19-5 白き街は紅に染まる




 舞台はロンダヴェルグへと戻る。



「悪魔だ!!」

 勇者《エリック》が去ってどのくらい経過した後か。外で悲鳴が上がった。

「悪魔?」

 思考が追いつかなかったのはこの街の平和に浸《つ》かり込んでいた証拠だろうか。初日には悪魔が入り込むのではないかと懸念していた自分の思考が、よもや僅《わず》か2週間で「聖都に悪魔が入り込めるはずがない」とまで塗り替えられていたことに驚愕《きょうがく》しつつ、ルチナリスは窓の外に目を向ける。
 
 細い路地の向こう、メインストリートとなっている街路を奇妙な動きで横切っていく人影がある。それもひとりやふたりではない。何十人もの列だ。彼らは一様に前屈《かが》みになり、右に左にゆらゆらと体を揺らしながら歩いている。
 この街では珍しい赤い服に身を包み、腕や足も黒で覆ったその姿は、一見すると到着したばかりの旅団が宿屋にでも向かっているところのようにも見える。しかしよく見れば聖職者のような頭巾を被《かぶ》った者、エプロンを着用した者、腰に剣を下げている者と雑多で、旅団などではないことが窺《うかが》えた。

 彼らが進む先からは悲鳴が途切れることなく聞こえて来る。
 腐臭のような、鉄のような、そんな不快な臭いも漂って来る。


 あれは?
 悪魔?
 でも、人の姿をしている。

 義兄《あに》も執事も師匠も、人の姿をした「悪魔」は見慣れるほど見てきたのにそんなことを思ったのは、ずっと自分の前では人として振る舞って来た彼らを「人間」だと認識してしまっていたからなのかもしれない。


「……勇者様は?」

 そして気にかかるのは先ほど出て行った勇者《エリック》のこと。重装備《フルアーマー》の彼は足が遅かろう。あの集団に遭遇したかどうかは時間的にも怪しいところだ。

「案ずるな。あいつは聖剣に守られている。握っていれば剣が勝手に活路を開いて行ってくれる」

 勇者の去った街路を見ようと窓から身を乗り出しかけたルチナリスだったが、それは叶わなかった。ミルに肩を掴《つか》んで引き戻され、そのまま窓から離される。
 ミルが静かに窓を閉めると店内が暗くなった。
 マスターがカウンターの下から蝋燭《ろうそく》を数本取り出し、火を点《つ》ける。先ほどまで管《くだ》を巻いていた冒険者たちも、何時《いつ》の間にやらそれぞれの武器を手繰《たぐ》り寄せている。

 警戒している。
 外の、アレに。

 
 時計が針を刻む音が聞こえる。
 炎の揺らめきが壁や天井にうねるような絵を描く。
 蝋《ろう》が溶ける。蝋燭《ろうそく》の身を伝い、とろとろと皿の上に流れていく。
 ガチャ、と音がしたほうを振り返ればマスターが壁から剣を取り外していて、予想が外れたことに思わず息を吐き出して。

 その時だった。
 ガタン! と音がして入口の扉が開いた。
 緊張が走る。人々が咄嗟《とっさ》に構えた中に転がりむように飛び込んできたのは――黒鉄の鎧に身を包んだ冒険者。激しい戦闘を繰り広げた後なのか、体中に傷を負い、握りしめている剣も折れてしまっている。
 彼は助け起こそうと近寄った冒険者の腕を掴《つか》み、訴えるように声を上げた。

「気をつけろ! 奴《やつ》ら、噛んで来る!」
「噛む!?」
「噛まれた奴《やつ》が今度は他の奴《やつ》を襲っていって、それでどんどん数が増えてるんだ。ほら昔話でいただろう? ヴァンパイア、みた……い、に……」

 言いながら、その冒険者の姿が変わって行く。
 尖った目と、耳と、裂けた口。そこから覗く牙。
 全身を黒く染めた彼に先ほどまでの面影は微塵《みじん》も残っていない。人間から遠く離れた異形の姿は、ノイシュタイン城にいた頃、ルチナリスの隣で馬鹿話ばかりしていたガーゴイルを彷彿《ほうふつ》とさせた。


 そう。
 それは悪魔の姿。
 血を吸うことで相手を同族に変えてしまう特徴は確かに伝承のヴァンパイアのものだが、容姿は記憶に残るヴァンパイア像からはかなりかけ離れている。
 記憶にあるヴァンパイア像は本や戯曲にあったもの。どれも美男美女だった。
 美しいが故《ゆえ》に悲劇に仕立てても映えるのだろう。あれほどまでに人間受けする悪魔はいまい。


『――ねぇ、魔族がどうしてあんなに秀麗な外見を持っていると思う?』


 オルファーナで閉じ込められた時、もうひとりのあたしに言われたことを思い出す。


『あれはね、人間を騙すため。人間は美しいものは正しいと思う。憧れる。ホイホイと近付く』


 魔族は人間に受けがいいように、あの姿を取っているのだと。
 だとしたら、目の前のあれは――?


 化け物、と震える声が何処《どこ》かから聞こえた。
 その化け物と化した彼は、腕を掴《つか》まれたまま呆然と成り行きを見守っていた冒険者を懇願するように見上げる。ほんの数分前までは同じ冒険者。顔見知りだったかもしれない。見上げられた男の目に同情の色が浮かんだ。

 が。

 化け物と化した男はその腕に爪を立てて引き寄せ、冒険者の喉笛に喰らいついた。
 血と共に黒い霧のようなものが散り、噛まれた男の口から悲鳴が上がった。

 喉笛を噛み千切《ちぎ》られた男と交代するように、化け物と化した男は立ち上がる。
 口から赤いものが垂れ、胸まで汚している。
 次の獲物を求めて頭《こうべ》を巡らせた化け物を冒険者たちが遠巻きに取り囲んだ。一斉に切りかかるつもりだろう。互いに目配せしながら間合いを詰めていく。

 化け物は光のない目で取り囲む人々を見回す。死角になった冒険者が剣を振り上げると同時に、他の人々も一斉に切りかかった。
 四方から剣を突き立てられた身からも同じように血と黒い霧が噴き出す。
 人々が手やマントで口元を覆いながら後退する中、化け物は、どう、と音を立てて床に倒れた。

 だがそれだけでは終わらなかった。
 皆が化物に気を取られていたその時、こと切れていた冒険者が口から血色の泡を吐いたことに誰が気付いただろう。
 血を吐いた冒険者は、口元から紅《あか》い筋を垂らしたままゆらりと立ち上がる。
 歯の間に何かが挟まったかのように口を動かしている。動かすうちに口の端が裂けていく。時折、紅《あか》く染まった牙と歯茎《はぐき》が見える。

 男は化け物を取り囲んでいる人々を一瞥《いちべつ》すると、ひとり、輪から離れて立ちすくんでいるルチナリスの上で目を止めた。


「……っ!」

 声も出ないルチナリスの前にミルが飛び出す。
 剣を抜き、紅《あか》いよだれを撒《ま》き散らしつつ襲いかかって来る男を、何の感情も見せないまま斜めに切り伏せる。
 ルチナリスの視界が紅く染まった。


「ミル! それは、カールじゃ、」
「向かって来るなら敵だ! 甘いことを言っていれば此処《ここ》にいる全員、奴《やつ》らの仲間にされるぞ!」

 彼女はそう言いながら最初に入って来た男――|既《すで》に倒れて動かないが――にも剣を振り下ろした。
 首が、ゴロリ、と落ちた。


「どうして!? ここは、魔族は入ってこられないって言ってたのに」

 聖都ロンダヴェルグには悪魔封じの結界が張られている。
 現に師匠《アンリ》は入ることができなかった。執事《グラウス》は街に近付いただけで気分が悪くなっていると聞いた。
 なのに。何故《なぜ》。

