~12月~




 あれからどうやって帰って来たのか覚えていない。
 ノクトが言うには、何時《いつ》まで経《た》っても帰って来ないと思って玄関先まで見に行ったら箱を持った僕が蒼《あお》い顔で突っ立っていた、だそうだ。
 箱の中身については翌日にでも僕が正気に返ってから……と思ったらしいが、僕が「栄養剤だから皆に配らないと」としきりに繰り返すので、偶然通りがかったヴィヴィに配ってくれと丸投げしたのだとか。
 時間的には門限間近だろうからヴィヴィもギリギリで帰ってきたところだったのか、連れはいなかったのかなど気になる部分はあったけれど、ともかく栄養剤の配布は既《すで》に終えてくれているわけで。何だかんだとヴィヴィには世話になりっぱなしだなぁ、なんて霞《かすみ》のかかった頭でぼんやりと思う。


 机の上にはそんな波乱を乗り越えてやってきた蛍光色のカプセルが2粒。
 朝日を浴びてキラキラと輝いている様《さま》はまるで宝石のようだ。このうちの1粒はどうもノクトの分らしい。
 何故《なぜ》ノクトの分が僕のと一緒に残っているのか。先に飲んだら悪いとか、綺麗すぎて飲むのがもったいない、なんてまさかあのノクトが言うはずがない……と思ったが案の定、

「そんな胡散臭《うさんくさ》い薬が飲めるか。だったら俺は他人《ひと》の倍、光合成するからそれでいい」

 と言い張った。嘘をついているわけでもなく、本気でそう思っているらしい。

 確かに胡散臭いと言えばそうなんだけど、とまたしても頭の片隅に浮かんだ虫の影を追い払う。そんなことを聞かせた日には絶対に飲まなくなること確定だ。
 光合成で補《おぎな》えないからこその栄養剤ではあるけれど、無理強《じ》いしたところで紙にでも包んでこっそり捨てるのがオチだから放っておこう。調子が悪くなったら「ほら見たことか」と飲ませればいい。
 かく言う僕も原材料のことを考えると口に入れられなくて、結局引き出しにしまい込んでしまった。いや、虫と言うのはあくまで想像でしかないのだけれど。
 

『――誰かいなくなったのかい?』


 薬局での出来ごとはノクトには言えない。
 アポティがフランと同じ目をしたこともあるけれど、それよりも僕が未《いま》だに”元のノクト”が|何処《どこ》かにいると思っていると知ったら、彼はどう思うだろう。
 転生なら彼自身がノクトなのだから問題ない。
 けれどもし転移なら。
 ご都合主義で外見がノクトと瓜ふたつなだけだとしたら。

 出会った当初、「ノクトではない」と主張していたのは”ノクト”の記憶がなかったからだ。それは今でも変わらないけれど、しかし今の彼は”ノクト”として生きようとしている。たとえそれがこの世界で生きていくための処世術でしかないとしても。
 もしノクトがもうひとりいるかもしれないと知ったら、彼はどんな反応を返すだろう。
 今度は”ノクト”の記憶があるふりをするのだろうか。
 本物のノクトを探し出して、消そうとしないだろうか。

 いや。僕は首を振る。
 今更本物が生きているはずがない。あの灼熱地獄の中で5ヵ月も飲まず食わずなんて無理な話だ。
 僕がクルーツォに尋ねたのはノクトの死を確かなものにしたかったからで……と言うことは僕はやはりノクトの生ではなく死を望んでいると言うことで、保身のためとは言えあまりにも身勝手な、いや、違う。僕は本当はノクトに生きていてほしいと……。
 ……何度考えたところで矛盾がぐるぐる回るばかりで結論など出ないことなのに、僕は繰り返し、繰り返し、頭の引き出しから出し入れしている。




 それからさらに月日は流れ。
 町はすっかりクリスマス一色に染まっている。葉を落とした街路樹にはイルミネーションが巻きつけられ、店先にいるアンドロイドたちは紅白の帽子や衣装に身を包んでいる。
 門限のある僕たちは5時には寮に戻らなければいけないので、点灯したところで窓からチラッと見えればいいところ。
 子供たちよりも、クリスマスを楽しもうというプログラムなど入っていないアンドロイドたちのほうがその日を待ち望んでいるように見えて、何だかとても奇妙だ。

 今年の電飾はピンク。陽《ひ》が落ちると町がピンクに染まり始める。
 栄養剤のような蛍光ピンクではなく、もっと淡い色ではあるけれど、どうにも1度付いてしまった虫の呪縛から僕は抜け出すことができないでいる。

 何も知らないノクトは呑気に「桜に似ている」と言う。その桜を見ながら飲食を楽しむのが春の風物詩だそうだが、生憎《あいにく》と海同様、もうこの世界の|何処《どこ》にも存在しないので僕にはその光景を思い浮かべることができない。

 ピンクは桜の色。花の色。
 遠いイルミネーションを視界に入れつつ、僕は頭の中で何度も復唱する。ピンク=《イコール》花、と上書きするように。
 



「しっかしなぁ、あんなにしてたら門限破って遊びに行く奴《やつ》いるんじゃないのか?」

 今日もノクトは窓の外を眺めてはそんなことを呟く。
 植栽と家々の屋根を越えた先には今日も幻想的なピンクが煌《きら》めいている。
 望んでも辿《たど》り着けない夢の場所。まるで砂嵐の向こうに見えるファータ・モンドのようだ。

