせるはずがない!
 と、思いたいけれど、前にも言ったが彼らが本物である証拠は何処《どこ》にもないわけで。
 万が一、彼らが襲いかかって来た時に逃げられるように、机の上に置いたままになっている両手と、椅子に接地している尻を軽く浮かせてみる。
 よし、くっついていない。まだ逃げ出せる。


「……るぅ」

 そんなルチナリスに義兄《あに》は手を伸ばすと、唐突に髪をくしゃくしゃと掻き回した。
 嗚呼《ああ》、これはあたしを宥《なだ》める時の義兄《あに》の癖。「16歳は大人なのよ宣言」以降、1度も撫でてくれなかったから、急にこういうことをされると涙が出そうになるじゃないの。
 そんな懐かしさが入り混じった感情がルチナリスの胸中にせり上がる。しかし。

「苦労をかけたね。でも、もういいから」

 義兄《あに》の口から飛び出した台詞《セリフ》に、片隅に追いやられていた数分前の懸念《けねん》が勢いを取り戻し、感動の涙を蹴り飛ばした。

 もう、いい?
 何ですか? お前の役目はもう此処《ここ》でお終《しま》いだよ、って意味ですか!?

 やはりあたしを使って何かをするつもりなのだろうか。目的のためなら10年かわいがっていた義妹《いもうと》を犠牲にするのもやむを得ないのだろうか。

 逃げる準備は万端だ。
 万にひとつの可能性を賭けて暖炉が秘密の通路説を採用するか、椅子を叩きつけて窓から脱出するルートを取るか。どちらを選んでもバッドエンドが待っている気がしなくもないが――。

「青藍が女の子だったらよかったのよ。そうすればるぅちゃんを巻き込むこともなかったのに」

 其処《そこ》へきて、第二夫人が懸念《けねん》に拍車をかける。

 あたしを巻き込むぅぅぅぅううう!? 
 巻き込むってあまりいい意味に使われないわよ。巻き込み事故とか、悪い意味に使うのよ。と言うことはやはり、

「それは母上の失態です」
「お肉を食べると女の子が生まれやすくなるって言ったのに」
「迷信です」

 仲間割れですかっっ!? どうしよう、あたし、今、逃げるべき!?
 ルチナリスは尻を半分浮かせたまま義兄《あに》と第二夫人を見比べる。
 予想通りに彼らがあたしに危険な役目を負わせようというのなら逃げたほうがいいけれど、もしそれがただの杞憂《きゆう》だった場合、彼らを信用していないことの表れに映る。現実世界に戻れば第二夫人と再会することはないが、今現在生死不明な義兄《あに》とはもしかしたら会う機会があるかもしれない。「10年も兄妹として過ごして来たのに、義妹《ルチナリス》から信用されていなかった」なんて認識を義兄《あに》に持たれたくはない。

「でもね」

 第二夫人は躊躇《ためら》うように前当主に顔を向けた。
 そう言えば義兄《あに》と夫人が掛け合い漫才を始めてからこちら一気に影が薄くなったけれど、とルチナリスも同じように目を向ければ、もう自分の役目は終わったとばかりに白黒の陰影になってしまっている前当主の姿があった。

「……ひっ、」

 喉の奥で変な音が鳴る。
 いや、これは先ほどの第二夫人と同じだ。闇に呑まれて長いから、時折《ときおり》こういうことになるだけよ。第二夫人のように出番が来ればまた動き出すに決まっている。
 必死にそう思い込み、ルチナリスは目を背《そむ》け……同じように黙っているミルをおそるおそる窺《うかが》う。
 よかった。まだ無事だ。考えれば口数の少ない彼女《ミル》のこと、会話に入って来ないのがデフォルトじゃないか。それにきっと、親子の会話の邪魔をしないように配慮して黙っている部分もあるのだろう。 

