22-19 魔王様は蒼いリボンがお好き~Finale~




 ルチナリスは町の入口で立ち止まると息を吐いた。
 頭上に掲《かか》げられたアーチ状の看板には「ようこそノイシュタインへ」という文字が躍《おど》っている。記憶にある看板は剥げかけた手書き文字だったが、今はどういう作りになっているのか、文字自体が煌々《こうこう》と光を放っている。町から1歩外に出れば灯りなど月明かりくらいしかないから良い目印にはなるだろうが、悪趣味だ。


 この町は先日の悪魔襲来であちこちが壊された。だが人的被害は最小限で済み、奇跡的な早さで復興が叶ったと聞いている。
 勇者《エリック》がゼス《隣町》の実家に帰ったまま戻って来なかったのも復興に手を貸していたからであるらしい。看板に限らず、何処《どこ》となく町のあちこちに勇者ロボ味《み》があるように感じるのは、彼がこっそりと趣味を紛《まぎ》れ込ませたせいかもしれない。

 どうしよう。勇者ロボの射出口とか作ってあったら。
 手を貸したであろう町の人々は勇者ロボなんて知らないし、

「勇者様が言うことだから」

 なんて理由で、何に使うものかわからないまま作らされたかもしれない。
 少し前まで此処《ここ》にいたカリンが、

「この町はるぅちゃんの思い出とは変わってしまったのよ」

 と妙に悟《さと》りきった目で言っていたが、まさか関係があるのだろうか。


「なかなかいいと思わない? このアーチ」

 見上げる隣で勇者《エリック》は悦《えつ》に入っている。買い出しの手伝い――要するに荷物係でついて来た。例の魔王代理の仕事は? とも思ったが、|義兄《あに》もしばしば出かけていたし、お姉様《ソロネ》と師匠《アンリ》がいればこの男はいてもいなくても大丈夫だろう。

 だがそんな新展開もあと僅《わず》か。
 先日、魔王役が数日後には到着するという連絡を受けた。
 城の封鎖が解け、マーシャさん《厨房担当のオバチャン》が戻り、何となく日常が戻りつつあるように見えるが、義兄《あに》と執事がいた頃に比べればいろいろと足りない。と、言うことでの買い出しだ。
 新たな魔王役が誰かはわからない。けれど魔族でも人間と暮らしぶりはそう変わらないようだし、備《そな》えあれば患《うれ》いなし。城唯一の使用人《メイド》として恥じない環境を作り上げて、魔王役を出迎えたい。


「夜になると空に向かってビームが飛ぶんだよ」

 ルチナリスの決意など微塵《みじん》も伝わっていない勇者《エリック》が嬉しそうに説明してくれる。
 魔王役が到着すれば彼は職を失うが、その後は町長に付いて町の仕事をすることが決まっているそうだ。すれ違う人々から参謀《ブレイン》と呼ばれていたのはそのせいらしいが、何の仕事をするのだろう。こんな口先だけで世間を渡ってきた男に務まるのだろうか。

 まぁ何にせよ、彼が魔王代理をしていることは知られていない。住民向けには「城の雑用の手伝いで出入りをしている」ということになっているそうだから、途中で他の勇者に倒されない限りは何も問題は起きない、と思う。
 彼のことだからもっと魔王の地位に執着するのではと思ったが、何の権限もない、領主でもないとくれば旨味が少なすぎるからか、さっさと降りるつもりでいるようだ。未《いま》だに何故《なぜ》こんな汚れ役を引き受ける気になったのかがわからない。


「それ、何の意味があるの?」

 とにかく魔王役のことは頭の端に片付けて。
 ルチナリスは勇者《エリック》に話を合わせる。

 ビームと言って思い出すのはメイシアの「闇を葬り去るビーム」だが、あの壁を簡単に真っ二つにするような殺傷兵器を夜中に飛ばすつもりだろうか。空を飛ぶ生き物なんて鳥か虫か悪魔くらいだから、聖都《ロンダヴェルグ》の結界並の防犯にはなるのかもしれないが。
 ああ、飛ぶと言えばドラゴンもそうだ。後でカリンに教えておこう。地上から狙撃された、なんてことになったらシャレにならない。 



 何にせよ、復興と言って思い出すグラストニアの二の舞にはならないに違いない。
 隔《へだ》ての森閉鎖のせいで、人間界にいる魔族《悪魔》は続々と魔界に帰りつつある。魔王役が復活したということはこの町は魔王役の直轄地になるわけだし、そうなれば他の魔族《悪魔》に蹂躙《じゅうりん》されることも……駄目だ。片付けようとしても、やっぱり気になる。

 ルチナリスは「新たな魔王役」という人を思い描いてみる。
 ガーゴイルが言うには、歴代の魔王は牛だのゴリラだのといった様相の者が多かったらしい。腕に自信がなければなれない職だ。義兄《あに》のような頼りなさげな外見の人ほうが珍しい。今度も動物系が来る可能性は高い。
 せめて義兄《あに》のように人間に友好的、とまで期待するのは図々しいかもしれないけれど、人間狩りに無関心な人ならいいのだが。




「あらるぅちゃん、久しぶりねぇ」

 歩いていると、小間物屋の女店主が声をかけてきた。

「お久しぶりです!」

 人的被害が最小限と聞いていても100%無事というわけではない。だからこそ、見知った顔が元気でいるのは嬉しい。
 昨日まで元気だったのに今日は何処《どこ》にもいない。
 「また明日」が来ない。
 そんな思いをしたのは養父だったミバ村の神父と生き別れたのが最初で、そして最近まで忘れていた。
 でも今は。
 ミルは逝ってしまった。
 義兄《あに》は生きているけれども、あたしのことをまるで覚えていない。
 執事《グラウス》やスノウ=ベルは魔界から戻って来ない。
 だから。


 駈け寄ったあたし《ルチナリス》に、女店主は「V」の形をしたブローチらしきものを並べる手を止める。
 今はこんなブローチが流行《はや》りなのだろうか。女性用装身具《アクセサリー》と言うよりも子供が戦隊ごっこで使いそうな――変身する時の媒体《ばいたい》にしたり、通信手段になりそうな――デザイン。この少し斜体がかったこの「V」をあたしは何処《どこ》かで見たような。

「これね、遠くの人と喋れるんだよ」
「はい?」

 不躾《ぶしつけ》に見過ぎただろうか。女店主はブローチを摘まみ上げるとひっくり返して見せてきた。
 配線が見える。まさかと思うが、本当に通信機能が付いているのか? この小ささで?
 つまりスノウ=ベルの小型版だ。あれより|性能は良くない《有効範囲は狭い》だろうけれど、人間界で見れば画期的な発明品ではありませんか!?

 これがウラシマ効果という奴《やつ》だろうか。あたしが魔界に行っているほんの数日の間に、技術はとんでもない進歩を、って進歩しすぎだろう!?
 またお姉様《ソロネ》が「ちょっと時代を先取り」しちゃった、とか? 彼女も存在からして謎の人だが、いい加減、追放されたり堕天したりはしないのだろうか。好き勝手にしているお姉様を心配する義理などないのだが、心配だ。


「でもねぇ、この町の人はほとんど持ってるからちょっと売り上げが頭打ちでねぇ」
「大丈夫ですよ。機械というものは保証期間が切れたら壊れるようにできてるんです。それに仕様変更やバージョンアップで新機能が付き、それを持つ者を見かければ……欲しくなるのが人心というもの」
「ほほほ、お主も悪よのぅ」

 女店主と勇者《エリック》はルチナリスのわからない世界の話をしている。
 と言うか、キャラが変わっていませんか? 人間狩りに遭《あ》って辛酸《しんさん》を舐めたせいですか。それとも、この男に毒されてしまったのですか!?

 ああそうだ、思い出した。
 この「V」、ビクトリーの「V」だ。紅蓮《ぐれん》(勇者ロボパイロットのひとり)の胸についていたマークにそっくりじゃないか。
 だとするとこれも勇者《エリック》の差し金か!?
 住民を洗脳して、町全体を基地化する計画とか立ててないだろうな!?


 想像にひとりたじろぐルチナリスに気付いたのか、女店主は不思議な話題を止めてこちら《ルチナリス》を見た。

「ホント、元気そうで良かったわよ。魔界に行ったって言うからもうどうしたもんだろうね、って皆心配してたんだよ」
「え?」

 魔界?
 いやちょっと待て。何故《なぜ》それを知っている!?

「そう言えば領主様は見ないけど無事なのかい? お兄ちゃん、魔界に連れて行かれちゃったんだろ? 魔界って悪魔が住んでるところなんだろ? エリくん、ちゃんと助けてあげたの?」

 ちょっと待て(2回目)!
 情報過多で心臓が止まりそうなんですけど!!!!