「魔族じゃない。こいつらはみんな人間だ。噛まれた、だけだ」

 それじゃ、今、街の中で暴れているのは全部人間だと言うの?
 ルチナリスは先ほどミルに首を落とされた化け物を見下す。
 目の前で黒い悪魔の姿をしたものは徐々《じょじょ》に形を変える。黒かった皮膚は日に焼けた肌色に、裂けた口は小さく、血に染まった牙もただの歯に。

 人間だ。
 首を切り離されて絶命した化け物は……人間の姿に戻っていた。




 先ほどから聞こえる悲鳴も、こうして人が人を襲っているせいに違いない。街路を前屈《かが》みになって歩いていた人々は被害者で、加害者で。そしてもともとは全てこの街の住人。街の中にいた人々が悪魔に変わったのでは、結界は何の役にも立たない。

「くそっ、どうしたら!」

 こうしている間も外では、聖騎士団を始めとする警護関係者や聖職者が被害を食い止めようと躍起になっていることだろう。しかし最初から悪魔として現れるのではなく、住人が変わっていくのでは対処も遅れる。
 街路を歩いていた集団の中に聖職者や冒険者らしき衣装を纏《まと》った者がいたことからも推測できる。先ほど店に飛び込んで来た冒険者のように、最初は被害者なのだ。本人も加害者になるつもりなど毛頭ないのだ。助けようと近付いた、または助けている最中に突如《とつじょ》変化して襲って来るのだ。

 こうして店に立て籠もっていても事態は収束することはない。
 むしろ敵は増えていく。そして何時《いつ》か大挙《たいきょ》して押し寄せ、その扉をこじ開けることだろう。

「残念だが変わってしまった奴《やつ》は諦めろ。まだ無事な連中を保護しつつ、外にいる味方と合流するんだ」

 これは非常事態。此処《ここ》にいても何時《いつ》かは――。
 緊張が走る。
 冒険者は聖人ではない。その職を選んだ理由も様々《さまざま》だ。「自分たちが人々を守る」という崇高な志を持つ者もいれば、「自分の命を優先したい」という堅実な者もいる。その全てがそれぞれの獲物を持って飛び出して行く。
 

「こっちだ」

 ミルはルチナリスの腕を掴《つか》むと酒場の厨房へ走った。
 床にある蓋《ふた》を開けると水の流れる音がした。

「この地下水路は塔の下まで続いている。少し臭《くさ》いかもしれないが、それがお前の人間の匂いを誤魔化してくれるだろう。行け!」

 そしてルチナリスを水路の入口に置いたまま、ミルは厨房の壁に背を付けた。

「ミルさ、」
「黙れ」

 ミルの声に扉が開く音が被《かぶ》った。
 雪崩《なだ》れこんでくる足音。
 争う声。刃を打ち鳴らす音。

 あの音は最後まで残っていたマスターだろうか。無事だろうか。心配ではあるが、此処《ここ》で案じていたところで自分は足手まといにしかならない。
 ルチナリスは水路を見下ろす。
 暗い中に水面らしき揺らめきがある。其処《そこ》までは梯子《はしご》を使って下りるようになっている。

 ギチギチ、とも、ガシャガシャ、とも形容し難《がた》い音が近付いて来る。
 鎧の足音だろうか。だが援軍が来てくれたと思うには本能が邪魔をする。
 人の声がしない。
 血生臭い臭《にお》いも強くなってきた気がする。

 ミルが追い払うような手振りをする。
 早く行けと言っているのだろう。
 しかし、彼女は……?


 ガン! という激しい音と共に扉が揺れた。
 ガン! ガン! ガン! と何度も何度も叩かれる。
 開けろ、と言っているのだろうか。もしかしたらマスターが助けを乞うているのかもしれない。
 ルチナリスは梯子《はしご》を下りかけた足を止める。

 だがミルは開けない。


 彼女は、あたしの護衛だから。
 ルチナリスの背を冷たい汗が伝う。梯子《はしご》を握る手も汗ばんで滑ってしまいそうだ。

 ミルにとっての優先事項はあたし。マスターでもなければ、自分《ミル》でもない。
 もし外にいるのがマスターだったとしても、扉を開ければ「マスター以外の何か」も雪崩《なだ》れ込んでくる。だから開けないのだ。ああして扉の脇に立っているのだ。
 あたしが逃げおおせるまで。

 聖女候補なんて名ばかりの……ジェシカのように誰かを癒《いや》すこともできない、ただのモブ女のために。
 あたしには命を賭ける価値なんてないのに。
 命令だから。あたしを守るのが、今の彼女の役目だから。


『――妹を守るのは兄の役目だから』


 そう言って笑った義兄《あに》の姿がミルに重なった。
 あの後義兄《あに》はあたしひとりを外に出して、そして力尽きた。
 どうどうと流れ落ちる海水の中に消えた義兄《あに》は執事に救い出されたけれど、でも、此処《ここ》には誰もいない。運よく味方が駆けつける、だなんて……ミラクルは滅多に起きないからミラクルって言うのよ。

「ミルさんも、」

 マスターだって言っていたじゃない。
 あたしたちは外に出て味方と合流しないといけない。孤軍で戦っていては各個撃破されるだけ。だから、

 その時。
 扉が吹き飛んだ。斧か何かで叩き壊したのだろう。鋭い破片がルチナリスのところにまで飛んで来て、慌てて手で頭を覆う。
 暗くなった視界で、声が聞こえた。

「早く行け! お前は、こんなところで死ぬわけにはいかないんだろう!?」

 はっとして顔を上げると扉があった場所が四角く開いている。そこから鎧を纏《まと》った化け物が我先にと入って来ようとしている。
 ミルが、最初に入って来ようとしている化け物の腕を剣で押さえている。

「でも」

 化け物は刀身を掴《つか》んでいる。
 あれでは剣は振るえない。それどころか腕力ではミルのほうが明らかに分《ぶ》が悪い。押されているのがわかる。

「早く!」

 あたしが此処《ここ》にいる限り、ミルは逃げることもできない。

 ミルの声に押されるように、ルチナリスは水路への梯子《はしご》に再び足をかけた。
 上も下も見ず、一気に下りる。
 水路に足がつくよりも早く、頭上の蓋《ふた》が閉まった。蓋《ふた》の向こうで、ガシャン、と何かが叩き壊される音が聞こえた。



 師匠。此処《ここ》はもう安全じゃないみたい。


『此処《ここ》にゃ魔族は入れねぇし、人間狩りに遭《あ》うことがないところにいてくれたほうが俺らとしちゃあ安心なんだよ』


 師匠《アンリ》がそう言い残して行ったあの夜からまだ2週間も経《た》っていない……のに。



 水の流れる音が水路に響く。獣の唸り声のようにも聞こえる。
 ルチナリスは梯子《はしご》の踏面《ふみづら》に引っかけられていたランタンを手探りで取り、火を点ける。薄暗く、吹き抜ける風も強い。何度も消えてしまう火に、焦って手が震える悪循環。それでも何とか火を点けると、周囲がぼんやりと浮かび上がった。

 ミルが言うには、この地下水路は街の中心にある塔から街の外周に向かって流れているらしい。
 だから水の流れに逆らって進めば塔に辿り着くのだそうだ。

 煉瓦《れんが》の壁は湿っぽく、触ると何処《どこ》か柔らかい。苔だろうか。触ってしまった手前、カビでなければいいのだが、吹く風は期待に反してカビ臭い。腐臭とまではいかないが、すえた臭いもする。これならきっと自分《人間》の臭いも消えてしまうだろう。

 ルチナリスはランタンを握り締める。
 この頼りない小さな灯りが消えたら、きっと進むことなどできなくなる。その反面、此処《ここ》に灯りがあるせいで人がいるとバレてしまう。化け物に気付かれたらお終《しま》いだ。