「行ったところで店は閉まってるよ? 23日から25日は屋台も出るからその時のほうがいいんじゃないかな、門限も延長されるから罪にならないし」

 この町に”人間”は学生しかいない。
 だから店は始業前に店を開け、寮の門限で店を閉める。どれだけイルミネーションで飾り立てようとも、門限以降に客が来ることはない。
 客がいないのだからイルミミネーションなんて無駄、なんて意見もあるけれど、あれは事前告知の広告のようなものだ。こうして窓から眺めることで僕たちはクリスマスに向けて期待を膨らませ、屋台MAPとイベントスケジュールとを比べながら何処《どこ》をどう回ろうか、と何日も考える。それが楽しい。
 言わば今は準備段階。出かけたところでイルミネーション以外は何もないのだから、行くだけ無駄と言うものだ。

「わかってないな」

 僕の言葉に、ノクトは小馬鹿にしたように笑いを噛《か》み殺す。

「屋台なんか楽しみにしてるのはコ・ド・モ。大人は景色を楽しむものさ」

 景色を楽しむような外出すらしない引き籠《こも》りが何を言っているのだか。
 と思いつつも話を聞き出せば、花見にしろイルミネーションにしろ「何処《どこ》に行っても人ばかりで暑いわ狭いわ見えないわでうんざりする。でも開放されていない時に行けばその景色が全て自分ひとりのものだ、それがいいんだ」との返事を頂いた。
 まぁ確かに景色を見に行くのなら人《障害》なんて少ないほうがいいに決まっているけれど。

 前文明は人口も今の数倍。例えれば今この部屋のスペースに10人以上の人数がひしめいていたということになる。
 それだけの人数が集まれば「イルミネーションを楽しもう」より「早く帰りたい」という気持ちのほうが勝《まさ》ってしまうのも当然だろう。
 だが、子供と揶揄《やゆ》されたのが気に入らない。

「此処《ここ》は大丈夫だよ。ノクトが思うほどギュウギュウ詰めにはならないから」
「わかってねぇな」

 ノクトは鼻を鳴らす。
 解釈を間違えただろうか。この町の人口なんて微々《びび》たるものだから「暑いわ狭いわ見えないわ」なんてことにはならないのだが。

 ああ。もしかして人が多かろうが少なかろうが関係なく、”今”抜け出して見に行こうと、そんな腹づもりでいるのだろうか。

「……何考えてる?」

 イルミネーションで煌《きら》めく町はファータ・モンドに似ている。
 行きたいけれど、行けない場所。
 決められた時が来なければ足を踏み入れられない場所。
 こっそりと抜け出して行こうと思う輩《やから》が後を絶たない場所。
 さすがに干乾《ひから》びて死ぬことはないだろうけれど、きちんと規則を守る学生がいる手前、捕まればお咎《とが》めなしでは済まされない。
 しかし。

「心配しなくても”レトの学徒様”を引っ張り出そうとか考えてないから安心しな」

 ノクトはニヤリと笑っただけで、さっさとベッドに潜《もぐ》り込んでしまった。
 


 おかしい。これは絶対に何か企《たくら》んでいる。
 そう思う僕の耳に、

「お前はレトに監視されてるしな」

 という声だけが聞こえてきた。


 「僕じゃなくてノクトのほうだよ」と言いたかったけれど、フランやアポティのことを思うと口にすることができなかった。
 僕は監視されている。それは確かで。
 
 カーテンを閉め、僕も反対側のベッドに潜《もぐ》り込む。
 最近は、言いたいことを飲み込んでばかりいる。


12月23日。クリスマスイブイブ。
 クリスマスに限らずイベントもの全般は前文明の頃からの名残だが、これもまた海や桜と同様、僕らとは何も関係ない。ただそれを冠した休暇やイベントは大歓迎だと思う学生は多く、かくいう僕もそのひとり。
 今年は”レトの学徒”に選ばれたから羽目を外す真似はできないけれど、もともと規則の範囲を超えたことに縁がない僕は、今更注意されることなどないだろう。


『あんなにしてたら門限破って遊びに行く奴《やつ》いるんじゃないのか?』

 気を付けなければいけないのはむしろノクトだが、あれ以来、特に目立った動きはない。夜中にこっそりと出ていくこともない。
 あの台詞《セリフ》はきっと、僕がどんな反応をするか試してみただけに違いない。
 


 町は開放期間に入り、門限が夜9時に延びた。
 クリスマス休暇が始まってから少しずつ、少しずつ弛《ゆる》んできている僕らのタガが、今日、明日、明後日で一気に壊れる可能性は高い。

 セルエタには学校とレトから「規律を守り、学生らしい行動をとること」という漠然とした注意事項が送られてきた。けれど毎年同じ文面だから真面目に目を通すのは新入生くらいだろう。
 個人の自主性に任せるのはいいけれど、こんな時ばかりはもう少し厳しい注意があってもいいのではないかと思わなくもない。
 とは言え、僕ら最終学年にとってはこれがこの町《ラ・エリツィーノ》での最後のクリスマスになるわけで。1度くらいは羽目を外したいと思わなくもないわけで。
 その反面、羽目の外し方と言えば門限破りくらいしか思いつかなくて、何だか真面目に生きてきたが故《ゆえ》に人生を損してしまったような、そんなやるせなさをも感じる。