 城が封鎖された後は「領主様? 誰それ」とばかりに、誰ひとりとして義兄《あに》のことを覚えてはいなかった。
 新たな魔王が決まれば封鎖が解け、城下の人々はその魔王を「此処《ここ》の領主」と認識する。どういう仕組みかはわからないが、そう刷り込まれる。
 だから10年付き合いのあった義兄《あに》を万が一思い出したとしても、せいぜい「あたし《ルチナリス》の兄」。「領主」として覚えている、は義兄《あに》が魔王に再就任した、と同義だ。
 でも。
 |義兄《あに》はいない。メフィストフェレスの当主になってしまった|義兄《あに》が魔王になることはない。



 そもそもあたしの魔界行きを含めて誰がバラした! って、エリくんと言っているからには勇者《エリック》だろう。
 奴《やつ》は義兄《あに》が魔族《悪魔》であることも知っている。思えば魔界でも「悪魔だから倒す」的な不穏な発言をしたし、現に師匠《アンリ》に剣を向けた。戻って来てみれば師匠《アンリ》と仲良く魔王代理なんかしているからてっきり仲直りしたのかと思っていたけれど……だがしかし! 師匠《アンリ》はともかく、義兄《あに》の正体をバラしたらただじゃおかねえ!


 それともこれは、次の領主《魔王役》が義兄《あに》だというフラグ?
 いや、それはない。
 義兄《あに》は、

「兄は……家を継ぎました。だから此処《ここ》には、」

 今やあの家の当主。この町に領主として戻ってくることはないのだ。
 魔界を牛耳っていた紅竜が消えた後の諸対応で忙しいだろうし、隔《へだ》ての森のこともある。回復も未《いま》だ不完全で、とてもではないが戦える状態ではない。そんな義兄《あに》が此処《ここ》に来るはずがないし、周囲がさせないだろう。特に執事《グラウス》が。


「……そう。あたしゃるぅちゃんが戻ってきたから、てっきり領主様も戻ってくるって思ってたんだけどねぇ」

 女店主はエプロンのポケットを探り、水色の包み紙をひとつ取り出すとルチナリスの手に握らせた。
 カバの横顔が描かれているこれは、オルファーナに行く時、汽車の中で義兄《あに》がくれたチョコレートと同じもの。

 差し出してくれた時の義兄《あに》の笑顔と、小気味よい汽車の揺れと。
 あの時はあの生活が普通だと思っていた。今になって思えば、ほんの数ヵ月前まで当たり前に隣にあったあれが、あたしにとっての幸福だった。


「そう言えばるぅちゃんはお兄ちゃんと一緒に暮らさなくていいのかい? あんただって場所が場所ならお姫様だろうに」
「あはは、それは……ないですよ」

 義兄《あに》は貴族様だがあたしは違う。
 それに魔界にあたしは住めない。アンリが言うには、人間が長期間住むには彼《か》の地の空気は良くないものであるらしい。
 語尾に連れて小さくなった返事に何か察するものがあったのか、女店主はそれ以上何も言わなかった。
 勇者《エリック》から何を吹き込まれているかはわからないけれど、其処《そこ》に悪意はないように感じた。




「……何を言ったの? 此処《ここ》の人たちに」

 町を離れ。
 ルチナリスは人目がなくなったのを確認して勇者《エリック》に詰め寄った。


 此処《ここ》、ノイシュタインの領主は魔王の仮の姿。
 大抵は義兄《あに》の時と同様、「遠方に住む領主一族が、離れた領地を治めるために単身、領主を送り込んで来る」という設定になっている。

 歴代の魔王は仮の領主と言えども餌と見下している人間と交わる気などさらさらなく、また人々に顔を知られることで真の姿がバレるのを防ぐため、積極的に表に出てくることはなかった。領主がいるのに町の自治がほとんど町任せにされているのは、今までの領主が何もしなかったことに、町が独自で何かを初めても領主が悉《ことごと》く放置してきたことに起因する。
 こうなってくると何故《なぜ》今まで「領主なんかいらない」という声が上がらなかったのかは疑問だが、領主がいないならいないで他から侵略されるとか、あたしのような政治経済に疎《うと》い素人《しろうと》では思いつきもしない事情があるのだろう。
 以前、悪魔の城に挑戦する勇者から挑戦料を取れば税金を取らずに済むのでは、と提案した時に、執事が「ややこしいほうが誤魔化しがきく」と言っていたことを思い出す。

 何にせよ、新たな魔王役が決まれば義兄《あに》の存在は人々の記憶から消え去り、この町は「義兄《あに》を送り込んだ遠方の一族が新たに送ってきた者」を領主として、何の疑問も抱くことなく日々を過ごしていく。そうなるはずだった。
 なのに人々は義兄《あに》を覚えている。
 覚えているだけならまだしも、魔界に連れて行かれたことまで知っている。

 人間狩りのように被害者として連れて行かれたという認識でいてくれるのならいいが、得てしてそうして連れて行かれた人が生きて戻ってきた事例は奇跡のような数字しかない。そのひとつがあたしだけれども、同じ時期に連れて行かれたミバ村の人々は未《いま》だに生死不明。当事者だからこそ奇跡だったと言えてしまう。
 「悪魔が避ける血の持ち主」と言うあの無理のありすぎる設定のおかげで生きて帰ってこられたと思ってくれているだろうか。ほんの僅《わず》かでも魔界に繋《つな》がりがあると、魔族から温情をかけられる立場にいると知られるわけにはいかない。

 そして勇者《エリック》は義兄《あに》が魔族であることを知っている。

「……何も言ってない、と言えば嘘になるかな。カリンさんが此処《ここ》に来た時の会話から察する人はいた。彼女がバラしてなければ彼らは領主様が悪魔だってことは知らない」
「彼女? カリンさんはそんなことしないわ」
「リドさんだよ」


『――るぅちゃんはまだ領主様のことを覚えてる?』


 此処《ここ》へ来る道中で出会ったリドは、あたしにそう尋ねた。
 あの意味をずっとはかりかねていた。けれど、彼女が義兄《あに》の正体を勘付いていたのなら……。

「でも領主様は此処《ここ》には来ない。でしょ?」
「そうよ」

 義兄《あに》は魔界だ。リドが連れていた青年が勇者だったとしても、戦いを挑むことすら難しい地にいる。
 リドは「領主」を「義兄《あに》」で思い出した。魔王復活と共に人々がノイシュタイン領主の存在を思い出したことで、次の領主《魔王》は義兄《あに》だと予測したのかもしれない。
 万が一義兄《あに》が魔王だった時、その義兄《あに》を倒す時に、唯一、その事実を知っている「あたし《ルチナリス》」に対して罪悪感を抱《いだ》くであろうこと。恨まれるかもしれないということ。
 でもあたしが覚えていなければ心置きなく倒せる。
 だから、保険の意味で聞いたのかもしれない。

 しかし。
 それなら何故《なぜ》彼女は町を出たのだろう。
 小間物屋の女店主を始め、町の人々は未だに義兄《あに》の正体に気付いていない。ということは彼女は黙って町を出たということだ。
 魔王を倒すことを生き甲斐にしているように見受けられたあの青年に生きる希望を抱《いだ》かせつつ、魔王《義兄》から離れるために旅立った?
 リドの思惑は今となっては知ることができないけれど、もしかしたら彼女らとは敵対しないで済む気もする。


「そうだよね。来られるわけがないんだ」

 考えている間、勇者《エリック》は勇者《エリック》で、ひとり納得している。

「どういうことよ」

 が、リドはともかく。
 意味深にも聞こえる台詞《セリフ》にルチナリスは噛みつく。
 何と言ってもこの男は魔王代理。それに今までも、知っているのに黙っていたことなど何度もあったじゃないか。上辺だけ見て、ただの頭の軽い勇者オタクだと侮《あなど》っていてはいけない。

 新たな魔王役が誰か知っているのか? 
 来るのは義兄《あに》だと聞いているのか?
 でも義兄《あに》の今の立場からして来られるはずがないのだ。だから、誤情報ではないのか、と彼自身も疑っているからあたしに言わないだけで――。


「だって森を閉めてるんだよ? 魔王の任期は平均5年、ってルチナリスさん前に言ってたでしょ」

 だが、勇者《エリック》が口にしたのは全く違う言葉。

「5年後じゃいくら何でも森は全て閉ざし終えてる。今、魔王になったら帰れなくなる可能性が高いんだ」

 義兄《あに》が来るはずがない、と……それだけを確定する言葉。


 そうだ。
 隔《へだ》ての森が完全に閉まってしまえば魔界に帰ることはできない。
 人間界に骨を埋《うず》めるつもりでいたクレイたちでさえ気が変わったと言うのに、2度と魔界の土を踏むことができなくなる仕事にわざわざ就きたいという奇特な者などいるだろうか。
 義兄《あに》が来る線は確実に消えた。
 あの家の当主としてなら、義兄《あに》がいなくなったところで権力が欲しい誰かが立候補するかもしれないし、代わりがいないとなれば周囲も認めるしかない。
 だが義兄《あに》が持つ聖女の力は代替が利かない。
 この先その力を使う機会があるかどうかも知れないし、使えるかもわからないけれど、人間界にその力を持つ者がいなくなってしまった以上、彼《か》の地が義兄《あに》を手放すはずがない。