 それにしても、今の今まで生きていた人が人非《あら》ざる者になるなんて、ホラー味《み》が強すぎる。
 彼らが突然に背景のひとつになってしまったら。
 あたしひとりだけ、この空間に取り残されることになったら。
 今まで普通ではない出来ごとには相当数遭遇してきたつもりなのに、やけに不安が圧《の》し掛かってくるのは、虫の知らせだろうか。良くないことが迫《せま》っているような焦りをチリチリと全身で感じる。


「ちょっとだけ言うと、私はあなたに逃げてほしかったのよ」
「それは初耳でした」

 そしてルチナリスを置いたまま、母子の会話は続いている。
 義兄《あに》とてルチナリス同様、第二夫人がノイシュタイン城に押しかけて来た日が彼女に会った最後だ。赤の他人のルチナリスよりも積もる話もあるだろう。
 と、温かく見守りたいが、耳に入って来る会話の内容が不穏だ。
 何だ? 逃げてほしいって。
 もしかして餌になっておびき出すのは元々義兄《あに》の役割だったのか? それをあたしに変えたのか?
 聞きたいけれど、口を挟んで会話を途切れさせるよりは、黙って聞いていたほうが早く詳細が掴《つか》める。今まで本能のまま口を挟んで状況を把握できなかったことなんて両手の指どころか星の数。あたしを巻き込んだ意味も、此処《ここ》にいる意味も、彼らが集まっている意味も、聞いていればわかるはず!
 ルチナリスは拳《こぶし》を握り、耳を澄ます。


「前にも言ったと思うけど。あの執事さんなんか一生付いて来てくれそうじゃない? いいわよねぇ逃避行」
「他人の人生を勝手に決めないでください」
「あなたにはドラマチックさが足りないのよ」
「ドラマチックは必要としていません」
「あら酷《ひど》い。ね、るぅちゃんはそう思うでしょ? 思わない?」
 
 息子に話しかけながら、夫人はルチナリスの手を両手で包んだ。突然話しかけられたことと、突然手を握られたことに、耳に全神経を集中させていたルチナリスは慌てて顔を上げる。
 そして自分を見ている夫人と義兄《あに》が、何か言いたげにも見える曖昧《あいまい》な笑みを浮かべていることに気がついた。

 何? と問うより前に、夫人が口を開く。

「今からあなたの中の聖女の力を全て青藍に移します。今までに比べたら平凡すぎてつまらないかもしれないけれど……これからは普通のお嬢さんとして普通に幸せになってくれることを祈っているわ」

 そして義兄《あに》も。

「此処《ここ》から出たら、もうお帰り」

 お帰りって。
 あたしは。
 あたしは、青藍様に会いに来たのに。まだ何も、言いたいことは何も言っていないのに。

「帰るって、何? あたし、青藍様も、い、一緒に、」

 一緒に帰りたい。
 ノイシュタインに。あたしたちの家に。


 ――義兄《あに》に会えたらそれでいい。義兄《あに》の気持ちを優先したい、なんて見栄っ張りもいいところだわ。


 もうひとりのあたしの声が聞こえる。
 うん、ごめんね。見栄を張ったわ。でも、死ぬ間際に後悔するのは……やっぱり嫌なのよ。

 なのに。

「俺は行けない」

 義兄《あに》はあっさりと首を横に振った。
 あまりにあっさりとしていて、一瞬、違うことを言われたのかと思ったほどだ。
 夫人はそんな義兄《あに》の手を取り、自身の手と共に、再びあたしの拳《こぶし》に重ねる。仕草だけ見れば「そんなこと言わないで仲直りしましょう」と言っているようだけれども、義兄《あに》の目に宿る意思は揺らぐ様子もない。
 
「どうして!? やっぱりもうあたしたちは用済みなの? もうノイシュタインに戻る気はないの!? グラウス様も、」

 何故《なぜ》?
 どうして?
 第二夫人や前当主と決めた「予定」のせいなの?
 あたしと執事よりもその予定のほうが大事なの?
 そんな責める言葉が頭の中をぐるぐると回る。 

