22-16 月を想う~Ballata Popolare~




 窓の外には抜けるような青空が広がっている。
 歪《ゆが》んだ硝子《ガラス》越しでも、その青さは変わらない。高い城壁に遮られているので此処《ここ》からその様子を見ることは叶わないが、この城の前に広がる町からも、その先にある森からも、それよりもっと先からでも同じようにこの空を見上げることができるだろう。
 グラウスは書類整理の手を止めて、暫《しば》し、その青に視線を送る。

 青は青藍の色。
 紅《あか》は紅竜を、緑は家そのものに仕える使用人を表す。
 他の家ではどうだか知らないが、この家ではそう色分けされていた。安直な分け方だとは思うが変に捻《ひね》るよりもわかりやすいし……青は、好きだ。


 だが、これまで3度この城を訪れて3度とも夜だったせいか、または此処《ここ》で出会った人が月の象徴のような人だったからか、明るい青空がこの城を覆《おお》うことに酷《ひど》く違和感を感じる。まるで平行世界《パラレルワールド》に入り込んでしまったような……実際、貴族社会に君臨していた前当主も、長い間生死不明とされてきた前々当主も、その奥方も、そして兵士や使用人も半数以上が消えてしまったのだから、別の城と言ってしまっても過言ではない。
 それだけではなく前当主の婚儀に出席するために訪れていた客人も、あの日を境に、両手両足の指以上の人数が消えてしまった。
 が、そこは、前当主が気に入らない者は悉《ことごと》く処分する過去持ちだったことが幸いした。いや、幸いと言うのは不謹慎かもしれないが、そのせいで今回もそう思われたらしい。彼《前当主》を恐れるあまり誰ひとり深く追求して来なかった。
 こちら側にとっては歓迎する展開だが、身内がこの城で行方をくらましたのに黙り込んでいる人々を見ると、まだ闇の呪縛から逃れられないのだろうか、紅竜《前当主》に未《いま》だ妄信的に従っているのだろうか、と疑わしくも思う。


 この城に巣食っていた過去の闇は紅竜と共に消え去った。
 だが闇はまだ残っている。

 本体――この城に封印されていた闇――は、世界各地に散らせた末端から送り続けられる負の感情によって無尽蔵に力を使うことができたらしい。此処《ここ》でどれだけ弱らせたところで、補給路を絶たなければあっけなく回復してしまう。消耗戦になればこちらに勝機はない。
 だから闇を消し去るには、本体とそれ以外を切り離す必要があった。アイリスが精霊たちと描いた魔法陣がそれだ。

 結果として本体を消すことには成功した。
 しかし、切り離された末端は世界中に点在したままだ。

『闇とは元々、人の心の中にあるもの。本体のように人々の心から抽出《ちゅうしゅつ》し、集めて巨大化させたりしなければ、個々で処理できる範疇《はんちゅう》のものだから、あったところで心配はいらない』

 と言うのが犀《さい》を始めとする上層部の見解だが、これ以上は手の施《ほどこ》しようがないから、7割でも成功と見なして終止符を打った、としか思えないのは自分だけだろうか。

 多くの魔界貴族が未《いま》だに紅竜を崇拝《すうはい》しているのも、時が経《た》てば薄れる。
 人間界や精霊界に残った闇も同じように薄れる。
 今は7割かもしれないが、時間《とき》が10割にしてくれる。
 だからそれまでの間――紅竜の存在が貴族社会に影響を及ぼしている間――は彼《紅竜》だけは生存していることにする、と取り決められたのは数ヵ月前。ルチナリスたちが去って間もなくのことだ。
 大悪魔と恐れられていた前々当主もその死は長く隠されていた。この家を攻撃すれば返り討ちに遭《あ》うだけだ、と、他家を牽制《けんせい》するために。
 その策を使った紅竜《前当主》が今回、同じ役を負《お》ったことには因果を感じずにはいられない。



 あれほどまでに大きな闇に呑まれたことも、消した後のことも前例はない。
 時間が経《た》てば闇の影響も薄れるから、と楽観視できる根拠も何処《どこ》にもない。
 中途半端に残すことで第、第3の闇が、そして紅竜が現れないとも知れない。

 しかし、闇を完全に消し去ることに拘《こだわ》れば、命を落とすのは青藍だ。
 今でこそ生き残ったものの、彼こそが闇を消滅させるための鍵《キー》。肉親であるはずの第二夫人と前々当主でさえ彼を「消滅させるための道具」として使ったのに、血の繋《つな》がりすらない人々が彼をどう扱うか。
 今回は運よく生き延びただけ。運よくルチナリスやエリック、そしてジルフェやメイシアが揃い、運よく、ダイス《サイコロ》の目が「生き残る」と出ただけ。次回に彼らが雁首《がんくび》を揃えていたとしても、同じ結果にはならない。
 結果だけ知り得た輩《やから》にはそれがわからない。ひとりの命で万人が助かるのなら、なんて偽善者ぶった顔で言って来やがったら問答無用で噛み殺すつもりではいるけれど。





「でもねぇ。こういう結末になるとはちょーっと予想しなかったわよぅ」

 長椅子を占領し、菓子を噛み砕きながらそんなことを言っているのはメイド姿のガーゴイルだ。此処《ここ》に来れば食べ物にありつけると知ったのか、10時と3時になると何時《いつ》の間にやら現れる。
 ノイシュタイン城にいた連中と構造は同じだと言っていたから、この時間、此処《ここ》に菓子があることはこの城のガーゴイル全員に知れ渡っていることだろう。なのに1匹しか来ないのは新たな当主に遠慮があるのか、いや、集団で押しかけて出入り禁止にされないよう、裏で来る順番を決めているに違いない。

 ちなみにその「新たな当主」は、今現在、席を外している。
 アクの強い連中が近くにいると毒されると言うから、不在を喜ぶべきだろう。品位のない食べ方も意味不明な女装も女言葉も伝染《うつ》ってほしくない。


「逆玉《逆玉の輿》ね、グラウス様」
「何がです?」
「やっだぁ、もう。坊《ぼん》がメフィストフェレスの当主になっちゃうのよぉん? その当主の専属執事よぉん? 山羊《ヤギ》の乳搾《しぼ》りで一生終わりそうな貧乏青年がよぉん? これを逆玉と言わずに、」
「私は一介《いっかい》の執事に過ぎませんよ」

 玉の輿とはそういう意味ではない。と言いたかったが止め、耳に残る奇妙な語尾を払い落とすように遮《さえぎ》るにとどめる。
 青藍に伝染《うつ》るのも困るが、その前に自分が伝染《うつ》りそうだ。ノイシュタイン城で「~っす」に10年間囲まれていたのに語尾が変わらなかったルチナリスを、今だけは尊敬できるかもしれない。