 例えばヴィヴィならこの3日間をどう遊び倒すのだろう。
 8月以降、彼の周りにはいつも取り巻きの学生がいた。何処《どこ》から派生した習慣かは知らないけれど、感謝祭やクリスマスといったイベントにはかわいいパートナーを連れて歩くのが一種のステイタスになっているから、そのお誘いも兼ねて近付いてきた連中だろう。現に感謝祭の時は時間単位で相手が変わっていたように記憶している。
 ヴィヴィは同じ学校の学生とセルエタを交換する仲になることなど一切望んでいないから、余計に後腐れなく誘えるのかもしれない。


「あ、マーレじゃん。生きてたぁ?」

 そんなことを考えていたからだろうか。廊下の向こうからヴィヴィがやって来るのが見えた。
 これから出かけるところらしい。

「今日は気合い入ってるね」
「でっしょお?」

 長い髪を真っ直ぐに下ろし、濃紺の上から星空のようなラメが入ったオーガンジーを重ねたワンピースに袖を通したヴィヴィは何処《どこ》からどう見ても女の子。いくら性別がないとは言え、僕にはここまで女性を主張した服を着る勇気はない。いくら羽目を外したいと思ったとしても。

「今日はダンパ《ダンスパーティ》があるでしょ? お揃いなんだー」

 いつものヴィヴィからすると違和感すら感じる清楚さだが、今日のお相手の好みなのだろうか。と言うか、いくらダンパとは言え揃いの衣装を用意するなんて気合いが入り過ぎだろう。

「わかってないなー。ダンパは楽しむだけじゃない。勝ちに行かないとね! 勝負はもう始まってるんだよ」
「……誰の台詞《セリフ》?」

 勝ち取りたいのはダンパの優勝か?
 それとも相手か?
 まさかヴィヴィに限って此処《ここ》で相手を決めるとは思っていなかったけれど、もしかして絆《ほだ》されて……いやそれよりも。

 僕は常識がないのだろうか。
 ノクトに続いてヴィヴィからも「わかってない」と言われてしまった。

 軽く落ち込みかけた僕の肩を、ヴィヴィは宥《なだ》めるように叩く。その仕草すら「わかってない」と言われているように感じる。

「でもまぁ元気みたいじゃん。この間なんて幽霊みたいな顔してたし、その後も全然顔見ないし。死んじゃったのかと思ってたよ、あはははは」
「……縁起でもない」

 全然会わなかったのはクリスマス休暇に入ってしまったからもあるけれど、誰かさんが毎日門限ギリギリまで遊び歩いているからでしょうか。なんて以前の僕なら反射的に言ったかもしれない。
 けれど言えなかった。

 僕はヴィヴィが羨ましかった。
 そのくせ、ヴィヴィの行動に眉を潜めてばかりいた。
 今日も明日も明後日も、ヴィヴィは僕が思うだけでできなかった羽目を外して楽しんで、周りにはいつも人がいて大勢から誘いを受けて、でも僕は。

「マーレは出かけないの? ノクトと」

 そんな僕の闇に気付く様子もなく、ヴィヴィは手を額の前にかざす所謂《いわゆる》”誰か(何か)を探すジェスチャー”をしながら周囲をぐるりと見回す。
 そんなコケティッシュな姿もヴィヴィなら似合う。けれど。

「何でノクトなの」
「何でって、いっつも一緒にいるじゃない。皆言ってるよ」
「何を!?」

 皆って誰だ? 何を言っているんだ?
 思わず頭を抱えたくなる。
 僕がノクトと一緒にいるように見えるのは、寮の部屋もクラスも一緒だから同じ行動をとることが多いだけで、決して好き好《この》んで共にいるわけではない。
 加えてノクトの中身は”能登大地”だ。それ自体がノクトの創作という点も未《いま》だ拭いきれてはいないけれど、万が一にも「俺は能登大地だ」というあの証言が正しいのなら、僕は能登大地が自分たちとこの世界に危害を加える存在か否《いな》かを見張る必要があるわけで!
 それに。
 それにノクトには、

「……チャルマは?」
「ああ……やっぱり外出許可は出なかったって。あんなに元気なんだし、3日くらいいいじゃない。ねぇ」

 感謝祭の時も来ることができなかったチャルマはクリスマスにも来られないらしい。
 ノクトはチャルマと度々《たびたび》メールを交わしていたようだが、知っているのだろうか。僕は何も聞いてない。


 考え込んでいるとヴィヴィが肩を小突いて来た。
 ニヤニヤと笑っている。チャルマの外出許可が出ないのに何でそんな顔を? と思っていると、

「ほぉら、言ってる端《はし》から彼氏が来たよーん」

 と……世にも恐ろしいことを言って下さった。
 誰が来たかなんて言いたくもない。見たくもない。

「彼氏じゃなーいっっ!!」

 僕の絶叫をサラリとかわし、ヴィヴィはひらひらと手を振ると、オレンジ色の陽だまりの中に飛び出して行ってしまった。
 オレンジの中に反対色の濃紺が溶けて消えていく。
 あの色はオレンジ《夕暮れ》よりもピンク《夜》のほうが映えそうだ。イルミネーションのおかげでオーガンジーの星空度もさらに増すだろう。
 が、それはともかく。