 早く。
 早く。
 誰にも見つからないうちに早く。
 焦る気持ちが足を急がせる。




 ルチナリスはとぼとぼと歩いていく。
 明かり取りを兼ねた空気穴なのか、点々と空いた穴から射し込む光のある場所だけが暗い中にぽつり、ぽつり、と浮かび上がって見える。光の射し込まない場所は闇に沈んでいて、何かが息を潜めていても気付かずに通り過ぎてしまいそうだ。
 バタバタと上から聞こえて来る足音は悪魔のものなのか、それとも味方なのか。聞こえると言うことは、自分の足音も向こうに聞こえているのではないだろうか。
 もし上にいるのが悪魔なら、悪魔に足音を聞かれたら、水路まで下りて来たら。
 剣士亭の厨房《ちゅうぼう》から水路に下りた時に使ったものと同じ梯子《はしご》が現れる度《たび》、ルチナリスはランタンを握り締め、足早に通り過ぎる。

 ミルは水流を逆に辿《たど》って行けば塔に着くと言ったが、道を間違えてはいないだろうか。
 地上とは比べ物にならないほど長い時間、ずっとこうして歩いている気がするのはただの気のせいだろうか。
 途中に分岐がいくつかあった。水流が緩んでいる場所もあった。かなり迂回してしまっているのではないだろうか。


 こつん。こつん。こつん。
 足音が響く。抜き足、差し足、と歩いても、音が消えることはない。
 靴底で生まれた音は壁を自由気ままに飛び跳ねる。跳ね返った足音が、自分のものか他人のものかもわからなくて、同じ速度で後をつけられているような錯覚に陥る。
 いや、本当に錯覚なのか?
 ルチナリスは足を止める。少し遅れて足音も止まる。再び歩き出す。足音が追いかける。

 
 街の中で暴れているのはヴァンパイアと化したこの街の住人。噛むことでその数を増やす。
 ならば、最初のひとりはどうやって入ったのだろう。
 結界に守られているこの街に魔族は入り込めない。現に師匠《アンリ》は入ることができなかった。執事《グラウス》は近付くだけでも辛《つら》いと言っていた。
 歩いては無理。
 壁をよじ登ったとしても、結界に遮《さえぎ》られていることには変わりない。
 闇に紛《まぎ》れて入り込もうとしたところで、幾《いく》つもの灯りが見張っている。たとえ1匹でも人間と同サイズのそれを見落とすほうが難しいのに。

 ……わからない。


 こつん。こつん。
 聞こえるのは足音ばかり。
 叫び声や唸《うな》り声ではないから安心、と言えるのだろうか。もしかしたらもうこの街に人間は自分《ルチナリス》ひとりしか残っていないのではないのだろうか。
 そんな不安が後ろから追いかけて来る。


「……青藍様」

 呼んだところで義兄《あに》は来ない。
 ミルも追って来ない。勇者も、執事《グラウス》も師匠《アンリ》も戻らない。でも。

「大丈夫」

 ルチナリスは自分に言い聞かせるように呟く。
 あたしは強くなる。誰かに守られるのではなく、自力でどうにかできるように。誰かを守れるように。義兄《あに》が……心配しないように。


 そうして歩いていると、ふいに足音が乱れた。
 ルチナリスは足を止める。が、足音は聞こえ続ける。

 誰かいる。

 ルチナリスは慌ててランタンの火を弱め、上着で覆《おお》う。
 消してしまった方がいいのかもしれないが、燐寸《マッチ》を使い切ってしまったから再び点けることはできない。灯りがなければ、最悪、この激しい流れに落ちてしまう。
 それに、灯りがなければ相手の顔も見えない。
 人間なのか、悪魔なのか。後者なら見えないほうが良かったと思うかもしれないけれど、それでも。

 上着で覆う程度では灯りを完全に隠すことはできないのだろう。誘われるように足音は近付いて来る。
 逃げるべきか。
 今ならまだ逃げられる。でもこれ以上距離を詰められたら、逃げ切れるかはわからない。
 
 人間か。
 悪魔か。

 敵か。
 味方か。

 足音が近付く。これは鎧の足音ではない。大人のものでもない。もっと軽い……子供?

「誰か、いるの?」

 次《つ》いで聞こえたのはか細い少女の声だった。
 ルチナリスは隠していたランタンを前方に掲《かか》げる。光が伸びる。
 照らされた其処《そこ》には、幼い少女が立っていた。

 ところどころ破れた服は、逃げる時に擦《す》ったか転んだかしたのだろう。赤い染みは彼女を庇《かば》った親のものかもしれない。
 そうして思い起こせば……街路を歩いていた化け物が赤い服を着ているように見えたのは、もしかしたら白い服が血に染まったから、かもしれない。そう思うとぞっとする。

 この少女も水路に逃がされたのだろうか。
 後に残してきたミルのことを思い出すと心が痛む。

 大丈夫。
 ルチナリスは首を振る。
 ミルさんは強いから。今頃は化け物を倒してあたしの後を追ってくれている。


 少女は相手が人間だと知ると、安堵《あんど》の色を浮かべた。
 自分《ルチナリス》でも恐ろしかったのだ。こんな小さな子供なら、恐怖も倍になって襲い掛かってきていたことだろう。
 せめてジェシカのように治癒《ちゆ》の呪文が使えたら、この無数の擦り傷を治してあげることもできるのに。痛みがなくなればより安心を与えてやれるのに。ミルは治癒《ちゆ》の呪文が使えないからこそ聖女の可能性があるのだと言ってくれたけれど、何もできないよりは治癒《ちゆ》でも何でもできたほうがずっとまし。だけど。

 でも、使えないのよ。
 使えないから使えないなりに別のやり方で勇気づけてあげないといけない。それは聖女候補だからって言うより、年長者の役目みたいなものだわ。
 ルチナリスは少女の前に屈《かが》みこむと、精一杯の笑みを浮かべる。

「お姉ちゃんは今から塔に行くところなの。彼処《あそこ》にはティルファ様もいるから安全なんだって。一緒に行きましょう」

 笑う気力なんて残っていないけれど。
 引きつっているかもしれないけれど。
 いきなり握《にぎ》ると怯《おび》えるかもしれないから手は差し伸べるにとどめて。

「……ママ、は?」

 ああ。この子の母親はどんな想いで小さな我が子をひとり、水路に逃がしたのだろう。
 普通なら共に逃げるはずだ。それができなくなったのだとしたら、この子の母親は、もう……。
 そんな暗い考えがよぎる。


『逃げ、て……』


 遠い昔。あたしを庇《かば》った女性《ひと》はそう言った。
 彼女に庇《かば》われなければ、そして名も知らない誰かがミバ村まで連れて来てくれなければ、あたしの今はなかった。
 この子も同じ。誰かに救われた命。それを繋《つな》ぐのはあたし。


『――この子をよろしくお願いします』


 以前、第二夫人は執事の手を取ってそう微笑《ほほえ》んだ。


『――妹の幸せなら守ってみせるよ』


 勇者は言った。
 身近な人の幸せを守りたいという気持ち。それが大事なんだ、と。 


「大丈夫、きっと先に塔で待ってるわ。だから、行こう!」

 命の連鎖をあたしの番で潰《つぶ》してはいけない。 
 この子を守ろう。世界平和ではなく、身近なひとりから。

 何だろう。ひとりだと不安でしょうがなかったのに、こんな小さな子がいるだけで強い気持ちが溢れてくる。
 誰かを守りたいという気持ち。これが聖女の力なのかもしれない。




「水路は塔から街の外に向かって流れてるの。だから水が流れてくるほうに向かっていけば塔があるのよ」

 1から10までミルの受け売りだが些末《さまつ》は気にしない。「~かもしれない」とか「~だと思う」だのといった曖昧《あいまい》な言い方では不安は増すばかり。こういう時はビシツ! と言い切るのが大事なのよ!
 ルチナリスは水路の先を指さした。

「うん」

 少女も少しだけ表情を和《やわ》らげる。その笑みに、ふと、デ・ジャ・ヴュ《既視感》を感じた。
 この子、何処《どこ》かで見た?
 何処《どこ》で?