 日々は穏やかに過ぎていく。
 一夜にして君臨していた紅竜《当主》が消え、今まで彼《当主》の影でしかなかった弟がこの城を背負《せお》うことになり。
 20年以上行方不明だった元・陸戦部隊長が姿を見せ。
 代わりと言わんばかりに、何かにつけて異を唱え、言及してきた長老衆が姿を消し。
 家令職を拝命した元・執事長はしばしば体調不良を理由に表舞台に出てくることが少なくなった。
 昔から当主の命《めい》で城外に出ていたことが多かったので、彼《家令》に関しては何も影響などない、だそうだが、不在の皺寄せが当主専属執事である自分《グラウス》に集まって来ることは予想していなかったのだろうか。それとも任せるに値すると思われているから任されて《放置されて》いるのだろうか。1度、膝を詰めて問い質《ただ》したいが、多忙すぎて実現するのは数年先になりそうだ。


「ま、お茶でも飲んで一息いれましょ」

 ガーゴイルがポットを取り上げて手招く。
 首から下(袖口から先を除《のぞ》く)だけ見ればメイド服とティーポットの調和に不自然さなど微塵《みじん》も感じないが、あえて視界から外した部分がそれを補《おぎな》って余りある不自然さの塊だからどうしようもない。
 ついでに言えば、

「青藍様のために用意したものを私が飲むわけにはいきません」
「気にしないわよ、坊《ぼん》は」
「わ・た・し・が! 気にするんです!」

 そのお茶も、さっきからバリバリ噛み砕いて半量以下になってしまっている菓子も、貴様のために用意したのではないと、もう少し心に刻んでほしい。
 それは慣れない当主仕事で疲れ切って帰って来るであろう青藍のために用意したものなのだから。


 彼は、魔王と領主を10年も兼任していた。
 人の上に立つ技量はそれなりに身についていた。私のサポートなど必要ないほどに。
 しかし今はそうではない。
 彼の中には今まで生きてきた記憶はほとんど残ってはいない。兄《前当主》と出会う前の、ほんの10歳までの記憶が僅《わず》かに残るばかりだ。

 当主としての知識や戦闘の術《すべ》は、犀《さい》とアンリがもう一度教え直す。
 ヴァンパイアの長《おさ》も後見に付く。
 彼女《長》に関してのみ、当家が乗っ取られないよう注意を払う必要があるが……そうして周囲が支えていれば当主などただの飾りでも何とかなるし、紅竜が悉《ことごと》く人材を消しまくったせいで代わりに擁立《ようりつ》できる者もいない、となれば致し方ない。
 この家が潰れて消えてなくなることなど青藍は望んでいないから、私はその望みが叶うよう、助けるまでのことだ。
 私の望みを押し殺して。


「サポート役って。ははぁ、坊《ぼん》を自分好みに育てるつもりっすね」
「好みも何も、以前の青藍様に戻って頂くだけです」

 とは言え、数十年後、青藍がかつての彼に戻る可能性は0に等しい。
 消えた知識を補ったところで、彼の人格を形作っていた記憶が戻らなければ、同じ顔をした別人。魔王として、領主として、そして私の姫として現れたあの人《青藍》にはならない。
 あの人は……行ってしまった。あの兄《紅竜》と、共に。




 救い出した青藍は10歳前後までの記憶しか残っていなかった。
 記憶がボロボロと零《こぼ》れ落ちていたのはノイシュタインにいた頃から起きていたことで、魔界に連れ戻される時は魔王役として彼《か》の地にいた間のことは全て忘れてしまっていた。彼が自分《グラウス》のことを執事ではなく「兄上の夜会の席で出会った方」と称したことは、今でも忘れることができない。
 それから救出劇まで約1ヵ月。記憶が目減りしているのは想定の範囲だった。
 しかし減るのが早すぎる。同じペースで減り続ける保証など何処《どこ》にもないけれど、1ヵ月で数十年が消えるはずがないのだ本来なら。

 だから、そこから導き出される答えはひとつ。
 紅竜が消える時に青藍を、記憶を含めた彼らが出会ってから今までの時間を奪っていったということだ。


 そんなことができるかどうかなんて知らない。根拠も何もない。
 だがこうして手元に残されたのは「紅竜の存在を知らない青藍」で。

 命を持って行かれなかっただけ良い、なんて思えない。奪われた時間の中には私と出会ったあの夜もあった。私ひとりを逃がした後、幽閉されている間の日々もあった。
 暇を見つけては思い出話を聞かせているけれど、青藍の中ではその話は「私《グラウス》と誰か知らない人の思い出」でしかなく、消えてしまった自分《青藍》の過去と認識してくれたことは1度もない。


『それは! お前が何回も何回も言うから! だからっ、自分でもそんな気がするだけで……っ!』


 第二夫人の死を伝えた日、記憶について問い詰めた私に青藍はそう言った。
 知らない、と。
 覚えていない、と。
 知っているように見えるのは、私《グラウス》が語った思い出話を己《おのれ》の過去と混同して、無意識下に喋ってしまっただけだと。
 あの時はその回答では不満だった。完全に「青藍の過去」として思い出してほしかった。
 でもそれは過ぎた願いだったと今なら言える。どれだけ聞かせたところで混ざる過去がなければ、混同することすらないのだ。


『知らなければ、忘れてしまえば、その過去はなかったことになるのですか?』


 自分《グラウス》が青藍にそう言ったことを紅竜は知っていたのだろうか。
 紅竜自身が「忘れてしまえばその過去はなかったことになる」という持論を持っていたのか、そのつもりで私との過去を持ち去ったのかは、今となっては知る術《すべ》など何処《どこ》にもない。
 だが現実として青藍の中では同じことが起きている。忘れた過去は「他人のもの」として処理されてしまっている。


 上着のポケットを探り、硬い感触を確かめる。
 半分に割れてしまった耳飾り《イヤリング》の欠片《かけら》。もう半分をルチナリスに貸し与えたままになっているが、まさかこれが揃っていないから記憶が戻らないなんてことはないだろう。

 思えば、過去を思い出しかけた時はきまってこの耳飾り《イヤリング》が鳴る音がした。
 思い出せ、と私に訴えて来た。
 そのせいで私は離れている間も青藍を忘れたことなどなかったし、繋《つな》がっているとすら思えた。
 なのに。
 これを見せても当の本人は微笑《ほほえ》んで「大事な方から頂いたものですか?」なんて聞くだけで。