「そうさなぁ。誰、っつー連絡はねぇな」

 城に戻り。
 ちょうど魔界からの通話に出ていた師匠《アンリ》に聞いてみたが、やはり新たな魔王役の情報はないらしい。どうして聞かないんだと言いたかったが、話し終えてからでは言うだけ無駄。しかもこちらは正式な魔王役ではないために魔界に連絡を入れることができない(受信ONLY)であるらしい。

 そんな師匠《アンリ》も新たな魔王役の決定でお役御免。元々代理をするつもりはなかっただけに、早々に魔界に戻るつもりでいるようだ。既《すで》に荷造りも終えている。

「犀《さい》に連絡が付けば何か知ってると思うんだけどよ。あいつもああ見えて死にかけてっから」
「死にかけてる?」
「核……まぁ、心臓みたいなもんだけどな。闇を倒す時にそれをぶっ壊してんだ。ジルフェが代わりの核を入れたおかげで奇跡的に生き永《なが》らえたらしいんだが、インクルージョン? が入ってないとかで本調子じゃねぇとかで」

 インクルージョンとは何だろう。核といい、やはり魔族は人間とは違う生き物なのかもしれない。
 詳しく説明してもらってもきっとわからないだろうから聞かないでおくけれど、犀《さい》の調子が悪いからこそ、師匠《アンリ》は早く帰りたいようだ。
 前々当主の片腕としてふたりであの家を背負《せお》って来たようなものだし、師匠《アンリ》自身、義兄《あに》を支えなければいけないのに長く戻れずにいた負い目もあるのだろう。気持ちはわからないでもない。


「ま、明日か明後日には来るだろう。つーか来てくれないとこっちの予定も狂っちまうし……ったく、さっさと来ればいいのにな。なぁ」
「あ、あたしは別に」

 「別に」と言ったものの気にならないはずがない。
 新たな魔王役が人間を毛嫌いする人なら、あたしは此処《ここ》にはいられないのだ。
 ガーゴイルたちに会いたい、もう1度一緒に暮らしたい、だって家族なんだから、との思いで戻っては来たものの、「あたしは此処《ここ》に住みたい! だから住む!」と言ってはただの家宅侵入&不動産侵奪罪。出て行けと言われても出て行かなければ+《プラス》不退去罪。罪を重ねてでも居座れるほどあたしは肝《きも》が座っているわけではない。
 カリンも、城下の人々も、何かあれば来いと言ってくれているから寝る場所に困る事態にはならないだろうけれど、他人の好意に甘えるばかりの自分は情けない。追い出されるか否《いな》かの宙ぶらりんな立場も、地に足がついていない感じで落ち着かない。


 これは次の魔王役が此処《ここ》に来ることを嫌がっている、と取っていいのだろうか。
 魔界の何処《どこ》から来るかは知らないが、メフィストフェレス本家から此処《ここ》まででも馬車で1日はかからなかったと記憶している。
 勇者《エリック》が言うように、就任したら最後、2度と魔界に戻れないかもしれない仕事。来るはずだった最初の魔王役が直前で来ることをやめたように、今ならまだ引き返せる。そんな迷いがあって、来るのを先延ばしにしているのかもしれない。

 どうしよう。
 精一杯歓迎するつもりで、新たな魔王役も歓迎されてくれるものだと思い込んでいろいろ買って来たけれど、一気に気持ちが萎《な》えるのを感じる。
 明日、追い出されてもいいように、あたしも荷造りしておくべきだろうか。
 師匠《アンリ》が言うように、さっさと来い! と言いたいけれど、来るな! と言う気持ちも溢《あふ》れてくる。心が否定的思考《ネガティブ》に塗り替えられていく。




 否定的思考《ネガティブ》に塗り込められた気持ちを抱えて、ルチナリスはトボトボと自室に戻る。

 途中、テラスに差し掛かった。
 執事が嵌《は》めていってくれた硝子《ガラス》戸にもたれ掛かるようにして、枯れ木のようなものが生えている。
 確かサボテンの種類だと聞いた。砂漠地帯にある、うちわ型の葉に棘が生えたものではなく、夏の夜に花を咲かせる種類。しかし真冬の寒さは硝子《ガラス》越しでは凌《しの》げなかったのか、すっかり枯れてしまっている。


 その枯れ木の傍《そば》にソロネがいる。
 季節に合わない、背の大きく開いたドレスを身に纏《まと》っている。
 彼女はルチナリスに気付くと、広げかけていた羽根を閉じ、手招いた。





「こんな時間にお出かけですか?」
「ええ。少し早いけど此処《ここ》を出ようと思って」

 師匠《アンリ》が荷造りを終えているように、ソロネも此処《ここ》を出ていくつもりでいるらしい。どうにも彼女は苦手だからか、寂しいと思う反面、安堵《あんど》している自分をも感じる。

「天界に行くんですか? それともロンダヴェルグに?」
「ふふ。何処《どこ》にしようかしらねぇ」

 彼女が何処《どこ》へ行こうと興味もないのだが、そんなことを聞いてしまう自分に内心呆れる。
 そんなあたしをよそに、ソロネは独り言を言うように口を開いた。

「世間一般の考えとして、天使や天界は魔族や魔と対をなすもの――対立する立場にあるもの――と考えられているようだけど、実際には違うのよ。あたしたちは人間界が魔族に支配されようと、滅ぼされようと気にしない。あたしたちには関わりがないことだから」


 突き放した言い方はジルフェ《風の精霊》を彷彿とさせる。
 ただ単に対岸の火事だと思っているだけにも感じるが、いざ火の粉が降りかかって来ても「関わりがないこと」と放置しそうな気がするのはやはり種族の違いなのだろうか。

 それにしても、急にそんなことを言い出したのは、彼女自身、弁明の余地があると思っているからか。人間的な考えに染まりつつあるからなのか。
 だから、あたしには言わねば、と思っていたのかもしれない。


『あたしたちは敵が作りたいわけじゃないし、魔族を滅ぼしたいわけでもない。それどころか味方にだってなれるわ』


 捨て子騒ぎが起きた時に勇者《エリック》について城にやってきたソロネはそう言った。
 だが、あたしは彼女《ソロネ》が味方だとは思えない。それどころか魔族を滅ぼしたがっているようにしか見えない。
 なんせ彼女ははガーゴイルたちを百匹単位で消し、義兄《あに》を襲った。義兄《あに》は人間を襲うどころか守ってきたのに、だ。
 けれど。

 ふ、と引っかかる。

「ソロネさんは人間を狩る悪い悪魔は消すって言ってましたよね? 魔王は悪魔の肩を持って勇者を倒すからから邪魔だ、とも」

 矛盾している。
 人間を襲う悪魔を消す。それは言い換えれば襲わなければ消さない、とも取れるけれど……どちらにせよ、天界が人間界に干渉していることになる。関わりがないと言うのなら悪魔が何をしようと放置するはずだ。
 あの会話の後、なし崩しに義兄《あに》を味方につけようという話になり、実行しようとした矢先に義兄《あに》が怪我をし、あたしたちは城を追われ。
 魔界に連れて行かれた義兄《あに》を取り戻すのにソロネの力が借りたかったけれども、あたしたちがロンダヴェルグ入りした時、既《すで》にソロネは街を出てしまっていて。グラストニアでも会えなくて。何kmも離れた町に連絡をつける手段などなかったせいで行き違いになってしまっただけだろうけれど、避けられているようにも感じた。

 いや、本当に避けられていたのかもしれない。
 此処《ここ》に戻ってきた当初、師匠《アンリ》が「ソロネは魔界に入れなかった」と言っていたが、鍵《精霊》を持っていないのだから入れなくて当然。だからこそ、魔界に行くつもりながらあたしたちとの合流を目指すはずだ。
 あたしがミルの家で宿を借りていることも少し調べればわかる。なのに1度も会いに来なかった。遭遇率の高いロンダヴェルグを出なければならなかったとしても、行き先くらい残して行けたはずなのにそれもしなかった。

 もしかすると種族的に拒絶されて入れなかったのかもしれない。
 下手に再会することで助太刀して貰えると期待させてしまわないようにあえて避けていたのかもしれない。
 でもそれが彼女の言をまるっと鵜呑みにする理由にはならない。