「何が彼氏だって?」
「…………………………………………空耳じゃない?」

 同じようにヴィヴィの後ろ姿を見送っているノクトの、あまりのタイミングの悪さに僕も飛び出して行ってしまいそうだ。
 冗談ではない。寮の同室同士でそんな気になられては困る。
 誰が何処《どこ》で何を言っているのか。ノクトの耳に届く前に調べ上げて絞めておかなければ。


「それよりお前は何時《いつ》までそんな恰好《かっこう》してるんだ。行くんだろ?」

 セーター1枚の僕に対し、ノクトは既《すで》に上着を着こみ、マフラーなどの防寒具まで準備は抜かりない。9時まで帰ってこないこと確定! と服が主張しまくっている。

 能登大地にしてみればこの世界のクリスマスも夜間外出も初めてだから、見て回りたいものも多いだろう。
 彼の意に沿うかどうかはわからないが、店に入れば特別メニューもある。
 文具や雑貨、セルエタのデザインも今だけの期間限定品が揃っている。
 学校のホールではダンスパーティもやっている。
 全てを見て回ろうと思ったら3日間では絶対に足りないのに、桜が咲けばそれを見ながら宴会を催《もよお》す人種が何もしないはずがない。

「気が向いたら行く。ノクトは出かけるんだね、いってらっしゃい」

 だが、あんなことを聞かされた後ではとても一緒に歩きたくない。
 早口に言い切って立ち去ろうとしたものの、僕の襟首はあっさりとノクトに掴《つか》まれた。

「お前は?」
「ぼっ、僕はまだこんな恰好《かっこう》だし」
「上着着て来るだけだろ。待ってるから早くしろ」

 待つ!?
 何で!?
 駄目だ。ヴィヴィのせいでノクトが彼氏面《づら》しているように見える。でもそれは気のせいだ。ノクトはそんなこと全然思っていないはずだ。
 端《はな》から僕と出かける前提で話をしているのも、最近ずっと一緒にいるから今日も一緒に行動するのだろう、と思っているだけだ。この世界の初心者である能登大地にしてみれば、僕にくっついて歩いたほうが無駄に彷徨《さまよ》う必要がないからだ。ましてチャルマがいないのなら――。


『――やっぱり外出許可は出なかったって』


 そうだ。本来ならチャルマと行くはずだったのではないのだろうか?
 でもチャルマは戻って来られなかった。だから代わりに僕に白羽の矢を立てただけで。
 チャルマがいれば僕なんか誘いもしないで出て行った。
 チャルマが、

「は、や、く、し、ろ。1分以内!」

 ぐるぐる回る逡巡を頭ごなしに押さえつけられ、僕は大急ぎで上着を取りに戻る羽目になった。




 ヴィヴィが出て行った時は鮮《あざ》やかなオレンジ色をしていた空も、あっという間に黒く塗り潰されてしまった。
 空が黒い分、イルミネーションが映える。ずらりと並んだ街路樹の下はまるでピンク色のトンネルのようで、窓から見るよりずっと壮観だ。

「これが桜なんだ……」

 以前、ノクトはこの色を桜に似ていると言った。
 僕は桜を知らないけれど、これが満開の花なら、この下で宴会を繰り広げようと思う気持ちもわかる気がする。実際、多くの学生がドリンクカップを片手にイルミネーションを眺めながら散策している。

「散っても凄いけどな」
「散る?」
「ほら、前にチャルマの病院に行った時、落ち葉が凄かったろ。あんな感じだ。あれのピンク版だと思えばいい」

 何故《なぜ》だろう。この町に関しては僕のほうが先輩なのに、何時《いつ》の間にかノクトが教える側に立っている。
 僕が素直に聞き入っているからだろうか。
 ノクトは桜が好きなのだろうか。
 この話もチャルマに教えるつもりで調べていたのだろうか。

「……チャルマにも見せたかったな」
「病院の周りでもやってるんじゃないか? ああいうところこそイベントは欠かさないだろ」

 |何故《なぜ》チャルマには退院許可が出ないのだろう。あんなに元気なのに。
 治る見込みがないのなら尚更、元気で動けるうちに思い出を作っておくものではないのだろうか。

 僕は何かと忙しくて会いに行けなかったし、ノクトもひとりでは見舞いに行かない。忘れているわけではない、と言いたいところだけれど、実際はチャルマのことをこれっぽっちも考えずに1日が終わることだって少なくない。
 ヴィヴィはああ見えて几帳面だから通っているかもしれないけれど、やはり見舞いの人数が減れば寂しいに決まっている。
 それに、今回だってノクトは、本当は。

「申し訳ないからって自粛したところでチャルマの退院が早まるわけじゃないし、だったら楽しかったことを話して聞かせたほうがいいんじゃないか」
「そうかな」
「少なくとも勝手に自粛されて、自分の入院のせいにされるよりはな」
「そう、かな……」