 青い空。
 緑の芝生。
 白い、鳩。

「ああ!」

 思わずあげてしまった大声に慌てて口を押えたものの、今度は手に持ったままのランタンが傾いて火が消えそうになる。それに焦って火屋《ほや》を掴《つか》む。熱さに手を離して落としかけ、石畳に叩きつけられる寸前に拾い上げる。
 そんなひとりコントを唖然《あぜん》として見ている少女を見上げ、

「あなた、鳩に餌やろうとして突《つつ》かれてた子じゃない?」

 ルチナリスは改めてそう問いかけた。
 少女は数度目を瞬《またた》かせる。そして。

「あ! あの時のハンカチのお姉ちゃん!」

 こちらもまた大声を張り上げた。手ぶらだったのでひとりコントはなかったが。


 やっぱり。
 何処《どこ》かで見たことがあると思った。
 この子はロンダヴェルグに来た初日、塔近くの園庭で鳩に餌をあげようとしていた子供。手のひらを怪我して、ハンカチを巻いてやった子だ。この広い街では再会することなどないだろうと思っていたが……妙な縁もあるものだ。

 ひとりよりふたりのほうが心強い。それが年端もいかない少女だったとしても。いや、年端もいかない少女だからこそ、年長者の責任感が強くいようとしてくれる。それが知り合いなら尚更のこと。
 あたしは、大人なんだから。聖女候補なんだから。
 ルチナリスは天使の涙に手を伸ばす。
 相変わらず何の力も感じないが、この石は義兄《あに》の髪留めのように守ってくれる。この子も、きっと。


「怪我は治ったの?」

 ふと気になって掌《てのひら》を広げようとする。と、少女は慌ててその手を後ろに隠した。

「……まだ、傷があるから」

 俯《うつむ》いた顔からは感情が読み取れない。
 子供は妙なところに拘《こだわ》るから、完全に治りきっていないのが恥ずかしいとでも思ったのかもしれない。ハンカチはもう巻いていなかったし包帯もしていなかったから、快方には向かっているのだろう。

 どうしても確認しなければいけない怪我というわけでもないし、そんなことで時間を取るわけにもいかない。

「行こう」

 それ以上怪我のことには触れずに、ルチナリスは立ち上がった。



               



 ランタンの灯りがチリチリと小さな音を立てる。
 灯りに照らされて、ルチナリスと少女の影がやけに大きく壁に映る。まるで怪物が足音もなく歩み寄って来るようだ。何処《どこ》まで逃げても|怪物《影》は一定の距離を保ったまま追いかけてくる。

「お姉ちゃん」
「……大丈夫よ」

 少女に、と言うより自分自身に言い聞かせるように、ルチナリスは大丈夫という言葉を何度も口にする。
 口にしながらも耳は周囲の音を探り続けている。水音に隠れて他の音が聞こえないか、ずっと。

 明かり取り兼空気穴の数は先ほどよりもかなり減っている。年月を経《へ》て埋まってしまったのか、穴を何かが塞《ふさ》いでいるのか、此処《水路》からでは判断できない。
 穴がないせいでランタン以外に明かりはなく、空気も淀《よど》んでいる。
 時折現れる梯子《はしご》を上って様子を見てみたい衝動に駆られるが、蓋を開けた目の前に悪魔がいるのではないかと思うと、それもできない。


 道、間違ってないよね?
 
「大丈夫」

 水路に下りてから幾度となく頭に浮かぶ問いを、「大丈夫」でひとつずつ潰しながら進む。
 大丈夫。塔はもうすぐ。
 大丈夫。みんな待ってる。
 大丈夫。


 塔、通り過ぎてないよね?

「……だ、大丈夫」

 大丈夫だろうか。
 梯子《はしご》はどれも同じ形をしていた。塔に繋がる梯子《はしご》も、見落としてしまっているのではないのだろか。



「お姉ちゃん、あれ、」

 そんな不安に押し潰されそうになった頃、少女は小さく叫び、ルチナリスの手を引っ張った。
 考えごとをしていたからだろうか。子供のものとは思えない強い力に、ルチナリスはよろめいた。

「え?」

 よろめきながらも見えた。視界の端に何か違うものが。
 壁と壁の切れ目。きっと通路であろう場所を埋めるようにして壁と同化している「何か」。
 それはルチナリスたちに気付かれるや否や、滑るように壁から離れ、闇に|紛《まぎ》れた。ランタンの灯りの届かない場所を移動しているのか、ベチャリ、ベチャリ、と粘《ねば》つく音だけが聞こえる。

 襲って来ないということは悪魔ではないのだろうか。
 でもあの形は人間ではなかった。
 近付けばそれが何かわかる。わかるけれども逃げられなくなる。

 ルチナリスは自分の服の裾を握り締めている少女をちら、と見る。
 この子はきっとあたしよりも足は遅い。見捨てて自分だけ逃げるという選択肢を選ばない以上、闇雲に危険には近付くべきではない。

 どうする?
 ルチナリスは少女の肩を抱きかかえるようにして後退《ずさ》る。
 ランタンの灯りが作るオレンジ色の円が後退する。

 ベチャリ。
 その何かはルチナリスが後退《ずさ》った分だけ寄って来る。


 塔に行くには水の流れに逆らって進む。自分《ルチナリス》が知らされている情報はそれだけだ。踵《きびす》を返して逃げ出して、その後はどうしたらいい?
 無数の梯子《はしご》の中から剣士亭に繋《つな》がる梯子《はしご》を見つけ出すことなどできない。見つかったとしても、剣士亭には悪魔で埋め尽くされているかもしれない。その前に、剣士亭から追って来た悪魔と鉢合わせするかもしれない。


 ベチャリ。
 間近で聞こえたその音に、ルチナリスは我に返った。
 慌てて音のしたほうにランタンを掲《かか》げ……るまでもなかった。何時《いつ》の間に近付いていたのだろう、「それ」は既《すで》に灯りの輪の中にいた。

「ひ……っ!」

 予想はしていたが。
 あまりにもおぞましい姿にルチナリスは少女を胸に抱き寄せ、抱え込んだ。
 見せてはいけない。
 剣士亭で暴れた化け物よりもっと醜《みにく》い、まるで泥の塊のようなソレは「ああ」とも「うう」ともつかない声を上げながら近付いて来る。鉛色の肌は血がこびり付き、裂けた口からも始終何かが垂れている。悪魔と化した時の怪我か、攻撃を受けたからか、首はあらぬ方向にねじ曲がり、半分ほど離れかけていた。
 ミルが剣士亭で化け物の首を落としたのと同様、誰かがこの化け物の首を落とそうとしたのだろうか。

 こんなになってもまだ生きているなんて。
 人間ならとうに絶命している。いや、義兄《あに》や執事でもここまで傷付けられれば生きていられるかどうかは怪しい。
 ヴァンパイアのように噛んで来る。とは聞いていたが、剣士亭を襲った化け物も、目の前のこれも、ヴァンパイアと言うよりはゾンビと呼んだ方がしっくりくるほどの惨《むご》たらしさ。物語のヴァンパイアのように美しい容姿になるのなら少しは考える余地もあるけれど、ガーゴイルのようだったり、またはこんなドロドロした姿になるのは御免《ごめん》だ。

 この化け物もかつては人間だったのだろうか。
 同じ人間に剣を振るわれて首を落とされかけて、この人はどう思っただろう。化け物と化した時点で人間としての思考を失うのならまだしも、記憶が残っている状態で、それでも人間を襲わずにはいられなくなるのだとしたら、不幸という言葉ですらも軽く聞こえてしまう。
 そして切りかかった誰かのほうはどうなったのだろう。
 絶命したのだろうか。逃げたのだろうか。悪魔と化して別の何処《どこ》かを彷徨《さまよ》っているのだろうか。
 剣士亭に残してきてしまったミルは――。