 だから到着が遅れている魔王役の代理に入ってくれている事実を突きつけられても、彼女が中立の立場にいると思うことなどできない。
 せいぜい知り合いの勇者《エリック》を手伝ってやろうと気まぐれを起こしただけ。
 ガーゴイルをはじめとするこの城の魔族は機会があれば消すつもりでいるのではないか、とすら思えて仕方がない。


「そうね。正確に言えば人間界や魔界がどうなろうと関係ないけれど、そうなる芽は早めに摘むようにはしてるわね。
 魔界を抑制するための聖女は不在。なのに魔界にはお兄ちゃんみたいな突然変異的に強いのが現れ、闇も復活してしまった。だから聖女を探し出すと共に、人間界に伸びて来た闇を一掃する。お兄ちゃんもこちらに干渉してくる前に摘む。
 そして人間に対しても。
 この世界から魔族が手を引いたことで人間たちの力が強まって、それで天界に攻撃を仕掛けて来ようなんて思い上がった日には、あたしたちは人間たちも魔族と同様に干渉するでしょうね。
 だから魔族が減っている今、この城にいる子たちを消すつもりはないの。むしろずっと此処《ここ》にいて人間たちの戦力を削っていてくれればこちらとしても有難いわ」


 ソロネの言葉にルチナリスは身構えた。
 天界とは何様だ、と思わなくもなかったが、思ったところで何かできるわけでもない。全力を出したところでソロネの小指1本で捻《ひね》り潰されるのがオチだし、彼女の言葉を信じれば、天界に影響がなければ彼らは何もしてこない、とも取れる。
 でも。

「……もし人間が天界に攻撃を”するかもしれない”って理由で襲うつもりがあるのなら、あたしはソロネさんたちと戦います」
「それは聖女としての意思?」
「あたしの意思です」

 ソロネ《天界》が懸念していた闇は今のところは小康状態を保っている。魔界にあった大元《おおもと》は消えたから、あのような手が付けられない惨事は起きないだろう。
 だが義兄《あに》は?
 義兄《あに》の性格からして人間界や天界を支配しよう、襲おうなんて考えるとは思わないけれど、それは義兄《あに》を知っているあたしだから言えること。有無を言わさず襲って来た初期のソロネのようなのが天界の大半を占めているとしたら。

「傍観してるだけみたいに言ってるけど、そうじゃないでしょう? 遊戯《ゲーム》みたいに文明を与えて、人間界を良いように作って、それなのに危険になったら放置。あたしには遊んでるだけに見えるわ。
 其《そ》れも全部神様の気まぐれってやつかもしれないけど、あたしたちは道具じゃないの。利用されるだけでなんかない。黙ってやられたりもしない」
「いいわね。そういう気骨のある子は好きよ」


 もしかすると。
 あの時ソロネが義兄《あに》を仲間にしよう、と言い出したのは、義兄《あに》に利用価値がある――探していた聖女の力を持っている――ことを察していた《知っていた》からかもしれない。
 親切な人が全て善人ではないように、全て味方とも限らない。


「勘のいい子は嫌いだわ。って誰の台詞《セリフ》だったかしら」

 ソロネは肩を竦《すく》めて笑う。


「ひとつ教えてあげるわね。お兄ちゃんの力は何処《どこ》ぞのポチのおかげでプラスマイナス0《ゼロ》だそうだから、暫《しばら》くは様子見。安心して」
「は?」

 魔界にいる義兄《あに》や執事の動向をソロネ(と言うよりもその上層部――所謂《いわゆる》天界)がどうして把握しているのかだけは、どうにも腑《ふ》に落ちないのだけれどそれよりも。
 何処《どこ》ぞのポチとは誰だ? 思い当たる人物はひとりしかいないが、奴《やつ》が何をどうしたら義兄《あに》の力が0《ゼロ》になるのだ?
 それに「安心して」って何が「安心して」なんだか。
 ソロネ《天界》にしてみれば桁違いの魔力を持つ義兄《あに》が平均に落ち着いてしまったのは安心以外にないだろうけれど、義兄《あに》の力が0《ゼロ》になるということは、言い換えれば戦えないということ。次期魔王役が義兄《あに》かもしれないという希望が消えること。
 ああ。誰も彼もが「義兄《あに》は来ない」と言う未来を指し示す。


「なんで……ソロネさんが青藍様たちのことを、」

 義兄《あに》は魔界にいる。
 目の前の彼女が「行けない」とされる地で起きていることを、何故《なぜ》彼女《ソロネ》が把握しているのだろう? 彼《か》の地から定期的に連絡が来る環境にいるあたしの耳にすら届かないのに。
 そう。
 あたしはソロネの言葉が嘘だったらいいのにと思っている。


「……ソロネさんは青藍様たちのことを何処《どこ》まで知っ、」
「るぅちゃんが知りたいって思ってることはきっと知らないわ」

 切り捨てるように言い放つと、ソロネは再び翼を広げた。

「じゃあね。機会があればまた会いましょう」

 話を強制的に打ち切り、彼女はふわりと飛び立つ。
 知りたいことを教えてくれないのは本当に知らないのか、それとも緘口令《かんこうれい》が敷かれているのか。魔族寄りのあたしには言えない、というだけかもしれない。

 けれど。


 夜空を背に遠ざかるソロネに、義兄《あに》を連れて行こうとしていた少女の面影を見る。でも、彼女《ソロネ》はあの子とは違う。
 ソロネはきっと敵にはならないでいてくれる。味方にもなってはくれないかもしれないけれど、敵でもなく。
 そう、リドのように。
 




 それぞれの道を歩いていた人々が、ひとつの場所に集まり、また離れていく。
 明日になれば勇者《エリック》や師匠《アンリ》も此処《ここ》を発《た》つ。運が悪ければ、ガーゴイルやアドレイとも別れることになる。
 闇を討ち果たしたあの旅路の果てにあたしは多くの人と別れたけれど、あれが最後ではないのだ。あたしが生きている限り、こうした別れはいくつもある。


『この空の何処《どこ》かでお前が生きていてくれる、って、そう思うことが――』


 義兄《あに》はそう言ったけれど。

「でも……ちょっと辛《つら》い、なぁ」

 ルチナリスはソロネが消えた空を見上げた。
 月がゆっくりと雲に隠れていくのが見えた。




 風がザワザワと葉を揺らして吹き抜けていった。
 頼りなさげな首を膝ほどの高さにまで伸ばしているのは、名も知らない花の残骸《ざんがい》。伸び放題の草は我が物顔で領地を広げ、かつては家だったのであろう煉瓦《れんが》の壁をも越えようとしている。その浸食に人間界を襲った魔族《悪魔》を、そして魔界を呑み込みかけた闇を思う。
 見上げれば、灰味がかった空を黒雲が流れていく。あの雲の速さからして、じき、雨が降って来るだろう。
 眼下に広がる風景は、此処《ここ》で起きたかつての悲劇を今なお伝えんとばかりに、何処《どこ》となくうら悲しい。


「神父の行方は?」

 数歩先を歩く黒髪の彼《青藍》は、振り向きもしないで問いかけて来る。
 風の騒《ざわ》めきと葉擦《はず》れの音。遠くでゴウ、と鳴る何か。そんな雑音の中でも彼の声ははっきりと聞こえるから不思議だ。

「捕えられた者の中にはいなかったようです」
「そう」


 10年前。この村は魔族に襲われた。
 件《くだん》の神父は養い子をひとり残し、人々を助けるために村に向かった。その先で命を落としたのか、何処《どこ》かへ無事逃げ延びたのかは杳《よう》として知れない。
 養い子のほうは魔族に捕らえられ、戦果として魔界に連れて行かれ、其処《そこ》で青藍に出会った。話は此処《ここ》から始まったのだ。

「生き延びたとしても、もう50か60になるでしょう。こんな人のいない山奥では暮らすことも、通って来ることも難しい歳《とし》です」
「そうだね」


 人間界と魔界は鏡のように隣り合って存在する。人間界で魔族が己の領地を主張するのは、魔界の領地をそのまま準じているからだ。
 かつて、メフィストフェレスの城を見たルチナリスが「何処《どこ》かで見たことがある」と言っていた。それは此処《ここ》、ミバ村のある場所が、鏡写しの魔界ではメフィストフェレスの城がある場所だからに他ならない。湖の形にも見覚えがあって当然だろう。
 グラウスは草の向こうに覗《のぞ》く、湖どころか池と呼ぶにも抵抗がありそうな貧相な水面を眺める。
 言われて見れば同じ形をしている。とは言え、向こうの湖はこの池の倍の大きさがあるけれど。


「もう誰も戻らないのかな」
「港や大きな街道が近くにあれば、人が集まりやすい分、復興も早いのでしょうが……わざわざこんな不便な地に住もうと言う物好きはいないでしょう」