 僕なら皆ばっかり楽しんでズルい、と思うかもしれない。でも勝手に楽しむのをやめておいて「入院してるから申し訳なくて」と、やめた理由を僕のせいにされるよりはいい。
 楽しめることは楽しむべきなのだろう。それでも申し訳ない気持ちのほうが勝《まさ》るのなら、そもそも話して聞かせなければいい。
 話さなければ、行ったかどうかをチャルマが知ることはない。罪悪感も生まれない。


 そう割り切ってしまえば左右に並ぶ屋台にも目が行く。
 特に目を惹《ひ》いたのは丸い瓶の中に入った炭酸水だ。1番人気はイルミネーションに似たピンクのようだが、他にも青や黄色などの色が並んでいる。
 色とりどりの星が中でパチパチと弾けた音を立てるそれは、昨年は行列ができるほどの人気で買うことができなかった。が、今年は各店がこぞって真似したらしく、少し見回しただけで数軒が同じものを売っている。通りのあちこちから聞こえるパチパチシュワシュワと弾ける音は、否応《いやおう》なくジメジメした後ろ向きの気持ちを吹き飛ばしてくれる。

「ああ、買うか?」
「え!?」

 僕の視線に気付いたのか、ノクトは返事も待たずにさっさと屋台に向かい、ピンクの炭酸水を2瓶購入した。
 そして、その1本を差し出す。

 ……何だこれは。
 後で代金を返せばいいのだろうか。それとも奢《おご》ってくれたのだろうか。と言うか、何故《なぜ》買った? 
 僕はそんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか?
 それともノクト自身、喉が渇いていただけか?
 チャルマと来る時用のプランでは最初から買う予定に入っていた、とか?

「えっと……何で?」
「何でって、そうだな、”レトの学徒”になったお祝い」

 違う! その理由は絶対今さっき思いついたやつ!
 とは言えノクトの目が「さっさと受け取れ」と言っているので受け取らざるを得ない。セルエタの電子決済を開けようとしたらもの凄い形相で睨《にら》まれたけれど、奢《おご》ってくれると取っていいのだろうか。
 でも。

 器の中で揺れる、栄養剤と同じピンク色。
 ピンクと言えば。

「仲いいねーぇ」
「っ! よくない!」
「とか言って恋人ピンクー!」
「違ぁぁぁぁぁああう!!」

 僕たちの横を背の高い学生を連れたヴィヴィが茶化しながら通り過ぎる。
 違う! これは別に仲がいいからではなくて!
 一緒にいるのも成り行きでそうなってしまっただけで!
 ピンクを選んだのはノクトで!!

 頭の中でわけのわからない弁明が跳ね回っているうちに、当の濃紺ワンピースはさっさと人混みに混ざって見えなくなってしまった。

「って、今の……ヴィード?」

 目を凝らしたところで彼らの姿は何処《どこ》にもない。
 しかし見間違いでなければ、ヴィヴィが連れていたのはヴィードではなかっただだろうか。
 僕と同じ”レトの学徒”のひとりだけれど、接点が全くないので話をしたことはない。勤勉で試験は常に学年トップ、そして僕以上に堅物《カタブツ》だと聞いている。
 濃紺のベストと細身のネクタイはヴィヴィのワンピースと揃えて設《しつら》えたかのようで、だから今日の”お相手”は彼《ヴィード》なのだろうと察してしまった。
 しかし”レトの学徒”であるヴィードが何故《なぜ》ヴィヴィと?
 彼ほどの成績優秀者ならファータ・モンドに行っても真っ先に伴侶を選んで貰えるだろうのに。



「あいつ、またあんな恰好《かっこう》で」

 ノクトはヴィヴィが消えた先に目を向ける。
 あいつ、とはヴィヴィのことだろう。顔見知りですらないヴィードに対して「あいつ」呼ばわりはしないだろうし、そもそも男役が何を着ていようと視界にすら入っていないに違いない。
 でも。

「いくら妹に似てるからって、兄ぶるのはやめなよ? ノクトがそう思ってるってヴィヴィは知らないんだから」

 思えば海水浴の時もノクトは水着姿のヴィヴィに喧嘩を吹っ掛けていた。
 教室で他の学生らに囲まれているヴィヴィを見た時も、彼らよりは僕のほうがヴィヴィに合うなどと言っていた。
 そして今日のコレ。
 兄目線でヴィヴィを心配してくれるのは結構だが、事情を知らないヴィヴィからすれば赤の他人がゴチャゴチャと、と鬱陶《うっとう》しがるだけだ。知っている僕でさえ、服だの交友関係だのに他人が口を挟むべきではないと思っているのに。

「いやそういう意味じゃなくて」

 言いながらもノクトは気まずそうに距離を取った。
 さりげなければ気付かなかっただろうのに、ぎこちなさが違和感を呼ぶ。冷やかされたことで先ほどの行動が怪しかったと気付いたのかもしれない。
 僕はヴィヴィのように連れ歩いて見せびらかしたくなるような容姿ではない。妹にも似ていない。チャルマのように小さくてかわいいわけでもなければ、女性に疑われるような恰好《かっこう》もしていない。
 能登大地の目に僕は(”僕”と自称するからには)男と映っていることだろう。
 だったらなおのこと、雰囲気に流されて馴れ馴れしくした自分の行動を恥じたかもしれない。