「あの踏んだり殴ったりする鬼畜に育て上げるつもり!? そんなに踏まれたいのぉん!?」

 私の答えにガーゴイルが目を丸くする。
 青藍がああもガサツな性格になったのは魔王役として戦闘漬けの毎日を過ごしていたせいだと思っていたが、この城にいた頃からそうだったのだろうか。アンリはともかく、犀《さい》や紅竜が黙っているとは思えないのだが。

「……私は踏まれたことはありません」
「……殴られたことならあるのね」

 それとも、ノイシュタイン城のガーゴイルたちの記憶で話をしているだけだろうか。
 こいつら《ガーゴイル》のように複数で同じ記憶を共有する機能でもついていれば、青藍も私を覚えていてくれたものを。


 今、此処《ここ》にいるのはあの人《青藍》の抜け殻。
 魔王であった記憶も、領主であった記憶もない、義妹《いもうと》も私も覚えていない、ほんの10歳の子供。

 知識はもう一度覚えればいい。
 彼《青藍》を師事した犀《さい》もアンリも残っている。元々覚えは良かったらしいから、数年もすれば能力は以前のレベルに戻るだろう。
 だが記憶は。

 彼は知らない。
 自分に兄がいたことも。
 兄に連れ出された夜会で私と会ったことも。
 人間の娘を拾い、10年も一緒にいたことも。
 教えたところでそれはもう他人の物語。あの人自身の記憶にはならない。


「ま、グラウス様じゃ、あの坊《ぼん》を作るのは難しいと思うわよぉん」

 耳をぴくぴくと動かしながらガーゴイルは扉に目を向ける。
 足音でも聞こえたのだろうか。書類整理の手を止めて耳を澄ませたものの、私の耳には何の変化も聞こえない。なのでガーゴイルに話の続きを促す。

「どういうことです?」
「だってグラウス様は坊《ぼん》を猫っかわいがりしてるもの。紅竜様みたいにもぉぉぉぉぉぉおっと虐《しいた》げないと、あんな歪んだ性格にはならないわよ」


 ずっとこの城にいた彼らは青藍を小さい頃から知っている。
 混血だと蔑《さげす》まれ、厭《いと》われ、そのくせ自分たちの目的の道具として利用しようとする人々の中での生活だ。魔界貴族の子息としての身分は保証されていたようだが、決して幸福なものでなかっただろう。
 それでも小さな幸福があったことは幾つか聞いている。乳母が用意してくれたツリーの星を取ろうとしたことを聞いた時は微笑《ほほ》ましさを感じずにはいられなかった。
 だがその乳母も最初は世話をすることを嫌がったと聞き。
 掌《てのひら》を返したように世話をしてくれたのは魔眼で魅了してしまったからだろう、とも聞き。
 与えられる愛情が全て魔眼に直結していると思うのもどうかと思ったが……胸の内で燻《くすぶ》っているこの想いも魔眼に作られたものかもしれないと思う自分がいるのも確かで、否定できなかった。


『その感情すら魔眼に植え付けられた偽りのものでしかないと言うのに』
『私の感情が偽りかどうかは私が決めます』


 光の柱の中で紅竜に指摘され、咄嗟《とっさ》に返した言葉は嘘ではない。それどころかどの面《つら》を下げて指摘できる、と言い返したかった。
 散々虐《しいた》げていたのはお前のくせに。
 青藍が離れないのはお前を消滅させるためでしかない。
 それまでも肩を持つ発言を何度か聞かされたことがあるけれど、それだって騙されているか、覚えていないか、それだけだ。第二夫人の葬儀の際にお前は何をした? 私は何度青藍に真実を教えてやりたいと思ったか。
 どんな手違いがあって人生を諦める気になったか知らないが、死ぬならひとりで死ね。青藍を巻き込むな。青藍はお前のものじゃない。お前の傍《そば》では幸せにはなれない。と。


『――大事な方から頂いたものですか?』

 ええ、大事な人です。その人は目の前にいます。
 そう言ったところで1ミリも伝わらないだろう。女装する趣味などないと機嫌を損ねられるか、誰かを重ねているだろうと思われて終わりだ。
 命だって賭けられるのに。しかし大樹にまで成長したその想いも、最初の種は青藍に植え付けられたものかもしれなくて。植え付けられなければこんな想いを抱くことはなかったのかもしれなくて。

 この想いは偽りか。
 何処《どこ》からが偽りか。

 以来、私の中では矛盾が矛と盾を持って一進一退を繰り返している。どちらが優勢になっても矛盾は矛盾のまま、変わることはない。


「んーんーんー? 矛盾してるわよグラウス様。元の坊《ぼん》に戻って頂くんじゃなかったの?」
「そうですよ」
「戻ってほしいのはどっちの坊《ぼん》? 鬼畜魔王様か、お姫様か」
「え……」

 何を言う。どちらも同じ青藍だろうに。違うのは最初の感情の出所が私の内から出たものか、植え付けられたものかの違いだけで、そこから育んだ想いは……いや、それこそが矛盾している。育んだ「それ」は誰に対してのものだ? 私が想うのはあの月の下にいた姫だったはずだ。なのに。
 反論もできず、グラウスは逃げるように新たな書類を1枚手に取る。
 隔《へだ》ての森の閉鎖状況の進捗《しんちょく》だ。実質、人間界で狩りができなくなるということは貴族の地盤が揺るぐことになるのだが、彼《か》の地に散った闇が隔《へだ》ての森を通じて魔界に戻ってくるかもしれないことを匂わせたら反対する者もいなかった、と聞いている。
 だが何処《どこ》まで閉じられるものか。
自分だけ利を得ようと抜け道を作る者は何処《どこ》にでもいる。ひとり見つかれば閉鎖に賛成していた者たちでさえ、我《われ》も我《われ》もと開きたがるだろう。
 発起人は青藍とアイリスの連名だが、いざという時の盾にされているようにしか思えない。

 全く、あの人は面倒ごとばかり引き受けて。
 その場には犀《さい》もいたそうだから青藍の不利益にならないように動いてくれると思うけれど、溜息の数は増えるばかりだ。


「このままじゃ真っ直ぐな愛情だけ受けて向日葵《ひまわり》みたいになっちゃうわよ?」 
「私の姫にすらなり得ないと、そう仰りたいのですか?」

 そしてこちらも。
 100歩譲ってあの一連の嫌がらせが愛情の裏返しだとしよう。そんな歪んだ愛情を受けて育てば、そりゃあ性格も複雑に捻《ひね》くれて当然だし、元の彼《姫》を形成するために同じように虐《しいたげ》げることができるかと問われれば、答えは否《いな》、でしかない。
 猫っかわいがりと言うのは言い過ぎだが、立場の違いもある。紅竜のように彼《青藍》を扱うことは感情面でも環境面でも私にはできない。
 自分にできなくても他の誰かにしてもらえば、とも思ったが……歪んでいようとも青藍に対して「愛情」と名のつく感情を向けられるのは不愉快だ。