 こんな僻地《へきち》に人々が住もうと思ってやって来るのは、発展しすぎて人口が増え、新たに土地を求めるようになってからのことだろう。
 それはまだ何十年も、何百年も先のこと。
 此処《ここ》が復興した様子を見せてやりたいと彼が思っているであろう娘は、その時にはもういない。

「建物を全部改築して、街道までの道も整備したら住んでくれるんじゃないかな」
「……誰もいない、家だけ立派な村が山奥にいきなり出来たら、胡散臭《うさんくさ》がって余計に近寄りませんって」

 木の枝に巣箱をかけて鳥が来るのを待つのとは違うんですよ、と苦笑交じりに諭《さと》す。
 魔族の自分たちがこんな会話を繰り広げていることを人間が見たら、攻撃しておいて図々しい、と思われるかもしれないな、と思いながら。



 青藍がルチナリスに言わなかったことがある。
 それはこの村がメフィストフェレスの領地に含まれているということ。
 この地を襲った悪魔とは、他の誰でもなくメフィストフェレスだということ。
 だから彼女は本家に連行された。青藍に出会った。割って入ってきた当主の息子《彼》と当主の奥方《第二夫人》相手に兵士も強く出ることができず、結果としてルチナリスは彼らの手元に残されることとなった。
 彼女《ルチナリス》にしてみれば奇跡のような幸運だが、青藍からしてみれば不幸な少女を救った恩人という認識で終わりはしなかった。魔界の、城を取り囲む塀の外には1歩も出たことがない彼が初めて出会った「塀の外」。豚や牛と同じ食料として認識されていた「人」。彼にとって自分たちと変わらない小さな少女との出会いが、その先で待つ魔王として《人間界での》の生き方を決めたと言っても過言ではない。

 この地に降りかかった災難はあなたのせいではない。
 そう言ったところで慰《なぐさ》めになるだろうか。
 彼《か》の家がこの村を襲った時、青藍は幽閉されていた。直接手は下していないから、と言ったところで彼の罪の意識が薄れることはない。
 彼が10年もの間ルチナリスを手元に置いて育てたのはその罪悪感に起因する。自分の家が、自分と血を同じくする者が、彼女の生活を襲い、壊し、失わせてしまったことに。

 同じ家に属しているというだけで罪悪感に囚《とら》われかねないこの人に、何を言えばいいのだろう。魔王役として人間界にいた10年もの間、此処《ここ》に1度もルチナリスを連れて来なかったのも、それが原因かもしれない。


「……雨が降りそうですよ。こちらへ」

 雷鳴が響いた空を仰《あお》ぎ、私《グラウス》は青藍を促す。少し先の高台に位置する建物に、と歩を進める。

 民家らしからぬ曲線を描く入口を抜けてすぐに飛び込んできたのは、通路を挟んで左右に並ぶ長椅子だったもの。奥の壁にはささやかながら色硝子《ガラス》が嵌《は》め込まれ、床に点々と虹色をばら撒いている。

 この建物は魔界にはない。だが以前、見たことがある。
視察帰りに雨に降られ、取り急ぎ、軒《のき》を借りるつもりで立ち寄った場所と同じもの。教会と呼ばれている建物。そしてこの村に来た目的。


 此処《ここ》は、ルチナリスの家だ。




「前にもこんなことがありましたね」

 壊れた窓から降り出した雨を見上げている青藍に、グラウスは話しかける。
 以前立ち寄った教会は、此処《ここ》よりもっと朽《く》ち果て、扉も椅子も崩れてしまっていた。残っていたのは汚れてくすんだステンドグラスと、奥に立つ聖女の像のみ。

 ……あんなふうに。
 私は奥の暗がりに目を向ける。あの時と同じように、こちらに向かって手を差し伸べて立つ人の姿が見える。

 あの時、彼女と青藍が似てると思ったのは、あながち間違いではなかった、というわけだ。
 微笑《ほほえ》んで自分に手を伸ばした彼に聖女の姿がダブって見えた。あの時は、目の錯覚にしたって馬鹿馬鹿しいと一笑に付して終わったけれど。
 でも、今なら。
 窓辺に立つ人の横顔を窺《うかが》う。
 聖女という呼び名がどう考えても女性を指す以上、そう呼ぶことには抵抗があるし、呼んだ日には再起不能になりかねない怒りを向けられることもわかっている。けれど、人々が彼女に思う感情を私が同じように向けるとすれば、それは「あなたに」だけだ。
 

「濡れてしまいましたね」

 雷鳴が轟《とどろ》く度《たび》に、彼の髪についた水滴を浮き上がらせる。
 手巾《ハンカチ》を取り出して、私はあの時と同じように濡れ羽色の髪を拭《ぬぐ》う。
 あの時と同じように彼は大人しい。黙り込んでいるのは冷えて体調が芳《かんば》しくないのか、

「少し伸びた。また結びますか?」

 いや。考えに没頭してしまっているだけだ。考えという名の懺悔《ざんげ》に。

 数ヵ月前より長くなった襟足を、拭うふりをして軽く引っ張る。そんなことをしても、彼はまるで反応を返さない。


「ほら、こちらのほうが濡れませんよ」

 手巾《ハンカチ》をしまい、グラウスは教会の奥へ――聖女像へと足を進める。
 此処《ここ》の聖女の像は以前見たものに比べても状態がいい。教会が村から外れていたせいで、屋根や壁に酷《ひど》い損傷がなかったのが幸いしたのだろう。椅子は経年劣化で座面が傷んでしまっているが、前回と同じように像の台座になら腰掛けることができそうだ。



 突然の人間狩りでは、財産どころか着の身着のまま逃げるのが精一杯だったろう。そんな彼らを責めるのは筋違いと言うものだが、こうして見れば、それでもやはり腑《ふ》に落ちないものがある。
 彼らはこの像に祈りを捧げ、幸福を願い、心の|拠《よ》り所としてきたはずだ。魔族が去り、平穏が訪れてからでもいい。誰かひとりでもこの像を思い出す者はいなかったのだろうか。
 新天地での生活に慣れてしまったら、新天地に新たな像があれば、過去に縋《すが》ったものなど忘れてしまえるのだろうか。
 以前の教会でも思ったが、何故《なぜ》彼らは今までずっと祈り縋《すが》ってきたものを捨て置いて平然としていられるのだろう。
 ただの像だから?
 そう思っているのだとすれば、その「ただの像でしかないもの」に幸福を願うこと自体がナンセンスだ。
 
 そう思いながら、ふと、像の足元に目が止まった。

 束ねられ、置かれた花がある。
 結わえられてもいない。紙に包んであるわけでもない。花瓶にさしてもいない。
 野辺の花に毛が生えた程度の花だが、今は冬。そのあたりの草むらで好き勝手に咲く花は、先ほどの残骸のように枯れ果てたものしか残っていないはずだ。
 しかもその花は枯れていない。
 萎《しお》れてはいるが、その萎《しお》れ具合から見ても、ほんの数日前に捧げられたばかりだとわかる。


「これは、」

 私の声に、窓辺にいた青藍が振りかえる。

「どうか、し……」

 近寄って来て、同じように像の足元を見て息を呑む。

「これって」

 そう。これは、誰かが此処《ここ》へやって来た痕跡。その誰かは山奥の此処《ここ》に村があったことを、その村に教会があることを――そして聖女の像があることを知っている。
 こうして、此処《ここ》では手に入らない花を持って、捧げに来ている。


 青藍は萎《しお》れた花を手に取った。そして私を見る。

「……神父?」
「さあ、これだけでは何とも。しかし定期的に此処《ここ》に来ているようなら、」
「調べられる?」

 相変わらず無茶を言う。
 けれど、何もかもを自分ひとりで背負《せお》おうとする苦しみと、何処《どこ》までも他人を許そうとする優しさ。そんなものがないまぜになった、陰《かげ》のある悲しい笑みでそんなことを言うから、

「やってみましょう」

 首肯《しゅこう》するしかないじゃありませんか。


「だから、ご自分を責めるのはやめてください」
「責めてないよ」
「そういう嘘はすぐわかります」


 何もかも終わったはずだ。もうこれ以上苦しむことはないのだ。
 なのに彼は、当主就任と同時に隔《へだ》ての森を閉めると言い出した。
 ルチナリスのことを覚えていない彼がそんなことを思いつく理由がない。上層部に指示されるまま余計なことに首を突っ込んでいるのではないか、と最初は思っていたが、もしかすると記憶ではなく魂の奥底に、彼女への懺悔《ざんげ》が刻み込まれてしまっているのかもしれない。そうとしか思えない。
 そして記憶を取り戻した今、その懺悔《ざんげ》はより明確な形をもって、彼を責め続けている。


 私はもう一度、像を見上げる。
 人間たちの祈りの象徴である「聖女」はこの世界にはもういない。前《さき》の聖女は亡くなり、ロンダヴェルグで新たにその座についた娘は治癒しか使えない偽物。ルチナリスも、聖女の力を宿していると推測される青藍も、その力を使うことはできずにいる。
 なのに人々は「彼女」に祈る。