 化け物は手を伸ばす。
 伸びてきた腕を避け、ルチナリスは少女の手を引っ張ると今来た道を駆け出した。塔とは逆方向だが仕方がない。

 ベチャリ。ベチャリ。
 
 音が追いかけて来る。
 動きは遅そうだったのに、全く遠ざかっていかない。


「お姉ちゃ、」

 少女が僅《わず》かに遅れ始める。
 咄嗟《とっさ》に抱え上げてはみたものの、自分も彼女を抱えて走るだけの体力はない。
 足がもつれてくる。息が上がってくる。

 怖い。
 怖いよ。
 助けて。
 助けて。青、


 ……駄目。

 視界が滲《にじ》む。

 わかってる。
 わかっているのだ、心の中では。もう義兄《あに》が来てくれることなどない。ひとりでどうにかするしかない。
 でも。


「下がれルチナリス!」

 声がした。
 水路という狭い空間のせいだろう。反響してあちこちから同じ声が聞こえる。
 蹴躓《けつまず》いて転んだその脇を、すり抜けるように一塵の風が舞った。




「――勝ちに行くためにはどうすればいいと思いますか?」

 けだるい午後のひととき、チェス盤を前に執事《グラウス》が座っている。
 窓から差し込む陽の光は部屋を黄金色に染めている。


 ルチナリスは周囲を見回す。
 金色に染まっている此処《ここ》はノイシュタイン城の城主執務室。そして自分は応接セットのひとつに座っている。深緑色をしたベルベット生地が金色を弾いている。
 

「相手の戦力を削ぐことです。ポーンを、ルークを、ビショップをこうして取り除いて、」

 盤の上でひらひらと手が舞う。
 手の影に隠れた駒は、次に手を開いた時には既《すで》に消えている。


 あたしは何故《なぜ》、此処《ここ》でこうしてチェスの講義など受けているのだろう。
 聞きたいが執事の講釈は続いている。
 何か大事なことがあったはずなのに思い出せない。
 それに、ひとり足りない。


「やっぱり弱い駒から消えて行くんですね」

 その人は弱くはなかった。でも此処《ここ》にはいない。
 その人のかわりに、激弱のあたしが残っている。

 相手の駒を消すために、次々に盤から離れて行く駒をルチナリスは目で追う。盤の横に転がされた駒は、もう戦うことはない。

 もう戦うこともない。戦えない。戦わなくていい。
 それは良いことかもしれない。ずっと戦ってほしくないと思っていた。死んでほしくないと思っていた。

 でも。
 戦わない駒は此処《ここ》には――あたしがいる此処《ここ》には、いられない。

 あたしは何のために残されているの?
 弱いのに。役に立たないのに。
 あの場違いにも敵陣にまで入り込んでしまったポーン。それがあたし。後はまわりによってたかって潰されるだけ。


 執事は黙ったまま、敵陣の奥深くまで入り込んだポーンをひとつ進める。行き止まり。

「……ポーンは弱いように見えて、力を秘めているんですよ」

 これを昇格と言います、と、執事は前に進むことしかできなかった駒を横に滑らせる。




 ベチャ。とひとつ音を立てて、鉛色の塊が倒れ伏す。

 ああそうだ。此処《ここ》は水路。ノイシュタインから遠く離れた、ロンダヴェルグの地下水路だ。
 光も椅子もチェス盤もない。あるわけがない。
 あたしは……夢でも見ていたのだろうか。
 ルチナリスは少女を抱え込んだまま、目の前の、人の姿すらとっていない異形のものに目を向ける。

 これもこの街の住人が変わった姿なのだろうか。剣士亭で変わった冒険者たちは異形ではあるが頭も手足の数も同じだった。なのにこれは手も足もない。何もかもが溶けてひとつの塊になって、その上に頭だけが――髪も目鼻もなくなっているのに――溶けずに突き出ている。
 時間が経過するとこうなるのだろうか。街路を歩いていた悪魔たちも今頃はドロドロに溶けてひとつになって……とてもヴァンパイアとは言えない。ヴァンパイアからはほど遠い。

 そう思っている間にも、その異形は徐々に縮み始める。そして最後には剣士亭でミルが切った化け物のように、人の姿に――。

「女の人……」

 そこに倒れているのは紛《まぎ》れもなく女性。陽のあたる台所で家族のためにミートパイでも焼いていそうな、そんな感じの女性だ。ぱっくりと開いた首の裂け目が生々しい。
 襲いかかって来る、という凶暴性から無意識に連想していたのか、化け物は男性だと思っていた。
 最初に立て続けに男性冒険者が変化するところを見たからかもしれないし、変化後の姿に似ていたガーゴイルの一人称が「俺」だったからかもしれない。
 極端に女性が少ない街と言うわけでもないのだから半分の確率で女性だ。それはわかっていたのだけれど。それでも。


「無事か?」
「は、はい、ありがとうございます」

 近付いて来る人に何処《どこ》となく義兄《あに》の姿が重なって見えたのは、こんな状況に駆けつけてくれる人が義兄《あに》だけだからだろうか。もう来ないと何度も繰り返してきたのに、心の何処《どこ》かでは義兄《あに》が来てくれることを待っていたからだろうか。
 でも、義兄《あに》ではない。
 その人は血を払うように剣を振り、鞘に納める。見覚えのある焦げ茶の騎士服はどれだけの返り血を浴びたのか、赤黒く染まっている。淡い金髪も、ところどころ黒ずんだ何かがこびり付いている。

「拾いものをする余裕まであるのか」

 ミルはルチナリスの首にしがみついたままの少女を見下ろした。

「だ、だって、こんなところにひとりで置いて行けないじゃないですか! 生存者は助けるんでしょ?」

 そんな減らず口が飛び出したのは、ミルが無事だったことへの安堵からか。それとも亡くなった女性への罪悪感からか。少女の手前、叱られるばかりの自分ではないと――少しでもいいところを見せたかったからだろうか。
 口を尖らせるルチナリスにミルは何か言いたげな顔をする。しかしそのまま背を向けた。

「……行くぞ」

 足下《あしもと》に転がっていたランタンを拾い上げ、ミルは前方を照らした。




 曲がり角をいくつも曲がる。
 塔に行くには水の流れに逆らうはずだから、とずっと真っ直ぐに進んできたが、やはり何処《どこ》かで間違えていたらしい。少女もミルも咎《とが》めはしないが、だからこそ自分《ルチナリス》の不甲斐なさを実感する。

 こつり。こつり。こつり。
 足音が響く。ミルがいるから悪魔が出て来ても安心だけれども、それでも出会わないに越したことはない。ルチナリスは暗闇に目を凝らし、耳をそばだてる。
 悪魔の足音を聞き洩らさないように。
 壁と同化した「何か」を、今度こそは見過ごさないように。


 そして、とある梯子《はしご》まで来るとミルは足を止めた。ランタンをルチナリスに預けると、無言で梯子《はしご》を上っていく。警戒するように薄く蓋を開ける。
 蓋の隙間から漏れ出た光が水路を照らし出す。
 ほんの僅《わず》かな光なのに、とてつもなく眩しい。



 重い音を立てて蓋を押し上げたミルに続いて、少女、そしてルチナリスも外に出た。どれほどの時間、水路を彷徨《さまよ》っていたのか、きっとそれほど長い時間は経《た》っていないだろうに空気が清々《すがすが》しい。

 梯子《はしご》を上って出たのは、塔の内部。例の螺旋階段の上り口付近だった。
 改めて見ると、ミルの返り血はかなり|酷《ひど》い。そして自分たちも泥だらけだ。
 服の汚れを払いつつ、掌《てのひら》が紅く染まっているのを見てギョッとする。梯子《はしご》の錆《さ》びだろうか。鉄の臭いがする。

 ふう、と息をついたルチナリスの横でミルは周囲を見回す。

「誰も、いないな」

 張りつめたその声に、やっと一息つけたと思っていたルチナリスにも再び緊張が走った。

 おかしい。
 観光客から神官まで、ここには大勢の人がいたはずだ。門を閉めようにも扉すらないこの塔には、外からやって来る者を遮《さえぎ》る手立ても、中から出ようとする者を止める手立てもない。
 それに悪魔が襲って来たのだ。避難してくる人々も大勢いるだろう。誰もいないというのは解《げ》せない。
 此処《ここ》には司教がいる。
 教会関係者も大勢いる。
 彼らを守るために避難して来た人々を閉め出したのだとしても、元から此処《ここ》にいるはずの人々までいないというのはどういうことだろう。