 青藍は「自分が記憶を失くしている」ことは知っている。10歳までの記憶しかなくとも体は子供のものではないのだし、周囲の反応を見れば嫌でも察する。思い出そうと努力しているらしい素振りを見せたこともある。
 もし恋人だったと、将来を誓っていたと、そう伝えたらどう思うだろう。
 少なくとも今の青藍なら拒絶はしない。忘れてしまっていることを申し訳なく思い、少しでも「過去の関係」に戻れるよう気を遣《つか》ってくることは間違いない。
 だが。

 私から闇を引き抜いたせいで記憶を失ったのに、代わりに都合のいい嘘を教えて彼を手に入れようなどと……私にそんな資格はない。


「刷り込まれた偽物《ニセモノ》の愛じゃ、いずれ空《むな》しくなるだけよ。お互いにね」

 場末《ばすえ》の飲み屋の女主人《マダム》のような台詞《セリフ》を吐くのはメイド服の人外。
 いや、見た目で判断してはいけない。見た目はアレだが自分より長く生きているのだ。含蓄《がんちく》のある言葉のひとつやふたつ吐いたところでおかしくはない。おかしくはないが、受けを狙ったようにしか見えない輩《やから》に色恋沙汰で諭《さと》される図というのは、どうにも情けない。

 ――刷り込まれた偽物。

 その言葉に胸の奥が痛む。
 私の想いは魔眼に刷り込まれたものなのか? 偽物なのか? 偽物の想いに応《こた》えてもらったところで不幸が待っているだけなのか?

 ……不幸だろう。少なくとも青藍は。
 彼は決して同性愛主義者ではない。同性に対して恋愛感情を持ったことなどない。
 まして私は最後まで「友人」でしかなかった。
 もし彼が私を受け入れてくれたとしても、それは自分を殺し、感情を捨て、私への懺悔《ざんげ》に生きるということ。同じように想い返してくれることではない。


 ガーゴイルはテーブルの上に散らばる噛《か》み砕かれた焼き菓子《クッキー》の欠片《かけら》を指先に集め、ふっ、と吹く。女主人《マダム》が煙管《キセル》の煙を吹くような仕草だ。
 菓子屑《くず》にしては随分と鮮やかなオレンジ色をしているのは食用花を生地に貼り付けてあるから……はいいのだが、よく考えなくともゴミを撒き散らしているわけで。後で雑巾《ぞうきん》がけの刑に処《しょ》す必要がある、とグラウスはひそりと心に誓う。

 その花は金蓮花《ナスタチウム》と言うらしい。エルフガーデンの農家が茶葉と一緒に送ってきたのだと犀《さい》が言っていた。
 花言葉は「試練に勝つ」らしいが、何の試練に勝てと言うつもりやら。真意を聞けば嫌味で返って来そうなので聞いていない。


「あら、弱腰なんてグラウス様らしくもない。糖分が足りないんじゃない? はい」

 皿ごと差し出された焼き菓子《クッキー》は一瞥《いちべつ》しただけにとどめ、グラウスは窓に目を向ける。


『これ凄く甘かったよ。お前、甘いの好きなんだな』


 何時《いつ》の日か、青藍がそう言って焼き菓子を1枚差し出してきたことを思い出した。
 あの時は平和だった。こんな日が来るとは思ってもいなかった。青藍とルチナリスと自分《グラウス》の3人でずっと暮らしていくのだと思っていた。
 こんなに簡単に失ってしまう日々を、あの時はずっと。




「……ただいま戻りました」

 過去に思いを馳せるグラウスの耳に聞き慣れた声が届いた。
 見れば扉が薄く開き、隙間から中を窺《うかが》う人がいる。自分の部屋だと言うのに入ってこようとしないのは、ガーゴイルが我が物顔で居座っているからだろうか。それとも、意識を取り戻した時に抱きついてきた私を警戒してのことだろうか。

「お帰りなさい」
「た、ただいま、戻りまし……」

 語尾に行くにつれて声が小さくなっていくのはいつものことなのでもう慣れた。
 が、向こうは違うらしい。数週間が経《た》っているというのに一向に慣れてくれた気配がない。

「ほら、今の坊《ぼん》素直だもん。きっとほわわーんと育つわよぉ」


 そうだろうか。
 こんなに警戒されているのに?

 そのほわわーんと育つ予定の彼はガーゴイルにも軽く会釈をする。道端で演じている道化師を毎日見ていれば「奇妙な身なりをした胡散臭《うさんくさ》い者」から「楽しいことをしてくれそうな人」と認識が変わるように、ガーゴイルも「女装した化け物」から「面白そうな化け物」に変わっているとも考えられる。
 思えばガーゴイルにはルチナリスも懐いていたし、案外、奇怪な見た目のほうが子供受けするのかもしれない。
 今だって、私よりもガーゴイルを気を許せる相手と認識しているように見えて仕方がない。


「ま、これはこれでいいんじゃない? 素直でかわいいお姫様がお好みでしょ? グラウス様は」


 姿形は同じ。声も同じ。でも、ノイシュタインでの「彼《青藍》」とは全く違う。
 月の下で出会った「彼女」には似ているかもしれないが……彼女を思い出そうとする度《たび》に自分に背を向けて去っていく「彼」の姿がチラついて仕方がない。



「……如何《いかが》でしたか? 長老様方のお話は」

 気持ちを切り替え、抱えて来た書類の束を執務机に置いて息をつく青藍に、グラウスはお茶を差し出す。
 お茶菓子はガーゴイルが噛み砕いていたものと同じ金蓮花《ナスタチウム》の焼き菓子《クッキー》。青藍用に分けておいてよかった。最初に用意した分はもう数枚しか残っていない。
 花以外には装飾も何もない、素朴な部類に入る焼き菓子《クッキー》だが、こんなものでも過去の青藍なら甘いと言って来た。しかし今の彼は「いただきます」と小さく唱えて口にする。

 甘いものが苦手だと言うのも、後から付いた好みなのか。
 何時《いつ》、どんな切欠《きっかけ》で苦手になったのか、私は知らない。しかしこんな些細《ささい》な違いでも「別人」と認識してしまうには十分だ。


「お話より、人の名前を覚えるのが大変です」


 それでも時折《ときおり》、小動物のような笑みを見せるようになった。
 そんな顔を向けられれば尚更《なおさら》、心の奥底で「別人」と思っていることは知られてはいけないと思う。