 闇が誰の心の中にもあるのなら、当然、光も皆の中にあると考えるべきなのだろう。願いが叶うのは祈った者の心の強さだったりするのだろう。
 ならば魔族の私が祈っても、叶う可能性は0《ゼロ》ではないはずだ。

 だから。

 どうか、あなたの血を引く御子に祝福を。
 彼が背負《せお》おうとしている罪を、闇の眷族《けんぞく》でしかない私が共に背負《せお》おうとすることを、どうか、お許しください。





「どうかした?」
「いいえ」

 像を見上げたまま黙り込む私を、青藍は不安そうに見上げてくる。そんな彼に笑みで返し、私は手を彼の頬に滑らせ、髪を弄《もてあそ》ぶ。

「新しいリボンは私に用意させて頂けますか? あなたの瞳に似合う、綺麗な蒼《あお》を探してきます」
「るぅが買ってくれたのは?」
「あれはボロいから捨てました」

 正確に言えば、光の柱に閉ざされた時に失くしてしまった。古いものだったし、あの光の奔流には耐えられなかったのだろう。
 今まではあの細い蒼《あお》が視界に入る度《たび》にルチナリスが所有権を主張してるようで、どうにも気に入らなかった。が、なければないで物足りない。

「え!? 酷《ひど》っ!!」

 ぎくしゃくと、それでもそう言って青藍は笑う。
 彼の中にあるあのリボンにまつわる記憶は、今や、私が抱いていた「所有権の主張みたいで気に入らない」というだけのものでしかない。ルチナリスがどんな顔で彼に渡したのか、その時、過去の青藍は何を思ったのか。その記憶はない。
 光の柱にしても。
 あの時彼が失ったのは古びたリボンだけではない。彼はあの場所で兄を失ったのだ。
 なのに、その記憶もない。

 魂が混ざってしまった、なんて厨二《ちゅうに》じみた主張の真偽は未《いま》だ不確かで、記憶以外に共有しているものの有無もわからなくて。
 青藍を連れて行こうとしたあの少女に言った、ふたりで足して2で割ればプラスマイナス0《ゼロ》だ、なんて、スペックの高かった青藍からしてみれば改悪でしかないわけで。狙ってそうしたわけではないけれど、これで良かったのだろうか、と思わない日はない。

「青藍様」
「なに」
「良かったのですか? これで」

 その改悪のまま、彼は新たな道を選んだ。
 敷かれたレールではない、新しい道を。

「私たちが選んだ道は破滅に繋《つな》がっているのかもしれません。この世界では私たちのほうが異質で、排除すべきもので。でも、今ならまだ戻れます」

 青藍を連れて行こうとしていた少女は言った。
 私たちが行く道は茨《いばら》の道だと。
 私は今でも「青藍のため」と言いながら「自分のため」に動いているのではないか? 青藍はそれを望んでいないのではないか? 今こうして此処《ここ》にいるのは青藍の希望ではあるけれど、私の心の奥底を汲《く》んでそう願っただけではないのか?
 そう思わない日はない。


 青藍は暫《しばら》く宙に視線を迷わせていた。私の言葉を咀嚼《そしゃく》しているようにも見える。
 あの少女が茨と言った時、彼もその場にいたのだから理解できないはずはないのだが、いざ逡巡《しゅんじゅん》している様を目にすれば心が痛まないはずもなく。なのに、その反応が帰って来る可能性までわかっていて問いを口にする自分のM《マゾ》っ気《け》には呆れてしまう。
 わかっている。
 私は彼を試している。
 

 視線を迷わせていた青藍は、やがて、ニヤリと笑った。
 まるで私の薄汚れた自尊心を見透かすように。

「もし破滅しそうになったら逃げちゃおう」
「逃げる?」
「俺たちのことを誰も知らない場所に。俺が異質じゃない場所に。国を越えて、海を越えて。
 連れて行ってくれるんだろ?」


『――私はあの人に世界を見せてあげたい。あの人がよく口にする東洋の国の人々があの人と同じ黒い髪をしていることも、あの人が苦手にしている海がどれだけ広いのかも』


 それはルチナリスがロンダヴェルグ入りしている間、アンリと潜伏していたアーラの町にいた時のこと。青藍を取り戻したところでメフィストフェレスの手から逃げることができないという彼《アンリ》に語った話だ。
 今の青藍の持つ記憶は、私の魂に刻み込まれていたものだ、とは犀《さい》から聞いた見解で。だから、あの時、あの場にいなかった彼《青藍》が私の「海を越えてランデブー」を知っていても何らおかしくはないのではあるけれど。

 けれど!

 隠しておいた恋文《ラブレター》を盗み見られたみたいで恥ずかしすぎる!
 この調子で全部知られているのか?
 伝えられない、伝わらない、とヤキモキしていたのが解消したのはいいけれど、それでいいのか自分!!

「あ、えっと、」
「お前がいてくれれば俺は何処《どこ》でも生きていける」

 その顔は反則だ!!
 そんなことを言うのも反則だ!!
 でも!

「…………………………ええ。何処《どこ》までもお供しますとも」

 嬉しくないと言ったら嘘になる。

 こんな私でも何時《いつ》かはあなたに相応《ふさわ》しい相手になれるだろうか。
 少しでもあなたの救いになれるだろうか。

 そして何時《いつ》かは。
 私が番《つがい》に選んだのはあなたなのだから。



 あれだけ屋根を叩きつけていた雨音は何時《いつ》しか遠のき。
 四角く切り取られた窓枠の外には青白く染まった風景が戻って来ようとしている。

「ああ、雨が上がりそうだ」
「ふぅん?」
「月が出たら、あなたに言うことがあるんですよ私」


 グラウスは青藍に向けていた視線を上に上げる。
 時折《ときおり》差し込む月明かりに浮かび上がる聖女像の顔は、確かに微笑《ほほえ》んでいた。




 今日。とうとう新たな魔王様が到着するらしい。

 ルチナリスは玄関ホールの扉を少し開けて、正門を窺《うかが》っている。
 城内の掃除は万端。料理も「今日だけはちょっといいものにして」ってマーシャさんにお願いしてある。洗濯物はあたしの分だけだったから部屋に干して来た。裏庭に干して、万が一乙女のパ、パ、パ、パン〇を新しい魔王様に見られでもしたら恥ずかしくて死ねる。
 わかる。テラスを魔王様がちょうど通りかかった時に限って突風が吹いて、風に乗って飛んできたパ〇ツがふぁっさーっと魔王様の顔に落ちる未来が。
 これで魔王様が乙女遊戯《ゲーム》的なイケメンだったなら、

『おや、かぐわしい香りがすると思ったら可憐な〇ンツが』
『あ、すみません! それあたしのです!』
『やあ、きみのだったのかい。パン〇に引けを取らない可憐な娘《こ》だね』

 なんて……それだけは絶対に嫌だ! かぐわしい香りとか、たとえイケメンであろうともパ〇ツの匂いを嗅《か》がれるのはもっと嫌だ。そんなイベントで恋愛フラグを立たせたくないし、第一、今までの傾向からしてイケメンとフラグが立つことはない!
 なのに獣顔の魔王様だったら簡単に立つのよ。そっちのほうが面白いから。

 ああ、脱線した。つまり日常生活系は準備万端ということだ。
 雨後の竹の子のように現れる勇者御一行様対策として正門に「本日休業」の貼り紙も貼った。義兄《あに》のように結界を張ればより安全なのだろうけれど、残念なことに今此処《ここ》に結界が張れる猛者《もさ》はいない。
 フロストドラゴン襲来の時に、もの凄い必殺技を使ったアドレイならできるのではないかと思ったが、あの技は義兄《あに》が「魔王が倒れた万が一の時に時間稼ぎできる用」としてレリーフに保存していた魔力を使ったからで、義兄《あに》どころか魔王役そのものがいない今、魔法系の対策は不可能なんだとか。
 鎧を着るのも出歩くのも億劫《おっくう》なこの季節、勇者の来訪頻度《ひんど》は格段に下がっている。全く来ない日もある。それを期待するしかない。


 なんせ昨夜のうちに魔王代理メンバー主力のお姉様《ソロネ》が旅立ってしまった。
 そして今朝、陽が上りきらないうちに師匠《アンリ》も出て行った。彼はあたしと勇者《エリック》を残して行かなければいけないことを最後まで気にしていたけれど、最寄りの隔《へだ》ての森が閉まるギリギリまでいてくれたのだから文句は言えない。
 せめてゲートが使えれば森まで行かずとも扉《ドア》to扉《ドア》で帰ることができるのだが、此処《ここ》は「悪魔の城」。義兄《あに》の頃から、いやそれ以前から、魔界にゲートを|繋《つな》ぐことは許可されていないし、繋《つな》ぐ許可が出せる「城主」もいない。