 足音はしない。
 血の臭いもしない。
 倒れている人影もない。
 だからこそ余計にうすら寒い違和感を感じる。まるで、何もかもが手遅れだったような……。




「お姉ちゃん、お腹《なか》すいた」

 塔に到着したことで安心したのだろうか。少女がルチナリスの手を引っ張った。
 ずっと暗い水路を歩いてきたのだし、途中で化け物にも遭遇したし、塔まで行けば安心だとも言ったし、塔は死体のひとつもなく綺麗なままだし、だから無事に辿り着いた=《イコール》これでおしまい。という心情になるのは当然のことだ。ミルやルチナリスが感じた違和感も、悪魔《危険》とは無縁だった一般住民には感じられないに違いない。
 でも。

「ごめんね、お姉ちゃん何も持ってないの。もう少し待ってくれる?」
「えー」

 唇を尖らせてあからさまに機嫌が悪くなる少女に、わがままが言えるくらい慣れてくれたのだろうと思う反面、イラッとする。
 あぁ、やっぱり子供ってわがままだ。
 数か月前、ノイシュタイン城で世話をした幼女のことを思い出す。彼女の世話をすると言ったこと、彼女を庇って義兄《あに》が怪我をしたこと、その責任を負わされて城を追い出されたこと。……思えば、あれが義兄《あに》に会った最後だった。

 執事に抱えられたまま意識を失くしていた義兄《あに》の白い顔が、ぽたりと滴り落ちる紅い血が思い起こされる。
 義兄《あに》の怪我は治ったのだろうか。
 まだ魔界で治療しているのだろうか。魔界には当然、魔族用の医者もいるだろうし、あの眠り病も良くなっていればいいのだが。

「お腹《なか》すいた」
「だから、」

 だが、少女の声は否応《いやおう》なくルチナリスを現実に引き戻す。
 握られた手が痛い。思いに耽《ふけ》ることも許されない現実に心も痛い。
 そりゃああたしは聖女候補だし、年長者だし、少女を守る義務もあると思ったけれど、それはこの少女を優先的に考えるという意味じゃない。あたしはあんたのママじゃないの。空腹なのもあんたひとりじゃないの。まだ安全と決まったわけじゃないの。だから少しはおとなしくしてて――!

「……お姉ちゃん、おいしそうね」

 だが。
 ふいに声色の変わった少女の声に、ルチナリスの思考が止まった。見下ろせば、手を握ったまま少女が笑っている。弧を描いた口元は悪意すら感じる。

 先ほど、わがままだと思っていたことが伝わってしまったのだろうか。だからこんな顔をしているのだろうか。
 その笑みに、ノイシュタインで世話をした幼女を思う。
 義兄《あに》を取られると思ったこと。いいところを見せようと思ったこと。自分があの城に居続けるために幼女を利用しようとしたこと。それを察していたのか、彼女は最後までルチナリスには懐かなかった。
 その敵意を、また。

 ……違う。

「え?」

 ルチナリスは息を呑んだ。
 目の前で少女の姿が変わって行く。肌の色は鉛のように黒く、爪はどんなものでもひっかけられるくらいに長く。
 口は裂け、そこから牙が覗く。
 少し前屈《かが》みの体勢で、少女は顔だけをルチナリスに向けるとニタリと笑った。口元から黒い霧のようなものが漏れる。

 何時《いつ》の間に襲われたのだろう。
 いや、もしかしたら出会うより前に襲われていたのかもしれない。
 
「……お腹がすいたの。お姉ちゃん」

 少女は長い爪をルチナリスの袖に引っかけるようにして腕を掴んだ。
 先ほど「怪我をしているから」と後ろに隠した掌《てのひら》に、赤黒い膿《うみ》のような塊が見えた。

 鳩に突《つつ》かれた時の傷はそれほど深いものではなかった。
 しかしその傷は、治るどころかもっと醜く、大きくなっている。

 ――あの傷は、何?

 まるで意思があるかのように、グチュリ、と動いた膿《うみ》を見、ルチナリスは総毛《そうけ》だった。
 これはただの怪我ではない。


「ママはすぐに食べるものを探してくれたよ? さっきも、」
「さっき?」

 この少女に出会ってから此処《ここ》に連れて来るまでに彼女の母親らしき人には会わなかった。遭ったのは、ドロリと形の崩れた、おぞまし過ぎる形状の化け物。
 ミルに倒されて戻った姿は……。

「ママはずうっと太ったわ、って言ってたの。もう少し痩《や》せていれば早く動けて、切られなかったのに」

 この子の、「ママ」は……?

 裂けた口が笑いの形をとる。真っ赤に染まった口の中が見える。


 でもどうして?
 この子は人間だった。ずっとロンダヴェルグの中にいた。
 悪魔はこの街には入れない。だから彼女は悪魔ではない。悪魔ではないけれど、剣士亭を襲った冒険者のように、水路で出会った彼女のママのように、悪魔に変化してしまったと考えるのが妥当だ。
 噛まれて?
 噛まれ……突《つつ》かれ、て……?

 そうだ。最初の悪魔は悪魔の姿ではなかったのかもしれない。
 鳩が飛んできたって誰も何とも思わない。
 でも、もしその鳩がただの鳩ではなかったら?
 もしそれがただ餌を取る勢いが良すぎて突《つつ》かれた、のではなく、血を吸う、もしくは悪魔に変化するための素を入れることが本来の目的だったとしたら? 

 そんなことはあり得ない。だって鳩だって悪魔なら入れるはずがないもの。
 そう思いたいのに、目の前に|紛《まぎ》れもない事実が立ち塞がる。
 悪魔は入れない。でも師匠《アンリ》のように近付ける|悪魔《魔族》もいる。執事《グラウス》のことを純血と言っていたから、きっと師匠《アンリ》は魔族以外の血も継いでいる。
 ハーフかクォーターかはわからないけれど、師匠《アンリ》で爪先で火花が散る程度。だとしたら、もっと血が薄ければ……例えば操られている程度とか、嘴《くちばし》に悪魔の素を持っている程度なら通り抜けられるのではないのだろうか。
 この子は、そんな鳩に突《つつ》かれたのではないだろうか。
 だとしたら。
 この子が最初のひとり。水路で出会ったこの子のママは……この子に襲われて、そして、

「そいつから離れろ!」

 背中でミルの声がしたと同時に、少女の足が床を蹴った。
 腕を掴《つか》んでいないほうの手が閃《ひらめ》き、長い爪がルチナリスの咽喉《のど》を掠《かす》る。鋭い痛みと共に血が散った。
 ぐらりとバランスを崩して倒れかけたルチナリスの肩にミルの手がかかった。と思う間もなく、肩を踏み台代わりにしてルチナリスを飛び越える。空中で剣を抜き、両手で握り、ミルはそのまま少女であったものを突き刺した。

「浄化《フェブルオ》!」

 ミルが短く叫ぶと剣が白い光を放つ。少女の口元から紅《あか》い泡が噴き出す。
 目や耳や、指の先が崩れるように黒い霧が溢れていく。

「お、ネェ……チャ」

 少女であったものは最後までルチナリスのほうに手を伸ばしたまま、どう、と床に崩れ落ちた。




 くすんだ灰褐色の髪に結ばれた黄色い紐《ひも》がやけに目についた。
 次いで子供特有の骨っぽい手足。|自分《ルチナリス》に向けて伸ばされた爪の先端に付いた赤黒い汚れは、喉を|掠《かす》った時についた血だろう。
 掠《かす》った。
 そうだ、掠《かす》ったのだ。あたしは彼女の攻撃を受けてしまった。
 噛まれたわけではないから大丈夫……かどうかはわからない。これから悪魔に変化するかもしれない。そんな恐怖が今更ながらに沸いてくる。起こってしまったことはどうしようもない、とか、少女を連れて来たのは自分なんだから自業自得だと言われればそれまでなのだけれども、それでもどうにかしたくて、どうにもならなくて、何もなければいいと願って。