「グラウス様も帰ってきてほしいって言うと思うわ。ううん、絶対に言う。此処《ここ》に来たのだって青藍様を連れ戻すためなんだもの」

 そうだ。あたしに義兄《あに》の心を動かすことができなかったとしても、執事が絡めば違う反応が返って来るかもしれない。
 あたしより付き合いの長い彼らのこと、悔しいけれど「あたしが」と言うよりも「グラウス様が」と言ったほうが義兄《あに》は折れるに違いない。
 そう思っていたのに。

「用済みだよ」

 義兄《あに》は冷ややかに言い捨てた。

「お前もグラウスも、もう俺には必要ない」

 まるで、心の中で責めたことを逆に責められたにも聞こえる。
 どうして?
 あたしが言っていることは我《わ》が儘《まま》なの? 言ってはいけないことだったの? だって、あたしたちはそのために来たのに。辛《つら》い思いをして、それでも頑張って来たのに。

「”俺は行かない”って、”必要ない”って、グラウス様は今でも青藍様は帰って来てくれるって思ってる。青藍様を信じてる。なのに」
「グラウスに”行けない”って言っておいて」
「嫌です!」

 そんなことあの執事《グラウス》に言えるはずがない。
 逆恨みが怖いんじゃない。必要ないと言われて彼が存在意義を失ってしまうのが怖い。

「……本当に、お前とグラウスは同じことを言うね」

 義兄《あに》は失笑する。
 執事《グラウス》の名を聞いて少しは心が動いたのだろうか、なんて期待し……



 ……たのもつかの間。激しい奔流《ほんりゅう》が襲い掛かった。

 重ねられた3人の手から光が迸《ほとばし》っている。それはただ光を放っているだけではなく、僅《わず》かだが、義兄《あに》のほうへと流れて行く。


 な、に?
 何が起こっているの?
 そう言えばさっき第二夫人は何て言った? あたしの力を青藍様に移すって、何かそんなこと言っていなかった?

「ミ、ミルさん!」
「すまないな。お前の言いたいことはわかるが、今回ばかりは加勢できない」

 助けを乞う声を拒絶したミルは、それでも申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「第二夫人も青藍もお前に言う気はなさそうだが、わからないまま向こうに戻すのも気の毒だから教えておく。
 青藍の持つ炎と風、そして魔族なら誰もが持っている属性・水。さらにルチナリスの持つ大地の力と、第二夫人の死によって分散されていた聖女の力を此処《ここ》に集約するのが目的だ。決してお前を害するつもりはないから安心してほしい」
「安心って、」
「お前を此処《ここ》まで連れて来たのは青藍に預けてある聖女の力を発動させるため、そして破壊したロンダヴェルグの結晶から放出された大地の力の、当面の受け皿になってもらう必要があったからだ。お前はメイシアに気に入られているし、気に入られるようになっている」
「どういう意味、で、」
「偶然はひとつも存在しない。全ては必然で成り立っていると言うことだ」
「意味が……わかんないよ……っ!」


 だとすると、メイシアがあたしに大地の加護を授けたことも必然だったとでもいうの?
 義兄《あに》がロンダヴェルグの結晶を破壊したのは、紅竜の指示ではなかったの?
 この10年、何かのはずみで見えた海の白昼夢は……


 わからない。
 わからないことが多すぎる。
 ねぇ、まだわからないことがたくさんあるの。全部教えて。教え終わるまで何処《どこ》にも行かないで。
 ミルさん。
 お兄ちゃん。
 あたし、あたし、は……まだ、


 視界が白く濁っていく。
 ああ、これ、半年前に、人間の世界で暮らせって言われた時に似ている。義兄《あに》のこともガーゴイルや執事《グラウス》のことも忘れてしまえって、そう言われた時の。


「駄、目ぇ」



 あたしは。
 まだ、知りたい、こと、が、





 薄れて行く意識の中で、

「さよなら、るぅ」

 と言う声が聞こえた。ような、気がした。