 時間はジリジリと経《た》っていく。
 ずっと玄関先にいるから手足が冷える。鼻の頭も痛い。
 でも実際にはまだ30分とか10分とか、全然経《た》っていないのだ。玄関先に並ぶ石像の台座から伸びる影の角度もさして変わっていないし、太陽の位置も雲の形も似たり寄ったり。
 ああ、やっぱりこんなところで待ち伏せるのはやめようかしら。フロストドラゴンの時に執事がずーーーーーーーーーーーーっと此処《ここ》で義兄《あに》の帰りを待っていたけど、思い返せば奴《やつ》は氷属性。寒さには強いじゃないか。非力なあたしが同じことをしても、

『こんなになるまで待っていてくれたんだね』
『魔王様……』

 なんて展開になる前に風邪をひくこと間違いなし。
 それにイケメンが来ると決まったわけではない。だったら、

「何時《いつ》来るかわかんないんだから、中で待ってれば?」
「おぅいぇあぉぅぅぅう!」

 思っていたことを背後から言われて、思わずルチナリスは乙女らしからぬ悲鳴を上げた。

「|Oh,Yeah《おーいえー》?」
「違う」
 
 振り返るまでもない。
 勇者《エリック》だ。背後にタキシードを着たガーゴイルを従えている。
 いつもと同じ白銀のフルアーマー着用なのは「ついうっかり勇者御一行が来てしまった時対策」なのか、着慣れているだけなのか。お姉様《ソロネ》も師匠《アンリ》もいない今、勇者《エリック》ひとりで勝てるとは到底思えないし、顔を覚えたまま逃げられる可能性も高いから、魔王代理は休んでほしいところだけれど……その前に鎧は洗わないのだろうか。最近、鼻につく臭いがするのだが。

 だが。まぁ、とにかく。

「何その恰好《カッコ》」

 見慣れた勇者よりも背景《ガーゴイル》に目が行くのは仕方がないと言えよう。
 メフィストフェレス本家でのメイド姿に見慣れたせいか、此処《ここ》のガーゴイルを前にして目のやり場に困ってはいたけれど、今更それを指摘すると意識しているようで何も言えずにいた。だから服を着てくれたのは正直助かる。
 
「だってさ、どうにも猥褻物《わいせつぶつ》陳列罪《ちんれつざい》だし、見るからに寒そうだし」

 どうも取りなしてくれたのは勇者《エリック》らしい。何処《どこ》から調達して来たのかは気になるけれど、きっと地下倉庫で古着が大量に見つかったのだろう。ガーゴイル全員に新品を買い揃えた、なんてことになっていないと信じたい。
 城の銭勘定はメイドの仕事ではないけれど、執事がいない今、誰が管理するかと言えば……きっとあたしだ。

 新たな使命に呆然となるあたし《ルチナリス》の前で、金銭感覚はあたし以上に詳しそうな勇者《エリック》は斜《はす》に構える。
 片手を腰に、もう片手を眉間のあたりに持っていく、その謎ポーズは何だ。キラリーン! と歯が光ったが、歯を光らせる仕掛けでも仕込んでいるのか?
 城下町で流行《はや》りの某戦隊を彷彿《ほうふつ》とさせる通信バッヂ然《しか》り、この男は着々と野心《妄想》を実現させていっているから、歯が光ったからと言って目の錯覚で片付けることはできない。

「それに今の僕は魔王代理。またの名を城主代理だからね。城主ってのは後ろに執事を従えてるもんでしょ」

 ……それは違うのではないだろうか。
 ツッコミたい。うちの執事が異様に過保護だから義兄《あに》に始終貼りついていただけだと言いたいけれど、残念なことにあたしは義兄《あに》以外の城主とグラウス以外の執事を知らない。あたしの知らないところで「執事は城主の3歩後をついて回る法則」なんてものがあるのかもしれない。だからツッコめない。
 とにかく貼りつかれているのはあたしではないし、本人《エリック》がいいと思っているのなら止めることもない。そう納得させて、ルチナリスは心の中で勝手に話題を完結させる。


 義兄《あに》と執事《グラウス》は今頃どうしているだろう。
 思えば義兄《あに》は、あたしがメイド仕事に精を出しているといつも「る~~~~う~~~~」と気の抜けた声と共に抱きついてきたものだった。執事《グラウス》はその少し後から殺気を飛ばして来た。
 今は突然抱きつかれることも、無闇に殺気を飛ばされることもない。
 あんな日は2度と来ない。
 

『――人間の世界で、人間として生きなさい。いいね、ルチナリス』


 何時《いつ》の日か、義兄《あに》はそう言った。義兄《あに》はあたしと別れるつもりだった。
 なのに、あたしは今でもまだ魔界との縁を切れないでいる。





「それよりさあ、これ見て! ジャジャーン!!」 

 そんなあたし《ルチナリス》の心の中など全く読みもしないで、勇者《エリック》は懐から細長いものを取り出した。それを目の前で、ピン! と伸ばす。

「何それ」
「リボンに決まってるじゃない。他に何に見えるのさ」

 言いながら勇者《エリック》は自分の髪を後頭部でひとまとめに掴《つか》んだ。
 結える長さもない髪だ。結んだところで頼りない。辛《かろ》うじて引っかかっているとしか見えないそのリボンはルチナリスの目の前であっけなく力尽き、床に落ちた。

「……もしかして喧嘩売ってる?」

 何のつもりだ!?
 いや問うまでもない。義兄《あに》を真似ているのだろう。
 しかぁし! しかしだ!! 男でリボンが似合うのはビジュアル的にも毛髪量的にも限られている! 簡単に言ってしまえば目の前のこの男には似合わない!

「えー? ノイシュタインの領主様と言えばこれでしょ?」

 勇者《エリック》は「よいしょ」とオッサンの如《ごと》き掛け声をかけて身を屈《かが》め、床に落ちたリボンを拾い上げる。
 それが逆鱗《げきりん》を逆撫でした。

「勇者様は領主様じゃない。ただの戦闘要員!」

 そりゃあ義兄《あに》はそうだったけれど、その前もその前もそのまたずーっと前も、リボンで髪を結っていた領主などいない。もしかしたらいたかもしれないけど、あたしは知らない。
 ついでに言えば、義兄《あに》はそんなオッサン臭い掛け声はかけない。あの人が床に落ちたものを拾う前に横からさっと拾い上げる男が常駐しているからかもしれないけれど、とにかく言わない!

「青藍様の仮装する奴《やつ》はイケメン以外許さぁぁん!!」
「待って! ねぇ、それって暗に僕のこと不細工だって言ってない?」

 勇者《エリック》は大袈裟に溜息をついたが知ったことか。あたしのこの10年の片想いを、美化しまっくった思い出を、そのぼやけた顔と体形で汚すんじゃないわ!

 ルチナリスの怒気に当てられ、勇者《エリック》が慌てふためく。
 再度髪を結わえることに挑戦させられていたリボンが手を離れ、逃走を図る。

「え、あ! うわっ!」

 飛んで行くものを見たら捕まえようとするのは人の性《さが》なのだろうか。咄嗟《とっさ》にふたりして手を伸ばしたものの、爪の先でその捕獲をかわし、リボンはさらに舞い上がる。もしかしたらガーゴイルが姿を隠して操っているのでは? と疑いたくなる動きだ。
 ふたりの奮闘も空《むな》しく、リボンは覗《のぞ》き見るために開けていた隙間をぬって、外に飛び出して行った。




 ところ変わってメフィストフェレス本家。

「どういうつもりだ、犀《さい》!」

 廊下を歩いていく家令の黒い背に、地響きのような足音と声が追いかけてきた。

「犀《さい》!」

 背後まで近付いた声は、何かが崩れる音と共に聞こえなくなる。振り返れば、床の敷石を踏み壊し、その穴にはまり込んでいる中年男がひとり。

「……相変わらずですね。修繕費はあなたの給金から引きますよ」
「~~~~古いのが悪いんだろうが!」

 そんな会話に、行き交うメイドがクスクスと笑いながら通り過ぎていく。


「お帰りなさいアンリ。早かったですね」
「ああ、早馬使ったからな。ってそうじゃねえ。どういうつもりだ」

 差し出された手を撥《は》ね退《の》け、四苦八苦しながらも穴から抜け出たアンリに、犀《さい》は目を細める。

「どう、とは?」
「決まってるだろう。青藍のことだよ!」
「坊ちゃんなら出かけていますよ」
「そのことを言ってるんだよ!」


 昨日、本家から来た連絡は一切、そのことは触れていなかった。
 知ったのは今日未明。スノウ=ベルが姉であるアドレイ宛てに寄越した連絡を、「もしかしてご存じではないのかと思いまして」と教えてもらったからだ。
 それで飛んできたのだが、時既《すで》に遅し。
 なのに絶対一枚噛《か》んでいるであろう男は白々しくとぼけてやがる、ときた!