 今日は、あの件で全員が失われた長老衆を新たに選出するのだと聞いている。
 当主が独裁に走らないよう、ご意見番が数人付くというシステム自体はいい。ただこんなものでも年功序列があるらしく、年かさのいった者たちが「次は私の番」と言っているのを聞くとうんざりする。
 「どれだけ生きたか」よりも「どう生きたか」が重要だろうに。
 紅竜《当主》を始めとする本家が闇に呑まれたことは大っぴらに言いふらすことではないが、彼《紅竜》の暴走を止めることもなく、前長老衆が消え失せても動かず、安全な今になって出て来る奴《やつ》らに偉そうに口を挟んでもらいたくない。
 というのが正直なところだが……彼らからしてみれば、犀《家令》や自分《専属執事》が青藍《当主》をいいように操つってこの家を乗っ取ろうとしているように見えるらしい。


「メフィストフェレスは古い家柄ですから一族も多いですしね。朝、お渡しした資料は重要度に合わせて並べてありますから、」

 好きで記憶をなくしたわけではない。
 それはわかっている。彼《青藍》の境遇を思えば、頼りにできる大人はひとりでも多いほうがいい。
 犀《さい》も自分も長老衆からすれば血を違える者《部外者》。血の濃さが重要度を占める貴族様がたからすれば信用度で劣る。どれだけ自分が悪く言われようとも、反論して無駄に敵対心を煽《あお》ることは青藍のためにならない。
 けれど。

 これは私のエゴだ。
 青藍に近付く者が全て醜《みにく》く見えるのは。近付いてほしくないと、悪意があると思うのは。



「はい。グラウスさんがまとめて下さったの、似顔絵も付いていてわかりやすいです。……助かります、いつも」
「敬語」
「はい?」
「敬、語」
「あ!すみま、……いえ……ごめん、つい、くせで」


 10歳の彼と言えば乳母から離され、本家に引き取られた頃。いきなり大勢の大人の中に放り込まれた頃だ。その中には混血が本家筋を名乗ることを良く思わない者もいただろうし、青藍は本家筋とは言え次男でしかないから、下出《したで》に出ろと、年長者には敬語を使っておけば間違いはないと教えた乳母(だろう)は悪くない。
 申し訳なさそうに下を向く青藍から見えないように、グラウスはそっと握り拳《こぶし》を握る。

 私が守ると誓った人は、この人であってこの人ではない。
 でも、それは言えない。


「……私には使わなくていいのですからね」


 身を屈《かが》めて。手を伸ばして。俯《うつむ》いてしまった彼の髪を指で梳《す》く。
 昔は彼のほうが自分の髪に手を伸ばしてきたものだ。そのたびに誇らしいような恥ずかしいような、それでいて何処《どこ》か安心した気分にさせられたものだが……青藍は同じように感じてくれてはいないだろう。指先から彼の緊張が伝わってくる。

「……はい」
「敬語」


 私は執事。この人をお守りするのが役目。
 「友人」も「恋人」も「伴侶」も、今の私には名乗るどころか思う資格すらない。





「ああ、そう言えば長老様方が、当主になるなら身を固めないと、って仰《おっしゃ》って」

 青藍は思い出したかのようにそう告げると、先ほど置いた束の中から白い厚紙でできた冊子を数冊取り出した。
 見覚えは全くないが、その形状は見間違えようがない。表紙を1枚をめくれば、最大限にまで着飾った令嬢が澄まし顔でこちらを向いているのだろう。
 それを10冊ほど。

「僕の歳で許婚《いいなずけ》のひとりもいないのは遅すぎるんだそうです。……兄上も10歳ほどでお相手がいたと聞きました。だから、」


 ザワリ。
 闇が鎌首をもたげたような感じがした。
 ルチナリスは「闇は誰もが心の中に持っているのだ」と言っていた。
 巣食った闇を青藍に引き抜かれた自分でさえ、まだ闇は残っているのか。それとも新たに生み出したのか。出処《でどころ》のわからないその闇がグルグルと、私の中で渦を巻く。


「僕は兄上……のようにしっかりしていないから、仕方ないのかもしれません。あ、他にも写真を預かってきました。ええと、」


 その「兄上」の記憶すらないくせに。

 彼《青藍》が手にしている見合い写真をひったくるように奪うと、グラウスは無言のまま引き裂いた。
 あまりのことに、彼《青藍》は目を見開いたまま絶句している。

「……グラウス、さ……?」
「ま・だ・は・や・い・です!」

 早い。
 まだ早い。
 何を言い出すのだ、あの爺《ジジイ》どもは。
 自分自身すら取り戻せていないこの人に、結婚なんて早すぎる。
 そういうのはもっと、そう、自分でいろいろ決められるようになってからでいい。この人はまだ幼い。見た目はともかく、中身はまだ幼いのだから、だから、


「中途半端な昼メロ見るより楽しいわぁ」

 ガーゴイルが茶化しているのが聞こえる。


 違う。
 ここは家の存続のためにも、誰でもいいから選ばなければいけないところだ。
 兄と父がいなくなった今、直系の血を継いでいるのは青藍だけ。下手をすれば彼まで失うところだったのだから、老人どもの焦りもわかる。
 いや、誰でもと言うのは失礼かもしれない。せめて……せめて、共にいることでこの人が幸せに思える相手なら、喜ばなければ。
 なのに。




 月も星明かりもない夜だった。
 真っ暗な空を見上げていると、まるで世界が闇に覆われてしまったかのような錯覚に陥《おちい》る。

 こんな夜はきまってあの日を思い出す。
 ルチナリスたちとこの城に侵入した日。城中を駆け抜けた約10時間。
 闇は消した。多くの犠牲を払った。夜が明けた時は「これで全てが終わった」と、この先に開《ひら》けているであろう未来が見えたものだった。

 なのに違った。
 いや。違ったのは自分だけなのかもしれない。ルチナリスと勇者《エリック》は人間界に帰り、アンリと犀《さい》も新たな役職で忙しくしている。
 それぞれが歩いてきた道はひとつの交差点に集まり、そして再び分かれて行った。なのに自分ひとりだけ、交差点に立ち止まったままだ。

 立ち止まったまま、もし闇を消さなかった時に現れたであろう世界を思う。
 闇に呑まれて全てがひとつになってしまえば争うことも競うこともない平和な世界になると、そう言ったのは紅竜だっただろうか。それとも犀《さい》か、アイリスか。覚えていないが闇に呑まれた誰もがそう言っていたように思う。
 争わない。
 競わない。
 個はなく、全てが等しい。
 想いが伝わらないと嘆くこともなく、一緒になれないことを苦しむこともない。青藍がどれだけ変わってしまっていても、それを違うと思う自分はいない。
 あなたは私で、私はあなたで。そのほうがずっと楽だった。

 けれど。

 墓地で紅竜の放った闇に呑み込まれそうになった時、その中で骸骨が苦しげに蠢《うごめ》いていた、あれは何を意味していたのだろう。
 あれも闇の一部なのか、それとも紅竜が作り出した精神攻撃の演出でしかないのか。後者なら問題はないが、もし前者なら、闇に呑まれたところで紅竜たちが唱える理想は待っていなかったのではないか。

 どちらが幸せだった?