 そして僕自身、数時間前までノクトにそんな目で見られるのはごめんだと思っていたはずなのに、何、雰囲気に流されているんだか。

「あー……だからさ。妹関係なしに、あいつは何であんな女みたいな恰好《かっこう》してんだ? って話!」

 ノクトは距離を取ったことには触れない。無意識の行動だったのかもしれないが、無意識と言うことは本心のままに動いたと言うことだ。
 僕から離れたいと。
 
「……前に言わなかったっけ」

 僕は片手でセルエタを起動させ、そちらに視線を落とす。
 こんな時に何を、と思われるかもしれないけれど、ノクトの顔は見なくていい。

 ヴィヴィが女性のなりをするのは、そのほうがモテるからだ。
 この世界で女性は希少だからだ。
 性徴《せいちょう》が来るまで実際の性別はわからないし、女性は男性より数が少ないとも言われているけれど、あえて今、女性のなりをしようと思う者は少ない。
 ヴィヴィはそれを逆手に取った。今を楽しめればそれでいい、という考えで彼《ヴィヴィ》はあの恰好をしているし、取り巻く学生の大半も今を謳歌《おうか》するためにヴィヴィを利用している。

 けれど僕以上に真面目一本やりなヴィードが一時《いっとき》の享楽《きょうらく》のために声などかけるだろうか? かけるのなら本気の相手としてではないか? 
 だったらその誘いを受けたヴィヴィの真意は?
 揃いの衣装まで用意して、今日のヴィヴィはいつもとは違う。それは。

 脳裏に浮かぶのは旅立ちの日のフローロとイグニの姿。
 あのフローロですら卒業までに絆《ほだ》されてしまったのだから、ヴィヴィやヴィードが心変わりしないとは言えない。





「あ! 風船ソーダ!」

 そんな時、足元で声が聞こえた。
 見れば、なりたての初等部あたりの子供がふたり、手を繋《つな》いで屋台を見上げている。
 この年頃をひとりで町に放つのは危険だ、と僕の頃は保育士や先生が付き添ってグループ行動をしていたのだが、今は単独行動OKなのだろうか。周囲にそれらしきグループはない。

 風船ソーダと言うのはこの炭酸水のことらしい。容器が丸いからそう呼ぶのかもしれない。
 しかしどうやらお金は持っていないようで、物欲しそうに見上げるばかりだ。


 その姿に10年近く前の自分が重なった。
 初等部に入って初めてのクリスマスだった。グループ行動をしてたはずが何時《いつ》の間にやらはぐれてしまい、僕はノクトとふたりでこの人混みの中を彷徨《さまよ》っていた。
 歩き疲れて、喉が渇いて。屋台には色とりどりの炭酸水が並んでいたけれど、初等部1年生は電子決済の許可がないために買うことができなかった。

 あの時、ぐずる僕にノクトは何と言っただろう。
 ああ、そうだ。

「大きくなったらいくらでも買ってあげるから」と――。



 僕は手にしたままの炭酸水を見る。
 ノクトが奢《おご》ってくれたのは、あの時のことを覚えていたからじゃない。

「……これ、まだ飲んでないから」

 僕は屈《かが》み込むとピンクの炭酸水を差し出した。
 突然の施《ほどこ》しに受け取っていいものか迷ったようだが、そこは子供。物欲のほうが勝《まさ》ったらしい。おずおずと伸ばした手に、僕は零《こぼ》さないように炭酸水の丸い瓶を乗せる。
 この人混みだ。この子供たちもあの時の僕らと同じだろう。せめて喉の渇きが癒《い》えればいい。

「お前、」
「ごめん。やっぱり自分で飲む分は自分で買う」

 開きっぱなしにしていた電子決済画面からノクトあてに炭酸水代を送金し、僕はその場を後にする。
 怪訝《けげん》な顔をするノクトと子供たちを残して。




 新たな炭酸水を物色する素振《そぶ》りで僕は1つ目の屋台を素通りする。
 次いで2つ目、3つ目と過ぎ。
 チラリと振り返ってみたが、人混みに紛《まぎ》れてしまってノクトも子供たちも見ることはできなかった。あの場所で待っているのか、子供たちのグループを見つけたのか、帰ってしまったのか。わからないけれど追いかけて来る様子はない。

 僕は何をやっているのだろう。ノクトをひとりで置いて来てしまうなんて。
 いや、引き籠《こも》りとは言え30歳が迷子になって帰って来られなくなる、なんて心配はしていない。”この世界に害を及ぼすかもしれない異界からの侵入者”を見張らなければならないのに放棄した。これでノクトが再び行方をくらましたら、今度こそ僕のせいだ。

 足は重く、立ち止まったら動けなくなりそうで、そのくせ少しでも遠ざかりたいと気は急《せ》くばかり。

 早く帰りたい。
 でも先に帰ってしまったら今夜からどんな顔で会えばいい?
 今からでも引き返せばいい。見て回るうちに買う気が削がれてしまったとか、人混みで気分を悪くして休んでいたとか、理由は何とでも付けられる。

 頭の中でふたりの僕が言い合っているうちに、気がつけば学校の前まで来てしまっていた。
 ダンスパーティをやっているのであろう、軽快な音楽が聞こえて来る。
 ヴィヴィたちもいるだろうか、「勝ちに行く」ダンスがどんなものなのか少し見て行こうかなんて思う|傍《かたわ》ら、会場にいるのはペアを組んだ者ばかりだと考えると敷居が高くて|躊躇《ちゅうちょ》してしまう。