 堂々巡りのような会話に業《ごう》を煮やしたアンリは、それでも左右を見回すと犀《さい》の肩に腕を回して引き寄せた。すれ違うメイドに聞かれないよう、ひそり、と声を小さくする。

「(何で青藍を外に出した)」
「(前に言いませんでしたか? 坊ちゃんはこんなところにいるよりも、市井《しせい》に出たほうが幸せになれるんじゃないか、と)」
「(言ったけどよ)」


『坊ちゃんはメフィストフェレスを出て市井《しせい》の暮らしをしたほうが幸せなんじゃないでしょうかねぇ』


 犀《さい》がそう言ったのは数十年も前。10歳だった青藍を前にしてのことだった。
 魔力が人一倍高い上に魔眼などというオプションまで付いた「人間との混血児」。血の濃さを貴ぶ貴族社会で生きていくのは辛《つら》いだろう。
 それにこの家には既《すで》に紅竜という嫡男《ちゃくなん》がいる。次男はせいぜい家同士を繋《つな》ぐための駒として何処《どこ》かの家に養子と言う名の人質に出されるのがオチだ。
 しかし高い魔力を手放すのは惜しい。みすみす他家の戦力を上げてやる義理などない。さらには前当主が直々《じきじき》に「外に出すな」と指示したとなれば、その役目すら難しい。
 けれども此処《ここ》に置いておけば、紅竜を良く思わない派閥によって対抗馬としてまつり上げられる可能性が残る。

 紅竜の地盤を揺るがすおそれがある、なんて仮定で処分されるか、何時《いつ》か来るかもしれない戦の日まで「温存」させられるか。そもそも前当主は何故《なぜ》青藍を外に出すなと言ったのか。
 そんな疑問を抱えながら青藍を教えていたある日、前当主の言葉の裏にある真意を知っているであろう犀《さい》が言ったのが、前述したその台詞《セリフ》だ。

 家がどうとか言う貴族様な考えも長年勤めていればわからなくはないが、不自由さを感じずにはいられない。我が子のように接して来た青藍のたった1度の人生を、「家のため」だの「他人の思惑」だののために潰されたくはない。そう思ったから逃がそうともした。
 しかし、紆余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》た今、青藍はこの家にいる。逃がしたほうがいいと言った犀《さい》も、今ではもう逃がせとは言わない。
 当主の座を得たのだから今までのように道具として扱われるばかりではないだろう。不自由さはあるだろうが、それもまぁ世間一般の貴族様に準ずる程度の不自由だし、と自分を納得させて。「家のため」などという今まで嫌悪していた理由すら、それでもこの家を継げるのはもう青藍しかいないのだから、と無理やり正当化して。

 なのに。
 
「(隔《へだ》ての森を完全に閉めたところでゲートがある。他の家が森を閉めるって案に渋々ながらも従ったのは、いざとなればゲートを使えばいくらでも人間界に行けるっていう抜け道が残されてっからだ。だけどよ)」

 今、人間界に行くということが、2度と戻って来られないかもしれない、という可能性を含んでいることも間違いではない。
 たとえゲートという最終手段が残されていようとも、彼らがそれを使える状況になければ、または使おうとしなければ意味を成さない。
 犀《さい》とてそれをわかっていないはずもないだろうに。


「(あなたもいろいろと考えるようになりましたねぇ)」
「(茶化すんじゃねぇ)」

 犀《さい》の返答次第では、もう1度人間界に戻らねばならない。
 本人は市井《しせい》に出したほうが幸せだろうがこの家はどうなる? 「お館様《やかたさま》」と呼んで忠義を尽くして来た前々当主が守ってきたこの家は。この家に関わる多くの使用人や兵士を路頭に迷わせるのは。


「(どういうつもりだ)」


 あの事件以降、犀《さい》の体調は芳《かんば》しくない。
 家令として動いている時は不調を見せないようにしているからか、彼の不調を知っている者は長老衆にすらいないだろう。
 青藍がいない今、犀《さい》が倒れたらこの家は終わる。


「……私はね、お館様《やかたさま》を呑み込んでいたあの闇を潰した時に、共に死ぬつもりだったんですよ」

 犀《さい》はアンリの腕を肩から外すと、近くの壁にもたれ掛かった。

「そんなこったろうと思ったよ」

 犀《さい》が闇を滅するのに使ったのは、自《みずか》らの胸から抜き出した水晶の核だった。
 貴石の精霊は心臓の代わりに核を持つ。核が壊れない限り死ぬことはない。
 それは言い換えれば核が壊れれば死ぬということで。平然と嫌味を言ってくるから大丈夫なのだろう、と信じ込んで部屋を出て行ってしまった自分は、あの後、犀《さい》がどうなったのかを知らないでいた。
 ジルフェに教えられるまでは。


「後追いなんてお前らしくもない」
「いえね。ちょっと飽きてしまったんですよ。魔界の行く末を見守るのに」
「それで放り出すのか」
「それも私らしくありませんか?」
「だな」

 前々当主《お館様》の後を追うつもりだった、なんて安っぽいメロドラマ的思考で動いたとは思わない。言うなれば前々当主の無念を晴らした、前々当主の意思を継いだ。と言うところだろう。犀《さい》にそこまでの情熱があったことが驚きだが、実際に犀《さい》はその意思に基づいて1度は死んだのだ。

 今、犀《さい》が生きているのはジルフェ《風の精霊》が代わりに埋め込んだ核のせい。
 その核が上手《うま》く適合できていないから体調を崩している。
 犀《さい》が水晶の精霊であること自体、知っている者は皆無だから、このことを推測できているのも自分《アンリ》だけだ。

 だからもう誰も死なせたくはない。
 不幸にもさせたくない。
 犀《さい》も、青藍も、兵士も、使用人も。私利私欲に走る老害はどうなってもいい、と切り捨てたいが……きっとできない。できなくて、「だから甘いのだ」と笑われるだろうけれど。


 唸《うな》るアンリに、

「ご安心なさい。飽きましたが、この家を放り出しはしませんよ。乗りかかった船ですからね」

 と、犀《さい》は薄く笑う。


「そして私たちが大事に育てた坊ちゃんにも、私は誰よりも幸せになってもらいたいと思っているんですよ」
「それがポチ《グラウス》のアレか? あれだってまだ審議中だろう。それを、」
「第三夫人アダマス様のところにお嬢様がいらっしゃるのは御存じですか?」

 アンリの言葉を遮《さえぎ》って、犀《さい》は唐突に話しだした。

 第三夫人アダマスには今年16になる娘がいる。
 呼称はふたりの兄に倣《なら》って「碧羅《へきら》」。その名のとおり、新緑の瞳と、母譲りの淡い金髪――遠目からではクリーム色に見えるほど――を持つのだと。


「碧羅《へきら》様を本家にお呼びしました。アダマス様があんなことになって、社交界デビューもままならないまま放置されていたそうですが、数日後に当家本家筋の姫としてお披露目を予定しています」
「ちょ、っと待て? 16って、それじゃあお館様との子じゃねえってこ、むぎゅ」

 指摘しかけたアンリの口を、犀《さい》は笑みのまま塞《ふさ》ぐ。
 
「(……お館様は我々が闇を滅したあの日まで”生きていた”のです。ですから碧羅《へきら》様はお館様の御子《おこ》に間違いありません)」
「(お、前……青藍を逃がすためにその娘を使うのか)」


 前々当主《お館様》は隠居した後もずっと生きていると言われていた。他の貴族に影響の大きい「稀代《きだい》の大悪魔」を闇の餌食にしたことを、紅竜が隠していたからだ。
 闇を葬り、全てを明らかにした今、彼の死も公《おおやけ》にされたが、よもや数十年前に死んでいたことをずっと隠していたと言えるわけもなく、前々当主が死亡した日は事件が解決したあの日となっている。
 それが碧羅《へきら》の出自を誤魔化《ごまか》すのにちょうど良かった、というのは幸いと取るべきなのだろうが……。

「(私だって会ったこともない、お館様の血が一滴も混じっていない馬の骨よりも、坊ちゃんに幸せになってもらいたいですから。
 それに碧羅《へきら》様も、このまま忘れ去られて貴族とは言い難《がた》い暮らしを強《し》いられるよりは、ずっと幸せでしょう?)」


 青藍は外に出したほうが幸せだといったその口で、碧羅《へきら》はこの家に来たほうが幸せだと言う。
 果たして当の本人はそれを幸せと思うのだろうか。
 何時《いつ》かこの家の全てを背負《せお》わされることになるかもしれない娘のことを考えてはみたが、それが良いことなのかはアンリには見当もつかなかった。