 以前、第二夫人に会った時、人間でも魔族《悪魔》になる術《すべ》があことを知った。何時《いつ》までも若い姿のまま長い年月を生きる義兄《あに》や執事と同じものになれると、その時は心が躍った。
 なのに。あんな化け物になるだなんて思いもしなくて、嫌悪すら感じている自分に……望んでいたくせにあっさり掌《てのひら》を返した自分が信じられなくて、嫌気がさして。

 この子が水路にいたのは逃げてきたのではなくて待ち伏せていたのではないのだろうか。化け物と化した母親に対して全く動じなかったあたり、あの母親を手にかけたのもこの少女だったのではないのだろうか。そんなことにも気づかずに「この子を守ることが自分の使命だ」と思って、勇気づけようと声をかけて。そんなあたしをこの子は後ろから笑っていたのかと思うと悔しくて。魔族《悪魔》を信じていた気持ちまでも裏切られたようで。

 義兄《あに》も懐くあたしを心の中では笑っていたのだろうか。執事もそうなのだろうか。師匠《アンリ》もアイリスも柘榴《ざくろ》も。
 憶測は際限なく広がっていく。暴風と高波に振り回されるだけの小舟のように、右から左から打ちつけられる嫌悪に怨みに羞恥に猜疑《さいぎ》に後悔に、頭の中を掻き回される。


「知らない奴《やつ》は子供だろうがなんだろうが敵だ。特に今のような状態では疑ってかかるべきだろう」

 そんな声を背に受けつつ、ルチナリスは倒れている少女の傍《かたわ》らに屈《かが》み込む。
 今やその何処《どこ》にも悪魔だった形跡は残っていない。

 再会した時にミルが何か言いたげな顔をしたのはこのことだったのだろうか。
 何も言わなかったのは呆れたからだろうか。
 実力がないくせに聖女候補だなんて言われて自惚《うぬぼ》れて、なのに口先では「聖女になんかなれない云々《うんぬん》」と謙虚《けんきょ》さを訴えるあたしをどう見ていたのだろう。
 彼女があたしを守るのは仕事だからで、あたしに守る価値があるからではない。
 だって、何もできないもの。余計なことしかしないもの。水路にひとりで現れた子供を疑いもしない馬鹿なんだもの。鳩に突《つつ》かれたって、ただ「怪我しちゃったね」しか思わないんだもの。
 聖女候補が聞いて呆れる。


「周りから聖女だ聖女だと担《かつ》ぎ上げられて特別になっていたつもりなら、お前は他の娘と同じだ。その子が悪魔になることも見越して先回りできる奴《やつ》など何処《どこ》にもいない。聖女でもだ」

 冷たく言い放たれた言葉が胸に刺さる。
 俯《うつむ》いたままのルチナリスを一瞥《いちべつ》し、ミルは剣を一振りして血糊を払うと鞘《さや》に納める。それからおもむろにルチナリスの隣に片膝をついた。

「祈ってやれ。その子のために」
「……あたしを騙した子の、ために?」
「この子のために泣いてやれるのはお前しか残っていない。死した時に誰かが自分のために泣いてくれる。自分の冥福を祈ってくれる。それがあるのとないのとでは死出の旅路も大違いだろう」

 そうは言うけれど。
 あたしはそこまで人間ができてはいない。騙されれば悔しいし、この子とそう親しいわけでもないし、我が儘に振り回されてイラッとしたし、だからむしろ心の何処《どこ》かで「いい気味だ」と思っているくらいだし。それにあたしは聖女じゃない。
 でも。

 震える両手を胸の前で組む。
 祈るふりでいい子ぶろうとする自分はどうしようもない偽善者で、そんな嘘の塊に祈られたところでこの子が救われるとは到底思えない。震えているのだって恐怖でも悲しみでもなく、怒り。
 こんな思いで祈ったところで死出の旅路が良くなるはずがない。なのに祈る。言われたから、これ以上嫌われたくないから祈る。あたし最低だわ。

 視界が滲んだ。
 この涙をミルはきっといい意味で取っているだろう。そう思うと情けなかった。




「とりあえず悪魔の気配はないようだし、お前は此処《ここ》で待ってるか? ティルファもいるし、結界も此処《ここ》よりずっと強固だ」

 祈り終わってしばらくして。そう言いながらミルは上を見上げた。
 あたしが安全なところに避難していれば彼女は街に散らばる悪魔を倒しに行ける。師匠《アンリ》が「ロンダヴェルグにいてくれたほうが安心できる」と言ったように、あたしのことに気を散らさずに済む。

「ティルファは結晶の間にいるだろう。あれがロンダヴェルグの要《かなめ》だからな」
「要《かなめ》?」

 埋めることもできないまま、少女の亡骸は床に横たえられている。
 彼女を放置したまま別の話題に移ろうとしていることに罪悪感を覚えながら、それでももう終わったこととしてミルの話に耳を傾けようとする自分は何と浅ましいのだろう。

「聞いていなかったか? あの結晶には大地の精霊メイシアの力と、歴代の聖女の力が封じてある。ロンダヴェルグの結界の基《もと》だ」

 あの結晶の色が変わった時、司教《ティルファ》はあたしの色だと言ったが……あの結晶が反応したから何の力もないあたしを推《お》すことにしたのだろうか。なんてことを思いながら、ルチナリスもミルに倣《なら》って上を見上げた。
 遥か上まで突き抜けている。
 上のほうが明るく感じるのは窓でもあるのかもしれない。

 その上のほうに何かが見えた。
 白い光と白い壁に溶け込んでいたそれは、ひらり、ひらり、と下りて来るにつれ形を現す。

「あれは」

 あれは、鳥の羽根。
 鳩だろうか。クルルル、と鳴く声はするが姿は見えない。



『――勝ちに行くためにはどうすればいいと思いますか?』


 少し前に見た白昼夢が思い起こされた。
 何故《なぜ》何の前振りもなくあんな夢を見たのだろうと思っていたけれど。


『相手の戦力を削ぐことです』


 床に落ちた鳥の羽根は、艶のある黒い床の上ではよく映える。



 この街には多くの冒険者が集っていた。
 対魔族専用に訓練された騎士団もいた。
 高い外壁に囲まれ、夜も見張りがいて、結界もあって。だからこの街に住む人々は危機意識が薄い。
 危機意識の薄い人間は狩りやすいだろう。だが結界が張り巡らされた此処《ここ》よりも狩り易い「結界のない土地」はいくらでもある。ノイシュタインのように。

 わざわざ鳩に仕掛けまでして混乱を起こして。人間を化け物に変えて。
 この街を襲った目的は――。


 この塔を初めて見た時に思った。此処《ここ》は無防備すぎる。偉い人の命をちらつかせれば、信者など意のままに動かせる。と。
 ましてや司教はこの街の結界を――結界の基《もと》となる結晶を守っている。
 結晶が壊されればきっとこの街の結界もただでは済むまい。人間狩りが横行している他の町と同様に、此処《ここ》も悪魔の脅威に晒《さら》されるであろうことは間違いない。
 そう。此処《ここ》は卵と同じ。
 堅く守っている殻が割れれば、柔らかい中身はすぐに流れ落ちてしまう。流れて、失われてしまう。

 魔族が近寄ることが出来ない唯一の街と言われているロンダヴェルグがもし堕《お》ちたなら。
 この街は要《かなめ》。要《かなめ》を失った扇子がバラバラになるように、他の町の魔族《悪魔》への士気も総じて落ちることだろう。