 その時だった。
 悲鳴が聞こえたのは。

 ホールのほうから聞こえたが喧嘩《けんか》だろうか。
 子供ばかりの町だから凶悪な犯罪が起きることはないと言われているけれど、年齢と言うテンプレートに当てはめて「だから、ない」と思い込むのが愚《おろ》かだってことは、何十年も何百年も前から言われている。
 子供だから純粋だ。
 子供だから邪念などない。
 そんなのは大人の勝手な思い込み。むしろ純粋と言う名の無知だからこそ、酷《ひど》いことを酷《ひど》いと理解できない。


 学生らが逃げて来る。
 ただの喧嘩にしては慌てふためく様子がどうにも普通ではないようで――逃げる時点で普通ではないことが起きているのだろうけれど、それにしても誰も彼もが酷《ひど》く怯《おび》えて――同じように何ごとかと目を向けていた周囲の学生たちの間にも緊張が走るのがわかった。
 先《さき》んじて踵《きびす》を返す者もいる。あれだけ大勢が必死の形相《ぎょうそう》で逃げて来るのだ。喧嘩なんて甘っちょろい言葉では表しきれないことが起きているに違いない。
 が、理由も知らないまま一緒になって逃げ惑《まど》ったところでさらなる混乱を呼ぶだけだ。

「落ち着いて!」

 声を張り上げたけれど、誰も聞いていない。
 そうしているうちにも我を忘れた集団が押し寄せる。動線上の僕たちを避《よ》けきれずにぶつかる者もいる。どちらともなく転倒し、それがさらに避《よ》けられなかった者によって突き飛ばされ、踏みつけられ。

 嵐に耐え、嵐が去り。
 やっと身を起こした僕は、ホールのほうから遅れて走って来る人影に動けなくなった。
 鉄パイプのような棒状のものを手にしている。
 進路の妨げになりそうな学生に向かってその鉄パイプを振り回し、弾き飛ばしながらこちらにやって来る。

 あれは確か海水浴の時にヴィヴィに付きまとっていた奴《やつ》ではなかっただろうか。
 話したそうにしていたが当のヴィヴィから「話すことなどない」と一蹴《いっしゅう》されて、それでも教室や廊下でヴィヴィの周りにいて。その諦めの悪さには感心しかけたこともあって。
 名前は確か、

「マ、ルヴォ……?」

 そうだ。マルヴォだ。そして。

「ヴィヴィ!?」

 マルヴォに引っ張られているのはヴィヴィだ。顔に点々とついた赤い染みは血だろうか。
 ヴィヴィは僕の声に顔を上げた。泣きそうな顔はいつもの気丈な彼からは想像もできない。

「邪魔だぁぁぁぁぁぁああああああ!!」

 僕を視界に留《とど》めたマルヴォが鉄パイプを振り上げる。
 逃げないと。
 でも足が動かない。
 ヴィヴィもこのままにはしておけない。
 でも。


「何をしている!」

 そんな第三者の声がして、誰かが僕の腕を掴《つか》んで引っ張った。
 抱え込まれたと思う間もなく、鈍《にぶ》い振動が響く。この振動は……この誰かは身を挺《てい》して僕を庇《かば》っている。
 でも鉄パイプだ。あんなもので力任せに打《ぶ》たれては無事ではいられない。打ちどころが悪ければ命にかかわる。
 何故《なぜ》。
 僕を庇《かば》って得をすることなどないのに。

「何だ貴様ぁあ!」

 マルヴォの叫び声と共に視界が開けた。
 庇《かば》っていた誰かが腕を|緩《ゆる》めてくれたらしい……けれども。

「ク……ルーツォ!?」

 僕を庇《かば》っていたのは、薬局で出会った少年だった。
 他のアンドロイドたちとは違い、紅白の衣装ではなく先日と同じ赤錆《あかさび》色のマントを着ている。
 偶然薬局に来ていたのだろうか。
 騒動を聞き、駆けつけたのだろうか。


 アンドロイドは余程《よほど》のことがない限り、人間を守るよう設計されている。
 この”余程《よほど》のこと”とは”その人間を守ることで世界が脅かされるのなら、人間よりも世界を選ぶ”と言う、日常生活をする上ではまず比較する機会がないもので、だから今、クルーツォが僕を庇《かば》ったのはアンドロイドとしては「何故《なぜ》」と問われるまでもない行動なのだろう。
 ただ、庇《かば》われる側としては気恥ずかしいどころではない。

「あ、ありが、」
「気にするな」
「その手を離せアンドロイドぉ!」

 叫び声にふと声のしたほうを見ると、至近距離に怒りで顔が赤黒くなったマルヴォがいて、思わずたじろいでしまった。
 今のやり取りを見られていた!? ではなくて!