 今となっては確かめようもないことを、何度も考えてしまう。





「       」

 風の騒《ざわ》めきに紛《まぎ》れて歌が聞こえる。
 誰かが歌っているようだ。その声のするほうへ、グラウスはのろのろと歩いていく。
 小さな木戸を開け、さらに進む。一見すると道に見えない道を、迷いなく歩いていく自分を不思議に思う。
 靴底で敷石が鳴る。何時《いつ》の間にか周囲には木々が生えている。
 見上げれば鳥が飛んでいる。暗闇の中で一点だけの白は、まるで自分を導いているようだ。グラウスはポケットを探り、しまい込まれた硬さを握り締める。



 ふいに視界が開けた。
 噴水の水が弧を描く。月明かりを跳ね返しながら零《こぼ》れ落ちている。

「月、明かり」

 グラウスは足を止めた。
 見上げれば、先ほどまで鳥だった白い点が月に変わっている。




 噴水の向こうに誰かがいる。
 無数の水飛沫《しぶき》の中に、球体に歪んだ景色が見える。




 歌が止まった。
 背を向けていたその人が、肩越しに視線だけを寄越す。通った鼻梁《びりょう》と白磁《はくじ》の頬。月の光を映した瞳は薄い紫色をしている。


「……その歌、は?」

 遠回しに聞く意味を見いだせないまま、グラウスは自分が発した覚えのない自分の声を聞く。

「別れの歌」
「別れ」

 その人は月を見上げる。

「衣着せつる人は、心異になるなりという」
「それは、どういう、」

 どういう意味だと問うよりも早く、彼は悲しそうにグラウスを見ると、身を翻《ひるがえ》した。

「待って!」

 靴底が石畳を蹴る。
 気を抜くとヌルリと滑りそうになる足下《あしもと》は、何時《いつ》しか水音を立て始める。木々は消え、あたり一面が水に覆われている。

 海だ。
 ノイシュタインで何度も見せられた白昼夢に似ている。ということは、これは夢なのか?
 考えると足が遅れる。走り去る人との距離が開いてしまう。
 追いつかないと。
 追いつかなければ。
 でもどれだけ駆けても辿《たど》りつけない。
 周囲は水。距離を測るものは何もない。だからこんなにも長い距離を駆けているように感じるのだろうか。
 先を行く人は疲れを見せることもなく遠ざかっていく。それに比べて自分はと言えば、足がもつれそうになるのを必死に堪《こら》えている有様だ。
 このままでは置いていかれてしまう。



『衣着せつる人は、心異になるなりという』


 あれは東の島国に伝わるお伽話《とぎばなし》の一節。


『――ねぇ、グラウス。もし姫君が月に行くのを断ったのなら、どうして残ったと思う?』


 青藍が口にした問いの元になった話だ。その問いは最初、月を背にした少女が青藍に向かって言っていた。
 あの時、彼は「しなくてはいけないことがあるからだ」と答えた。
 私は「させてやる」と答えた。

 しなくてはならないこと、とは何だった?
 あの時の問答はとある物語について話しているようで、実際には別のことを示していたのではないか?
 青藍には「しなければならないこと」があった。その目的を達すれば? 達すれば、話は|終末《エンディング》に向かう。


『あのお話の最後は知ってる?』
『それだけじゃない。もっと、辛《つら》いの』




 確か、あの話の最後は――。



「待って! 待って下さい!!」

 掃き出し窓が見える。飛び込んだ彼に続いてグラウスも駆け込む。
 ふわりと舞いあがったカーテンが視界を横切った。




 しんと静まり返った部屋に動くは何もない。
 寝台の上で眠っているのは彼と同じ顔をした、彼ではない人。その人は気配を察したのか、目を開ける。

「あれ……グラウス、さん……? こんな時間にどうして、」

 あの人じゃない。
 此処《ここ》にいるのは、私を知らない、私と出会う前のあの人でしかない。
 もう1度改めて出会い直して、改めて関係を築いて行けばいい、なんて考えは甘かった。このまま時を経《へ》ても、


『グラウス様じゃ、あの坊《ぼん》を作るのは難しいと思うわよぉん』


 彼は「彼」にはならない。



『衣着せつる人は、心異になるなりという』


 ああ、そうだ。
 月の姫君は使者が持ってきた衣を着ると、それまでの記憶を全てなくしてしまった。
 老夫婦のことも、男たちのことも全て忘れて帰ってしまったのだ。


『それだけじゃない。もっと、辛《つら》いの――』

 
 忘れてしまった。
 忘れられてしまった。
 想い続けた人は、もう何処《どこ》にもいない。


 どうして。


「どうして、泣いてるんですか?」


 どうして。
 あなたは此処《ここ》にいるのに。


 身を起こした彼が、心配と不審とがないまぜになった顔で自分を見ているのがわかる。
 でも見ているだけだ。髪を撫でてくれることも、背中を叩いて宥《なだ》めてくれることもない。そうしてくれたことを今の青藍は知らない。


 此処《ここ》にいるのに。


「何でも、ありません……」


 あなたはもう、何処《どこ》にも、いない。




「ノイシュタインでどうだったかは知りませんが、主人の寝室に用もなく立ち入るのは如何《いかが》なものでしょうね?」
「……申し訳ありません」

 翌朝。
 誰かがあの部屋に潜んでいたのではないかと勘繰《かんぐ》りたくなるほどの速さで、昨夜のことは犀《さい》にまで伝わっていた。
 一通り執事の心構え的なことを説かれ、主従の何たるかを説かれ、そして口が疲れたのか《インターバルなのか》、今は小休止。手元の書類に目を通している犀《さい》の机の前にグラウスは立っている。否《いな》、立たされている。
 小言《要件》が終わったのなら帰してほしいところだが、それは言えない。しかし時折《ときおり》思い出したかのように小言を言われながら30分が経過した今、無駄な時間を過ごしているという思いは強まるばかりだ。