 ――目的は、人間狩りじゃない。




 ルチナリスは床に倒れたままの少女の亡骸にもう1度目を向ける。
 
「ねぇ、ミルさん」

 あたしは弱い。
 チェスでいけばポーン。一番最初に倒されてしまう駒。

「今回の魔族の目的って何だと思いますか?」
「人間狩り……ではなさそうだな。連中が悪魔《同類》と化した奴《やつ》は食料としてなど見ないだろう、と言うのはこちら側の倫理に基づいた見解でしかないかもしれないが」
「悪魔化しても食べられるのか、とか、死んだら元の姿に戻るから大丈夫だとか、そういうことはあたしにもわかりません。
 でももし人間狩りなら、極力人間は生かして連れて行くと思うんです。生きていれば自力で歩かせることができる。あたしが捕まった時はそうでした」

 でもその弱いポーンにも出来ることはあるはず。
 考えるだけでもできるはず。
 力がなくても、考えることはできる。勇者はあたしのことを考えすぎると言ったけれど、それすら手放したらあたしじゃない。
 あの子のために祈ることは心が邪魔をするけれど、原因を突き止めることができれば、解決できれば、それはあたしなりの供養になる気もする。
 あの子は悪魔になりたくてなったわけじゃない。だからあの子もきっと喜んでくれる。


「街を混乱させて戦える人たちをみんな外に出してしまって、そしたら此処《ここ》はティルファ様だけになるんですよね」

 見上げても天井など見えない。
 果てのない、天まで届きそうなその空間を縦横無尽に白い鳩が飛んでいる。まるでその空間を占拠したと言わんばかりに。

「だが此処《ここ》の結界は街全体のものよりも強固だ。それにティルファ自身も強い。見た目は頼りないし腕っぷしも全くだが、魔力は魔族並みにあると聞いている」
「でも悪魔と戦ったことはない。ですよね」
「何が言いたい」
「ティルファ様だけじゃない。この街は悪魔に襲われたことがない。悪魔を知らない。他所《よそ》に悪魔が出たって情報を受けて出向いても着いた頃には終わっていて。騎士団の武器も悪魔用に開発したって言うけれど、それ、実戦で使ったことって何回あります?」

 魔族はシナリオどおりにダンジョンで待ち構えているだけの敵ではない。
 何度遭《あ》っても「同じ力で」出迎え、こちらが成長すれば、回復薬を大量に使えば、そうすれば何時《いつ》かは倒せるなんて甘いものでもない。

「魔族は進化します。敵対しているはずの人間の文化でも、使えるものは柔軟に吸収する。人間と同じように考えるんです。戦い方も変えるんです」

 現に義兄《あに》がそうだ。
 女体化した期間、彼は戦い方まで変えていた。正面から出迎えるのではなく、勇者を騙して油断させたところで叩いていた。魔王は椅子に座って待っているとか、煙の中から出てくる演出があるとか、ズラズラしたマントがなびいているとか、そんなことは全くなかった。

「なのに此処《ここ》はティルファ様ひとりでも大丈夫だと思ってる。みんなも、本人も」

 この塔は、既《すで》に入り込まれている。
 でも皆大丈夫だと思っている。此処《ここ》はもう人の気配などないのに、外で戦っている人たちも此処《ここ》へ避難しようとしている人たちもそれを知らない。

「奴《やつ》らの目的は、」
「……結晶」

 守っているのは、司教ひとり。


 ルチナリスは階段を駆け上がった。ミルがそれを追う。
 以前、司教《ティルファ》に案内された記憶を辿り、8階付近の壁を探る。少しだけ他の壁より浮いている場所を叩く。
 外れかけていたのだろうか、軽く叩いただけで壁はぽっかりと四角く切り取られた。




 その部屋はまるで様相が違った。きっと部屋の中央を占めていた結晶がなくなっているからだろう。そこには結晶を支えていた台座だけが残されている。
 前に見た時は赤や緑に色を変えていたその結晶は砕かれて無色のまま床に散らばっている。ルチナリスが近付いてもその色を変えることはない。
 結晶から壁に向かって無数に伸びていたチューブはところどころ引き|千切《ちぎ》られ、ソロネが火の輪を投げつけて切り刻んだ黒い蔓を思い起こさせる。

 そのチューブと結晶の破片に塗《まみ》れて、桃色の髪が見えた。大きな破片が圧《の》し掛かっている。

「ティルファ様!」

 ルチナリスは駈け寄ると破片をに手をかけた。だが、押してもびくともしない。それどころか重みが体にかかるのだろうか、下敷きになった司教《ティルファ》の口から苦しげな呻《うめ》き声が漏れる。
 ミルは剣を抜くと鞘《さや》ごと破片の下に差し込んだ。梃子《てこ》の原理で破片を動かそうとする。

 くるるる、と鳴く声に顔を上げると、窓枠にびっしりと鳩が並んでいる。
 部屋に入った時にはいなかったはずなのに。

 何時《いつ》の間に。

 平和の象徴であるはずのその鳥は、禍々《まがまが》しい紅《あか》い目を、一斉《いっせい》に招かれざる客人に向ける。
 監視しているのか。襲うつもりなのか。今此処《ここ》で攻撃されてもルチナリスもミルも反撃はできない。手を離せば中途半端にバランスを変えた破片が再び司教《ティルファ》の上に圧《の》し掛かるだろう。場合によっては圧死する危険もある。


「……逃げな、さ、」

 司教《ティルファ》がルチナリスに気付いて声を上げる。

「大丈夫です! もうちょっとで動きますから、頑張っ」

 はげましの声は最後まで言い切ることができなかった。
 ミルの剣戟《けんげき》にも似た風がルチナリスたちを吹き飛ばしたのだ。壁に叩きつけられたルチナリスの視界に傾《かし》ぐ破片が見える。ミリミリと軋《きし》む音は何の音だろう。司教《ティルファ》の体に破片が食い込む音でなければ……と、そんなことを思う。

 そして。
 その視界で何かが動いた。
 影のような、真っ黒なもの。

「…………シェリー……」

 微《かす》かに聞こえた司教《ティルファ》の声に、壁に打ち付けられた痛みも忘れてルチナリスは顔を上げた。
 それは誰の名前? もしかして、

 だが。

 その影が見せつけるように司教《ティルファ》の背を踏みつけたことで、全てが止まった。
 ゴキッ、と嫌な音が響く。窓に並んでいた鳩が一斉に飛び立った。

 風が舞う。
 差し込む光がその影を照らし出す。

 いや、影じゃない。
 風になびく黒い髪。暗くて深い、蒼の瞳。


 ……あれは。


 その人は、ルチナリスを見ると薄く笑った。



「何ぼんやりとしているルチナリス!」

 ミルに腕を掴《つか》まれて後ろに投げ飛ばされた。
 数秒の差で、たった今までルチナリスがいた場所を黒い風が襲う。

 風が吹き抜けた後に残っているのはバッサリと裂けた床。ミルに引っ張られるのが少しでも遅ければルチナリスの体が床のようになっていた。
 でも。

 今の……は。

 舞うように左手を閃《ひらめ》かせたその人を、ルチナリスは呆然と見上げた。

 ……今の、あたしを狙ったの?


 艶然《えんぜん》とした、それでいて凄惨《せいさん》さも感じられる笑み。自分が知っているはずのその人は、そんな笑い方などしなかった。戦いの場にいてさえ、そんな顔はしなかった。

 再び、ゆっくりと手が上がる。
 指先を軽く鳴らすとその腕から黒い花弁《はなびら》が舞い上がった。花弁《はなびら》を舞い上げた風がその髪を乱す。
 

 笑ってくれたらもう1度頑張れる。そう思った。
 でも、あたしが見たかったのはそんな笑みじゃない。
 そんな、違う……。
 

「こんなところまで入り込むとは、なめられたものだ」

 ミルは剣を抜く。
 侮蔑《ぶべつ》とも取れる冷淡な笑みを浮かべたその人に向かって、焦げ茶と紺の影が飛び込んで行く。


 ミルさん。
 やめて。
 やめて。その人は。


 その人、は。


「やめてぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 叫びと共に、一瞬にして部屋が白い光に包まれた。