 マルヴォは鉄パイプを握っている。
 その先端は、と見れば、クルーツォが掴《つか》んでいる。

「え、なん……」
「人間は避難していろ」

 クルーツォは鉄パイプを掴《つか》んだまま、僕を開放した。

「クルーツォは!?」

 思わず聞き返したが返事はない。ないが、返って来るであろう台詞《セリフ》は推測できる。

 ”アンドロイドは余程《よほど》のことがない限り人間を守る。”
 例え自分が壊れる結果になろうとも、害をなすものから。そう定められている。

 しかし相手は人質を取っている。ヴィヴィと僕を守りつつ、凶器を持った奴《やつ》を相手にするなんて、いくらアンドロイドでも無事で済むはずがない。
 けれど、僕にできることは助っ人に入ることではなく、距離を取って足手纏《まと》いにならないようにすることだけだ。マルヴォの隙をついてヴィヴィを助け出すことすら、きっと邪魔にしかならない。

「邪魔するなああああああ!!」

 マルヴォは凶器を掴《つか》んだまま立ち塞《ふさ》がるクルーツォに向け、威嚇《いかく》するように大声を張り上げた。そして渾身《こんしん》の力で鉄パイプを奪い返し、すかさず振り上げる。
 クルーツォが僕を払い|除《の》けた。
 ふいをつかれて重心を崩した僕がよろけるように数歩下がる間に、彼は目の前から消えた。

 いや、消えたのではない。
 跳躍《ちょうやく》だ。
 その直後、僕がいた空間を鉄パイプが斜めに裂いた。クルーツォが払い除《の》けてくれなかったら僕は今頃、肩から腰にかけて潰《つぶ》されていたに違いない。

 その間にも跳躍《ちょうやく》したクルーツォは街路樹の枝を両手で掴《つか》む。ブランコの要領で自身に勢いをつけ、マルヴォの顔面に蹴りを入れる。
 マルヴォの頭を支点に身を捻《ひね》り、ヴィヴィを掴《つか》んでいる手に手刀を振り下ろす。

「ぐはっ!」

 マルヴォの手から鉄パイプとヴィヴィが離れた。
 
 だがマルヴォもやられてばかりではない。拳《こぶし》を握ると着地したばかりのクルーツォに殴り掛かる。
 しかしクルーツォはその手を難なく掴《つか》み、捻《ひね》り上げた。
 肘《ひじ》から先が雑巾を絞るように捻《ね》じれ、マルヴォは苦鳴を上げてのた打ち回る。
 暴れるその背にまたがると、クルーツォはマルヴォの両腕をひとまとめにして押さえ込んだ。



 あっという間の拘束劇に、僕は息を飲むしかできなかった。
 心配することなど何もなかった。クルーツォの手足は僕と同じくらいひょろ長いけれど、性能は僕の比ではなかった。

 そうしている間に他のアンドロイドたちが集まって来る。
 彼らはクルーツォの下からマルヴォを引っ張り出し、両手を拘束し、そして何処《どこ》かへ連行していった。




「無事か、マーレ」

 ノクトが駆けて来る。炭酸水を買いに出て行ったままこんなところに来ている僕をどう思っただろう。
 何時《いつ》から此処《ここ》にいたのか。
 来た時には|既《すで》にマルヴォがいたのか。
 鉄パイプを振り回す奴《やつ》を前に近付いたところで新たな標的になるばかりなのだから安全が確認できるまで離れたところにいるのは間違ってはいないのだけれども、高みの見物をされていたようで気分は良くない。

「……ヴィヴィは?」

 僕はノクトから顔を背《そむ》け、濃紺のワンピースを探す。
 顔に血がついていたようだけれども怪我はしていないだろうか。何故《なぜ》マルヴォに引っ張られてたのだろうか。一緒にいたヴィードは、

「ヴィード!」

 ヴィヴィは担架で運ばれていく学生に駆け寄るところだった。 
 担架で運ばれるということは相当酷《ひど》い傷を|負《お》ったのだろう。マルヴォの鉄パイプやヴィヴィの顔についていた血は、もしかしなくても彼《ヴィード》のものかもしれない。


 マルヴォが連行され、ヴィードとヴィヴィも医療班と共に去り、僕たちのセルエタが一斉に鳴る。
 レトだ。
 「今日の催《もよお》しは全て中止します。皆帰りなさい」と言う指示のもと、興《きょう》を削《そ》がれた学生らが無言のまま散っていく。誰もいなくなるのにそんなに時間はかからなかった。




 
「……クルーツォ?」

 そして。
 我に返って赤錆《あかさび》色のマントを探すも、彼の姿は何時《いつ》の間にやら消えてしまっていた。

 薬師《くすし》という仕事に従事する彼があれだけ動けると言うのも意外だが、殴られてもいたようだし相当負荷がかかったのではないだろうか。何処《どこ》も悪くしていなければいいのだが。
 と思うと共に、フランもアポティもクレアも、それ以外の誰もがこういった事態に対処しうるだけの力を隠し持っているのだ、と実感する。それがこの町の治安を守っているのだと。
 でも。


「クルーツォ、ってさっきお前と一緒にいた、」
「何でもないよ」

 ノクトを遮《さえぎ》って、僕はイルミネーションを見上げる。


 クルーツォが人間のマルヴォを”守る対象”ではなく”害をなす敵”と見なして攻撃したように、彼らはその気になれば何時《いつ》でも僕らに反旗を翻《ひるがえ》すことができる。
 言い換えれば、何時《いつ》でも僕らを支配下に置くことができる、と言うことにならないのか――?


 視界を覆うイルミネーションの花。
 期せずして目にすることが叶った”誰もいない”光景だけれども、しかし、それはどうしようもなく色褪《あ》せて見えた。