 気配と姿を消して忍び込んでいられる存在(つまりは告発した《チクった》奴《やつ》)に心当たりはある。
 と言うことは、連中はあの日あの時あの場所に潜んでいたと言うわけで。どうしてそいつらには「主人の寝室に用もなく立ち入ること」を咎《とが》めないんだと言いたいところだけれども、夜這《よば》いに及んだ(と思われている)身で言えるわけもなく。
 これでも青藍に仕えて10年、手を出したことなど1度もな……いや、1度くらいならあったけれども、でもあれはどちらかと言えば青藍から迫ってきたようなものだし、もう少し信用してくれてもいいと思うのだが。
 しかし今回の件に限っては一方的にこちらに非があるのだから、何も言えない。
 気がついたらあの場所にいたんです、とはストーカー系侵入者の常套句だが、それで無罪放免になるほど甘くない。家令の立場にいる|犀《さい》が|主《あるじ》の危機(に発展するつもりはこちらにはさらさらないのだが)を許すはずもない。
 だが、そういった「こちら側の非」を|省《はぶ》いても、どうにも犀《さい》という人物を信じ切れずに反発する自分がいることも確かだ。


 アンリが言うには、前々当主とその奥方ふたりを呑み込んでいた闇(の一部と言うべきだろうか)を倒したのは犀《さい》だそうだ。紅竜に封印を解かれて以降、彼《紅竜》と同化をはかっていたのが本体の闇Aとして、それ以外に世界各地に蔓を伸ばし、不特定多数の負の感情を集めていたのが闇B、それだけでは足りない魔力を本家内で得ていたのが闇C。それぞれ、闇Aは青藍が、闇Bはアイリスが消し去った。犀《さい》が倒したのは闇Cに当たる。

 本家の中で青藍の魔力を、そして紅竜が処分と称して手にかけた人々の魔力を呑み込んでいた闇Cは、前々当主《青藍・紅竜の実父》らも取り込んで自《みずか》らの力としていたらしい。
 闇の封印が解けて以降、前々当主はいずれは|己《おのれ》も闇に捕らえられ、呑まれるであろうと予測していた。そして予測に基づいて再び封じる術《すべ》を模索しながら、一方でその身に退魔の力を溜め込み。予定通り呑み込まれ。そうすることで闇を内側から破壊しようとしたらしい。

 だが完全に破壊できるかどうかはその時にならないとわからない。
 そして予想に反して、前々当主が持ち込んだ退魔の力は決定打になり得なかった。かなりの傷を負わせたが、時間《とき》が経《た》てば回復してしまう。
 と言うことで、前々当主の意思を継ぎ、とどめをさしたのが犀《さい》。漁夫の利を得たわけではなく彼《犀》も死にかけるほどの怪我を負ったそうなのだが、あの後現れた犀《さい》は傷を負っているようには見えなかったし、今もこうしてピンピンしている。きっとアンリが大袈裟に言っただけだろう。

 あの策の首謀者のふたりが青藍ひとりに犠牲を強《し》いず、自《みずか》らも命を懸《か》けたことは100歩譲って好感が持てると言ってもいい。
 しかしそれは関わりのない第三者視点での話。自分《グラウス》からすれば目的達成のために青藍の命を使おうとしたことは決して許せるものではない。だから犀《さい》を信じられない。



「誤字が3箇所、計算ミスが1箇所。あなたらしくありませんね」

 目の前に立たせている男が反感の塊と化していることに気付いているのかいないのか、犀《さい》は何ごともなかったかのように手にしていた書類を差し出す。
 どうやら先日自分《グラウス》が提出した書類だったらしい。いつもなら何処《どこ》が間違っているか見つけ出すのも勉強のうち、とばかりに、何の修正もないまま「間違っています」と返されるのに、今日は珍しく赤ペンで添削がしてある。指摘しなければ何度でも間違ったまま持って来る、とでも思われたのだろうか。

「辛《つら》いなら辞めてもいいのですよ」
「……それはどういう意味でしょう」

 主《あるじ》の寝室に忍び込んで採用取り消しもアレだが、凡ミスが多すぎて採用取り消しというのも笑えない。
 しかし青藍の専属執事として晴れて此処《ここ》にいることが決まって以来、見えるのは思い出の中の青藍とも乖離《かいり》ばかり。「何時《いつ》か思い出すのではないか」という淡い期待は「記憶そのものがすっぽりと抜け落ちてしまって2度と戻ることはない」という考えに塗り潰され、何をしても空回るばかりの自分の力のなさに気を取られ、それで負の連鎖に陥《おちい》っていることは認めざるを得ない。
 犀《さい》にしてみれば「これがザイムハルツ執事養成学校主席卒業生、且《か》つ執事歴10年の実力か」とがっかりしていることだろう。専属執事に採用したことを後悔しているかもしれない。
 だが、私は青藍の傍《そば》を離れるわけにはいかない。


『俺が消える時は傍《そば》にいてくれる――?』


 あの口約束のせいばかりではないけれど、今の青藍から目を背《そむ》けようとすると、きまって「彼」がそう言ったことを思い出してしまう。

 あなたはこうなることもわかっていたのか?
 記憶を失くしてたったひとり取り残される己《おのれ》を捨ててくれるなと、そう言いたかったのか?





 犀《さい》は肘《ひじ》をついたままグラウスを見上げる。

「以前、あなたが執事を解雇されたと聞いたアイリス嬢が大変残念がっていらっしゃいました。永久に、とは言いません。半年か、数ヵ月か、あちらに身を寄せてみては|如何《いかが》です? 気分転換になりますよ」

 まるで自分《グラウス》がこの城を出ることを承諾したかのような言い草に腹が立つ。
 1度城を出たら最後、2度と青藍の元に戻ることは叶わないだろうと思うのは、ただの杞憂《きゆう》で済むだろうか。戻れないように仕向けられる気がしてならない。

「他家に身を寄せろと言うのは解雇とどう違うのです」
「他家ではありません。姻戚《いんせき》になるかもしれない家です」
「姻戚《いんせき》」

 どういうことだ、と尋ねるのは見え透《す》いているだろうか。
 昨日、青藍が大量の見合い写真を抱えて帰って来た。全てに目を通しはしなかったが、あの中にあったのだろう。淡い金髪に紫の瞳をした少女の絵姿も。
 彼女《アイリス》は紅竜の婚約者だったが過去には青藍とも話があったと、当の本人から聞いている。姉のキャメリアが紅竜の許嫁《いいなずけ》だったこともあるし、姉妹揃って足繁《あししげ》く出入りしていたそうだし、あの家《ヴァンパイア》が前々からメフィストフェレスと|繋《つな》がりたいと思っていたことは間違いない。
 だからこそ長《おさ》も窮地に手を貸したのだろう。単に孫《アイリス》に頼まれたからというだけでなく。
 今回のこれがその代償に、と求めてきたことかどうかは知らないが。


「こう言っては何ですがアイリス嬢はお買い得です。今の坊ちゃんの事情もご存じですし、あなたとも面識がある。紅竜様の暴走の原因は姉君――キャメリア様との確執のせいだと思っていますから、当家に負い目すら持っている。勿論《もちろん》家柄も申し分ありません。他のお嬢様がたをお選びになるくらいなら、」
「それは、私には関係ないことです」
「だったらそんな顔をするのはおやめなさい」

 青藍が誰と結ばれようと、自分に口を挟む権利はない。
 彼は元々《もともと》手が届かない高みにいる人なのだから。自分の身分ではただ憧れるしかできないのが普通なのに、こうしてお傍仕《そばづか》えさせて頂いている。過ぎたことだと思わなければいけない。

 でも。
 もし紅竜が生きていたら。
 青藍がこの家を継がなくてもいいのなら。
 それなら私はあの手を取ることができた。身分も家も捨てて、まだ見ぬ世界に連れ出せた。
 なのに、ほんの数ヵ月前まで正規ルートだと思っていたその道は、今や何処《どこ》にもない。


「このままでは坊ちゃんもお辛《つら》い。
 坊ちゃんは察しのいい子でね。あなたが別の誰かを自分に見ていることくらいわかっていらっしゃいます」

 わかって、その誰かになろうとしている。執事の望む主《あるじ》になろうとしている。
 そう犀《さい》は言う。


「……しかしその誰かは本当の坊ちゃんではない」
「どういうことです?」

 犀《さい》はグラウスを一瞥《いちべつ》すると窓の外に目を向けた。
 青い空を背景に、白い鳥が飛んでいる。

「あなたが見てきたノイシュタインでの坊ちゃんは、私が植え付けた別の人格なんですよ」




 それは青藍が魔王役に決まった日のこと。
 犀《さい》は彼に暗示をかけたのだと言う。


「何故《なぜ》そんなことを」
「何故《なぜ》って?」

 犀《さい》はくつくつと笑う。

「名前も知らない1度会ったきりの男の命を救うために、自分を犠牲にすることを厭《いと》わないような子ですよ? そんな子をひとりで外に出せますか」


 自分で自分を守れる心を。
 自分を守れるだけの強さを。
 強大な魔力があっても、アンリに戦術の全てを叩き込まれていても、使わなければ意味をなさない。

 青藍が魔王役をしなければいけなくなったのは自分《グラウス》のせいに他ならない。
 命乞いをしたことで紅竜の逆鱗に触れ、幽閉され、我が子の未来を案じた第二夫人が空席となった魔王役に推《お》した。原因は自分《グラウス》なのだ。

 思い返せば、青藍は自分を犠牲にすることで物事が回っていくのなら真っ先に自分を、と考える傾向があった。この10年、そのせいでどれほど面倒ごとに巻き込まれたことか。
 しかしその10年も、彼と死を繋《つな》げて考えることなどなかった。死がチラついて見えたのは最後の1年……青藍の記憶がおかしくなり始めた頃から。そう考えると、彼を死から遠ざけていたのは犀《さい》による暗示のおかげだったと言える。

 だが。
 だとすると、


『……その歌、は?』
『別れの歌』


 私の、あの人は。



「ああ。そう言えばアンリがあのお嬢さんは元気だと連絡を寄越してきましたよ。良かったですね、魔界の影響は出ていないようです」

 唐突に犀《さい》は話題を変えた。
 「あのお嬢さん」とは言うまでもなくルチナリスのことだろう。青藍に記憶があれば興味を惹《ひ》いたかもしれないが、今の自分には彼女が何処《どこ》でどうなろうと何も響きはしない。
 そしてアンリが何処《どこ》で何をしていようとも。
 隔《へだ》ての森を閉めている今になって彼《アンリ》が人間界に行く意図はわからない。ずっと疎遠だった実家が森を閉めると聞いて魔界に戻ってくることを選んだように、彼《か》の地にいた魔族が続々と森を越えていると聞いている中でアンリの行動は逆を行っている。が、彼も彼《か》の地で長く暮らしていた身。2度と行けなくなる前のなら片付けておきたいことのひとつやふたつはあるだろう。


「健常者ならば大した支障も出ませんが、やはり此処《ここ》の空気は人間には少々よくないようでしてね。第二夫人は結界の中で暮らしていましたが、それでもかなり毒されていましたし」

 言われて思い出してみれば、第二夫人がノイシュタインに来た時、大粒の石を留めたチョーカーを首に巻いていた。あの石は水晶だと、水晶は浄化の石なのだと、あの後、暗い顔で青藍が教えてくれた。彼女の訃報が届いたのはその数時間後のことだ。
 青藍の記憶が戻るまで此処《ここ》に残るかと聞いた時に首を横に振ったルチナリスが魔界の空気がもたらす影響を知っていたとは思えないが、そんな可能性があったと言うのなら戻してよかったと思わざるを得ない。


「行ってみますか? 気分転換に」
「私がいなくなったら、あなた方は再び青藍様を道具として扱うのでしょう?」
「信用されていませんねぇ」


 唐突に話題を変えたのは、ヴァンパイアの城が嫌なら人間界に行けと、そう暗に示唆《しさ》したつもりだったのか?
 しかしそれこそ冗談ではない。彼《か》の地へ通じる道が日増しに閉じられていると言うのに、何故《なぜ》気分転換程度で行かねばならないのだ。


「最後のほうは暗示も消えかかっていたのでしょうね。もともと10年もてばいいほうだと思ってかけたものですから」

 キイ、と犀《さい》の椅子の背もたれが鳴る。
 普段の彼と魔王の時の彼が全く違っていたのは犀《さい》の暗示のせい。二重人格と言うには中途半端な、言わばおとなしい面と快活な面の二面性を持っているのだと思っていたが、そうではなかった。
 そして。
 闇に蝕《むしば》まれなくても、記憶が零《こぼ》れ落ちなくても、あの青藍はいずれ跡形もなく消え失せる予定だった、と?

「随分とご執心だったようですが坊ちゃんはなびかなかったでしょう? その手の感情も外させていただきましたから」
「外すって」
「道具扱いしているからではありませんよ。これは、言うなれば親心です。悪い虫が付かないように、とね」

 だから坊ちゃんは元々あなたに特別な感情など持ってはいないのです。いたら便利、くらいには思っていたかもしれませんが。と、犀《さい》は嘲《あざけ》るような笑みを見せる。

 知られている。
 この感情を。この想いを。


「あなたは……それも全てわかっていた上で私を執事にしたのですか」

 返事はなかった。代わりに、くすりと笑われただけだ。
 その笑いが、全てを語っているように見えた。